臼井一馬

テーマ「アメリカ法における物権変動」

10J115004 臼井一馬

0.はじめに

私は、アメリカ法における物権変動の考え方こそこれからの世界において参考にされるべきものだと考える。

今回は、いくつかの例題を通して、日本と各国それぞれの考え方の相違点、特徴について触れていきたいと思う。

 

1 取消登記

Case.1:愛人関係にあるABがいた。ある時、Bの援助によってAが家を買った。その後2人の関係が悪化。BAの印鑑を持ち出して自分に保存登記をしたが、Aはそれを黙認していた。後にABの関係は持ち直し結婚。しかしそれも長くは続かずにABは離婚してしまった。さらにその後、BCに家を売ってしまった。この時、

1)家はACどちらの物か?

2Cが悪意の場合はどうか?

ここでは、Cの出現がどのタイミングであったかが重要なポイントになってくる。この違いによる結果の違いを明確にするため、別な例題を考えてみたいと思う。

 

例題1:Xは、所有している家をYに売ったが、後にYは詐欺によってXの家を手に入れたことが発覚した。これを知ったXは取消を行ったが、Yは第三者のZに家を売却してしまい、Zはすでに登記をしてしまっていた。

この場合、すなわち「Xの取消後、ZYから買った場合」は民法第177条(不動産に関する物権の得喪及び変更は、不動産登記法(平成16年法律第123号)その他の登記に関する法律の定めるところに従いその登記をしなければ、第三者に対抗することができない。)によって対抗問題として処理する。つまり、先に登記したほうが勝つ、ということである。

ここでは、Zが登記をしているので、たとえZが悪意であったとしても登記があるのでZの勝ちとなるのである。

では、「Xの取消『前』にZYから買った場合」にはどうなるのか。この時には、本来権利者保護で処理をする。ただし、Zが善意であった場合には96条3項によって、Zの勝ちとなる。また、強迫による取消の時にはすべてXの勝ちとなる。

 

これらを踏まえ、改めて(1)について考えてみよう。今回の場合、判例では「BAの印鑑を持ち出して自分に保存登記をしたが、Aはそれを黙認していた」という点がポイントにされた。ここでは、ABの登記を黙認して放っておいたことからABは通謀虚偽表示の関係にあるとされ、94条2項によって善意のCの勝ちとされた。

 

ここで、日本とアメリカの違いをみていこう。日本では、上の例題でも取り上げているように土地台帳に権利者を記載する「登記制度」をとっている。この登記は、対抗要件となるものである。

では一方、アメリカではどうなのか。アメリカは日本と違いまだ歴史の浅い国であることに加え、土地が広大であることから台帳での管理が難しい。そこでアメリカでは、証書(Deed)を登録する「Deed制度」をとっている。

 

2.時効と登記

不動産の場合、善意取得は10年、悪意取得は20年で時効が完成する。時効完成後は適正な取得と同じ取り扱いになり、その後本来の所有者が対抗策をとることは出来ない。

なお、時効完成前であれば、権利確定の訴えを提起するなどの方法で権利回復をすることが出来る。「善意取得」とは、その占有者が自分のものだと信じて占有している場合をいい、「悪意取得」とは、自分のものでないことを知りながら占有していることをいう。どちらも登記とは直接の関係はない。但し、所有者自身がその事実を知っているような使用貸借、賃貸借等の場合は別である。また、時効の完成後は対抗問題となり、占有期間が長い方が負ける、ということになることがある。

 

さらにここから、対抗問題と関わりのある2つの原則について掘り下げていこうと思う。

公示の原則について。これは、例えば同一の不動産がABとに二重譲渡された場合に、Aとの取引が先であってもAは登記がなければBに所有権取得を対抗できないとするもので、すなわち「早い者勝ち」の制度ということになる。

続いて、公信の原則について。本来の権利状態とは異なる公示が存在するという場合、公示を信頼して取引関係になった者を保護する。つまり、「信じたことを保護」する制度である。例えば、Aから動産を預かっているBが勝手にそれを第三者であるCに売却した場合、善意のCが当該動産を譲り受けた場合にはこのCの所有権取得を認める。すなわち、外観を信頼した第三者を保護するために、無を有にしてしまうという制度だといえる。

日本の民法では、不動産には公信の原則は採用されておらず、例外的に通謀虚偽表示(942項)やそれに類する場面で例外的に救済されるに過ぎない(同類推適用)。一方、取引が頻繁で第三者保護の必要性の高い動産取引においては公信の原則がとられている(192条参照。また、この民法192条「取引行為によって、平穏に、かつ、公然と動産の占有を始めた者は、善意であり、かつ、過失がないときは、即時にその動産について行使する権利を取得する」においては善意取得(または「即時取得」)が規定されている)。

さらに、ここで触れた「善意取得」について掘り下げていきたいと思う。

例題2:Aは、Bさんからパソコンを借りていた。その後、Aは金がなくなったのでそのパソコンを売ってしまうことを思いつき、そのパソコンをCに売ってしまいCに引き渡した。その時、CはそのパソコンがAのものであると善意・無過失で信頼していた。この場合、パソコンは誰のものになるか。

もちろん、真の所有者はBであり、Aは借りているだけであるので、パソコンを勝手に売ってしまう権利などない。結論をいうと、パソコンはCさんのものになる。これを善意取得という。なぜかというと、まず、パソコンの真の所有者はBである。Aは借りているだけで、パソコンの所有権はない。もちろん、勝手に売ることなどできない。つまり、Aはパソコンに関しては単なる無権利者だ。とすると、その無権利者からパソコンを買ったCも所有権を取得できないのが原則ということになる。ですが、Cから見ると、そのパソコンがAのものだと信じて買ったのに、パソコンが自分のものにならず、Cさんは報われないことになる。もしもこんなことばかりが起きるようだと、誰も相 手を信頼して取引をすることができなくなってしまう。そこで、取引の安全を守るために無権利者と取引した人でも保護する、というのがこの即時取得の規定なのです。ただ、もう一点考えるべきポイントが、真の所有者であるBのことである。Cが即時取得してしまうと、Bは自分の知らないところで、自分の物だったはずのパソコンの所有権を失ってしまうことになる。なので、民法192条は、簡単には即時取得を認めずに、相手方が善意・無過失でその物を買った場合にのみ即時取得を認めているのである。即時取得の成立に、厳しい要件を課すことによって、真の所有者であるBと相手方を信頼して取引に入ったCのバランスを保っているのです。あまりに簡単に即時取得を認めてしまうと真の所有者であ るBが報われず、即時取得が全く認められないのでは、今度は、取引をしたCが報われない。その両者の調和を図っているのが、この民法192条の即時取得なのである。

 

3.自動車の場合

今までは家、すなわち不動産について取り上げてきたが次は自動車について取り上げていく。

Case.2:ABに車を売ったが、Bから渡された小切手が不渡りだったため、AB間の売買を取り消した。しかしBは、この間の事情を知らないCにこの車を売っていた。車は誰の物か?

ここでは、車の種類によって扱いが変わる。「普通自動車」の場合と「軽自動車」の場合である。まずは普通自動車。例えばトヨタ、日産、ホンダなどの車は税金は高く車検も必要である。そして、登録が必要であるため不動産扱いになる。一方、軽自動車の場合。排気量が660cc以下の車で、スズキやダイハツから多く発売されているこれらの車は税金が普通自動車に比べ低く車検も必要ない。そして、登録も必要ないので「動産扱い」となる。つまり、即時取得があり、ということになる。ちなみに、未登録車の場合も同じ扱いとなる。

最後に、物権変動の考え方について触れていこうと思う。この考え方については大きく分けて2種類あり、「形式主義」と「意主義」とに分けられる。意思主義とは物権変動は当事者間の合意のみによって生ずるとする立法上の立場をいう。これに対し形式主義とは当事者の合意のほかに何らかの形式を要求するとする立法上の立場をいう。日本の民法176は「物権の設定及び移転は、当事者の意思表示のみによって、その効力を生ずる」と意思主義を採用した。なお、意思主義の下でも例外的に所有権移転等の物権変動が契約成立時に生じない場合(当事者間に特約がある場合、不特定物売買で特定がなされていない場合、他人物売買の場合など)がある点に注意を要する。有名なところでは、ドイツ法が形式主義にあたりフランス法、アメリカ法は意思主義にあたる。

この3国は登記の意味もそれぞれ違った解釈を持っている。形式主義のドイツ法では効力要件(公信力あり)とされている。一方、意思主義の2国はそれぞれ別の考えを持っており、フランス法では対抗要件としているのに対し、アメリカ法では上記で触れてきたようにDeed制度をとっている。

そして、二重譲渡の勝負に関しても違いがはっきりと出ているのである。まずドイツ法。ここでは、登記が移転しないと売買が完成しないのでそもそも二重譲渡が起こり得ないのである。続いてフランス法。ここでは、早い者勝ち(race type)の考えがとられている。これは日本でいうと177条の考え方に近いものである。そしてアメリカ法。ここでは、「信ずる者は救われる」善意者勝利(notice type)の考え方がとられている。日本でいえば、992項の類推に近い考え方である。

 

4.おわりに

初めに述べたとおりに、私はアメリカ法における物権変動の考え方こそこれからの世界において参考にされるべきものだと考える。

なぜなら、善意の第三者が知らず知らずのうちにトラブルに巻き込まれたうえ、何の救済もされないのではあんまりだと思うからです。

そうなってしまわないためにも、「信ずる者は救われる」べきであると、私は考えます。

 

 

【出典】

Kenビジネススクール(www.ken-bs.co.jp/index.html

■毎日3分!条文+豆知識で民法完全制覇!(www.mainiti3-back.com

 

 

 

鴨下淳

私は、アメリカ法における物権変動の制度について、概ね反対である。

1.
登記制度の問題点
2.
公示の原則の公平性
3.
公信の原則の利点
4. Trust deed
の有用性

1.
日本法とアメリカ法における物権の変動については、その原則そのものから大きく異なる。
日本では民放177条により公示の原則が定められており、不動産に関しては登記をしなければ第三者に対抗する事が出来ない。違った言い方をすれば、登記をした者こそが権利者となる制度であり、これを速度で勝者を決めるレースになぞらえてrace typeと呼ぶ。
一方、アメリカ法ではこのrace typeの優位性は大きく損なわれており、日本民放における94条2項の類推である『善意者勝利』とでも言うべき制度であり、善意取得した者こそが勝利する制度となっている。これをnotice typeと呼ぶ。
日本法のみならず、ドイツ法・フランス法でもそれぞれ登記は物件変動に対して非常に大きな意味を持っており、フランス法は日本法同様に二重譲渡で物件が争われた際には早い者勝ちの原則として登記が対抗要件となり、ドイツ法ではそもそも登記が移転しない限り不動産売買自体が成立しない。それほどまでに、登記は重要視されてきたと言って良いだろう。
一方で、アメリカ法において登記の意味はほぼ無いと言っても過言ではなく、カリフォルニアにはTrust deed(信託証書)と呼ばれるシステムがあるにとどまっている。このシステムの是非については後述するが、現状として登記に効力・対抗要件が無いと言う事を主軸として話を進める。

2.
基本的に善意取得(即時取得)のシステムは、資本主義社会を円滑に進める以上は必ず必要なシステムである。動産・不動産をを問わず、全て登録しなければ対抗要件が発生しない、と言うシステムにするのは明確に不可能と断ずることが出来るし、仮にネットワーク社会がそこらのSF映画並みに発展することでそれが可能となっても、一々全ての品物に登録・登記をしなければ第三者への対抗をすることができない社会など、余りにも煩雑すぎて理想的な社会とは程遠くなってしまう。
では、登記が存在しないアメリカ法のようにするのはどうか、と言う問いに対しては、私は首を傾げざるを得ないのが現状と言える。と言うのも、日本の登記したもの勝ち、と言うシステムは、ある意味形式を重んじる日本社会においては最も適切であると判断できるからである。
と言うのも、race typeによる登記した者を最優先にするというルールこそが、現状では最も公平性が高いシステムであると言えるからだ。登記制度を有する以上、その土地が誰のものであるか?を調査する事は容易く、ましてや現在ではインターネットサービスを用いて登記を確認する事が出来、その敷居はさらに下がったと言っても良いだろう。ネットワーク社会の発達に伴い、登録をすることによって自身の権利を公示する事が出来る公示の原則に伴う登記制度は、ますますその有用性を増したと判断しても良いだろう。
この制度における問題点は、何を公示の原則による取得を原則とし、何を公信の原則による取得を原則とするかの線引きを行う事が恣意的になりがちで、明確な基準を設けにくい所にある。
自動車などがその好例と言え、トヨタ・日産・ホンダ等の普通自動車は実質的に不動産扱いとなり登録が対抗要件となるが、スズキらの軽自動車は動産扱いとなり、即時取得が認められることとなる。
普通自動車のように『実質的な不動産』として扱われる物としては船舶、立木等が存在するが、立木はともかく船舶・普通自動車等に関しては『登録が必要な物』に限って不動産のような扱いを受ける事となる。
理由としては値段の高低や頻繁な買い替え等による物件の変動が少ない事によるものと推測され、一概に『自動車』と言ってもその扱いは大きく変わる事に違和感を抱かざるを得ないのが現状と言えよう。
尤も、そのように規定せざるを得ないのは資本主義社会である以上当然の事であるとも考える事が出来る。税制をすり抜けるようにし、安価で大量に販売するために酒造メーカー各社が作り上げた『第三のビール』を筆頭に、法律で「Aのような物には重い税を課すが、Bのような物には軽い税を課す」と規定すれば、限りなくBに近いAをメーカーが作り上げ、結果としてAが駆逐されかねない現状となり得る。普通自動車と軽自動車を一律に扱った事により、『第三の自動車』が出てきて市場の混乱を招くよりは、普通自動車と軽自動車の境目を明確に区別した上で、軽自動車に対する扱い(税制上や登録の要不要)をやや優遇した方が良いと言う判断も頷ける。
それでは、公信の原則を不動産に持ち込むデメリットとは何か。私が考えるに、日本の法律上で不動産と規定されているものは『存在そのものが明確であり、尚且つ十年単位で所有権を保持する事が一般的である上、権利者の特定が容易な物』であると考える。土地は登記情報を見れば登記を持っている権利者が誰であるのかはすぐに特定する事が出来るし、車や船舶もナンバープレート等で登録情報を知ることが出来る。それ故、『善意の第三者』たる存在が発生しにくい状況が生まれていると考えられるからである。
そのような状況下では、やはり善意の第三者と言う存在よりも明確に登記を行い所有権を明確にした者に所有権が与えられて然るべきと私は考える。
一方で、善意の第三者に対する救済措置や、使用されていない土地を腐らせない為の措置も用意されてはいる。民法162条によって取得時効が定められており、善意無過失の場合は10年、そうでなければ20年の間平穏かつ公然と占有を続ければ不動産でも権利を主張する事が可能となる。通常であれば登記した土地を10年間も放置し続ける事は考えづらい為、登記者が事実上放棄したにも関わらず誰も手を付けられない、と言う状況を防ぐための措置として、非常に良くできた法律であると私は考える。

3.
しかしながら、公信の原則を用いる事によって生ずるメリットも、一概に切って捨てる事が出来ない物は幾つもある。例えば、公示の原則を用いるrace typeではケースバイケースで最終的な権利者が異なるのに対し、公信の原則を用いるnotice typeでは基本的に善意の人間が勝利する構図が出来ており、シンプルが故に煩雑さが無く、誰でも分かりやすく権利の有無を判別したり、権利を有する場合はそれを主張できる点にある。
取消の場合が特に顕著な例となり、公示の原則の場合、AB間の売買契約取消後にCBからAの土地を購入した場合は対抗要件として登記の有無で決着を付けるが、AB間の売買取消前にCが購入、その後に取消が行われた場合は、取消の遡及効により権利はAのままとなる。
一方で公信の原則であるnotice typeの場合、そのどちらの場合でもCが善意であるのであれば権利を主張できることとなる。これは事実上登記に公信力を求めるが故の原則であり、根底に『信ずる者は救われる』の思想が流れていると考えてよいだろう。
法律とは概して煩雑な物であり、専門知識をしっかりと身に着けて適切な措置を取っておかなければ第三者に対抗できない、というrace typeの欠点を補った形と見做し、評価する事も不可能では無い。
公教育によって登記に関する知識を子供の頃から教え込んだとしても、誰もが学校教育により適切な知識を学べるわけでは無い。現に、アメリカでさえも秀才とそれ以下の学業成績の格差に悩み、日本式の教育をモデルとして取り入れようとした試みがあった程である。それほどまでに、適切な知識を先に行使した者こそが強者となる公示の原則は、ある意味資本主義的な平等ではあるものの、『Fair』な精神の元に考えると余りにも弱肉強食が過ぎ、弱者への配慮が欠けているという考えが出てもおかしくは無い。

4.
一方で、カリフォルニアには非常にユニークかつ合理的な制度が存在する。信託証書(Trest deed)と呼ばれる制度であり、この制度により、債務者が何かしらの不履行を行った場合、債権者はすぐにでもその不動産を売却するなどの行動に出る事を可能とする証書の事である。
この信託証書の存在によって何が一番変わったか。それはカリフォルニア州を始めとする、このシステムを取り入れた州の不動産マーケットの活性化である。
債務の不履行による権利関係の混乱は日本でも珍しい事ではなく、その度に裁判沙汰となり、結果として本来の権利者の権利回復までには相当な時間を要する。しかし、信託証書ならば第三者機関及び管轄の裁判所にて適切な手続きを取れば、すぐにでも物件の売却が可能であり、登記を原則とする日本他の国家では実現しえないフットワークの軽さで、物件の変動が行えるようになる。
それに伴い、債権者側は焦げ付かされることが無く、また債務者側もきちんと契約を履行さえしていれば第三者機関や管轄の裁判所も問題なしとの裁定を下す為、米国の思想の根底に流れている『Fair』の思想に極めて合致している。
日本においても、債権者側の権利の弱さは常々指摘されていた。債務者が家賃を払わないなどと言った契約違反を起こしても、債権者側が迂闊な行動を起こしたが故に訴訟沙汰になったケースも決して少なくは無い。そのような現状に一石を投じるこの制度は、登記制度のある日本や欧州諸国では成立しない、極めて特異でありながら合理的な制度であるようにも考えられる。

以上の点から、信託証書の存在を始めとするアメリカ法制度は、極めて柔軟であり商行為を活性化させた上で、尚且つ債権者・債務者双方の権利を保護していると見なすことが十二分に可能である。
しかしながら、やはり私には誰の目にも自明な形で所有権を表明する事が出来る登記制度の方が現状ではやり方として尤も公平であり、不動産と言うものの性質に適した方法ではないかと考えてしまう。
無論、信託証書は素晴らしいシステムであり、これを導入すれば日本の不動産業界も更に活気付くことは自明である。東京オリンピックの開催が決まり、これから東京での再開発が進むとなると、その再開発に当たる人員の為の住宅をより流動的にした方が経済効果がある事は明白とも言える。
しかしながら、それは登記制度を無くしてまで導入した方が良いのかと言われると疑問は残る。現状のメリットを捨てて混乱を招くよりは、現状の登記制度の改善を求めた方がより安全であると考えられるからだ。

信託証書も未だカリフォルニアを含め一部の州でしか導入されていない制度であるため、10年、20年と言うスパンで真に有用か否かを見極めても遅くは無いだろう。その結果が出るまでは、やはり私は現状の登記制度を支持したい。

 

参考文献

フォーサイト総合法律事務所 http://www.foresight-law.gr.jp/column_qa/backnumber/130301.html

111sociallending.com http://www.111sociallending.com/keikosensei/trustdeed/

 

 

 

 

木住野大介

アメリカ法における物権変動

-法という正義は世界共通-

 

11J107026 木住野大介

 まずはじめに、私が英米法を学んだ1年間を通して得た英米法・日本法に関する結論は「国ごとの細かな違いはあれど、法律自体に大きな差はない」ということである。法律とは弱者を守るためのものであり、その意味ではどの国の法律にも通ずるものがある、というのが私が行き着いた結論だ。このレポートでは、なぜこのような結論に至ったのかについて、10個のキーワードに関する私の考えを元に解説していきたいと思う。

 

公示の原則と公信の原則

-過失なく失われる真実の物権-

 物件取引には二つの大きな原則がある。まずは公示の原則についてだが、これは物件取引の安全性を図るために存在する原則のひとつである。権利の変動それ自体は目に見えないのだから、第三者にその存在を知らせるためには外部から認識することができる形式をともなわなければならない。もし、権利の変動を外部から認識できなければ、権利を喪失した者を依然として権利者であると信じて取引をする第三者が現れるおそれがあるだろう。とりわけ物権は排他的効力を有するので、第三者に不測の損害を与えるおそれが大きい。物権の変動を外部から認識できる状態に置くことを、物権変動の公示といい、公示のために用いる手段を公示方法という。物権には排他性があることから、物権の変動には公示が要求され、公示のない物権変動の効力は多かれ少なかれ 否定される。これを公示の原則という。公示の方法として最も一般的なのが登記であり、不動産や船舶などのを法務局の登記簿に記載することで、物権の所有を公示することができる。

 次に公信の原則について説明したいと思う。先ほど公示の原則でも挙がった物権変動の公示は、必ずしも真実の権利関係を正しく反映しているとは限らない。公示によって権利を有するとされている者が、実際には権利者でない場合も存在しうるだろう。そのような場合に、公示を信頼して取引をした者が相手方が実は無権利者であるから権利を取得できないとなると、取引の安全を著しく害することになる。そこで近代法は、物権変動の公示を信頼して取引した者はたとえ公示が真実の権利関係と一致しなくても、公示どおりの権利を取得することを基本原則とした。これを公信の原則という。なお、公示のこのような効力を公信力と呼ぶ。公信の原則を認めれば、たしかに物権取引の安全を図ることができるが、一方で真 実の権利者の利益を犠牲にすることになる。だからこそ、公信の原則の適用範囲については議論の余地があると私は考えている。

 さて、ここで説明をひと段落させて、この二つの原則に対しての私の意見を述べたいと思う。まず公示の原則だが、これは確かに大切なことだろう。権利というのは目に見えないが確かに存在し、人から人へと売買、もしくは譲渡されるものである。その権利が確かに明け渡されたということを、公示しなければ、それは権利を明け渡していないのとなんら違いはないのではないだろうか。であるならば、公示の原則というのは最もシンプルに、その必要性を満たしているといえるだろう。次に公信の原則についてだが、こちらについてはいろいろと反対意見がある。まず、先ほども少し述べたように、公信の原則を突き詰めるのであれば、真実の権利所有者の利益を害することとなる。確かに我が国には 善意所得という、民法や有価証券法において善意で動産や有価証券を取得した者の取引の安全を保護するための制度が存在するが、それでは真実の権利所有者に対してあまりにも不公平だといえないだろうか。取引の安全性と真実の権利所有者の利益を天秤にかけて、取引の安全性を優先してもいいという理由はまずないのではないかというのが、私の考えである。

 

詐欺による取消と対抗要件

-過失があっても守られる物権-

 次に、物権法に関するいくつかの私の疑問を述べたいと思う。まず一つ目の疑問は取消と登記に関するものである。例えば「ABによる詐欺によって不動産をBへ売買したとする。その上でBが善意の第三者であるCに対してその不動産を売買した」とする。このような場合、先ほど述べた善意所得という制度によって善意の第三者であるCの取引の安全性は守られるべきであると言えるだろう。しかし、Cが登記を済ませていない状況でAが詐欺による売買であることを理由に取引の取消を申請した場合はその限りではない。そもそも取消とは、ある行為についてそのなされた過程に問題があることを理由としてそれを遡及的に無効とする旨の意思表示をいう。遡及効があるということは、つまりABに対して不動産を売買したということがなかったことになるのだ。そうなれば、Bは無権者でありそのBによる行動は法的な拘束力を持たない。そこで私の疑問だが、善意所得によって守られるべき善意の第三者であるCが、詐欺とはいえ売買に承諾したAに対して対抗要件を持たないとは思えないのである。先ほど公信の原則の場面で善意所得に異議を唱えたのは、真実の権利所持者に落ち度がないにもかかわらず、善意の第三者に対抗できないというのが不公平であったためであり、このようにAに落ち度がある場合であれば、当然にCが法的に守られるべきなのではないかというのが私の意見である。

 

時効による物権変動

-権利の上に眠る者-

 我が国における物権変動については、時効について紹介し、私の意見を述べることで締めくくり、アメリカ法における物権変動に移りたいと思う。そもそも時効とは、ある出来事から一定の期間が経過したことを主な法律要件として、現在の事実状態が法律上の根拠を有するものか否かを問わず、その事実状態に適合する権利または法律関係が存在すると扱う制度、あるいはそのように権利または法律関係が変動したと扱う制度をいう。物権法においては所得時効というものにより、例えば「ABの土地に勝手に家を建てて20年間公然と住み続けた場合、ABに時効が完成したことを主張して、本来はBのものであった土地の所有権を取得することができる」というように、時効の成立によって物権変動が生じることもある。私の意見としては、この制度はとてもいい制度だと考えている。なぜなら「権利の上に眠る者」ともよく言うように、権利所持者であることに胡坐をかき、自己の権利について主張もしない者に要保護性はないというのが私の考えだからである。もし今回の例でBAに対して不動産の返還請求をしていれば、時効は中断され、Bは権利を失うことはなかったのだ。それをできたにもかかわらずしなかったBに、もはや守るべき価値はない。これまで挙げてきた二つのケースとは明らかに違い、完全にBに落ち度があるのだから、この場合においては特に異論はないといえるのではないだろうか。

 

アメリカ法における物権変動の流れ

-日本と酷似した仕組み-

 さて、ここからはアメリカ法における物権変動についての説明と意見に移りたいと思う。アメリカ法では、日本とは違う概念がいくつか存在するが、まずはトレンスシステムという概念について紹介したいと思う。トレンスシステムという言葉は、私たち日本人にとってあまりなじみはないかもしれない。これは英米法における土地登記制度であり、登記上の権利者が真正な権利者であることを国が保障する制度である。英米法国における旧来の制度では、権利者が最初の権利者からの途切れない権利移転の連鎖を証明しなければならない。トレンスシステムは、これによって生じる不確実性、複雑性、費用を解決するために考案されたものである。コモン・ローにおいて、土地所有者は、その土地について 国王から最初に与えられた所有権にさかのぼって、自らの権利を証明する必要がある。土地取引に関する文書は集合的に「deed」または「権利の鎖」と呼ばれている。対して権原証書(deed)を登記する権原証書登記制度は、登記された証書に「優先権」を与えようとするものである。すなわち、後に登記された証書による譲渡は先に登録された証書による譲受人に対して主張することができず、登記を備えない証書による譲渡も同様である。権原証書登記制度とトレンスシステムの基本的な差異は、前者は証書を登記するのに対し、後者は権利を登記するという点である。ここからが私の考えなのだが、この「deed」を用いた権原証書登記制度は、日本法における登記ととても酷似しているように思える。先に登記されたものに優先権を持たせるというのも、日本における取引の安全性を重視した制度とさして違いはないのではないだろうか。英米法においても、日本法においても、基本的な正義は「弱者のための法」であることに違いはなく、そういった意味では大きな差が出ることはそもそもありえないのかもしれない。

 

アメリカ法における物権変動の流れ

-日本とは異なる仕組み-

 アメリカ法における物権変動については、最後に「notice type」について書いて終わりにしたいと思う。まずnoticeというのは「通知」のことであり、相手への通知に関する概念である。例を挙げるならば「ABに対して、1週間後に木材を100本ほど売ってほしい」という約束をしたとする。この場合Aは約束者、Bは受約者となり、日本法によればこの約束が交わされた時点で物権変動が起こりますが、アメリカ法における概念では「BAのために木材を100本用意できたことを通知する」ことで始めて物権変動がなされる。アメリカ法において、約束が単なる約束ではなく契約として認められるには「捺印契約が締結されるか、申し込みをしたものに法律上の権利が発生するか、承諾した者に法律上の義務が発生する」必要がある。これに対して私は、とても合理的かつ単純明快な概念であると考えている。なぜなら、このような特殊な債権の変動において「相手方のために物を別に用意して初めて、相手方に対しての準備ができたと言える」からである。何か商品の予約や発注の経験があるものなら一度は経験しているだろうが「単なる口約束だけであったために、実際に発注した商品が手元にそろうまでに予定していた約束の期日よりもかかった」ということは ないだろうか。それは「相手方のための商品の準備ができていなかったために起こったこと」に他ならない。ネットで物を購入した際などに「在庫が確認できました」という通知があるのは、ある意味でこのアメリカ法におけるnotice typeの概念と同一であるといえるのではないだろうか。

 

動産の物権変動

-登記が必要な動産-

 最後に、これまで土地などの不動産を例に挙げてきたが、今度は自動車などの動産を例に挙げて説明し、私の意見で締めたいと思う。本来であれば、動産に関する物権の譲渡は、その動産の引渡しがなければ、第三者に対抗することができない。その中でも自動車や船舶、航空機などの登記・登録制度が定められているものについては、登記・登録が所有権移転の対抗要件となる。動産物権の譲渡は引渡しによって公示されるが、しかしその公示性は十分なものとは言いがたいものであり、また頻繁に行われる動産の物権変動につき取引に際して一々詳細な調査を求めたり、真の権利者からの追奪の危険を負わせることは適当なことではないと考えられる。そこで民法では、占有という外形に対する信頼を保護し取引の安全を図るため「取引行為によって平穏に、かつ公然と動産の占有を始めた者は善意であり、かつ過失がないときは即時にその動産について行使する権利を取得する」と、即時所得の制度を定めている。しかし先ほど例に挙げた自動車のよ うに、登記・登録の制度が定められているものについては、登記・登録が行われている場合にはそれが公示となるために即時取得の対象とはならない。そこで私が考えたのがは、動産の中でも自動車などはある意味で不動産と同じような扱いをされているのではないだろうか、ということだ。例えば土地であれば登記が必要になるし、自動車ならば登録制度がある。これは単に名前が異なるだけで、物権変動の流れとしては大まかに同じなのではないだろうか。例えば、それがコンビニなどで購入した飴などであれば、登録などせず手元に収めた時点で売買契約は成立し、即時取得となるだろう。しかし土地ながら購入した後に登記しなければ対抗要件を失うし、自動車にしてもそうだ。であれば、自動車は動産であ りながら、ある意味で不動産のような側面を持っているといえるのではないだろうか。

アメリカ法と日本法の違いについてのまとめ

-正義という共通点-

 さて、アメリカ法と日本法における物権変動について大まかにおさらいし、意見を述べてきたわけだが、最後にまとめとして私が考えるのは冒頭で述べた通り、言葉や仕組みの細かなところは違えど、法律自体が大きく変わっているということはないということである。それは日本とアメリカが近しい国であり、共に先進国であるからという理由も確かにあるだろうが、実際のところ法律という一種の「正義」が、どのような国においても一貫しているということに他ならないのではないだろうか。だからこそ、国際法というものがまかり通り、世界的に輸出輸入といった物権変動が起こっているのだと、私は考える。

 

参考文献

物権法(山野目 章夫 2005/3

英米法(田中 英夫 1980/3

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