鈴木啓照

「グリーンピアと未必の故意」

 

 

 

12J117017

 

鈴木啓照

 

 

 

【結論】未必の故意は認められない。

 

 

 

【あらまし】

 

グリーンピア事件とは旧厚生省が被保険者等のために設置した保養施設(全13ヶ所)が大赤字であることに加え、

年金流用の批判から、2005年に全てのグリーンピア施設が民間や地方公共団体へ譲渡された事件。

建設費19534793万円に対して、売却価格は482495万円であった。

 

 

 

 

 

【疑わしきは罰せず】

 

 

 

法益に対する加害行為が法律により事前に定められていることが必要である。

法律により事前に定められた行為についてのみ、犯罪の成立を肯定する考え方を罪刑法定主義という。

すなわち法律による事前の罪刑の法定を要請し、明確にした上で、さらに罰則の内容的適正さが求められる。

罪刑法定主義の背後には民主主義の原理が存在し、何が犯罪で、刑罰が科されるかという法律主義の原則もある。根幹は人権保障である。

罪刑法定主義は刑法理論の原則の他に憲法上の要請でもある。

憲法によると「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科されない」(31条)

憲法31条に違反して無効だとするのが実体的デュー・プロセス理論である。

一般的に「due process of law=法の適正な手続」のことをいう。
米憲法では、法治国家においては何人も法の定める適正な手続きを経由しなければ、生命・自由または財産を奪われることはないと定めていて、この基本原則のことを「デュープロセス条項」と呼ぶ。
英米法では「operational code=手続としての法律」とでもいうべき性格を有すると解されている。すなわち、目的としての法を実現するために、あるいはその目的を維持するために行うべき手続きを記述したのが英米法的な意味での法律である。
手続き重視型というのは、最終的な価値に関しては問わないシステムだ。ある価値観を維持するような状態を法律の手続きとして記述しておき、そこに民主的な手続きをビルトインしておけば、民主的な意思決定によって望ましい状態が実現されるという解釈である。

 

 

 

 

 

【犯罪へのプロセス】

 

 

 

犯罪とは構成要件に該当し、違法で有責な行為である。

前提条件として犯罪は行為であり、思想や内心の状態は処罰の対象外である

 

1に、犯罪となるためには法律により、犯罪として決められた行為の類型に該当する必要があり、この行為の類型を構成要件という。

構成要件該当性が犯罪の成立を肯定するためには必要不可欠であり、構成要件に該当した場合のみ処罰を許すとしたことが、

罪刑法定主義の要請しているところである。

 

2に、構成要件に該当する行為が違法でなければ犯罪が成立しない。

犯罪は構成要件に該当する行為を禁止するために規定されたのであるから、本来違法であることが想定されたものである。

例外的な事情が認められる場合構成要件に該当するが違法性が認められないとし、すなわち違法阻却事由があれば違法性が阻却される。

 

3構成要件に該当し、違法であり有責性があることが必要である。

たとえ、違法な行為であっても責任主義の要請から非難可能性の責任を認められない行為は処罰ができない。

 

以下、詳しく検討する。

 

 

 

構成要件は法益侵害に関わる客観的な要素から構成される客観構成要件要素がある。

例外的に一定の行為を行う目的で主観的構成要件要素とされることがある。

窃盗罪においては通説判例によれば不法領得の意思を成立要件とし、責任要素を要求している。

違法性との関係から学説上議論がある。

違法性とは形式的には行為が法規範に反する形式的違反性をいう。原則として客観的に判断される。

定説は責任のない違法を認め、違法性と責任を区別する見解である客観的違法性論である。

これに対し、命令としての法規範に従って行為をなしうる者の違反のみを違反と解し、責任能力を備えた者による故意過失行為のみに違法性が肯定される。それにより責任のない違法性は否定され、違法性と責任の区別が失われる主観的違法論とが対立している。

 

構成要件に該当し違法な行為であってもそれを行ったことについて責任が認められない場合は犯罪の成立を肯定できない。

これを責任主義の意義要請である。

刑法は非難という性格を備えた刑罰を賦課しうる限度で法益保護を図ろうとする。

そのような手段を正当化するためには構成要件該当性違法行為遂行性が非難に値するものであることが必要である。

こうして、構成要件該当違法行為を行った者に対する非難可能性としての責任が非難という性質を備えた刑罰を賦課することになる。

このような非難可能性を基礎づけるのが他行為可能性である。他行為可能性については決定論、非決定論の対立がある。

非難可能性の責任として19世紀後半において有力であった犯罪とは行為による結果の惹起と解し、

責任とは惹起された結果に対する行為者の主観面をいう見解である心理的責任論が有力であった。

この責任理解は故意については妥当するとしても結果に対する認識が欠如する過失については妥当しないのではないかが問題となる。

そこで過失においては結果という心理面でなく、結果を認識すべきであったという規範的な評価こそが本質であるとの理解から

責任の内実として重要なのは故意過失に共通のものであるという規範的責任論が現在の通説となっている。

この責任理解においては行為者の主観面である故意の他過失、さらには期待可能性や違法性の意識といった要素が

規範的に理解された責任を左右するものとして責任論において重要な位置を占めている。

非難可能性の責任は行為者の行った当該行為の構成要件該当性違法行為についての行為責任である。

これに対し学説は、人は自らの自由意思によって行為を選択することができるとする行為の非決定論的理解を基礎として、

行為者の人格形成が他行為可能性によって制約されていた場合にはその限りで行為責任は限定されるが、

そのような人格形成を形成したことについての人格形成責任を併せて考慮し全体としての人格責任を問題する人格責任論の見解も少数ながら存在する。

人格責任論は常習犯人に対する刑の加重を基礎づけることに狙いがあると解され、人格形成責任を援用することによって、

責任が軽減されるのを否定するのではなく、責任が加重されることまで説明しうるか疑問に残る。

責任を認めるためには少なくとも、当該犯罪について故意または過失犯が処罰される場合には過失が必要である。

したがって故意過失の要件を画定することは重要な課題である。学説においては故意過失を構成要件に位置付ける見解が通説的な位置を占める。

このように構成要件要素とされた故意過失を構成要件的故意、構成要件的過失という。

 

 

 

【原則故意】

 

現行法では、犯罪の成立は故意を必要とするのが原則である。(刑法381項)

このため故意の意義を明らかにすることは重要である。故意の概念は過失の理解に関係するという点においても基本的な重要性が認められる。

刑法381項によれば故意とは罪を犯す意思をいう。これは犯罪事実の認識・予見と言い換えることができる。

そうすると故意の要件は何が認識・予見の対象となるか、犯罪事実を認識・予見しているとはいかなるものかを検討する。

故意があるというには認識・予見される必要がある。罪という犯罪事実は違法と評価される事実である。

このような事実について認識・予見があるとき、違法な行為を行ったことについての故意犯の責任を問うことができる

(このような事実について認識予・見があるとき、違法な行為を行ったことについての過失犯の責任を問うことができる)

行為の違法性を基礎づける事実を認識したものは、それによって当該行為を行うことが違法であるとの認識、

つまり違法性の意識に到達し、反対動機を形成し当該行為をでることをおもいとどまらなければならない。

そうしたことが可能であるのに行為にでた場合、行ったことについて非難可能性が認められる。

 

故意を認めるために認識・予見が必要となる行為の違法性を基礎づける犯罪事実は客観的構成要件該当事実と違法性阻却事由該当事実に分けられる。

構成要件該当事実は積極的に行為の違法性を基礎づける事実であるからそれが認識・予見されなければならいことは容易に理解しうるものと思われる。

それに対し違法阻却事由該当事実の認識・予見は以下のような意味で故意の消極的要件となるのである。すなわち構成要件該当事実が存在しても違法阻却事由該当事実が存在する場合には、構成要件該当行為の違法性は阻却されるから構成要件該当事実の認識・予見があっても違法性阻却事由該当の認識・予見がある場合には行為者が認識・予見している事実は全体として違法という評価を受けない事実である。その結果違法性を基礎づける事実の認識予見が認められないことになり、責任要件としての故意が否定されることになるのである。(通説・判例)こうして構成要件該当事実の認識予見があることを前提とすると違法性阻却事由該当事実の認識・予見が存在しないことが責任要件としての故意の 要件になる。

 

 

【故意の構成要件関連性】

 

故意があるためには客観的構成要件該当性についてすべて認識・予見されていることが必要である。これを故意の構成要件関連性という。

すなわち構成要件に含まれている事実の認識・予見が必要であり、後述する意味の認識があるだけでは足りず、

また違法性の意識を有するに足りる事実の認識があるだけでも足りない。判例がメタノールの所持販売を禁止処罰する罰則の適用にあたり、

行為者はメタノールであることの認識が必要であり、単に身体に対する有害性の認識があったのでは足りないとしている(最判昭和2422)のはこの意味で理解することができる。

 

覚せい剤輸入所持の事例について故意を認めることができるとしているが(最決平成229)覚せい剤の認識が排除されている場合には

故意が否定されるという意味では故意の構成要件関連性は堅持されている。

行為者によって認識された構成要件該当事実は特定されたものではなく、一定の範囲のものである概括的故意であってもかまわない。

予見がある場合、実際に湯を飲んだ人の数に応じた故意犯の成立を肯定することは可能である。(大判大正6119

 

 

【意味の認識】

 

構成要素には殺人罪におけるような特段の精神的な評価作用の働きなしに認識しうる記述要素と窃盗罪のように、

財物の他人性わいせつ物頒布罪における文章などのわいせつ性のようにその認識のために規範的判断を必要とする規範的要素が存在する。

両者の区別は相対的なものであるが、規範的要素についていかなるときにその認識・予見があるといえるか規範的構成要素の認識が問題となった。

規範的要素の意義は最終的には裁判所の法解釈によって決まるが、規範的要素の認識があったというためには

裁判所による法解釈と同じ判断が求められるわけではない。それでは違法性の意識を部分的にせよ要求することになり

また、そのような理解によって高度の法的知識を備えたいか者のみに故意を認めることになり妥当ではないのである。

 

しかしながら単に自然的事実の認識で足りるとすることも問題がある。

例えば、外国語で書かれたわいせつ文書についてその文字を認識することはできても

ことばの意味を理解できない者にとっては文章の意味するところが全く理解されていない以上わいせつ性の認識を肯定することができないのである。

故意にとって必要なのは当該事実を立法者が罰則を制定するうえで着目した属性において理解することである。

これを意味の認識という。

たとえば、わいせつ文章についてはそれが法解釈によれば刑法上のわいせつ文章にあたるという認識まで必要としないが、

それが人の性的に関するいやらしいものであるといった認識が要求される。このように意味の認識が存在しない場合は、故意を認めることができない。

 

これに対し、意味の認識は存在するが、法規範の当てはめを正しく行うことができない場合には故意はあるが

違法性の認識が欠けているにすぎないことになる。

 

故意が否定される場合と故意は認められるが違法性の意識を欠くにすぎない場合とでは法的効果が異なるから極めて重要である。

前者は過失がある場合であって過失犯処罰規定が存在するとき、過失犯が成立するにすぎない。

これに対し後者は判例によれば故意犯が成立し有力説によれば違法性の意識の可能性がある限り故意犯が成立することになる。

しかしながら両者についての判定は必ずしも容易でなく、事実の錯誤と違法性の錯誤の区別には争いがある。

そしてこの点に関する判例の態度がすべて一貫しているかにも疑問の余地が残る。

それは認識されるべき意味は当該犯罪構成要件の解釈により決まるためであるが

さらに、判例は違法性の意識の可能性を欠く場合における免責を正面から認めていないため処罰すべきでない事案において故意を否定しているためではないかとの指摘もなされているのである。

(つまり、違法性の錯誤は原則として故意責任に影響を及ばさないが、事実の錯誤は故意を限界として阻却するから、ある錯誤が事実の錯誤か法律の錯誤かは行為者の確定によってきわめて重要である。)

 

以下は判例裁判例の状況を示すことにする。狩猟法事案において二つの代表的事件がある。

 

禁猟獣であるむささびをそれと同一でありその俗称でもあるもまと思って捕獲した場合には故意があるとされたが(大判大正13425むささびもま事件)、禁猟獣であるたぬきをそれと同一でありその俗称でもあるが、それとは別の動物であると思っていたむじなだと思って捕獲した場合には故意がないとした。(大判大正1469たぬきむじな事件)

 

これらの区別にはかなり微妙なものがあるといえよう。判例の中には裸の事実の認識があれば故意を認めることができ、

それに対する法的評価の認識は故意とは無関係だとするものがある。たとえばメチルアルコールであることをしっている以上

メタノールについての故意はあり両者の同一性の不知は法律の不知にすぎないとしたもの(最大判昭和23714

 

わいせつ文章であることの故意があるというためには問題となる記載の存在の認識があれば足り、

わいせつでないと思っても、故意を阻却しない違法性の錯誤にすぎないとしたもの(最大判昭和32313チャタレー事件)

 

故意の存在を否定したものも存在する。

 

銃猟禁止区域内で銃猟を行った事案において銃猟禁止区域であることの認識が欠ける場合は故意が阻却されるものとしたもの(東京高判昭和53524

 

飼犬取締規則の無鑑札犬は無主犬とみなす旨の規定を誤解して、他人の犬でも鑑札を付けていない犬は無主犬とみなされると誤信して撲殺したという事案において、他人所有に属する事実の認識が欠けていることの可能性を認めたもの(最判昭和26817)などがある。

 

 

 

narrow analyses

 

再度書くが、故意とは犯罪事実の認識予見をいうが認識・予見の程度には差があり

いかなる心理状態について犯罪事実の認識・予見があるとして故意を肯定するかが問題となる。故意と非故意との限界をどのように画するかが問題となる。

 

故意は一般に犯罪事実の実現を意図する場合の意図、

 

犯罪事実の発生を確定的なことにして意識予見している場合の確定的故意、犯罪事実の確定的な認識・予見はないが

その蓋然性を認識予見している一定の場合の未必の故意に区別される。

これに対し非故意である過失は犯罪事実が一旦は行為者の意識にのぼったが結局それを否定したとする認識ある過失、犯罪事実が行為者の意識に上らなかった場合である認識なき過失に分かれる。

 

以上の区別を前提とするとここでの問題は、未必の故意と認識ある過失をいかにして画かするかということである。

 

故意に関しては意思に着目する意思説と表象に着目する立場の表象説の基本的な対立があり

それに対応して未必の故意の限界に関しても認容説と認識説の対立がある。

 

認容説は、構成要件実現の可能性蓋然性を認識予見しそれを認容したときに故意があるとする。

故意を認めるためには認容という積極的な人格態度、意思態度が必要であるとするのである。認容説に対しては故意には意思態度が不可欠であるとしても、それは行為にでる意思である行為意思にすでに含まれており、行為意思に担われた行為者の心理内容が故意といえるものかが問題なのであるからその心理内容を確定するにあたり、再び意思をもと出すことはできないとする批判がなされている。

また、行為意思を超えた意思的態度を考慮するのだとすればそのような意思的態度は単なる情緒的要素にすぎず、

それによって故意の限界を画するのは妥当ではないとの批判もある。

 

認識説は構成要件実現の蓋然性を認識したとき故意が認められるとする。

この見解は行為者の意思が故意の成立にとって重要ではないとするのではなくそれは行為意思として考慮済みであり、

行為意思に担われた心理内容を問題としているものと解することができる。

但し、この見解は蓋然性の認識というのみだけでは限界が不明確との批判が可能である。

 

このようなことを考慮して構成要件実現が行為者の意識ないし意思過程にとりこまれそれにもかかわらず行為意思が現実化したかを基準とする動機説が主張されている。行為者が犯罪事実を認識しつつ、これを肯定して自己の行為への動機づけとした場合未必の故意が認められる。

この見解によれば要件の実現が一旦は行為者の意識内に浮かんだが、それを否定しつつ行為にでた場合には未必の故意は認められないことになる。

 

 

 

【例外過失】

 

日本での犯罪成立は故意犯処罰の原則であるが(刑法381項)特別の規定が存在する場合は例外的に過失だけで過失犯も処罰の対象となる(刑法381項但書)例えば過失により人を死傷させた過失傷害致死罪、失火により一定の物を焼損したときに成立する失火罪などである。

判例は過失犯を処罰する明文規定が存在しない場合でも過失犯処罰を肯定していて、これを明文なき過失処罰という。

 

判例において旧外国人登録法令に定める登録証明書の携帯義務違反、古物営業法に定める帳簿の記載義務違反について、

過失犯処罰を明文規定は存在しないものの取り締まる事柄の本質に鑑み過失犯も処罰の規定になる(最決昭和2835)(最判昭和3754

国際条約の国内担保法であることなどを指摘して明文なき過失犯の処罪を特段の事情なく是認した判例もある。

しかしながら、過失犯処罰の必要性合理性と処罰規定の存在であると学説は罪刑法定主義の見地から判例に疑問を呈す。

 

故意犯における責任要件として故意を理解するのと対応して、過失を過失犯における責任要件とするのが旧過失論である。

この考え方は故意を構成要件該当事実の認識予見可能性と解されることになる。

 

これに対し予見可能性は程度概念であるから、これによっては過失犯の処罰範囲を十分に画することはできないと批判し、一定の基準行為を遵守したかという客観的基準によって過失犯の成立範囲を違法性の観点から画定するべきという新過失論との対立がある。新過失論は違法性要素としての基準行為からの逸脱が過失犯の成立要件である。

 

 

 

旧過失論は、法益侵害の惹起を過失犯の構成要件事実と解するものであり、結果無価値論に基礎を置く過失理解である。

これに対し新過失論は法益侵害の惹起に加え、基準行為からの逸脱を過失犯の構成要素として要求する意味で、

行為無価値により構成要件該当事実の範囲を画そうとするもので行為無価値に基礎を置く過失理解である。

 

新過失論においては、基準違反行為は限定的要素として付加的に要求されるものであり、結果惹起結果の予見可能性は依然として要求されている。

なお、新過失論の延長線上には結果の予見可能性を不要とし、何が起きるかわからないという危惧感を解消する措置をとらないことをもって過失とする新々過失論も主張されているが、新過失論の立場においても少数説である。実務においては森永ドライミルク(徳島地判昭和481128)くらいであり、一般には否定されている。

 

 

 

 

 

 

 

違法性の意識における議論】

 

 

 

刑法383項は法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。

ただし、情状により、その刑を減軽することができるとして刑法の裁量的減軽を認めている。

これは法の不知やひいては違法性の意識の欠如は故意の存否とは無関係であるものの責任判断には影響する。

責任を減軽することを規定したものと解することができる。しかしこの規定だけからは違法性の意識の犯罪成立要件における意義は十分に明らかにならずしたがってその理解解釈をめぐっては議論がある。

 

判例の立場は違法性の意識は犯罪の成立要件ではないとする違法性意識不用説である。

 

(大判大正1385)(最判昭和251128)これは違法性の意識は故意の要件でないばかりかそれを欠如することによって犯罪の成立は否定されることはないことを意味する。

 

しかしこのような理解は責任主義の見地から疑義があるとの学説による批判の影響もあり違法性の意識を欠いたことについて相当の理由があるときは故意を欠き責任が阻却されるとする下級審判決が存在している。(東京高判決昭和271226)(東京高判決昭和44917黒い雪事件)(東京高判決昭和55926石油やみカルテル事件)

 

また最高裁判例も被告人には違法性の不用説からは犯罪の成否と無関係なはずの違法性の意識があったと認めて、

違法性の意識を欠き、そのことに相当の理由があったとして犯罪の成立を否定した原判決を破棄し(最判昭和53629羽田空港ロビー事件)、

また違法性の意識を欠くことについて相当の理由があるとはいえない原判決を是認したのである(最決昭和62716サービス券事件)

こうして判例は違法性の意識不用説を変更する一歩手前まできていると学説は解釈している。

 

学説においては違法性の意識に関して多様な意見が主張されているが、違法性の可能性すらない場合は責任を問うことができないとし、

判例(メチルアルコール事件等)の違法性の意識不用説を批判する。学説は違法性の意識またはその可能性を故意の要素とする故意説と責任の要件に位置付ける責任説とに大別することができる。故意説はさらに違法性の意識を故意の要素とする厳格故意説と違法性の意識の可能性とする制限故意説(通説)とに分かれる。

 

 

 

 

 

 

 

【無から有へ】

 

 

 

公務員の違法な行為によって国民に損害を与えることがある。このような場合被害者である国民に金銭面で救済する制度が国家賠償制度である。

 

明治憲法下では国家賠償に関する制度がなく権力的行政活動から生じた損害はたとえそれが違法だとしても国民に対して責任を負わない国家無責任の原則が支配していた。

 

もっとも国公共団体の管理する施設に生じた損害については民法の規定によって国公共団体に対して賠償請求できることになっていた。(大判大正561

 

これに対して日本国憲法17条は国家無答責の原則を排斥しはじめて公務員の職務活動全般について国公共団体の損害賠償責任を認めた。

この規定を受け昭和221947)年国家賠償法が制定施行され、違法な行政活動によって生じた損害に対する救済制度が確立された。

 

 

 

国家賠償法11項は権力行政における国・公共団体の賠償責任を明示的に認めている。これは公権力責任あるいは1条責任といわれる。同条2項は民法715条に基づく使用者責任と異なり、国・公共団体の場合の免責事由は認められない。

 

公務員の違法な行為によって生じた損害に対してなぜその責任を国公共団体に負担させているかについては代位責任説と自己責任説との対立がある。

 

 

 

代位責任説は加害者である公務員個人が本来負うべき責任を国または公共団体が変わって負担するという説である。

その根拠として公務員に代位して責任を負うという明示的な文言はないものの公務員個人の故意または過失という主観的責任要件が規定され当該公務員に対する国公共団体の求償権が認められていること、また当該公務員の選任監督に対する国公共団体の責任について触れられていないことが挙げられる。

さらに公務員個人の財力によっては十分な被害者の救済が図られないおそれがあり、責任を負うおそれのある公務員が職務遂行に対して消極的になってしまうなどの政策的見地から認められるとする。

 

 これに対して自己責任説は、加害公務員の行為に基づく責任を国・公共団体が自ら直接負担するという説である。

その根拠として公務員に代位して責任を負うという文言がなく、国又は公共団体がこれを賠償する責に任ずると規定されていることや公務員の職務が違法に行われて損害を加える危険性を否定できず、そのような危険性を含む権限を与えたこと自体に国公共団体の責任があるという点などが挙げられる。

公務員が国公共団体の一機関として公務に遂行しているためその公務に伴う責任については国公共団体身近らが一種の危険責任として責任を負わなければならないとする危険責任論の考え方である。自己責任説の利点は加害公務員の特定性が必ずしも求められないことや、過失の概念を注意義務違反とせず国公共団体の公務運営の瑕疵と捉えることが可能になり被害者救済の範囲を拡大できることにある。両説の違いは過失の認定に現れる。代位責任説ではその過失が行為を行った公務員個人に認められる必要がある。自己責任説では過失とはその違法行為が客観的に非難に値する公務運営の瑕疵と評価されるか否かである。両者のうち、代位責任説国家賠償法の規定に忠実であり通説となっている。しかし代位責任説に立って加害者の特定やその故意過失をあまり厳格に解釈すると国民の被害救済に欠けることになる。そこで判例の中には国家賠償責任を追及する際に加害公務員の特定を厳密に行う必要はないとしたり、公務員個人ではなく組織自体の過失を認定したりすることによって、事実上自己責任説立つとみられるものも少なくない(最判昭和5741)このように判例は代位責任説に立ちつつも、事実の実態に即した柔軟な判断を行っている傾向にある。また国家賠償法代位責任説にたっていると考えられるがその解釈などによい妥当な結論を導き出すことが必要とされる。

 

 

 

国家賠償法1条の責任が認められる要件として加害行為について公務員の故意または過失が必要である。つまり1条の責任においては過失責任主義がとられている。ここでいう故意とは公務員が職務を執行するに当たりその行為によって客観的違法とされる事実が発生することを認識しながら行うことである。過失とは個々の公務員の具体的な過失ではなく通常公務員に要求される義務を怠ることを意味する。(最判昭和43419

 

過去は主観的事情であったが近年は客観的にとらえられるようになっている。

 

国家賠償法上公務員または行政組織に対して要求される注意義務の程度は当該職務に従事する公務員に社会通念上要求される注意能力が基準となっている。

 

こうした傾向は故意過失を一元的に構成する判例に多くみられる。

 

 

 

国家賠償法が成立するためには違法性という要件が必要である。

 

違法性は具体的な法令違反だけでなく客観的に正当性を欠く場合もいう。

 

そのため特定の法令に違反しなくても権限濫用や信義則違反と認められる行政活動は国家賠償法1条にいう違法な行政活動となる。主観的要件とされた過失がより客観化された注意義務違反と考えられているため、客観的要件としての違法性との相違が相対化してきている。例えば学校事故のように注意義務の観点からのみ判断する判例もある(最判昭和6226

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【私見】

 

 

 

刑法上は未必の故意の適用難しい。なぜならば故意の本質は犯罪事実の実現希望を意欲することにあり、故意犯の意思的側面を重視することにより故意の成立には意欲・認容が必要と考える。グリーンピアによる損失の結果発生の可能性は認識していたかもしれないが、意欲・認容はなかったと私は考える。よって過失背任となり、背任に過失犯という特別規定はないため無罪となる。

 

経済的見地から国家賠償は認めてはどうだろうか。グリーンピア建設により巨額の損失の責任は運用者にある、しかし官僚個人にその責を負わせるのは金額的にも妥当とはいえない。団体で負わせるのが得策ではないであろうか。我が国は、かつて5人組という制度をも採用していた背景もあり、集団無責任はあまりにも妥当ではない。では団体の範囲をどこにするかが今後の問題となる。局にするのか省にするのか公務員全般にするのかそれとも国にするのかが問題となる。国にした場合、国が運用損出を補い、それは自己補填となり意味がないのではないか。

 

さらに今回、年金が積立方式で個人ごと個別管理されていないため損出額は一人いくらとなるかあまり明確ではない。

 

さらにグリーンピアは当初は良かったが時の経過とともに問題が露呈した事件である。この場合人事ローテーション等により関係者達はその職場にいないかもしれない。その場合どうするか。ただ一つ確実にいえることは年金制度の信用が失墜し、年金運用の不安が増大したことはいうまでもない。

 

東京地裁の判例は、年金財源が不足し将来受けるべき年金受給額が減額されるという財産的損害を被ったという原告の主張はそもそも将来受け取るべき年金受給額が減額されるという財産的損害が不明確である。乱費によって将来受けるべき年金受給額が減額されるという関係が漠然としている。

さらに法的義務との関係では、年金等に係る徴収金の管理、運営等は広く制度維持にかかわる事柄であってその適正な運営が求められるとしてもそれは国民一般との関係にとどまる。

 

個別の年金受給者や将来年金を受給する個別の加入者に向けられた法的義務を観念できない。

 

厚生年金法や国民年金法における被保険者の利益も一般または抽象的なものであって厚生年金保険法79条の2などの規定が厚生労働省及び社会保険庁の公務員に対し個別の国民との関係で何ら法的義務を課するものではないと解した。

 

 公務員の現状は俸給表の序列により給与が支払われ、規定により昇進が行われるが

良い政策、行動を行った人には加点し昇給昇進を推し進めるのはどうだろうか。

つまり減点主義を縮小し加点主義を増やしてみてはどうだろうか。

現在の議会制民主主義はジェレミーベンサムの功利主義である最大多数の最大幸福を運用する最も合理的なシステムではないかと思う。

しかし、現在の人々の価値は多様化し個々の望む幸福も少しずつ異なってきている。年金制度も多様な面が必要だ。

 

官僚制は最少人数で最大人数の幸福をもたらす運用システムとしては魅力だが、それは同時にパノプティコンと呼ばれる最少人数で最大多数を監視するという面も備えている。

完璧というシステムはこの世には存在しないと私は思う。

年金制度に限ったことではないが現在の年金制度は世代間格差が激しい。もらい得払い損

がその一例である。さらに共通番号制度は管理するのには都合がいいが本当にそれでいいのだろうか。しかし良い面もある。

20154月より特例水準が解消され、マクロ経済スライドが実施されることは評価ができる。だが、共通番号制度はここでも差が現れる。

2018年以降新たに銀行口座を開設する人は共通番号制度に強制的に記載することを実施予定している。

それ以前の人は共通番号制度に登録するかは任意なのである。機会の不平等がある。

しかしこの制度を確立するためにはあるところで線を引き強制的に行うのも致し方ないのかもしれない。

その他共通番号制度では医療に関する共通番号カードは別になるという議論もある。今後とも注視したいが、医療を除くことははたして妥当なのだろうか。

 

【本音と建て前】

 

国家財政の基本法である財政法において国債を原則禁止し例外的に公共事業、出資金、および貸付金の財源として国会の議決を経た金額の範囲内で建設国債を発行し借入金をなすことができるとしている。

 

建設国債は財政法4条が例外的に認めている国債である。公共事業により建設される社会資本は将来の国民も利用できるから、建設国債は正当化できるとの考えに基づいて、発行を認めているものと考えられる。

 

対して赤字国債、別名特例国債というものが存在する。始まりは、1965年度の補正予算で赤字国債の発行を認める1年限りの特例公債法が制定され、

赤字国債が戦後初めて発行されたことに由来する。その後は、10年間は赤字国債の発行はなかったが、1975年度に再び発行されて以降は1989年度まで特例法の制定を続け赤字国債が発行された。1990年度にはその年の臨時特別国債を除く赤字国債の発行額がゼロになり、1993年度まで発行額ゼロが続くものの、1994年度から再び発行され現在に至っている。財政法第4条1項は、建設国債以外の公債の発行をきびしく制限しているがゆえに、財政法4条は赤字国債を認めていない。赤字国債を発行するには、特別の法律を毎年通さなくてはならないということだ。なぜ財政法はここまで厳格に定めているかというと、

日本の過去の戦争の拡大にともなって戦費のための財政の赤字を補填するために、国債が濫発されたという時代背景があったからではないかとされている。

 

特例である赤字国債を毎年発行するのはもはや特例ではなく通常の借金と相違ないのかもしれない。

現在1000兆を超える借金が我が国はある。現在安倍内閣は今回の予算では借金を増やさないことには力を入れたが、

それまでの借金をどうするかはいまだ不透明である。

特に社会保障が歳出枠では一番歳出項目で高い。平成25年度では110.6兆円である。その社会保障でも年金は53.5兆円、医療は36.0兆円である。

今後歳出の増加が認められるため早急な改革が必要である。

 

 

 

マックス・ウェーバーの支配類型論においては、合法的支配、伝統的支配、カリスマ的支配の3類型がある。官僚制とは、合法的支配の最も純粋な型である。

マックス・ウェーバーによれば官僚制の優れている点として精確性、迅速性、明確性、厳格な服従関係などをあげており、

官僚制的組織の持つ技術的利点を評価している。

 

例えば権限の原則、階層の原則、専門性の原則、文書主義 である。マックス・ヴェーバーは、官僚制が持つ合理的機能を特に強調したが、

逆機能を指摘しなかった。この逆機能を指摘したのがロバート・キング・マートンである。

官僚制の逆機能としては、規則万能(規則に無いから出来ない)、責任回避(事なかれ主義)、秘密主義 、前例主義による保守的傾向 などが挙げられる。

 

シューバートは官僚が公益をどう考えているか合理主義、理想主義、現実主義の3類型に分類した。

合理主義とは、公益とは選挙や議会によって決定されるもので、官僚たちはそれを忠実に実行することで公益を実現できるというものである。

官僚は政治には関わらず、もっぱら実行部分だけを行えばいいという考えであるが、一方では行政の無責任さを招くことにもなり、行政が誤りを認めないことを許してしまうとの危険もある。

 

理想主義とは、立法機関よりも行政機関が公益を実現するうえで中心的な存在でなければならないというものである。政党によって混乱する政治から距離を置き自律した存在になることで行政は力を発揮できるという考え方である。この考え方は民主主義の考え方からはかなり遠いものである。

 

現実主義とは、そもそも公益そのものをあまり過剰に考えず、私的利害や圧力団体の利害などによって公益はできるというものであり、公益は政治のつけた優先順位によって実現されていくもので、また急激な変化は公益を混乱させるとして好まない考え方だといわれる。この考え方の問題点としてはしばしば場当たり的な対応を生み、また、官僚制そのものが私企業や圧力団体に束縛され、癒着の温床を生み出すともいわれる。

 

健全な官僚制とは3つの公益観がバランスよく共存していること、また官僚個人も、3つの公益観のバランスをとることを心がけること、ということがいえる。

 

ここに日本の官僚制を当てはめてみる。

 

1960年代までは、官僚の公益観はおおむね理想主義に立っていた。官僚出身者が首相になっていた官僚優位の時代が、理想主義的公益観を後押ししていたが
1970
年代になると、現実主義的公益観が現れた。自民党政権の長期化とともに与党の力が強くなり、「政高官低」(政党が官僚よりも強い)という言葉も生まれるようになりました。さらに、圧力団体の発言権も増していく状況で、理想主義的公益観と現実主義的公益観が共存するようになってきます。
さらに1980年代になると、合理主義的公益観が生まれ、政治の決定に忠実に従う官僚が増えてきます。

その結果、3つの公益観が日本の官僚制の中で共存するようになった、と考えられていると真渕勝はいう。

 

 

 

【私見2

 

 日本の官僚制の欠点としてマートンが挙げた逆機能を時々我々は伺いしることができる。

通称3ない公務員である。(遅れない、休まない、働かない)官僚の匿名性をどう見るかも必要だ。

官僚制の1つの特色が天下りである。天下りをすると公正な行政を妨げる恐れがあると批判がなされている。

天下りは日本に限ったことではないが官僚制の大きな欠点である。

なお法律上は国家公務員法第103条によって、「職員は、離職後2年間は、営利企業の地位で、その離職前5年間に在職していた人事院規則で定める国の機関、特定独立行政法人又は日本郵政公社と密接な関係にあるものに就くことを承諾し又は就いてはならない」と規定されている。人事・予算の透明性の確保が求められる。我が国は、予算は重視されるが決算が軽視されやすいことも忘れてはならない。

日本の財源の問題として赤字国債がある。これは将来の借金である。その世代の借金はその世代で返すことが財政健全化の第一歩ではないだろうか。

日本は今後少なくとも10%増税と金融緩和による金融引き締めを行わなければならない。

日銀の黒田バス―カー2を行ったと同時期にアメリカはQE(量的緩和)の金融政策を終了し金融を引き締めた。この結果は近い将来現れるだろう。

 

 

 

 

 

「参考文献・資料」

 

 

社会保障のイノベーション、中江章浩、信山社、2012

 

刑法 第2版  山口厚  有斐閣 2011

 

行政法     池村正道 弘文堂  2012

 

http://nsks.web.fc2.com/  中江ゼミ研究室 刑法分野 第24

 

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1903101.html法律のデュープロセス OK Wave

 

http://www.mof.go.jp/faq/budget/01aa.htm 建設国債

 

 

 

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1066536700;_ylt=A2RAjamLs7xUkzAA5eRlAPR7?pos=3&ccode=ofvマックスウェーバー・マートン

 

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10131421790;_ylt=A2RAqayCqrxUBGcAxS0YAPR7?pos=1&ccode=ofv国債赤字1000

 

 

 

https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E3%82%8A-159227 知恵蔵

 

http://allabout.co.jp/gm/gc/294033/3/ シューバートの「公益観」理論と官僚制

 

https://kotobank.jp/word/%E8%B5%A4%E5%AD%97%E5%9B%BD%E5%82%B5-289

 

赤字国債

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%AD%97%E5%9B%BD%E5%82%B5

 

赤字国債

 

http://www.mof.go.jp/gallery/201404.htm   社会保障費用 財務省

 

 

 

http://www.mhlw.go.jp/nenkinkenshou/ いっしょに年金検証!公的年金  厚生労働省

 

 

 

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1442892399;_ylt=A3xTwssQNr9UXW0A0FMx.vN7?pos=2&ccode=ofv 未必故意認識ある過失 知恵袋

 

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/116/035116_hanrei.pdf#search='%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%94%E3%82%A2%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E8%B3%A0%E5%84%9F' グリーンピア運用損出に係る国家賠償法 東京地方裁判所 民事第38

 

 

 

 

堀籠博行

グリーンピアと未必の故意

12J112012 堀籠 博行

 

私はグリーンピアに関する判決は無罪にされたが本来有罪にされ裁かれるべきものであり今後の日本おいては、許されるものではないと考える。

 

 

1,グリーンピア失敗と雲隠れした責任

 

グリーンピアは、第6465代総理大臣田中角栄による日本列島改造論に厚生省が話に乗り1998年地方に13ヶ所大規模な年金保養施設を年金財源から資金を使い完成させた。 だがグリーンピアが完成する頃には、新幹線や高速道路などの交通網が整備され地方の人口が首都東京に移るようになったことや立地場所の影響などからグリーンピアは、経営不振になり赤字の補填費用は年金保険料からだった。 その結果としてグリーンピアは、失敗に終わり1906億円程の赤字が年金積立金の運用に大穴をあけ穴埋めのために他の事業から金を集め足りなくなった部分は、国債でカバーをして多大な赤字国債と負の遺産を作ってしまい年金の支給が60歳から65歳に変更されたのもグリーンピアによる負債が一因かもしれない。 現在多くの施設は、地方公共団体に委託されているが廃墟になっているものもあり官業による失敗の象徴かの様に佇んでいる。 この大失敗に対し官僚制の悪しき部分の事なかれ主義により誰も責任を取らない姿勢から、年金の受給資格者達が「社会保険庁及び厚生労働省の違法又は不適切な支出により、年金資金及び国庫に多額の損害を与え,年金給付の基礎を脅かした」として訴訟をしたがグリーンピアに関する訴訟判決は全て却下という判決である。 この官僚無罪判決によって国家の信頼を失わせ今後成功するが巨額の資金が必要だという経済政策に対して経済性を無視して失敗したグリーンピアは、引き合いに出されるであろう。 ただ有罪であったとしてもどちらにせよ公務員の業務に対して萎縮させる要因になるのは、変わらない。

 

 

2,グリーンピア関連の訴訟

 

では、上記においてグリーンピアに関する住民訴訟判決を抽象的に書いたが今度は、具体的に裁判例を見ていきたい。

(@)指揮監督権行使等請求事件

指揮監督権行使等請求事件」では、社会保険庁及び厚生労働省の違法又は不適切な支出により年金資金及び国庫に多額の損害を与え,年金給付の基礎を脅かしたとして,年金受給資格者の地位にある者らが提起した,裁判では、内閣総理大臣が社会保険庁及び厚生労働省に対して内閣法6条又は憲法72条に基づく指揮監督権を行使することを求める義務付けの訴え,同指揮監督権を行使する義務のあることの確認を求める訴え及び同指揮監督権を行使しないことの違法確認を求める訴えにつき,内閣総理大臣が行政各部に指揮監督権を行使するためには,閣議にかけて決定した方針が存在することを要するところ,閣議にかけて決定した方針が存在する場合においても,内閣総理大臣は,各省庁の長を媒介することなく,直接に当該省庁に対し特定ないし個別的な行政事務の実施を命ずることはできないため,その指揮監督権に当該方針を実現するための強制力を伴うものではなく,他方,閣議にかけて決定した方針が存在しない場合においては,内閣総理大臣は,行政各部に対し随時その所掌事務について一定の方向で処理するよう指導,助言等の指示を与える権限を有しており,内閣総理大臣の指揮監督権にはこのような権限が含まれると解するのが相当であるが,この権限についても強制力を伴うものではないとした上,前記違法又は不適切な支出について,内閣総理大臣の上記指揮監督権が行使されたとしても,それによって年金受給資格者の地位にある者らの具体的な権利義務に直接影響が及ぶということはできないから,前記各訴えは,裁判所法3条1項にいう「法律上の争訟」には当たらず,前記各訴えはいずれも不適法であるとして却下した。

 

(A)指揮監督権行使等請求控訴事件(原審 東京地方裁判所平成18年)

『指揮監督権行使等請求控訴事件(原審 東京地方裁判所平成18年)』では、社会保険庁及び厚生労働省の違法又は不適切な支出により年金資金及び国庫に多額の損害を与え,年金給付の基礎を脅かしたとして,年金受給資格者の地位にある者らが提起した,裁判では、内閣総理大臣が社会保険庁及び厚生労働省に対して内閣法6条又は憲法72条に基づく指揮監督権を行使することを求める義務付けの訴え,同指揮監督権を行使する義務のあることの確認を求める訴え及び同指揮監督権を行使しないことの違法確認を求める訴えにつき,内閣総理大臣が行政各部に指揮監督権を行使するためには,閣議にかけて決定した方針が存在することを要するところ,閣議にかけて決定した方針が存在する場合においても,内閣総理大臣は,各省庁の長を媒介することなく,直接に当該省庁に対し特定ないし個別的な行政事務の実施を命ずることはできないため,その指揮監督権に当該方針を実現するための強制力を伴うものではなく,他方,閣議にかけて決定した方針が存在しない場合においては,内閣総理大臣は,行政各部に対し随時その所掌事務について一定の方向で処理するよう指導,助言等の指示を与える権限を有しており,内閣総理大臣の指揮監督権にはこのような権限が含まれると解するのが相当であるが,この権限についても強制力を伴うものではないとした上,前記違法又は不適切な支出について,内閣総理大臣の上記指揮監督権が行使されたとしても,それによって年金受給資格者の地位にある者らの具体的な権利義務に直接影響が及ぶということはできないから,前記各訴えは,裁判所法3条1項にいう「法律上の争訟」には当たらず,前記各訴えはいずれも不適法であるとして却下した。

 

 

3,グリーンピアをなぜ無罪としたのか?

 

グリーンピアに適用される罪を考えると構成要件で刑法において刑法247(背任)であるが、背任罪は、意思の存在が必要であり、今回のグリーンピアでは、組織集団で集団の中にグリーンピアが自身にとって良き天下りにしようという未必の故意によって巨額の公費を使いこもうという違法性の意識がありいくらか使い込もうと許されるという違法性の錯誤は、存在するかもしれないがグリーンピアが失敗し将来の年金積立金に大穴をあけるという考えが存在すれば、認識ある過失として裁けるかもしれないがその当時の官僚が意識しておらず国民に損害を与える意思は、ないものであると考える。 上記において故意は、処罰されるが過失は特に規定がないかぎり処罰されないことから、故意と過失の区別こそが重要な問題のであり今回は、未必の故意認識ある過失をどう区別するかである。 未必の故意認識ある過失をどう区別するかその説として動機説認識説に別れ動機説では、最終的に結果が発生すると考えながら行為に出た場合が未必の故意。 認容説は、結果発生の可能性を認識していた場合は認容説というものである。 次に行政法においては、国家賠償法であるが国家賠償法第一条一項は、「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。」としている。 日本の通説では、代位責任説であり公務員の不法行為を代位して負うという考え方であるがグリーンピアの政策は、個人ではなく組織集団での任務として行っており大きな事業であり一定の収益を目的としたことなどを鑑みると、故意は当然ないと考える 上記では、説明しきれるものでは、当然ないがグリーンピアのように本来違法である行為を法を明確に規定してされていなかったために罪刑法定主義によって無罪判決となってしまった。

 

 

4,私見

 

日本国民が働き積み重ね上げた年金を13か所のグリーンピアが吸い上げ固めて無用の置物と化し、結果多大な赤字国債に繋がり未来の代まで影響が出る負の遺産作り上げた。 さらにその失態は、裁判で全て無罪という結果に終わり官僚の誰も責任を取ることなく本来有罪にされ責任を取るべきであったグリーンピアに関する訴訟は、幕を閉じ終わってしまった。 グリーンピアに関する官僚の行動が国民が持っていた官僚への信頼を地にまで落としその場しのぎで未来のことなど考えていないと思われて当然であり年金の未滞納者が増えるのも納得ができる。 なぜなら支払った年金は、全て帰ってくるわけではなくグリーンピアのような事件後で誰も責任を取らないのであれば、支払わないほうが良いと何人かは、考えるであろう。 グリーンピアは、官僚に間違いはないという考えを持った人間や官僚に任せておけば年金は、大丈夫だと考える人間にとっては、良き反面教師となったであろう。 私今後グリーンピアのような事件を無罪にしないためにグリーンピアのような事例を処罰できる法律を規定することと責任を取らず雲隠れしたとしても責任をとれるように官僚制の悪しき部分を変えていく必要があると考える。 そのために立法府に法の制定を訴えることや官僚一人一人を番号制にして関わった事業をネットワークに公開し能力を判断し最高裁判所裁判官国民審査と同じように何年かに一度選挙の時に国民が審査し反対が過半数を占めた場合罷免又は、一つ下の階級にさせるなどが良いと考える。 しかし上記を実行するには、国民一人ひとりが国を動かすのだという自我と意識を持ち政策や社会に密接に関わっていくことが重要である。 日本は、戦後70年を迎え変化していく社会において国際性が増し国外の状況がすぐにわかるようになり条約や国際機関などにより個人が尊重されるようになり商業は、島国という海に囲まれた国での商売は、国外に手を伸ばすほどに商売の範囲を広げた。 その中でグリーンピアのような官僚に間違いはないや官僚に任せておけば年金は、大丈夫という考えで突き進んでいては、今後日本が世界とより関わっていく前に取り残され弱くなりかねない。 日本国民が今までのように日本の歴史における偉人などの人物達に任せて行動させられるのではなく、今後は、自分達の手で切り開いてくことこそが戦後70年を得て日本人に求められるものであるのだと考える。

 

参照文献

「裁判所 裁判例情報:検索結果詳細画面」

http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail5?id=37448

2015/1/17アクセス)

「裁判所 裁判例情報:検索結果詳細画面」

http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail5?id=35116

2015/1/17アクセス)

試験研究室

http://nsks.web.fc2.com/>(2015/1/17アクセス)

 

 

 

 

猪股俊介

『 グリーンピア事業の考察と今後のあり方 』

 

 

1. 結論

 

グリーンピア事件判例において過失責任を問うことはできなかったが、今後は多少なりとも問うことが出来るように改正されるべきである。

 

 

2. 公的年金流用問題とグリーンピア事業

 

まず始めに、公的年金流用問題とはなにかについて触れてみる。公的年金流用問題とは、公的年金制度ものとに集められた年金保険料が、年金給付以外の用途に安易に使われていたというものである。その中に、ここで挙げられる 「グリーンピア事業」 も含まれており、事実年金給付以外の用途に使われた額の累計は56年間でおよそ67900億円に上ることが判明している。

 

次に、グリーンピア事業とはなにか。グリーンピア事業とは1970年代の前半、田中角栄首相の日本列島改造論が一世を風靡していた頃に厚生省が立てた計画だ。つまり、列島改造に厚生省が乗って作り上げたものである。その内容は、全国13ヶ所に大規模保養施設を建設して年金加入者に提供するというものであり、大規模な官主導のリゾート開発そのものだった。

 

しかし、2004年の年金制度改正時に、国会や新聞報道を通じて年金福祉還元事業の意義や実施経緯が問題になる。事業に関連した公益法人が、厚生労働省や及び社会保険庁の職員の天下り先となっていたこと等も露見し、ただでさえ厳しい年金財政の状況も相まって、国民からは厳しい批判の目が注がれた。また、施設運営に係る収支状況が平成15年までの累計で約8億円の赤字となっていたことから、事業の損失や失敗の責任が問われ、責任の所在を明らかにするべきだとも批判された。現在は、元来不安定な年金システムに更なる打撃を与え、グリーンピア自体も当然の如く経営不振になったことにより、200112月の閣議決定を経て地方に格安で譲渡されるに至る。

 

この問題において注目すべき点は天下りの問題も含め多々あるのだが、今回はあくまでその中の公的年金の流用について主に考えるものとする。

 

 

3. グリーンピア事業のその後と刑法

 

さて、このように年金制度の崩壊において飛び抜けた大きさの影響を与えたグリーンピア事業であるが、最終的にはどう扱われたのだろうか。結論から言うと、どうという裁きも為されていない。なぜならば、現状裁く方法がないからである。では、なぜこれだけのことをやらかした官僚を裁くことが出来ないのだろうか。そこには、日本の刑法の仕組みも大きく関係してくるので先に触れておきたい。

 

まず、日本の刑法は 「罪刑法定主義」 という基本原則のもとに成り立っている。罪刑法定主義とは名前の通り、「犯罪と刑罰が法律に規定されていること」 であり、いかなる行為が犯罪となり、その犯罪に科せられる刑罰はいかなるものであるかを、あらかじめ成文の法律をもって (成文法主義) 規定しておかなければならない。専制国家のように国家機関がほしいままに刑罰権を行使して国民を処罰したり、法がないのに慣習や条理のみによって処罰されるとなると、国民の権利は保証されないものとなってしまう。よって、刑法上にこそ明確な規定はないものの、民主主義に由来する当然の原則として受け入れられている。(憲法第31条等の規定にその原則が表れているとされている)

 

その他、罪刑法定主義には 「類推解釈の禁止」・「遡及処罰の禁止」・「明確性の原則」・「罪刑均衡の原則」 の4つがあり、成文法主義と合わせると計5つの基本原則がある。この中でも、本件に大きく関係してくると思われるのは成文法主義と遡及処罰の禁止の二点だと思われる。

 

 

4. グリーンピア事業の考察

 

では、早速だがグリーンピア問題を刑法に照らした場合、どういった方法で裁こうと考えることが出来るだろうか。この問題を考える時に出てくる代表的なものとして、刑法252条の横領罪と刑法247条の背任罪について考えてみる。各条文における犯罪の構成要件は以下の通りである。

 

252-1 自己の占有する他人の物を横領した者

252-2 自己の物であっても、公務所から保管を命ぜられた場合において、これを横領した者

 

247条 他人のためにその事務を処理する者が、自己若しくは第三者の利益を図り又は本人に損害を加える目的で、その任務に背く行為をし、本人に財産上の損害を加えたとき

 

横領の見地に立って見てみると、公的年金制度のもとに集められたお金は、年金として使われるべくして集められたものであり、見方によっては国民からの将来的な国への預金として受け取ることが出来る。よって、預かっていた他人の物 (本件だと金銭) を本来あるべき形として運用しなかったと見た場合、横領罪の構成要件は満たしているように思われる。背任の見地に立って見てみても、他人のための事務 (年金の管理・正式な運用) を怠り、その任務に背き、財産的損害まで与えていることから、こちらも構成要件を満たしていると思われる。

 

次に、構成要件を満たしているとなると、その行為に違法性が伴うかどうかが問題となってくる。構成要件的故意が認められるためには、まず先に犯罪事実の認識 (違法性の意識) が必要である。犯罪事実の認識がなければ 「罪を犯す意」 があるとは言えないからだ。認識という意識的要素のほかに、犯罪事実の実現を意欲するような意思的要素を必要とするかという点については以下の三説があるが、通説判例は認容説を採っている。

 

認識説 〜 犯罪事実の認識だけで足りると解する説

意欲説 (動機説) 〜 犯罪事実の認識のみならず、その実現を意欲又は望むことが必要と解する説

認容説 〜 犯罪事実の認識のほかに積極的な意欲は不要であるが、犯罪事実が実現するなら実現しても仕方がない、やむを得ないとして認容していることが必要だと解する説

 

つまり、グリーンピア事業に照らした場合、横領並びに背任的行為だと知りつつ、同時に損害を与えることをほぼ確定的に予見していたにもかかわらず、年金を別の用途に敢えて使い、国民に損害を与えた場合は有罪である (確定的故意)。上記と同様の内容になるのではないかというおよその予見はあったものの、そうなっても構わないと認容して実行した場合も有罪となる (未必の故意)。また、無罪ではあるが未必の故意を考える際には切り離せないものとして過失との関係性がある。本件において犯罪事実実現の可能性の認識があるが、それでも認容はしていない場合を認識ある過失といい、無罪。そもそも犯罪事実実現の認識がない場合を認識なき過失といい、こちらも無罪である (なぜ過失犯が無罪であるかというと、横領や背任といった行為が問われている以上、そこに自己の意思なくして過失を問うということが極めて困難だからである)。これら4つのパターンのいずれかがグリーンピア事業を実行していた人の内心ということになるのだが、どの状態であったと考えるのが適当であろうか (これらを考えるときに 「違法性の錯誤」 を考えることも出来るのだが、今回犯罪の成立の有無を問われているのは法律を熟知しているべきプロであり、犯罪事実の認識に誤りがなければ違法性の評価を誤る可能性は限りなく低いものとして、錯誤についてはなかったものとして考える)

 

もし、確定的故意のもとに今回の行為を行ったのだと証明できたならば、その罪を問われないのはおかしいことになる。同様に未必の故意があった場合もそうである。認識なき過失は除外して考えるものとして、認識ある過失として考えた場合はどうだろうか。私自身、この認識ある過失として捉えるのが一番妥当であると考えている。理由は先にも述べたように、本来この手のことに携わる者は、ある程度法律を熟知しているプロだからである。プロでない者が本来別用途に用意された予算を使い荒らしたとしたら、人事的な面からも厳しい問題が見つかることになる。しかし、本件は国家の大事業である以上、それ相応の人材のもと、しっかりとしたプランが練られたはずだと考えるのが普通である。なぜならば、おいそれと試行錯誤を重ねて様子見するほどの余裕がないからだ。そうなると、プランの段階で 「もしかすると起こるかもしれない犯罪事実実現の可能性」 について考えられたか否かで、認識ある過失なのか認識のない過失なのかが決まってくることになる。そして、こういった公的年金という本来手をつけるべきでない予算に手をつけていることに注目しても、危ない橋を渡っているか否かの思案は為されていたと考えるのが妥当であり、およそ先の問題を予見しつつも、その上で事業に取りかかったと見るのが適当だと思われる。しかしながら、ここまで語っておいて言うのもなんであるが、確定的故意と未必の故意、未必の故意と認識ある過失の境界というのは実に曖昧であり、まさに言い方次第でどちらに受け取らせることも出来てしまうのである。前者の場合、どちらにせよ故意があったものだとして考えることが出来るが、後者の場合は大きく事情が異なってきてしまう。よって、はっきりとどちらなのかを明確に判断するというのは難しく、これが裁こうにも裁けない状況を作る一因になっている。

 

では、もし刑法から離れて見た場合、他に責任を追求する方法はあるのだろうか。もし、本件における損害を 「公権力の行使に基づく損害」 と見た場合、国家賠償責任を問うとして、国家賠償法を適用出来る可能性はある。国家賠償においては自己責任説と代位責任説の二説があるのだが、通説・判例は代位責任説を採っており、第一次的な責任は国ではなく公務員個人となっているため、当時の担当者を直接求償権行使の対象とすることができる (加害行為を行った公務員個人の不法行為責任がまず成立し、その責任を国が公務員に代わって負うことになる)。国家賠償責任の要件は以下の通りである。

 

・公務員に故意または過失があること

・公務員の違法な加害行為が存在すること

・加害行為と損害との間に相当因果関係があること

・市民に損害が発生すること

・公権力の行使に当たる公務員であること (国賠法1条1項より「職務を行う」について)

・公務員の行為で、客観的に見て職務行為の外形を備えていること (外観主義・外形説)

 

しかしながら、国家賠償請求の時効は民法の規定を適用していることが一つ。二つ目に、国または公共団体が損害賠償をした場合は、損害を加えた公務員に故意または重過失が認められたときに限り、その公務員に対し求償権を有するとあることから、仮に国家賠償が認められても個人への請求は通りにくいこと。並びに国家事業である以上、ある程度の公定力は働いていると考えるのが基本筋であり、そもそも国を相手に裁判を起こしても余程でない限りは勝ち目がないと思われる。よって、国家賠償法の利用も考えることだけは出来るのだが、現実的にほぼ不可能であると言ってもよい。

 

 

5. 今後どうしていくべきか

 

ここまで様々な方法によりグリーンピア事業における国に対する責任の追求法について考察してきたが、結果としては、国に責任を認めさせて裁くことは難しいというところに行き着いた。しかし、これを言い換えるのならば、この先官僚が行った事業も基本正しいものとして受け入れざるを得ず、今後同様のことが起こったとしても国民は泣き寝入りを決め込むほかないということになる。本当にそれでいいのだろうか。

 

日本という国は官僚制を採用しており、そのシステムの通り上意下達の指揮命令系統を持つ。こういった位階・階層が存在するからこそ、下の方へと流れていくことが出来てしまう天下り問題が起こってくるのだが、もし今回の事案で 「他人の物により自己の利益を図った」 という箇所に注目するとしたら、今後似たような事案が起こった際には、責任追及のポイントの一つとして挙げることが出来る可能性は出てくるだろう。敢えて 「今後」 としたのは罪刑法定主義における事後法による遡及処罰が禁じられているからである。

 

そもそも、国が執り行う事業であれば国民のために為されるべきであるのは当然であり、本件のようにイレギュラーな資金を用いることがあるのだとしたら、そこには本来必要とされる以上の注意並びに審議が必要であると考えられる。それは、本件のような国民に対する大損害 (公的年金制度への影響) を与えるということが大きな問題になったからであるが、もし再度似たような事態が起こった場合に対し、今後どういった改正をしていくべきなのであろうか。その点について私は国家賠償の形より、刑法的処罰を備える方が望ましいと考える。

 

こういった論を出した際に出てくる意見として 「そのような法を備えてしまっては、国家事業を執り行う際にどうしても萎縮的になってしまう」 というものがある。私はこれに関し部分的に正しいやもしれぬとも思うが、重要なのはそこではなく、それだけの大事に手をつけるのだから、十分過ぎるほどに審議を尽くせという点にあることを主張する。なにも本当に正しいことを為すというのに、そこにある刑罰に怯える必要性はほぼ皆無だからだ。より刑法的にとしたのは、国家賠償では本件の場合意味を成さないというのが大きい。というのも、損害を受けているのは特定の個人ではなく国民全体 (若しくはそれに準ずるほどの大きな団体) である以上、国家賠償法における個人による損害賠償はほぼ不可能であり、大抵の場合はそのほとんどを国が負担することになる。特に、本件のようなとてつもない損害を国が負担したということになると、どこかからその資金を調達しなくてはならないことになる。その資金のために赤字国債を発行したとなると、巡り巡って最終的には国民にたどり着くことになる。そうなっては、一見国が賠償して解決したように見えるが、見えているだけで実はそうではなかったということになりかねない。だからこそ、当時の担当者に本当に不適切な部分があったのであれば、その程度に応じて刑事責任を問うのが正しいと考えるのである。ただし、その際には余程でない限り 「時効」 の要素を盛り込むことが必須だと考えられる。なぜならば、本件のグリーンピア問題が大きく取り上げられたのは2000年を過ぎてからであるのに対し、計画そのものが起こったのはその30年も前の問題だからである。日本という国がたった数十年という期間の中で大きく変容してきたように、その国家事業が決定された際の時代背景というのも考える上では実に重要なものとなる。よって、あまりに昔のものに責任を求めようとすることは、その責任追及が為されるまでは世の中が安定していた (かもしれない) 事実をないがしろにしてしまいかねない。「かもしれない」 と書いた通り、実は明るみに出ていないだけで問題自体は起こっていたという場合はあるのかもしれないが、こればかりは責任の追求のしようはないだろう。それを許してしまえば 「実は〜だった」 の連続になってしまい、長期を見通しての国家事業などが出来なくなってしまう。よって、私は現状並びに将来への対策として、時効の期間の制定基準こそ不明確ではあるが、事業制定に伴う失策制定者に対する実質的 (形だけではない) 刑法罰の設定の必要性を説く。

 

以上

 

 

 

< 目次 >

 

1. 結論

2. 公的年金流用問題とグリーンピア事業

3. グリーンピア事業のその後と刑法

4. グリーンピア事業の考察

5. 今後どうしていくべきか

 

<参考・引用に用いた書籍、又はサイト >

 

授業ノート

六法全書

刑法総論 [ 高橋則夫 著 / 成文堂 ]

実務に即した刑法総論・刑法各論 [ 五島幸雄 著 / 成文堂 ]

別冊Jurist 刑法判例百選T(6)・U(7) [ 有斐閣 ]

 

Wikipedia 次の各項目(URL省略)

グリーンピア / 公的年金流用問題 / 官僚制 / 赤字国債 / 故意

 

SAFETY JAPAN 書評「年金、これで国を信じろと言うのか」 第35

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/bookreview/36/index6.html

 

刑法38条 故意の概念、及び、未必の故意の一義でない多義性など

http://www12.ocn.ne.jp/~s-k/tango/keihou38.mihitsunokoi.html

 

国家賠償

www.geocities.jp/mwqyw640/houritukenkyuu/gyouseihou/kokkabaisyou.html

 

Yahoo 知恵袋より

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1080093860

 

 

 

飯沼 輝

「グリーンピアと未必の行為」

 

12J102004  飯沼 輝

[大損害を招いてしまった官僚への対応]

グリーンピアの実態

今から約五十年前の1961年に施行された年金福祉事業団法によって当時の厚生省管轄のもと行われ、日本国内に13ヵ所建設された巨大事業は最終的に????億1千万円もの累積赤字を生んだまま48億円という価格で売却された。

 しかしながら、このように莫大な損害を生じさせた事業にも関わらず今まで誰一人として処罰されていない、私はこの事実に大きな疑問を感じ、公務員の立場であっても罰せることができるような仕組みがあるべきだと思ったので、処罰していく立ち位置で述べていくことにする。

ではなぜこのような事態に陥ってしまったのか、

今でこそ、日本の借金は1038兆円を超え国民一人当たりの借金残額は817兆円にまで膨れ上がってしまったが、当時もこのような事態を予見していたのか分からないが日本の国力を上げようと、日本各地に莫大な予算を使って大損害を生じさせ誰も処罰されないまま事業が終わっている。

では、事業開始における目的は何だったのか?おそらく表向きの方針は、まだ観光地として開発されていない地域にリゾート施設を建設し波状的にその地域を活性化し観光客を呼びその収益を国民年金の積立金に充てようとした計画だったとは思うが、一方でこれは処罰されなかった今当時の官僚に真意を聞くことは不可能に近いが、事業を計画した厚生省にいた官僚の天下り先の受け皿として悠々と使われてきたのではないかという声も強い。

では、当時この計画を考案した際に厚生省の官僚達は計画がうまくと思っていたのか今のように未来に損害を残すことになると考えられなかったのか、おそらく厚生省ほどのエリート官僚ならば予見出来ていたに違いない。

官僚の違法性の意識を確認する術はないに等しく難しいことではあるが、背任の事実があったのは確かである。

そのため、これは実は腹の中では失敗することを十分に予見できていたのに実行へと移してしまった背任説が当てはまると考える。

 

グリーンピアの事案はどのような学説に当てはまるのか

そう考えると、この事案は表向きが社会貢献のためのうまくいくことを見越したリゾート建設である以上、認識ある過失とは言い切れないが例え認識ある過失であったとしても「失敗することは計画段階では予想できなかった」で済むような軽い問題ではないはずだ、その言い訳という武器だけで今まで誰も何も処罰されてこなかったのは倫理的にあってはならないと思う。

また、これを今回のような民法の金の問題ではなく刑法の殺人を例にとって考えてみると、加害者である(官僚)は被害者の首を絞めて気絶、落としてしまったとする、この時加害者は後で起こせば大丈夫だろうと思っていたが結果的に死亡(大損害)となってしまった、加害者は犯行に及ぶ際必ず最悪の結果が予想できたはずだ、そのため行為を実施する際には必ず結果回避義務と結果予見義務の両方が常識的にも伴ってくるはずだ。

今回のグリーンピアの場合、無くなったのは金だけと言っても国民の年金積立金という大切な金だが元通りになる可能性がないわけではない、しかし殺人の場合は対象が命であるから取り返しのつかないことになってしまう。

したがって、こ場合はリゾート建設の失敗を予見しつつその実行への意思も確認できると見受けられることから認容説も適用され、結果がある程度分かっていながらそれでも実行に移したのだから動機説も挙げられるだろう、しかしながら未必の行為で言うこの場合上記でも述べたが、リゾート施設の運用が確実に100%失敗して赤字になることを予見していたかというとそれはどんな学者でも完全に否定するこは出来ないはずなので、ここではある程度の失敗するという結果は認識していたが未必の行為よりは程度というかランクが低い認識ある過失が適用されるべきと考える。

 

[公務員への処罰とその懸念と対策]

守られる公務員

グリーンピアのような未必の行為と解されるようなケースでも罰していきたいが現行法の上だとそれは大変難しくなってくる、ではどういった法改正や体制作りをすればいいのか公務員の処罰に対し積極的な立場において考えてみる。

そもそも、どうして憲法15条でも謳っているのに国民の奉仕者である公務員が国民の資産でもあった年金積立金を無駄にしたのにも関わらず罰されないのか、その一番の要因として国家賠償法という公務員の賠償責任を定めた法律がある。

その中で公務員が処罰される場合について国家賠償法1条1項で「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。」とし2項では「前項の場合において、公務員に故意又は重大な過失があったときは、国又は公共団体は、その公務員に対して求償権を有する。」とある。

それでは今までに公務員個人が実際に有罪判決を受けた事案は存在するのか主な判例を見ていく、最高裁昭和58218日判決・民集371101のクラブ活動中の生徒がその練習の妨げとあったとし生徒の顔面めがけて殴り右目を失明させてしまった事件については、教師がそこに立ち会っていなかったが、失明するということを予め想定は出来なかったとし無罪になっているし、最高裁平成160115日判決・民集第581226では日本に不法残留している外国人が国民健康保険法の異なった解釈の双方とも合法と認められる学説に左右されている時、一公務員が一方の見解を認め公務を執行した際後にそちらの見解で行われた執行が違法とされても直ちにその公務員に過失があったと認めるべきでないとしている、国や地方公共団体が賠償を認められたケースは存在したが、公務員個人が責任を負わされたケースは見当たらなかった。

 

公務員を処罰するにはどんな方法・手段が必要か

そこで、なぜ裁判所の判例も公務員個人に対しての処罰を認めないのか、そこには国家賠償法の代位責任説が大きく絡んでくると言える、これは本来公務員自身が負う責任を国又は地方公共団体が代位代わりにその責任を負うとしていて、判例の通説はこちらの立場に立って判断しているため処罰への道筋がほとんど絶たれてしまっている、ではどうしたら認識ある過失に対し処罰できるのか、確かに認識ある過失の場合競馬の15番人気が勝つ可能性がゼロではないので、それを言い張れば少なくとも故意ではなく構成要件にも値しないので日本の法律では過失は無罪となる。

したがつて私は、これまでの日本における判例のスタンスから変えていくべきだと考える、それは自己責任説でなくどちらかというと代位責任説の責任を代位せずそのまま公務員自身に責任を取ってもらうという考え方だ、従来のような国又は地方公共団体が集団責任という形で罪を負うと、勢力自体が大き過ぎて結局その責任の所在が曖昧になり揉み消されたようなことになってしまう恐れもある。

ただしこの考えの最大の弱点は、ゼミの議論でも何度もテーマに上がっていたように公務員を一度処罰してしまうと罰を恐れて萎縮してしまい、悪い計画だけでなく本来実施されるはずだった国民生活に貢献できるような良い実りのある計画の芽を摘んでしまう危険性が大いにある。

 

処罰をする際のアフターケア

その負の要素を解消するため私は、今の公務員自身は罰さないという法制度・体制を抜本的に改革し常識的に見て結果が予見できていたのにも関わらず実行に移した認識ある過失でさえも積極的に罰していき、その基準として他の示しとなるような判例を作りそれを軸に考えていくべきと提案する。

そして、問題の萎縮の危険性についての問題だがこれには政策・計画が成功した際に別で報酬を払いそれでも対価としては不十分かもしれないが、負の要素だけでなくその目的を目指し官僚の皆様に積極的な政策を行ってもらうようにする。

ではなぜこれまでこのような事案が大々的に議論されてこなかったのか、私の意見は大胆過ぎるから参考にはできないが、その一因としてあくまで私が推測するところでは2009年の政権交代で鳩山政権がマニフェストに掲げた官僚主導から政治主導の風潮

を実現できなかったことも関係していると思われる、その鳩山政権でさえも最終的にこの流れを脱せなかった。

この長年続いた、公務員個人は集団責任の下で守られるという風潮を脱し、ある程度の個人責任も課していかないとまたこのような事態が繰り返されることになり兼ないのではないか。

更には、日本では長い間自民党政権が続きその中で、官僚が巨大な力を持ちすぎてしまい政府と政治の関係がおかしくなり、政治も官僚に対し強く言えない状況であるから天下りもなかなか無くならなくなってきてしまっている、官僚制の在り方そのものを見つめ直さなければいけない時期にきているのではないか。

 

 

[これからの日本の指針と感想]

グリーンピアの背景

1961年に実施されたグリーンピアの計画の背景としては、天下り先の確保だという意見もあるがここでは一度、表向きの目的だった社会保障費増大からくる財政圧迫を見越しての年金積立金を増幅させるという思考で述べたいと思う。

現にその4年後、佐藤内閣の下で戦後としては初となる赤字国債の発行が踏み切られた、これには誰も予想していなかった山一証券の破綻やオリンピック特需も終わりこれからの財政不安からなど様々な要因が考えられる

 

グリーンピアを含めた事案についてどのように扱っていくべきか

上記でも述べたようにグリーンピアの事案がこれまで処罰されなかったのは、日本の法律では過失の場合は鉄の掟である罪刑法定主義により行為の要素が相対的にかすっている場合でも法律の規定するところに反しなければ罪には問われない。

こちらも難しい問題ではあるが、例えばチャタレー事件のように解釈する各人によりその罪への意識が変わる違法性の錯誤的な考えを用いれば、処罰に対し多様な可能性が生まれてくるだろう。

 

感想

私個人の意見では、ここまでの多額の損失を出した事件にもなると殺人のように直接手は下さないものの、国民の金を無駄にしたのだから間接的に国民生活を苦しめた犯人を見過ごすのは抵抗があった。

そして、一番に思うことは政治が官僚に対しての依存を下げて欲しいということである

 

 

参照:ウィキペディア、戦後国債発行史、佐藤健宗法律事務所ブログ

引用:ウィキペディア(国家賠償法 判例)

 

 

 

 

里脇愛香

グリーンピアのような採算の取れない国民負担になる事業を官僚が行った場合、法によって責任追及できる仕組みを作るべきだと考える。

 

⑴時代において行かれている法律や公務員制度は改正すべきだ。

 グリーンピアの問題は、法律によって裁きを受けていない。結果的に年金積立金を浪費し、ただただ年金制度への信頼を失墜させただけであるのにも関わらず、事業を企画し実行した公務員は責任を追及されることはなかった。仮に民間企業であったならば、顧客のお金を利益の出ない無謀な事業に費やそうとすれば、ほかの者に止められるだろう。利益追求を目指す民間企業においては、顧客の信頼を失うような行動は得策ではないし、成り立たないことがわかりきっているものに無駄な金銭をつぎ込むことはない。しかし、公務員は国民の利益のための活動が求められる。直接的に国家への利益を生まない事業であっても国民の社会保障のためになら認められる場合があり、予算は国民の税金から下りてくる。毎年結果を出すほどに省庁の予算が増えるのならば、予算や生み出せる利権のために国民のためにならない行動を起こす公務員が出てしまう。これまでのグリーンピアやバブル期のタクシー使用例を見ても国民の監視がなければ問題が起こってしまうのが分かる。

 ではなぜ公務員のこのような行動が刑法で裁かれないのだろうか。刑法には、背任といった罪が規定されている。グリーンピアは当てはまらないのだろうか。日本では罪刑法定主義がとられており、犯罪は法律で定められていなければ罰されない。人々が国家権力によって自由を拘束されるのだから国家権力がその力を乱用しないように法律で規定されていなければならないという考えだ。そのため法律で明確に規定されていなければならない。どういった意味にでも解釈できる法律であれば乱用される恐れがあるからだ。また、遡及刑罰の禁止も憲法第39条に定められている。これは、適法だと思い行った行為が後で犯罪となることがあれば人々が安心して生活していけないためだ。他にも派生として類推解釈の禁止が存在する。これもまた人々が捜査機関の類推解釈により恣意的に逮捕されることがないようにという人々を保護する目的のものだ。しかしながら、実際には裁判の判例により解釈の仕方が決まっていたり、変更されたりといったことが起こっている。これは条文を変えることは裁判官にはできないが、解釈を変えることでより実務に沿った判断が行えるようにということでなされている。

 このような原則にのっとってグリーンピアを考えると刑法の中で適用されるように考えられるのが、第247条の背任だ。問題となるのは、この事例が第247条にきちんと当てはまるのかどうかになる。犯罪の成立要件としては構成要件に該当し、違法であり、有責であることが求められる。「他人のためにその事務を処理する者が、自己若しくは第三者の利益を図り又は本人に損害を加える目的で、その任務に背く行為をし、本人に財産上の損害を加えたとき」というのが第247条における構成要件といえる。このことからグリーンピアの事例では、事業を提案した公務員が利権を作ることや天下り先を作ろうとしたことが目的で年金積立金を利用したのかがポイントとなる。もし第247条にあてはまれば違法性が推定され、責任能力があり、加えて「自己若しくは第三者の利益を図り」との条文から故意であることが証明できれば完全に有責性は認められる。

 この事例において故意と言い切ることはできるのだろうか。故意であるには犯罪事実の認識があり、犯罪実現を目指したという「積極的内心事情」が必要だと学説では考えられている。犯罪事実の認識だけで足りるというのが認識説と言われ、「積極的内心事情」を必要とするのは意思説と呼ばれる。故意の認識説では、結果として犯罪が発生するかもしれないと思ったに過ぎなければ認識ある過失とされる。犯罪の発生に確実性があると考えていた場合は未必の故意であると考えられるのが蓋然性説である。故意の意思説では、犯罪発生の認識に加え犯罪発生を認容した場合に未必の故意が認められるとする認容説が存在し、他に動機説がある。この説では、犯罪発生の可能性が低い場合であってもそれを自分の行為の動機とすれば故意を認め、反対に犯罪発生の可能性を高いと考えていても自己の行為の動機としなければ故意が否定される。この中で近年有力であるのは三つめの動機説である。グリーンピアの事例に置き換えてみると企画実行した公務員が事業を行うことで自己の利益や第三者の利益を図ったという動機があったのかどうかが重要となる。動機があれば故意であるが、動機がなけば故意と言い切れない。

 故意であるかどうかに対してはほかにも錯誤について考慮しなければならない。錯誤は、事実の錯誤と違法性の錯誤に分けられる。事実の錯誤であれば、犯罪事実の認識が存在しないので故意が否定される。違法性の錯誤では、犯罪事実の認識はあるので故意であるが、自己の行為が法律的に正しいと誤信しているので違法性の認識が否定される。これをどう考えるかについては学説が分かれている。一つ目の厳格故意説では、違法性の意識がなければ故意とは判断されないとしている。二つ目の制限故意説では、違法性の意識がないことに過失があれば故意犯として処罰されるとする。三つめは、違法性の意識がなくとも故意は認められるとするのものだ。判例では、事実の認識があれば故意責任を問えると判断された。グリーンピアで錯誤があったとすれば採算が取れると考えていたが結果的に大きな赤字を出してしまったということがあげられるかもしれない。しかし、このような大きな勘違いは日本が少子高齢化社会で人口が減っていくことなどやきちんとした計算を行えば避けられたことのように思える。本当は損失を出してしまうということが分かっていながら行っていた場合は故意であり言い逃れはできない。過失であったならば第247条では罰することはできず責任を追及することができない。

 今の刑法では、故意であったときの公務員の背信行為しか罰することはできない。これは公務員がミスをしてしまったとき、たった一人に押し付けることができない点では良いことに思える。しかし、きちんとしていれば防げただろう損失をだしてしまっても罰することができなければ今後グリーンピアのような事例が起きてもまた責任追及されないまま終わってしまう。そうなれば、国民の国家に対する信頼は失墜してしまうし、今後増税されるであろう日本経済ではこんな不祥事を起こしてしまう国家に対して税金を払うのは嫌だという感情を引き起こしてしまうだろう。こうなれば完全に悪循環になり、公務員は少しのミスでもバッシングされるようになりますます信頼はなくなっていく。現状でも公務員への国民の信頼はあまり高いとは言えない。それならばいまのうちに不祥事が起きないように刑法の改正や公務員の仕組みの改造を行ったほうが日本国家のため、国民のためになると考えられる。

 

⑵国家ではなく国民の立場に沿った仕組みづくりをすべきだ。

    現代では国民が選挙で政治家や最高裁判所長官を選び、公務員は試験によって採用されている。このような仕組みを取っているのはごく最近のことで、国民が選挙権を持たなかった時代のほうが人間の歴史の中では長い。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは著書の中で支配には三類型あると述べた。伝統的支配、カリスマ的支配、合理的支配である。ウェーバーは、合理的支配の典型例として官僚制を挙げた。この官僚制に移行するまでに日本でも伝統的支配としての天皇制や藩政があった。日本以外でも、例えばカリスマ制支配としてナポレオンによる統治があげられるが先進国では近代化が進むにつれ官僚制に移行する国が出てきた。これは文化や国民の考え方が変化しよりよい生活を望む中で先人たちが勝ち取ってきたものである。また、官僚の行動が国民に害を与えないように、国家のための活動の中で公務員が大きな責任をひとりで負うことがないように行政手続法や国家賠償法が制定されている。

 ⑴で述べたグリーンピアのような公務員による国民の利益を損なった業務の中には国による賠償を認めた例もある。これは代位責任説という元々は公務員個人が負う責任を国が代位したとする考え方をもとに、国民に損害を与えた公務員の責任を代位し賠償したといえる。この考えは通説とされ、救済を重視した考え方で公務員の萎縮を防ぐものでもあるが、違法な職務行使を行った公務員の故意または過失を請求者の側が立証しなければならないという国民にとって大変な労力を求めるものでもある。これに対して、自己責任説も有力で、この説はもともと行政が行ったものは行政が責任も負うという考え方である。公務員がいわば機関として国または公共団体の職務を行ったに過ぎないと捉える。また、この考え方によると、違法な職務行使を行った公務員の故意または過失を、請求者の側が厳密に立証する必要はなくなる。自己責任説をとれば、国家に対する賠償を求める訴訟はやりやすくなるだろう。公務員の委縮を促してしまうかもしれないが、国家という大きな権力に国民が対抗するためにはできるだけ国民が裁判を起こしやすく、国家に抵抗できる仕組みを取ったほうがいいと考える。

 

⑶時代に沿った仕組みを模索するべきだ。

 赤字国債の額は年々増加しており、アベノミクスの効果も現状ではあまり感じられていない。政府に対する不信感や政治に対する無力感を感じる若者が増えている中で行政が大きな決断をして改革するしか道はないように思える。日本では自民党による長期政権が続き、政権が自民党以外に移ったとしてもそれまでの経験やノウハウがない党では自民党への揺り戻しが起こるのは目に見えている。国民の間には、政党を育てようという意思もなく悪循環になっている。もっと政党と行政、国民が関わる機会を増やしお互いがどのような状態であるのかを知らなければなにもはじまらない。義務教育の中で参政権や自治体について学び、今後ますます重要となっていくだろう社会保障についても知るべきだ。国民は自分たちの暮らしのために積極的に行政や政治家を監視していくべきであるし、官僚はただただ自分の地位や利益を求めるだけにならないように組織の仕組みを変える必要がある。利権を増やし、天下り先を確保するために税金を使っていることに違和感を感じなくなれば、いつの日か国家は破綻してしまう。

 ITの急速な進化によりこれまでできなかったことも可能となってきた。セキュリティを確保したネット投票も実現可能であると考えられるし、住民票の変更や婚姻届などいままで役所までいかなければ不可能だったこともネット環境があればできる時代にもなってきている。行政もそういった技術を活用し、時代に沿った仕組みを作ればもっとスリムな行政組織で済むのではないだろうか。自治体にはたくさんの支所がある。スリム化によって支所の数や公務員の数を削減できればその分財政への負担は減る。または他のもっと予算を必要とする分野に回せるようになる。いろんな改革を同時にやっていき、よりよい社会にしていくことが必要である。

 

 

 

参考文献

刑法1総論 町野朔・中森喜彦 有斐閣 2005/7/10

誰にでも分かる刑法総論 佐々木知子 立花書房 2011/4/1

官僚の責任 古賀茂明 PHP新書 2011/9/13

日本中枢の崩壊 古賀茂明 講談社文庫 2013/8/9

法律学小辞典 金子宏・新堂幸司・平井宜雄 有斐閣 2011/12/15

http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Weber%20Herschafts%20Kategorie.htm

橋本勤ホームページ 

http://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/condition/004.htm

財務省ホームページ

 

 

 

 

益元佑輔

<テーマ>

グリーンピアと未必の故意

<結論>

グリーンピアの問題は未必の故意ではなく認識ある過失である

<概要>

2004年、国会や新聞報道で、年金福祉還元事業(グリーンピア・年金福祉施設・年金住宅融資)の意義や実施経緯が問題になった。事業に関連した公益法人が厚生労働省(旧厚生省)及び社会保険庁の職員の天下り先となっており、国民はこれらの事業の必要性やあり方について疑いを持った。グリーンピアは、施設運営に係る収支状況が平成15年度 までの累計で約8億円の赤字となっていたことから、事業の損失や失敗の責任が問われ、責任の所在を明らかにすべきだと批判された。

未必の故意か認識ある過失か

グリーンピア問題で一番の争点になるのが未必の故意認識ある過失かである。なぜかというと故意が認められることで背任罪が適用される可能性が出てくるからだ。ここで未必の故意と認識ある過失について整理しておこう。動機説のように意思説の主観的側面と、蓋然性説の客観的側面を統合した見解をとると、故意と過失は行為者の認識が動機形成に与える影響を重視することになる。その結果として、未必の故意は「結果発生の蓋然性(客観面)を認識し、結局は結果が発生するだろう(主観面)と判断した場合」をいい、認識ある過失は「結果発生の蓋然性を認識し、結局は結果が発生しないだろうと判断した場合」をいうことになる。この事をふまえて未必の故意だった場合、認識ある過失だった場合でわけしてみよう

「未必の故意だった場合」

この場合どうなったら未必の故意が認められるのかを上の説明をかみ砕くと、未必の故意は確定的に犯罪を行おうとするのではないが、結果的に犯罪行為になってもかまわないと思って犯行に及ぶ際の容疑者の心理状態。殺人事件の場合、明確な殺意がなくても、相手が死ぬ危険性を認識していれば、故意として殺人罪が適用される。グリーンピアの事案で考えると、赤字になる可能性が予見できていてさらに赤字になっても構わないという思いでグリーンピアを造っていたならばこれは未必の故意になりうる。またグリーンピアは天下り先になっていたことを考えると背任罪が適用されるのではないか。条文より他人のためにその事務を処理する者が、自己若しくは第三者の利益を図り又は本人に損害を加える目的で、その任務に背く行為をし、本人に財産上の損害を加えたときに成立する。ここでいう本人は国民であろう。国民の年金積立金の運用は積立金を運用して年金備蓄を増やすことが任務なのに対して、その任務に背き自己の利益(天下り先を造ることでのパイプづくり)と天下り先という第三者の利益を図ったと言える。このことにより構成要件はクリアされる。次に違法性があったのかどうかである条文では「正当行為、法令または正当な業務による行為は罰しない」とある。確かに年金積立金を運用することは正当な業務に当たり罰することはできない。だがこの場合はただ単に年金積立金を運用していて赤字が出てしまった場合に過ぎず、天下り先作りが目的で本人の利益を害している今回の事例では適用されないと考える。また背任罪という存在を知らなかったとし、違法性の意識がなかったり法が違法としている行為を、違法でないと思いこんでいたり何も考えなかったような場合の違法性の錯誤であったりしても「故意、刑法383項、法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる。」とあるので罪に問うことができる。最後に有責性だが確実に14歳未満ではない。また心神喪失、心神耗弱は考えられるだろう。上司からのプレッシャーなどのストレスにより鬱状態であったなら心神耗弱程度は認められるかもしれないが、心神耗弱ならば無罪ではなく減軽となる。このことより未必の故意ならば犯罪が認められるであろう。最後に未必の故意の部分で天下り先としてグリーンピアを造ったのに赤字になっても構わないという心情で造るだろうか。なるべく長く存続させて長い期間天下り先の提供ができる算段をつけるものではないだろうか。天下り先は造るが黒字にはなるという計算だったのではないだろうか。

「認識ある過失の場合」

どのようになれば認識ある過失が認められるのか上の説明をかみ砕くと過失のうち行為者が、罪になるような結果の発生を認識しながらも、その発生を避けられるものと信じて行為し、結果を発生させた場合をいう。「子供に接触するかもしれない。でも、道路の幅がこれだけあれば、まさかそんなことはあるまい。」と思ったが子供に接触してしまったような場合である。これを今回の場合に当てはめると「赤字になってしまうかもしれない、だが〜だから、まさか赤字にはならないだろう」となる「〜」に入る部分を考察していきたい。

グリーンピアは、日本列島改造論を掲げる田中角栄内閣の計画のもとで厚生省(現・厚生労働省)が被保険者、年金受給者等のための保養施設として、旧年金福祉事業団(年金資金運用基金)が1980年から1988年にかけて13ヶ所設置したものである。グリーンピアができた1980年ごろは自動車・家電のハイテク産業を中心として欧米への輸出を伸ばし、特にアメリカとの間に日米貿易摩擦が激化するほど経済成長していた。1985年のプラザ合意より一転、円高不況となったが、円高不況克服のために低金利政策を採用したことにより過剰流動性が発生し、信用創造が膨らんで不動産、株価が上昇してバブル景気となり、世界第2位の経済大国となった。この経済背景からするとグリーンピアの重要は少なくないはずである。むしろ多いかもしれない。1960年以降確かに少子高齢化が進んでいたこと、

196065歳以上は全体の 5.7%、20歳以上65歳未満の人が9.5人で1人面倒を見ていた 197065歳以上は全体の7.1%、20歳以上65歳未満の人が8.5人で1 198065歳以上は全体の9.1%、20歳以上65歳未満の人が6.6人で1人面倒を見ていた」このことから徐々に年金体制に問題が出てきていたことは確かである。しかし1947の第一次ベビーブーム、1972年の第二次ベビーブームを考えると1995年ごろに第三次ベビーブームが起こってもなんら不思議はなかったのである。1980年には予想すらできなかっただろう。バブル崩壊というものが無ければ第三次ベビーブームは起こっていたかもしれない。このことを考えると。赤字になるかも知れないという可能性はあったかもしれないがその可能性よりさらに黒字の可能性の方が大きかったであろう。さらに付け加えるなら1991年のバブル崩壊前の1988年ごろに施設建造をやめていたのは正解だったこれらの要素をふまえて「赤字になる可能性あるかもしれないが、黒字の可能性の方が大」となり認識ある過失になるのではないだろうか。過失と判断されると罪刑法定主義(どのような行為が犯罪とされ,いかなる刑罰が科せられるか,犯罪と刑罰の具体的内容が事前の立法によって規定されていなければならないという刑法上の原則。)によって今現時点である法律でしか裁けない。今回の問題では過失で裁くことのできる法律はないので無罪となる。

<責任追及の行方>

責任追及、損害賠償などの問題となると個人に対してはあまりにも額が大きすぎて請求できないだろう。ここで出てくるのが国家賠償法である。「第1条、国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。 2項、前項の場合において、公務員に故意又は重大な過失があつたときは、国又は公共団体は、その公務員に対して求償権を有する。」とある。国家賠償責任の性質論加害行為者は公務員なのに、なぜ国や地方公共団体が責任を負うのだろうか。そこには代位責任説(通説・判例)国や公共団体などの行政が損害賠償責任を負うのは、公務員の不法行為を代位して負うからである。つまり、加害行為を行った公務員個人の不法行為責任がまず成立するが、その責任を国が公務員に代わって負うことになる。代位責任説は加害公務員の不法行為責任がまず成立しなくてはならないので加害公務員の特定が必要であるが、判例は加害公務員の所属する公共団体を特定する必要はあるが、加害公務員個人を特定することは要求していない。これは官僚制の悪い部分を促進していくものになるのではないか。匿名性がり、何をやってもとは言い過ぎかもしれないがある程度は国が庇ってくれるとなると、さらに官僚が強くなりすぎるのではないか。

<年金運用失敗不安要素>

年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が運用している年金積立金は120兆円にも及ぶ。日本の公的年金制度は、基本的には、サラリーマン、自営業者などの現役世代が保険料を支払い、その保険料で高齢者世代に年金を給付するという「世代間扶養」の仕組みとなっている。つまり、現在働いている世代の人達が受け取る年金は、その子ども達の世代が負担することになる。しかしながら、日本は、少子高齢化が急激に進んでいて、現在働いている世代の人達の保険料のみで年金を給付すると、将来世代の負担が大きくなってしまう。そこで、保険料のうち年金の支払い等に充てられなかったものを年金積立金として積み立てている。この積立金を市場で運用し、その運用収入を年金給付に活用することによって、将来世代の保険料負担が大きくならないようにしている。つまり現在の120兆円余りの年金積立金は、賦課方式制度の下での少子高齢化に対応するための一種の補完であるということになる。もっとも、それでも現行の積立残高は予想される少子高齢化による年金の負担と給付の世代間格差を相殺するには十分でなく、後世代ほど負担増・給付減にならざるを得ないことは繰り返し指摘されている通りだ。現行の積立金額では不足であることはともかく、積立金は本当に世代間の負担と給付格差の補完になるのだろうか?GPIFのサイトで示されている本欄掲載図の通り、積立金の60%は日本政府の国債で運用されているからだ。自分個人や一企業の年金ならば現在の余剰金を国債に投じて積立て、将来取り崩すことは何の問題もない。 しかし一国の公的年金もそれでよいと考えるのは一種の合成の誤謬ではなかろうか。将来の国債の償還コストは誰が払うのか。それは将来の現役世代が税金で負担するしかないだろう。とすると、積立金なしの完全な賦課方式で将来の引退世代の給付金を将来の現役世代が全部負担するのも、積立金を国債で運用してそれを将来の引退世代の給付金の支払いにあてるのも、将来の現役世代が負担するという点では同じではないか。違うのは将来の現役世代の負担の仕方が、年金資金の徴収の形をとるか、国債償還のための増税の形をとるかというだけだ。従って国債(赤字国債)で運用されている積立金部分は、世代間格差の補完としては何の役にもたたないのだ。そう結論するのが論理的ではなかろうか。つまり金庫はカラということだ。このような問題が生じるのは、政府の赤字国債には何の資産サイドの裏付けもないからだ。ここで言っているのは赤字国債のことであるが、企業の株式や社債と異なって、政府の赤字国債には付加価値を生み出す何の資産サイドの見合いもない。返済原資は将来の現役世代の納税(増税)だけだ。「金庫がカラ」である問題を回避する方法はある。年金積立金の運用を内外の民間企業の株式、社債、並びに外国の政府債に限定することだ。民間企業の社債、株式ならば付加価値を生み出す資産の見合いに発行されるので(倒産する企業を除けば)、株式や社債の増加に見合って付加価値の供給を担う資産の増加が起こる。外国政府の債券ならば、その将来の返済原資は将来の外国の納税者のおさめる税金だ。したがって、こうした運用ならば日本国全体として考えても金庫はカラではなくなる。

 

参考資料

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E7%9A%84%E5%B9%B4%E9%87%91%E6%B5%81%E7%94%A8%E5%95%8F%E9%A1%8C

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%95%E6%B3%95%E6%80%A7%E3%81%AE%E6%84%8F%E8%AD%98

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%8C%E4%BB%BB%E7%BD%AA

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%BD%93%E8%A1%8C%E7%82%BA

http://libir.soka.ac.jp/dspace/bitstream/10911/2138/1/KJ00004862301.pdf#search='%E9%81%95%E6%B3%95%E6%80%A7%E3%81%AE%E9%8C%AF%E8%AA%A4'

http://www.nenkin.go.jp/n/www/service/detail.jsp?id=882

http://www.gpif.go.jp/operation/highlight.html#tab_02

http://www.nenkin.go.jp/n/www/sic/pdf/201411/02_setumei.pdf#search='%E5%B9%B4%E9%87%91%E7%A9%8D%E7%AB%8B%E9%87%91+%E9%81%8B%E7%94%A8+%E7%89%B9%E4%BE%8B%E5%9B%BD%E5%82%B5'

 

 

 

 

鍋倉聖悟

「グリーンピアと未必の故意」

結論:現行法では裁くことができないため、法改正をし責任者を背任罪で罰するべきである。

 

 

〜@日本の現行刑法〜
現在、日本で人を罰するには三つの構成要件を満たさなければならない。
最初に構成要件について見ていくことにする。
刑法は一定の行為を犯罪として定め、これを行った者に一定の刑罰を科すことを定めるものである。
そして、刑罰を科される行為とは、違法かつ有責である行為と考えられている。
ただ、どのような行為にどのような刑罰が科されるかについて、
例えば「悪いことをした者には相応の刑罰を加える」などと定めた場合、
どのような行為をするとどのような刑罰が科されるのかがわからず、
法律で定めたもののみを罰するという罪刑法定主義にも反し、自由主義的要請も民主主義的要請にも応えることができないこととなってしまう。

そこで、どのような行為にどのような刑罰が科されるかについて、刑罰の対象となるような行為を類型化したものが構成要件であり、
構成要件に該当することで、その効果として科される刑罰が導かれることとなる。
逆にいえば、構成要件に該当しない限りその行為は処罰されないのであって、犯罪行為の判断においては、構成要件該当性、違法性、責任の順で判断が下される。


また、上記で出てきた罪刑法定主義には批判も当然存在する。
従来の法律が想定していた可能性を超えた態様の悪意のある事件が発生した場合に、法律規定から処罰が難しかったり刑罰に上限が出来てしまい、
悪質だが処罰が難しかったり厳罰にすることができない、という点についてこれを柔軟に処罰することができなくなってしまうからだ。
これに対し、罪刑法定主義という観念を有しない伝統的な英米法の法域では、後述のとおり行為時に成文法で禁止されておらず、
判例上も犯罪として認知されていなかった行為が、裁判の結果としてコモン・ロー上の犯罪として処罰されることがあり得る。
その意味で、コモン・ロー上の犯罪には、弾力性がある。

 


〜A刑法における過失、故意〜
日本の刑法では「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。」(381項)として、
過失犯(過失を成立要件とする犯罪)の処罰は法律に以下のような「特別の規定」があるときにのみ例外的に行うとされている。
・過失傷害罪(209条)・過失致死罪(210条) - 注意を怠り人を死傷させた者。過失傷害罪は親告罪である。
・業務上過失致死傷罪(2111項) - 業務上必要な注意を怠り人を死傷させた者。
・失火罪(116条)
・過失激発物破裂罪(1172項)
・業務上失火等罪(117条の2
・過失建造物等浸害罪(122条)
・過失往来危険罪・業務上過失往来危険罪(129条)

つまり、故意がなければ上記のいずれかに該当しない限り罰することができないのだ。
ここで刑法における故意について論じていきたい。

刑法における故意の意義については、認識的要素 ( Wissenselement ) 以外に意思的要素 ( Wollenselement ) を含むかどうかについて、
「意思説」と「表象説」の対立があり、さらに折衷的な「動機説」も唱えられている。
通説とされるのは、認識・予見に加えて少なくとも消極的認容という意思的要素を要求する「認容説」であり、
下級審裁判例でもしばしば認容説が採られている。
また、認識的要素についても、どの範囲の事実を認識することを要するかについては争いがある。
日本の判例・通説によれば、「構成要件該当事実の認識及び違法性阻却事由該当事実の不認識」を要するものと解されているが、この中でも細かい対立がある。
行為者の認識と、現実に存在し発生したところとの間に、不一致が生じている場合は錯誤とされ、錯誤論が議論される。
通説では、構成要件要素である構成要件的故意と、非構成要件要素で責任要素である責任故意に分けて議論される。

構成要件的故意 ( Tatbestandsvorsatz ) とは、客観的構成要件該当事実に対する認識を前提とするものであり、主観的構成要件要素である。
規範的構成要件要素について、どの程度の認識が要求されるかについては、争いがある。
構成要件該当事実についての意味の認識(素人領域において反対動機の形成が可能な程度の事実認識)があることを要し、かつそれで足りる、とする説が有力である。

責任故意 ( Schuldvorsatz )とは、構成要件的故意以外の故意の要素である。
違法性に関する事実の認識(違法性阻却事由の不認識)があることを要するが、違法性の意識又はその可能性が故意の要素かについては争いがある。
学説は、違法性の意識(又はその可能性)を、故意の要素 ( Vorsatzmerkmal ) として位置づける見解「故意説」と責任の要件 ( Schuldmerkmal ) に位置づける見解「責任説」に大別される。
故意説は、違法性の意識を故意の要素とする「厳格故意説」と違法性の意識の可能性を故意の要素とする「制限故意説」に分かれる。
 
一方、責任説は、違法性の意識の可能性を、故意犯及び過失犯に共通の責任要素とするものであるが、それはさらに、違法性阻却事由該当事実の誤信について故意の阻却を否定し、
違法性の錯誤として、違法性の意識の可能性の有無を基準に責任の有無を決する「厳格責任説」と違法性阻却事由該当事実の誤信について故意の阻却を肯定する「制限責任説」に分かれる。

次に、認識ある過失と未必の故意について解説していく。
いかなる場合に故意が認められ、また、過失が認められるかの限界の問題として、「未必の故意(Eventualvorsatzdolus eventualis)」と「認識ある過失bewusste Fahrlassigkeitluxuria)」の問題がある。
未必の故意は故意の下限とされ、認識有る過失は過失の上限となると言われている。
故意犯は原則的に処罰されるのに対して、過失犯は特に過失犯の規定がないかぎり処罰されないことから、故意と過失の区別は刑法上の重要な問題のひとつである。
この問題については、故意概念についての意思説と表象説の対立を反映して、認容説と認識説の対立が存在する。
認容説によると、未必の故意とは、犯罪結果の実現は不確実だが、それが実現されるかもしれないことを表象し、かつ、実現されることを認容した場合をいう。
この説では、結果の実現を表象していたにとどまり、その結果を認容していない場合が、認識ある過失となる。
つまり、故意と過失は認容の有無によって区別されるとするのである。
認識説は、認容という意思的態度は要求しない。認識説の中の蓋然性説によると、結果発生の蓋然性が高いと認識した場合が未必の故意となり、単に結果発生の可能性を認識した場合は認識ある過失となる。

 


〜Bグリーンピアの公的年金流用問題〜
さて、これらの日本の刑法事情を用いてグリーンピアの公的年金流用問題を見てみることにする。

グリーンピア事業は、1970年代前半、田中角栄首相の「日本列島改造論」が一世を風靡していた時に、厚生省が立てた計画だ。
つまり「列島改造」に厚生省が乗って作り上げたものである。
全国13カ所に大規模保養施設を建設して、年金加入者に提供するという、大規模な官によるリゾート開発そのものだった。
グリーンピアは年金を運用する組織である年金資金運用基金(2001年に旧年金福祉事業団が改組)が行っていた。
まず、この組織自体が、年金官僚の天下り先であるということに注意する必要がある。
つまり、先ほどの目的の「運用に携わる職員人件費や諸経費」というところに、ちゃっかり天下り先の人件費を押し込んでいるわけだ。
年金福祉事業団は年金の積立金の1/4にあたる359000億円もの資金を使って、「年金加入者の福祉向上に直接役立つ福祉業務」を行ってきた。
そのうちの一つが「年金加入者の福祉向上に直接役立つ保養施設の建設」である。これがグリーンピア事業だ。
ところがこの施設、赤字経営が続き、税金の無駄遣いと散々批判を浴びた結果、2005年度末までに全廃することが2001年に閣議決定された。
建設費用は総額3,730億円で、売却総額はたったの48億円。
そしてグリーンピアの赤字を隠すために他の事業から資金を集め、財政が足りなくなってしまったため、赤字国債を発行する結果に至った。
にもかかわらず、厚労省は利用者に喜んでもらえたなどとして「ムダ遣い」を認めておらず、そればかりか、経営破綻と巨額損失に対し、歴代の高官の誰一人責任を取っていない。


ここで今回の問題を起こす引き金を引いた官僚について説明する。
「官僚」の語は、語義的には「役人」と同義語であるが、一定以上の高位の者ないしは高位になり得る者に限定して用いられることが多い。
ヘーゲルによる定義では、国家への奉仕かつ私有財産の配慮を行う者の総称となっている。
歴史学、人類学的には、国家の公共事業(治水、灌漑)の拡大とともに、官僚機構が生まれたとされている。
最初に官僚機構が発展したのはエジプトで、官僚 たちはファラオの奴隷だった。
官僚には、文官(いわゆる行政官)と武官の2つがある(※なお、現行の日本国憲法下では「武官」は現役の自衛隊員に相当すると解されているが、明記されてはいない)。
また行政官には事務官と技官の2種類が存在する。
武官は、各国軍部の大学校卒業者を幹部候補生とする国が多い。
官僚制度(官僚制)は、ピラミッド型に整理された、権限の分担とその指揮系統に関する官僚の階層構造を意味する。
これは統治構造の一種であり組織は問わないが、歴史的に政治統治組織が起源であるため「官僚制」と呼ばれることとなった。
総労働者数に占める官僚、公務員の数の割合は、ノルウェーやスウェーデンでは約40%、デンマークやフィンランドでは約30%と北欧諸国での高さが際立ち、
またカナダやドイツ、イギリス、オーストラリアなどの国々も労働人口のおよそ20%が公務員である。
それに対して日本は10%を下回り、これはOECD加盟国における調査対象の15カ国のうち最低の数字である。
その一方で日本の官僚、公務員の一人当たり賃金・人件費は、OECD加盟国調査対象の15ヶ国中で最高額となっている。
日本における「官僚」とは、最も広い意味では試験に合格して採用された公務員全般を指すが、狭義的には国の行政機関に所属する国家公務員の中でも、特に中央省庁の課室長 級以上(これらの職級は任用上も特殊な扱いとなる[1])を指す。
また「高級官僚」は、国の行政機関に所属する国家公務員の中でも、特に中央省庁の指定職以上の地位にある者を指すことが一般的である。官僚という用語は法律で規定されている訳ではなく、公的なものを含めて明確な定義は存在しない。
日常会話において「官僚」と言う場合、霞ヶ関の中央省庁で政策に携わる公務員を漠然と指すことが多い。
大臣や副大臣、大臣政務官は上級の公務員であるものの、選挙で選出された政治家(国会議員)であるため官僚にあたらない。
地方公務員は通常、官僚とは呼ばれないが、大規模自治体の幹部職員に対して「都庁官僚」のように比喩的に使われることがある。
「官僚」「官吏」の語源である が、「官」は上級公務員を意味し、「僚」「吏」は下級公務員や、官に雇われている者を意味し、これらの総称で「官僚」「官吏」となった。

 


〜C各法の適用の有無〜

では、どのような法を用いたら彼らを処罰できるのか?

最初に国家賠償法から見ていくことにしよう。
まず加害者は公務員であるのに、なぜ国や地方公共団体が責任を負うのだろうか?という点から説明していきたい。
ここで代位責任説と自己責任説といったものが出てくるので、各々紹介していく。

代位責任説(通説・判例)・・・国や公共団体などの行政が損害賠償責任を負うのは、公務員の不法行為を代位して負うからである。
→つまり、加害行為を行った公務員個人の不法行為責任がまず成立するが、その責任を国が公務員に代わって負うことになる。

自己責任説・・・行政活動はそれ自体市民に被害を発生させる危険性を孕(はら)んだ活動であり、いったんその危険が現実のものとなり市民に損害が発生したときには、国や公共団体は自己の責任として損害賠償責任を負うという考え方。
→公務員個人の責任を前提とすることなく、ストレートに国や公共団体の責任を導く考え。

次に、彼らを裁ける余地がある条文として国家賠償法1条2項があげられる。
国家 賠償法1条2項では「公務員に故意または重過失があった場合に限り、国または公共団体は、その公務員に対し求償権を有する。」としている。
なお、軽過失の場合は通常の不法行為と異なり使用者(国等)が求償できない。
これは、公務員に過大な責任を負わせることは、職務遂行に当たり公務員が莫大な損害賠償責任をおそれることによる萎縮効果が生じないようするために、公務員の責任を軽減したものである。
結論としては故意又は過失(重過失)はなかったとされ、国家賠償法で裁くことはできないとされている。

 

☆だがここで本当に今回のことは重過失と言えなかったのであろうか?という疑問が残る。
確かに当時はバブル真っ只中で経済的にも余裕があった時期のため、将来赤字になるなんてことは予期していなかったのかもしれない。
それでも本来、国民の積み立て金は将来国民に償還すべきものであって、国家の金儲けに使用されるべきではない。
ましてや今回のような巨額の資金を用いたハイリスク、ハイリターンな事業は慎むべきであるはずだ。そこに重過失があると私は考える。


次に刑法の視点から考えてみることにする。
代表的な条文をあげるとしたら、247条の「背任罪」だろう。
背任罪は、他人 のためにその事務を処理する者が、自己若しくは第三者の利益を図り又は本人に損害を加える目的で、その任務に背く行為をし、本人に財産上の損害を加えたときに成立し、
この犯罪を犯した者は五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処せられるもの、とされている。
ここで着目すべき場所は「背任罪」は国賠法と違い、過失の有無は問われておらず、故意の存在のみを論点としている。
結論としては、損害を加える目的(故意)はなかったとされ、背任罪は適用されないとした。

 

 


〜まとめ〜
☆私個人としてはどうしても彼らの行為を許すことはできなかったが、故意や重過失が認められない以上、刑法や国賠法で裁くことは現状不可能である。
ここで、日本は罪刑法定主義を盾にしすぎているのではないか?という考えが生まれた。
@でも述べたように、罪刑法定主義には大きな穴があり、今回のような非常に悪質な問題が起きても、条文にそぐわない限り罰することはできない、という点だ。
そもそも刑法とは何のために存在するのか?
これに対しては様々な説があるが、犯罪者を罰し、犯罪の予防をした上で社会の秩序を守るために存在しているのだと私は考える。
人や人が作った社会は日々変化しており、とても一つの檻(ここでは罪刑法定主義のことを指す)に収まりきるものではない。
それなのに罪刑法定主義を主張しすぎるが故に本当の意味で社会に悪影響を与えている人達を裁くことができないことに、非常に憤りを感じる。
現に犯行発生当時に従来の法律が想定していなかったような態様の事件として争われたものもいくつかある。

を全面否定するわけではないが、今回のようなあまりにも大きな問題、難しい問題に関しては狭い檻にとらわれず、
その都度その時代に応じた判断を下していくべきではないか、と私は考える。

 

 

 

参考文献
「構成要件 - ウィキバーシティ」http://ja.wikiversity.org/wiki/%E6%A7%8B%E6%88%90%E8%A6%81%E4%BB%B6
「罪刑法定主義 - Wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BD%AA%E5%88%91%E6%B3%95%E5%AE%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9
「過失犯 - Wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%A4%B1%E7%8A%AF
「故意 - Wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%85%E6%84%8F
「グリーンピア事業に見るその手口 - nikkei BPnethttp://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/bookreview/36/index6.html
「グリーンピア13基地をすべて売却 - NAGURICOM [殴り込む]/北沢栄」http://www.the-naguri.com/kita/kita_side_b09.html
「官僚 - Wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E5%83%9A
「国家賠償 - Yahoo!ジオシティーズ」http://www.geocities.jp/mwqyw640/houritukenkyuu/gyouseihou/kokkabaisyou.html

 

 

 

 

安樂浩一朗

グリーンピアと未必の故意

12J121008 安樂浩一朗

 

1、結論

私は、年金福祉事業団が各地に設けた保養施設の経営が悪化し大損害が生じた所謂グリーンピア事業に関して未必の故意を適用できないと考える。

 

2、理由

以下の説明によって理由を考察していく

@     グリーンピア事業とは

A     グリーンピア事業の問題点

B     責任阻却事由をかんがえる。

C     未必の故意との関連性。

D     国家賠償と代位責任という考え方

E     まとめ

 

@グリーンピアとは?

冒頭にも少し説明したが、日本列島改造論を掲げる田中角栄内閣の計画のもとで厚生省(現・厚生労働省)が被保険者、年金受給者等のための保養施設として、旧年金福祉事業団(年金資金運用基金)が1980年から1988年にかけて13ヶ所設置したが、2005年度までに廃止することが200112月に閣議決定された。公的施設として引き続き活用されるように地方公共団体等への譲渡を進め、200512月にすべてのグリーンピアの譲渡が完了した。年金保険料1,953億円を投じたグリーンピアの売却総額は、わずか約48億円であった。

なぜ、リゾート施設の開発を始めたかというと、厚生年金保険及び国民年金等の受給者が、生きがいある有意義な老後生活を送るための場を提供するとともに、これら年金制度の加入者及びその家族等の有効な余暇利用に資すること等を目的としていた。そして、年金資金運用基金(旧厚生省所管の特殊法人年金福祉事業団)が、旧大蔵省資金運用部から貸付けを受けて設置し、地方自治体等に委託して運営していた。

そもそも、なぜ開発が可能になったのか、それは、196110月に成立した年金福祉事業団法で年金の被保険者らの「福祉の増進に必要な施設の設置又は整備を促進する」とし、建設が可能になったわけである。

 

Aグリーンピア事業の問題点。

この問題点とは、計画性なく無駄に資金を投入し、元来不安定な年金システムに更なる打撃を与える事になり、グリーンピア自体も当然のごとく経営不振になったことにより、200112月の特殊法人等整理合理化計画(閣議決定)において、「2005年度までに廃止、特に赤字施設についてはできるだけ早期に廃止する」とされた。また、事業に関連した公益法人が厚生労働省(旧厚生省)及び社会保険庁の職員の天下り先となっており、国民はこれらの事業の必要性やあり方について疑いを持った。

グリーンピアは、施設運営に係る収支状況が平成15年度 までの累計で約8億円の赤字となっていたことから、事業の損失や失敗の責任が問われ、責任の所在を明らかにすべきだと批判された。更に、13ヶ所の内、7ヶ所が1988年までの歴代厚生大臣の地元であったことなどから、建設利権も指摘されている。

この惨事を引き起こしたのが政治家か厚生労働省の役人に裁きを与えないとまたこういう事態が起こるのではないかといわれているが彼らを裁く手段は存在するのだろうか。結果として、大損害になってしまったわけだが時代背景を見ても1980年代後半といえばバブル全盛期であり、地価がとんでもないくらい膨れ上がっていた時代でもあった。その中で年金を元手にして収益を出せれば年金額が大幅に増加する。また、利益が増えれば赤字国債を賄える可能性もあったわけであり、時代にあったやり方で増額を目指したこの政策は時代的には理にかなっていたのではないかと私は考える。しかし使うお金が国民の年金でありまた、失敗したときの対策も練っていないのは日本国の未来を考える政治家や官僚のすることではない。いかに、好景気だとしても浮かれすぎであり自分の利益のことしか考えていないのは残念である。私は、これを官僚制の悪い一面であると考える。

 

B責任阻却事由

責任阻却事由として、責任無能力・限定責任能力の場合以外に、心理的要素である責任故意または、責任過失の不存在の場合と、規範的要素である、@)違法性の認識の可能性および期待可能性の不存在の場合がある。ここでは、@)違法性の認識の可能性を基に考えていく。

@)違法性の認識の可能性の不存在

事実認識が完成している場合には、法律は、違法性の意識およびそれに基づく違法行為の阻止を期待できるのであり、にもかかわらず、違法性の意識がなかった場合が@))違法性の錯誤である。これに対して、事実認識が完成していない場合には、法律は、違法性の意識の喚起が可能になるよう犯罪事実の認識を完成させるべきという期待でしかできないのであり、この場合がA))事実の錯誤である。

  A))事実の錯誤:刑法的評価の対象となる事実に関する錯誤

  @))違法性の錯誤:刑法的評価の基準となる規範に関する錯誤

 

今回の、グリーンピア事業を事案に考えてみると、たとえば、事業で使用する資金が国民の『年金』であるという事実を認識している場合には、一般人なら「他人のお金を使うことは良くない」という意識が喚起され行為を思いとどまる。これがたとえば、国の利益を考える政治家や官僚であった場合、損害が出るかもしれないと理解しつつ事業に投資することが国民のためと思いおこなった場合には、考え方にもよるが違法性の意識がなかったということで違法性の錯誤となる。それを、どう処理していくかが問題になる。

このグリーンピアの事案では、「他人のため(国民のため)にその事務を処理する者(特殊法人年金福祉事業団)が、自己若しくは第三者の利益を図り又は本人に損害を加える目的で、その任務に背く行為をし、本人に財産上の損害を加えたときは、5年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。」とする、刑法第247(背任)が一番合理的であると考える。しかし、違法性の錯誤が生じている場合だと過失の背任となってしまう。それでは、条文の主旨である「自己若しくは第三者の利益を図り又は本人に危害を加える目的で」に反するため法律が成立しない。適用する条文がないと罪刑法定主義を採用する我が国では彼ら(政治家や官僚)を裁くことはできない。ではどうすればよいか、次は未必の故意と認識ある過失について考えてみる。

 

C未必の故意と認識のある過失

@)故意とは何か。

「罪を犯す意思」が故意であるが、故意とは何かについて定義規定はなく、もっぱら理論にゆだねられている。  

故意とは、通説では、構成要件要素である@構成要件的故意と、非構成要件要素で責任要素であるA責任故意に分けて議論される。

 

@構成要件的故意とは、客観的構成要件該当事実に対する認識を前提とするものであり、主観的構成要件要素である。規範的構成要件要素について、どの程度の認識が要求されるかについては、争いがある。構成要件該当事実についての意味の認識(素人領域において反対動機の形成が可能な程度の事実認識)があることを要し、かつそれで足りる、とする説が有力である。

 

A責任故意は、構成要件的故意以外の故意の要素である。違法性の認識(違法性阻却事由の不認識)があることを要するが、違法性の意識又はその可能性が故意の要素かについては争いがあるが、違法性に関する事実の表象が責任故意の要件であることは、判例・通説である。

 

A)未必の故意と認識ある過失

いかなる場合に故意が認められ、また、過失が認められるかの限界の問題として、「未必の故意」と『認識ある過失』がある。未必の故意は故意の下限とされ、認識有る過失は過失の上限となると言われている。説と表象説の対立を反映して、@))認容説とA))認識説の対立が存在する。また、故意の本質は犯罪事実を認識しつつもあえてその内容を認識する意思にあるというB))動機説もある。

 

@))認容説とは、未必の故意とは、犯罪結果の実現は不確実だが、それが実現されるかもしれないことを表象し、かつ、実現されることを認容した場合をいう。この説では、結果の実現を表象していたにとどまり、その結果を認容していない場合が、認識ある過失となる。つまり、故意と過失は認容の有無によって区別されるとするのである。

 

A))認識説とは、認容という意思的態度は要求しない。認識説の中の蓋然性説によると、結果発生の蓋然性が高いと認識した場合が未必の故意となり単に結果発生の可能性を認識した場合は認識ある過失となる。

 

B))動機説は、その内容は認識説に近いものや認容説に近いものなどさまざまである。この中のある見解は、犯罪事実を認識しつつこれを犯罪の実行を思いとどまる反対動機としなかった場合に故意があるとする立場をとる。また、ある見解は、犯罪事実の認識から行為意思(行為動機)を形成し現実の実行行為に出た場合に故意があるものとする。

 

要約すると、

未必の故意は「結果発生の蓋然性(客観面)を認識し、結局は結果が発生するだろう(主観面)と判断した場合」をいい、

認識ある過失は『結果発生の蓋然性を認識し、結局は結果が発生しないだろうと判断した場合』をいう。

 

今回の事案で考えてみると、未必の故意で裁けそうな気もするが、これを肯定するといくらでも拡大解釈により違法になる行為が続出してしまうためやはり、未必の故意での起訴も難しいと考える。だいいち、起訴しようとしても誰が関与したのか分からない不透明な官僚制では起訴する人物を特定するのは不可能であると考える。では、国に責任をとってもらう方法はどうだろうか。次は国家賠償に関して考えていく。

 

D国家賠償と代位責任という考え方

 国家賠償法は国・地方公共団体が損害賠償責任を負う2つのパターンを規定しているが、そのうち1つ目が@)国家賠償法1条に規定する「公務員の不法行為」パターンである。

 @)国家賠償法1条

  1項:国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。

  2項:前項の場合において、公務員に故意又は重大な過失があつたときは、国又は公共団体は、その公務員に対して求償権を有する。

 基本構造としては、「公権力の行使」にあたる「公務員」が、その「職務を行うについて」、「故意又は過失により」「違法に」他人に危害を加えた場合には、その「公務員」を任用する国又は地方公共団体は、被害者に対する損害賠償責任を負う。すなわち、これは公務員の「公権力の行使」に当たる行為が民法709条の要件を満たす一般不法行為に該当し、かつこれが「職務を行うについて」なされたものであれば国・地方公共団体が被害者に対して損害賠償責任を負うというものである。

 これは、公務員が加害行為をした場合に、公務員自身が負う責任を、国等が代位しているとする考え。(代位責任説)に則り国・地方公共団体の責任の性質とされる。これは通説とされている。

 代位責任説を採る理由は、@「公権力の行使」を行う公務員自身が責任を負うことになれば公務員が萎縮し公権力行使を円滑に実施できないため、国家賠償法1条は本来公務員自身が負う責任を国・地方公共団体が代わって負うことを定めたと解するのが妥当である。A使用者である国の選任監督責任に触れていないのは、任用する国・地方公共団体が本来的には責任を負わないことを前提にしている。Bこのように解することによって、故意又は重大な過失ある場合のみ公務員が求償義務を負うことの説明がつく。

以上の理由により代位責任説により国家賠償法1条が運用されている。では、こんかいのグリーンピアの事案で考えてみると、「公権力の行使」にあたる「公務員」が、その「職務を行うについて」、までは事案に合致しているが「故意又は過失により」「違法に」他人に危害を加えた場合、の部分で未必の故意や、違法性の錯誤の壁にぶつかってしまう。また、これを重大な損害を与えた今回の事案だけ処罰の対称にしたらこれからの日本を考えていく官僚たちは革新的な政策やいまだどの国にもチャレンジしたことのない制度などを実施しなくなるなど日本の成長を損なってしまう可能性が大いにあるため国家賠償法1条も適用できないと考える。

 

Eまとめ

今回は、グリーンピア事業という結果的に公的年金流用問題となってしまった事案を考察してきたが、今回の件でも国の利益や国民のためと思って政策を実施している政治家や官僚が大半であると思う。「もしかしたら成功するかもしれない」その可能性を法律で裁くのは間違っている私はおもう。憲法でも保障している国民主権や様々な困難から勝ち取った民主主義という考え方、これから今回のような事案を発生させていかないようにするためには国民全員が第三者機関や監視役としてこれから新しく審議される政策に注目していくべきだと考える。今年は参院選も控えている政治家や官僚任せにしないためにも多くの国民の選挙という意思表示が大切になると思う。私は、ちょうど去年の今頃、アベノミクスは成功すると考えレポートを書いた。1年たった今でも自分の結論に変わりはない未来のために今何をするべきか常に考えて政治にも目を向けて「他人任せ」を卒業しよう。

 

【参考文献】

l  グリーンピアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%94%E3%82%A2

l  公的年金流用問題:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E7%9A%84%E5%B9%B4%E9%87%91%E6%B5%81%E7%94%A8%E5%95%8F%E9%A1%8C#.E7.A9.8D.E7.AB.8B.E9.87.91.E3.81.AE.E9.81.8B.E7.94.A8

l  グリーンピア破綻の責任は(日本共産党)http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-05-30/15_01.html

l  責任主義:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9#.E8.B2.AC.E4.BB.BB.E9.98.BB.E5.8D.B4.E4.BA.8B.E7.94.B1

l  年金福祉事業団法()http://www.houko.com/00/01/S36/180.HTM

l  故意:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%85%E6%84%8F#.E6.A7.8B.E6.88.90.E8.A6.81.E4.BB.B6.E7.9A.84.E6.95.85.E6.84.8F

l  故意論:http://ja.wikibooks.org/wiki/%E6%95%85%E6%84%8F%E8%AB%96

l  錯誤(刑法)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%AF%E8%AA%A4_(%E5%88%91%E6%B3%95)#.E6.B3.95.E5.BE.8B.E3.81.AE.E9.8C.AF.E8.AA.A4.EF.BC.88.E9.81.95.E6.B3.95.E6.80.A7.E3.81.AE.E9.8C.AF.E8.AA.A4.EF.BC.89

l  背任罪:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%8C%E4%BB%BB%E7%BD%AA#.E8.83.8C.E4.BB.BB.E7.BD.AA.E3.81.AE.E6.9C.AC.E8.B3.AA

l  国家賠償法:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E8%B3%A0%E5%84%9F%E6%B3%95

l  高橋則夫():刑法総論(成文堂)

l  高橋則夫():刑法各論(成文堂)

l  塩野宏():行政法U(有斐閣)

l  田中二郎():行政法中巻(弘文堂)

l  芝池義一():行政救済法講義(有斐閣)