猪股俊介

『故意と違法性の意識』

 

1. 故意と違法性の意識に関する私的見解

 

私は現状は制限責任説を推すものとする。

 

 

. 故意・過失とはなにか?

 

構成要件とはなにか。それは、違法で有責な行為のうち、刑罰を科すに値するものを取り上げて類型化したものである。端的に言うならば、殺人の構成要件は「人を殺したこと」であり、窃盗の構成要件は「他人の財物を窃取したこと」ということになる。さて、そんな構成要件要素であるが、各種犯罪の構成要件を見てみると、一般的に共通する要素は次の通りである。

 

客観的構成要件要素

(1) 行為 / (2) 行為の主体 / (3) 行為の客体 / (4) 行為の結果

(5) 因果関係{行為と結果の結びつき} / (6) 行為の状況

 

主観的構成要件要素

(1) 故意・過失 / (2) 目的犯における”目的” / (3) 傾向犯における”傾向”

 

では、これを踏まえたうえで故意とは刑法上におけるどの分野のなにを指しているのだろうかという問いに答えを返すなら、故意は犯罪の構成要件要素における主観的構成要件要素の一部であるということになる。故意から掘り下げた説について語る上で、故意とは何かという点が抜け落ちてしまっていては困るので、故意・過失とは何かという点について触れなければならない。刑法における故意の条文は38条にあり、以下のことが明記されている。

 

<1>罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。<2>重い罪に当たるべき行為をしたのに、行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない。<3>法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる。

 

このように第一項にもある通り、故意における重要な部分というのは自分の意思で犯罪を犯したのかどうかということである。例を挙げるならば、自分が人を殺すつもりで銃を発砲して相手を殺害した場合と、銃の手入れをしているうちに誤って発砲してしまい、近くにいた人を死亡させてしまった場合とでは、行為の客観的部分である 「人の死亡」 という点が同じであっても、行為者に故意が有ったか無かったかによって違法性の程度も異なるということである。一般に故意を簡単に説明した場合「わざと」という言葉が使われるが、過失を説明するならば「うっかり」などの意思外を意味する言葉が使われる。過失に関しては条文は当然に存在しないのだが、例における後者の”そのつもりはなかったのに誤って発砲してしまった”というのが過失を示しているとここで補足しておく。さて、話を戻すならば、故意は客観的構成要件要素に該当する事実を認識・認容している場合であり、過失は客観的構成要件要素を認識していないか、あるいは認識していても認容していない場合ということになるのだが、このような故意・過失を、主観的構成要件要素として 構成要件該当性の段階で判断するというのが今の通説的見解になっている。

 

 

では、構成要件的故意についてもう少し深く掘り下げていこうと思う。構成要件的故意が認められるために必要なものは、言うまでもなく犯罪事実の認識である。なぜならば、犯罪事実を認識していなければ、そこに 「罪を犯す意思」 があるとは言えないからだ。ただ、認識という意思的要素の他に、犯罪事実の実現を意欲するという意思的要素も必要とするかという点については、次の三つの説がある。

 

(1) 認識説

犯罪事実の認識だけで足りると解する説

(2) 意欲説

犯罪事実の認識のみならず、その実現を意欲・または望むことが必要と解する説。

(3) 認容説 〜 通説・判例 〜

犯罪事実の認識の他に、積極的な意欲は不要であるが、犯罪事実が実現するなら実現しても仕方がない、やむを得ないとして認容していることが必要であると解する説。

 

なぜ認容説が通説・判例なのかという点について言及すると、故意・過失の分水嶺としての道義的な面を考慮した際に、認識だけで足りるとする認識説は妥当性を欠いてしまい、意欲がある場合にのみ故意犯が成立するというのも限定的すぎるという点で意欲説にも問題があったからということである。なお、認識・認容の対象となる犯罪事実は、客観的構成要件要素に該当する事実ですが、因果関係は詳細な認識を必要とせず、結果的加重犯の重い結果についても認識・認容を必要としない。問題となるのは、「規範的構成要件要素」の認識・認容である。例えば、英語を理解していない書店主が、英文で書かれたわいせつな書籍を、内容を理解できないまま販売した場合に刑法175条になるのだろうか。この場合は、書店主が英語を解しておらず、内容も知らないということで販売していたならば、わいせつ文書の認識がないから罪にはならないと考えられる。ただし、みだらな性描写・表現があることは知っており、それがわいせつになるかどうかの判断の点で、わいせつには当たらないと書店主が考えていた場合には犯罪が成立すると考えられる。つまり、わいせつというような規範的構成要件要素に関しては、社会的な事実として一般通常人なら理解し得る程度の 「意味の認識」 さえあれば、犯罪事実の認識にかけるところはなく、その点を認容していれば故意は成立すると考えられているのである(チャタレイ事件もほぼ同等の内容と思われる)

 

 

次に、構成要件的故意にはどのような種類があるのかを見ていきたい。一般に、構成要件的故意の種類としては、次のような分類がなされている。

 

(1) 確定的故意と未必の故意

<1> 確定的故意とは、犯罪事実の実現を確定的なものとして認識し、認容している場合の故意を言う。

<2> 未必の故意とは、犯罪事実の実現を可能なものとして認識し、任用している場合の故意を言う。※そうなるかもしれないが、まぁいいかといったものを言う。

 

(2) 不確定的故意

不確定的故意とは、行為者が犯罪事実の実現を不確定なものとして認識し、認容している場合の故意で、前記の未必の故意も含まれるし、次の概括的故意、択一的故意も不確定的故意となる。

<1> 概括的故意とは、一定の範囲の集団的な客体に結果が発生することは確実であるが、客体の個別的特定、個数が不確定である故意を言う。

<2> 択一的故意とは、二個の客体のうちいずれか一方に結果が発生することは確実であるが、いずれに発生するかが不確定である故意を言う。

 

さて、ここで重要になってくるのが未必の故意と過失の関係である。前述したとおり、通説・判例の立場である認容説にたった場合、犯罪事実の認識を欠く場合には故意が認められないが、さらに認識があったとしても認容がなければ同様に故意は成立しない。この点を過失犯の視点で見てみた場合、過失は犯罪事実の認識を欠いている場合と、犯罪事実の認識はあるが認容を欠いている場合の二つがあるということになる。この前者を認識なき過失、後者を認識ある過失と呼んで区別しているのだが、これらを内心の意思が強い順に並べると次のようになる。

 

確定的故意 〜 犯罪事実実現の確定的認識があり、認容もある

未必の故意 〜 犯罪事実実現の可能性の認識があり、認容もある

認識ある過失 〜 犯罪事実実現の可能性の認識はあるが、認容はない

認識なき過失 〜 犯罪事実実現の認識がない

 

これに関しては例を挙げるというのがなかなかに困難である。というのも、確定的故意と未必の故意に関して事例をもとに見比べてみたとき。または、未必の故意と認識ある過失に関して事例をもとに見比べてみたときなどを考えると判断が難しいものだとわかるだろう。例えば、自動車を運転していて多数の歩行者のそばを通り抜けようとしたときを例に考える。これにおいて、もし 「うまく通り抜けることができたならそれでいいが、歩行者を跳ねて轢いてしまったらそれはそれで仕方がない」 と考えて運転し、実際に歩行者を轢いて怪我をさせてしまった場合は、認容があるので未必の故意になる。しかし、ここで 「下手をすると歩行者を轢いてしまうかもしれないが、自分は運転に自信があるから大丈夫だ」 と考えていた場合には、認容がないので認識ある過失ということになるのである。

 

 

 

3. 事実の錯誤

 

故意犯の構成要件該当性が認められるためには、行為者に構成要件的故意、すなわち犯罪事実の認識・認容が認められ、その認識・認容した通りの結果が発生することが必要だが、実際には必ずしも行為者の認識・認容した事実ではなく、それと異なる結果が発生してしまう例が少なくはない。このように、行為者の主観的な認識・認容と、客観的に発生した事実とが異なる場合が 「事実の錯誤」 であり、構成要件的故意に関する問題であることから 「構成要件的錯誤」 とも呼ばれている。この、構成要件的錯誤の問題は、行為者の認識・認容と実際に発生した客観的事実とが異なる場合であるから、認識・認容していなかった発生事実について、構成要件的故意の成立を認めることが出来るかどうかという問題が中心となる。また、事実の錯誤の分類としては、客体を誤認した場合の 「客体の錯誤」 と 方法を誤った場合の 「方法の錯誤」 の二種類に区別される。そして、そこから錯誤が同一の構成要件の範囲内にある事実であれば 「具体的事実の錯誤」、異なる構成要件の間における事実であれば 「抽象的事実の錯誤」 の問題として分類されている。

 

ここで、この分野に関する学説の対立を紹介しておくと、事実の錯誤に関する学説の対立と、抽象的錯誤における故意の数の学説の対立がある。前者についてより深く見ていくならば、これは刑法第38条2項の規定に絡んだものであり、現在三つの説が対立している。争点は事実の錯誤がある場合、発生した事実についての構成要件的故意が認められるかどうかというものである。

 

(1) 具体的符合説

認識・認容した事実と発生した事実が一致しない限り、原則として発生した事実については構成要件的故意を阻却・否定すると解する説。

(2) 抽象的符合説

犯罪意思を持って犯罪結果が発生すれば、行為者の社会的危険性は十分であるから、少なくとも軽い罪については構成要件的故意が成立すると解する説。

(3) 法定的符合説 〜 通説・判例 〜

認識・認容した事実と発生した事実が、構成要件的評価として一致していれば、その限度で構成要件的故意が成立し、一致していない場合は構成要件的故意を阻却すると解する説。

 

最後に、この問題において少し重要になってくるのが違法性に関する事実の錯誤の問題である。これがどういったものかというと、自分の行為には違法性阻却事由があるため違法ではないと勘違いしていた場合をいう。一般的に違法性阻却事由という言葉があげられたとき、関連するワードとして出てくるものとして正当行為・正当防衛・緊急避難の三つがある。しかし、実際にこれらに該当していないにも関わらず防衛行動をとってしまったことによる事例になるのが 「誤想防衛」 などの違法性阻却事由の錯誤の問題であり、英国騎士道事件が有名な判例としてあげられる。

 

 

4. 法律の錯誤

 

法律の錯誤とは違法性の錯誤とも呼ばれ、発生した違法な事実については認識があり認識通りの結果が発生しているが、自分の行為は「違法ではない」と思い込んでいた場合を問題にしたものである。これに関しては 「法の不知」や「あてはめの錯誤」 という二つの類型がある。では、この法律の錯誤において違法性の意識と絡めて考えた場合、つまりは違法性の意識が欠ける場合に故意ないし責任は阻却されるのかという点において、38条3項に関連した学説の争いがある。以下三つがそうである。

 

(1) 厳格故意説 [違法性の意識必要説]

違法性の意識は、責任故意の要件であり、違法性の意識がなければ故意犯は成立しないとするもの。道義的責任論を徹底した考えであり、違法性の意識の有無は故意・過失を分ける分水嶺となる。

(2) 違法性の意識不要説

「法の不知は許さず」 ということで、法の不知を弁解として認めていたら法治主義を徹底できないとする立場。したがって、違法性の意識がなくても故意犯は成立すると考えられる。

(3) 制限故意説

違法性の意識までは必要でなく、違法性の意識の「可能性」の有無によって判断しようという立場であり、違法性の意識の可能性が責任故意の要件になるため、可能性すらなかった場合には、責任故意が阻却され、故意犯は成立しないとする。

 

この三つの説において、通説・判例は制限故意説を採っている。その理由は、厳格故意説では、違法性の意識が乏しい常習犯や、違法性の意識がない確信犯等に対する適用が困難になりかねないということ。また、不要説をとった場合は、これだけ法規制が複雑化した時代にあって、適法・違法の区別も困難な限界事例において、違法性の意識がなくてもすべて処罰することができるということになれば、責任主義の原則に反してしまうと言えてしまうことがあげられる。

 

 

5. 5つの説の比較、見解

 

さて、ここからが本レポートの主題ということになるのだが、違法性の意識に関する説の比較である。とはいったものの、私はここまでで故意説しか見ていないというのもあるので、先に残りの責任説の説明をしてからとする。

 

責任説とは、違法性の意識の認識可能性を故意・過失共通の独立した責任要素であると解する見解をいう。この説では、犯罪事実の認識は故意そのものであり、違法性を認識すべきものであるので、違法性の意識の有無が行為を行った時点であったかどうかは責任非難の質的差異をもたらすものではないと考える。 つまり、現実にその行為の違法性を認識していたか否かを問わず、故意犯としての責任を免れないことになるのである。これもまた刑法38条3項に絡む問題であり、責任説も以下の二つの説に分かれている。

 

(1) 厳格責任説

責任説を厳格に貫き、違法性阻却事由該当事実の認識は故意とは無関係な責任要素であるから、その誤信に回避可能性がある場合にのみ責任阻却が肯定されるとする見解である。 この見解によれば、構成要件的故意が肯定される場合には、故意犯が成立するか不可罰となるかの二者択一であり、過失犯が成立することはないことになる。

(2) 制限責任説

厳格責任説を採ると妥当でない結論に至ることを踏まえ、違法性阻却事由該当事実の誤信は故意を阻却するとする見解である。 この見解によれば、誤想防衛や誤想避難について故意阻却が肯定されることとなる。

 

ここで注目すべき点というのが、判例・通説のある故意説の路線を現実的にとったところで、どこかおかしいと思われる点が出てきてしまうというところである。先に述べた部分も含めて見返してみると、不要説をとった場合には責任主義に反してしまうという点。厳格故意説をとった場合には、違法性の意識が必要とされる以上は確信犯が無罪になってしまうという点。制限故意説をとった場合には、確信犯を有罪にするために違法性の意識を可能性で良いとした結果、可能性がない場合には責任主義から過失犯も不成立になってしまうという点。よって、どの説が良いのかということを考える場合において、考慮すべきは責任説の側ということになる。なぜこういったことになったのかというかというと、違法性の意識は故意の一要素として一緒に考えるのか(故意説)、それとも別個に考えるのか(責任説)という違いなのである。故意と違法性の意識は全くの別個のものとすることで、違法性の意識はなくても故意は成立するのだが、違法性の意識は故意とは別の責任要素として責任追及ができるというものなのである。つまり、故意説の抜け穴を補おうとして、幅広く対応すべく柔軟性を増したのが責任説である。しかし、英国騎士道事件などの例を見た場合、厳格責任説をとるというのは少しおかしく感じる点も出てくる以上、より妥当性を見いだせるのは制限責任説ということになるだろう。

 

ここまで故意とその説について見てきたのだが、改めて俯瞰目線で見てみると、それぞれの説を改善してきたであろう歴史を見ることができ、なぜ説が対立することがあるのだろうという純粋なまでの疑問が湧かずにはいられない(制限責任説がベストで良いではないかと思うのである)。しかし、各説の問題点を見てみると 「ここだけがおかしい」 と言わんばかりに、なにもかもが間違っているという訳ではなく、そこだけが見直されたなら正当性を持って主張できるだろう内容ばかりである。現に私自身は、やや厳しい目で見てしまいがちな以上、どこか不要説を推したくなっているというのも事実である。現にこの不要説も、法を遵守せよという観点において言っていることに間違いはなく、ただ、そこにワンクッションがないばかりにどこか異常に厳しい内容となってしまっている訳で、ここを上手く改善したならば十分魅力的な説となりうるのではないかと考える (それでもなお、より柔軟に対応しているのが責任説である以上、責任説の優位性は変わらないのだが)

 

本レポートの主たるテーマである故意と違法性の関連性であるが、犯罪に触れる事柄を行っているという事実と、その内面の心理において矛盾が生じてしまうという実情を考える以上、より柔軟に考えるということは、必要上良いとこ取りをしてあるべき対応をするということでもある。これは何ら悪いことではないし、むしろあるべき方向へと考える以上は褒められるべきことである。しかしながら、判例・通説においては故意説の一を採用しているというのもまた事実。これは、やはり判例を重視しすぎるあまりに変えられないという、古きに倣えといえばよく聞こえるが、日本の法律の頑固な点でもあると私は考える。特に故意が犯罪の成立におけ る重要な要素として考えられている以上、早急な対応をしていかねばならないのではないかというのが私の考えである。

 

以上

 

< 目次 >

 

1. 故意と違法性の意識に関する私的見解

. 故意・過失とはなにか?

3. 事実の錯誤

4. 法律の錯誤

5. 5つの説の比較、見解

 

 

< 参考・引用に用いた書籍、又はサイト >

授業ノート

六法全書

刑法総論 [成文堂-高橋則夫著]

実務に即した刑法総論 [成文堂-五島幸雄著]

 

弁護士ドットコムより「規範的構成要件要素」

Wikibooks項目 刑法38条 / 違法性の意識

ウィキペディア項目 各故意説 / 違法性の意識 / 錯誤 / 英国騎士道事件

 

 

 

 

齋藤未佳

「故意と違法性の意識」

13J108015 帝京大学法学部法律学科3年 齋藤未佳

 

0.結論

近代刑法の立場から、故意と違法性の意識は無関係であると言え、判例の不要説ではなく、制限責任説を採用すべきだ。

 

1.故意と違法性の意識の関係を論じるにあたり知っておくべきこと

まず、罪刑法定主義と並ぶ近代刑法の重大な原則の一つに、責任主義がある。責任とは、構成要件に該当する違法な行為をしたことについて、その行為者を道義的に非難し得ること、すなわち非難可能性をいう。そして、刑罰を科すためには責任がなければならないとする原則を責任主義という。

次に、故意とは、罪を犯す意思である。具体的には、犯罪事実の認識・表象のことをいう。刑法381項は、「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。」として、故意処罰の原則を定めている。

故意の犯罪事実の認識であるが、その内容を具体的に分析すると、@構成要件に該当する客観的事実の認識、A行為の社会的・規範的意味の認識、B違法性の意識、C具体的な条文の認識に分けられる。例えば、殺人罪の故意の場合には、@ピストルを胸に撃ち込むことの認識、Aそれが殺すことを意味することの認識、B殺すことが悪いことであることの認識、Cそれが刑法199条に該当することの認識である。Cの具体的条文の認識が不要なことについては争いがないので、ここでは、@からBを具体的に検討する。

@構成要件該当事実の認識

構成要件該当事実とは、具体的には、行為の主体、行為の客体、実行行為、結果犯における結果、因果関係の基本的部分をさす。行為者の主観的認識と客観的事実の間に齟齬が生じていた場合には、後述する事実の錯誤となる。

A意味の認識

意味の認識とは、構成要件において何らかの評価・価値的判断を必要とする規範的構成要件要素を認識することである。例えば、わいせつ文書頒布罪(刑法175)の故意があるというためには、単に文書の存在を認識していただけでは不十分であり、その文書の社会的意味ないし性質を認識していることが必要とするのが学説である。(規範的構成要件要素に関する判例:社会関連→チャタレー夫人の恋人事件、法的関連→無鑑札犬撲殺事件など)

B違法性の意識

故意が認められるためには違法性の意識があることを要するのか。具体的には、犯罪事実の認識はあるか、それが法的に許される行為であると誤信していた法律の錯誤(違法性の錯誤)の場合に問題となる。

次に、故意の種類について。故意には、犯罪事実の実現を確定的なものとして認識する確定的故意と、犯罪事実の実現を不確定なものとして認識する不確定的故意がある。そして不確定的故意には、以下の三つがある。

@概括的故意

結果の発生は確定的であるが、結果の個数や具体的客体か不確定なものをいう。

A択一的故意

複数の結果のうちいずれかが発生することは確実であるが、いずれの結果が発生するかは不確定なものをいう。

B未必の故意

結果発生自体は不確実であるが、発生するかもしれないことを表象しつつ、発生するならば発生してもかまわないと認容している(認容説)ものをいう。

最後に、錯誤について。錯誤は、@構成要件に該当する客観的事実に関する錯誤である事実の錯誤と、A行為が法律上許されているかという点に関する錯誤である法律の錯誤に分けられる。ここでは、Aの法律の錯誤について詳しく述べるとする。法律の錯誤とは、自己の行為を法的に許されたものと誤信することである。この場合、自己の行為が法的に許されると思っており、自分が「悪いことをしている」という違法性の意識が欠けることになる。この点について、刑法383項は、「法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。」としている。ここで、違法性の意識がない場合の処理をどうすべきかが刑法383項の解釈と関連して問題となる。

法律の錯誤についての学説は、以下のように分けられる。

@故意説

@)厳格故意説

違法性の意識がなければ故意はないとする見解である。

A)制限故意説(通説)

違法性の意識自体は必要ではないが、違法性の意識の可能性は故意の要件として必要であるとする見解である。

A責任説

違法性の意識の可能性は故意とは区別された独立の責任要素であり、それが欠ける場合には責任が阻却されるとする見解である。

この説によれば、刑法383項は、違法性の意識がなくても故意は認められると解することになる。

B)厳格責任説

責任説を厳格に貫き、違法性阻却事由該当事実の認識は故意とは無関係な責任要素であるから、その誤信に回避可能性がある場合、つまり違法性の意識の可能性がある場合にのみ責任阻却が肯定されるとする見解である。

C)制限責任説

厳格責任説を採ると妥当でない結論に至ることを踏まえ、違法性阻却事由該当事実の誤信は故意を阻却するとする見解である。

B違法性の意識不要説(判例)

故意の要件としては犯罪事実の認識があれば足り、違法性の意識は故意の要件ではないとする。不要説をとったことが分かる判例として、「メチルアルコール」が法律上所持、譲渡が禁止されている「メタノール」と同一であることを知らなくても、それは単なる法律の不知にすぎず、犯罪構成に必要な事実の錯誤に何ら欠けるところはないから、故意があったと認められるとした。よって判例は、違法性の意識不要説をとっている(最判昭23714)

事実の錯誤法律の錯誤の区別については、以下の通り。違法性の錯誤は原則として故意責任に影響を及ぼさないが、事実の錯誤は故意を原則として阻却するから、ある錯誤が事実の錯誤法律の錯誤かは、行為者の罪責の確定にとって極めて重要となる。通説は、違法性の前提となる事実の認識を欠いていたときが事実の錯誤であり、違法性を帯びた法的事実へとあてはめる評価の過程における錯誤が違法性の錯誤であるとする。

判例を挙げると、@狩猟法上捕獲が禁止されている「たぬき」と「むじな」は別の動物であると信じて捕獲した場合、「たぬき」を捕獲するという認識を欠き、事実の錯誤として故意が阻却されるとした(大判大1469)。つまり、犯罪不成立。

Aその地方で「もま」という俗称で呼ばれている動物が、狩猟法捕獲が禁止されている「むささび」と同一のものであることを知らずに捕獲した場合、それは法律の不知であり、法律の錯誤として故意を阻却しないとした(大判大13425)。つまり、犯罪成立。

 

 2.制限責任説を採用するとよいと考える理由

上記の法律の錯誤についての学説と判例の立場についての批判を挙げる。

まず、判例が採用した不要説であるが、これは冒頭で書いた近代刑法の重大な原則の一つである、責任主義に反するといえる。時代の変化とともに、法適用も変化させなければならないのであるから、判例の立場も変えるべきだと考える。

次に、故意説の厳格故意説、この説に対しては、常習犯を重く処罰し、確信犯を処罰することの説明が困難であると言える。よって、確信犯が無罪になってしまうのはおかしい。また、自己の行為が法的に許されると軽信しても故意を否定することになり不合理であろう。例えば、不法駐車を繰り返し、特に何も言われなかったため、それほど悪いことだとは思わなかったという場合、錯誤により違法性の認識を欠いたために、故意の成立が否定されてしまう。このような場合は故意の成立を認めるべきだと私は思う。

制限故意説は、これは、厳格故意説では無罪になる確信犯を有罪にするために、違法性の意識の可能性でよいとしたが、責任主義から、違法性の意識の可能性すらない場合には故意犯も過失犯も不成立となるため、最適な説とは言えない。

次に、責任説の厳格責任説は、構成要件的故意が肯定される場合には、故意犯が成立するか不可罰となるかの二者択一であり、過失犯が成立することはないことになる。正当防衛などの違法性阻却自由に該当する事実の認識をしたような場合も同じである。つまり、誤想防衛は構成要件的故意を阻却せず、責任だけを阻却する。しかし、誤想防衛の場合、行為者は一方で相手方に危害を加えることを認識しながら、同時にその違法性を阻却する事実があると認識している。このような二つの事実を認識している場合、行為者は違法性を基礎づける事実を認識しているとは言えない。それにもかかわらず、故意を認め、責任だけを阻却するのは納得がいかない。誤想防衛は責任ではなく、故意を阻却すると考えるべきであると私は思う。

そこで制限責任説だ。この見解によれば、誤想防衛について故意阻却が肯定されることとなる。よって私は制限責任説を採用すべきだと考える。

 

3.近代刑法の原則をゆるがす特定秘密保護法

近代刑法を考える上で、それに違反しているのではないか、と批判が多い法律がある。特定秘密保護法だ。201312月に成立し、201412月に施行された特定秘密保護法とは、我が国の安全保障に関する情報のうち特に秘匿することが必要であるものの保護に関し、必要な事項を定めるもの。この法律は、特定秘密の漏洩を防止し、国と国民の安全を確保することを目的としている。

この法律は、罪刑法定主義に反し、憲法31条の適正手続き違反であるとの声が多数ある。特定秘密保護法の罰則は、文言が曖昧であり、処罰範囲は広汎であることが批判される理由である。

冒頭にも書いたように、近代刑法の重大な原則に責任主義とともに罪刑法定主義がある。罪刑法定主義は、犯罪と刑罰が国会の制定する法律によらなければならないとするもので、政府が刑罰法規を定めることは基本的人権と議会制民主主義の見地から許されない。この法案の特定秘密はそもそもきわめて広範囲であり、具体的な内容は行政機関の長が決定する。このような罰則は、刑法による保護の対象を事実上行政機関の決定に広範に委任するという意味で、それ自体罪刑法定主義の趣旨に反すると言えるのだ。

処罰の類型も秘密漏洩を中心に、特定秘密の取得行為、独立教唆・扇動、共謀にまで及び、過失による漏洩の処罰も含まれている。ということはつまり、ささいな行き過ぎを口実に、報道機関の取材や住民運動の側の調査活動は規制の対象とされ、活動を萎縮させる恐れが大きいと言える。

そして、特定秘密保護法は「現代の治安維持法」であるとの批判もある。処罰の範囲が明確でない点から、戦前の治安維持法のように、どんどん拡大解釈され、国民弾圧に使われてしまうのではないかという恐れがあるからだ。唯一戦前、戦時中と全く違うのは、当時、情報は新聞など特定の手段に限られていたため、事前に政府の暴走に気づくことができなかったことと、無関心さ、及び政府により誘導された事が挙げられると考える。それに対して現在は新聞だけでも一般新聞以外にも日刊現代のようなゲリラ新聞があり、また、ネットを通じて情報交換ができることによって、政府がどのような事をしようとしているのかが見えてくる。しかし、特定秘密保護法により情報がシャットアウトされた場合は、戦前のように誘導されてしまわないとも言い切れない。したがって、世の中の動きを常に見ていかなくてはならない。私は、無関心が一番怖いものだと思う。世の動きに敏感になり、自分なりに何が正しいのか、正しくないのかなどを考え、行動をしていかなければならないと思う。

以上

 

参考文献・出典

講義ノート

法令用語研究会編『法令用語辞典』第2 有斐閣2001

大塚 仁『刑法概説(総論)』第3 有斐閣 1997

大谷 實『刑法講義総論』成文堂 新版第3 2009

幹人『刑法総論』東京大学出版会 2000

前田雅英『刑法総論講義』第3 東京大学出版会 2000

前田雅英『最新重要判例250刑法』第3 弘文堂 2000

山口 厚『刑法総論』有斐閣 2001

特定秘密保護法

http://www.newsweekjapan.jp/column/ikeda/2013/12/post-767_1.php

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/37621

http://lite.blogos.com/article/73257/

http://www.tokyo-np.co.jp/feature/himitsuhogo/seimei.html

http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1663

https://www.jimin.jp/s/activity/colum/122766.html

 

 

 

 

木原海斗

13j110001 木原海斗

 

故意と違法性の意識について考えるにあたり私は責任説に賛成である。

 

1.    故意説の落とし穴

故意と違法性の意識を考えるにあたり大きく分けて故意説と責任説があるが私は責任説のほうが正しいと考えている。なぜ故意説に反対かというと、制限故意説だと違法性の意識がなかったら無罪になってしまうそうすると確信犯。思い込んだ人はみんな無罪になってしまうのではないか?例えば罪刑法定主義だと犬を殺そうとして殺せなかった。器物損壊の罪になるはずだったが結果として器物損壊の未遂になった。未遂というのは罪刑法定主義から無罪になる。あるいは過失の器物損壊これも未遂になり無罪だ。これはおかしいのではないか?これは制限故意説の一番の問題だろう。

そして確信犯を無罪にするのはおかしいと思うからだ。

なんらかの過失がないと罪に問えないという事は過失致死のような事があると無罪にせざるおえなくなるので私は故意説には賛成できない。

これに対してドイツで発展してきた責任説は故意と違法性の意識は別個のものと判断して責任追求ができる点が優れていると思うからだ。

 

 

1.    合理的な責任説

責任説のなかでも大きく分けて厳格責任説と制限責任説に別れる。この違いは例えば誤想防衛は正当防衛成立だと思い込み誤解している。

そして誤想防衛は充分間違う可能性が高いだろうと考え、事実の錯誤で認識がなければ故意犯が不成立だからそれと同じ立場で誤想防衛を考えるのが制限責任説。

それに対して誤想防衛法律の錯誤と同じで有罪にすべきだというのが厳格責任説だ。

そして私が責任説に賛成した大きな理由は騎士道勘違い事件の判例によるものだ。騎士道勘違い事件は結果誤想過剰防衛という判決になった。

この事件では数日後被害者が死亡してしまい、英国人もやり過ぎたと思っているわけだ。過剰の認識があるという事は事実の認識があるという事だろう。誤想防衛は事実の認識がないから無罪だけれども誤想過剰防衛は事実の認識はある。したがって傷害致死が成立するという制限責任説の考え方は実に合理的だと思い私は責任説に賛成する。

 

1.    二つの故意説とその批判

厳格故意説

違法性の意識をして、反対動機を形成しえたにもかかわらず、あえて犯罪行為に出たことにより、初めて法的非難の対象となる

だがこの考えで考えると常習犯や激情犯は、違法性の意識がないから、処罰できなくなるのではないか。

制限故意説

違法性の意識までは不要である。しかし、違法性の可能性を意識しつつも違法と判断しない(=反対動機の形成をしない)人格を作り上げたという点に、法的非難ができる。したがって、違法性の意識の可能性が否定されることにつき、相当な理由がある場合には、故意阻却になる余地がある。

だか故意とは、「知っていること」をいうのに、「知らなくても知りえた」ことを故意に含ませるのは、矛盾しているといえるのではないだろうか。

 

4・未必の故意のメリットとデメリット

未必の故意とは犯罪事実の発生を積極的に意図あるいは希望したわけではないが,その可能性を認識し,しかもその結果が発生してもかまわないとする認容する事をいう。

刑法では故意のない者の行為は処罰しないのが原則となっている。意図しない事故などで謝って人に害を与えた時などはこの条文に守られるだろう。だがそうするとナイフで人を刺しても殺すつもりはなかったと言われたらどうなるのかと不安になったがそれを補えるのが未必の故意だろう。これにより俗にいう言い逃れができなくなり処罰する事ができるだろう。

だがこの未必の故意の判断基準がとても曖昧だと感じるもし最初から人を殺すつもりで殺したとしてもまさか死ぬなんて思わなかった、殺すつもりで刺したわけではないんだなどと言われたらそれだけですこし罪が軽くなってしまうというのもおかしいのではと思うがここは裁判官の規範的構成要件要素を信じると共にまた規範的構成要件要素をより明確にするべきだと思った。

 

 

1.    規範的構成要件要素

故意犯が成立するためには、規範的構成要件要素についての認識が必要なので、この規範的構成要件要素について錯誤が存するときは故意を阻却する事になるが、通常の事実の錯誤の場合(事実に対する認識)と異なってその錯誤はある種の事実評価をその基礎としているため、その性質としては『処罰されないだろう』という違法性の錯誤に近接する部分が強いだろう。

これについての判断を示したのがチャタレー事件判決です。

中江ゼミの講義でも取り上げたが、刑法175条の猥褻物頒布・販売罪における故意とは、『猥褻な記載』が存することの認識とそれを頒布販売する認識があれば足り、その記載が175条にいう「わいせつ」性を具備していることの認識までは要しない、という判決であった。

そもそも「わいせつ」の認識がなかった場合に故意を認めることは出来ないけれども、「確かにわいせつかもしれないけど、こんなもの大した事ないだろう」というのは、猥褻の意味の認識は確かにそこに存しているわけだし、ただ単に法規範に当てはめを間違えただけなので、意味の認識としての故意をそこに認めることができるだろう。

実際、前者の故意が否定される場合と後者の違法性の認識を欠くが故意は認められる場合の区別は難しい¥と思った。

個人的には違法性の認識が欠けていた場合でも、少し考えれば分かるじゃないかという範囲での規範的構成要件の錯誤については故意を阻却しないと考えたいですが、上記判例にも出てきた「わいせつ」の概念は時代と共に変化するものであり、一概にスタンダードを設けることは難しい気がするのが難しい問題点である。

 

 

5・不安定な世の中だからこそ

今世の中ではテロリストによるテロ行為や北朝鮮では核実験などでとても平和とは言えなくなってきた。そして日本ではとてもだか返しきれない借金がある。つい最近集団的自衛権について法律が変わったようにこの先日本で大きな変革が起こるのではないか?この平和がいつまで続くのかと不安になるばかりである。

そこでこの不安な世の中だからこそ変わらなければいけない物と変わってはいけない物が多くわけて3つほどあるとおもう。そこで一つは責任主義だ。責任主義とはつまり、過失や責任がなければ非を問えないという事、昔は歴史的に権力により好き勝手に非を問われている事があった。

しかし、人権意識や近代憲法論から無過失無責任な人間に非を問う事は人権保障の見地から不当となった。よって責任とか過失なく怒るのはだめとなった。

そしてもう一つは立憲主義だ。

つまり、権力を法に基づかせて人権を保障するということ

歴史的に権力の濫用による人権侵害、人権意識の芽生えにより権力行使を制限して、人権を保障するべきだ

法により権力を制限して人権保障させる

そして最後に罪刑法定主義

法律で定まってない事で裁かれたりしないという事

この3つを守り人権保証をより強固な物にしていくべきだ

この3つがなくなってしまったらまた戦前のころに逆戻りしてしまう恐れもあるのではないかと心配だ。

 

 

 

 

今後の課題 

犯罪に必ずと言って良いほど付き物なのが、万人に巣食う「心の闇」という名の心理状態だと思う。

それを克服できる人間と、できない人間がいるから、犯罪が発生するのではないだろうか?

古くから仏教には次のような教えがある。

「我々の最大の敵は、我々の中に内在する」ゴータマ・ブッダ

それは「劣等感」という名の敵だ。

人間が闇に支配される時というのは、

常に心に劣等感が生じた時であるのではないだろうか、と考えている

「あいつん家は金持ち、俺ん家は貧乏・・・」。

「あいつは優秀で勉強もでき、俺は不良で落第・・・」。

心に病を負った方というのは、その大凡が劣等感に苛まれているのが、根本的な原因だと考えられる。

テロリストというのは劣等感の塊のような集団だと言っても、過言ではない。但し、その劣等感が人から植え付けられた先入観ならまだしも、単なる自己の知的な怠惰から来る甘えの場合は許されないだろうと私は思う。

自己を管理できない人間に責任の所存を問いかけても、結局は本末転倒になってしまう為、

必然的に第三者が責任を受理せざるを得ない環境を、形成してしまっているのが、今の未熟な法体制ではないのだろうか。

とりわけ、精神療法がまだ広く普及していない現代社会では、常に劣等感が人々の心を蝕いかねない状況を形作っているとも言える。

職場での苛め、学校での苛め、社会上における人間関係の縺れから来るストレス・・・。

人々の中で増幅された劣等感が徐除に膨らんで、限界に達した時が最も恐いと考えられます。

尚、国家単位、とりわけ指導者層による劣等感の増大は戦争の要因にも繋がります。

人々の中に内在する劣等感を、如何にして解消してゆくかが、今後の犯罪撲滅に向けての大きな課題だと考えらる

 

 

 

 

最後に

過失か故意かどうか意思という目に見えないものを判断するのは非常に難しい事だと思う。

わざとではなかった、人を傷つける意思はなかったとしてもじゃ仕方がないといって丸く収まるとは限らない。被害者の今後の生活に大きな影響を及ぼしたり大きな怪我をしたり人の命を奪ってしまったとき等はどうしてもお咎めなしにするという訳にはいかないだろう。だから減刑はあっても無罪にするべきではないと考える。

今回未必の故意や過失の問題について様々な事を調べ考えましたが、法律で人がわざと犯罪を犯した時とわざとではない時の区別をするのは大変難しい事だと感じた。法律で人の心の中には入れないのだから本当にその人はどういった気持ちで犯罪に及んだのかは法律だけではわからないだろう。しかし法律を扱う人がその人の話を聞きその時の状況をしり慎重に考えればわかるだろう。つまり私が言いたいのは今後変わっていく社会で法律も変わる必要があるがそれを扱う人も変わっていくべきであると感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

参考文献 ブリッジブック刑法の考え方「第二版」高橋則夫 判例ハンドブック 

参考URLhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9

 

 

 

 

 

島 勝猛

学籍番号:13J110011 氏名:島勝猛 『故意と違法性の意識』

 

結論:故意の要件として違法性の意識は、不要である。

 

・キーワード関係

故意の要件⇒違法性の意識、不要説、故意説、責任説

違法性の意識⇒法律の錯誤、改正刑法草案21

誤想防衛事実の錯誤法律の錯誤、目的行為論、正当防衛、

故意⇒未必の故意、確定的故意、認識のある過失、認識説、動機説

確信犯⇒内乱罪、自由刑、禁固刑

近代刑法の原則⇒責任主義、罪刑法定主義

構成要件要素⇒記述的構成要件要素、規範的構成要件要素、主観的構成要件要素

目的行為論⇒人的不法論、行為無価値論、責任説、行態

 

 ・地政学が復活する世界情勢

 

 大きな時代の流れから考えるのが中江ゼミの要望だとしたら、私が思う時代とは「地政学が復活する」時代である。即ち、力の論理が支配する時代である。「武器の間で法律は沈黙する」という法格言に近付く状態になるのではないか。中国の海洋進出に対して、西側先進諸国が「国際法の遵守」「航行の自由」を訴えても、既に、南シナ海の現状は変更されている。人工島を造成した上で軍事基地化し、既成事実を作っているのだ。国際政治で言えば、ノン・ステータス・クオとステータス・クオの戦いである。要するに、中国という現状打破派と西側先進諸国という現状維持派の戦争に他ならない。他の地域に目を向けても、 現在の法律や人道主義では解決できない問題が噴出している。ヨーロッパ地域と中東地域の難民危機とテロリズムはその最たる事例だろう。中東地域の難民がヨーロッパ地域の先進諸国に亡命・受け入れても問題は解決しない。そればかりか、現地で問題を起こす主因になっている。受け入れ自治体の財政が悪化し、ドイツの大晦日では集団強姦強盗事件が起き、ヨーロッパのナショナリズムと排外主義が覚醒しているのが現状ではないか。テロリズムに関しては、フランスのシャルリー・エブド襲撃事件、コンサート劇場襲撃事件(パリ同時多発テロ)により、事実上の戒厳令下にあり、人権を制限し令状なしで家宅捜索・逮捕する期限を延ばす憲法改正と非常事態法の改正をオランド政権という左翼政権が行おうとしているのが現状なのだ(人権擁護に傾きやすい左翼政権でさえ人権を制限する方向に向いているのは皮肉だが)。

 さて、法律を学ぶ学生としてそれらの問題をどの様に受け入れ、どの様にリーガルマインドに反映させれば良いだろうか。ここで大きく二つに分かれるだろう。即ち、国家権力が増大する時代だから人権擁護を重視する意見と、非常事態を解決する為に国家権力の拡大を容認する主張である。私は、国家権力の拡大を容認する立場である。尤も、それは独裁を容認するものではないし、人権侵害を意味するのではない。寧ろ、リバタリアンとしては心苦しいものがある。自由至上主義を奉じるなら、国家は防衛に徹し、最小国家であるべきである。しかし、安全保障のみを国家の役割とするならば、緊急権制度は必要ではないか。 それとも、侵略時のみ防衛をするべきだろうか。軍事学の常識から言えば、攻撃された時だけ自衛するなど話にならない。こちら側が侵略できる能力を持つからこそ抑止力が働くのであって、「自衛の為の必要最小限度の防衛力」のみであれば、本土での焦土戦を前提にしなければならない。自衛隊の防衛力とは、本土決戦による国民の犠牲を前提とする。常日頃、護憲派が主張する平和な世界とは、我々国民に自己犠牲を強いる世界である。これでは、戦前と何ら変わらない。左翼共には理解できないかもしれないが、戦前の日本軍と戦後の左翼はバカという点で同じである

 私が思うに、これからの時代を考えれば、憲法改正の非常事態条項追加など国家権力の拡大による問題解決は避けられないだろう。しかし、独裁やクーデター、人権侵害の可能性は否めない。従って、我が国の国家緊急権は、一般授権法でなく厳格規定法による統制下で発動、行使されるべきである。

 上記を踏まえた上で、今後の刑法の在り方とは何だろうか。即ち、非常事態に対処しつつも人権規定に配慮した故意の要件に違法性の意識は必要かということである。このような極論、極限状態を想定するのは本質から離れた論議だと思うかもしれない。しかし、中江教授の言う「大きな時代の流れ」の中で、私個人として真剣に考えた時に、対テロ戦争などの非常事態を想定して法律を考えてこそ、法律の本質が掴めると思っている。どこかの法哲学者が言う様に「例外状態こそが主権者の本領を発揮する」ならば、その主権者を代表する議会が制定した法律もまた本性を露わにするのではないか。

 従って、対テロ戦争を含む「実力行使が必要な問題」に対しては、判例の立場である不要説が適切に思う。しかし、一方で冤罪防止や人権保護を貫徹するならば、制限故意説や制限責任説が最適だろう(厳格故意説・厳格責任説の両厳格説は運用し難いと思う)。私は、国家安全保障を重視する立場から不要説を採るが、将来的に両制限説もあり得ると思う。こればかりは最早、個々人が重視する価値観の違い、優先順位の違いとしか言いようがない。

 

・故意と違法性の意識に関する判例

 

「個室付き浴場無許可営業事件(故意の成否と違法性の意識)」最判平成00

 

・事実の概要

 被告人は、県知事から営業許可を受けた実父から経営を引き継ぎ、個室付き浴場を実質的に経営していた。しかし、風俗営業等取締法及び県の同法施工条例の改正により、本件浴場が営業禁止区域に含まれ、新しく営業許可を受けることができなくなった。被告人は、実父名義から被告会社名義に変更しようとするも、公衆浴場法の運用により営業の譲渡・相続には新たに許可が必要であるから、県議会議員を通じて県係官に陳情し、最初の許可の申請者を実父から被告会社に変更する旨の公衆浴場営業許可申請事項変更届を県に提出し、県知事に受理され、公衆浴場台帳の記載が改訂された。しかし、被告会社に対して公衆浴場 業の許可証は交付されなかった。原審は、変更届の受理には「重大かつ明白な瑕疵」があって無効であるから、被告会社が営業許可を受けたとは言えず、被告人にも無許可営業の認識があったとして有罪とした。弁護人は上告した。

実父→(経営を引き継ぎ)→被告人・被告会社→(経営)→個室付き浴場←法改正等により営業禁止区域の範囲に入る

            受理↕申請←県議会議員が仲介連絡、県衛生部課長補佐が書類指導・保健所長が受理する方針説明

             県知事

・判旨

 

 破棄自判

 

・判例の見解

被告人は、県衛生部課長補佐に変更届及び添付書類の書き方を教示してもらい作成し、市南保健所に提出した。この際、受理前に県衛生部課長補佐及び市南保健所長から県が受理する方針である旨を聞き、受理後直ちに、県議会議員にそのことを連絡されたから、被告人が変更届受理により被告会社に対して営業許可がなされたものと認識していた。更に、被告会社の営業許可に関して、新聞報道等で問題になる前は、保健所の定期検査など誰からも問題にされなかった。そして、県知事による変更届の無効とする旨の通知以前に、被告会社は自発的に営業を中止している。以上に事実によって、「被告人が変更届受理によって被告 会社に対する営業許可があったとの認識のもとに本件浴場の経営を担当していたことは明らかである」。

 

「サービス券通貨模造事件(故意と違法性の意識の可能性)」最決昭和62

 

・事実の概要

 被告人は、百円紙幣と同寸大・同図案・ほぼ同色で表面には小さくサービス券・店名・連絡先を記載、裏面には広告を載せたサービス券を印刷させ、作成した。しかし、製版所から指摘を受け、知人の巡査に相談、通貨及び証券模造取締法を根拠に、紙幣に似た外観を有するサービス券としない旨の助言を受けたが、被告人はその助言を重大視しなかった。その後、警察署でサービス券を配布したが注意を受けなかったので、安心し、更に同種のサービス券を作成した。そして、他方の被告人は前記被告人の話を信じ、自己が経営する飲食店の宣伝の為にサービス券を作成した。第一審及び控訴審は、違法性の錯誤(法律の錯誤)につき相当の理由がないとして、両被告人を通貨及び証券模造取締法1条違反の有罪に処した。弁護人は、違法性の錯誤につき相当の理由を認めるべきとして上告した。

 

,hou部三年9.

・判旨

上告棄却

 

・判例の見解

 上記の事実関係の下に於いて、各被告人が違法性の意識を欠いていたとしても相当の理由がないとした原判決は是認できる。従って、「違法性の意識を欠くことにつき相当の理由があれば犯罪は成立しないとの見解の採否についての立ち入った検討を待つまでもなく、原判決の結論に誤りはない」。



「旅館帳場過剰防衛事件(侵害の急迫性・防衛の意思)」最判昭和46

 

・事実の概要

 被告人は、同宿人と言い争いになり、その後、謝罪しようとして旅館帳場に入ったところ、同宿人がいきなり二回程殴打され、更に同宿人が立ち向かったので隠してあった小刀で同宿人の心臓部を刺し、死亡させた。第一審は過剰防衛による殺人を認定したが、原審は被告人に防衛の意思はなく同宿人による法益侵害が急迫でないとして過剰防衛の成立を否定し、被告人に懲役5年の実刑判決を言い渡した。

 

・判旨

 破棄差戻

 

・判例の見解

 刑法36条の「急迫とは法益の侵害が現に存在しているか、又は間近に押し迫っていること」で、侵害が予期されたからといって急迫性を失わない。防衛の意思は「相手の加害行為に対して憤怒又は逆上して反撃を加えたからといって、直ちに防衛の意思を欠くもの解すべきでない」。上記の事実関係に当てはめると「特別の事情がみとめられない限り被告人の反撃行為は防衛の意思をもってなされたと認めるのが相当である」。



「英国人勘違い騎士道事件(誤想過剰防衛)」最決昭和62



・事実の概要

 被告人は、酩酊した女を介抱した被害者が暴行を加えたと誤信し、被害者がファイティングポーズの様な姿勢をとった為に自己及び女の身体を防衛する為に回し蹴りを食らわせ障害を負わせた。被害者は、八日後に死亡した。



・判旨

 上告棄却

 

・判例の見解

 上記の回し蹴りは、被告人が誤信した急迫不正の侵害に対して、防衛手段として相当性を逸脱している。従って、傷害致死罪が成立し、誤想過剰防衛にあたるとして刑を減軽した原判断は正当である。

 

・故意と違法性の意識に関する学説

 

「故意の構成要素」

 意思説は故意に意思の要素を含み、故意説(制限故意説厳格故意説)は、違法性の意識又は違法性の意識の可能性という要素を含む。意思説と故意説の矛盾は、故意犯と過失犯が責任段階で初めて区別可能となり、両者が客観的な行為類型という一般論と異なる。これを事物の本性又は事物論理構造に反するという。これに対して、責任説の立場からは違法性の意識又は違法性の意識の可能性という要素は故意の要素ではなく、責任要素だとする。又、意思の他に犯罪事実の認容を含めて認容の存否で故意犯と過失犯を区別する認容説も主張されている。一方、情緒的要素は構成要件と故意に先立つから故意の要素でなく、犯罪事実の認識という要素だけから成り立つという認識説に対して、故意犯と過失犯の具体的区別基準(実質的な基準)を提示できないなら認識を最終的に否定して行為に出たか否かで決まる動機も有力である。



「違法性の意識」

 不要説は、故意犯の成立には犯罪事実の認識があれば良く、違法性の意識も違法性の意識の可能性も不要であるとの立場である。しかし、これに対して、「違法性の意識の可能性がなく行為者を非難できない場合であっても故意犯として処罰されることになる」が、そのことにつき責任主義に反するという批判がある。学説に於いては、不要説を採る立場は殆どなく、近年の判例でも不要説から可能性説への修正が見られる(最判昭62)。必要説(厳格故意説)の立場は、反対動機を乗り越えて行為に及ぶ点にこそ故意責任があるとして、故意犯の成立には犯罪事実の認識だけで足りるとする不要説の立場では足りず、違法性の意識が必要であるとする。制限故意説は、故意の要件として違法性の意識は必要ではないが、違法性の意識の可能性は必要であるとする立場である。これに対しては、可能性という過失要素を入れるので故意と過失を混同するといった批判や人格責任論(団藤重光)の基礎付けに対して事実認識欠如の場合に於いて人格形成責任を考慮しない理由が不明であるといった批判がある。故意概念の統一性を害するという点で必要説と同様の問題がある。責任説は、故意とは犯罪事実の認識又は実現意思(事実的故意)を言い、違法性の意識はこれと別個であり、故意・過失共通の責任要素とする。

 

・総括的考察

 

 上記の判例に対して、学説を当てはめて結論を導く。「個室付き浴場無許可営業事件」に於いて、違法性の意識はあっただろうか。不要説を採れば、犯罪事実の認識で事足りるが、被告人は無許可営業の状態を改善すべく経営者として陳情し、変更届を申請したことを理由に直ちに犯罪事実の認識というには酷である。又、自発的に営業を中止した点なども斟酌すべきだろう。同様に、必要説(厳格故意説)からも、反対動機を押し切ってまでした違法行為かというと、その違法性にいついては疑念の余地がある。陳情までして変更届を申請したのだから、反対動機は押し切ったかもしれない。しかし、だからといって違法の認識があったかについてはなお疑問が残る。一方、制限故意説を採れば、違法性の意識の可能性があれば良いのだから、違法性の認識が曖昧という点で犯罪が成立するかもしれない。判例では被告人の認識に関して営業許可がなされたという認識だが、私としては、変更届が受理されたからといって営業禁止区域にあるのは間違いなく、その根拠が不十分ではないかと思う。即ち、判例の事実関係の認識には異なる意見である。しかし、行政側の対応と被告人の行動を鑑みれば犯罪を成立させる余地はあっても、情状酌量すべきではないか。責任説を採れば、犯罪事実の認識又は実現意思があれば良いから犯罪は成立し難いだろう。従って、不要説又は責任説の立場を採るのが妥当である。

 「サービス券通貨模造事件」に於いては、違法性の錯誤(法律の錯誤)につき相当の理由を認めるべきだろうか。判例は、法律の錯誤について相当の理由があれば故意を阻却するかについては判断を回避した。しかし、事実と違法性という着眼点を変えるだけで故意を阻却するかどうかの結論が変わるのは不公平ではないか。例えば、事実の錯誤法律の錯誤の区別が難しい時に法律の錯誤を適用してまで犯罪を成立させるべきだろうか。私は、喩え法の不知であっても相当の理由があれば区別が難しい時に犯罪成立を否定できる可能性を残すべきだと思う。でなければ、救いようがないではないか。本件事件に関しては、そもそも裁判所が相当な理由で故意を阻却できるかどうかを示す機会であったにも関わらず、それを放棄して、事実関係のみを根拠に原判断を支持するのは職務放棄としか思えない。学説以前の問題の様に思える。

 「旅館帳場過剰防衛事件」も事実の錯誤法律の錯誤の区別について課題を残しただろう。急迫不正と防衛意思が問題になった事件だが、少し見方を変えてみれば、もし、この事件が誤想防衛の事件だとしたらどうだろうか。その場合は、間違いなく、法律の錯誤の問題として処理されただろう。しかし、急迫不正・防衛意思という法解釈が問題になった時点で違法性の認識と事実の認識の区別が難しいのにも関わらず、そのような運用で良いのだろうか。私は、事実の錯誤法律の錯誤を統合すべきだと思う。少なくとも、相当の理由があるのならば故意を阻却すべきである。

「英国人勘違い騎士道事件」に於いては、誤想過剰防衛の問題であるが、傷害致死罪にすべきだろうか。被告人の言い分も分からないではない。仮に自分が武道経験者でその力を使って助けられるならそうするかもしれない。しかし、被害者も又哀れである。暴行していないのにも関わらず、襲われて死亡したのだから。結局の所、被害者が死亡してしまったというその事実が重いのではないか。例えば、全治数日間であればそこまで問題にはならなかっただろう。双方にとって腑に落ちないのではないか。この事件に関しては、自分の結論は出ない。

 残りの赤字キーワードを埋めるとして、未必の故意については、故意犯処罰の原則から確定的故意を中核に据えるべきだが、不確定的な故意でも反対動機を押し切って行為に及んだのならば処罰すべきある。しかし、そうすると不要説を採る私の立場が違法性の意識が絡むことによって矛盾が生じかねないが、過失犯ならともかく、故意犯は広く認めた方が犯罪を捜査立件する上で都合が良いと思う(不確定的な故意の証明は難しいだろうが)。規範的構成要件要素については、裁判官の価値判断が問題となるが、チャタレー夫人の恋人事件に於ける猥褻の概念などを裁判官の価値判断に任せて良いとは思えないのでできるだけ小さくすべきではないか。裁判官の価値判断が必要に迫られることもあるだろうが、立法段階で詰めて欲しいものだ。確信犯については、政治的信念などに基づいて行われる行為だが、政治的目的による違法行為という点で刑罰に馴染まず、その処罰が問題となる。即ち、懲役を科すか禁固刑に科すかである。例えば、内乱罪がそれに該当するが、国家を転覆するような内乱罪を犯した者を懲役ではなく禁固刑にするのは甘いと思う。私は、確信犯も他の犯罪と同様に処罰して構わない。

 

 

・参考文献

『最新重要判例250〔刑法〕(10)』著:前田雅英(弘文堂)

『新・法律学の争点シリーズ2刑法の争点(2007年発行)』編集人:津田憲司(有斐閣)

『法律学小辞典(4版補訂版)』編集代表:金子宏、新堂幸司、平井宜雄(有斐閣)

『デイリー六法2015平成27年版』編集代表:鎌田薫(三省堂)