佐々木豪海
交通事故に関して、加害者をもっと強く罰せる傾向にすべきだと思う。
1.京都府亀岡市で起きた18歳の少年による事件の判決に納得いかない点について
近年、交通事故によって負傷者が出ることが後を絶たない。仕事中に誤って人をはねたりするケース(法律でいう業務上過失致死傷罪)、危ない運転をし、人を負傷させるケース(自動車運転過失致死傷罪)、それ以上に危ない運転をして負傷させるケース(危険運転致死傷罪)などがある。事故内容の追究をし、裁判所が最終的に罪名を決める。ごく一般的な流れである。前置きはここまでにする。
さて、みなさんは京都府亀岡市で起きた、18歳の少年が無免許運転で車を運転し、小学生ら10人を死傷させた事件を覚えているだろうか。この事件は2012年4月23日の朝8時前の通学時間帯に起きたもので、結果として付き添いで居た26歳の女性と女児2名、合わせて3名が亡くなり、7人が重軽傷を負った。最初、少年は自動車運転過失致死傷罪の現行犯として逮捕されたが、免許の取得はなく当該事故が起きる前日から累計して30時間以上続けて運転しており、事故当時はほぼ居眠り運転をしていたということが判明している。少年事件は普通、家庭裁判所に事件が送られ、その後少年鑑別所というところで今後の更生について考え、その後保護観察処分や、少年院送致になったりするのが基本だが、刑事処分として検察に逆送致された。このことから遺族側が「危険運転致死傷罪」の適用を求め、22万の署名を集めて、京都地検に出していた。その後、捜査が慎重に行われていたものの、免許なしではあったが、運転技量はしっかりあったと判断され、危険運転致死罪の適用はなく、最終的に自動車運転過失致死傷罪として起訴された。このニュースは私も前から見ており、個人的にも危険運転致死傷罪で判決が下るものだと思っていたが、実際はそれとは異なる判決になった。何故、この罪名にこだわるか。いくつかの考えがある。
まず、死傷者を大勢出しておきながら、誰も危険だと考えることはしなかったのだろうか。免許を持っていないが、運転の技量があったからという理由で罪の内容を軽くしてもいいのだろうか。そのような疑問を持った方はおそらく多くいるはずである。少年だから罪を軽くして今後の更生を期待するような判決にした、という風に捉えられる気がしてならない。検察に逆送までして裁判を開くまでになっているのだから、言い方を変えれば成人した大人と同じように処罰が下すことができる、ということになる。
次に、判決で出されている自動車運転過失致死傷罪であるが、過失で罰するのであれば、ここにも疑問点が出てくる。そもそも過失というのはうっかりしてやってしまった、のような、故意(わざとやった)とは違う表現、意味合いの言葉である。先述した、業務上過失致死罪の例を出すと、トラックを運転中に、人をはね、死亡させた場合、仕事中に(業務上)、うっかりと(過失)、人をはねて殺してしまった(致死)。だから業務上過失致死罪にあたる、のではないだろうか。この事件の場合、本人に認識ある過失があったのだろうか。
さらに、少年は18歳といえども、こんな運転を狭い道路で行えば絶対に事故になり、事件と発展し、最終的に逮捕されるという違法性の意識があるはずである。このような事になると分かっていながらやるというのは、言い方を変えるとわざとやった、即ち、故意的にやったと考えるのが普通なのではないかと思う。
以上の三点から、少年に下す判決は「自動車運転過失致死傷罪」ではなく、「危険運転致死罪」が正当だと考える。個人的な観点がいくつか入るが、少なくともこの3つの理由は他の方も考えているはずである。最終的には裁判所が出した判決に、一般市民がああだこうだ言うことは出来ないが、被害者がどれだけ悪いのか、または加害者がどれだけ悪いのか、事件内容とその後ろにある背景はどうなのか、総合的に考え出してさらに慎重に判決を下していかなければならないということを、裁判する人に分かってもらいたいと思っている。
2.交通事故発生時の保険金の負担額
当講義で後半に内容を濃く取り組んだ事案は、交通事故が起きた時の保険金の支払い額の量や、正当防衛、誤想防衛などについてであった。この項目では保険金の内容を講義の情報を元にまとめることにする。
夫Bが妻Cを乗せた車で歩行中のAをはね、Aが右足を骨折し、妻のCがむち打ちとなり、両者各10万点分の怪我をした。この場合、最終的な個人の医療負担分はどのようになるのか。また、今回は過失相殺分をA、B共に50%とする。
はじめに、これから述べるポイントを押さえておきたい。保険の種類には、医療保険と、自動車損害賠償責任保険の2種類があり、医療保険は、1点単価10円(保健医療)で上限額がなく、本人が窓口で負担する分は30%、求償がある(第三者行為)、というものである。自動車損害賠償責任保険は1点単価30円(自由診療)で上限額が一人120万円、本人が窓口で負担する分はないが、求償がない(責任保険)というものだ。また、妻や車の当事者、妻でなく彼女でもよいが、そのような人のことを好意同乗者という。好意同乗というのは、事故を起こした時に、お金をとらずに他人を自動車に乗せていた場合、その同乗者に損害を与えた時に車の所有者や運転者がその同乗者の損害賠償額の一部を減額できるというものだ。
まず、Aについての怪我である。自動車損害賠償責任保険を使った場合、当事者の負担分は180万(10万点×30円−120万)になるが、今回の場合、過失相殺が入る。Aの過失相殺の割合は50%の為、当事者負担分は最終的に90万円になる。残りの90万はどうなるかというと、事故を起こしたBに請求が行く。医療保険を使った場合、当事者の負担分は30万(10万点×10円−医療保険負担分70万)になるが、同じく50%の過失相殺が入る為、A本人が負担する額は15万となり、残りの15万をBに請求が行く。しかし、今回の場合、医療保険とは責任保険ではないので、第三者行為として求償されるため医療保険より支給された額も請求されることになる。過失相殺の関係により、それぞれ50%あるので、AとB共に35万円の請求が行く。よって、最終的にそれぞれが負担する額は、Aが50万、Bも50万という額になる。
次に、Cについての怪我である。自動車損害賠償責任保険を使った場合、当事者の負担分は180万(式省略)となるが、今回の場合、Cの過失は全くない状態ではあるが、被害者側の過失として夫Bの過失がカウントされるため、過失相殺の割合により、Aに90万の請求が行き、最終的にCが負担する額は90万になる。医療保険を使った場合、当事者の負担分は30万(式省略)になるが、同じく被害者側の過失として夫Bの過失がある為、過失相殺によりAに15万の請求が行き、残りの15万をCが負担することになる。しかし、医療保険の為、第三者行為として求償があるために、AとBそれぞれに35万の請求が行く。このケースで最終的に負担する額は、Aが50万、Bが35万、Cが15万になる。
事故が起きた時の保険はいくつかあるが、今回は講義で習った二つについてまとめた。自動車損害賠償責任保険と医療保険を比べたが、保険の存在を二つ知っておくだけでも自分が負担する額がこんなにも変わってきてしまう。知識として知っておくべき情報の大切さをこの講義にて感じさせられた。
3.正当防衛、誤想防衛
今学期の後半でもうひとつ深く学んだことは、この項目の題名の内容であった。交通事故が起きた時の判例を多く取り扱ったが、ここではもう一度ポイントをまとめ、講義で納得いかなかった所を私なりの考えを踏まえて論じたいと思う。
自分が夜道を歩行中、前方から何者かが自分の事を殺そうと思って刃物をいきなり突き出し、刺されそうになったところを察し、それをされる前に相手を殴って殺してしまった場合、これは正当防衛となって、刑法では罰せられない。これは刑法36条に定められている。緊急的な場合に、自分の身を守るために行った行為だからである。しかし、相手が怪我をさせようとして、拳をもって自分に殴り掛かってきたけれど、殺されるものだと思い銃を用いて相手を撃ち、殺してしまったときは、過剰防衛となる。この場合、刑法で罰せられるが減刑されることがある。ここまでは納得できる箇所だらけなので、深くは追究しない。
問題は、誤想防衛の時である。我々が講義の中で取り上げた事例は、Bが車を運転中に、前方にいたAが銃でBを撃とうとしていると勘違いして車でAをひき、殺してしまったケースであった。私はこの場合、罪として罰することができないと講義で教えてもらったが、果たしてそれで良いのだろうか。誤想防衛というのは、急迫不正の侵害が存在しないにも関わらず、これがあると誤信して行う反撃行為である。急迫不正の侵害が客観的に存在していれば正当防衛にはなるが、このようなケースの場合、客観的には存在していないため、正当防衛として扱うことができない。しかし、正当防衛を基礎づける事情についての錯誤として考えられており、事実の錯誤があるので、「故意」はなかったとして無罪になる。というのが定義である。私にはこの定義に納得することができない。前述した講義の内容で、簡単にいってしまうと、Aは何一つ悪いことをしていない。つまり、よく考えてみると、Bは罪のない人を殺してしまったという答えにたどり着かないだろうか。そして、誤想防衛の定義を照らし合わせると、事実の錯誤があるので故意はなかったとして無罪になる。私の考えは、罪のない人を殺して無罪になるなどありえないというものだ。当然、殺されてしまったAの遺族も憤りを感じるであろう。
では、この誤想防衛の時は何犯で起訴すればよいのだろうか。私は、Bに未必の故意即ち、確定的に犯罪を行おうとするのではないが、その行った行為が最終的に犯罪行為になってもかまわないと思って犯行に至る時の当事者の心理があったとして、故意犯としてとらえ、殺人罪で起訴すべきだと考える。これは、故意の本質は犯罪事実を認識していて、さらにその内容をも認識する意思にある動機説の考え方でもある。また、この行為は法が違法とする行為を、本人は法的に許されるものだと過信して行為した、いわば違法性の錯誤とはまた違う。それは、本人は犯罪行為になってもかまわないという未必の故意があるからである。
結論としてまとめると、誤想防衛は無罪にすることはできず、未必の故意があるとして故意犯だとし、人を殺してしまって以上、殺人罪以外で罰することはできないと私は考える。他の傷害罪、傷害致死罪、過失致死罪は、いずれも最初から殺そうとは思わなかったけれど、結果的に殺してしまったから、この罪になるからである。
4.まとめ
前期のレポートでは、判例にそってしか内容を書くことができなかったが、今回はわざと反論することによって、自分が今どれだけ法律の力がついたのかどうかを確認することができると思い、二つの事案に対し反対意見を出した。京都府亀岡市での無免許運転の事件は、発生からあと少しで3年にはなるが、私の中でずっともやもやした気持ちが残っていた。しかし、今回のレポートでは交通事故を事案に書くことが決まり、習ったことを十分に生かした反論を考えてみた。個々人の力では判決をくつがえすことはなかなか難しいことではあるが、疑問を持ち続けることを忘れないようにしていきたい。誤想防衛の反論は、講義の中でも、実際の答えでも罰しないということがなかなか頭から離れなかったが、時には判例を超えて、自分の主張を通すことも大事だと気付かされた。
私が何故ここまでして加害者側の罪を強く協調したのか。それは今後の更生も考えることに否定はしないが、あえて罪を重くし、しっかりと反省すべきところはないのだろうか。被害者側の意思もある程度尊重すべきでないのか。その2つを重点的に考える必要が今後絶対的に必要だと感じたからである。
至らない点がいくつかあるが、当内容をもって私の後期のレポートを終えることにする。
参考文献
知っておくべき刑法
Yahoo!知恵袋
コトバンク
マジオドライバーズスクール春日井校ホームページ
島勝猛
結論:未必の故意は、処罰すべきである。
構成と方針
テーマは「交通事故と未必の故意」だから、本レポートでは殺人・交通事故に於ける犯罪類型に触れつつ、過失犯・故意犯を指定のキーワードに絡めていく。その為、正当防衛の問題については、交通事故の故意犯に触れる時、錯誤に関する問題の一つとして挙げるというやや変則的な構成になる。
チャート1(赤字指定キーワードの関係図)※ワード等でコピー又は拡大縮小表示するとチャートがズレるかもしれないので注意されたい
交通事故と殺人→危険運転致死傷罪→過失犯←認識ある過失・動機説
| →傷害致死罪
| →過失致死罪
| →殺人罪─────→故意犯←未必の故意・確定的故意
| ↓
| 違法性の意識が必要か?→違法性の錯誤→誤想防衛
↓
自動車損害賠償責任保険
↑
過失相殺←被害者側の過失←好意同乗者←妻・恋人・車の所有者←他人性
殺人の犯罪類型と未必の故意
刑事法上の殺人には、主要な犯罪類型として刑法199条殺人罪・刑法205条傷害致死罪・刑法210条過失致死罪・自動車運転死傷行為処罰法2条危険運転致死傷罪が挙げられる。それら四類型は、故意犯と過失犯に分類できる。故意犯は殺人罪、過失犯は傷害致死罪・過失致死罪・危険運転致死傷罪である。問題となるのが、故意犯と過失犯を分ける要素に議論があることだろう。何を以て故意とするかについては、「罪となる事実を認識し、かつその実現を意図するか、少なくとも認容する場合をいう」とするのが多数説であるが、判例では「犯罪事実の認識だけで足りる」とする認識説、「積極的意欲を必要とする」意思説がある。
そして、「犯罪事実発生の意欲はなく、ただ認容した場合」を未必の故意という。判例の立場である認識説に立てば、「行為者が犯罪事実特に結果発生を可能なものとして認識している場合」が「犯罪事実の認識だけ
で足りる」とする認識説に該当するから、故意犯として処理されるだろう。多数説の認容説では、「罪となる事実を認識」「少なくとも認容する場合」の双方に該当するから、その立場でも故意犯として処理されるのではないか。
しかし、意思説の立場を採れば、「積極的意欲を必要とする場合」であるから、果たして未必の故意が”積極性”を持っているのかが疑問である。確定的故意であれば、「犯罪事実を認識し、かつ、その発生を確定的に予見する場合」であるから、”積極性”があるのは明らかである(例えば、故殺などはその最たる例だろう)。しかし、未必の故意では、飽くまでも「行為者が犯罪事実特に結果発生を可能なものと認識している場合」であるから、積極的意欲があるとは言い難いが
、それでも行為に及んだのだとすれば積極的意欲があるとも言えなくもない(言葉遊びの気もするが)。
そこで論点になるのは、反対動機である。悪いことをしてはいけないという気持ちを押し切ったか。行為をした以上、そういう外観が作出されるから気持ちを押し切ったと評価すべきではないか。そうすれば、反対動機から意欲があると言えるのではないか。しかし、意欲があるといっても積極的意欲でなく、消極的意欲であるし、判例では、未必の故意でなく確定的故意に意欲を認めているが、意思説に立てば積極的意欲が認められない以上、故意を阻却するだろう。
私としては、判例の未必の故意に対する意欲の有無については考えを異にするが、積極的意欲が必要とする意思説にも与しないので、結果として判例・多数説と同様に故意犯として処理すべきである(即ち、未必の故意も確定的故意と同様に意欲ある故意犯として処理すべきではないか)。
故意犯と違法性
次に故意の成立と違法性について考察してみる。故意が認められる為には、上記の事実の認識の他に、刑法38条3項の違法性の認識(違法の認識)が必要かどうかが問題となる。学説上、「故意と違法性の意識を同一次元(責任の次元)として捉える」立場を故意説と呼び、「故意は専ら構成要件の主観的要素であるから責任とは無関係であり、違法性の意識ないしはその可能性だけが、故意から離れて責任の要素となる立場」は責任説である。故意説は更に、「故意の成立に違法性の意識を必要とする」厳格故意説と、「違法性の意識の可能性があればよい」制限故意説とにわかれる。
判例の立場は、「違法性の意識を必要としない立場」であるから、恐らくは責任説の立場を採っているのだろう。厳格故意説の立場は、規範的責任論・反対動機を徹底すれば、「悪いことを悪いと知りながら、あえて行為に出る意思」が故意であるから、理論上は筋が通っている。しかし、そんなことを貫徹すれば、理論上の整合性以前に現実に即していない。悪いことをしている意識がない奴など、報道を鑑みれば山ほどいそうなものであり、そうした奴を無罪放免するなどあり得ない。
制限故意説の立場では、「違法性の意識に欠けることもやむをないときは、故意を認めない」から、止むを得ない事由を除いて処罰できるという点で評価できる。判例の立場と思われる責任説でも、基本的に故意が成立するだろうが刑法38条3項但書を使えば、情状できるので、制限故意説の様に止むを得ない事由に対して融通が利くだろう。従って、制限故意説と判例の責任説の立場を採るのが現実的に妥当と思う。
錯誤と正当防衛
違法性の錯誤(法律の錯誤・禁止の錯誤)は、「行為が法律上許されたものと誤解した」場合であり、誤想防衛(錯覚防衛)は、「正当防衛…の客観的要件が具備していると誤信して、防衛…行為に出たところ、実は、何ら正当防衛…要件である急迫不正の侵害あるいは危難が実在しなかった」ことだが、問題となるは、誤想防衛の錯誤の性質が、果たして事実の錯誤なのか法律の錯誤なのかが問題となる。
通説の立場は、正当防衛の前提である急迫不正の侵害という客観的事実を誤信したのだから、事実の錯誤であり、従って故意を阻却する。一方、有力説の立場は、「自己の行為を許されたものと誤信したという点から法律の錯誤(禁止の錯誤)であって、相当な理由がない限り故意を免れることはできない」という。
事実か行為の何れかに着目するかでこうも結論が変わるのかというのが正直な気持ちであるが、騎士道事件の誤想過剰防衛の件を考えれば、理不尽であり処罰もやむを得ないように思う。そうなると、過剰防衛か否かで分けるのが適当かもしれないが、一度、被害者の立場になって改めて考えると、誤想防衛だろうが誤想過剰防衛だろうが、理不尽なことには変わらないのではないか。しかし、加害者からすると誤想防衛で処罰されるのも又理不尽である。故に、両者の利益を衡量して、通説の立場が良い。正当防衛の本質は、生命身体の侵害に対する自力救済であるから、法律の錯誤として解釈してしまっては、自分の身も守りづらい。
過失犯と認識
過失犯に於ける過失は、「犯罪事実特に結果発生の認識が全くない」のが認識のない過失、「結果発生の可能性の認識がある」のが、認識のある過失に分けられる。通説の立場である認容説は、「認識した結果発生を認容しなかった場合」であり、有力説の立場である動機説からは「行為者が結果発生の可能性を認識しても、最終的に結果が発生しないと考えて行為に出た場合」である。認識のない過失にしろ、認識のある過失にしろ、法的効果は同じであるから、どちらの説でも構わないと思う。
交通事故と過失相殺
チャート2
好意同乗者 他人性 過失相殺
妻 有り(妻は他人判決) 有り(同一家計につき)
恋人 有り 無し
車の所有者 無し(運行供用者) 無し
交通事故に於ける過失相殺は、民法722条2項の不法行為責任に対する損害賠償責任に関して民法418条の債務不履行に於ける過失相殺の規定を準用したものであるが、「例えば、ある者(被害者)が横断歩道外のところを渡って交通事故に遭ったり、…という場合には、加害者あるいは債権者にも損害の発生やそれが拡大したことについて過失があるから、賠償額を決めるにあたってはその被害者の過失部分を減額するのが公平に適する」なら、次に出てくる疑問として、誰が過失相殺の対象になるのか、その根拠は何かということだろう。
判例の立場を採ると好意同乗者である妻・恋人・車の所有者に対して、妻にのみ過失相殺を認め、恋人・運行供用者たる車の所有者には認めていない。その根拠だが、同一家計だからというものだ。財布を同じにする妻に損害を賠償したところで、結局、そのお金は夫の懐にもいくことになるからだが、一つ、疑問に思う点として、法律婚の妻だからといって婚前契約による同一財産の原則(法定財産制)に対する特約を設けた場合はどうなるのだろうか、あるいは婚前契約が根拠でなくとも家庭内の慣習・ルールとして同一家計でなかったらどうか、又、恋人であったとしても同棲し家計を一にしている場合だって考えられるし、経済的に依存している場合には車の所有者にさえ同一家計はあり得るかもしれない。近年の、家族形態の変容、人間関係の変化を考慮すれば一律に適用するのが困難なように思う。それでも、適用するなら、各事例につきそれぞれの経済関係を調べた上でケースバイケースで対応することになるが、交通事故の被害者であるにも関わらず、自己の経済状況を調べられるのは、誰にしても気分の良いものとは言えないのではないか。同一家計という根拠は、分かりやすく合理的に思えるが、他方、現在の家族・人間関係の在り方からして好ましいとは思えない。ただ、どうしても感情論を含むので法律学的根拠と言えるか(科学的と言えないかもしれない)は、自信がない。例え、同一家計上の者の懐にいくかも知れなくとも、”支払う”というのが大事だと思ってしまう。それによって初めて責任を果たしたといえるのではないか。
交通事故と自賠責
最後に、自動車損害賠償責任保険は、自動車損害賠償保障法に基づく責任保険且つ強制保険であり、「賠償資力の確保を図り(自賠法5条)、被害者が保険会社に対し保険金額の限度で直接損害賠償額の支払を請求することを認めることにより(自賠法16条)、迅速確実な救済を図っている」。
問題点としては、限度額を超過すると任意保険がない場合、「責任を負う者の一般財産から弁済を受ける」しかないことだ。しかし、解決策を提示しようにも、それは他から金銭を持ってくることを意味し、その穴を埋めるのが税金になるのだとしたら、この財政難の中、とてもじゃないが無理だ。
結論のまとめ
未必の故意は、犯罪事実を認識しているから故意犯として処罰すべきである。
違法性の意識は、現実に即して制限故意説又は判例の立場を支持する。
誤想防衛は、利益衡量し、故意を阻却する。
認識のある過失については、法的効果が同じであるから、認容説・動機説の何れでも良い。
過失相殺は、同一家計という基準の合理性を認めつつも、家庭・人間関係の在り方から反対した。
自賠責については、支払限界と財政に触れて、解決策は困難であるとした。
以上が、結論のまとめである。
文字数(スペースを含めない)4601
参考文献(引用は「」で示し、引用中の省略は…で示した。)
『法律学小辞典(第4版補訂版)』編集代表:金子宏・新堂幸司・平井宣雄(有斐閣)
『デイリー六法(平成27年度版)』(三省堂)
窪田直樹
私は交通事故において未必の故意は可能な限り認めるべきであると考える。
序論
犯罪において過失か故意であるかは大きな意味を持つ。故意は確定的故意と未必の故意に分かれ、過失は認識ある過失と認識なき過失に分かれる。そして認識ある過失と未必の故意はとても近く、判断が難しい。だがこの四つの内どれに当たるかよって犯罪が成立するか左右されるのであるからこの判断は慎重にしなければならない。そして交通事故はその判断が難しいことが多い。ではどういう場合に過失である、故意と判断するべきか、そして未必の故意と認識ある過失の境界線はどこにあるかが問題になる。そして交通事故にはどのような事態が考えられるだろうか。それぞれを見ていきたい。
未必の故意と認識ある過失
最初に述べたように未必の故意と認識ある過失の判断は難しい。例えば、狭い道路のわきを子供が歩いているとして、このまま走り抜けたら、ひょっとして、子供に接触するかも。と思いつつ、道路を走り抜けたところ、子供と接触して怪我を負わせてしまったらどうだろうか?もしこの場合に、子供に接触するかも、でも仕方がない。と子供が場合によっては怪我をしてもやむをえない、と結果の発生を認めてしまうと、「未必の故意」として、故意が認定される。(※1)
ではこれに対して、子供に接触するかも。でも、道路の幅がこれだけあれば、まさか、そんなことはあるまい。と思った場合はどうでしょう。子供に接触するかも、とは思っても、そんなことはまず起こらないだろう、と結果の発生を認めない場合、認識ある過失として、故意は認定されず、過失が認定されるにすぎない。(※1)
学説では認識説、認容説、動機説などがあるが私としては結果発生の可能性の認識が、打ち消されず、行為に及ぶ動機となっていた場合に未必の故意を認め、認識が、打ち消され、行為に及ぶ動機となっていない場合は、認識ある過失とする見解(※2)とする動機説を支持したい。そもそも行動を起こす際の意思がないのに故意というのはおかしな話である。
であるならば行為に及ぶ動機になった場合のみを故意をすべきである。
それでは次に交通事故についてみていきたい。
交通事故と過失
交通事故は年間51万7196件も発生しており、死者数は3627人、負傷者数は64万931人(※3)である。この数字を見れば交通事故が自分にとって遠い話では決してないことが分かる。そしてその事故は様々である。例えばAが運転する車とBが運転する車が衝突事故を起こし、Bの好意同乗者であるCが怪我をしたとする。この時AとBには50%ずつとする。通常のこの場合、AとBの共同不法行為が成立し、それぞれの過失割合に応じてCに損害賠償金を払う事になるが、この時治療に使った保険が医療保険と自動車賠償責任保険によって支払う金額が変わり、そして好意同乗者Cが運転者Bとどのような関係であるかも支払金額に関わってくる。
先に医療保険と自動車賠償責任保険で何が違うか見ていきたい。違いは以下の通りだ。
1 自動車賠償責任保険の保証上限が120万であるが医療保険にはない
2 自動車賠償責任保険では窓口負担はないが医療保険では30%負担しなければならない
3 自動車賠償責任保険では一点単価は30円であるが医療保険では10円である(治療費の単位は円ではなく点で計算する)
何故このような違いが出ているかというと自動車賠償責任保険が人損に対する被害者救済が目的であり、医療保険は高額の医療費による貧困の予防や生活の安定を目的であるからだ。これらの違いによって傷の程度が重い場合と自分側の負担が大きい場合においては医療保険の方が得となるのである。では次に好意同乗者との関係について先ほど出した例をCがBの妻に変えてみていこう。さきほどAとBの過失割合に応じてCに損害賠償金を支払うとしたが、Cが妻である場合は被害者側の過失としてBの過失をカウントして過失相殺する。これにはBとCが同一生計、つまり財布が一緒であることが理由とされている。考えてみればこれは納得いくと思う。夫であるBが妻であるCに対して一銭も治療費を支払わないというのは実際問題として考えられないし、生活を共にしているのだから財布が一緒であることも納得がいく。
しかしこのような事例は、ある意味不幸な出来事であり、両者に過失があるものである。では次に故意である事例を見ていきたい。
危険運転致死傷罪
危険運転致死傷罪が成立するまで悪質な自動車事故は故意が無い事を前提にされた業務上過失致死傷罪で処理されてきた。だが業務上過失致死傷罪は上限が5年であり、あまりにも量刑が軽い。そのこえによって2001年6月に制定された。その内容以下の通りである。
1 酩酊運転致死傷罪・・・アルコール(飲酒)または薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させる行為
2 制御困難運転致死傷罪・・・進行を制御することが困難な高速度で自動車を走行させる行為
3 未熟運転致死傷罪・・・進行を制御する技能を有しないで自動車を走行させる行為
4 信号無視運転致死傷罪・・・赤色信号又はこれに相当する信号を殊更に無視し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為
5 妨害運転致死傷罪・・・
人又は車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の直前に進入し、その他通行中の人又は車に著しく接近し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為
6 人を負傷させた場合・・・15年以下の懲役
7 人を死亡させた場合・・・1年以上の有期懲役(※4)
これによって2005年5月、宮城県多賀城市の国道交差点で、酒に酔ってRVを運転した男(27)が、居眠りで赤信号を無視して横断歩道に突っ込み、学校行事のウオークラリーに参加していた仙台育英高1年の男女生徒3人(当時15歳)を死亡させ、他の生徒ら15人に重軽傷を負わせた事件ではこの危険運転致死傷罪が適応され、懲役20年の刑が言い渡された。そもそも上に上げたような故意であるとしか思えない事件に故意がないことを前提としていた業務上過失致死傷罪を適応していたこと自体間違っていたのだが。だがこの法律は厳罰に処せる分、かなり限定的なっており、適用の難しさなど問題も抱えているがここで議論すべきではないので割愛する。
今まで挙げたような例であれば、故意か過失かあまり悩むこともないだろう。では次のような事例はどうであろうか。
勘違い騎士道事件
この事件は以下の通りだ。
英国人で、空手3段の腕前である被告人は、夜間帰宅途中の路上で、酩酊した女性とこれをなだめていた男性とがもみ合ううち、女性が倉庫の鉄製シャッターにぶつかって尻餅をついたのを目撃した。その際、同女が「ヘルプミー、ヘルプミー」などと(冗談で)叫んだため、被告人は女性が男性に暴行を受けているものと誤解して両者の間に割って入った。被告人はその上で、女性を助け起こそうとし、ついで男性のほうに振り向き両手を差し出した。男性はこれを見て被告人が自分に襲い掛かってくるものと誤解し、防御するために自分の手を握って胸の前あたりに上げた。これを見た被告人は、男性がボクシングのファイティングポーズをとり自分に襲い掛かってくるものと誤解し、自己および女性の身体を防衛しようと考え、男性の顔面付近を狙って空手技である廻し蹴りをし、実際に男性の右顔面付近に命中させた。
それにより男性は転倒して頭蓋骨骨折などの重傷を負い、8日後にその障害に起因する脳硬膜外出血および脳挫滅によって死亡した。(※5)
この事件において被告人である男性は正当防衛でないのにも関わらず正当防衛であると誤認した誤想防衛であるとされて一審では無罪判決が言い渡されたが、二審では誤想過剰防衛とされ、減刑されたが有罪とされ、最高裁判決では二審の判決が支持されて確定した。
このケースは本人に違法性の意識はあっても法的に許されると勘違いした違法性の錯誤があったものである。
私は二審、最高裁判決を支持する。
この事件の被告人である男性は空手の有段者であり、自分の技の威力やそれを相手に放つことの意味を理解していなかったとは到底思えないし、そもそも彼には他の防衛手段が取れたはずである。だがそれをとらなかった。それにいくら防衛するためとはいえ顔面に廻し蹴りはやり過ぎである。だから私は誤想過剰防衛だとした判決を支持するのである。もちろん男性には相手を殺害する意思はないのだから認識ある過失とするのは妥当だと思う。
結論
自動車は広く一般社会に流通し、幅広い年齢層の人間が利用している便利な移動手段だ。利用する人間が多ければ多いほど交通事故が起きる可能性は大きくなる。そして交通事故というのは誰にでも起こす可能性があるのは上で乗せた数字からも分かる。であるならば危険性の認識をしっかりとする必要があるのは明白だ。事故は一瞬にして人生を変え、破壊してしまう事がある。そのことを一体どれだけの人間が認識しているか、それは分からない。でもだからこそ事故が起こるかもしれない、でも仕方がないなどと事故の起きる可能性を容認するべきではない。集中力や注意力が低下している飲酒運転などの違法運転などもってのはかである。危険運転致死傷罪の時にあげた事例のようなことは起こしてはならない。
であるならば自分が注意しているから良いと思うのではなく社会全体で事故を起こすことに対する認識と、事故を起こすかもしれないという認識を持ったままそれを容認するべきではないことを強く思わなければならない。でなければ悪質な事故は増加し、不幸な人間が多く生まれてしまう。
だから私は交通事故において未必の故意を可能な限り認めるべきだと考えるのである。
キーワード:認識ある過失、動機説、違法性の意識、違法性の錯誤、誤想防衛、危険運転致死傷罪、自動車損害賠償責任保険、好意同乗、被害者側の過失、過失相殺
参考文献
基礎教養演習授業ノート
法、納得!どっとこむ法律用語
nikkansports.com 2006年1月23日14:06 飲酒の危険運転に懲役20年の判決
出典
※1法、納得!どっとこむ法律用語 未必の故意 より
※2刑事弁護人の憂鬱 未必の故意(下)実務から見た刑法総論3 より
※3警視庁交通事故統計〔平成26年11月末〕より
※4交通事故弁護士相談窓口 危険運転致死傷罪とは? アズール法律事務所 より
※5ウィキペディア 勘違い騎士道事件 より