沼口史貴
故意と違法性の意識
1、結論
故意と違法性は別の要素である。
2、故意と違法性の定義
本結論に至った理由を論述するに前に、議題の内容である故意と違法性はなんであるかを知っておくことが大前提であると思う。
すべて同一の参考書籍からの引用になるが、参考書籍における故意とは、違法な犯罪事実に向けられた意思で、犯罪の認識・認容という事実的側面とその事実を違法と認識又は認識し得たかという規範的な側面から成り立っている責任要素である。
違法性とは、行為が実質的に全体としての法秩序に反していることをいう。
これを踏まえたうえで次から論述する点を見て行ってもらいたいと思うが、最後に犯罪の定義についても理解してもらいたい。
構成要件に該当する違法・有責な行為、これが犯罪の定義である。
3、違法性だけの事例
ここからなぜこのような結論に至り、そしてなぜそう言えるのかを説明して行くこととなる。
本来であれば判例を踏まえながら説明していくのが筋ではあるが、最初は私が仮想した案件上にて説明していくこととする。
今の社会にて日常的に必要となった自動車。
仕事においても運転ができるかどうかが焦点となってくる企業も多く、その観点で言えば自動車を扱えることが前提となりつつある。
自動車の運転には当然のことながら運転免許証取得が絶対条件であり、本事案も運転免許証を取得している人物が運転する自動車と想定する。
本案件では運転免許取得して二年になり、いままで無事故無違反だった青年Aの運転する自動車が交通事故を起こした場合である。
彼は営業で自動車を使用している関係上、ほぼ日常的に車を使用している。
取得してから二年間当然のことながら、彼は交通規則に従って常に安全運転を続けていたところが、その日に限って彼は寝坊をしてしまい、仕事の始業時刻が迫っていた。
そこで彼はいつも通っている一般道の法定速度60キロの道を10キロ超える70キロで走行していた。
この時点で彼には制限速度を超過している、すなわち悪いと思う違法性の意識があり、超加速度で運転すれば事故を起こすかも知れないとの認識を有していたとする。
それでも始業時間に間に合わせるために10キロ超過を続け、信号のない歩道を渡っていた歩行者に気がつき、急停止するも間に合わずに怪我を負わせた場合である。
この場合、違法性を認識しつつ違法行為=道路交通法を犯していたことには間違いがない。
怪我をさせた運転手に対しては過失責任が発生するため、自動車運転処罰法第5条の過失運転傷害罪が成立することになる。
また、スピード違反で道路交通法違反も合わせて処罰されることにはなる。
しかし、単純に始業時刻に間に合わせたかったという理由ゆえの事故であり、事故を起こした青年Aは違法性を認識していた。
しかしながら、歩行者に気がついた時点で急停止をかけていることは人をはねたことに故意があるとは言えない。
従って、この事案は違法性のみの交通事故として処罰されることになる。
では、仮にこの案件に故意が含まれた場合はどうなるのかは次を見てほしい。
4、故意と違法性の事案
では、先ほどの事案に故意が含まれていたとしたらどうだろう?
案件は先程と同じで、青年Aの運転する自動車が歩行者と接触したとする想定である。
時速は同じく時速70キロで、速度を出せば事故を起こしかねない認識と道路交通法に反している違法性を有していたとする。
しかし、この状況にあえて補足として青年Aは日々のストレスから自動車で人をはねてみたいという衝動にかられたとう設定を加えてみる。
この際、はねる人は別に自転車でも歩行者でもよく、人数も特に決めていなかった。
先ほど同様に始業時間に間に合わせる為に自動車を運転していた青年Aは少し先の信号がない横断歩道で歩行者が横断していることに気が付く。
しかし、Aは速度を落とすことなくそのまま歩行者をはね、怪我をさせた場合はどうであろうか?
Aは運転中、人をはねるという故意を持ち、かつ道路交通法に反している等の違法性の意識を持ち合わせて事故を起こしている。
ここで注意すべき点は、この事故には未必の故意があるということである。
未必の故意は、犯罪の実現自体は不確実でありながらも、自ら企図した犯罪が実現されるかもしれないことを認識しながら、それを認容する場合を意味する。
この場合、人をはねようと企て、スピードを出して走行を続けた場合に人をはねるということを認識し、かつ接触の間際も止まることなく事故を起こしたことに未必の故意があると断定することができる。
こうなると、先ほどのように過失運転傷害罪を成立させることはできない。
これはあくまで過失の場合であって、故意がある場合には傷害罪(刑法204条)が成立する。
一見すると傷害罪の方が過失運転傷害よりも刑は軽いようにも見えるが、実際には逆である。
過失運転傷害罪は自動車運転処罰法第5条の規定に従って課されるため、重いと感じる場合もあるが、傷害の場合は致死よりも刑がさらに重いと判断できる。
以下は運転致死傷罪における規定であるが、7年以下の懲役もしくは禁錮、100万円以下の罰金が科されるとされている。
対し、傷害罪の方は15年以下の懲役もしくは50万円以下の罰金に処するとされている。
罰金刑で言えば運転致死傷罪の方が重いと言えるが、懲役刑を科された場合は傷害の方が遥かに重くかかることになる。
私から言えば、ケースにもよるが、拘束される期間が長い傷害の方がより重いと考える。
故意があるかないかでここまで重さが変わる。
仮に違法性と故意を同じとし、先ほどの違法性における事案と本件を比較した際、どうなるであろうか?
違法性すなわち故意があるとすれば、それはたとえ故意なき過失における事故であったとしても、故意ありの事故と同じ刑罰によって処されることとなる。
それが果たして法として正しいものなのだろうか?
私の意見は総まとめにて述べたいと思うが、私はそれが正しいとは思えない。
5、違法性の意識
さて、ここまでは私が違法性と故意を別要素と捉える理由を事案とともに述べてきたが、ここで再度違法性の意識だけに焦点を当て話していきたいと思う。
違法性の意識とは、自己の行為が違法であると意識することを定義としている。
現在、違法性の意識に関する学説だけで違法性の意識不要説(厳格故意説)、違法性の意識不要説、制限故意説が挙げられる。
厳格故意説の立場は、違法性を意識し、反対動機を形成したにもかかわらずあえて犯罪行為に及ぶことで、初めて法的非難の対象となる学説である。
しかし、批判として常習犯や激情犯は違法性の意識がないことから処罰できなくなることが挙げられている。
私もこの批判に対しては同意見であり、万引き常習犯が法に反している違法性があるにも関わらず意識がないだけで処罰しないのは法の平等に反するとする。
違法性の意識不要説は、国民が法を知っていることを前提とし、違法性の意識がなくても故意犯が成立する立場である。
これは判例として取られた学説ではあるが、この学説では故意・過失による個人的責任及び主観的責任を掲げる責任主義の原則に反するとの批判がある。
私もこれにも同じような意見であり、法を犯したものをすべて故意犯とするならば刑法第36条正当防衛及び刑法第37条緊急避難の行為すべてに故意があるということになり、そもそも両条文の存在と矛盾しているのではないかと考えている。
通説とされる制限故意説は、違法性の意識を不要としつつ違法性の可能性を意識しつつも違法と判断しない人格を作り上げることに法的非難ができ、違法性の可能性が否定されることにつき、相当理由がある場合には故意阻却になる余地があるとされる学説である。
しかし、私は違法性の意識と故意の意識を別枠えるかんがえであり、違法性の意識は故意の意識と独立した別要素と捉える責任説の考え方であるように思われる。
責任説は違法性の意識の可能性があれば責任避難は可能とする立場である。
だが、この責任説は故意を犯罪事実の認識とだけ捉えると故意犯を法的に非難する根拠が弱くなることから違法性の意識の可能性は故意の要素とするべきとの批判がある。
そこで、私はある観点から見て言えば違法性と故意の意識は別と捉えたのだが、学説を支持する立場としては制限故意説を支持している。
その理由も、最後でまとめて説明をすることにする。
6、責任説の学説
責任説においてもやはり学説による対立がある。
それが厳格責任説と制限責任説の二つの学説である。
両者は違法清阻却事由の錯誤を法律の錯誤とするか否かで区別され、先程紹介した厳格故意説と制限故意説とは異なる。
厳格責任説とは、構成要件に関する錯誤以外は全て法律(禁止)の錯誤とするものであり、違法阻却の錯誤は故意に影響し得ず、法律の錯誤とするものである。
法律の錯誤における有名な判例として、むささび・もま事件(大半大正13年4月25日)がある。
この事件は狩猟禁止期間においてむささび(もま)三匹を捕獲し、有罪となった事件である。
被告人側はもまと称す動物ならば罪にはならないと主張するも、高知地裁はもまが地方におけるむささびの俗称であり、形状の同じ動物という認識が当然であるとし、錯誤したことに相当の理由はなしとした。
この判例に対して私は、むささびは特定の地域においての俗称であり、むささびは禁止でももまならば禁止にならないという考え方は刑法38条3項にあたると考える。
むささびともまが別の動物であるならばまだしも、俗称が違うだけの話であり、結果として同じ動物であるならば錯誤を適用することはできないように思う。
これは推測になってしまうが、本当はそのことを知っていた確信犯ではないかと私は考えている。
確信犯はそのままの意味で悪いことと知りながら行った犯罪のことであり、もしそうであるならば錯誤を使って罪を逃れようとするのは道徳的にも・倫理的にも反するからである。
次に、厳格責任説と反する制限責任説が存在する。
制限責任説は違法性阻却事由の錯誤を構成要件(事実)の錯誤とし、誤想防衛は故意が否定されることになる学説であり、事実の錯誤とする学説である。
事実の錯誤における判例もあり、それがむささび・まも事件と反対立場にあるたぬき・むじな事件(大半大正14年6月9日)である。
同じように狸狩猟を許可している期間外で狸を狩猟し、起訴された。
一審は不明だが、二審において違法であるとされ有罪になるが、破棄自判によって無罪となった。
これは先ほどの俗称の違いで同じ動物を狩猟したむささび・もま事件とは違い、学問上で同じとされながらも被告人がたぬきとむじなは違う動物であると誤認していたために捕獲してしまった事案である。
違う動物として認識していたので判例は当然であり、古来日本ではたぬきとむじなの名称が併存していることから故意を阻却できるものではあるが、先ほどのむささび・もま事件と相対した際に、どこから法律の錯誤となり、どこから事実の錯誤となりうるのかの境界線が曖昧なようにも思える。
せっかく制限責任説を述べているので、このまま誤想防衛の観点についても説明を進めていこう。
この制限責任説は、誤想防衛は故意を否定する考えの学説であると説明した。
誤想防衛の判例として、英国騎士道事件(最決昭和62年3月26日)が挙げられる。
空手3段を持つ英国人が絡み合っていた男女を見て男性が暴行していると判断し、助けに入ったところ警戒した男性が防衛体制を取り、これをファインティングポーズと誤信した英国人が防衛のためにBに回し蹴りをして傷害を負わせ、8日後に死亡させ、誤想過剰防衛として傷害致死を成立した事件である。
私としては、いくら自衛のためだとしてもその手段が逸脱したものであることに違いはなく、力を持つ者がその力を自覚する必要のあること判断することから判決は適正であったと見解する。
しかし、これが故意のあった行為としたのであれば流石に異を唱えたかもしれない。
手段が行き過ぎであったとしても、あくまで仲裁に入るのが目的であり、それによって相手が応戦の構えを取ったことから致死させたことであり、最初から傷害や死に至らしめるつもりも有していなかったことを認めることができる。
つまり、英国騎士道事件には誤想防衛に故意を否定する制限責任説の考えがあったということができるのである。
7、違法性と故意の認識に関するまとめ
結論を導き出すにあたり、説明すべき必要な題材はすべて述べてきた。
あとは、私がなぜそう考えたかという理由を述べるだけである。
しかし、終わりにするわけにはいかない。
故意と違法性の事案における意見と見解、そして、学説に関しての立場の曖昧さに関して説明しなくてはならない。
故意と違法性の事案において扱った、「違法性を意識しつつも故意がない交通事故」と「違法性の意識と故意の意識の両方が存在している交通事故」。
同じ状況でありながらも故意の否で刑罰の重さが変わってくることを説明したと思う。
前者であれば過失運転傷害罪が、後者であれば傷害罪が成立する。
両方の刑罰の重さを比較した際、罰金で見れば過失運転傷害罪の方が重いかもしれないが、私としては身柄が拘束される懲役刑に処される場合が重いと感じている。
よって、処罰が重いのは傷害罪ということになり、違法性の意識だけによる事案よりも違法性と故意の両方の意識による事案の方により重い処罰が下されることになるのである。
さて、ここでの問題は違法性の意識と故意の意識を同じとした場合である。
違法性の意識があった時点で故意の意識も認める同じ要素として捉えるのであれば、それはすべての犯罪において悪意があることを位置づけているのではないかと私は考える。
逆に言えば、故意の意識がなければ違法性の意識も成立しないことにもなる。
いくら違法であっても今度は故意がなければ犯罪が成立しない、そういう見解にもなる。
同一要素と考えたとき、犯罪が成立するかしないかの二択で決まってしまうのである。
それに、違法性の意識があれば故意の意識がある考え方では法の概念にも、そしていま現存している法律そのものにも反することになる。
法律は、絶対的な存在であり、それ相応の罪を犯したものにその罪の重さを伝える規則のようなものである。
傷害罪を犯せばそれ相応の罪が、運転致死傷罪を犯せばそれ相応の罪がそれぞれ法の下に下るのである。
しかし、すべてを故意がある犯罪として処罰したのであれば、故意がない者は犯した罪以上の裁きを受けることになる。
それは、言ってしまえばおまけで裁かれたようなものであり、そんなことでは罪を償わせる意義はどこにも存在しない。
また、現在存在している正当防衛や緊急避難の条文そのものの意義も同時に否定することになる。
それがたとえ自信を守るために働いた行為であっても、元々は違法な行為である。
同じ要素の状況下では、やむを得ずにした行為などとはもはや綺麗事でしかない。
法によって正当な裁きを与え、また同時に正当防衛の条文を正当とするのであれば、違法性の意識と故意の意識は分けなくてはならないのである。
8、学説に関するまとめ
学説に関する私の意見も曖昧なままであり、最後にきちんと説明をしなくてはならない。
先程、私は結論から責任説を主張しつつ、制限故意説を支持するという立場を表した。
しかし、実際に言えばどの立場にたったとしても、それは状況次第と言える。
通説は制限故意説とされながらも、判例では違法性の意識不要説も使われている。
責任説も有力説であるとされていることから、これを根拠に状況次第で随時学説が適応されると考えることができる。
出される学説にはすべて批判がつくものであり、決して正しい学説は存在しない。
では、誰がそれを決めるのか?
それは勿論、事件を担当する各々の裁判官である。
構成要件のうち、裁判官の価値判断によって決定せざるを得ないものを規範的構成要件要素と呼んでいる。
私見として、今の判例は過去の判例に基づきつつ、裁判官がその判断によって適正だと思われる判決を導く。
それは判決だけでなく、判断要素となる証拠や情報の採用有無はそうだが、学説も例外ではない。
たとえ通説でなくともその学説が法的に適合し、判決を決めるのにふさわしいと判断されたのであれば採用される。
同じ事件においても裁判官によって判決が有罪だったり無罪だったり、刑の長さが異なるのはおそらくここに価値判断が存在している証なのだろう。
私は制限故意説を形式上では支持をしているが、いざ裁判官と同じ立場に立ったとき、法律を学ぶ一人として、価値判断で判決を決めるだろう。
それも法に基づき、有罪か無罪かを決め、有罪であれば犯した罪の重さを伝えるにふさわしい判決を下す。
それを決めるのが裁判官のやるべきことであり、事件の論点によってその都度価値判断に合致する学説を選ぶべきであると解するに至る。
本課題における引用
五島幸雄 著 実務に即した刑法総論(成文堂 2010年3月20日)
ポケット六法平成27年度版 (有斐閣)
高山佳奈子 著 故意と違法性の意識(有斐閣 1999年4月30日)
奥村正雄他 著 判例教材刑法T総論(成文堂 2013年4月1日)
http://www.keijibengoshi.nagoya/column12.html(過失運転致傷の弁護士コラム)
http://www.koutuujikobengo.jp/keijisekinin/(交通事故・損害賠償の基礎知識)
http://交通事故解決.jp/kotsujiko-701.html(交通事故弁護士相談Café)
https://www.bengo4.com/c_1009/d_645/(未必の故意)
https://www.bengo4.com/c_1009/b_398180/(未必の故意の成立について)
http://ameblo.jp/dahlem-niko/entry-11326187897.html(違法性の意識の体系的地位の整理)
Wikipedia(違法性の意識)
http://dictionary.goo.ne.jp/jn/38874/meaning/m0u/(確信犯)
http://blog.livedoor.jp/april26impreza/archives/51127894.html(厳格責任説と制限責任説)
https://www.hou-nattoku.com/precedent/0049.php(誤想過剰防衛(勘違い騎士道事件)
https://www.bengo4.com/saiban/d_4433/(規範的構成要件要素)
諸角友豊
15J102009 諸角友豊
「故意と違法性の意識」
まず結論として、故意と違法性の意識に関する学説は故意説の立場を取ります。
これからこれを選んだ理由について述べていきます。
<1 「不要」と「故意」の差>
判例は故意説の立場を取っていません。不要説という違法性の意識がなくても故意があるということになる立場にいます。果たしてこの立場にいるのは本当に正しいことなのでしょうか。私はそうは思いません。この不要説というものは責任主義に反するからです。犯罪成立の要件として責任を掲げることが責任主義であり、違法性が無い者には当然責任の意識も存在しません。行為者に対する非難ができないにも関わらず、故意があると決めるのは間違っていると思います。
先ほど私は故意説の立場をとると述べましたが、故意説は二つに分けられます。一つ目が厳格故意説。違法性の意識が無ければ故意は無いとなる学説で、こちらは判例と真逆の考え方になります。違法性の意識の有無は、故意と過失とを分ける分岐点であると考えることができ、敢えて行ったことに対して故意を厳格に認めるべきであるという考えになります。しかし、この説には大きな問題点があります。それは、常習犯や確信犯が無罪になる可能性があるということです。彼らにはそもそも違法性の意識が存在しないからです。さらに言うと、確信犯等に限らず普通の行為者が自分は違法な行為をしていないと思っただけで故意犯の成立が否定される可能性があります。この大きな問題点を考えたうえ、私はもう一つの故意説、制限故意説を判例は採用すべきと思います。この故意説は、違法性の意識の「可能性」があれば故意があるという説になります。もちろんこの説にも欠点があり、裁判の判決に可能性という概念取り入れること自体おかしいし、仮に違法性の意識が無かったとしても、過失犯が成立するかと言われれば何とも言えないところです。ですが現在の判例と比べて考えてみると、違法性の意識が無くても故意があるという考え方はやりすぎているように思えます。せめて違法性の意識の可能性は少なくとも必要な要件では、と思います。「可能性」という要件を見抜くのは規範的構成要件要素という担当裁判官の裁量や価値観で判断をせざるを得ない状況になりかねず、一概にもベストな考え方とは言い切れませんが、制限故意説を取り入れる考えを私は持ちます。
また、不要説と故意説の他に、責任説という学説があります。
この学説は故意と違法性の意識は全く別の責任要素と捉える説で、制限故意説と同じく可能説の立場にあります。
<2 故意説視点で見た判例への見解>
違法性の意識に関して判例に挙げられるのが「勘違い騎士道事件(またの名を英国騎士道事件)」という日本で起きた傷害致死の事件である。
イギリス人で空手三段の腕前をもつ被告人が夜間の帰宅途中の路上で、女Bとこれをなだめていた男Aとがもみ合ううち、女Bが倉庫の鉄製シャッターにぶつかって尻餅をついたのを目撃した。男Aが女Bに暴行を加えていると勘違いした被告人は間に入り、被告人は男Aの方に振り向き両手を差し出すと、男Aはこれを見て被告人が自分に襲い掛かってくるものと誤解し、防御するために自分の手を握って胸の前あたりに上げた。これを見た被告人は、男性がボクシングのファイティングポーズをとり自分に襲い掛かってくるものと誤解し、自己及び女Bの身体の防衛をしようと考え、男Aの顔面付近を狙って空手技である回し蹴りをし、実際に男Aの右顔面付近に命中させた。それにより男Aは転倒して頭蓋骨骨折などの重傷を負い、8日後にその障害に起因する脳硬膜外出血及び脳挫滅によって死亡した。という事例である。
ここで私は本件について誤想防衛に当たるのではないかと思う。
被告人の行為は、被告人の誤想を前提とする限り、本件の結果は誤想防衛の範囲としては相当な範囲内だし、正当防衛として相当なものです。結果が重大であることは、防衛行為の相当性には影響しない。そして被告人はイギリス人であり、本件のように誤想したことにつき過失は認められない。本件は誤想防衛にあたるため故意が阻却され、被告人の行為は罪とならない。
これは第一審の判決だが、被告人にも違法性の意識の存在の可能性はないため、誤想防衛だと考えます。
しかし最高裁での判決は「本件の回し蹴りの行為は、被告人が誤信した男Aによる急迫不正の侵害に対する防衛手段として相当性を逸脱していることが明らかである」として、傷害致死罪の成立を認めた上で刑法36条2項による減軽となりました。
被告人には当然違法性の意識はありませんでした。被告人は誤信ではあったが、自身と女Bを守るために行った行為であり、未必の故意のような犯罪実現の可能性の認識及び認容もないため、有罪ではないと思う。また、被告人が目撃した時間帯は夜間であり、女Bが冗談であったが「ヘルプミー」と叫んだことから、誤想し、その状況から結果が重大になることは誤想防衛の範囲内だと思います。不要説についての判例も2件ほどあります。1つ目が「むささび・もま事件」。こちらは法律の錯誤という犯罪事実の認容に誤りはなく違法性の評価を誤った場合、つまり一般人ならば違法性を意識し得る程度の事実認容を有する場合のことについての事例になります。
狩猟を禁止されていた「むささび」を捕獲した事件で、「むささび」と「もま」が同一の動物であるところ、「もま」と称する動物の捕獲なら罪にならないと誤信して「もま」を捕獲したという犯罪実現について、法律の錯誤として故意を阻却せずに有罪とした事例です。
実際には「もま」というのがその地方における「むささび」の俗称であり、形状の同じ動物という認識があるのが当然だったため、違法性の意識を喚起する余地があり、錯誤したことにつき相当の理由が認められないと判断したものでした。法律の錯誤も刑法第38条の3項で規定されており、法律を知らなくても罪を犯す意思がなかったとすることはできない、となっています。
法律の錯誤については不要説の立場にあった方がいいかな、と思いました。もし法律の錯誤の問題で制限故意説をとった場合どうなるか?
本件を例にして考えてみます。
「もま」という動物を捕獲しても罪に問われないと誤信して行為者。これはつまり違法性の意識が無いことを表しています。このことから行為者からは違法性の意識が存在する可能性はゼロとなり、故意は阻却されてしまいます。刑法第38条3項と矛盾点が生じますし、このような事例での制限故意説の立場は弱いと考えます。
しかし、その不要説も適切ではないかと考えられる事例が、もう一つの判例の「狸むじな事件」です。
本件は事実の錯誤という、犯罪事実の認識に誤りがある場合、つまり違法性の意識しうる程度の事実の認識すら錯誤によって欠いてる場合のことについての判例です。
狩猟を禁止されていた「狸」を捕獲した事件で、「狸」のなかには学問上「むじな」も含まれているところ、「狸」と「むじな」とは別物と認識して「むじな」を捕獲したという犯罪事実について、事実の錯誤として故意を阻却しました。
なぜ阻却されたかというと、古来日本では「狸」と「むじな」の名称が併存しており、別の動物と認識した錯誤には違法性の意識を欠いたことに相当の理由があると判断されたためです。それに、刑法第38条2項により、重い罪に問われることにしたが、重い罪に問われるとは知らなかった、という人のための事実の錯誤に関する規定があります。
そして38条1項には故意犯処罰の原則という、犯罪を犯すつもりが無ければ罰しないという故意・過失についての規定もあります。
さてこの2つの条文、どちらとも違法性の意識がありません。そして誤って犯してしまっても保障をしています。違法性の意識が無くても故意があると捉えられる判例の不要説が全くもって適用されていません。
ここで制限故意説の視点で考えてみます。
そもそも刑法第38条1項及び2項が違法性の意識が無ければ罰しないと言っているようなもので、厳格故意説的な意味を持ちます。制限故意説を取ったとしてもこの「狸むじな事件」の判決の結果としては、本来の判決と大して大きな差がありません。むしろ制限故意説を取った方が厳しい判決を下されそうです。
不要説を取っているのに違法性の意識が無ければその身を保証する刑法第38条1項と2項。不要説というものは本当に判例の立場にあっていいのだろうか。
<3 判例「不要説」は果たして必要なのか?>
前項で述べた通り、判例が不要説の立場を取っていたとしても、その立場が無意味になる状況があります。それは法律の介入があってこそであるが、ただでさえ批判が大きい不要説は必要なものなのでしょうか?
第1項と同様に、不要説は責任主義に反しています。罪刑法定主義と並ぶ近代刑法において重要な役割を持つ原則の1つにも関わらず、判例はそれが正しいと言っている。やはり私はおかしいと思う。不要説にはもちろんメリットとデメリットの差が大きく非常にアンバランスなのです。不要説、厳格故意、説制限故意説、責任説と、様々な学説を調べ考えましたが、一番バランスが保てるのは制限故意説ではないでしょうか。
確かに、制限故意説の違法性の意識の「可能性」というものは大きな特徴でありながら、欠点でもある。ですが、その「可能性」という新たな概念を取り入れることは、より適切な判決が出せるのではないかと思う。この近代刑法において、少なくとも制限故意説は必要なものだと考えます。
不要説では正確に裁き切れない裁判があり、不要説を取っていてもその存在意義がなくなることもある。欠陥が多い不要説よりも、あるべきものを備えている制限故意説は必要不可欠なのです。
最後になりますが、このレポートをまとめることで新たな知識も自然と身についていったのですが、多くのことを吸収するにつれて、法律にうまく適合させた折衷説もあってもいいなとも思いました。
<参考資料>
実務に即した刑法総論 五島幸雄・著(成文堂)
はじめての憲法学(三省堂)
新・判例ハンドブック(日本表論社)
勘違い騎士道事件 Wikipedia
授業内ノート
法律用語辞典
北湯口拓真
私は、故意と違法性についての学説の利点や問題点について考え、判例に当てはめるなどした結果、制限故意説が最も優れていると感じた。
故意と違法性に関する学説の利点や問題点
判例とされている不要説の問題点は、近代刑法の重大な原則とされている責任主義に反してしまっている点である。不要説は違法性の意識の可能性すらなくても故意ありとみなす学説の為、本人に自分の行動が法律に反するという自覚がなくても罰されてしまうことになる。このことにより、刑罰は教育刑ではなく応報刑としての役割を果たすための物になってしまう。
重要視している原則に反し、刑罰の目的が変わってしまうのは大きな問題点だ。
次は厳格故意説の問題点だが、この説は、違法性の意識があるにもかかわらず、敢えて違法行為を実行するところに、故意犯として非難すべき根拠があると解する説の為、確信犯や法律を全く知らない人を罰することが出来なくなってしまう点だ。厳格故意説は違法性の意識なしには故意が認められないため、宗教や信条等の理由で自分が犯した犯罪を正しいと信じていた場合罰することが出来ない。更に、違法性の意識の有無で故意か否かを決めるのにはもう一つ欠点がある。それは、違法性の意識の有無は本人にしか分からない点である。裁判所にも違法性の意識の有無は必ずしも正しく判断出来るわけではなく、これでは犯人を正しく裁くことは出来ない。
この様に欠点はあるが利点もある。それは不要説にあった刑法の原則に反したり、刑罰の目的が変わったりといった問題はないことだ。
しかし、利点と比較しても欠点が余りに致命的なものである為この学説は採るべきではないと考えた。
次に制限故意説の利点と問題点だが、この説は違法性の意識は故意の要件としては不要であるが、その可能性が故意の要件であるとする見解である。 原則としては違法性の錯誤は責任故意を阻却しないが、違法性の意識の可能性すらない場合には故意犯は成立しないとする説である。この説は刑罰の目的や責任主義の考えなどに反しないし、必要であるのが違法性の意識ではなく、違法性の意識の可能性であるため「犯罪にあたることを知らなかった」といって犯罪者が無罪になることもないため理想的だと言える。強いて問題点を挙げるのであれば、殺人など一般的な罪であれば良いが、余り有名でない犯罪の場合は、違法性の意識の可能性の有無が分かりづらくなってしまう点だ。しかし、他の学説と比較すると利点に対して問題点が目立たない為この説を支持する。
責任説は、違法性の意識の認識可能性を、故意・過失共通の独立した責任要素であると解する見解であり、 この説では、犯罪事実の認識は故意そのものであり、違法性を認識すべきものであるので、違法性の意識の有無が行為を行った時点であったかどうかは責任非難の質的差異をもたらすものではないと考える。 つまり、現実にその行為の違法性を、認識していたか否かを問わず、故意犯としての責任を免れないことになるのである。つまり、違法性の意識を故意の要素と考えずに責任の要素として考えるというだけで、結果的には制限故意説とほとんど変わらない。
学説を幾つかの判例に当てはめる
まず一つ目にチャタレイ事件について。「チャタレイ夫人の恋人」には露骨な性的描写があったが、出版社社長はそれを知りつつ出版した。つまり出版社の社長は、刑法175条に違反するかもしれないと考慮した上での行動であるなら未必の故意である。しかし、出版社の社長がチャタレイ夫人の恋人を、猥褻物としてではなく芸術として誤信していたのであれば、法律の錯誤ということになる。
しかし、もし未必の故意ではなく、法律の錯誤だったのであれば、出版社の社長がわいせつ物頒布等の罪に科されるか、無罪になるかはどの学説の立場に立つかによって変わってくる。
不要説の立場に立てば、出版社の社長に違法性の意識があったかは関係ない為犯罪が成立する。
厳格故意説の立場に立てば、出版社の社長がチャタレイ夫人の恋人を、猥褻物としてではなく芸術として誤信していたのであれば、違法性の意識はなしとなり同時に故意もない為無罪となる。
制限故意説の立場に立てば、出版社の社長に、違法性の意識の可能性があれば犯罪が成立するが、この事件においては違法性の意識の可能性があるといえるかは、規範的構成要件要素であり判断が難しい。刑法175条は「わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料に処す」というものだが、そもそもわいせつという表現があいまいであるため、違法性の可能性があるかという判断が難しくなってしまう。そのために、「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」という「わいせつの三大要素」を示したが、これもまたあいまいな表現の為、最終的には裁判所の判断に委ねられてしまう。わいせつ物とそうではないものの明確な線引きが存在しているわけではないのだから、この場合には違法性の意識の可能性なしである可能性も充分あるため、無罪にするのが妥当だと考える。
最後に責任説だが、これは違法性の意識は故意とは別個の責任要素であると考え、違法性の意識の可能性があれば、責任非難は可能であるとする説である。そのため、違法性の意識の可能性がないのであれば、故意を阻却するか責任を阻却するかの差であるため、制限故意説と同じ結論になり無罪である。
勘違い騎士道事件は、英国人で、空手3段の腕前である被告人は、夜間帰宅途中の路上で、酩酊した女性とこれをなだめていた男性とがもみ合ううち、女性が倉庫の鉄製シャッターにぶつかって尻餅をついたのを目撃した。その際、同女が「ヘルプミー、ヘルプミー」などと(冗談で)叫んだため、被告人は被告人は女性が男性に暴行を受けているものと誤解して両者の間に割って入った。被告人はその上で、女性を助け起こそうとし、ついで男性のほうに振り向き両手を差し出した。男性はこれを見て被告人が自分に襲い掛かってくるものと誤解し、防御するために自分の手を握って胸の前あたりに上げた。これを見た被告人は、男性がボクシングのファイティングポーズをとり自分に襲い掛かってくるものと誤解し、自己および女性の身体を防衛しようと考え、男性の顔面付近を狙って空手技である回し蹴りをし、実際に男性の右顔面付近に命中させた。 それにより男性は転倒して頭蓋骨骨折などの重傷を負い、8日後にその障害に起因する脳硬膜外出血および脳挫滅によって死亡したという事件だが、この事件は被告人を勘違いさせるに足るものだったため誤想防衛に値する。しかし、武器を持っていた訳でもない相手に空手の技を使い、結果的に殺してしまったため過剰防衛でもある。そのため、誤想過剰防衛の傷害致死罪になる。誤想防衛だけであれば故意なしとみなして過失致死傷罪となる。しかし、この事件には正当防衛に必要な急迫不正の侵害は存在しないため、故意なしにはならず傷害致死罪とするのが妥当だと考えた。
たぬきむじな事件は、被告人は1924年2月29日、猟犬を連れ村田銃を携えて狩りに向かい、その日のうちにムジナ2匹を洞窟の中に追い込んで大石をもって洞窟唯一の出入口である洞穴を塞いだが、被告人はさらに奥地に向かうために直ちにムジナを仕留めずに一旦その場を立ち去った。その後3月3日に改めて洞穴を開いて捕らえられていたムジナを猟犬と村田銃を用いて狩った。という事件で、たぬきを狩ることは狩猟法に反する。しかし、被告人はムジナを狩るつもりでいたため、事実の錯誤にあたる。そのため故意なしとなり無罪になった。
一方でむささびもま事件は、たぬきとむじなが、ムササビともまになっただけのような非常に良く似たケースだが、結果的にはムササビもま事件は有罪になった。この2つの事件の判決を決定的に分けたのは、「たぬき=むじな」は一般的に知られていなかった為、事実の錯誤として扱われ無罪になった。しかし、もまという名前は特定の地域で呼ばれておらず、被告人がムササビという名称を知らなかっただけであるという理由で有罪になった。しかし、ムササビもま事件は違法性の錯誤である為、採る学説によっては有罪か無罪か変わってくる。
不要説であれば、故意ありなので有罪だが、厳格故意説なら故意が成立しないため無罪になる。制限故意説と責任説だと違法性の意識の可能性があるかが問題だが、被告人の地域では「もま」としか呼ばれていなかったのであれば、違法性の意識の可能性なしと考えて無罪にしても良いと感じる。
百円札模造事件は、 甲、乙がそれぞれ百円紙幣に紛らわしい外観を有する飲食店のサービス券を作成した行為につき、甲において、事前に警察署を訪れて警察官に相談した際、通貨模造についての罰則の存在を知らされるとともに、紙幣と紛らわしい外観を有するサービス券とならないよう具体的な助言を受けたのに、助言を重大視せず、処罰されることはないと楽観してサービス券Aを作成し、次いで、作成したサービス券Aを警察署に持参したのに対し、警察官から格別の注意も警告も受けず、かえって警察官が同僚らにサービス券を配布してくれたのでますます安心して更にほぼ同様のサービス券Bを作成したという事件だ。この事件は本来なら 通貨及証券模造取締法違反の為有罪だ。しかし、制限故意説の立場に立つと、警察に相談した時にサービス券を作ることに注意を受けなかったことや、同僚にサービス券を配ったことにより、店主の違法性の意識の可能性がなくなったと考えられる。公的機関に認められたことは、店主から違法性の意識を無くすのに充分であると考えられるからだ。責任説もまた同様である。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/チャタレー事件
https://ja.m.wikiversity.org/wiki/故意
https://ja.m.wikibooks.org/wiki/違法性の意識
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/勘違い騎士道事件
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/たぬき・むじな事件
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=50330
福田直人
故意と違法性の意識
私は、故意の成立要件として違法性の意識の可能性があれば、故意ありとする制限故意説によって判断することが妥当である。
・違法性の意識の問題と事実の錯誤と法律の錯誤の区別
そもそも、違法性の意識とは、自己の行為が違法であると完治している意識、つまり悪いことをしている気持ちのことです。そして、犯罪が成立するためには、構成要件に該当する違法な行為であっても、行為者を非難することができなければなりません。これが、責任であり、犯罪成立の要件として責任を掲げることを責任主義と言います。そこで、故意者を非難するためには、行為者が違法であるという意識を持っていたのにもかかわらず、反対動機を形成せずにあえて犯罪行為に出たという主観が必要なのではないか、違法であるとの意識を持っていないものに対して法的な非難を加えて良いのだろうか、というように犯罪の成立に違法性の有無が影響を与えているのかというのが問題となります。具体的には、法律の存在を知らなかった(法の不知)と言う場合や、法律の存在は知っていたが、自分の行為がその法律に当てはまるとは思わなかった。(あてはめの錯誤)に生じる問題です。これを、『法律の錯誤』といいます。そして、事実の錯誤と法律の錯誤の区別は、刑法おける重要な問題点とされてきた。違法性の意識を不要とする不要説を原則として採用している判例の立場においては、この問題は重要な意味を持つものである。
学説による見解
学説は、大別して責任説と故意説と不要説に分かれます。まず不要説においては、『犯罪の成立には違法性の意識は不要である』と言う説です。判例では、この説をとっています。しかし、この説では、法規制が複雑化した時代にあって適法、違法の区別も困難な限界事例において、違法性の意識がなくても全て処罰することになれば、責任主義の原則に違背するという批判があります。
故意説では、違法性の意識は故意の内容、つまり故意の内容、要素であり、別個に独立したものではないと位置づけるものです。これには、厳格な見解と、制限的な見解があります。
厳格故意説
『故意の成立には、違法性の意識が必要である』とする説です。この説は、『違法性の意識』が故意の要素と考え、これを書けば故意が否定されると考えるものです。つまり、『違法だったと知らなかった』と言う主張が認められれば、『故意がなかった』となり、結論的に犯罪(故意犯)が成立しないことになります。しかし、厳格故意説では、違法性の意識が乏しい常習犯や違法性の意識のない確信犯等に対する適用が、困難になり変えないという批判から非常に人気のない少数説になっています。
制限故意説
『故意の成立には、違法性の意識の可能性が必要である』とする説です。つまり、違法性の意識がなくても故意が成立(=犯罪の成立)に影響はないが、しかし、違法性の意識の可能性がないことに、相当の理由があるときは、故意阻却になる余地があります。しかし、この説も、故意とは『知っていること』というのに、『可能性』を故意の要素として含ませることは、矛盾を生じさせるという批判があります。
責任説
故意犯とは別に、故意の枠組みを超えて『犯罪の成立には、違法性の意識の可能
性が必要である』と言う説です。すなわち、制限故意説と同じく『違法性の意識の可能性』を考慮しますが、これを『故意の要素』とはせずに、故意とは、別個の独立した責任要素と考えます。違法性の意識の可能性を欠いた場合でも、故意は問題なく成立するが、責任が否定されることです。また、責任説は過失犯の場合でも同じ枠組みで考えることができます。しかし、この説も『故意』を単に『犯罪事実の認識』とだけにとらえてしまうと、故意犯を法的に避難する根拠が弱くなるから、違法性の意識の可能性は、故意の要素とするべきである。という批判があります。私は、責任が避難可能性であるならば、行為当時良心によって犯行を抑止することが、現実的に可能であったかどうか、つまり、違法性の意義の可能性の有無によって責任故意の成否を考えるとする制限故意説が、結論として妥当だと考えます。
制限故意説における違法性の意識の欠如と『相当の理由』
@法律の不知の場合
法律は、国会で採決して公布したうえ、原則として周知徹底期間をおいて施行されるので、国民にも法律を知るように努める義務があると言ってもよいので、法律の不知の場合については違法性の意識を欠いたことに相当の理由がないと私は考えます。例えば、犯罪を起こした友人のためにその犯罪の証拠となるものを隠した時に、証拠隠滅罪(刑法104条)があることを知らない場合は、これに該当し、証拠隠滅罪が成立すると考えます。
Aあてはめの錯誤の場合
確立した判例や所管官庁の公式見解または刑罰法規の解釈運用につき職責のある公務員の公的意見等があって、これを信頼して従った場合には、違法性の意識の意義を書いたことにつき相当の理由があるので違法性の意識の可能性なしとして、故意犯は成立しないものと考えることができます。しかし、例えばパチンコ店の店主が千円札と間違われるような外観を有するパチンコ店のサービス券を作成する前に、警察に相談しに行き、格別の注意、警告等を受けなかったことから、千円札類似のサービス券を模造し、後日その警察官等にその札を配布していた場合は、権威ある公的意見に従ったものとは言えず、通貨等に関する罪が成立し、有罪となると考えられます。
法律の錯誤と事実の錯誤との区別
刑法38条は、極めて重要な規定であり、1項は、『故意犯処罰の原則』を定めた故意・過失に関する規定であり、2項は『事実の錯誤』について定めたもので、3項は『法律の錯誤』に関する規定と言われています。この規定に関して、『違法性の意識可能説』(制限故意説)では、原則として違法性の意識を欠いても、責任故意は阻却されずに肯定されて処罰することになり、違法性の意識の可能性すらなかった場合に限って責任故意を否定し、処罰されないと解釈しますから、条文の趣旨には反しません。そして、違法性が欠いたことに勘酌するべき事情が認められるときは、第3項但し書きによって刑を軽減することができると考えます。そして、事実の錯誤とは、行為者の主観的な認識、認容を客観的に発生した事実とが異なる場合のことで、発生した事実について構成要件的故意を認めることができるかどうかという問題があります。これに対し、法律の錯誤は、犯罪の認識、認容がありながら、行為者が錯誤によって違法性の意識を欠いた場合の問題です。
•ムササビ・モマ事件とタヌキ・ムジナ事件
ムササビ・モマ事件は、法律の錯誤として故意は阻却されませんでした。なぜなら、犯罪事実に認識の誤りはなく、行為者は、ムササビの動物としての事実的形態を錯誤していたのではなく、禁猟獣であるムササビが俗に言うモマが実際には同一物であるのにもかかわらず、単に当該動物をムササビ=モマという呼称を知らなかっただけであって、モマがムササビと違うという確信的な認識をもっていなかった。つまり、被告人は故意犯として犯罪事実の実現の認識認容があったとして未必の故意であるとします。また、『モマ』という呼称が特定の地方の方言として使われていたとして、その被告人の住んでいた地方で呼ばれていたものであるから、標準語としてのムササビを知らなかったこと自体が問題として被告人の責任とすることができる。つまり、この錯誤には、違法性を喚起する余地があり、錯誤したことに相当の理由が認められないとして、責任故意は阻却されず、有罪が成立すると考えます。(刑法38条3項)
これに対し、タヌキ・ムジナ事件においては、事実の錯誤として、故意を阻却しました。なぜなら、被告人は、タヌキが禁猟獣としては認識をしていましたが、ムジナ=タヌキという事実は認識していなかったが、ムジナ=タヌキではないとする確信的な認識は持っていました。また、この事件当時の国民には『ムジナ=タヌキ』という昔から呼ばれていた呼称が、定着はしていなかった。つまり、ムジナとタヌキの使い分けには、方言の違いではないので被告人の責任とすることができない。したがって、この錯誤には、違法性の意識を欠いたことに相当の理由があるとして、責任故意が阻却され、無罪が成立すると考えられます。(刑法38条2項)
つまり、ムササビ・モマ事件の被告人とムジナ・タヌキ事件の被告人との相違点は、双方の動物が違うことに確信的な意識を持っていたか否か、またその錯誤が、相当な理由として違法性の意識を欠いたことが認められるかどうかを判例は、事実の錯誤と法律の錯誤としての違いの基準にしました。
•チャタレー事件
出版業を営む書店の社長として同社の出版販売等一切の業務を統括していた被告人が、『チャタレー婦人の恋人』の翻訳本の出版を企図し、Yにその翻訳を依頼して日本語訳を手に入れ、その中に性的描写をした記述のあることを知っていたが、これを上下2巻に分冊して出版し、昭和25年4月中旬ごろから、これを販売したという事案に関するものである。この事案で問題となっていた『わいせつ性』とは、規範的構成要件要素のことで、規範的構成要件要素とは、定義しても一時的には確立できない要素を言います。判例では、故意の成立のためには、単なる文字の羅列ないしは文章の存在を認識しているだけでは足りず、その記載の意味が認識されていなければならない。その意味の認識は、社会における一般人がその記載から読み取れる程度の意味の認識というものに解しています。従って、行為者が性に関する描写が存在するのにそのような描写が存在しないものと誤信している場合には、その誤信は事実の錯誤であり、故意は阻却されるが、行為者が性に関する描写の存在を認識しているのに法律で言うところの『わいせつ』2は当たらないと誤信している場合には、その誤信は『あてはめの錯誤』であり、故意は阻却されない。つまり、この事案において、要素に関して錯誤が生じている場合における事実の錯誤と法律の錯誤の区別の基準として、規範的構成要件要素としての『わいせつ性』の認識の可能性の有無を考慮として考えており、この事案では、わいせつ性に関し、全く認識を欠いていたとしても、性の関する描写の存在を認識している以上、行為者には、わいせつ性の認識に関する可能性があるとして、故意の成立を認めることができ、故意を阻却することはできず、被告人は、有罪になると考える。つまり、チャタレー事件においては、あてはめの認識の可能性の有無が事実の錯誤と法律の錯誤を区別する基準とされていると考えている。
•法律的事実の錯誤
法律的事実の錯誤というのは、『他人』に関する錯誤のようなケースであり、法令等の解釈を誤解したことにより、法律的事実について錯誤を生じた場合です。この法律的事実の錯誤が、事実の錯誤なのか法律の錯誤なのかは、難しい問題ですが判例を見て判断していきたい。
公衆浴場無許可事件では、被告会社は、被告人の実父が営業許可を受けて経営していた公衆浴場の営業を引き継いでいたが、風俗営業取締役法の改正に伴って県の同法施行条例の改正が行われてたため個室浴場業の新規許可を受けることことができなくなり、しかも公衆浴場法では営業の譲渡、相続の場合でも新たに許可を受けなければならない旨の運用がなされていたので、被告人は新たな許可を受けることができないため、最初の許可の申請者を実父から被告会社に変更する旨の公衆浴場営業許可申請事項変更届を県に提出したが、どう変更届は知事に受理されたという連絡を受けたため、営業許可があったものとして認識して営業を続けていたが、実際には許可がなかった。判例では、故意の成立のために法律的意味の認識、すなわち法律的事実の認識を必要とすると解している。法令の解釈等の誤りがあっても、これを法律の錯誤とせずに事実の錯誤として故意の成立を否定している。すなわち、この事例においては、実際には許可がなかったとしても、事実の錯誤として(許可という法律的事実について錯誤があったとし)無許可営業の故意は認められないとした。つまり、事実の錯誤と法律の錯誤のちがいは、法令解釈の誤りにおいて、許可があったという法律的規範的構成要件要素を根拠づける事実の認識によって得られた法律的意味の認識を遮断する効果が認められる場合には、事実の錯誤、認められない場合は法律の錯誤とする基準を用いて判断した。
•過剰行為について行為者に認識のない場合と認識がある場合
例えば、深夜道路を歩行中、杖をつきながら対面から歩いてきた相手が酒に酔ってフラフラしながら自分に向かって倒れかかってきたのを、一瞬杖で殴りかかられるものと思い込み、身を守るために、近くにあった竹棒をつかんで相手の腕にめがけて振り下ろしたところ実際には、刃物がついていた槍であり、相手に障害を負わせた場合、行為者に認識がない場合には、実際刃がついていた槍であっても、竹棒と誤信していたのですから、行為の違法性を基礎づける過剰行為について認識がないので、全体として一種の誤想防衛に他ならないと考え、実務では事実の錯誤として責任故意を阻却するとして解決を図るものと考える。また、認識があった場合は、実際には物が付いた槍であることを認識しながら過剰な反撃行為を行ったのですから、急迫不正の侵害を誤想していたとしても、全体としてみれば、もはや責任故意の阻却は認められないとして、実務では責任故意を認めるものと考えます。
私見
私は、故意と違法性の意識において、よく不祥事などを起こした偉い人が『違法性を認識していなかった』という言い訳をよく聞きますが、法律的には何の言い訳にもなっていないということが分かりました。なぜなら、違法性の意識を判断する上で重要なことは、その行為者が事実認識をしていたか否かを判断することである。そして、その事実認識において違法性の可能性の有無によって判断し、違法性の意識が責任故意の要件とする制限故意説が妥当であると私は考えました。また、類似している責任説を選ばなかった理由としては、故意犯を処罰することが難しくなる=故意犯処罰の原則(故意がある場合のみが犯罪として処罰される)を非難することになり、妥当な説とはいえないと考えたからです。また、認識認容の度合いで判断することが、私は公正な判断を下せ、適正な処罰を下せることになると私は考えました。
以上。
出典
実務に即した刑法総論(五島幸雄)
事実の錯誤と違法性の錯誤の区別
-主要判例を中心にして-
(川崎一夫)
山本舞
故意と違法性の意識は別個の責任要素である。
○不要説より責任説の方が判例として適している。
故意と違法性の意識に関する学説は大きく分けて3つある。それは不要説、故意説、責任説である。
不要説は判例通説とされており、違法性の意識がなくても故意ありとされる。しかしこの学説には責任主義に反するという批判がある。
故意説は2つに分けられる。1つ目は厳格故意説。これは違法性の意識がなければ故意なしということであるが、この学説では確信犯を無罪にしてしまうのである。2つ目は制限故意説。これは違法性の意識の可能性があれば故意ありとなる。
責任説は故意と違法性の意識は別個の責任要素であるということ。
不要説は責任主義に反し、厳格故意説は確信犯を無罪にしてしまうのでこれらは正しくないといえる。問題となるのは制限故意説と責任説である。
制限故意説は違法性の意識の可能性があれば故意ありとされるとある。それについて考えると、違法性の意識がなくても、可能性があると判断されたら有罪となってしまうのでこの学説は正しくない。
責任説は故意と違法性の意識は別個の責任要素とされている。故意と違法性の意識を別のものと考えれば違法性の意識がない人が有罪になることはないと考えられる。
したがって、責任説を判例通説とするのが正しいのである。
○違法性の意識とは自己の行為が違法であると感知している意識、つまり悪いことをしているという気持ちである。
責任能力のある者が、犯罪事実を認識・認容しながらも、実行行為を行う場合、通常は違法性の意識を有しているから、その意識を有しながら実行行為に及んだ行為者に対して非難可能性を肯定し、責任故意を認めることができるのである。
しかし、犯罪事実を認識・認容しながらも、何らかの事情によって違法性の意識を欠いていたとしたら、責任故意の成否はどう考えたら良いのかという問題が生じる。これが法律の錯誤である。
○事実の錯誤と法律の錯誤は区別できる。
事実の錯誤は、行為者が犯行当時認識・認容していた事実と現実に発生した事実とが一致しない場合に、発生した事実について構成要件的故意を認めることができるかという問題であった。
犯罪事実の認識に誤りがある場合、つまり、違法性を意識しうる程度の事実ですら錯誤によって欠いてる場合が、事実の錯誤である。
事実の錯誤の判例は大正14年(れ)第306号狩猟法違反被告事件大審院大正14年6月9日第一刑事部判決大審院刑事判決集4巻378項である。被告人は1924年2月29日、猟犬を連れ村田銃を携えて狩りに向かい、ムジナを洞窟の中に追い込んで閉じ込めた。被告人はさらに奥地に向かうため一旦その場を立ち去った。その後3月3日に閉じ込めたムジナを狩った。
警察はこの行為が3月1日以後にタヌキを捕獲することを禁じた狩猟法に違反するとして被告人を逮捕した。下級審では、「動物学においてタヌキとムジナは同一とされている」こと、「実際の捕獲日を3月1日以後である」と判断したことにより被告人を有罪とした。だが被告人は、自らの住む地域を始めとして昔からタヌキとムジナは別の生物であると考えられてきたこと、つまり狩猟法の規制の対象外であると考えていたこと、2月29日の段階でムジナを逃げ出せないように確保しているのでこの日が捕獲日に当たると主張して大審院まで争った。
大審院判決では、タヌキとムジナの動物学的な同一性は認めながらも、その事実は広く国民一般に定着した認識ではなく、逆に、タヌキとムジナを別の生物とする認識は被告人だけに留まるものではないために「事実の錯誤」として故意責任阻却が妥当であること、またこれをタヌキだとしても、タヌキの占有のために実際の行動を開始した2月29日の段階において被告人による占有が成立しており、同日をもって捕獲日と認定するのが適切であるとして被告人を無罪とした。
判決は占有が成立した日が2月29日であるとしているが、実際に狩ったのは3月3日であるので、3月1日以後にタヌキを捕獲することを禁じた狩猟法に反していると考えた。
したがって、被告人は有罪となるのが正しい判断であると考えた。
一方、法律の錯誤は犯罪事実の認識に誤りはなく、違法性の評価を誤った場合、つまり、一般人ならば違法性を意識し得る程度の事実認識を有する場合である。
法律の錯誤の判例は大正13年(れ)第407号。「むささび・もま事件」は、地方では「もま」と呼ばれている禁猟のむささびを捕獲した被告人が訴えられた事件である。「たぬき・むじな事件」とは対照的に大審院は被告人認識に有罪判決を下した。この判決ではむささびともまは同一のものであり、そのことを知らなかったのは「法律の不知」(法律の錯誤)に当たるので、罪を犯す意思なしとは言えない、とした。
たぬき・むじな事件では「むじな」を捕まえる意思では、「たぬき」を捕まえる意思(故意)がないとされた。それに対し、「むささび」と「もま」の場合は、行為者の地方でむささびのことをもまと呼んでいただけ、つまり、被告人がむささびという名称を知らなかっただけであり、全国的に見れば「むささび」と「もま」が別の動物であるとの認識はなかった。そのため、「もま」を捕まえる認識かまあれば、一般的に「むささび」を捕まえる意思(故意)を認めることができた。
これらの判例は刑法第38条における「事実の錯誤」と「法律の不知」(法律の錯誤)が原因で起きた事件である。
刑法第38条1項:罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合はこの限りではない。2項:重い罪に当たるべき行為をしたのにら行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない。3項:法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を軽減することができる。
これらの判決の相違点は当時は方言追放が行われ、標準語の使用が推進されていた時代でもある。つまりムジナとタヌキの語の使い分けについては特定地方に偏っての問題ではなく、つまり方言による違いではないため、被告人の責とすることはできない。一方で「もま」という名称は被告人が住んでいた地方の方言であり、標準語である「ムササビ」の語を知らなかった事、それ自体が問題であり、被告人の責であるという事である。
これらの判例には上記のような違いがあるとされているが、どちらも動物を殺している事には変わりはないと考えた。であるから、事実の錯誤、法律の錯誤関係なく有罪にすべきである。
○事実の錯誤、法律の錯誤から誤想防衛、誤想過剰防衛について考える。
誤想防衛は急迫不正の侵害がないにもかかわらず、あると誤信したために暴行行為に及んだ認められるものである。これは事実の錯誤として責任故意を否定するものとされる。
誤想過剰防衛は判例から考える。
昭和59(あ)1699項傷害致死被告事件(英国騎士道事件)は最高裁が誤想過剰防衛について刑法36条2項による刑の軽減を認めた事例である。
この事件の裁判要旨は空手三段の在日外国人が、酩酊した女とこれをなだめていた男とが揉み合ううち女が尻もちをついたのを目撃して、女が男から暴行を受けているものと誤解し、女を助けるべく両者の間に割って入ったところ、男が防衛のため両こぶしを胸に前辺りに上げたのを自分に殴りかかってくるものと誤信し、自己及び女の身体を防衛しようと考え、とっさに空手技の回し蹴りを男の顔面付近に当て、同人を路上に転倒させ、その結果後日死亡するに至らせた行為は、誤信にかかる急迫不正の侵害に対する防衛手段として相当性を逸脱し、誤想過剰防衛に当たるとされたのである。
この事件は誤想過剰防衛として刑の軽減とされたが、この在日外国人はもう少し考えて回し蹴りじゃない方法をとるべきだったのではないかと考えた。また、酩酊する女をなだめていた男も勘違いされるようなことをしたのも悪いのではないかと思った。誤想過剰防衛とされたが、この在日外国人は人の命を奪っている事実は傷害致死と変わらないのである。したがって、誤想過剰防衛ではなく傷害致死の罪に問うのが妥当である。
○規範的構成要件要素と未必の故意の関係性について。
規範的構成要件要素とは構成要件のうち、裁判官の価値判断によって決定せざるを得ないものである。裁判官の価値判断によって決定せざるを得ないものとは社会関連のものと法律関連のものである。
まずは社会関連の判例について考える。最大判昭和32・3・13刑集11巻3号997項のチャタレー事件。英国の作家ロレンスの小説『チャタレイ夫人の恋人』を翻訳・出版した被告人らはわいせつ物頒布販売罪で起訴された。一審は社長のみを有罪としたが、二審では両名とも有罪とされた。わいせつ文書該当性の判断基準は社会通念であるが、社会通念がどのようなものかの判断は裁判官に委ねられるということであった。この事例は芸術性の高い作品であってもわいせつ文書に該当しうるとした。私は芸術だと被告人らが主張しているのなら無罪で良いのではないかと考えた。
一方、法律関連の判例は裁判昭和26年8月17日刑集5巻9号1789項の無鑑札犬事件である。被告人が、警察規則等を誤解し、鑑札のついていない犬は他人の飼い犬であっても無主犬とみなされると信じて、これを撲殺したところ、器物損壊罪などで起訴されたという事案である。
最高裁は、「同規則においても私人が壇に前記無主犬と看做される犬を撲殺することを容認していたものではないが被告人の前記供述によれば同人は右警察規則等を誤解した結果鑑札をつけていない犬はたとい他人の飼い犬であっても直ちに無主犬と看做されるものとして誤信していたというのであるから、本件は被告人において右錯誤の結果判示の犬が他人所有に属する事実について認識を欠いたものと認むべき場合であったかもしれない。されば原判決が被告人の判示の犬が他人の飼い犬であることは判っていた旨の供述を持って直ちに被告人は判示の犬が他人の所有に属することを認識しており本件について犯意があったものと断定したことは結局刑法38条1項の解釈適用を誤った結果犯意を認定するについて審理不尽の違法があるものとはいわざるを得ない。」として、被告人を有罪とした原審を破棄差戻しした。
次にこれらに未必の故意は関係あるのか調べた。
未必の故意とは犯罪事実実現の可能性の認識と認容があるというものである。
チャタレー事件は未必の故意である可能性があると考えられる。なぜなら被告人は「芸術である」と主張しているが心の中では犯罪事実実現の可能性の認識と認容があるかもしれないと考えられるからである。無鑑札犬事件も同様であると考えられる。
したがって、規範的構成要件要素のある事例からは未必の故意である可能性が高いのである。
以上のことより、故意と違法性の意識は別個の責任要素とする責任説が正しいと考えられるのである。
<引用>
https://ja.wikipedia.org/wiki/たぬき・むじな事件
『刑法マテリアルズ資料で学ぶ刑法総論』西原晴夫ほか編、1995年、柏書房、234項
https://ja.wikipedia.org/wiki/勘違い騎士道事件
弁護士ドットコムhttp://www.bengo4.com/saiban/d_4433/
https://ja.wikiversity.org/wiki/故意
『実務に即した刑法総論』五島幸雄著、成文堂70項、127項、129項
『新・判例ハンドブック【憲法】高橋和之編』
104項