中野秋嵩

ライフデザインレポート 14J102005 中野秋嵩

 

「交通事故と未必の故意」

 

-結論-

未必の故意の判断は慎重に行うべきだ。

 

・「はじめに」

刑法38条はこのように規定している。

  1. 罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。
  2. 重い罪に当たるべき行為をしたのに、行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない。
  3. 法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を軽減することができる。

 

 

今回のレポートでは、ライフデザインの授業においても、かなり集中的に取り扱った「故意」 「過失」 「誤想防衛」これらを中心に、ほかのキーワードも織り交ぜながら述べていきたいと思う。

故意はなくとも、過失や誤想防衛は誰にでも起こりうることである。

平たく言うと、ミスや勘違いは日常にありふれているのだ。

それに加えて、今回は交通事故に絡めて述べていく。交通事故もいつ、どこで巻き込まれるかわからない。もっと言えば、自らが巻き込んでしまう側になる可能性も十分にありえる。もし、そういう事態の当事者となったときのことも考え、自分の為だと思って述べていきたい。

 

・「誤想防衛と有罪性」

ではさっそく、授業内で扱った事例をもとに考えてみる。

BAが自分たちをピストルで撃とうとしていると勘違いして先にやっつけようとして轢いた。Aは死亡。」

ここで問題となるのは、「勘違い」という部分である。

このケースの場合、Bのとった行動は誤想防衛にあたるのだろうか。

そもそも誤想防衛とはなんなのか。

(違法性は阻却されず犯罪は成立するが,非難可能性・責任が減少するので刑を減軽または免除することができる(362)。急迫不正の侵害が現実にはないのに,あると誤認して正当防衛のつもりで行為した場合は誤想防衛と呼ばれ,故意がないとされる。 正当防衛の特例を定めたものとして,〈盗犯等ノ防止及処分ニ関スル法律〉(1930公布)1条がある。)

そこで、事実の錯誤と法律の錯誤(違法性の錯誤)から考える。

BAをやっつけようと思っており、行為の認識は十分にあったと考えられる。また、急迫不正の侵害が迫っていると思い、先にやっつけることが正当防衛にあたると考えた。つまり違法性の意識はなかった。よって、ここに違法性の錯誤があったと考える。

違法性の錯誤は有罪性が有とされ、場合によって刑が減軽されることもある。

誤想防衛は違法性阻却事由ではあるが、今回の場合、Bの行為は自身の身の危険を守る範囲の行動をとっているとは言い難く、誤想過剰防衛にあたると考える。

認識があるにも関わらず、不法行為をしてしまった場合、罪に問われるのは当然だと考える。また、そこに誤想があったことを考慮しての刑の減軽という判断には私も賛同する。

 

 

・「故意か過失か。」

これについては慎重に判断しなければならない。それは、故意と過失では、刑罰の重さも全く違うからである。ここで誤った判断をしてしまうことは避けたい。

とはいったものの、実際のところ未必の故意と認識ある過失の区別は曖昧で、非常にわかりづらいものとなっている。

そこで、わかりやすくするためある程度の基準を設けたいくつかの説がある。

 

・表象説 

 

・蓋然性説 

この説からの未必の故意の定義

 行為者が犯罪事実発生の可能性が高いと認識していた場合(蓋然性を認識していた場合)

 

 この説からの認識ある過失の定義

 行為者が犯罪事実発生の可能性が低いと認識していた場合(蓋然性を認識していなかった場合)

 

動機説 

この説からの未必の故意の定義

 行為者が犯罪事実を認識しながら、これを肯定して自己の行為への動機づけとした場合

 

この説からの認識ある過失の定義

 行為者が犯罪事実を認識して、これを否定して自己の行為への動機づけとしなかった場合

 

・認容説

この説からの未必の故意の定義

 行為者に犯罪事実を発生させようとする積極的な意思はないが、その発生の可能性を認識し、かつ、その発生を認容していた場合

 

この説からの認識ある過失の定義

 行為者が犯罪事実の発生の可能性を認識しているが、その発生を認容していなかった場合

 

私はこの中の認容説を支持したい。

事実の認識があり、これを容認している場合が未必の故意。していない場合が認識ある過失である。というものだ。

例えば、車を運転し歩行者の脇を通り抜けようとして人を轢いてしまった場合。

認容説を使うと、

未必の故意・・・事故が起きる可能性があると認識している 「轢くことがあってもかまわない」

認識ある過失・・・事故が起きる可能性があると認識していない 「ちょっと危ないけど大丈夫」

構わない や しょうがない と思って事故が起きてしまった場合は、そう思って行ったというところが故意であるとし、故意犯とするのが妥当であろうと考える。

このように、未必の故意と認識ある過失の差は紙一重であり、その部分に関しての判断は慎重に行わなければいけない。

 

 

・「かもしれない」

次の事例

B3日間寝てなくて、運転したら事故を起こすかもしれないと思ったが運転した。案の定Aを轢いてしまい、殺してしまった。」

ここでの争点は「事故を起こすかもしれない」と思っていたところにある。

3日間も寝てなければ、十分にその可能性は考えられる。

しかし、Bは事故を起こそうとは思っていなかった。

起こそうと思っていたのならば、それは紛れもなく故意犯であるが、このケースはそうではない。よって、過失犯として取り扱うべきである。

危険運転致死傷罪として問われる可能性はないのかと疑問に思うかもしれない。しかし、条文に当てはめてみても、相当悪質で危険な運転をしていなければこの罪には問われないと考える。

例えば、アルコールの摂取をしたままの運転つまり飲酒運転や薬物の影響がある中での運転。無免許等。といったような悪質な行為ではないと考える。

 

 

・「好意同乗があった場合」

次に、これらの事例に同乗している人がいたとしたらどうなるか。

運転手がその好意により、無償で他人を自動車に同乗させることを好意同乗という。

もし、好意同乗者がいる自動車が事故にあった場合、どうなるか。

運転手が無免許や飲酒をしていて、それをわかっていたにもかかわらず、同乗し、事故を起こしてしまったとしたら。

これについては被害者側の過失も当然認めるべきであると考える。また、事故に対する損害賠償請求の際の、過失相殺(民法722条A 被害者に過失があったときには、裁判所は、これを考慮して、損害賠償の額を定めることができる)についても同様に。

裁判所の判断では、他人性について、妻と、例として彼女には認めているが、自動車の所有者には認めていない。過失相殺について、妻は同一生計の関係で認められているが、彼女や所有者には過失相殺はないとされている。無免許や飲酒等の危険な行為つまり重大な過失があった場合、また、先ほどの3日間寝てないにもかかわらず運転をし、案の定事故を起こした例のような、危険が及ぶと容易に想像や予測できるような場合において、彼女や所有者といった人らにも過失相殺を認めるべきではないかと考える。

また過失割合によって自動車損害賠償責任保険自動車損害賠償責任保険は被害者の保護、救済を目的とする保険で、自動車損害賠償保障法(自賠法)に基づき、車の持ち主は強制的に、この保険の加入が義務づけられている。自賠責保険に加入していない無保険車は公道を走ることができず、これに違反すると1年以下の懲役または50万円以下の罰金が科される。)から保険金が支払われなかったり、減額されるのも当然だと考える。

そもそも賠償が目的の自動車損害賠償責任保険。同乗者がいても他人性が認められれば、自賠責が適用される。(自賠責法3条 自己のために自動車を運行の用に供する者は、その運行によつて他人の生命又は身体を害したときには、これによつて生じた損害を賠償する責めに任ずる より)

但し書きには賠償を免除される要件もある。(ただし、自己及び運転者が自動車の運行に関し注意を怠らなかったこと、被害者又は運転者以外の第三者に故意又は過失があったこと並びに自動車に構造上の欠陥又は機能の障害がなかったことを証明したときはこの限りでない)

好意同乗者であっても過失があった場合には過失相殺されるのはやむを得ない。

 

 

 

・「さいごに」

今回のテーマでは裁判所の判断がベストに近いと考えている。

違法性の錯誤と事実の錯誤との差について、違法性の意識がどちらともなくても、有罪性に差が出るということは、やはり行為に対する認識があるかないかは重要な分かれ目になる。

人を処罰する根拠として責任主義がある。悪いことをしてはならないという気持ちを押し切ってまで悪いことをするところに罰をうける理由がある。というものだ。誤想防衛などはそれに当たらない。自分自身に急迫不正の侵害の危機にひんしていると勘違いし、正当防衛だと思って行ったその行為(つまり誤想防衛)によって例え人が死んでしまっても、故意でないのであれば罰しない、または刑の減軽は当然である。

 

先にも言ったが、未必の故意と認識ある過失は紙一重である。

「大丈夫だろう」と「事故が起きてしまっても構わない」という意識の差が故意と過失を分けるひとつの要因となる。

この紙一重の故意と過失、実際刑罰になるとその差は歴然とする。

些細な気持ちの揺らぎや油断によって、時に人の命を奪うことになるのだ。未だに、飲酒や薬物が原因の交通事故が起きたというニュースをみる。以前に比べたらこのような事故は減ったのかもしれない。撲滅は無理かもしれないが、これから先、1件でもこのような痛ましい事故が減ること。また、自分自身が、予期せぬ事態で事故に巻き込まれることはあるとしても、巻き込んでしまう加害者側にならないよう細心の注意を払うべきだと感じた。

 

 

参考

http://www12.ocn.ne.jp/~s-k/tango/keihou38.mihitsunokoi.html

 

http://homepage2.nifty.com/and-/keihou/inga.txt

 

http://www.jiko-navi.com/cont14/page1.html

 

 

 

 

杉原るな

交通事故と未必の故意

14J12008  杉原るな

 

1.私は交通事故に未必の故意を認めるべきではないと考える。

 

2.「未必の故意」と「認識ある過失

例えば狭い道路のわきを子供が歩いているとして、「このまま走り抜けたら、ひょっとして、子供に接触するかも。」と思いつつ、道路を走り抜ける。

 

この時子供と接触して怪我を負わせてしまった場合、故意が認められ、傷害罪が成立する場合がある。それが、「未必の故意」と呼ばれるものである。

 

上の事例で、「子供に接触するかも。でも、仕方ない。」と、子供が場合によっては怪我をしてもやむをえない、と結果の発生を認めてしまうと、「未必の故意」として、故意が認定されてしまう。

これに対して、「子供に接触するかも。でも、道路の幅がこれだけあれば、まさか、そんなことはあるまい。」と思った場合、子供に接触するかも、とは思っても、そんなことはまず起こらないだろう、と結果の発生を認めない場合、「認識ある過失」として、故意は認定されず、過失が認定されるにすぎない。

このように、「未必の故意」と「認識ある過失」とは、非常に判断が微妙な隣り合った概念である。

未必の故意は「結果発生の可能性を認識し、かつ意欲認容する場合」をいい、認識ある過失は「結果発生の可能性を認識してはいるが、意欲認容はない場合」のこと指す。

 

私が未必の故意を認めるべきではないと思う最大の理由は、故意は他人には見ることの出来ない、人間の意志や感情であり、具体的な認定をすることは極めて難しいからである。実際の裁判において、被告人に故意がなかったと争うような場合には、その犯罪行為が行われた際の客観的状況や、犯罪行為時の動機等を総合的に考慮して判断しているのが実情であるそうだ。

 

故意の本質は犯罪事実を認識しつつもあえてその内容を認識する意思にあるという動機説において未必の故意ははっきりと目に見えるものではなく、確実にその真意は本人しか知りうることができない為、容易に隠蔽することが出来てしまうのではないかと考える。

 

続けて「違法性の意識」と「違法性の錯誤」について考えてみる。

まず、違法性の錯誤とは「法律は知っているが、違反していないと勘違いしている」こと、違法性の意識とは、「自己の行為が法的に禁止されているものであると認識していること」である。

多くの判例は、違法性の意識に触れておらず、その可能性も要求していない。したがって、違法性の意識は不要であると解している(違法性の意識不用説)。

 

 

3.実際に未必の故意が認められた事件

【母親をひいた男に懲役5年 未必の故意を認定 熊本県の五木村で母親を車でひいて死亡させたとして傷害致死罪などに問われた無職、石田功被告(51)の裁判員裁判で、熊本地裁は2011年1月18日、未必の故意を認定し懲役5年(求刑懲役8年)の判決を言い渡した。判決理由で鈴木浩美裁判長は「母親が車を避けきれずに接触、けがをしてもやむを得ないとの認識があった」と指摘。弁護側は「動機がなく、故意はない」と無罪を主張したが「動機が見当たらないことを考慮しても傷害致死罪は成立する」として退けた。判決によると、石田被告は2010年4月3日午後、軽トラックを飲酒運転(酒気帯び運転)。歩いていた母親を時速約10キロでひき、出血性ショックで死亡させた。熊本県警は当初、交通事故と発表したが、現場の状況などから同年7月に殺人容疑で逮捕。熊本地検は傷害致死罪で起訴した。】(注1)

 

泥酔状態なら理性を失い、実の母親を轢いてしまうような運転をする可能性は高いが、酒気を帯びている程度であったわけで、自分の母親を轢くということは違法なことだと認識していてもおかしくはないような気がする。

 

私個人としてはこの熊本地裁の判決は少々優しいのではないのかと考える。この件では認められたが、未必の故意は結果の発生が不確定なものであり、一般の人からしてはとても分かりにくいのではないだろうか。

現に法律を学んでいる私もはっきりと理解することが難しく、なかなか前述の判決に頷けないのが正直なところである。

 

 

 

4.危険運転致死傷罪

 

まず危険運転致死傷罪とは【危険運転致死傷罪は一定の危険な状態で自動車を走行・運転し人を死傷させる罪である。】(注2)

危険運転致死傷罪が制定された後は、飲酒運転の処罰の厳罰化が行われたことにより、飲酒運転が起因となった死亡事故は激減し、2005(平成17年)には10年前の半数にまで減少したという。

しかし危険運転致死傷罪が成立するには以下の要素に当てはまらないといけない。

 

【1.アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を運転すること

2.進行を制御することが困難な高速度で自動車を運転すること

3.進行を制御する技能を有しないで自動車を運転すること

4.人又は車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の直前に進入し、その他通行中の人又は車に著しく接近し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転すること

5.赤色信号又はこれに相当する信号を殊更に無視し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転すること】(注3)

この5つに当てはまらないと認められない。

 

危険運転致死傷罪に関係する判例としては『福岡海の中道大橋飲酒運転事故』が挙げられる。

この事件は【2006年(平成18年)8月25日に福岡市東区の海の中道大橋で、市内在住の会社員の乗用車が、飲酒運転をしていた当時福岡市職員の男性(当時22歳)の乗用車に追突され博多湾に転落し、会社員の車に同乗していた3児が死亡した事故。主犯の加害者に対しては、危険運転致死傷罪が適用されるかが争点になったが、危険運転致死傷罪と道路交通法違反を併合した懲役20年の刑が最高裁にて確定、執行された。】(注4)

この事件は1審判決で危険運転致死罪の成立を否定、控訴審判決では赤色信号又はこれに相当する信号を殊更に無視し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転することの部分が認められ成立も認められたが、やはり成立の条件が難しいようである。アルコールが抜けて飲酒運転の証明が不可になった後に逮捕された場合(例外もあり)は、業務上過失致死と道路交通法違反で76カ月まで(刑法第211条と道路交通法第117条違反の併合罪)になるため、危険運転致死傷罪の適用を恐れての隠蔽工作による逃げ得が増えたことや、先程も挙げた成立の条件の厳しさ等が大きな問題であった。

これを受けて20131120日に「自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律(自動車運転死傷行為処罰法)」が成立した。この法律が危険運転致死傷罪の適用範囲を広げることが可能になった為、これからも発生するであろう悪質な危険運転から人々を守っていくことに期待している。

 

5.自動車損害賠償責任保険

これは通称自賠責と呼ばれるものである。車の所有者が強制的に加入しなければいけないものであり、事故を起こした場合の損害賠償を保障するものである。

例えば『車の所有者であり運転者であるAが道路を飛び出してきた被害者Cを轢いてしまい、その衝撃で好意同乗者の妻Bが軽傷を負ったとする。この時Aは脇見運転をし、Cは飛び出してきた。この場合医療費はどうなるだろうか。』という事案があるとする。

この場合のように被害者側の過失が有るにもかかわらず、加害者が全ての賠償を負わされるのでは公平とはいえない(公平の原則)。これを受けて民法第722条では「被害者に過失があるときは、裁判所は損害賠償の額を定めるにあたりこれを考慮することができる」と定められている。

このように、お互いの過失の程度によって損害の負担を公平にあつかうことを「過失相殺」という。過失相殺は簡単に言うと損害賠償額が減額されるということである。これに関係して好意同乗とは

1.純粋に運転手の好意で同乗したとき

2.自動車の所有者(保有者)の意思に反して同乗したとき

3.車に同乗したこと自体または同乗中に過失・危険の承認が認められるとき

4.同乗者にも運行目的が認められた時】(注4)に認められる。

では先程の例に戻って考えてみる。もちろん加害者で運転者であるAは車の運行を支配できるので報償する責任が有るが、被害者側の過失分はCに負担してもらうことが可能である。

続けて好意同乗者である妻BAとは他人であることが判例上認められている為、医療費を受け取ることができるがAとは同一家計であることから二度手間防止のために過失相殺が認められ、多少の減額がされる。

最後に被害者Cだが、Cにも過失があるので過失割合分を自分で負担し、Aの過失分をAに請求することが可能である。

もし自動車損害賠償責任保険に加入していれば上限が120万円までに達しなければ窓口での負担をすることはない。しかし一点の単価が30円と高いため、最大4万点分しか使うことが出来ないのだ。対して医療保険は窓口での負担が30%の代わりに上限は決まっていない。加えて1点の単価が10円であることから、個人的には医療保険を使ったほうが得なのではないかと考える。もし被害者が死亡してしまった場合でも120万円という上限は変わらない。

これでは同乗者に補償が行くことが極めて難しいのではないだろうか。大体の運転者は自動車損害賠償責任保険と合わせて任意保険に入るが、入っていない場合に事故を起こしてしまうと払いきれない賠償金はどうなっていくのかが疑問である。

 

 

5.誤想防衛

誤想防衛とは正当防衛の要件たる事実 (特に「急迫不正の侵害」) が存在していないのに,存在していると誤信して防衛行為を行うことである。

気が動転している状況下では、この危険がただの勘違いであったり(誤想防衛)、防衛行為が行き過ぎてしまったり(過剰防衛)ということも起こり得る。

誤想防衛の場合、防衛の際の勘違いが無過失によるものと判断されれば、罪を犯す意思がなかったとして無罪になる。この二つが合わさった場合、誤想過剰防衛となる。

 

6.最後に

私個人としてはこの誤想防衛も未必の故意同様、加害者によっては誤信の有無を隠蔽しようとするのではないかと疑ってしまう。段々と隠蔽工作が悪質に、巧妙になっていく今の時代、はっきりと故意の有無を暴いていかなければ被害者が更に損をする事案が増えてしまうのではないかと考える。だからと言って心の内に秘めている考えや思いは誰も見ることは出来ない。自分や周りの人が知らず知らずに加害者になってしまわない為にも故意や過失等についての正しい知識をつけることが加害者にも被害者にもなることのない、自衛の一つなのかもしれないと考える。

 

 (1)http://www.jidan-navi.com/jidan_news/000643.html

(2)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B1%E9%99%BA%E9%81%8B%E8%BB%A2%E8%87%B4%E6%AD%BB%E5%82%B7%E7%BD%AA

(3)http://www.hou-nattoku.com/criminal-code/cc021.php

(4)http://calcal.jp/jibai-sonpo/2780/

 

 

 

 

石川周朔

交通事故と未必の故意

14j102018 石川周朔

 交通事故と未必の故意に関する法律体制は一部を除き現状維持でいいと考える。

 

はじめに

本レポートは、交通事故と未必の故意について実際の判例や具体例をもとに私自身の考え、意見を述べていく。1交通事故のおける未必の故意と認識のある過失を対比しながら私の意見を述べていく。2では危険運転致死傷罪についての説明と意見を述べる。3では誤想防衛と故意について述べる。4では交通事故による保険のことなどについて述べる。最後のまとめでは、ここまで述べてきた意見をまとめさらに新しい考えを展開する。

 

 

目次

1認識の違いによる過失

危険運転致死傷罪

誤想防衛と故意

4交通事故による保険、過失相殺による減額

5まとめ

 

 

  1. 認識の違いによる過失

「未必の故意」とは、罪を犯した者が、その犯罪の発生を意図、希望していないながらも、自分自身の行動によってその犯罪が起こりうると認識しながらもその原因となる行動をすることである。例えば過去の判例では、自身の過失による交通事故で他人に受傷させ、被害者を救護せずにその場を立ち去った加害者に、未必の故意による殺人未遂罪を認めた事例がある。そして、も一つ、よく未必の故意との間で法律的議論となる「認識のある過失」というものがある。例えば、狭い路地で自動車を運転中、「子供が飛び出して来たら怪我をさせてしまうかもしれない」と認識していながら、「大丈夫だろう。飛び出しては来ないだろう。」と軽んじてそのまま走行を続け、飛び出してきた子供と接触する交通事故を起こしてしまい、その子供に怪我を負わせてしまった場合等がこれに相当する。前者は過失の下限、後者は上限とされている。判例を見てみることにする。

 

大阪梅田で会社員(当時30歳)を車ではねて約3キロ引きずって死亡させたとして、殺人と道交法違反(ひき逃げ・無免許運転)等に罪に問われた被告(24歳)の判決で、大阪地裁は去る1015日、懲役15年(求刑懲役20年)を言い渡した。

 判決理由で裁判長は、「被害者が生存していた十数秒後には被害者を引きずっている認識があった」と認定し、「そのまま走行した判断は殺意として十分」とし、「未必の故意」による殺人罪を適用した。

 事故は20081021日の午前4時15分頃、大阪市北区梅田付近の国道で発生。道路を横断しようとしていた30歳の男性がワゴン車にはねられ、そのまま西に約3キロ離れた同市福島区内までひきずられて死亡した。

 殺人の故意があったかどうかが争点となり、被告側は「事故で頭が真っ白になり逃げたが、引きずりには気づかなかった」として殺意を否定していた。しかし、裁判所は、衝突から十数秒後約85メートルの地点で異音や抵抗等「重たい感じがした」とする被告の供述を重視、「被害者が生存していたこの時に引きずっていることを認識しながら、運転を止めなかった」行為から、未必の殺意が生じていたという検察側の主張を認めている。

 

この判例では、未必の故意が認められ、殺人を犯してしまったが懲役15年というその犯罪に対し比較的軽い罪で収まっていると考えられる。未必の故意に対してこの罪は、私は妥当だと考える。ここで、未必の故意が認められたのは、やはり認識によるものである。動機説によると認識が行為者の行為動機となったことを要するという。

 

 

 

 

  1. 危険運転致死傷罪

自動車の危険な運転をして、人を死傷させると危険運転致死傷罪に問われる。飲酒、無

免許、信号無視、スピード超過などがある。判例を見てみよう。

 

被告人は,平成14年1月7日午後10時過ぎころ,東京都千代田区a町b丁目c番d号付近道路において,それまでに飲んだ酒の酔いの影響により前方注視及び運転操作が困難な状態で,普通乗用自動車の運転を開始し,もって,アルコールの影響により正常な運転が困難な状態で普通乗用自動車を走行させたことにより,同日午後10時5分ころ,同区a町e丁目f番付近道路において,同様の状態のまま時速約40キロメートルで同車を走行中,同車を道路右側部分に進出させ,折から対向進行してきたB(当時31歳)運転の自転車に自車右前側部を衝突させて同人を歩道上に転倒させ,引き続き同様の状態で上記自動車を時速約50キロメートルで走行させたことにより,そのころ,同都新宿区g町 h丁目i番付近道路において,折から同所先の交差点手前で信号待ちのため停止中のC(当時61歳)運転の普通乗用自動車の後部に自車前部を衝突させて,C運転車両を前方に押し出した上,同車前部をその前方で同様に停止中のD(当時54歳)運転の普通乗用自動車の後部に衝突させ,さらに同車を前方に押し出し,同車前部をその前方で同様に停止中のE運転の普通乗用自動車の後部に衝突させ,よって,Bに全治約2週間を要する腰部打撲等の傷害を負わせ,C及びDにいずれも約2週間の安静加療を要する頸椎捻挫の傷害を負わせた。

 

 この判例では、被告人は懲役2年に処されている。飲酒運転による事故である。飲酒運転という極めて悪質であり違法性の意識もあっただろうに、この罪の軽さは被害者が死なずにすんだからであろう。私は、この法律に関してはもっと重くすべきであると考える。この事件については、飲酒運転という運転者の軽はずみな行為がもとに起こっている。こういった危険運転に関しては明らかな故意であり飲酒をし正常な運転が困難になるという認識はだれにでもある。自動車の運転には常に責任がまとわりつく。その責任を軽んじた者に情状の余地はない、と私は考える。

 

 

 

  1. 誤想防衛と故意

正当防衛の要件たる事実 (特に「急迫不正の侵害」) が存在していないのに,存在していると誤信して防衛行為を行うこと。もちろん違法性は阻却しないが,通説は事実の錯誤として故意の成立を否定する。誤想防衛には違法性に関する事実の錯誤ないし違法性阻却事由の錯誤がある。違法性阻却事由とは、通常なら違法とされる行為でもこれを備えていれば例外的に違法とはされず、犯罪として処罰されないという条件のことをいう。典型的には正当防衛や緊急避難のことである。つまり、ある人を殴ってもそれが自分の生命を守るためにされた正当防衛であるならば暴行罪は成立しない、という場合の正当防衛が違法性阻却事由にあたる。この違法性阻却事由がないのにあると勘違いして行動した場合が違法性阻却事由の錯誤であるが、これを事実の錯誤と考えるのか、違法性の錯誤と考えるのかについては争いがある。

 

 

 

  1. 交通事故による保険、過失相殺による減額

交通事故が発生したとき、原因としては運転者の不注意が考えられる。しかし、交差点や見通しの悪い道路など、加害者による一方的な不注意ではなく被害者側の過失があるとし損害賠償額が減額される。これを過失相殺という。好意同乗に関しては妻(同一生計)にのみ認められる。

好意同乗とは、運転者が好意・親切心で、また無償で他人を自動車に同乗させることである。無償同乗ともいう。

自賠法では、その運行によって他人の生命または身体を害したときは損害賠償の責任を負うことを定めている。この場合の他人とは、運行供用者と運転者以外の者と考えられている。理由によっては運行供用者や運転者の責任が免除されたり軽減(好意同乗減額)されたりすることもありえる。被害者である同乗者が運行供用者に対して損害賠償請求することが著しく信義に反して不公平であるというような特別な事情がある場合には、好意同乗減額がされる場合もある。飲酒運転で事故を起こした車の同乗者が、飲酒運転幇助の罪に問われることがある。その上、好意同乗減額が適用されることもある。法的に罰せられた上に、受け取る賠償金も減額されてしまうのである。

交通事故が発生したとき保険に入っていれば医療費をだしてもらえる。自動車損害賠償責任保険(以後自賠責)と医療保険がある。けがをした場合点数がつき、自賠責なら一点につき30円かかるが120万円までなら無条件で保障される、医療保険なら一点につき10円かかるが自己の負担は三割ですむというもの。具体例を挙げてみよう。

 

Bが運転する車と歩行者Aが衝突、左足を骨折。Aは10万点分のけがを負ってしまった。過失割合は82

 

この場合、Aの左足骨折にかかる治療費は自賠責の場合10万点×30円=300万、医療保険の場合10万点×10円=100万円、自賠責の場合120万円ひかれるので180万円そこから過失割合により20%減額され144万円はBに請求できる。医療保険の場合、自己負担額は三割なので30万円から20%減額され24万円はBに請求できる。

 

 

 

まとめ

 交通事故と未必の故意について述べてきた。ここまでの法律体制はよくできていると私は考える。しかし、相手を死亡させてしまったときに関してはもっと重くするべきであると考える。

そもそも、「故意」というものはなんなのか。故意とは、一般的にはある行為が意図的なものであることを指す。

刑法においては、「罪を犯す意思」(刑法第381項)をいう。その具体的意味や体系的位置づけについては争いがある。民法や保険法においても用いられるが、民法上は結果の発生を認識しながらそれを容認して行為するという心理状態などと言われるが、その意義を論じる意味はないとされる。保険法においては、未必の故意を含むかどうかについて争いがある。

保険に関しては、時と場合により、自賠責か医療保険を使えばいいのかがわかると思う。

ここまで述べてきて、やはり交通事故と未必の故意の関係は難しく奥が深い。危険運転致死傷にしては危険な運転をする人は、必ず違法性の意識があるはずである。なぜ、軽はずみにそういった行動をとってしまうのだろうか。その理由は交通事故に関しての法律は、ややマイナーなのではないかと私は考える。

 

 

参考文献

交通事故用語辞典

http://alljikonavi.com/%e8%aa%8d%e8%ad%98%e3%81%82%e3%82%8b%e9%81%8e%e5%a4%b1/

交通事故の判例

http://website.hustle.ne.jp/kikenuntenchisyou.html

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齊藤美紗希

交通事故と未必の故意

 

14J102024 齊藤 美紗希

 

結論:交通事故において、もっと未必の故意を認めるべきである。

 

@交通事故における誤想過剰防衛

 まず始めに、交通事故の例として歩行者Aと運転者Bがいるとする。ここで、BはAが自分をピストルで撃とうとしている勘違いし、先に撃てなくしようと思い、Aを車でひいてしまったとする。その結果、Aは死亡した。この場合、BはAに対して誤想防衛を行ったうえに、過剰防衛をしてしまったことになる。つまり、誤想過剰防衛をしてしまったことになるのだ。とすると、Bはいったいどのような罪に問われるのだろうか。誤想過剰防衛に関する判例に当てはめて考えてみると、今回のような場合では、とりあえずBは危険運転致死傷罪にあたるが、過剰防衛でもあることから、刑法36条により、刑が減刑される。ただし学説として、客観的には急迫不正の侵害がないものとして、誤想過剰防衛は違法性が減少しないとする考えもある。わたしはこれに関して、判例と同じように、誤想過剰防衛というのは過剰防衛の面も含んでいるのだから、減刑されるものであると考える。たしかに、客観的にみると急迫不正の侵害がないということは、冷静に考えると防衛する必要もないということでもあるが、本人にとっては急迫不正の侵害がある状態であり、そのような状況で冷静な判断ができるとも考えられない。そのうえ減刑もされないとなると理不尽さを感じる。このことから、誤想過剰防衛は、有罪にはなるが本人に違法性の意識はなく、あくまで事実の錯誤であるから、減刑されるべきだと考える。

 

A未必の故意と認識ある過失の違い

 次に、交通事故においての未必の故意と認識ある過失の違いについて他の例を用いて考える。上記と同じ状況下で、Bは3日間寝ていないので、運転したら人をひいてしまうかもしれないがやむを得ないと思って運転した結果、Aをひいてしまったとする。これは未必の故意にあたる。もしこれが、Aをひいてやろうという考えのうえで積極的に車をぶつけたのであれば確定的故意ということになり、つまりは一般的な故意犯ということになるのだが、ひいてしまっても仕方がないだろうという考えのうえであれば、未必の故意ということになるのである。ここで、もしこれがひいてしまっても仕方がないと思っていたのではなく、ひいてしまうことはないだろうと思っていて結果ひいてしまったのだとする。これはは、動機説から考えると、自分はもしかしたら人をひいてしまう可能性があるかもしれないという認識がありながら、しかし現実にはそんなことは起こりえないだろうから人をひくことはないだろうと思っていた場合のことであるが、その場合には認識ある過失ということになる。しかし未必の故意では違う。ひいてしまっても仕方がない、すなわち、違法性の錯誤をしているわけでもないのにそのような行為に及んでいるということである。このような点が、未必の故意と認識ある過失の違いである。

 

B未必の故意と認識ある過失の適について

 そこで、交通事故における未必の故意について考えると、交通事故においては前述したような認識ある過失が多く適用されている。

 そもそも、交通事故においては確定的故意はほぼみられない。なぜなら、傷害や殺人という構成要件の実行行為としては運転行為というのは弱いものであるからだと考えられている。また、未必の故意についてもそうなってしまっても構わないと考えていない限り認識ある過失が適用されているので、交通事故における未必の故意が適用されづらいのも事実である。認識ある過失が適用されると、故意が認められた場合と比べると被害額も変わってくるはずだ。

 たとえば、上記の例において運転者Bには同乗している妻Cがいたとし、Bは寝不足で、ひいてしまっても仕方がないと思っている状態で運転をした結果Aをひいてしまい、怪我をさせてしまったとする。自動車損害賠償責任保険によりAは治療費をいくらか受け取ることができるが、この額も被害者側の過失があると過失相殺が適用されるし、好意同乗者であるCの支払う額も変わってくる。このように、未必の故意であるか認識ある過失であるかによって量刑も変わり、その結果被害者の負う金額、加害者の負う金額も変わってくる。

           

C飲酒運転と未必の故意

 次に、交通事故の中でも飲酒運転による交通事故について考える。

 飲酒をして運転するということは、事故を起こす可能性が十分にあることをしっかりと認識しているうえで、そうなってしまってもかまわないという思いで運転するということであるはずである。ということは、未必の故意が適用されてもいいはずであるのに、実際はほとんどの場合が認識ある過失が適用されている。わたしはこのことに関しては未必の故意が適用されるべきであると考える。

 たしかに、犯罪の成立不成立を考える場合は故意であるかどうかを考える前に、その行為がどのような犯罪になり得るかを考えなければならない。そのうえでその行為自体に故意があったものなのかを考えるのであるから、交通事故においての未必の故意は認められず、もし相手を死亡させてしまったとしても危険運転過失致死傷罪にしかならない。もし未必の故意が認められれば故意が成立したとして殺人罪になってもおかしくないはずであるが、行為自体に故意があるかどうかで考えると、結果として死亡させてしまっただけであって、殺人という行為自体には故意がない。このような考えから、飲酒運転に対しては結果に対しての故意を必要としない危険運転過失致死傷罪が当てはまるのである。

 しかし、先ほども述べたように、飲酒をしたうえで運転をすると危険であり事故を起こす可能性が高いということは常識であり、運転をしようとするくらいの意識を保っている状態であれば自分がいま運転をすることに対してのリスクの高さというのは十分にわかりきっているはずではないだろうか。そのうえで運転をするということは、人をひいてしまっても仕方がないと思っていたとしても問題ないはずであると考える。その結果刑が重くなったとしても、それは自分の責任であって、たとえ殺すつもりがない、つまり故意がない状態であったとしてもそれこそ仕方のないことである。

故意がなかったのに殺人罪のように扱われるのは理不尽だという考えももちろんあるだろうし、そのような考えも理解できるが、飲酒をしたうえで運転をしてはいけないと法律で決まっているのにもかかわらずあえてそのようなことをし、死傷者が出ることを防ぐための法を破ってまで運転し、その結果人を死傷させてしまったのであればそれなりの罪は背負うべきであると考える。被害者側も、違法行為をしているものから被害を受け、その行為自体には故意がなかったからと言って量刑がかわるというのは納得のいかないこともあるのではないだろうか。

 よってわたしは飲酒運転による交通事故においてはもっと未必の故意を認めていくべきだと考える。

 

D交通事故における未必の故意

 ここまで交通事故における未必の故意について述べてきたが、前述したように、交通事故において未必の故意はなかなか適用されない。加害者側が「事故を起こすだろうと思っていたが運転した」というような供述でもしない限り、未必の故意の適用は難しいだろう。はっきりとした状況証拠などがあれば立証することは可能だが、そうはいかないのが現実だろう。その結果としてできたのが、結果に対する故意が必要とされない危険運転過失致死傷罪や、過失致死傷罪であるはずである。飲酒運転や薬物の使用による交通事故は、たいていの場合が相手を死傷させることに対しては故意がない。あったとすればそれは確定的故意犯である。したがって故意がなくても成立する危険運転過失致死傷罪は飲酒運転などによる交通事故にうってつけのように感じる。

 しかし、やはりわたしは、危険だとわかりきっていて行っていて、かつ、それが違法な行為であるのならば厳しく罰せられるべきだと考える。

 未必の故意か認識ある過失かというのは、本人の当時の心境によるものであって、状況証拠の収集や立証は極めて難しいものであることはたしかだが、違法行為を行っているうえで人を死傷させるということに対しては、そうなるとは思わなかったという言葉では済まないものがあるはずだ。これは飲酒運転に限ったことではなく、交通事故では他にも認識ある過失が適用されているが、実は未必の故意であったという事例があるはずである。その度に被害者側は理不尽さを感じているはずであり、そのようなことがあってはならない。

 以上のことから、わたしは交通事故においてはもっと未必の故意を認めていくべきであると考える。

 

 

 

 

 

テーマ 交通事故と未必の故意

 

結論 交通事故において加害者に未必の故意を認めるべきだ。

 

なぜなら、その根拠は4つある。

 

根拠1 犯罪成立に違法性の意識は不要

 

犯罪は構成要件に該当し、違法性があり、有責性という三つの要件がそろえば成立するとしている。構成要件該当性と違法性の有無は客観的に見て判断できるけれども、有責性の有無は人間の心の中の問題であるのでその者に故意または、違法性の意識があると判断するのは難しいいと私は感じる。しかし、刑法では責任主義の原則から犯罪の行為者に犯罪を行った当時に責任がなければ罰しないとしている。そこで、私は、一つの疑問を感じた。違法性の意識、故意がなくまた、やむを得ない事由があれば犯罪を正当化してもよいのか。まず、違法性の意識とは、自己の行為が違法であると意識することを言う。これは違法性の錯誤で問題となる。そして、責任とは犯罪行為に対する法的な非難である。法的非難をするには行為者が違法であるという意識を持っていたにもかかわらず、反対動機(悪いことをしてはいけないという気持ちを押しきってやってしまう)を形成せず敢えて犯罪行為に出るという主観が必要とされている。(これを動機説という)しかし、違法性の意識の存在を犯罪成立要件としてしまうと、違法性の意識を欠くものや違法性の意識が著しく薄れた者が犯罪を犯しても罰せられなくなってしまう。これについて私は妥当でないと思う。

そこで、実際に違法性の意識の問題である違法性の錯誤の事例を見て考えてみたい。

BAが自分を爆殺しようとしていると勘違いし先にAを動けなくするしかないと思い、Aに車をぶつけた。

Bは殺人、傷害致死、過失致死、危険運転致死傷どの罪に問われるだろうか。まず、この事例はBに正当防衛(361)が成立し、違法性が阻却されると思われるが正当防衛の要件である急迫不正の侵害が無いため正当防衛は成立せず、違法性は阻却されない。そして、Bは急迫不正の侵害があると勘違いし、正当防衛で自分の行為は違法でないと思い込んでAに車をぶつける行為にでているので誤想防衛(381)になる。誤想防衛による行為は違法性の意識が無いので罰しないとしている。したがって、Bは何罪にも問われないことになる。しかし、私は危険運転致死傷罪に当たると思う。根拠は犯罪を認めるのに違法性の意識は不要であると私は考えるからだ。法律を知らなかったり適法な行為と思い込んでやったとしても犯罪は犯罪であるので罰を受けるべきである。また、国民はみな法律を知るべきであるから違法性の意識を求めずとも法的非難をしうるというのが妥当であるし、犯罪成立に違法性の意識を求めると法律を知らず、適法と思い込めば何をやっても許されることになってしまい、違法性の意識の濫用により世の中犯罪だらけになってしまう恐れもあると感じたので私はこのように考えた。

 

 

根拠2 認識ある過失が未必の故意のように裁かれないのはおかしい

 

刑法では、『罪を犯す意思がない行為は罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りではない。』『381項』と規定している。この罪を犯す意思というのが責任性で大事な要件となる故意である。刑法では原則として故意犯のみを処罰し、過失犯は特別な規定がある場合に処罰するとしている。したがって、刑法ではどういった心理状態が故意と言えるのかが極めて重要な問題になる。

 故意は私たちの普段の日常生活ではわざとということだが刑法的には構成要件に該当する客観的事実を認識しながら、敢えて行為に出る意思と定義されている。殺人罪を例にとれば、『あいつを車でひいてやる』という意思である。そして、故意、過失には心理状態により特殊なものがある。未必の故意と認識ある過失である。例えば、『狭い道路のわきを老人が歩いていて、このまま車で走って進んだらもしかして老人に接触するかも。』と思って、道路を進んで老人と接触しけがを負わしてしまった場合、未必の故意が認められる場合と認識ある過失が認められる場合がある。では、どういった場合に故意が認められ、どういった場合に過失が認められるのか。そこで、先ほど述べた心理状態が決め手となる。未必の故意と認識ある過失は行為者が結果が発生する可能性があることを認識している点で共通しており、結果発生の可能性を予測しつつ、その結果発生を認容してしまう点が異なる。上の事例で言うと、『老人に接触するかも仕方ない』と老人が場合によってけがをしてもやむを得ないが未必の故意により故意が認められることになり、対して、『老人に接触するかも。でも、これだけ道の幅があれば、まさか、そんなことはないだろう』と思った場合は認識ある過失として、故意は認められず過失がみとめられることになる。このように、未必の故意と認識ある過失は非常に判断が微妙になるのに故意か過失かの大きな違いとなる。そして、交通事故の多くは認識ある過失による過失で裁かれている。無免許運転、飲酒運転、危険ドラッグ運転等の事故も過失で処罰されているが私はこれらを過失というのはふさわしくないと思う。これらは事前に認識がある違反で違反による行為は悪い結果が起こる可能性が高いにきまっているので未必の故意同様の裁きを受けるべきであると思う。

 

 

交通事故を防止するため

多くの交通事故は、死亡事故でも傷害事故でも過失による事故である。人を死なせようと、傷つけようと車を運転する人はいないだろう。あくまで信号無視や不注意などの過失があったために起きてしまうことが多い。そのため、業務上過失致死罪という過失のつみで裁かれる。しかし、飲酒運転や無免許運転による事故で人を死なせてしまったとしたらどうだろうか。これらも過失として裁かれることが多いが、これでは被害者側が気の毒に思う。過失であろうが故意であろうが被害者側の遺族の怒りや悲しみに優劣はつけられないが、過失か故意かという問題は慰謝料や量刑に大きく影響してくるからだ。私は飲酒運転や無免許運転などの交通ルール違反は悪質さから過失ではなく未必の故意を認め危険運転致死傷罪で裁かれるべきだと思う。そうすれば、被害者側の怒りを少しでも和らげることが出来るかもしれない。

次はこういったケースについて考えてみたい。

B3日間寝ていないので運転したら人を引くかもしれないがやむを得ないと思って運転し、事故を起こした。

これについて私は加害者に未必の故意を認め危険運転致死傷罪で罰せられるのが妥当であると考える。以前は飲酒運転事故、無免許運転事故、上の事例のように持病を持ちながら敢えて運転して起こした事故に危険運転致死傷罪が適用できなかったがこれら悪質な運転者が事故を起こしている現状にそぐわないとの意見により、構成要件に修正を加えると共に、刑法から関連規定を分離して独立した法律として新たに制定され適用できるようになった。また、飲酒運転や無免許などに運転に未必の故意を認める考えは交通事故防止にもつながると思う。交通事故への規制が甘いと車を運転する人が危機感をあまり持たず、事故を起こしても仕方ないというように思ってしまう。しかし、飲酒運転事故、無免許運転事故に過失ではなく未必の故意を認め処罰するようにすれば、被害者側の過失があり、どうしても避けることができないような事故の防止にはならないと思うが少なくとも、飲酒運転や無免許運転などの悪質なものは減っていくのではないかと思う。

 

 

 

 

飲酒運転などの危険運転による事故にも過失相殺するべきか

 

 車を運行する場合には自動車損害賠償保険に加入しなければならないことが法律で義務づけられている。この自動車損害賠償保険とは車を運行中に他人にけがをさせたり、死亡させたりした場合の被害者に対する損害賠償金の一部を負担してくれるものである。しかし、補償してくれる上限は120万円と決まっている。そこで、医療保険と自動車損害賠償保険、どちらを使った方が最終的な自己負担総額が安いか。それは、1点単価が医療保険は10円で自動車賠償保険は30円なので医療保険の方がお得であるとわかる。また、賠償金額は被害者側の過失割合と加害者側の過失割合を過失相殺して算定するため当事者の過失度合いによって減額したり、増額したりする。ちなみに、過失相殺とは加害者の賠償金額を算定する際に被害者側の過失度合いを考慮して賠償金額を求めることである。

これからは以下のことについて検討してく。

  1. 事故を起こした加害者の車に好意同乗者が乗っていてけがをさせたが好意同乗者にも損害賠償が及ぶのか。
  2. 交通事故で被害者に過失があったら過失相殺により損害賠償が減額されるか。

B被害者に過失があったが交通事故を起こした者は飲酒運転だった。この場合にも過失相殺により損害賠償が減額されるか。

 

 

まず、@について見ていく。

これについて私は同乗している人物によって異なると考える。例えば、タクシーであったら同乗しているのは赤の他人であるので危険な目にあわせたのならば賠償金を払う義務があると思うが、同乗しているのが妻や身内であったら家計が同じであるので意味がないと考える。

 

Aについては、過失相殺により賠償金が減額されるべきだと思う。どんなに被害者側に落ち度があったとしても悪いのは圧倒的に大きい車の方であるので減額される割合は少ないかもしれないが過失相殺するのが妥当であると思う。ただし、加害者の悪質な運転によらないことが条件である。

 

最後にBについて考えていくがこれについて私は被害者側に過失があったとしても悪いのはだれがどう見ても飲酒運転をしていた加害者であるのは明らかであるので過失相殺の適用は不要であると考える。

 

今回のレポートはどんなに正当な理由があって犯罪を犯したり、うっかり人を殺してしまったような場合でも違法は違法であるので減軽されるのはおかしいということ見てきた。そして、これからは様々な犯罪を防止するため法律に携わる仕事をしている人だけが法律を学ぶのではなく日本国民全員が法律を知っていくべきであると感じる。

以上

 

 

参考資料

授業ノート

誰にでもわかる刑法総論 佐々木知子著 立花書房

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B1%E9%99%BA%E9%81%8B%E8%BB%A2%E8%87%B4%E6%AD%BB%E5%82%B7%E7%BD%AA

 

http://www.hou-nattoku.com/mame/yougo/yougo12.php

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%85%E6%84%8F

 

http://www.hajimete-carhoken.com/jiko/baisyo/955/

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%80%9A%E4%BA%8B%E6%95%85%E3%81%AE%E9%81%8E%E5%A4%B1%E5%89%B2%E5%90%88

 

http://ameblo.jp/dahlem-niko/entry-11326187897.html

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%95%E6%B3%95%E6%80%A7%E3%81%AE%E6%84%8F%E8%AD%98

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%95%E6%B3%95%E6%80%A7%E3%81%AE%E6%84%8F%E8%AD%98

 

http://www.sjnk.co.jp/kinsurance/automobile/jibaiseki/

 

http://insurance.yahoo.co.jp/auto/info/compulsory/basic_01.html