志賀えりか

私は故意と違法性の意識について考えた時、故意と違法性は別個の要件、責任説をとる。なぜ私がこの説をとったかは、以下の判例や多数の説等を照らし合わせた上で述べていきたい。

 

 1.故意に対する見解

 ここでは、「故意」と何か、故意についての解釈を簡潔にまとめてみた。

はじめに故意の意義について述べる。責任主義の定義ともいえる381項は、「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りではない。」と規定し、故意犯処罰が原則で、例外的に過失犯が処罰されることを明らかにしている。「罪を犯す意思」が故意ではあるが、故意についての定義規定は未だになく、理論に委ねられている。故意は、一方で、行為のコントロール及び行為の意味付けとして行為規範違反の要素、したがって違法要素であり、他方で行為者の責任に属する意思形成過程の結果として、責任要素でもある。以下それらの要素を主体とした見解である。

故意をもっぱら違法要素とする見解は、故意の対象を構成要件該当事実に限定する結果、誤想防衛の場合に故意犯を成立させる厳格責任説に至ることになり、厳格責任説自体に問題がある以上、妥当でない。

故意をもっぱら責任要素とする見解は、構成要件的故意を認めない場合には、構成要件の個別化機能が維持できないことになり、構成要件的故意を認める場合には、構成要件を責任類型と解することになるが、違法と無関係に責任を位置づけることになること、構成要件該当性段階ですでに主観が入り込むことは一貫しないことなどの点で妥当ではない。

 故意を原則として責任要素と解するが、一定の場合に違法要素とする見解は、危険性判断と故意とを連関させることによって、たとえば、未遂犯の場合に、故意を主観的違法要素とするのであるが、それならば、犯罪が既遂になった場合も同様であろうし、過失犯の方が危険が大である場合もあり、危険性判断と故意の有無とは必ずしも連関しないがゆえに、妥当ではない。

 

 

2.「構成要件に該当する事実」を認識する

 故意の認識対象は、客観的構成要件要素に該当する事実である。この事実には、行為、行為主体、行為客体、結果、因果関係、行為状況も属し、これらすべてを認識する必要がある。

 故意は構成要件に該当する「事実」そのものの認識を意味するから、その事実が構成要件に該当すること、刑法の条文に記載されていること、法律によって禁止されていることなどは、すべて認識する必要はない。これらについて認識しなかった場合は、いずれも法律の錯誤であり、構成要件的故意を阻却する事実の錯誤ではなく、故意の成否とは関係ない。

 この点で問題となるのが、事実についてどの程度まで認識する必要があるかであり、特に規範的構成要件要素に関して問題となる。たとえば、わいせつ物頒布等罪(175条)における「わいせつ」の認識において、いかなる事実を認識していれば、故意が認められるかが問題となる。その事実認識の段階は「第一に物体、存在の認識が可能なもの」、「第二に言語、意味が認識できるもの」、「第三に社会的意味を認識することができる」、「第四にその文書が「わいせつ」に当たること」である。

チャタレー事件では、第一要件に加えて性描写の認識とこれを頒布する認識があれば故意が認められるとした。この判決は文書の内容も露骨な性描写があり、わいせつだけでなく公共の福祉にも反する、と表現の自由の主張を押し切った判決のようにも見て取れる。というのも、構成要件的故意が認められるのは第三の「意味の認識」までを必要としている。そこまでの認識があって初めて、「そのような行為はするな」という行為規範の問題に直面できるからである。つまり、第一要件のみは故意ではなく、また責任主義の観点から見てもこの判決は有罪ではないと考える。また第四は「わいせつ性」自体の認識であり、これは違法性の意識の問題としている。私の支持する責任説では、違法性の意識は故意の要件ではなく、違法性の意識の可能性が責任の要件と位置付けている。

したがって、意味の認識があるか否かが、故意の成立を限界づけることになる。意味の認識とは、例えばわいせつ物頒布戸等罪において、法的評価である「わいせつ」と平行的に存在する社会的評価である「いやらしい」ことの認識である。意味の認識が無かった場合には、事実の錯誤となり、意味の認識があるが違法性の意識が無かった場合には、法律の錯誤となる。

しかし意味の認識は少々難点があるようにも思える。「平行的」基準とは、その一地方における一般人がどのように理解しているかを確定する必要がある。「素人仲間の平行的評価」には、裁判官による法的評価と一般人の社会的評価の平行と、一般人内部(素人間)における平行という二つの意味を含んでいる。この評価基準で判決が下ったのがたぬき・むじな事件とむささび・もま事件である。この事件はそれぞれ判決が違っている。法的評価である「たぬき」と社会的評価である「むじな」とは平行しておらず、動物学的に「たぬき」と「むじな」は同一のものとされ事実の錯誤となり無罪判決になったが、法的評価である「むささび」と社会的評価である「もま」とは平行しており、法律の錯誤とされ有罪判決となった。なぜ後者の事件が有罪判決となったかをかいつまんでまとめると、以下の内容となる。

 

・「むじな」という名前自体は広く認識されていたが、事件当時の国民には「むじな=たぬき」という認識が十分定着していなかったのに対し、「もま」という名前は、特定の地方だけでしか呼ばれていないから、条文が悪いのではなく被告人に非があるとする。

・「むじなたぬき」という確信的な認識を持っていたのに対し、「むささび」が禁猟である事を認識していたが、「もま=むささび」という事実は認識していない。しかし単に当該動物を「むささび」と呼称することを知らなかっただけであって「もまむささび」という確信的な認識は持っていない。

 

 ここで疑問なのが、「知らなかったでは済まされない範囲」は何とも微妙であることだ。また、動物学的証明というよりもその当時の裁判官の感覚によって判決が左右されているようにも思えた。「もま=むささび」が周知の事実ではないと思う。その地域では常に「もま」と呼ばれていた動物をとっさに「むささび」と判断出来るかはあやしいのではないだろうか。よって私はむささび・もま事件も無罪判決にしてよかったと考える。

 

今回は判例に乗っとって話を進めていく。上記のように、意味の認識があれば構成要件的故意が認められるが、このような「犯罪事実の認識」があれば十分なのか、さらに「犯罪事実実現の意欲」が必要なのかという点について争いがある。この争いは、「未必の故意」と「認識ある過失」との区別基準に関わる問題である。この二つの区分基準は違法性の意識の有無である。また未必の故意には動機が存在するが認識ある過失には動機が存在しない。この二つの説は故意の認識的要素と意思的要素との相関関係を構成要件的故意のレベルで考慮することが必要であり、そのような意味で、結果の発生に向けての行為を操縦していく実現意思が存在する場合に故意を肯定する実現意思説が妥当である。これは、結果の発生に向けて因果経過を予見し、意図した結果が実現し、意図しない付随的結果を回避するために適切な手段を施して行為をコントロールする意思のことである。

 

 

 3.揺らぐ不要説

 違法性の意識不要説によれば、383項の「法律」は「違法性」の意味であり、違法性の錯誤があっても故意はなくならないとしている。しかし、やむを得ない事情で違法性の意識を欠き、行為者を非難できない場合にも故意責任を肯定することは責任主義に違反するといわざるを得ない。この考え方が判例の基本的立場である。

 しかしこの説を揺らがす事件がある。百円札模造事件である。当事件は違法性の意識が欠けていても、その相当の理由がないと判事されたが、これは不要説からの離脱を示唆する判事であるといえる。なぜなら、仮に違法性の錯誤に相当の理由がある場合には、故意ないし故意責任が阻却されるという方向性を示したからである。不要説からすれば、相当な理由の有無は関係なく、端的に故意責任が肯定される。また本件では違法性の意識の内容について、自己の行為が法的に許されたもので、処罰されることはないと信じていたとして法律の錯誤を認めたものと思われる。

 この不要説に反対する理由は、根拠としては足らない部分もあるが、時代背景が関わった点である。戦前からこの考えを有力としているが、この説のもともとの根拠がローマ法の「法の不知は許さず」というもので、国民は法を知るべきあるという権威主義的な法理解である。当時は天皇を頂点とした法体系だったが、今は違う。ましてや、細かな法まで理解している国民が大多数いるとも考えにくい。この不要説を判例とし続ければ、また法律の錯誤から犯罪が起こり得るし、この判例もケースバイケースで形を変え、責任主義と矛盾した結果を生み出してしまう。正直、この説はもうこの時代には合っていないと感じる。

 

 

 4.違法性の意識=故意の要素となりうるのか

もちろん判例に批判的な立場の説も存在する。その一つが故意説である。この説はさらに二つの説に分割することができる。「厳格故意説」と「制限故意説」である。故意説は不要説と違い、違法性の意識の有無により判決が下される。この二つの説の違いを述べていく。

まず、厳格故意説とは「違法性の意識は故意の要素である」と解する見解である。ではテロ組織のような確信犯の行為は罰せられるのだろうか。答えは否である。彼らは自分たちの行為をこれっぽっちも悪いとは感じず殺害を繰り返していく。そういった行為を野放しにしてしまう恐れがあるため、この説はあまり有力ではない。制限故意説に関しては違法性の意識は故意の要素ではないが、違法性の意識の可能性があれば故意の要素と解される見解である。仮にこの説が有力説となった際、犬を殺そうとしたAの銃の弾が逸れ、近くにいたBに当たりBが死亡した際、Aは無罪となる。なぜならAにはBを殺す可能性さえ微塵もないからである。人殺しをしているのに、この判決はいささか危険である。

 さらにこの制限故意説に関してはいくつか疑問点もある。第一に「可能性」という過失的要素を故意へ導入している点、第二に違法性の意識の可能性は、故意犯・過失犯に共通する要素である点、第三に事実の過失は故意を阻却するが、違法性の過失は故意を阻却しないことの根拠づけが不明確な点である。これらより、違法性の意識の可能性は故意の要素ではないといわざるを得ない。

 

 

 5責任説をとる理由

 事実認識と違法性の意識との間には質的区別があり、違法性の意識の可能性は故意とは別個の責任要素に位置づけられるべきである。私はこの考え、責任説が有力説だと思う。この説も第4項目の故意説と同じように厳格責任説と制限責任説が存在する。この二つに対立する主な要因は、誤想防衛の場合のような「違法性を基礎づける事実」の錯誤をどのように処理するかだ。厳格責任説によれば、それは法律の錯誤となり、違法性の意識の可能性の問題となるが、制限責任説によれば、それは事実の錯誤となり、故意を阻却するから、違法性の意識の可能性の問題とは関係がない。

 この説から不要説で挙げた事件を説いていくと、この模造事件で本来問題とされるべきは、違法性の可能性があったか否かである。違法性の意識の可能性の一般的基準は、具体的状況のもとで行為者に自己の行為の違法性を意識する契機が与えられており、行為者に違法性を意識することが期待できたか否か、ということである。一般人ではなく、行為者にとって可能であったか否かが問題である。行為者の違法性の錯誤の類型にもいくつか種類があるが、今回はその中でも私が納得した類型を示す。

 自己の行為を刑法上禁止している法規の存在は知っていたが、その法規の解釈を誤り、その結果自己の行為は許されると誤信した場合をあてはめの錯誤という。本件は公的機関の見解を信頼して錯誤に陥った場合である。当該法律の執行に当たる行政機関がその法律について下した解釈に対しては信頼することが許されるだろう。しかし判例では模造百円札を暗に容認するかのような言動をした程度では、相当な理由があったとはしないとした。この判断には理解が苦しむ。医者に重病を患っていると言われたら真に受けてしまう。専門知識を持ち合わせた人の回答を信頼するのは当然である。例えば、検察庁の回答により適法と確信して行為をした場合は、違法性の意識を欠いたことに相当の理由があるとされる。その為、責任説では本件は無罪となる。

 

 判例のすべてを否定するわけでは決してないが、他の説を介すると無罪となってしまう事件があると、やはり判例の判断は少し行き過ぎ、かつ強引なものだと改めて感じた。チャタレー事件に関しても、表現の自由を二の次とし「わいせつ」かつ公共の福祉に反すると畳みかけたようにも思える。今回複数の判例とその判決を見て気づいたことがある。それは一見筋の通った判例も実は隙が多くあり、いくらでも叩けばぼろが出てきてしまう、とても不安定な判決に身を委ねている、そんな要素を目の当たりにしてしまったという事実である。

 

 

【引用サイト(H27.1.20閲覧)】

責任主義(刑法381)http://www.digistats.net/6L/text/k_38.htm

猥褻文書販売被告事件(チャタレー事件)昭和32313日大法廷判決:http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/29-3.html

【参考文献】

『刑法各論 第2版』高橋則夫/成文堂/2013

 

 

 

 

田村瑞貴

帝京大学 法学部法律学科 14J110015 田村瑞貴

 

 私は、制限責任説の立場に立つことが最善なのではないかと考える。

 

1 故意と過失

 判決を下すにあたって故意または過失であるかは重要な論点である。殺そうと思って人を殺害した、車の運転により誤って人を殺してしまった、と言い換えれば、おのずと双方が同じ価値として比べられるものではないということがわかるだろう。

 故意には、確定的故意と未必の故意があり、過失には認識ある過失と認識なき過失がある。

 私が長年疑問に思ってきたのが、道路に飛び出てきた子供を轢いてしまった運転手がなぜ罪に問われなければならないのか。命までは奪わずとも怪我をさせてしまったのなら確かに悪いことをしてしまったとは思う。しかし、飛び出してきたのは子供であって運転手には非がないように私には思える。むしろ、私は事故によって損害賠償を払わなければならない運転手の方が被害者であるように見えてしまう。

 だが、見方を変えれば、子供だって車に轢かれようと故意に飛び出してきたわけではない。運転手と子供、両者ともに過失なのである。つまり改めて事故を見てみれば、運転手と子供はどちらも被害者なのだ。

 では、どちらも被害者であったとして、果たして両者は対等なのだろうか。

 運転手の言い分に耳を傾ければ悪いのは子供のように思える。私もそう思っていた。だが、自動車というのはその有用性とは裏腹に、高速で走り、人を傷つける恐れがある代物なのである。だからこそ運転手は「子供が飛び出してくるかもしれない」ということを意識して運転しなければならないのだ。事故を起こしたならば、その意識を怠っていたとして過失が成立してしまう。

 そして、認識ある過失に似て非なるものとして、違法・有害な結果発生の可能性を予測しつつ、その結果発生を容認してしまうことを「未必の故意」という。例えば、「自動車運転中、道路脇を走行中の自転車に接触するかもしれないと思いつつ、接触しても仕方がない。」と思うような場合である。

 このように、一見自動車側に非がないように見えていても、自動車を運転することで生じる過失がある。

 

2 故意と違法性の意識についての考え方

 違法性の意識とは、実行行為者が、自分の実行している行為が犯罪の構成要件に該当する違法な行為であるということを認識していることをいう。違法性の意識がある行為者は、犯罪であることを認識しながらあえて規範の壁を乗り越えて行為しているのであるから、これに非難を加えることができる。問題は、そのような違法性の意識を明確に有していない行為者に対しても、責任非難を加えることができるかどうかどうかである。これは違法性の意識の要否と呼ばれる問題である。

 それについて、大まかに三つの説によって成り立っている。

 

(a)不要説

 違法性の意識は犯罪の成立要件として不要、という説である。この説に従えば、構成要件に該当する行為をしているという意識が全くなくとも、実際にその行為が構成要件に該当するのであれば、犯罪が成立するということになる。

 そこでチャタレイ事件(1957年(昭和32年)313日)である。

その事件は、イギリスの作家DH・ローレンスの作品『チャタレイ夫人の恋人』を日本語に訳した作家伊藤整と、版元の小山書店社長小山久二郎に対して刑法第175条のわいせつ物頒布罪が問われた事件で、日本国政府と連合国軍最高司令官総司令部による検閲が行なわれ、占領下の1951年(昭和26年)に始まり、1957年(昭和32年)の上告棄却で終結した、わいせつと表現の自由の関係が問われた事件である。

『チャタレイ夫人の恋人』はノーベル賞を取っている立派な文学作品であり、巷に溢れかえる官能小説とは一線を画すものである。だとすれば、本を翻訳した彼らに違法性の意識はなかったはず。

しかし、不要説は悪いことをしていると思っていなくとも故意があったとして有罪としている。わいせつ物とはどこからわいせつ物とするのかそれこそ規範的構成要件要素で決まってしまう。

そして不要説の立場に立つと責任主義に反する可能性があるだろう。

 

(b)故意説

 故意説は、責任故意を認めるには違法性の意識まで必要とするという厳格故意説と、違法性の意識がなくとも、違法性の意識の可能性があれば足りるとする制限故意説に分かれる。

厳格故意説は、違法性の意識(実行行為が法律に違反するという意識)があるにもかかわらず、敢えて違法行為を実行するところに、故意犯として非難すべき根拠があると解する。 つまり、違法性の意識の有無は、故意と過失とを分かつ分水嶺であると考えることができ、「敢えて行った」ことに対して故意を厳格に認めるべきであるという見解である。

 厳格故意説によると、刑法383項は「法規の認識」が不要であることを定めたものと解されることになる。そこで有名な判例たぬき・むじな事件がある。

この事件は、1924年(大正13年)に栃木県で発生した狩猟法違反で刑事裁判が行われ、翌年192569日に大審院において被告人に無罪判決が下された。理由としてタヌキとムジナの動物学的な同一性は認めながらも、その事実は広く国民一般に定着した認識ではなく、逆に、タヌキとムジナを別種の生物とする認識は被告人だけに留まるものではないために「事実の錯誤」として故意責任阻却が妥当であること、またこれをタヌキだとしても、タヌキの占有のために実際の行動を開始した229日の段階において被告人による先占が成立しており、同日をもって捕獲日と認定するのが適切であるとして被告人を無罪としたためである。

 しかし、この学説を支持すれば違法性の意識のない確信犯の故意犯の成立が否定されることになる。そうなれば、今日世界中で問題視されているイスラム国が行うテロ行為すべてが野放しになってしまう。果たして、それを容認した世界が無法地帯でないと言えるのだろうか。答えは否である、と私は思う。

テロ行為は忌むべきものだ。なんの罪もない人々の命を奪っているというのに、自らの行いが正しいことだと思っているから許される。ここになんの規律があるだろう。争いが争いを生むのは世界の沿革を辿ればおのずと分かることで、その争いを絶つために法律が抑止する。それが今日のあり方である。しかし、確信犯を容認した世界が形成されれば、「こいつは俺の家族を殺した。だから俺もこいつを殺すのは間違っていない」――ハンムラビ法典の言葉を借りればAn eye for an eye, and a tooth for a tooth 「目には目を、歯には歯を」目を傷つけられたら相手の目を傷つけ、歯を折られたら相手の歯も折るという同害復讐を容認することにもつながりかねない。やられたからやり返す。それは人間の本能である。ぶたれれば痛いし、憤りを覚える。だから相手にも同じ痛みを与えたいと思ってしまう。自分のしたことは、正しいことだ。そう、思ってしまいかねない。

だから私は、厳格故意説には反対である。

次に制限故意説

違法性の意識は故意の要件としては不要であるが、その可能性が故意の要件であるとする見解である。 原則として違法性の錯誤は責任故意を阻却しないが、違法性の意識の可能性すらない場合には故意犯は成立しないとする。

 これは、違法性の現実の意識を不要とすることで具体的な結論の妥当性を担保しようとするものであるが、「可能性」概念を故意に取り込むことには疑問があるし、違法性の意識の可能性がない場合、過失犯の成立が肯定されるのかに疑問があるとの批判が可能である。

 例えば、Aが隣家の犬を殺そうとしてピストルを撃ったがそれてBに当たり、Bが死亡してしまった場合、制限故意説の立場を取ればAは無罪となる。

この考え方こそ千差万別のものであるだろう。別にAはBを殺そうと思ってピストルを撃ったわけではない。弾がそれて、奇しくもそこに居合わせたBに当たってしまったがためにBをしなせてしまったのである。それを言葉は軽いが「故意じゃないから仕方ないよね」で片づけられるのかどうかが論点である。

 これは先にも触れた走行中の車と子供の接触事故にも関わってくるものであり、車を運転するということは、常に人を傷つけてしまうかもしれないということを念頭に置いて運転しなければならないわけで、今回の場合、「車」が「ピストル」にかわったものとして考えるべきであろう。そうすると、ピストルを撃つということは、常に誰かを傷つけてしまうかもしれないと考えていなければならないはずだ。いや、そう考えていてほしい。日本で生まれれば畢生のうち一度たりとも銃器に触れることがない人だっているだろうし、なんだか現実味のない話かもしれない。が、実際にそういう危険性を伴う代物を使う場合には、使う側の意思一つで結果が変わってしまう。

 過失犯を無罪にするということは危険行為に対する意識を弛緩させかねないと私は考えているため、制限故意説は反対である。

 

(c)責任説

 違法性の意識は故意とは別個の責任要素であると考える説である。責任説は、違法性の意識の可能性があれば責任非難は可能であるとし、さらに、厳格責任説と制限責任説に分かれる。

厳格責任説は、責任説を厳格に貫き、違法性阻却事由該当事実の認識は故意とは無関係な責任要素であるから、その誤信に回避可能性がある場合(つまり違法性の意識の可能性がある場合)にのみ責任阻却が肯定されるとする見解である。この見解によれば、構成要件的故意が肯定される場合には、故意犯が成立するか不可罰となるかの二者択一であり、過失犯が成立することはないことになる。

 そして、この立場に立つと誤想防衛は有罪となってしまう。

身を守ることは、人間誰しもすることだろう。痛いことは嫌であるし、殺されるなんてもっての他だ。自分が危険にさらされているのではないかと考えれば、反抗する手段を模索する。身を守るためにした行為が、罪に問われてしまうのはいただけない。

そこで制限責任説である。

この学説は、厳格責任説を採ると妥当でない結論に至ることを踏まえ、違法性阻却事由該当事実の誤信は故意を阻却するとする見解である。この見解によれば、誤想防衛や誤想避難について故意阻却が肯定されることとなる。その結果、身を守るために仕方なく行った行為が、誤想であったとしても罪に問われることはない。逼迫した状況であれば正常な判断ができないだろうし、誤想防衛を無罪にすることは理にかなっていると思う。

 

3 どの説が一番人のためになるか。

百円札模造事件(最決昭和62716日刑集41-5-237)においては、紙幣と紛らわしい外観を有するサービス券を作成した被告人が、作成前に警察署に相談したものの、注意が好意的なものだったものであったことからこれを重要視せず、許されると思って大量に作成した行為が、通貨等模造罪に問われた。この場合、被告人の行為は通貨等模造罪の構成要件に該当するが、自らの行為が適法であるという認識を持っているから、法律の錯誤の問題になる。

違法性の意識不要説に立てば、適法であることの認識はそもそも犯罪の成立とは無関係であるから、犯罪が成立する。

厳格故意説に立てば、適法であるという認識を持っていた場合には故意が阻却されるから、犯罪が成立しない。

制限故意説に立てば、警察官に相談したことで違法性を意識する可能性もなくなったと評価されれば故意が阻却されるが、そうでなければ故意犯が成立する。

責任説に立てば、警察官に相談したことで違法性を意識する可能性もなくなったと評価されれば、責任非難を加えることができず、犯罪が成立しない。そうでなければ犯罪が成立する。

 やはり学説一つ一つ見ていた結果、私は制限責任説が一番人々の平和に寄り添えているではないかと思う。

だからこそ私は、制限責任説の立場に立つことが最善なのではないかと考える。

 

出典

チャタレー事件「https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%BF%E3%83%AC%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6

違法性の意識「https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%81%95%E6%B3%95%E6%80%A7%E3%81%AE%E6%84%8F%E8%AD%98

違法性の意識「https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%95%E6%B3%95%E6%80%A7%E3%81%AE%E6%84%8F%E8%AD%98

勘違い騎士道事件「https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%98%E9%81%95%E3%81%84%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E9%81%93%E4%BA%8B%E4%BB%B6

事実の錯誤「https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8B%E5%AE%9F%E3%81%AE%E9%8C%AF%E8%AA%A4-1330260

たぬき・むじな事件「https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%AC%E3%81%8D%E3%83%BB%E3%82%80%E3%81%98%E3%81%AA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

 

 

 

望月紘樹

故意と違法性の意識について

 

私は、故意は違法性の要件であると考え、制限故意説を支持したいと思う。

 

 

 

1、故意

 

 刑法においては、「罪を犯す意思」(刑法第381項)をいう。その具体的意味や体系的位置づけについては争いがある。民法や保険法においても用いられるが、民法上は結果の発生を認識しながらそれを容認して行為するという心理状態などと言われるが、その意義を論じる意味はないとされる。保険法においては、未必の故意を含むかどうかについて争いがある。

 

 

2、違法性の意識を巡る学説

 

 学説は、違法性の意識(又はその可能性)を、必要としない見解(不要説)、故意の要素 ( Vorsatzmerkmal ) として位置づける見解(故意説)と責任の要件 ( Schuldmerkmal ) に位置づける見解(責任説)大別される。 故意説は、違法性の意識を故意の要素とする「厳格故意説」と違法性の意識の可能性を故意の要素とする「制限故意説」に分かれる。 一方、責任説は、違法性の意識の可能性を、故意犯及び過失犯に共通の責任要素とするものであるが、それはさらに、違法性阻却事由該当事実の誤信について故意の阻却を否定し、違法性の錯誤として、違法性の意識の可能性の有無を基準に責任の有無を決する「厳格責任説」と違法性阻却事由該当事実の誤信について故意の阻却を肯定する「制限責任説」に分かれる。

 

不要説は、その名の通り故意に違法性の意識は必要では無いという説である。現在日本では、この不要説が判例として採用されている。しかし、この説では、非難することができない場合にも故意責任を追及することになり、責任主義を無視する結果になるのではないか、といった批判がある。

 

厳格故意説は、違法性の意識(実行行為が法律に違反するという意識)があるにもかかわらず、敢えて違法行為を実行するところに、故意犯として非難すべき根拠があると解する。 つまり、違法性の意識の有無は、故意と過失とを分かつ分水嶺であると考えることができ、「敢えて行った」ことに対して故意を厳格に認めるべきであるという見解である。

 

 厳格故意説によると、刑法383項は「法規の認識」が不要であることを定めたものと解されることになる。 しかし、この学説には以下の批判がある。常習犯や確信犯には、そもそも違法性の意識がないため、故意犯の成立が否定される。違法でないと軽信しただけで故意犯の成立が否定されうる。刑法383項が上記のように単なる確認規定であると解するのは、現行刑法の解釈として疑問がある。この説によると、高度の法的知識を備えた者のみに故意を認めうることともなり、妥当ではない。したがって、違法性の意識を故意の要件とすることには問題がある。 そこで、こうした批判を意識した見解は、違法性の意識の内容を緩和し、法的な禁止の認識のみならず、前法的な規範違反(社会的有害性など)の認識で足りるとしている。なお、「違法性の意識を欠いたことに過失があった」場合、故意犯の成立が否定されるだけなので、(過失処罰規定があれば)過失犯が成立する余地はあることになる。

 

また、制限故意説は、違法性の意識は故意の要件としては不要であるが、その可能性が故意の要件であるとする見解である。 原則として違法性の錯誤は責任故意を阻却しないが、違法性の意識の可能性すらない場合には故意犯は成立しないとする。

 

これは、違法性の現実の意識を不要とすることで具体的な結論の妥当性を担保しようとするものであるが、「可能性」概念を故意に取り込むことには疑問があるし、違法性の意識の可能性がない場合、過失犯の成立が肯定されるのかに疑問があるとの批判が可能。

 

次に責任説である。違法性の意識の認識可能性を故意・過失共通の独立した責任要素であると解する見解を責任説という。 この説では、犯罪事実の認識は故意そのものであり、違法性を認識すべきものであるので、違法性の意識の有無が行為を行った時点であったかどうかは責任非難の質的差異をもたらすものではないと考える。 つまり、現実にその行為の違法性を認識していたか否かを問わず、故意犯としての責任を免れないことになるのである。刑法383項は、違法性の意識の可能性の有無にかかわらず故意が阻却されないことを定めたもので、刑法383項但書は、違法性の意識を認識することが困難である場合には非難可能性が減少するため、刑を減軽することを定めたものであると解する。 違法性の意識の可能性すら存在していなかったとされる場合には、非難可能性がなく、刑法383項但書の趣旨から、責任阻却が肯定されると解する。

 

厳格責任説では、責任説を厳格に貫き、違法性阻却事由該当事実の認識は故意とは無関係な責任要素であるから、その誤信に回避可能性がある場合(つまり違法性の意識の可能性がある場合)にのみ責任阻却が肯定されるとする見解である。 この見解によれば、構成要件的故意が肯定される場合には、故意犯が成立するか不可罰となるかの二者択一であり、過失犯が成立することはないことになる。

 

ほかにも制限責任説があり、厳格責任説を採ると妥当でない結論に至ることを踏まえ、違法性阻却事由該当事実の誤信は故意を阻却するとする見解である。 この見解によれば、誤想防衛や誤想避難について故意阻却が肯定されることとなる。

 

規範的構成要件要素の錯誤

 

構成要件要素が記述的ではなく、規範的要素である場合、事実の錯誤か違法性の錯誤かを区別することが困難な場合がある。一般的には、ある事実を一定の法的概念にあてはめる前段階として、その社会的・一般的意味を誤解している場合は、その認識から直接違法性の意識を喚起することは期待できないから、そもそも犯罪事実の認識を欠き、事実の錯誤ということになる。しばしば問題となるのは、文書の「わいせつ性」、物の「他人性」、公務員の職務行為の「適法性」などである。これらの社会的意味の認識を欠く場合が事実の錯誤であることは、学説においては承認されている。これに対して、判例は、犯罪事実の認識としていわば裸の事実の認識足りるとすると思われるものと、意味の認識を 考慮したと思われるものとに分かれる。判例に対する学説の評価は一致していないが、違法性の意識の直接的喚起可能性という点で意味の認識をとらえ、必要なのはどの程度の認識かという観点から、犯罪事実の認識の有無を判断すべきである。この場合、禁止自体の認識が要求されるのではなく、その基礎となる事実の属性の認識があれば足りると思われる。

 

 

3、違法性の意識に関連する判例

 

●たぬき・むじな事件

 

 たぬき・むじな事件(たぬき・むじなじけん)とは、1924年(大正13年)に栃木県で発生した狩猟法違反の事件。刑事裁判が行われ、翌年192569日に大審院において被告人に無罪判決(大正14年(れ)第306号)が下された。日本の刑法第38条での「事実の錯誤」に関する判例として現在でもよく引用される。

 

・事実経過

 

被告人は1924229日、猟犬を連れ村田銃を携えて狩りに向かい、その日のうちにムジナ2匹を洞窟の中に追い込んで大石をもって洞窟唯一の出入口である洞穴を塞いだが、被告人はさらに奥地に向かうために直ちにムジナを仕留めずに一旦その場を立ち去った。その後33日に改めて洞穴を開いて捕らえられていたムジナを猟犬と村田銃を用いて狩った。警察はこの行為が31日以後にタヌキを捕獲することを禁じた狩猟法に違反するとして被告人を逮捕した。下級審では、「動物学においてタヌキとムジナは同一とされている」こと、「実際の捕獲日を31日以後である」と判断したことにより被告人を有罪とした。だが被告人は、自らの住む地域を始めとして昔からタヌキとムジナは別の生物であると考えられてきたこと(つまり狩猟法の規制の対象外であると考えていたこと)、229日の段階でムジナを逃げ出せないように確保しているのでこの日が捕獲日にあたると主張して大審院まで争った。

 

・判決

 

 大審院判決では、タヌキとムジナの動物学的な同一性は認めながらも、その事実は広く(当時の)国民一般に定着した認識ではなく、逆に、タヌキとムジナを別種の生物とする認識は被告人だけに留まるものではないために「事実の錯誤」として故意責任阻却が妥当であること、またこれをタヌキだとしても、タヌキの占有のために実際の行動を開始した229日の段階において被告人による先占が成立しており、同日をもって捕獲日と認定(つまり狩猟法がタヌキの捕獲を認めている期限内の行為と)するのが適切であるとして被告人を無罪とした。

 

●むささび・もま事件

 

 「むささび・もま事件」は、地方では「もま」と呼ばれている禁猟のむささびを捕獲した被告人が訴えられた事件。「たぬき・むじな事件」とは対照的に、1924425日、大審院は被告人に有罪判決を下した(大正13年(れ)第407号)。この判決では、「もま」は「むささび」と同一のものであり、そのことを知らなかったのは「法律の不知」に当たるので、罪を犯す意思なしとは言えない、とした。たぬき・むじな事件が、この先例である「むささび・もま」事件と逆の判断となった理由は、たぬきとむじなについては、「同じ穴のむじな」という慣用句にも現れているように、当時はたぬきとむじなが一般には別の動物だと考えられていた。そのため、「むじな」を捕まえる意思では、「たぬき」を捕まえる意思(故意)がないとされた。それに対して、「むささび」と「もま」の場合は、行為者の地方で「むささび」のことを「もま」と呼んでいただけ(「むささび=もま」)、すなわち、被告人が「むささび」という名称を 知らなかっただけであり、全国的に見れば「むささび」と「もま」が別の動物であるとの認識はなかった(言い換えれば、「もま」という語が全国的に知られていないだけである)。そのため、「もま」を捕まえる認識があれば、一般的に「むささび」を捕まえる意思(故意)を認めることができた。

 

 両事件の違いは、一般人ならば違法性を意識し得る程度の事実認識を有していたか否か、すなわち、「たぬき」と「むじな」、「むささび」と「もま」が社会一般において別の動物と考えられていたのか、同一の動物と考えられていたのかという点にある。

 

この点、「たぬき・むじな」事件においては、「たぬき」と「むじな」は社会一般において別の動物と考えられていたので、「むじな」を捕獲する認識では禁猟獣の「たぬき」を捕獲するとの認識はないとされた。すなわち、一般人ならば違法性を意識し得る程度の事実認識を有しておらず、事実の錯誤として故意が欠けるとされた。

 

これに対して、「むささび・もま」事件においては、「もま」というのは一地方における「むささび」の俗称にすぎず、「むささび」の他に「もま」がいるとは考えられていなかったため、両者は社会一般において同一の動物と考えられていたといえ、「もま」を捕獲する認識があれば禁猟獣の「むささび」を捕獲する認識があるとされた。すなわち、一般人ならば違法性を意識し得る程度の事実認識を有していたといえ、法律の錯誤として故意に欠けるところはないとされた。

 

 

4、まとめ

 

 故意は「罪を犯す意思」という意味であり、違法性の意識は「悪いことだと思うこと」である。このように考えると、そもそも悪いことだと思わなければ、罪を犯そうという意思も生まれようが無い。逆にいえば、悪いことだと思うから罪を犯そうという意思が形成されるのだろう。となると、やはり違法性の意識は故意の要件としても良いのではないか、と考える。

 

 以上のことから私は制限故意説を支持したいと思う。制限故意説にも欠点があり、過失犯が成立しない可能性があるが、そこは臨機応変に規定がある場合に過失犯を成立させてしまえば良いと思う。今後議論が進み、制限故意説の欠点もなくなっていくことを願う。

 

 

 

参考・引用文献、サイト

 

松原久利『違法性の錯誤と違法性の意識の可能性』2006年第一版

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%AC%E3%81%8D%E3%83%BB%E3%82%80%E3%81%98%E3%81%AA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%98%E9%81%95%E3%81%84%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E9%81%93%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

https://ssl.okweb3.jp/itojuku/EokpControl?&dummyparam=&event=MobileFaqRead&tid=305814&searchToken=

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%AF%E8%AA%A4_(%E5%88%91%E6%B3%95)

 

http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E6%9C%AA%E5%BF%85%E3%81%AE%E6%95%85%E6%84%8F

 

https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%81%95%E6%B3%95%E6%80%A7%E3%81%AE%E6%84%8F%E8%AD%98

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%85%E6%84%8F

 

 

 

 

大木彩加

故意と違法性の意識について私は、厳格責任説の立場をとる。

 

未必の故意」と「認識ある過失」

故意と違法性の意識においては、いかなる場合に故意が認められ、また、過失が認められるかの限界の問題として、「未必の故意」と「認識ある過失」の問題がある。未必の故意は故意の下限とされ、認識有る過失は過失の上限となると言われている。故意犯は原則的に処罰されるのに対して、過失犯は特に過失犯の規定がないかぎり処罰されないことから、故意と過失の区別は刑法上の重要な問題のひとつである。

この問題については、故意概念についての意思説と表象説の対立を反映して、認容説と認識説の対立が存在する。

認容説によると、未必の故意とは、犯罪結果の実現は不確実だが、それが実現されるかもしれないことを表象し、かつ、実現されることを認容した場合をいう。この説では、結果の実現を表象していたにとどまり、その結果を認容していない場合が、認識ある過失となる。つまり、故意と過失は認容の有無によって区別されるとするのである。

認識説は、認容という意思的態度は要求しない。認識説の中の蓋然性説によると、結果発生の蓋然性が高いと認識した場合が未必の故意となり、単に結果発生の可能性を認識した場合は認識ある過失となる。

動機説と呼ばれる見解もあるが、その内容は認識説に近いものや認容説に近いものなどさまざまである。この中のある見解は、犯罪事実を認識しつつこれを犯罪の実行を思いとどまる反対動機としなかった場合に故意があるとする立場をとる。また、ある見解は、犯罪事実の認識から行為意思(行為動機)を形成し現実の実行行為に出た場合に故意があるものとする。

さらに蓋然性説と呼ばれる見解では、高い蓋然性を認識していた場合には認容は不要であり、低い蓋然性を認識していた場合には積極的認容を要するとして二元的な立場を採る。

 

故意と違法性の意識についての考え方と383

 故意と違法性の意識については、大きく分けて三つの考え方がある。

一つ目は不要説である。文字通り、違法性の意識は犯罪の成立要件として不要である、という説である。不要説によれば、383項の「法律」は「違法性」の意味であり、違法性の錯誤があっても故意はなくならず、383項ただし書は、違法性の意識を欠如したことについて宥恕すべき場合には刑を減軽し得る(意識の可能性もない場合)という趣旨になる。この考え方の根拠は、「法の不知は許さず」というローマ法の法諺に由来し、国民は法を知るべきであるという権威主義的な法理解にある。

しかし、やむを得ない事情で違法性の意識を欠き、行為者を非難できない場合にも故意責任を肯定することは責任主義に違反するといわざるを得ない。

 二つ目は故意説である。故意説はさらに違法性の意識を故意の要素とする「厳格故意説」と違法性の意識の可能性を故意の要素とする「制限故意説」に分かれる。

厳格故意説は違法性の意識(実行行為が法律に違反するという意識)があるにもかかわらず、敢えて違法行為を実行するところに、故意犯として非難すべき根拠があると解する。 つまり、違法性の意識の有無は、故意と過失とを分かつ分水嶺であると考えることができ、「敢えて行った」ことに対して故意を厳格に認めるべきであるという見解である。厳格故意説によると、383項の「法律」は「法」ではなく、「法規」のことを意味し、ただし書は、法規を知らず、違法性の意識があっても、その違法性の程度についての認識が困難とされる場合を念頭においたものとなる。違法性の意識がない場合は381項の「罪を犯す意思」がないことになり、過失犯の成否の問題に移行することになる。

しかしこの学説には、以下の批判がある。

・常習犯や確信犯には、そもそも違法性の意識がないため、故意犯の成立が否定される。

・違法でないと軽信しただけで故意犯の成立が否定されうる。

・刑法383項が上記のように単なる確認規定であると解するのは、現行刑法の解釈として疑問がある。

・この説によると、高度の法的知識を備えた者のみに故意を認めうることともなり、妥当ではない

したがって、違法性の意識を故意の要件とすることには問題がある。 そこで、こうした批判を意識した見解は、違法性の意識の内容を緩和し、法的な禁止の認識のみならず、前法的な規範違反(社会的有害性など)の認識で足りるとしている。
なお、「違法性の意識を欠いたことに過失があった」場合、故意犯の成立が否定されるだけなので、(過失処罰規定があれば)過失犯が成立する余地はあることになる。

制限故意説は違法性の意識は故意の要件としては不要であるが、その可能性が故意の要件であるとする見解である。原則として違法性の錯誤は責任故意を阻却しないが、違法性の意識の可能性すらない場合には故意犯は成立しないとする。制限故意説によれば、38条の3項の「法律」は「法規」あるいは「違法性」のどちらの意味でも可能であり、ただし書は、違法性の意識の可能性はあるが、それが困難であるため、違法性の意識を欠き、非難が減少する場合の規定となる。

制限故意説に対しては、以下のような疑問がある。

・「可能性」という過失的要素を故意へ導入しているということ。

・違法性の意識の可能性は、故意犯・過失犯に共通の要素ではないかということ。

・事実の過失は故意を阻却するが、違法性の過失は故意を阻却しないことの根拠づけがないこと。

したがって、違法性の意識の可能性は故意の要素ではないといわざるを得ない。

 そして三つ目が責任説である。責任説は違法性の意識の可能性を故意犯及び過失犯に共通の責任要素とするものである。責任説によれば、383項は、「違法性」の錯誤は故意を阻却しないことを規定したものであり、ただし書は、違法性の意識の可能性があっても、違法性の意識を持つことが困難である場合に、責任が減少する場合を規定したものということになる。

責任説はさらに、違法性阻却事由該当事実の誤信について故意の阻却を否定し、違法性の錯誤として、違法性の意識の可能性の有無を基準に責任の有無を決する「厳格責任説」と違法性阻却事由該当事実の誤信について故意の阻却を肯定する「制限責任説」に分かれる。

私がとる立場でもある厳格責任説は、責任説を厳格に貫き、違法性阻却事由(=法律の錯誤)該当事実の認識は故意とは無関係な責任要素であるから、その誤信に回避可能性がある場合(つまり違法性の意識の可能性がある場合)にのみ責任阻却が肯定されるとする見解である。この見解によれば、構成要件的故意が肯定される場合には、故意犯が成立するか不可罰となるかの二者択一であり、過失犯が成立することはないことになる。

 制限責任説は、厳格責任説を採ると妥当でない結論に至ることを踏まえ、違法性阻却事由該当事実の誤信は故意を阻却するとする見解である。この見解によれば、誤想防衛や誤想避難について違法性に関する事実の錯誤として責任故意が否定され、故意犯は成立しないことになる。

 

違法性の錯誤からみる故意説と責任説の違い

 たとえば、物・文書の「わいせつ性」、物の「他人性」、職務行為の「適法性」などの規範的構成要件要素については、それらの要素に平行する社会的意味の認識を欠けば事実の錯誤であり、その認識があれば違法性の錯誤である。

違法性の錯誤の場合、すなわち違法性の意識が欠ける場合に故意(責任故意)ないし責任が阻却されるか、上述した通り、383項に関連して争いがある。

 

英国騎士道事件からみる責任説の違い

英国騎士道事件または勘違い騎士道事件は、日本で起きた刑事事件である。最高裁判所が誤想過剰防衛について刑法362項による刑の減軽を認めた事例として知られる。英国人である被告人が、状況につき誤解したまま騎士道精神に基づいて行動しようとしたためにおきた事件であることからこう言われる。

英国人で、空手3段の腕前である被告人は、夜間帰宅途中の路上で、酩酊した女性とこれをなだめていた男性とがもみ合ううち、女性が倉庫の鉄製シャッターにぶつかって尻餅をついたのを目撃した。その際、同女が「ヘルプミー、ヘルプミー」などと(冗談で)叫んだため、被告人は女性が男性に暴行を受けているものと誤解して両者の間に割って入った。被告人はその上で、女性を助け起こそうとし、ついで男性のほうに振り向き両手を差し出した。男性はこれを見て被告人が自分に襲い掛かってくるものと誤解し、防御するために自分の手を握って胸の前あたりに上げた。これを見た被告人は、男性がボクシングのファイティングポーズをとり自分に襲い掛かってくるものと誤解し、自己および女性の身体を防衛しよ うと考え、男性の顔面付近を狙って空手技である回し蹴りをし、実際に男性の右顔面付近に命中させた。 それにより男性は転倒して頭蓋骨骨折などの重傷を負い、8日後にその障害に起因する脳硬膜外出血および脳挫滅によって死亡した。

最高裁判所昭和62326日決定は、「本件回し蹴り行為は、被告人が誤信したA(男性)による急迫不正の侵害に対する防衛手段として相当性を逸脱していることが明らかである」として、傷害致死罪の成立を認めた上で刑法362項による減軽を認めた原審の判断を、最決昭和4177日を引用して支持した。

 実際の事件では男性が死亡しているために、傷害致死罪が成立した。この場合は厳格責任説でも制限責任説でも同じである。しかし仮に男性の怪我が全治3か月のものであった場合、厳格責任説ならば傷害罪が成立するが、制限責任説の立場から判断すると無罪という事になる。

これこそが、私が制限責任説ではなく厳格責任説の立場をとる理由である。他人に大怪我を負わせているにも関わらず、罪に問われないというのは些かおかしな話である。

 

 

参考サイト:Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki>(2016/01/19

参考文献:高橋則夫(2013)『刑法総論 第2版』

 

 

 

 

谷口彩夏

[故意と違法性の意識]

 私は故意や違法性の意識は、あまりに心理学的であると考えています。

1、違法性の意識とは

自己の行為が法的に(刑法上)禁止されているものであると認識していることです。刑法383項により、法律を知らなかったとしても、そのことによって罪を犯す意思がなかったとすることはできません。ただし、情状によりその刑を減軽することができます。

主な学説は、違法性の意識又は、その可能性を故意の要素として位置づける見解(故意説)と責任の要件に位置づける見解(責任説)に大別されます。 故意説は、違法性の意識を故意の要素とする「厳格故意説」と違法性の意識の可能性を故意の要素とする「制限故意説」に分かれます。 一方、責任説は、違法性の意識の可能性を、故意犯及び過失犯に共通の責任要素とするものであるが、それはさらに、違法性阻却事由該当事実の誤信について故意の阻却を否定し、違法性の錯誤として、違法性の意識の可能性の有無を基準に責任の有無を決する「厳格責任説」と違法性阻却事由該当事実の誤信について故意の阻却を肯定する「制限責任説」に分かれます。

 

@    厳格故意説とは

この説は、違法性の意識(実行行為が法律に違反するという意識)があるにもかかわらず、敢えて違法行為を実行するところに、故意犯として非難すべき根拠があるとし、違法性の意識の有無は、故意と過失とを分かつ分水嶺であると考えることができ、「敢えて行った」ことに対して故意を厳格に認めるべきであるという見解です。厳格故意説によると、刑法383項は「法規の認識」が不要であることを定めたものと解されることになり、この学説には以下の批判があります。

・常習犯や確信犯には、そもそも違法性の意識がないため、故意犯の成立が否定されます。

・違法でないと軽信しただけで故意犯の成立が否定される場合もあります。

・刑法383項が上記のように単なる確認規定であると解するのは、現行刑法の解釈として疑問があります。

・この説によると、高度の法的知識を備えた者のみに故意を認めうることともなり、妥当ではないです。

したがって、違法性の意識を故意の要件とすることには問題があります。 そこで、こうした批判を意識した見解は、違法性の意識の内容を緩和し、法的な禁止の認識のみならず、前法的な規範違反(社会的有害性など)の認識で足りるとしています。なお、「違法性の意識を欠いたことに過失があった」場合、故意犯の成立が否定されるだけなので、(過失処罰規定があれば)過失犯が成立する余地はあることになります。

 

A制限故意説とは

違法性の意識は故意の要件としては不要であるが、その可能性が故意の要件であるとする見解です。 原則として違法性の錯誤は責任故意を阻却しないが、違法性の意識の可能性すらない場合には故意犯は成立しないとします。これは、違法性の現実の意識を不要とすることで具体的な結論の妥当性を担保しようとするものであるが、「可能性」概念を故意に取り込むことには疑問があり、違法性の意識の可能性がない場合、過失犯の成立が肯定されるのかに疑問があるとの批判が可能です。

 

B責任説

違法性の意識の認識可能性を故意・過失共通の独立した責任要素であると解する見解を責任説といいます。 この説では、犯罪事実の認識は故意そのものであり、違法性を認識すべきものであるので、違法性の意識の有無が行為を行った時点であったかどうかは責任非難の質的差異をもたらすものではないと考えます。 つまり、現実にその行為の違法性を認識していたか否かを問わず、故意犯としての責任を免れないということになります。刑法383項は、違法性の意識の可能性の有無にかかわらず故意が阻却されないことを定めたもので、刑法383項は、違法性の意識を認識することが困難である場合には非難可能性が減少するため、刑を減軽することを定めたものであると解します。 違法性の意識の可能性すら存在していなかったとされる場合には、非難可能性がなく、刑法383項の趣旨から、責任阻却が肯定されると解します。

 

 

2、故意とは

まず、故意とは一般的にはある行為が意図的なものであることを指します。

刑法においては、刑法第381項の「罪を犯す意思」をいいます。その具体的意味や体系的位置づけについては争いがあり、民法や保険法においても用いられますが、民法上は結果の発生を認識しながらそれを容認して行為するという心理状態などと言われますが、その意義を論じる意味はないとされています。保険法においては、未必の故意を含むかどうかについて争いがあります。

未必の故意とは、罪を犯す意志たる故意の一態様であり、犯罪の実現自体は不確実ではあるものの、自ら企図した犯罪が実現されるかもしれないことを認識しながら、それを認容している場合を意味します。その点で「罪を犯す意志」として十分であると思われます。これと異なり、犯罪の認識はあるが、認容を欠く場合には過失(認識ある過失)となり、故意は認められないことになります。具体的な例を上げますと、ビルの屋上から、人があふれている道路に、当たる可能性が当然あると分かっていながらビンを投げる行為がなどです。自己中心的な運試しともいえるような行為の場合が多いと考えれます。

刑法における故意の意義については、認識的要素以外に意思的要素を含むかどうかについて、意思説と表象説の対立があり、さらに折衷的な動機説も唱えられています。通説とされるのは、認識・予見(両者をあわせて「表象」ともいいます。以下、単に「認識」ともいいます。)に加えて少なくとも消極的認容という意思的要素を要求する認容説であり、下級審裁判例でもしばしば認容説が採られています。 また、認識的要素についても、どの範囲の事実を認識することを要するかについては争いがあります。日本の判例・通説によれば、構成要件該当事実の認識及び違法性阻却事由該当事実の不認識を要するものと解されていますが、この中でも細かい対立もあります。行為者の認識と、現実に存在し発生したところとの間に、不一致が生じている場合は錯誤とされ、刑法においては、このことを犯罪事実に関する「事実の錯誤」と自分の行為が法的に許されているか否かに関する「法律の錯誤」に分類される通説もあります。また、構成要件要素である構成要件的故意と、非構成要件要素で責任要素である責任故意に分けて議論されています。

 

@構成要件的故意とは

構成要件的故意とは、客観的構成要件該当事実に対する認識を前提とするものであり、主観的構成要件要素です。

規範的構成要件要素について、どの程度の認識が要求されるかについては、争いがあります。構成要件該当事実についての(素人領域において反対動機の形成が可能な程度の事実認識)があることを要し、かつそれで足りる、とする説が有力です。

 

 A責任故意とは

 通説によれば、責任故意は構成要件的故意以外の故意の要素です。違法性に関する事実の認識(違法性阻却事由の不認識)があることを要しますが、違法性の意識又はその可能性が故意の要素かについては争いがあります。

 この責任故意は、故意犯の構成要件に該当する違法な行為について、責任能力のある当該行為者に対して、故意犯の成立を認めるのに必要な要素です。責任の面において故意があるといえるため、厳密にはさらに、行為者自身に積極的に法規範に違反した人格態度がうかがわれることが必要だと考えられます。そして責任故意は、この意味で考えられる観念であり、その要件としては、違法性に関する事実の表象と違法性の意識とが取りあげられるべきだと思います。

違法性に関する事実の表象が責任故意の要件であることは、判例・通説であります。例えば恋人同士である甲男と乙女が暗がりで抱き合っていたとき、通りがかった丙が、甲男を痴漢(強制わいせつ罪)と誤解して甲男を突き飛ばして怪我をさせた場合誤想防衛となります。傷害罪について急迫不正の侵害はないから正当防衛は成立しないが、違法性に関する事実の表象が欠け、責任故意は成立しません。

ただし、丙にかかる誤解について注意義務違反があるといえるときは、責任過失が成立し、過失致傷罪となります(傷害罪の構成要件的故意は過失致傷罪の構成要件的過失を含むないし両立するなどと説明されることがあります)。違法性の意識のないその可能性が責任故意の要件であるかどうかも議論されますが、それを要件とせず、違法性の意識の可能性を責任故意の要件とする制限故意説および違法性の意識の可能性を故意とは別の責任要素とする責任説が有力です。いずれにせよ違法性の意識の可能性が少なくとも故意犯の成立には必要であるという見解が実務上確立されています。

 

3、考察

違法性の意識の問題をめぐる議論で、今まで有力に主張されてきた故意説がしだいに衰退され責任説が故意説よりも、有力に主張されているように私は感じました。故意説の衰退によってたとえば、常習犯人、激情犯人および確信犯人の場合、違法性の意識を要求することが困難であると批判されます。このような批判がなされるのは、本来故意説にいう「違法性の意識」の内容が、法違反性の意識ではなく、悪いことをするという意識を指すからです。許されないという意識を故意に要求する見解を故意説と呼ぶが規範的な故意説の根本的な問題点は、故意に異質のもの、すなわち犯罪の認識と反規範性の意識を含ませることにあると思います。違法性の意識は潜在的なもので足り、常習犯人といえども故意を認めうるという反論が企てられるが、意識下の潜在的なものであるとするのは、結局、論者の言う違法性の意識が規範意識の問題であることを、認め

るもので、許されないという意識は、行為者の認識内容の有する価値・反価値が行為者の規範意識に作用すると考えられます。故意や違法性の意識とは、あまりに心理的な事態として理解することが多く、心理学的な責任の理解が求められると思います。 

   

出典、・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%AF%E8%AA%A4_(%E5%88%91%E6%B3%95)

  ・https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/6464/1/A05111951-00-039000001.pdf

 

 

 

 

澤井佑斗

基礎教養演習U

学期末レポート テーマ:故意と違法性の意識

 

帝京大学 法学部 法律学科

210組澤井佑斗(14J110023)

 

 

 私は、「故意と違法性の意識」によって判決が異なることに疑問を感じた。最高裁が異なる判決を下したことについて、私は、動機あるいは認識が故意と違法性の意識の関係に大きく影響していると考える。また、犯罪を客観的または主観的に見た場合、判決にどのような影響を与えるのか考えた。

 

 

事実の錯誤法律の錯誤の関係性

 事実の錯誤法律の錯誤の関係性は、刑法における主要な問題点とされてきた。法律の錯誤を故意の成立要件としないことを原則的に採用している判例の立場においては、この問題は重要な意味をもつ。事実の錯誤とは、故意として認識することを要する事実の側面における錯誤をいい、法律の錯誤とは、故意として認識した事実の実現についての評価の側面における錯誤をいう。法律の錯誤は、客観的に違法であるのに、主観的には違法でないと意識する場合であるので、その錯誤の原因として、法律の不知や法律の解釈の誤りなどが考えられる。この事実の錯誤法律の錯誤の二つの説明をする上で、私は、授業中に扱った「たぬき・むじな」事件と「むささび・もま」事件を例にとっていきたい。結論から述べると、この二つの事件は、類似の事件であるにも関わらず、最高裁は異なった判決を下している。社会一般において、別の動物と考えられていたのか、同一の動物と考えられていたのかに違いがあり、両事件とも、必要とされる認識内容は、いずれも「禁猟獣」の捕獲という点では共通である。そして、「禁猟獣」の認識は、動物学的なものではなく、素人的認識で足りうる。大正14年判決では、たぬきとむじなとは社会一般において別の動物と考えられていたので、「むじな」の認識では禁猟獣「たぬき」の素人的認識はないとされた。これに対し、大正13年判決では、社会一般においてその当時、もまは単なる俗称で、もまの他にむささびがいるとは考えられていなかったので、「もま」の素人的認識があれば禁猟獣「むささび」の素人的認識があるとされた。前者においては、行為者には「禁猟獣」を捕獲することなかれという規範に直面し得なかったのに対し、後者においては、行為者にはその規範に直面し得たという点から、両者において結論に差異が生じたのである。事実の錯誤は刑法381項に記載されており、認識なき過失は非容認とし犯罪成立はしない、つまり、無罪としている。一方、法律の錯誤は、刑法383項に記載されており、法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない」と定めている。認識ある過失つまり未必の故意は非容認とするが、犯罪成立は有罪とするということになる。さらに、法律の錯誤の中では、違法性の意味として「厳格故意説」、「制限故意説」、「責任説」の3つの対立がある。

 

 

違法性の意識の問題点

 違法性の意識についての考え方の中には大きく3つの学説が存在する。「違法性の意識不要説」、「故意説」、「責任説」である。そして、故意説、責任説は大きく分けて「厳格故意説」、「制限故意説」、「厳格責任説」、「制限責任説」に分けることもできる。これらは判例にどのような影響を与えるのか。私は「雪国村橋爆破事件」をもとに述べていきたい。結論から言うと、この事案は有罪となっている。では、なぜ有罪となったのか。私は、違法性の意識不要説、故意説、責任説が影響していると考えた。初めに不要説は、責任主義に反する可能性がある。これは、悪いと思っていても故意があるので有罪となる。つまり、国民は全ての法律を知っておくべきであるというものは、国家の一面的協調であるので、個人の価値を軽視してしまう。次に、厳格故意説では違法性の意識が必要になってくる。これは、故意責任の特質は、自己の行為が法律上許されない事を意識したことにより形成された反対動機により、直接的な反規範的行動にあるためである。制限故意説は、違法性の意識までは必要なく、違法性の意識の可能性で足りる。これは、「故意に」とは、「知っていながら」ということであるから、行為者が犯罪事実の全てを認識しながら違法性の意識がなかった場合、誤った評価をするに至った人格形成にこそ非難に値すると言えるからである。責任説は、違法性の意識の可能性で足りる。これは、制限故意説から事実的故意の存在だけでは故意犯の本質としての法規範性に違反するためであると考えられる。ここで、判例を見ていきたい。判例では、刑法383項にある通り、自己の行為が違法であることを意識していなかったにもかかわらず、故意犯として処罰される場合において、刑を軽減するものとしている。しかし、自己の行為に適用される刑罰法令や法規定を知らずとも、その行為が違法であることを意識している場合は、刑の軽減はしないとしている。この判例は、違法性の意識不要説の考えをもとに判決が下されたと考えられる。判例の主流は、違法性の意識不要説であった。しかし、違法性の錯誤につき相当の理由まで故意犯で処罰することが責任主義に反するとの批判が強くなった。責任主義とは、行為者に対する責任非難が出来ない場合には、刑罰を科すべきではないとする原則のことである。現在では、可能性説である制限故意説責任説などから違法性の意識がない場合に刑罰を軽くする判例もある。この雪国村橋爆破事件では、違法性の意識を除いたことにより、相当の理由があれば犯罪が否定されるとしているため、違法性の意識不要説を放棄したと評価できる。また、判例はから、可能性説への判例変更を示唆している判例であると考えることが出来る。

 

 

犯罪の成立要件とは

 構成要件は、客観的構成要素と主観的構成要素の2つに大きく分けることが出来る。前者は、行為、行為の主体、行為の客体、行為の結果、因果関係、行為の状況などが挙げられ、後者は、故意、過失、目的犯における目的などがある。そして、構成要件要素は「規範的構成要件要素」と「記述的構成要件要素」に分けられる。ここで私は、規範的構成要件要素について深く考えたい。規範的構成要件要素とは、一般的な法解釈によってその要素の内容を確定するには限界があり、社会常識によって規範的、評価的な価値判断を行うことにより決定せざるを得ない部分を含む構成要件である。例えば、他人の財物のように法的評価を必要とするものや、わいせつ、名誉毀損などのように文化的評価を必要とするものが当てはまる。ここで、授業で扱った「チャタレイ事件」を例にとって述べていきたい。チャタレイ事件で最大の争点となったのは「わいせつ性」である。わいせつ性は規範的構成要件要素である。規範的構成要件要素は、さらに社会規範的構成要件要素と法律的規範的構成要件要素に区別される。わいせつ性は前者に帰属すものであり、わいせつ性の認識に関して、問題となる記載の存在の認識つまり、確信犯の認識まで必要としているものではない。しかし、わいせつ性に関し、全く認識がなかったとしても、未必の故意の成立と無関係であるとされたわけではないので、問題となる記載の認識としては、描写に用いられている表現が社会における一般的意味を理解していることを必要とすることが判例の趣旨である。したがって、わいせつ性の未必的認識の可能性を否定されるような認識しか持っていなかった場合、事実の錯誤として故意が否定されるが、わいせつではないと誤信しているのであれば、故意は阻却されないのである。

 

 

違法性阻却事由の錯誤

 構成要件は違法行為の類型なので、行為が構成要件に該当すれば違法と推定される。すかし、例外的に構成要件に該当しても違法性が否定される場合がある。これを「違法性阻却事由」と呼ぶ。違法性阻却事由が存在すれば、構成要件の違法性の推定が覆され、行為は違法にはならず、犯罪は成立しない。違法性阻却事由は、緊急時に対応するための違法性阻却事由であるか否かによって「緊急行為」とそれ以外の「一般的正当行為」に分類することが出来る。ここで、私はレポートのキーワードになっている「誤想防衛」について述べていきたい。「防衛」を大きくわけると、「緊急避難」、「正当防衛」、「誤想過剰防衛」、「過剰防衛」、「誤想防衛」に分けることが出来る。緊急避難とは、「現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為」をいう。例えば、自動車にひかれそうになったので、とっさに避けようとして傍にいた人を突き飛ばし、ケガをさせたという場合がこれに当たる。正当防衛と異なり、無関係な第三者を犠牲にするという特徴がある。正当防衛とは、急迫不正な侵害に対して、自己または他人の権利を防衛するため、やむを得ずした行為をさす。誤想過剰防衛とは、急迫不正の侵害がないのに、あると誤信して行為に出たが、その防衛行為が過剰であった場合を指す。過剰防衛並びに誤想防衛は、「英国勘違い騎士道事件」を例にとって述べていきたい。この事案では、誤想防衛が最大の焦点となった。誤想防衛とは、急迫不正な侵害がないのに、あると誤信して防衛行為に出た場合をさす。これは、急迫不正の侵害がない点で過剰防衛とは異なる。一方で、過剰防衛とは、急迫不正な侵害に対して反撃したが、それが防衛の程度を超えた場合をいう。また、防衛行為がやむを得ない程度の必要性、相当性を超えた場合をいう。そのため、過剰防衛は違法性が阻却されないため犯罪が成立する。この英国勘違い騎士事件では、誤想防衛を違法性の錯誤と考え、違法性の錯誤は故意を阻却せず、行為者には構成要件に該当する事実の認識はあることから故意は阻却されないという厳格責任説と、事実の錯誤と考え、事実の錯誤は故意を阻却し、誤信したことに過失がある場合には過失犯の成立が認められるという2つの考え方がある。判例では、後者の方を通説としている。このように、英国勘違い騎士事件においては、厳格責任説、制限責任説では大きく異なることが分かる。前者の誤想防衛は有罪とし、傷害罪あるいは傷害致死罪という結論となる。一方で、後者は傷害罪にならず無罪としながらも。傷害致死罪という結論に至っている。

 

 

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参考文献

・違法性の意識の可能性

https://ssl.okweb3.jp/itojuku/EokpControl;jsession..?&tid=303138&event=FE0006

・違法性の意識

http://okagawa-office.blogspot.jp/2014/04/blog-post_10.html

・「犯罪」とは何か。「故意」について

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kitagawa/mame018.html

・「違法性の意識とその可能性」

http://homepage1.nifty.com/strafrecht/chuo-uni/resume/resume20061215.pdf#search='%E6%95%85%E6%84%8F%E3%81%A8%E9%81%95%E6%B3%95%E6%80%A7%E3%81%AE%E6%84%8F%E8%AD%98'

・「違法性の認識」

http://homepage1.nifty.com/strafrecht/chuo-uni/resume/resume20060929.pdf#search='%E9%81%95%E6%B3%95%E6%80%A7%E3%81%AE%E6%84%8F%E8%AD%98'

・事実の錯誤と法律の錯誤の区別

http://libir.soka.ac.jp/dspace/bitstream/10911/2138/1/KJ00004862301.pdf#search='%E8%A6%8F%E7%AF%84%E7%9A%84%E6%A7%8B%E6%88%90%E8%A6%81%E4%BB%B6%E8%A6%81%E7%B4%A0+%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%BF%E3%83%AC%E3%83%BC'

・違法性阻却事由について

http://houritu.web.fc2.com/item/keihou1.pdf#search='%E9%81%95%E6%B3%95%E6%80%A7%E9%98%BB%E5%8D%B4%E4%BA%8B%E7%94%B1%E3%81%AE%E9%8C%AF%E8%AA%A4'