吉野孝則
人権と裁判所の権限 中江章浩先生 16PJ10003 吉野孝則
結論
はじめに
私はもともと抽象的で判決の歯切れの悪い憲法の勉強が嫌いなのですが、そんな私でも今回のテーマは「さらっと書けるのでは!?」と思っていました。ところが勉強するにつれてドツボにはまり抜け出せなくなりました(・_・;) 中江先生のテーマはいつもそうなのですが、突き詰めていくと相当深くなってしまうんですよね・・・。そもそも人権がテーマですから一つ一つはかなり広いし深い。ですので、当初の予定通りサラッと全体を外観してそこから考えられる問題点を検討しようと思います。
構成は序論・本論・結論の形で
@
司法権
A
問題点
B
対策
の順で検討します。
@
司法権
まずは司法権の範囲を明確にしましょう。
「法律上の争訟」
裁判所法3条と板まんだら事件から「法律上の争訟」が帰納されます。
要件 (T)当事者間の具体的な法律関係または権利義務の存否に関する争い + (U)法律の適用により終局的に解決できる争い
この要件に合うものなら司法は判断できることになっています。
「司法権の限界」
法律上の争訟があっても次のものは司法が判断できないそうです。
「統治行為」「部分社会」「裁量行為」
違憲立法審査権
警察予備隊訴訟から「付随的違憲審査制」が帰納されます。
さらに、違憲審査において憲法判断をしないで解決できる事件は憲法判断を避けるという「憲法判断回避の準則」が加わります。
結局、違憲審査には「法律上の争訟」+「付随的審査制」+「憲法判断回避の準則」+「司法権の限界」という壁があることになります。
違憲判断
「合憲限定解釈」と「適用違憲」という壁。さらに効果に関して「個別的効力説」があります。
司法消極主義
三権分立というシステム上、司法は国会・内閣の判断を尊重して極力口を出さないという考え方があります。
行政事件訴訟法
もともと司法は民事と刑事だけを扱っておりお上は悪さをしないということから行政を訴えることが出来ませんでした。それが行政事件訴訟法などの導入により少しずつ訴えることが出来るようになってきました。
出典:中江章浩
図にするとこうなります。
この司法権で事件を裁いた結果どうなるのか?ということを次は検討します。
A
問題点
憲法の判例を色々と読むわけですがどの判決もしっかりしたことが書いてあるんですよね。たぶん判決一つ一つを分析しているとそれだけでとんでもない量になってしまうので、この問題点では私の今までの勉強を基に独断と偏見で判例を全体的に観察しつつ問題点を発見しようと思います。
法律上の争訟と信教の自由
板まんだら事件
蓮華寺事件
血脈相承事件
これらは法律上の争訟性がないから口を出さないって言ったわけですが、何故にエホバの証人輸血事件・剣道授業拒否事件には口を出すのでしょうかね?
輸血事件は信教の自由から始まり自己決定権を通って、憲法判断を上手く回避する形で民法・不法行為の人格権に辿り着き、結局インファームドコンセントの問題で解決させる。まさに憲法判断回避の準則を使い巧みに議論をすり替えたのは名判決だと思っています。しかし逃げただけですよね?!板まんだらは詐欺事件だから判決を出すことも出来たのに出さなかった。一方輸血事件は詐欺より遥かに難しい内容ですよ。そして、輸血されたエホバの人も生き残っているのに結局医師が負けた。もしも医師で目の前で死にそうになっていたら医師のパターナリズムなどより人として助けるでしょう。
なのに、信仰があったから命を助けたのに説明がなかったから負けるんですかね?普通の人なら文句より感謝が出そうなシチュエーションですけどね〜。信仰があると損害賠償取れるということでしょうかね?
判決の内容は分かりますよ!言っている事はごもっともで、事前に説明されてない→真摯な信仰→断る機会がなかった→人格権の侵害という論理は理解できます。
でもですよ、結局のところ板まんだらで宗教には口を出さないと言ったのに宗教の味方したというように私には見えます。
剣道授業拒否事件も同じです。内容は裁量行為に社会観念審査と判断過程審査の合わせ技で違憲を導いた素晴らしい判決です。ですが、結局宗教に口出してますよね
このレポートとは関係のないまさに傍論ですが、信教の自由は国が宗教を国民に押し付けたりコントロールしたりを防止するためのものですよね。精神的自由の一つで二重の基準論から考えて重いのは良く分かるのですが、宗教上の教義に関する判断は出来ないわけですから棄却という対処もあったのでは思います。さらに国民全体で宗教をやっている人は少ないですしどちらかと言えば創価、エホバ、オームなどネガティブなイメージを抱く人が多いと思います。迫害する必要はありませんが法人税やお布施に関しても優遇する必要はないでしょう。お布施の話になったときに「町内会の会費と同じ」ということを聞きますが、創価学会のようにあそこまで大きくなって政治に食い込むほどなのに「町内会の会費と同じ」とはとても思えませんね。海外で信教の自由が手厚く保護されるのはお国柄ですよね。なにも無宗教国の日本で足並みを揃える必要はないと思います。
そんなことを考えていると剣道授業拒否事件で代替手段を取ってあげること自体が優遇していると言った学校側の主張には共感できます。ただ、学校側のエホバの証人への迫害からの事件でしたから裁量権の濫用と言われても仕方ないと思います。
何が言いたいかというと、判決は論理もしっかりしていて問題ないですが板まんだら事件との関係で整合性がとれてないと感じるということです。
統治行為
砂川事件(統治行為+明白性)昭和34年
苫米地訴訟(純粋な統治行為)昭和35年
砂川事件に関して、改憲より条約締結の方が簡単なこと(条約優位説)、条約締結が内閣の仕事であることを考えると明白性をつけて司法審査の可能性を残したのは良かったと思います。
しかし、砂川事件の後である苫米地訴訟に明白性を付けなかったのは衆議院の解散権については三権分立を尊重したということだとしても、逃げただけのように感じてしまいます。三権分立からなのか部分社会からなのか分かりませんが、解散する過程でおかしな事をやるのが議員や大臣ですよね。解散という結果についての審査を出来なくても解散に至る過程の審査は可能だと思います。「その判断は主権者たる国民
に政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねられている。」というのは良く分かるのですが、主権者たる国民は何が出来るのですか??
解散したり、条約を結んだり、集団的自衛権の解釈を変えたり・・・。選挙ですか?民主党に任せたらダメダメで、自民党しかないから自民党にいれて、確かにアベノミクスにはちょっと期待しましたが改憲に一票入れたわけではないんですよね。不況と国民性からデモをやるわけでもなし、政治への落胆から選挙にもいかず、投票率30%くらいで決まった奴ら勝手にやっているのに政治的責任??
結局のところ主権者たる国民は何も出来ません。仮に国民投票をしても内閣はその結果に縛られないのでしょ?奴らの好き勝手じゃないですか。憲法はそもそも国を縛るものなのに、その憲法を唯一行使できる裁判所が統治行為を審査しなければ誰も出来ないでしょう。学説の中には統治行為論は必要ないという人も多いのとききます。私もそう思いますが、仮に三権分立から統治行為への尊重があったとしても必ず司法による審査の可能性を残すべきだと思います。
部分社会論
警察法改正無効事件 国会への介入は立法作用になってしまう面があるので極力避けるというのは良く分かるのですが、まったく介入しないと議員のやりたい放題でもっというと自民党のやりたい放題で可決された法律が世の中に出てきてしまいます。統治行為と同じ議論ですが国民は何も出来ないので、手続きへの審査は可能にするべきだと思います。
東大ポポロ事件 昭和38年(真の目的以外は享有しない)
昭和女子大学事件 昭和49年(私人間効力)
富山大学事件 昭和52年
昭和女子大学と富山大学事件だと矛盾するようにもみえるのですが昭和女子大学は私人間効力での処理でしたから矛盾しません。個人の政治活動の自由と大学側の生徒を選ぶ自由のようなものを天秤に乗せて大学側が重かったのだと思います。それと政治活動は大学の真の目的ではないというのも判断の裏にはあったのではないでしょうか。その後の富山大学事件では学生の在学関係を伝統的に特別権力関係で処理していたものを、国立・私立問わず部分社会論として内部外部二分論で処理したのは人権保護の為に一歩進んだ判断だったともいます。ただ、内部外部二分論での処理を国立と私立で比べると、憲法での目的は国を縛ることですから国立の方が保護の要請が強いことになります。そこから国立大学の単位認定にも司法審査が及ぶようにするべきでしょう。
山北村議会事件(内部外部二分論での処理)
共産党袴田事件(内部外部二分論+手続き審査)
袴田事件事件は内部外部二分論だけでの処理だった山北村議会事件に比べて、手続き審査を加えた分前進していますし、その規約が公序良俗に反するかの判断も出来る可能性を残したことも非常に良かったと思います。規約に問題なくその規約に則って判断されたなら問題ないですからね。
田中耕太郎の傍論から始まった部分社会論ですが、思うに二人だけの売買契約も、会社でのリストラも、税理士会や司法書士会も全てが部分社会だと思うのですよ。そこにトラブルがあって人権侵害の可能性があるなら部分社会だから審査しないというのではなく、手続きと契約やルールについて司法が判断するべきだと思います。学説の多くが言うように大学は23条、政党は21条から尊重する根拠に応じた対応を取るのも良いと思います。ただ国会・内閣の審査をなんでもできるとすると、法案が通らなかった野党が次から次へと法案を持ち込むという問題も懸念されるので、手続き審査+明白性での処理が良いと思います。
裁量行為
マリーン事件
キャサリーン事件
言っていることは正しいのですが、講義でもやったように在留状況を考えないで裁量に丸投げするのは逃げたとしか思えませんね。確かに口を出せば行政に干渉することになりますが、そこに人権侵害があるなら審査するべきただと思います。
朝日訴訟 昭和42年
堀木訴訟 昭和57年
どちらも財産権と生存権が対立する事件で裁量権+明白性での処理でした。、堀木訴訟に関しては併給禁止についてなので純粋な生存権のラインではないですし、その上での併給禁止の判断は社会保障費との兼ね合いでも支持出来ます。朝日訴訟に関して補充性の原則や社会保障費の性格から行政に裁量権を認めるのは致し方ないと思いますし、明白性の原則で司法の介入出来る可能性を残したのも私としては支持します。しかし周りの声を聞くと「堀木は仕方ないけど朝日は何とかしたい」という声をよく耳にします。たぶん、兄の仕送りは生活保護だけでは生活できないという理由から送った→生活保護の基準が低すぎる→明白性という言葉で逃げた、という思考からだと思われます。その気持ちも分かるのですが、この基準について考えると非常に難しいのですよ〜。
まず憲法は国を縛るものだから私人に直接何かすることは殆どない。でも資本主義の中で弱者保護の要請が強まって社会権が生まれた。そこに経済状況なども考えられるプログラム規定説の考え方がある。
日本の財政状況も考えて支給額を決めるのは行政の仕事。三権分立から司法消極主義。基準に関しては時代によって変わるので決めづらい。これらを考えると明白性で解決した判断も仕方ないと感じます。
ただ、裁判所側にもきっと何かしらのラインはあるのでしょうが、明白性で司法審査の可能性を残したのに、基準を下回ったとして違憲判決が出ないところが問題なのでしょうね。人権侵害の可能性を考えればその基準こそが司法に求められていると思います。
因みに生存権についての今の通説は抽象的権利説です。思うに憲法の性格を考えればプログラム規定説なのでしょうがこれでは社会権としての意味がなくなりますし誰も救われません。
全農林警職法事件
全逓東京中郵便事件→都教組事件→全農林警職法事件 + 国家公務員法108条の2
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非現業 |
現業 |
自衛隊・刑務官・海上保安庁・消防 |
団結権 |
〇 |
〇 |
× |
団体交渉権 |
〇 |
× |
× |
団体行動権 |
× |
× |
× |
自衛隊や消防などがストをしたら混乱が起こって大変だからダメ。その代わり人事院。確かに正しいんですけど、なら何故に非現業は〇が多いのでしょうか??
利権の臭いがします。
神戸税関事件
思うのですが、部分社会論では内部外部二分論が使われるのに、裁量行為では停職・減俸・戒告と免職では違いを付けないのは違和感を感じます。ただ公務員の政治活動の自由は非常に難しいですね。公務員だから政治活動をするべきではないとも感じますが、政治活動をしないと内側からの公務員改革はありませんからね〜。その兼ね合いからも免職の場合は司法が細かく判断出来ても良いのではと思います。
伊方原発訴訟(一歩進んだ判断)
日光太郎杉事件(判断過程審査)
余目個室付浴場事件(法の目的違反)
行政法の司法審査
㊀行政の行った行為が裁量処分であるかどうかを認定
↓ ↓
㋥裁量処分と認定 or
㋥裁量処分じゃないと認定
↓ ↓
㊂裁量統制型審査 ㊂実態判断代置型審査
↓
行訴30条
社会観念審査→「社会観念上、著しく妥当性を欠く」→比例原則 平等原則 不公正な動機・法の目的違反
判断過程審査→考慮不足 他事考慮 過大評価 過小評価
手続審査
これらの審査方法を使って行政の裁量行為に待ったをかけた判決たち。少しずつですが裁量行為に食い込んで言ってます。
エホバの証人剣道授業拒否事件
前述しましたが、社会観念審査と判断過程審査の合わせ技で裁量行為に待ったをかけた判決。
財産権
財産や税金に関しては一つも違憲無し!行政の思うがままです。
ため池条例事件では財産権の無意味さを感じましたし、このままでは累進課税も進んでいきます。たぶん税負担率50%を超えたら国民が逃げ出しますよ。そこから先は国民のコンセンサスが必要でしょう。
身体の自由
刑事訴訟法のテーマは真実発見VS人権保護です。なのに現実として刑事訴訟法では肖像権(あるのかは不明)も違法収集証拠もなんでもありです。起訴便宜主義は仕方ないとしても検察官の勝訴率が99%以上なんて普通に考えればありえません。被疑者段階での接見交通権が認められたのは前進しましたが、それでも捜査をする警察官に適法が推定されているのは何とかならないものかと思います。
問題点のまとめ
ここまで見てくるとどの判決も素晴らしいことを言っているし色々な柵に縛られている裁判所の苦悩が良く分かりますよね。ですが見てきて分かるように全体的に逃げ腰です。安保条約に関しても歴史的にみれば違憲判断を出さなかったことが正解だったと思います。その意味では裁判所の政治判断は正しかったのでしょう。ただ、くだらない宗教の話に口はだすのに憲法としての役割、つまり国民の抵抗権を考えたら、国会・内閣・条約への判断を避けるのは問題だと思います。時代が変わって対応出来なくなったら判例変更すれば良いのですから判断をするべきでしょう。しかしそこで付随的審査の問題が出てくるわけです。誰かが訴訟をしないと変わらない。ましてや何年掛かるかもわからない憲法裁判を戦おうなんて奴はいません。
そして最も重要だと思われるのが裁量行為です。下の図を見て頂ければわかるように、国民が選挙で国会議員を選び、議院内閣制ですから与党である自民党の総裁が総理を務め組閣されます。内閣には法案提出権があり、提出された法案は総理の案ですから基本的には必ず通りますし、内閣不信任案も否決されるでしょう。そして安部や菅や鳩が法案を作れるわけありませんから、実質作っているのは官僚ということになります。そして官僚は基本クビになりませんから大臣が変わっても同じ人がそこにいて法律を作るわけです。当然自分達に不利な法律は作りません。そうした背景を踏まえて上の判例を眺めたときに官僚や内閣への規制の必要性があるということに気が付くのでしょう。そしてこの官僚主導のパターナリズム型の歯車が噛み合わなくなってきています。1000兆円を超える社会保障費のつけはまさにその現れでしょう。次ではこれらの問題点を解決するべく対策を考えていきます。
B
対策
対策は難しいですが私は学者ではないので改憲も無視して好きなこと言っちゃいますよww
問題点は内閣と官僚が大きな力を持ち過ぎることにあります。その問題をまずは人と人以外(システム)の問題に分けて検討しましょう。
システムの対策
問題点は議院内閣制なのですが、比較としては大統領制が挙がります。大統領制だとリーダーを直接選べるけど政策が進まなくなる。議院内閣制はリーダーを直接選べないけど政策が進みやすい。でも日本では二院制を採用しているために議院内閣制でも決められない政治になっています。以前の参議院は良識の府とされて衆議院の暴走を防いでいたらしいです。
どっちにしろ現在の参議院は衆議院の優越から重要視されず、さらに票取りのためのタレント議員と呼ばれる議員が現れたことでその意味を失っていると言えるでしょう。議院内閣制の問題点は票が集まれば内閣が絶大な力を持ってしまうところにありますから、それを防止出来れば参議院でも良いのですが衆議院の優越がある以上無理でしょう。
そこでなんの抑止にもならないうえに無駄な税金が掛かる参議院は止めてしまって、国民からの内閣不信任案で抑止をはかりましょう。(どういう仕組みで内閣不信任案を発動されるかは分かりませんがww)地方自治の首長にはリコールがあるわけですから不思議ではないと思います。
さらに国民の抵抗権を活かすために司法が内閣への審査を出来るようにしましょう。付随的審査制を緩めて客観訴訟や民衆訴訟の幅を広げて内閣の行政行為にまで訴訟を可能にしましょう!内閣の行動の末に戦争が起きて損害を受けるのは国民ですからこれも不思議な話だとは思いません。
国会への審査も可能にしましょう。(81条参照)さらに国民から国会議員へのリコール申請も欲しいですね。
さらにさらに国民が望んだ場合のみ抽象的審査を可能にしましょう。その場合は法令違憲を導けるようにしましょう。
そして情報革命を使って多くの内閣・国会に関係する判決を国民に読ませて無関心ではいられないようにしましょう。そしてその判決を読んだ国民側から司法へのリコールの申請を可能にしましょう。というのも、多くの判例を読んできて疑問だった判決も多々ありました。「クラブママの枕営業は不倫にならない判決」は変な考え方でしたし、わいせつ性の基準なんかも時代の違いを感じます。噂ですが最高裁の15人は名誉職でかなり腐ってるなんて話も聞きますよね!?私はそこまでとは思っていませんが、仮に司法に力を持たせたとしてもあの15人のじいちゃん達が必ずしも時代にあった判断を出せるとは思えないのです!今までも逃げてきていたしwそこで人の問題が出てくるわけです。
人の問題
社会保障法のレポートには書きましたが日本中が生活習慣病なのです。国民も、国会も、内閣も、官僚も、司法もみんな生活習慣病です。ですのでそれらをシステムと平行して改善しなくてはなりません。
内閣・官僚は社会保障法で書いた通りに公務員制度改革。国民は教育で底辺の底上げ。国会はリコール申請や減俸の申請を可能にしてもう少し緊張感を持ってもらいましょう。司法は公務員制度改革と同様に専門裁判官の育成を止めましょう。アメリカ型にしてまずは皆弁護士から始めて経験を積む中で裁判官になっていくようにすればもっと切磋琢磨しますし国民感情とずれた判決も減るでしょう。そのうえ国民からのリコール申請があると思えば名誉職なんて言っていられなくなりますよw 先ほどから「リコール申請」としているのはあくまで申請であって辞めさせられるわけではないことに注意して頂きたいです。国民も分からない奴が大勢いますからね。一言文句を言えるくらいの感じです。
ちょっと悪ふざけが過ぎたような気もしますし、これを読んだ人には「法学部なのに馬鹿だな」と思われるでしょう。しかし自分としては半分本気ですw
もうちょっとマクロな視点で見たときに私にはこの三権分立が飲み会の幹事のように見えるのです。日本社会を三人の幹事さんに任せているわけですよね。食べ物・イベント・金みたいな感じです。
なのに国民は興味がなくて三人はお互いに干渉しないんですよね。私の発想はパターナリズム型の社会から自己決定権型の世の中にして国民も飲み会に興味を持つようにすれば、幹事さんのやることにも興味がわきますし、幹事さんたちもそれを自覚してしっかり仕事をするでしょう。そしてグローバリズムという大きな問題が立ちはだかった時には協力して問題を解決していけたら良いのにな〜と思うのです。
社会保障でも書きましたが、人間が完璧ではない以上、生活習慣病に気を付けながら上手くツールを使ってやっていくしかないと思います。
参考文献
はじめての憲法学 中村睦男
新・判例ハンドブック憲法 高橋和之
憲法 芦部信喜
行政法読本 芝池義一
行政法判例百選TU
出典
自分の頭
中江章浩
図:協力藥袋紗綾香
蓼原尚生
人権と裁判所の権限
学籍番号14J112019 氏名 蓼原尚生
【結論】
人権と裁判所の権限は大いに関係がある。
T【自己決定権とパターナリズムの対立】
自己決定権とは、その名の通り、自分の事を自分で決める権利である。これは、国家の独立と内部不干渉の権利や、医療方針の決定などの相手でも、個人の自律性が尊重されることを意味する。尚、自己決定権に関しては、憲法13条では未だ保障はされてない。この自己決定権に関わる判例として、「エホバの証人信者輸血拒否事件」が挙げられる。この事件はエホバの証人信者である患者の自己決定権を無視し、担当医が手術の際に一方的に輸血をおこなったパターナリズムによる行為をめぐって最高裁まで争われた事件である。この「エホバの証人」というのは、キリスト教系の宗教団体で、その教えは、聖書に記されていることを文字通りに実践することである。その教義の代表例として、暴力や格闘技の否定、輸血の禁止が挙げられる。聖書の中に輸血を誤った行為として批判する記述があるため、輸血をしないことは、エホバの証人の信者が守らねばならない決まりのひとつである。次にパターナリズムとは、一般的に、「相手の利益のためには、本人の意向にかかわりなく、生活や行動に干渉し制限を加えるべきであるとする考え方」[2]と定義される。このパターナリズムの問題となるのは、今回の判例のように医者と患者の立場で起きる自己決定権の侵害が生じる。そして、この判例の最高裁では、病院側のパターナリズムよりも患者の自己決定権を尊重し、病院側の負けとした。判旨を要約すると、『患者が輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は人格権(憲法13条)の一内容として尊重されなければならないことと、医師らは、手術の際に輸血が必要な緊急手術になる可能性があることもあらかじめ予測していたにもかかわらず、その対応について、患者にまったく説明せず、一方的に医師の判断で輸血をおこなったのは、意思決定をする権利を奪ったものと言わざるを得ず、この点において同人の人格権の侵害』【9】として最高裁は被告側の損害賠償請求を認めた。尚、この判例では、憲法第20条信教の自由より信仰の自由の侵害についても争われたが、本判決では、宗教上の信念に基づく輸血拒否を人格権の一部として認めたにすぎないものとなる。また、先ほど、自己決定権は憲法13条の新しい人権として保障されていないと書いたが、しかし、この判例のように裁判所は、自己決定権を保障という形ではないが、人格権の一内容として尊重はしているという形となる。
U【統治行為と裁判所の立場】
裁判所法第3条1項より、「裁判所は、日本国憲法に特別の定めのある場合を除いて一切の法律上の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する。」と定められているように原則、「法律上の争訟」にあたる場合裁判所の権限が及ぶが、しかし、この統治行為に関しては司法権が内在する限界の一つとして、たとえ「法律の訴訟」にあたる場合でも、司法権が内在する限界によって裁判所が判断をすることができない存在である。つまり、例外に法律上の争訟にあたる場合でも、審査しない、審査できないことであり、いわゆる、明文上の限界である憲法第55条「資格争訟の裁判」と憲法第64条「弾劾裁判所」とは違い解釈上の限界に当たる。そして、この統治行為とは、一般には、「直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為」【12】であり、法律上の争訟として裁判所による法律的な判断が論理的には可能であるが、事柄の性質上、司法審査の対象から除外される行為である。統治行為論を用いて裁判所の審査が及ばないとした判例として「砂川事件」が代表だ。この判例の概要は日米安保条約の合憲性について争われた事件である。判旨から一部抜粋すると、『右違憲なりや否やの法的判断は、準司法的機能を使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のもの』【8】と「高度の政治性のある国家行為」【8】として裁判所の審査が及ばないとしている。しかし、この判旨には、続きとして『したがって、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外』【8】としている。これは、内閣と国会による条約の締結の話に変わるが、条約の締結権は内閣にあるが、仮に内閣がX国と日本国民にとって、人権侵害となる不平等条約を締結したとする。しかし、憲法第73条3号より国会の権限として、条約の締結前または締結後の承諾さえしなければ、その不平等条約は無効である。しかし、その国会でさえも不平等条約の承認をすれば、原則、その不平等条約は効力を発揮することになる。だが、この砂川事件の判旨に書いているようにその不平等条約が一見極めて明白に違憲無効であると認められるなら、裁判所の権限の違憲判決で憲法第98条により不平等条約の締結を防ぐことができるということだ。つまり、この判例のように裁判所は統治行為にあたるものなら、原則、司法審査に及ばないが、人権保護の観点から、例外なく、いかなる統治行為でも審査しないとは、限らないと示した。 そして、この砂川事件では、一見極めて明白に違憲無効であるとは、到底認められないとされて原判決破棄(差戻)とされた。
V【部分社会論と裁判所の立場】
部分社会論とは地方議会、大学等などの憲法上の重要な機関または憲法上その団体の自律権が認められていることであり、団体の内部的抗争については、組織の自律性・自主性を尊重し、内部の自律的解決に委ねて裁判所の判断を控えている。これは前述記載した統治行為についてと同じく、部分社会論は裁判所法第3条1項の例外として、司法審査が及ばない存在の一つである。ただし、この部分社会論でも、包括的に司法審査が及ばない訳ではなく、一般市民法秩序と関連する場合は司法審査が例外として及ぶとしている。そしてその例外に及んだ判例として「エホバの証人剣道受講拒否事件」が挙げられる。この事件は「エホバの証人信者である学生が、自己の宗教的信条に反するという理由で、必修科目である剣道の履修を拒否したため留年処分となったうえに、次の年度も留年処分となったため、学則にしたがいその退学処分にした処分に対して、違法であると取消しを求めた行政訴訟(抗告訴訟)」【14】である。学校教育における信教の自由の保障が争われた事件でもある。学校側は「原告(エホバの証人信者である学生)が主張する代替措置を学校が認めたら、特定の宗教の信仰を援助支援したことになり、憲法第20条3項の政教分離に反することになる」【9】と主張したが、判決では、この主張を否定し、判旨によれば、『信仰の自由や宗教的行為に対する制約を特に目的とするものではなかったが、学生の信仰の自由に対して配慮しない結果となり、原級留置処分の決定も退学処分の選択も社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超えた違法なものといわざるを得ない』【9】として、さらに『代替措置を講じることは特定の宗教に対する援助をするわけではない』【9】として、20条3項の政教分離違反にあたらないとした。よって、判決では、学校側の処分取り消しを決定した。このように部分社会論において裁判所の立場は、退学は一般市民法秩序と関連するとして司法審査の対象であるが、しかし、この判例ように退学や原級留置処分を避けるための方法があったかどうかが重視しているように処分自体よりもその処分までの過程、手続き、の部分に問題がないかを焦点に、審査していると考えられる。
W【国家機関の自由裁量行為と裁判所の立場】
憲法第25条に生存権を定めている。その生存権の法的性質には3説分かれていて、その一つにプログラム規定説がある。この説は、憲法第25条は個々の国民に対して法的権利を否定するので、第25条に基づいた直接の給付請求を否定し、立法不作為の違憲確認訴訟も否定し、さらに国家賠償請求できないことを意味する。しかし、プログラム規定説を採用してもほかの2説と同じように具体的立法に基づく請求権は認められている。そして、このプログラム規定説を採用した判例で、朝日訴訟が挙げられる。この判例は、朝日氏は、生活保護法により医療扶助・生活扶助を受けていたが兄が仕送りをしてくれるようになった為、福祉事務所からの、生活扶助と医療費の免除を打ち切られた。そこで朝日氏は25条の「最低限度の生活水準」を維持するには足りないとして、裁決の合憲性が争われた。判旨によると、『憲法25条1項は、国に国民の生存を確保すべき政治的・道義的義務を国に課したにとどまり、具体的請求権を保障したものではない』【10】、とプログラム規定説を採用したことを示した。さらに、『何が最低限度の水準かは、厚生大臣の合目的的な裁量に委ねられると』【10】結論づけた。また、本件において生活扶助を打ち切ったことは自由裁量行為の範囲内としたが、このように国家機関の自由裁量行為に任されているとされているものは、統治行為、部分社会論と並び、裁判所法第3条1項の例外として、司法審査が及ばない存在としている。しかし、この自由裁量行為も例外なく、審査及ばない訳ではなく、朝日訴訟と同じく、憲法25条の生存権に基づく立法、及び「最低限度の生活水準」について争われた判例「堀木訴訟」の判旨では、「立法府の自由裁量行為に著しく合理性を欠き明らかに裁量権の逸脱・濫用が認められる場合に司法審査が及ぶ」と国家機関の自由裁量行為でも問題があれば、裁判所の司法審査の余地があることを示した。
X【人権にとって裁判所とは諸刃の剣】
ここまで論じてきたように、司法権の限界としてあたる統治行為、部分社会などでも、明白に逸脱・濫用等の問題があれば、憲法第81条より、裁判所の権限で助けることはできる。また、国家機関のみならず、私人間の人権侵害においても、民法の間接適用や場合によっては、憲法の直接適用し、様々な人権侵害からの保護の要請を図っている。まさに裁判所とは憲法の存在意義である「人権保護」の最後の砦ということになる。しかし、それは、裏を返せば、人権侵害を最後に侵すのは、裁判所であることを同時に意味する。どいうことか具体的に述べると、【統治行為と裁判所の立場】の項目で述べた「条約の締結」より、仮に内閣と国会がX国と日本国民にとって、一見極めて明白な人権侵害となる不平等条約を締結しても、砂川事件の判旨に明記していたように統治行為に属する場合でも、この場合なら、裁判所の権限として、違憲審査を行使できることになる。しかし、その裁判所でさえも、違憲審査を行使しなければ、もはや、人権侵害を止めることが事実上不可能となる。このように人権保護の是非について裁判所が最終決定権を持つ以上、人権とって裁判所とは、一方では、憲法の威力を最大限に発揮できる立場でありながらも、もう一方では、憲法の根底を最大限に破壊する危うい存在、まさに諸刃の剣と言える。
出典)【1】http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7956/han/han55.html
[2]広辞苑
【3】http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/yhwh.htm
【5】http://www.mc-law.jp/kigyohomu/10875/
【6】http://consti.web.fc2.com/12shou1.html
【7】ポケット六法
参考文献)
【8】芦部信喜「憲法(第5版)」(岩波書店)
【9】長谷部恭男「憲法判例百選T(第6版)」(有斐閣)
【10】長谷部恭男「憲法判例百選U(第6版)」(有斐閣)
【12】「重要判例解説 平成6〜20年度」(有斐閣)
【13】憲法のノート
【15】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0
【17】http://ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/jk/jk17/okuno.html
太田英里
人権と裁判所の権限
帝京大学法学部3年 14J107011 太田 英里
キーワード:統治行為 砂川事件 部分社会論 裁量行為 エホバの証人 信教の自由
朝日訴訟 プログラム規定説 自己決定権 パターナリズム
(全4299文字)
はじめに
私は個人・国民の意志をより強調してもいいのではないかと考えた。人にはそれぞれ生まれながらに権利が与えられている。なんらかの問題が起こる際にはその人権同士がぶつかり合っている状態になる。そして、その人権は時に国とぶつかり合うこともある。そうなったとき、誰がどのように判断するのだろうか。根拠を以下に示す。
裁量と範囲(※参考)
人権と国が法律上の訴訟に至った事例は数多く存在する。有名なところで言うと朝日訴訟があげられる。この訴訟では生活保護の受給額に関する条件が問題となっている。朝日さんは生活保障を受けて生活していたが、兄がいたため兄からの仕送りを命じたうえで補償金を減額した。なお、朝日さんは最高裁の判決が出る前になくなってしまったために、はっきりとした結論は出ていないと考えられる。憲法第25条における「生存権」では、最低限度の生活を送る権利があるとしているため、生活保障により裕福な暮らしをすることはできないと考えられる。そして、生活保障は税金からまかなわれているため、金額や使い方は行政の裁量によるとしている。裁量とは立法府の判断余地であり、行政行為のうちの法律に規定されていないものは行政庁に裁量行為が認められているとしている。そして、その裁量の結果、朝日さんは負けたのではないかと思われる。
また、近い判例に堀木訴訟がある。この事件では複数の原因により生活できなくなっていた堀木さんが生活保障の増額を望み訴訟を起こした。この事件でも行政の裁量として増額は認められなかった。しかし、この事件から立法府の裁量行為に関するルールができた。そのルールにより明白性のある謝った判断には裁量が及ばないとした。立法裁量権の著しい逸脱があれば、司法審査の可能性を認めるという裁判規範性を認めているという点で、完全なプログラム規定説ではないと解される。
プログラム規定説とは、憲法第25条の生存権について、国に課した政治的・道徳的義務として解釈し、個々の国民に具体的権利を保障したものではないという説である。「憲法第25条に違反するから生活保障の受給額を上げてくれ」という訴えを起こすことはできない。上記二つの判例を見ると裁判所の判断はこの説をとっているように思える。この説に反する説が法的権利説である。国民が国家に対して必要な義務を講ずるよう要求する権利が保障され、国家もこれに応ずる義務があるとしている。あくまで明確性がある逸脱した裁量の場合のみではあるが、国民の意見が反映される可能性を認めている時点で、プログラム規定説に法的権利説も入り込んでいるのではないかと考えられる。
司法の限界
明確性の話だと、砂川事件も取り上げられる。砂川という土地にあるアメリカ基地について周辺住民などが訴訟を起こした問題である。これは、日本とアメリカとの間の問題であり、国の方針の問題である。このような極めて高度に政治的な問題に関して裁判所は口を出せないといっている。これを統治行為とよび、司法審査権の限界のひとつと言われている。この司法権の限界にも明確性の原則はあてはまるとされている。あまりにも国が暴走していると思える場合にはたとえ統治行為だとしても司法審査権を使えるとのことである。現在の日本は独裁政権を避けるために三権分立の形をとっており、その中でも国会は国権の最高機関とされている。権利をわけている状況下で司法権がすべてに口出しをできるようにするのは分立する意味があやふやになってしまうため納得は行く。しかし、統治権において司法の言う明白性があまりにも厳しいものではないかという意見は少なからずあるように思える。裁判所の権限の弱さには多少疑念が残るところである。
裁判所の力の弱さは警察法改正でもみてとれる。この事案で裁判所の明白性に関する疑念がより濃くわかるようになった。この事件で国民が反対したとしても警察法を決めるにあたり自律権が認められるために裁判所は手を出せないとした。たしかに国会は最高機関であり三権分立の観点からするとそうせざるを得ないが、国民の大勢が反対するような法改正だとしても裁判所が出ることができないというのであれば、逸脱した行為には裁判所も口を出せるというルールはそもそも存在意義があるのかとすら思えてしまう。また、警察予備隊違憲訴訟では憲法第9条が問題となったが、付随的違憲審査制により問題が起きていない限りは判断を下すことは裁判所にはできないとした。グレーゾーンまでは考えずに逸脱の中でも真っ黒なものだけは裁判所でも判断できるとした。しかし、これでは国民のほぼ全員が国会には口が出せないといっているようなものであると考えられる。
また、裁判所が口を出せないものの例として部分社会論があげられる。部分社会性とは、団体内の規則・規律に関する問題について、司法権による違憲審査権が及ばないことである。たとえば、学校の規則に違憲審査権は及ばない。このことからよくあげられるのは昭和女子大事件・富山大学訴訟などである。一見して横暴とも思える学校側の処置に対して訴訟を起こしたとしても、学校側の裁量があまりにも逸脱していない場合にはその学校の規則にすべて任せるとしている。そのため、上記二つの例はどちらも学校側が勝訴している。
もちろん学校側の裁量が認められなかった事例もある。有名な神戸高専剣道実技拒否事件である。これは、キリスト系宗教「ものみの塔」の信者であるエホバの証人の生徒が、学校側が単位を認めなかったことに対して訴訟を起こしたものである。エホバの証人は暴力を嫌っており、当該学校は剣道実技を必修としていた。もちろん学校内のルールのことであるため部分社会論は認められる。しかし、この訴訟では学校側が敗訴している。これは、憲法第20条の信教の自由があるためである。信教の自由は自身の思想の自由に当たるため、憲法の中でも保護が手厚い部類のものであると考えられる。この件で裁判所は、学校側は代替処置を用意することもできただろうとして学校側の申し立てを却下している。また、代替処置の用意は政教分離原則には違反しないと言いっているのも特徴である。
エホバの証人でもう一つ有名な事件は輸血事件だと思われる。輸血関連でもエホバの証人は制約がありいくつか問題が起きている。その中でも医師患者関係の問題がおきたのは患者が、手術を行う際に患者は輸血拒否し医者はそれを承諾したが、手術中にやむを得ず輸血を行った。エホバの証人にとって外から血を輸血されることは、死後の世界の消滅を意味しているという。日本人で言うところの、輸血をされると天国に行けなくなるといた感じである。医師は手術に関する説明をした際、患者からの輸血の承諾を受けていない。それは、緊急事態の際に関する説明義務を怠ったがために患者からの正式な許可を得ることができなかったことを意味している。このような関係を父権主義という。患者には自己決定権があり、自分の意志を尊重すべきと考えられる。医師にはパターナリズムがあり、医師の裁量に基づき、強い立場から弱い立場である患者の利益となるように患者の意思や行動に介入するのである。エホバの証人輸血拒否事件では信教が絡んでいることもあり患者側が勝訴している。しかし、医師は悪気があったわけではなく、自身の善意に従い輸血を行っただけであることはたしかである。
国家と国民の関係性
自己決定権とパターナリズムの対立はなにも医療機関だけの問題ではないと考えられる。それが、人権と国家との関係である。民集にはそれぞれ自己決定権があり、国家には民集をまとめ上げるためのパターナリズムが存在している。今までの判例をみていると、現在の日本はどことなく国家の介入による影響が大きいように思える。もし立法府が国民の非を浴びるような法をつくりあげたとしても裁判所を動かすことができる可能性は極めて低いととらえることができるためである。裁判所の権限は裁判所法第3条に記されている。条文によると、法律上の訴訟があればなんだって判断できるが訴訟がなければ判断はできない。具体的な問題に発展していれば判断できるがそうでなければ判断できない。かつ、二つに当てはまっていても我々では判断しかねるところがあります。つまり、裁判所の力は脆弱なものかもしれない。現在の裁判所が判断するためには、国民が法律上の訴訟に発展し、かつ統治行為・部分社会・裁量行為・自律権にあたらないか当たっても明白性があり、付随的審査であるという条件がそろったときのみ効果が出るということである。国民は内閣の官僚や国会のいいなりになるしかない危険性を孕んでいると考えても間違えではないのではないだろうか。小さく見て医療関係の話に戻ると、私はパターナリズムよりも自己決定権を重んじるべきだと考えている。医師患者関係で最も重要視されるインフォームドコンセントさえ整っていればあとは個人の希望に沿うべきだと考えている。それを国で当てたとき、全てを国民の意思決定に任せてしまうと国はすぐにだめになるとおもう。国が説明義務を果たし、国民がわかったうえでの承諾をできているのであればそれはいい。そこにさらにあとからの違憲立法審査が可能であれば国民の力はさらに強くなるのではないだろうか。問題は、いくら馬鹿にされていてもへたな国民より勉強してきて現場もわかっているであろう国の偉い人たちによる国民の利益のための行動が反映されにくくなるということである。自己決定はあくまで自分の思う行動をできるというだけで、それが一般的に見て間違えているような内容だとしても自己決定なのだといえばまかり通ってしまうような状況ではそれも危ない気もする。優柔不断になってしまうが、あくまで知識のもとであるえらい人たちにはいてもらい、国の決定に国民が裁判所を通じて介入できる余地ができればよいのではないかと考える。部分社会や裁量行為など、国家ではないところの意見がぶつかり合う場合でも、国家を挟む問題でも、三権分立・国の資金を崩壊させない程度に国民・司法の力を強めていいのではないかと考える。
以上
参考文献
※ リラックスヨネヤマ(2014)「リラックス法学部−憲法判例―わかりやすい憲法判例朝日訴訟(生存権)の概要と判決の趣旨をわかりやすく解説」
2016年8月1日アクセス
松岡雅瑛
人権と裁判所の権限
14J119023 松岡 雅瑛
人権、裁判所の権限が争点となった判決がいくつかありますが、キーワードの中にある砂川事件、エホバの証人、朝日訴訟についてそれぞれ順に私の結論となぜそう考えたか理由を述べていきます。
砂川事件とは統治行為論の是非が問題とされた事件ですが、私は統治行為論については、
適用をするかしないかの基準は厳格にし、必要最低限の場合においてのみ採用すべきであるという結論に至りました。
「事件の概要の整理と気になった点」
砂川事件とは、当時の立川在日米軍基地の拡張に反対するデモ隊の一部が基地内の立ち入り禁止区域に侵入したということで、「日米安全保障条約第3条に基づく行政協定に伴う刑事特別法違反」として訴えられた事件ですが、東京地裁では、在日米軍は憲法9条違反であり訴えられたデモ隊員は無罪とされました。しかし最高裁はこの判決を破棄し、東京地裁に差し戻しとなり、その結果在日米軍は憲法9条違反ではないとされ、デモ隊員は無罪ではなく、有罪となりました。その根拠となったのが統治行為論とされていますが、統治行為論によると、日米安全保障条約は高度な政治性を有するものであるため、司法検査の対象とならないということのようです。しかし私はこの「高度な政治性を有すれば司法審査を免れる」という部分が気にかかりました。高度な政治性というものはどのような基準で判断されるのか、下手をしたら国家がやりすぎてしまうことがあるのではないか、など思いました。
「統治行為論の言う高度な政治性の基準、判決に対する疑問、結論に至った理由」
統治行為論の採用基準とされている「高度な政治性を有するもの」とは何か調べてみたところ、直接に国家統治の基本となる国家の行為がそれに当てはまるようでした。たしかに、日米安全保障条約は、日本の国防のために不可欠であるため、これが違憲とされてしまうと、日本の国防が手薄になってしまいます。違憲とすることはできないため、統治行為論を採用して、日米安全保障条約の司法審査を免れるといった当時の判決は仕方ない部分もあったのではないかと思います。しかし、考えてみるとこの判決で本当に統治行為論を使う必要性はあったのだろうかと私は思います。憲法9条とは、日本による戦力の保持、武力行使を認めないというものですが、安全保障条約における在日米軍とは、あくまでアメリカが所持しているものであって、条約上、日本の安全保障のためにいるだけであると思われるため、憲法9条に違反はしないのではないか、と私は思いますがどうやら当時の最高裁も同じようなことを述べていて、それに加える形で統治行為論を出したようです。しかしそれを出す必要は無かったと思います。雑な意見だと思いますが、自衛隊が合憲であるのなら、(在日米軍が良いか良くないかはさておき)日米安全保障条約の在日米軍も国防のためなのだから同じように合憲であるとすることが当時できたのではないかと思いました。
私は統治行為論を否定はしませんが不安な部分もあります。統治行為論を採用すると、明らかに違憲であると思われるような国家行為でも国家統治のために必要という理由で見逃されてしまう可能性があるかもしれないという点です。しかし(私は合憲であると書きましたが)砂川事件の日米安全保障条約など、どうしても必要な国家行為でやむをえない場合は統治行為論が無いと不便であるので、最初に述べたように統治行為論の採用をするかしないかの基準は厳格にし、必要最低限の場合においてのみ採用すべきであると私は思いました。
エホバの証人についての有名な判例である神戸高専剣道実技拒否事件と輸血拒否事件それぞれの事件に対しての私の結論とその理由を書いていきます。
神戸高専剣道実技拒否事件の最高裁の判断は妥当なものであると私は思っています。以下理由です。
「事件の概要と私の考え」
神戸高専剣道実技拒否事件とは、剣道実技を宗教上の理由で拒否していたエホバの証人の信者である生徒を留年させ最後には退学処分とした学校の行為は、裁量行為の範囲を逸脱して違憲違法であるとされた事件ですが、この判例では部分社会論と信教の自由が問題となっていると考えられます。部分社会論とは団体内部の規則、つまり学校の校則の強制などは自由裁量であるため違憲審査の対象とならないとされる理論です。この理論どおりでいけば、剣道の授業を強制することも特に問題はないとされるように見えます。実際学校側も事前に剣道の実技があることも公表していたと述べているので、問題はないとしていました。しかし私は、いくら部分社会論があるといっても、その人の人生観にかかわるものを問題がないのにも関わらず規制したり、弾圧するようなやり方は好ましくないと考えます。信教の自由は憲法で保障されているため、部分社会論があるといっても「代替処置」をするなどいくらでもやり方はあったのにも関わらず信教の自由を弾圧するようなことをした学校はやりすぎであると思われ、裁量行為の範囲を超えているといわれても仕方がなかったと思います。
輸血拒否事件は最高裁に同意ですが、完全同意というわけではありません。理由を述べていきます。
「事件の概要、私の考え」
輸血拒否事件では、輸血を頑なに拒んでいたエホバの証人の信者である患者に輸血をしたということで、病院が訴えられた事件です。最高裁は患者の自己決定権、つまり人格権は尊重されるべきものであるとし、それにくわえ病院側が輸血をするかもしれないという説明を怠ったということを理由とし、患者側の訴えを認めました。この事件では、病院側、つまり医者が輸血をするかもしれないということを患者に一切伝えなかった点が問題であると思われます。医者は治療拒否をされてしまうことを懸念して輸血について伝えなかったようですがたしかに患者のことを思ってそうしたのならば仕方ない部分はあるかもしれません。しかしこのような行為はパターナリズムと呼ばれます。強い立場にある者が弱い立場の者の利益になるからといって勝手な判断をすることをパターナリズムと呼びます。さらに医療法で患者に対して医師は治療についての説明をすべきであると説明義務が規定されているため、その説明をしなかった病院側に落ち度があったと言わざるを得ません。それに加え患者には自己決定権があります。最高裁はこの部分に触れていて、輸血をしないという頑なな意思は尊重されるべき意思であるとされています。たしかに自己決定権は大事であり尊重されなければならないという部分には大いに同意できます。しかし医者の立場になって考えてみると、法律には関係ないですがいざ目の前の患者が輸血をしないと死んでしまうという状態のときに輸血をすれば助かるのにも関わらず、輸血を拒否されているので輸血をしなかった結果、患者が命を落としてしまった場合、医師が非常に責任感が強く患者を助けたいという思いが強い人物であった場合、精神的な面での負担は大きいのではないでしょうか。そうでなくとも、患者を死亡させてしまった場合それはそれで何らかの問題が発生する可能性があると予測できるため、患者の生命より患者の意思を優先して最善手段を取らないという判断をするのは難しいのではないでしょうか。
この判例は医師が生命を優先するか、患者の自己決定権を優先するかという難しい二択を迫られた事件であります。そのため最高裁の述べていることは同意できる部分は多いですが、医師の立場になって考えてみると完全に同意できるわけではないという結論に至りました。
最後は朝日訴訟についてです。この事件については、第一審以外同意できません。
「事件の概要と私の考え」
原告の朝日茂さんは、重度の肺結核患者で長年にわたり国立岡山療養所に入所し、生活保護法に基づく医療扶助と月額600円の日用品費の生活扶助を受けていました。その後、朝日さんは、実兄から月額1500円の仕送りを受けることになります。ところが、岡山県の津山市社会福祉事務所長は、この1500円から600円を、これまで生活扶助として支給されていた日用品費にあてさせ生活扶助を廃止し、さらに残りの900円を、医療費の一部自己負担分として朝日さんに負担させる、という内容の保護変更決定を行いました。朝日さんは、この決定を不服とし、少なくとも仕送りから1000円を日用品費として手元に残して欲しいという不服申し立てを岡山県知事と厚生大臣に対して行いますが、それぞれ却下の裁決がなされました。日用品費月額600円という当時の生活保護基準は、肌着でいえば2年に1枚、パンツでいえば1年に1枚しか購入できないほどの金額だったといいます。朝日さんはこれを受けて月600円の生活保護基準は厳しすぎると訴えを起こしました。
第一審の東京地裁は朝日さんの訴えを認め次のように述べています「健康で文化的な最低限度の生活の基準とは、特定の国における特定の時点において客観的に決定すべきである」と述べています。私はこの第一審の判断は納得がいきます。健康で文化的な最低限度の生活が肌着でいえば2年に1枚、パンツでいえば1年に1枚しか購入できないほどの金額でおくれるわけがないと思うからです。しかし第二審の東京高裁は本件の月額600円という保護基準は「すこぶる低額」ではあるけれども違法とまでは断定できないとして、第一審東京地裁判決を取り消しました。原告の朝日さん側は最高裁までもっていこうとしたようですが、最高裁は朝日さんが死亡したことによりこの訴訟は終了したという判断を下しました。さらに最高裁は次のように述べました。「日本国憲法25条の「生存権」は、個々の国民に対して具体的な権利を保障したものではなく、その実現のために国政を運営すべき責任が国にあるということを宣言したものに過ぎない。なにが「健康で文化的な最低限度の生活」にあたるのかは、厚生大臣の裁量に委ねられており、その裁量権の行使に著しい濫用がある場合は別として、厚生大臣による生活保護基準の決定が直ちに違法とされることはない」このような考え方はプログラム規定説と呼ばれるものです。この高裁と最高裁の考えだと国民のために努力目標はたてるが、実態がどうであれ国民の声は聞かないというおかしなものに見えてきます。第一審の述べたように努力するならば客観的に判断することを義務付け、健康で文化的な最低限度の生活がおくる権利を保障するべきだと思いますが、そもそもその基準がはっきりしないという問題もあるために難しいところがあります。
出典、引用元
コトバンク 砂川事件
https://kotobank.jp/word/%E7%A0%82%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6-84491
日本国憲法の基礎知識 統治行為論
http://kenpou-jp.norio-de.com/touchikouiron/
リラックス法学部 剣道拒否事件 輸血拒否事件
弁護士ドットコム 部分社会論
https://www.bengo4.com/saiban/d_7059/
法学館憲法研究所 朝日訴訟
http://www.jicl.jp/now/date/map/33.html
コトバンク プログラム規定説
https://kotobank.jp/word/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E8%A6%8F%E5%AE%9A-127908
佐藤高啓
私がこの人権と裁判所というテーマに対して出した結論は裁判所は統治行為や裁量行為に当てはまる事件や部分社会論に当てはまる事件ではない場合においては、憲法にある人権
が侵害されている場合、人権を守る役割を果たしているということである。以下に、このように考えた理由について述べる。
私がこのように考えた理由は5つある。まず1つ目の理由である統治行為とその判例である砂川事件についてのべる。統治行為とは直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為であり、法律上の訴訟として裁判所による法律的な判断が可能であるが事柄の性質上、司法審査の対象から除外される行為のことである。このことが示された判例が砂川事件である。砂川事件とは砂川町にあった米軍基地の拡張工事に反対する人々が米軍基地に数メートル侵入したとされ日米安全保障条約に基づく行政協定に伴う刑事特別法2条違反で起訴されたという事件である。この事件に対して裁判所は憲法9条は戦力の不保持によって生ずる防衛力の不足について他国に安全保障を求めることを禁じてはいないということと国家の存立の基礎に極めて重大な関係を持ち高度な政治性を有するため、一見極めて明白に違憲無効と認められない限りは裁判所の司法審査の外にあるという統治行為論の
二つの理由から訴えを退けた。この判例に対して私の考えを述べると、統治行為論で判断できないというならば合憲という判決をだし、一見極めて明白に違憲無効と考えられるものだけに違憲判決を出したほうが合憲か違憲かがわかりやすいと考える。
次に、2つ目の理由である裁量行為とその判例である朝日訴訟について述べる。裁量行為とは行政行為のうち要件または内容について法律が一義的に明確な概念で定めていない場合か、まったく定めていない場合か、または当該行政行為を行うことができると定めている場合に行政庁の裁量に基づいてなされる行為である。また行政の裁量に任されている事項を裁判所が無制限に審査することは、行政の裁量権を侵害してしまうことになるため、裁量権の逸脱または濫用が認められる場合や著しく不合理であることが明白である場合、以外は裁判所の裁判権は裁量行為にはおよんでいない。このことを示す判例として朝日訴訟がある。朝日訴訟とは原告Xは国立療養所に入所していて医療扶助および生活扶助を受けていたが実兄から仕送りがされるようになったために、市の福祉事務所の所長がXの生活扶助を廃止し医療費の一部を自己負担としたためにXが生活保護法の規定する健康で文化的な最低限度の生活送るためには額が少なく違法であると国を訴えた事件である。この事件に対して裁判所は上告の最中にXが死んだため訴訟の継続は認められないということからと憲法25条1項はすべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営みえるように国政運営すべきことを国の責務として宣言したことにとどまり直接個々の国民に具体的な権利を付与したわけではないというプログラム規定説の立場を裁判所がとっていたためXの訴えを退けた。ただ私は憲法25条1項の権利を有すると条文に書いてあることと条文が抽象的であることから法的権利説の抽象的権利説の立場を裁判所はとりXの権利もは保護すべきだったと考える。
次に、3つ目の理由である部分社会論とこのことを示す判例である富山大学事件と共産党袴田事件について述べる。部分社会論とは憲法上の重要な機関又は憲法上その団体の自律権が認められている団体の内部的紛争については、たとえ法律上の訴訟にあたる場合で
も、
その自立性自主性を尊重し裁判所はその判断をすることは控えるべきという原則である。
このことが示された判例が富山大学事件と共産党袴田事件である。富山大学事件とは富山大学の経済学部の教授Aが学部長の指示に反して授業を続け試験と成績評価を実施したが
学部長が当該授業の単位認定判断を行わなかったため、学生が単位不認定の違法確認と単位認定義務の存在の確認を求めた事件である。これに対して裁判所は一般市民社会の中にあってこれとは別個に自律的な法規範を有する特殊な部分社会における法律上の係争のごときは、それが一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、その自主的、自律的な解決を委ねるのを適当とし、裁判所の司法審査の対象にならないということ大学は国公立であると私立であるとを問わず学生の教育と学術の研究とを目的とする教育研究施設であって、その設置目的を達成するために必要な諸事項については、自律的で包括的な権能を有し、一般市民社会とは異なる特殊な部分社会を形成しているか
ら一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題は司法審査から除かれるべきだといえるからである。また単位認定行為は、一般市民法秩序と直接の関係を有するものであることを肯認するに足りる特段の事情がない限り純然たる大学内部の問題として大学の自主的で自律的な判断に委ねられるべきであって裁判所の司法審査の対象にならないという3つの理由で学生側の訴えを退けた。この判例に対しての私の考えを述べると、この事件の後に起きた同学部専攻科の修了認定に関しては司法審査の対象になっているのでこの事件も、学生側の権利などをかんがみるべきだったと思う。次に、共産党袴田事件について述べる。
共産党袴田事件とは日本共産党の幹部である袴田里見が、党委員長宮本顕治らとの対立により党から除名処分を受け居住していた党所有の家屋を明け渡すように求められたという事件である。これに対して裁判所の見解としては、政党は国民の政治的意思を国政に反映するためのもっとも有効な媒体であり、議会制民主主義を支えるうえできわめて重要な存在であるから、高度の自主性と自律性を与えて自主的に組織運営をなしうる自由を保障する必要がある。政党の内部的自律権に属する行為は、法律に特別の定めのない限りは尊重すべきで、党員への処分が一般市民法秩序と直後の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、裁判所の審判権は及ばないことになっているということと、本件除名処分は
、自律的規範としての党規約に則ってなされ、党規約が公序良俗に反するなど特段の事情の有無につき主張立証がなく、その手続きには何の違法もないため除名処分は有効だとされている。この判例に対しての私の考えを述べると、確かに政党は国民の政治的意思を国政に反映するための最も有効な媒体であるがここまで保護する必要はないと考える
。
次に4つ目の理由である信教の自由とそのことを示した判例である神戸高専剣道実技拒否事件について述べる。信教の自由は内心における信仰の自由と宗教的行為の自由と宗教的結社の自由の3つに分かれている。内心における信仰の自由が保障するのは、特定の信仰を持つ、あるいは持たない自由と、信仰を告白する、あるいは告白しない自由である。
また、内心における信仰は、内心にとどまる限り絶対的に保障されている。宗教的行為の自由は宗教上の儀式や布教宣伝を行う自由と宗教活動を行わない自由が保障している。
宗教的結社の自由は宗教的結社をつくる自由と宗教的結社をつくらない自由を保障している。この信教の自由を保障したことで有名な判例が神戸高専剣道実技拒否事件である。
神戸高専剣道実技拒否事件とは市立工業高専の生徒であったXは自らの信仰するエホバの証人という宗教の教義を理由に体育授業における剣道実技への参加を拒否し、レポート提
出などの代替措置を求めたが、校長Yらはこれを認めなかった。結果、Xは体育の成績が認定されず2年続けて原級留置処分を下され、学則に従って退学処分とされた。XがYに対して原級留置と退学処分の取り消しを求めた事件である。これに対して裁判所は体育科目による教育目的の達成は、代替方法によって行うことも性質上可能であったことと
Xの受講拒否は、その信仰の核心部分と密接に関連する真摯なものであり、Xが受けた不利益も極めて大きなものであったことと何らかの代替措置をとることの是非、その方法、態様等について十分に考慮されたとは到底言えず、代替措置をとることが不可能であったともいえない。こういった事情に照らせば、Yの処分は社会観念上著しく妥当性を欠き、Yの裁量権の範囲を超えることなどが言え上告を棄却した。この判例に対する私の考えを述べると、この事件の重要な部分は代替措置の有無とエホバの証人の教義の核心に暴力をふるってはいけないということがあったからXが勝訴できたのではないかと考える。
次に、5つ目の理由である自己決定権とその判例である輸血拒否事件について述べる。
自己決定権とは、個人が一定の個人的な事柄について、公権力から干渉されることなく自ら決定することができるという権利をいう。具体的には子供を持つかどうかなど家族の在り方を決める自由や自己の生命の終期を自分で決定する自由などがあげられる。この自己決定権を認めた判例が輸血拒否事件である。輸血拒否事件とはエホバの証人の信者であるXが手術のまえに医師Aに輸血を拒否する旨を伝えた。医師AもXの輸血拒否の意思を尊重してできる限り輸血を行わないが、輸血以外には救命手段がない事態に至ったときは、患者およびその家族の諾否にかかわらず輸血する方針を採っていたが、治療拒否を懸念してXに説明をしなかった。A等は輸血が必要な事態が生ずる可能性があることを認識しその準備をしたうえでXに手術を施工し輸血をしない限りXを救うことができない可能性が高いと判断して輸血を行った。このことをXがしり損害賠償を請求したという事件である。
これに対して裁判所は患者が輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を行う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の1内容として尊重される。またA,などはXに対して本件方針を説明してA等の手術を受けるか否かをX自身の意思決定に委ねるべきであった。A等がXに治療の説明をしなかったために輸血を伴う可能性があった本件手術を受けるか否かの意思決定をする権利を奪った点でXの人格権を侵害したといえる。
この事件に対する私の考えを述べると、この事件の重要な部分は医師のパターナリズムと
患者の自己決定権どちらを優先すべきかというところである。今回の事件でXが勝訴できた理由はAがかってに輸血の可能性がある手術おこなったからだと考える
以上のことから、裁判所は統治行為や裁量行為に当てはまる事件や部分社会論があてはまる事件ではない場合においては憲法にある人権が侵害されている場合に人権を守る役割を
果たしていると考える。
参考文献 新判例ハンドブック憲法 3番 28番 65番 165番 166番
190番 191番
島田洋輝
人権と裁判所の権限
14J118017 島田 洋輝
・結論
裁判所の権限によって裁判は行われ人権は守られてきた。だが、すべての裁判において裁判所の権限が適用されるとはいえない。
1・基本的人権と裁判所
まずは、基本的人権と裁判所の見解について考えていく。
基本的人権とは、私たちが人間らしく生きていくためにある権利のこと。基本的人権の中身は大きく分けて5つに分けられる。平等権、自由権、社会権、参政権、請求権の5つだ。
これらは守られなければならない権利であり、侵害されてはならない。
人権が守られていない、侵害されたとき裁判所はどのような判決を下すのか。人権についての裁判で有名な裁判がある。それは、朝日訴訟だ。朝日訴訟とは、1957年(昭和32年)当時、国立岡山療養所に入所していた朝日茂が厚生大臣を相手取り、日本国憲法第25条に規定する「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(生存権)と生活保護法の内容について争った行政訴訟である。
結核患者である原告は、日本国政府から一カ月600円の生活保護給付金と医療扶助を受領して、国立岡山療養所で生活していたが、月々600円での生活は無理であり、保護給付金の増額を求めた。1956年(昭和31年)、津山市の福祉事務所は、原告の兄に対し月1,500円の仕送りを命じた。市の福祉事務所は同年8月分から従来の日用品費(600円)の支給を原告本人に渡し、上回る分の900円を医療費の一部自己負担分とする保護変更処分(仕送りによって浮いた分の900円は医療費として療養所に納めよ、というもの)を行った。これに対し、原告が岡山県知事に不服申し立てを行なったが却下され、次いで厚生大臣に不服申立てを行なうも、厚生大臣もこれを却下したことから、原告が行政不服審査法による訴訟を提起するに及んだものである。
原告の主張は、当時の「生活保護法による保護の基準」による支給基準が低すぎると実感し、日本国憲法第25条、生活保護法に規定する「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障する水準には及ばないことから、日本国憲法違反にあたると主張した。
第一審の東京地方裁判所は、日用品費月額を600円に抑えているのは違法であるとし、裁決を取り消した(原告の全面勝訴)
第二審の東京高等裁判所は、日用品費月600円はすこぶる低いが、不足額は70円に過ぎず憲法第25条違反の域には達しないとして、原告の請求を棄却した。
上告審の途中で原告が死亡し(1964年2月14日に死去)、養子夫妻が訴訟を続けたが、最高裁判所は、保護を受ける権利は相続できないとし、本人の死亡により訴訟は終了したとの判決を下した。
最高裁判所は、「なお、念のため」として生活扶助基準の適否に関する意見を述べている。それによると、「憲法25条1項はすべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に具体的権利を賦与したものではない」とし、国民の権利は法律(生活保護法)によって守られれば良いとした。「何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、厚生大臣の合目的な裁量に委されて」いる、とする。
裁量行為とは、行政行為のうち,要件または内容について法律が一義的に明確な概念で定めていないか,まったく定めていない場合,または当該行政行為を行うことが「できる」と定めている場合に,行政庁の裁量に基づいてなされる行為のことだ。
そして最高裁はここで、プログラム規定説を提起した。プログラム規定説とは、憲法の特定の人権規定に関して、形式的に人権として法文においては規定されていても、実質的には国の努力目標や政策的方針を規定したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではないとする考え方だ。
はたしてこれらの判決は人権を尊重しているのか、社会権は保証されているのか。私はこの判決を見る限り保証はされていないと思う。プログラム規定説と裁量行為を用いて国は生存権について曖昧な見解をしているのではないのか。憲法の特定の人権規定に関して、形式的に人権として法文においては規定されていても、実質的には国の努力目標や政策的方針を規定したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではないとした。努力さえしてればいいのか。努力しても人の命を救えなければ意味がないと私は思う。
2・人権に関する宗教問題
次に、これもまた大きな問題となった人権問題だ。それはエホバの証人といった宗教が関わった人権問題だ。自由権の中に信教の自由がある。これも守られなければいけない1つの権利だ。では、その問題となったエホバの証人に関する輸血事件を見ていこう。
エホバの証人の信者であるXは、宗教上の信念から輸血を拒否するという固い意思を有していた。悪性の肝臓血管腫との診断を受けたXは、1992年8月、無輸血手術の実績のある東京大学医科学研究所附属病院に入院し、医師Aに輸血拒否の意思を伝えた。医科研は、「エホバの証人」の信者の輸血拒否の意思を尊重し、できる限り輸血しないが、輸血以外には救命手段がない事態に至ったときは、患者及びその家族の諾否にかかわらず輸血する方針を採っていたが、A等はXの治療拒否を懸念して本件方針をXに説明しなかった。A等は同年9月、輸血が必要な事態が生ずる可能性があることを認識しその準備をした上でXに手術を施行し、輸血しない限りXを救うことができない可能性が高いと判断して輸血をした。手術後に輸血の事実を知ったXは、国とA等に対して損害賠償を請求した。
裁判所の見解は、@患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重される。AXが宗教上の信念から輸血拒否の固い意思を有しており、無輸血手術を期待して入院したことをA等が知っていた本件では、A等はXに対し本件方針を説明して、A等の手術を受けるか否かをX自身の意思決定に委ねるべきだった。A等は、右説明を怠ったことにより輸血を伴う可能性のあった本件手術を受けるか否かについて意思決定をする権利を奪った点で、Xの人格権を侵害した。という判決を下している。
この裁判の判決では原告側が勝訴した。
宗教が絡んだこのエホバの証人とはいったい何なのか。エホバの証人は、宗教団体のことだ。アメリカに本部のあるキリスト教系の宗教団体で、聖書に記されていることを文字通りに実践することを説いている。その教えの中には、進化論の否定、軍隊への入隊拒否、暴力や格闘技の否定といったことの他に「輸血の禁止」がある。聖書の中に輸血を誤った行為として批判する記述があるため、輸血をしないことは、エホバの証人の信者が守らねばならない決まりの一つになっている。
エホバの証人輸血事件では、自己決定権があるのにもかかわらず医師の見解パターナリズム(強い立場にある者が弱い立場の者の意志に反して、弱い立場の者の利益になるという理由から、その行動に介入したり、干渉したりすること)によって本人の意思に反して行動を起こした。この時点で、自己決定権は侵害されていると思う。また、輸血についての説明を医師がしていないということも問題ではないのかと思う。この裁判で、医療現場では自己決定権が尊重されるべきという考えを世の中に広めたのではないのか。
3・司法権の限界
裁判はどんな問題でも裁けるとは限らない。裁判にも限界、司法権の限界がある。その中の1つに統治行為というものがある。統治行為とは、高度な政治性を持つため、司法権による審査の対象から除外すべきものとされる国家行為のことである。では、なぜ裁判所は高度な政治性を帯びた国家行為について司法判断をしないのか。ひとつは、そういうことを裁判所は判断すると、結果如何では大きな混乱を招くおそれありとする理由からである。これを「自制説」という。国家の基本的な事項は、あくまで民主主義機関の傾向が強い国会や内閣の判断に委ねるべき、裁判所は介入しないということだ。「高度な政治性を帯びた国家行為」に、司法権は馴染まないとして、そこは民主主義の決定に委ねるべきというのは、合理的な考えだ。
だが、少し視点を変えてみると裁判所は逃げているのではないのかという見方もできる。これは、不当に司法権を縮小させていないか、こんなんで人権救済なんて全うできるのかといった問題も出てくる。そういった統治行為で問題になった事件がある。砂川事件だ。
砂川事件とは、1957年7月8日に特別調達庁東京調達局が強制測量をした際に、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法違反で起訴された事件を指す。
最高裁の判決は、「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」(統治行為論採用)として原判決を破棄し地裁に差し戻した。
高度の政治に関することは裁判所は裁けない。つまり、裁判所の権限ではどうにもできない問題なのである。三権分立とも関わりのある話だ。立法府における立法による法案成立に裁判所は異議を唱えることはできない。
また、警察予備隊違憲訴訟といった裁判でも同じような見方ができる。裁判所は、具体的な訴訟が提起されないのに憲法及びその他の法律等に判断を下す権限はないとした。
他にも裁判所が裁けない問題がある。それは、部分社会論だ。部分社会論とは、日本の司法において、団体内部の規律問題については司法審査が及ばない、とする法理のことだ。
富山大学事件はいい例だ。富山大学の学生が履修していた科目の単位修得を認められなかったことで単位不認定等の違法確認を求めた行政訴訟。判決は、上告棄却。「大学は、国公立であると私立であるとを問わず、学生の教育と学術の研究とを目的とする教育研究施設であって、一般市民社会とは異なる特殊な部分社会を形成しているのであるから、このような特殊な部分社会である大学における法律上の係争のすべてが当然に裁判所の司法審査の対象になるものではない。」とした。つまりこの問題、部分社会については裁判所は口出しできないということになる。
4・まとめ
裁判所は、憲法、法律、条約、統治行為、部分社会論については裁けない。裁判所の権限が及ばない。なぜなら憲法、法律、条約は国会や内閣で承認されてできたものである。これに口を出すと三権分立に違反してしまう。
また、朝日訴訟では、裁量行為、プログラム規定説を使い曖昧な見解をし裁判所は判断できないとした。はたしてこれで人権は尊重され守られるのか。裁判所にもどうしようもできない問題があるのだと感じた。エホバの証人輸血事件では信教の自由と自己決定権を守った。自己決定権とパターナリズムに関する問題は多いのではないか。例えば子宮頸がんワクチンの接種についてもこの自己決定権とパターナリズムとの関係ではないのかと私は思う。ただ相手の言いなりになるのではなく、自分の意思を尊重してこれから先の人生を歩んでいきたい。
出典・参考文献
統治行為
http://www.weblio.jp/content/%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E8%A1%8C%E7%82%BA
砂川事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6
http://kenpou-jp.norio-de.com/sunagawa-jiken/
部分社会論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A8%E5%88%86%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E8%AB%96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
裁量行為
https://kotobank.jp/word/%E8%A3%81%E9%87%8F%E8%A1%8C%E7%82%BA-68309
エホバの証人
新・判例ハンドブック「憲法」
朝日訴訟
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E8%A8%B4%E8%A8%9F
プログラム規定説
パターナリズム
https://www.kango-roo.com/word/14115
人権と裁判所の権限
14J118017 島田 洋輝
・結論
裁判所の権限によって裁判は行われ人権は守られてきた。だが、すべての裁判において裁判所の権限が適用されるとはいえない。
1・基本的人権と裁判所
まずは、基本的人権と裁判所の見解について考えていく。
基本的人権とは、私たちが人間らしく生きていくためにある権利のこと。基本的人権の中身は大きく分けて5つに分けられる。平等権、自由権、社会権、参政権、請求権の5つだ。
これらは守られなければならない権利であり、侵害されてはならない。
人権が守られていない、侵害されたとき裁判所はどのような判決を下すのか。人権についての裁判で有名な裁判がある。それは、朝日訴訟だ。朝日訴訟とは、1957年(昭和32年)当時、国立岡山療養所に入所していた朝日茂が厚生大臣を相手取り、日本国憲法第25条に規定する「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(生存権)と生活保護法の内容について争った行政訴訟である。
結核患者である原告は、日本国政府から一カ月600円の生活保護給付金と医療扶助を受領して、国立岡山療養所で生活していたが、月々600円での生活は無理であり、保護給付金の増額を求めた。1956年(昭和31年)、津山市の福祉事務所は、原告の兄に対し月1,500円の仕送りを命じた。市の福祉事務所は同年8月分から従来の日用品費(600円)の支給を原告本人に渡し、上回る分の900円を医療費の一部自己負担分とする保護変更処分(仕送りによって浮いた分の900円は医療費として療養所に納めよ、というもの)を行った。これに対し、原告が岡山県知事に不服申し立てを行なったが却下され、次いで厚生大臣に不服申立てを行なうも、厚生大臣もこれを却下したことから、原告が行政不服審査法による訴訟を提起するに及んだものである。
原告の主張は、当時の「生活保護法による保護の基準」による支給基準が低すぎると実感し、日本国憲法第25条、生活保護法に規定する「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障する水準には及ばないことから、日本国憲法違反にあたると主張した。
第一審の東京地方裁判所は、日用品費月額を600円に抑えているのは違法であるとし、裁決を取り消した(原告の全面勝訴)
第二審の東京高等裁判所は、日用品費月600円はすこぶる低いが、不足額は70円に過ぎず憲法第25条違反の域には達しないとして、原告の請求を棄却した。
上告審の途中で原告が死亡し(1964年2月14日に死去)、養子夫妻が訴訟を続けたが、最高裁判所は、保護を受ける権利は相続できないとし、本人の死亡により訴訟は終了したとの判決を下した。
最高裁判所は、「なお、念のため」として生活扶助基準の適否に関する意見を述べている。それによると、「憲法25条1項はすべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に具体的権利を賦与したものではない」とし、国民の権利は法律(生活保護法)によって守られれば良いとした。「何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、厚生大臣の合目的な裁量に委されて」いる、とする。
裁量行為とは、行政行為のうち,要件または内容について法律が一義的に明確な概念で定めていないか,まったく定めていない場合,または当該行政行為を行うことが「できる」と定めている場合に,行政庁の裁量に基づいてなされる行為のことだ。
そして最高裁はここで、プログラム規定説を提起した。プログラム規定説とは、憲法の特定の人権規定に関して、形式的に人権として法文においては規定されていても、実質的には国の努力目標や政策的方針を規定したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではないとする考え方だ。
はたしてこれらの判決は人権を尊重しているのか、社会権は保証されているのか。私はこの判決を見る限り保証はされていないと思う。プログラム規定説と裁量行為を用いて国は生存権について曖昧な見解をしているのではないのか。憲法の特定の人権規定に関して、形式的に人権として法文においては規定されていても、実質的には国の努力目標や政策的方針を規定したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではないとした。努力さえしてればいいのか。努力しても人の命を救えなければ意味がないと私は思う。
2・人権に関する宗教問題
次に、これもまた大きな問題となった人権問題だ。それはエホバの証人といった宗教が関わった人権問題だ。自由権の中に信教の自由がある。これも守られなければいけない1つの権利だ。では、その問題となったエホバの証人に関する輸血事件を見ていこう。
エホバの証人の信者であるXは、宗教上の信念から輸血を拒否するという固い意思を有していた。悪性の肝臓血管腫との診断を受けたXは、1992年8月、無輸血手術の実績のある東京大学医科学研究所附属病院に入院し、医師Aに輸血拒否の意思を伝えた。医科研は、「エホバの証人」の信者の輸血拒否の意思を尊重し、できる限り輸血しないが、輸血以外には救命手段がない事態に至ったときは、患者及びその家族の諾否にかかわらず輸血する方針を採っていたが、A等はXの治療拒否を懸念して本件方針をXに説明しなかった。A等は同年9月、輸血が必要な事態が生ずる可能性があることを認識しその準備をした上でXに手術を施行し、輸血しない限りXを救うことができない可能性が高いと判断して輸血をした。手術後に輸血の事実を知ったXは、国とA等に対して損害賠償を請求した。
裁判所の見解は、@患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重される。AXが宗教上の信念から輸血拒否の固い意思を有しており、無輸血手術を期待して入院したことをA等が知っていた本件では、A等はXに対し本件方針を説明して、A等の手術を受けるか否かをX自身の意思決定に委ねるべきだった。A等は、右説明を怠ったことにより輸血を伴う可能性のあった本件手術を受けるか否かについて意思決定をする権利を奪った点で、Xの人格権を侵害した。という判決を下している。
この裁判の判決では原告側が勝訴した。
宗教が絡んだこのエホバの証人とはいったい何なのか。エホバの証人は、宗教団体のことだ。アメリカに本部のあるキリスト教系の宗教団体で、聖書に記されていることを文字通りに実践することを説いている。その教えの中には、進化論の否定、軍隊への入隊拒否、暴力や格闘技の否定といったことの他に「輸血の禁止」がある。聖書の中に輸血を誤った行為として批判する記述があるため、輸血をしないことは、エホバの証人の信者が守らねばならない決まりの一つになっている。
エホバの証人輸血事件では、自己決定権があるのにもかかわらず医師の見解パターナリズム(強い立場にある者が弱い立場の者の意志に反して、弱い立場の者の利益になるという理由から、その行動に介入したり、干渉したりすること)によって本人の意思に反して行動を起こした。この時点で、自己決定権は侵害されていると思う。また、輸血についての説明を医師がしていないということも問題ではないのかと思う。この裁判で、医療現場では自己決定権が尊重されるべきという考えを世の中に広めたのではないのか。
3・司法権の限界
裁判はどんな問題でも裁けるとは限らない。裁判にも限界、司法権の限界がある。その中の1つに統治行為というものがある。統治行為とは、高度な政治性を持つため、司法権による審査の対象から除外すべきものとされる国家行為のことである。では、なぜ裁判所は高度な政治性を帯びた国家行為について司法判断をしないのか。ひとつは、そういうことを裁判所は判断すると、結果如何では大きな混乱を招くおそれありとする理由からである。これを「自制説」という。国家の基本的な事項は、あくまで民主主義機関の傾向が強い国会や内閣の判断に委ねるべき、裁判所は介入しないということだ。「高度な政治性を帯びた国家行為」に、司法権は馴染まないとして、そこは民主主義の決定に委ねるべきというのは、合理的な考えだ。
だが、少し視点を変えてみると裁判所は逃げているのではないのかという見方もできる。これは、不当に司法権を縮小させていないか、こんなんで人権救済なんて全うできるのかといった問題も出てくる。そういった統治行為で問題になった事件がある。砂川事件だ。
砂川事件とは、1957年7月8日に特別調達庁東京調達局が強制測量をした際に、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法違反で起訴された事件を指す。
最高裁の判決は、「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」(統治行為論採用)として原判決を破棄し地裁に差し戻した。
高度の政治に関することは裁判所は裁けない。つまり、裁判所の権限ではどうにもできない問題なのである。三権分立とも関わりのある話だ。立法府における立法による法案成立に裁判所は異議を唱えることはできない。
また、警察予備隊違憲訴訟といった裁判でも同じような見方ができる。裁判所は、具体的な訴訟が提起されないのに憲法及びその他の法律等に判断を下す権限はないとした。
他にも裁判所が裁けない問題がある。それは、部分社会論だ。部分社会論とは、日本の司法において、団体内部の規律問題については司法審査が及ばない、とする法理のことだ。
富山大学事件はいい例だ。富山大学の学生が履修していた科目の単位修得を認められなかったことで単位不認定等の違法確認を求めた行政訴訟。判決は、上告棄却。「大学は、国公立であると私立であるとを問わず、学生の教育と学術の研究とを目的とする教育研究施設であって、一般市民社会とは異なる特殊な部分社会を形成しているのであるから、このような特殊な部分社会である大学における法律上の係争のすべてが当然に裁判所の司法審査の対象になるものではない。」とした。つまりこの問題、部分社会については裁判所は口出しできないということになる。
4・まとめ
裁判所は、憲法、法律、条約、統治行為、部分社会論については裁けない。裁判所の権限が及ばない。なぜなら憲法、法律、条約は国会や内閣で承認されてできたものである。これに口を出すと三権分立に違反してしまう。
また、朝日訴訟では、裁量行為、プログラム規定説を使い曖昧な見解をし裁判所は判断できないとした。はたしてこれで人権は尊重され守られるのか。裁判所にもどうしようもできない問題があるのだと感じた。エホバの証人輸血事件では信教の自由と自己決定権を守った。自己決定権とパターナリズムに関する問題は多いのではないか。例えば子宮頸がんワクチンの接種についてもこの自己決定権とパターナリズムとの関係ではないのかと私は思う。ただ相手の言いなりになるのではなく、自分の意思を尊重してこれから先の人生を歩んでいきたい。
出典・参考文献
統治行為
http://www.weblio.jp/content/%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E8%A1%8C%E7%82%BA
砂川事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6
http://kenpou-jp.norio-de.com/sunagawa-jiken/
部分社会論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A8%E5%88%86%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E8%AB%96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
裁量行為
https://kotobank.jp/word/%E8%A3%81%E9%87%8F%E8%A1%8C%E7%82%BA-68309
エホバの証人
新・判例ハンドブック「憲法」
朝日訴訟
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E8%A8%B4%E8%A8%9F
プログラム規定説
パターナリズム
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