及川真澄
人権と裁判所の権限
私は、裁判所は相手の事情を考慮し判断すべきだと考える。
1.朝日訴訟で見える生存権の曖昧さ
日本国憲法25条1項は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」として、国民に対し生存権を保障している。この生存権については、プログラム規定説、抽象的権利説、具体的権利説の3つの学説が法的性格として挙げられている。順を追ってみていくと、憲法25条は国民の生存を国が確保すべき政治的、道義的目標を定めたにすぎず、具体的な権利を定めたものではないとする考え方がプログラム規定説であり、国は全ての国民に必ずしも最低限度の生活を保障しなくてもよく、それに向けて努力さえしていればよいというものである。次に、生存権は直接25条に基づいて訴えを起こすことはできず、生存権を具体化する法律があって初めて訴えを起こすことができる、とする考え方が抽象的権利説である。最後に、憲法25条は生存権の内容を具体的に定める法律がなくても、直接25条に基づいて訴訟を起こすことができるとする考え方が具体的権利説であり、これは、プログラム規定説と最も真逆の立場で、強く生存権を保護する考え方だ。
これらの学説の中で、プログラム規定説に基づき裁判が行われたのが、朝日訴訟である。この訴訟は、1957年に、朝日茂氏が生生活扶助費の減額に関して提訴した裁判である。この朝日氏は、重度の肺結核患者で長年にわたり国立岡山療養所に入所し、生活保護法に基づく医療扶助と月額600円の日用品費の生活扶助を受けていた。その後、朝日氏は、実兄から月額1500円の仕送りを受けることになり、岡山県の津山市社会福祉事務所長が、この1500円から600円を、これまで生活扶助として支給されていた日用品費にあてさせ生活扶助を廃止し、さらに残りの900円を、医療費の一部自己負担分として朝日氏に負担させるという内容の保護変更決定を行っなったため、提訴してわけだが、 第1審の東京地裁は、日用品費月額600円という保護基準が健康で文化的な最低限度の生活水準を維持するには足りない違法なものである、という朝日氏の主張を認め、本件保護変更決定を憲法25条の趣旨に合致せず違法と判断し、厚生大臣の却下採決を取り消した。しかしながら、第2審の東京高裁は、本件の月額600円という保護基準は「すこぶる低額」ではあるけれども違法とまでは断定できないとした。この判決に対し私は反対である。その理由としては、違法であるかどうかではなく、一人の人間が生活していけるかどうかということが忘れられているように感じる。生きていくために必要なことを同じ人間に一方的に判断されることに違和感を覚えると同時に、生活保護費の裁量は厚生大臣に委ねられているということも問題であり、これでは、受給者の都合よりも国の予算の都合が優先されかねず、生存権が名ばかりのものになってしまう。さらに、兄自身も生活が苦しい中、弟のために頑張っていたのだから、本来であればその辺りも評価しないといけないのではないかと感じる。やはり、このような生存権を扱う裁判では、プログラム規定説のように生存権の存在を曖昧にさせるものではなく、具体的権利説に基づき、裁判を行うべきだと感じた。
2.信教の自由
憲法20条の信教の自由や政教分離にかんして争われた神戸高専剣道実技拒否事件について取り上げる。この裁判は、暴力を非とするエホバの証人を信仰しているAさんが、それらを理由に必修科目である剣道に参加せず、ずっと見学していたために単位が修得できなかった。そのため、原級留置となり翌年も同様の理由で原級留置となったのだが、学則には2年連続しての原級留置は退学処分を命ずることが出来るとあり、それに基づき退学処分となった。その処分を取り消すために訴えたのがこの裁判である。
《学生側の主張》
学生は、他校では、同様に必修の格闘技の授業を拒否する剥製に対し代替措置を認めているのに対し、当校はレポート提出等の代替措置を一切認めず欠席扱いとし、最終的には退学とした学校側の措置は裁量権の逸脱であるという点や、学校側による剣道の履修の強要は、日本国憲法が保障する信教と良心の自由を侵害する行為であること、高等専門学校において剣道実技の履修が必須のものとはいえないなどの観点から、学校側の処分を取り消すとしている。
《学校側の主張》
学校側は、募集要項に必修科目に関する旨が記載されてあり、履修拒否することも予測でき、かつ、単位が修得できなかった場合にどのような措置がとられるか周知していたといえることや、代替措置を認めた場合、エホバの証人という特定の宗教を援助することになるため、憲法20条3項の政教分離に反すること、常に信教の自由による行為が保障されるものではなく、それらを制限して得られる公共的利益の方が学校運営上必要であるとしている。
これらの主張から、第一審は「加持祈祷事件」(最高裁昭和38年5月15日)の信教の自由の保障の限界を逸脱していて、著しく反社会的なものであれば、法的保護を与えることはできないとした判例に基づき、Aさんの請求を棄却し、学校側の主張を認めるとした。しかし、第二審、最高裁ともに、地裁の判決を破棄し、学校側の措置は裁量権の逸脱であったと学生側の主張を認めた。詳しく見ると、他校では代替措置が行われている点や高等専門学校に剣道実技を必修にする必要性がなく、ほかの体育科目で代替措置を行えるとした点からこのような判断をしたことが判決文からわかる。また、学校側の措置については、宗教的行為を制約する目的ではないが、学生に対しての配慮が欠けており、原級留置処分も退学処分も社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超えた違法なものだとしている。
自分は、この事例に対し、裁判所の判断は学生の事情に沿っており、正しかったと考える。宗教での教えは、信仰する者にとって人生のガイドラインであり、どのように生きていけば善き人生が送れ、幸せになるためにはどう行動すればよいかを決める軸となるものである。にも関わらず、その辺りを配慮せず、原級留置処分や退学処分を選択したのであるから、裁量権の逸脱であったと判断されるのは妥当であろう。教育機関は、いかなる者も受け止めて社会に出していく義務があると考えている。そして、それは、教員の裁量権だけで判断するのは時として許されない場合も出てくる。今回のように、単位取得の目的がなされなかったことにより、Aさんの信仰心よりも学校側の事情が優先されてしまったことは残念である。もちろん、世の中「宗教だから」という理由で何でも曲がり通るわけではないが、思春期という時期の中、これまで信じて育ってきた道をこのような形で判断されてしまえば、自身の生き方を否定されていると捉える可能性もあり、今後の人生の歯車が狂うかもしれない。この難しい時期の教育を任されているプロであるのならば、生徒の主張や事情にもう少し寄りそってあげるべきである。自分の高校も武道が必修であり、募集要項にも武道ができることが条件となっていたが、宗教上できない生徒に対しては、代替措置で単位を認定していた。学校は多種多様の人達が集う公共の場であるのだから、今後もこの判例を参考にして裁判所には判断してもらいたい。
3.自己決定権
この自己決定権について争われた東海大学安楽死事件について取り上げる。この裁判は東海大学医学部の助手で、医師であった被告人が、同大学医学部付属病院に多発性骨髄腫で入院していた男性患者の長男等から、「苦しむ姿を見ていられない。」などとして治療行為の中止を求められ、迷った末、点滴やフォ−リ−カテ−テル等を外して治療行為を中止したが、その後も、荒い苦しそうな呼吸をしている患者を診ていた長男から「楽にしてやってほしい。早く家につれて帰りたい。」などと再三言われたことから、末期状態にあり死が迫っていたこの男性患者に息を引き取らせることを決意し、殺意をもって、塩化カリウム製剤等の薬物を同人に注射して死亡させたという事案において殺人罪になり、安楽死の成否が争われたものである。
本件で起訴された訴因は、被告人が患者に薬物を注射したと言う点であり、いわゆる積極的安楽死の成否が問題となっている。医師による安楽死の要件としては、「耐え難い肉体的苦痛があること」「死が避けられずその死期が迫っていること」「肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がないこと」「生命の短縮を承諾する明示の意思表示があること」の4点が挙げられる。安楽死という言葉は、極めて多義に用いられているが、刑法上問題となる安楽死を念頭に定義するなら、「安楽死とは、死期が迫っている患者の耐え難い肉体的苦痛を緩和・除去して安らかに死を迎えさせる措置」といえる。そのような措置が死期を早めるとき、殺人罪(199条)ないし同意殺人罪(202条)の構成要件に該当するため、違法性が阻却されるか、されないなら責任が阻却されるのかが、問題となる。 従来、安楽死は患者の苦痛に対する人間的同情から出た行為の側面から考えられたが、最近では、患者の自己決定権という側面からもとらえられるようになっている。
この判決は、被告人は有罪になるべきではないと考える。確かに、患者自身が意思をもって死を望んでいたわけではないが、昏睡状態であったことを考えると患者の家族が代理で判断することが許されてもいいのではないか。さらに、死期も迫ってきており、この先どんな処置をしても延命の望みがないのであれば、苦痛の除去や医療費の節約という観点から見ても、そう判断せざるを得ないのではないか。ただこれはパターナリズムの問題として捉えることも可能であるため、賛否が分かれるかもしれない。患者の意思を本当に尊重すべきか、苦痛の除去を患者の利益として判断し、強制するかはなかなか難しい問題である。
被告人である医師は、殺意を持って塩化カリウムを注射したとあるが、はたして本当にそうなのだろうか。確かに、注射は殺そうと思ってした行為であるため殺意があったのは間違いないが、その殺意の中身さまざまな気持ちがからみ合ってできているように思えるため、世間一般でいう殺意と同列には扱えない気がする。そもそも被告人がこのような行動を起こしたのは、患者家族からの依頼であり、医師でないと安楽死が実行できないから家族も依頼したのである。私は、その依頼を意識のない患者の意思として受け取り、医師の行動は合法的な安楽死であったと考え、無罪とするべきだと感じた。
4.裁量権を持つということ
これまで、大きく3つの事例を見てきた。これらの中で大きなテーマとなっていたのは、裁量権である。朝日訴訟では、官僚の裁量権について問われ、神戸高専剣道実技拒否事件では教師の裁量権、東海大学安楽死事件では医師の裁量権が問われていた。これら3つの裁量権が与えられている職業は、上に立つ者であり、専門的な判断が必要とされている。このような専門的な判断ができる人達に裁量権があることで、しっかりとまとまり、方向性を定めていくことが出来るのだが、時に裁量権を利用して支配してしまうという面も存在する。こうなると、相手の事情を考えずに主観的な判断しかできず、今回のように争わなくてはいけない場面が出てきてしまうのだ。なので、このような人達は、相手にも権利が存在するのだということを頭の片隅に置いて、相手と向き合い、納得して次のステップへと進んでいくよう責任をもって権利を行使してもらいたい。
5.三権分立は成り立っているのか
日本は三権分立の体勢をとっており、「国会」「内閣」「裁判所」がそれぞれ監視しあっている。その中でも、法律について判断するのが裁判所である。しかし、この裁判所にも力を発揮することが出来ない場面がいくつかある。まず、部分社会論と呼ばれる学校の校則や政党規則などの一般の市民秩序とは直接関係しないものに関しては、違憲審査権を行使できず「司法権の限界」の一つとされている。もう一つは、国家統治の基本に関する高度な政治性を有する国家の行為については、裁判所は判断しないとする統治行為論がある。代表的な判例としては、立川砂川基地を憲法9条違反と訴えた砂川事件があるが、これも、判断していない。日本は、憲法を裁判する際、具体的な事例がないと判断しないとしている。しかしこの砂川事件は具体的な事例であるにも関わらず判断していないのに違和感を覚えるが、アメリカとの今後の関係性や憲法9条を保持するのではなく、改憲するといった判断になった場合のことを考えると、混乱を防ぐ目的が合ったのではないかと推測する。ただ、司法権の立場であるはずの裁判所が、政治的な背景を気にして判断しないというのは、監視の役割を果たしておらず、三権分立が崩壊しかけていることを表しているようにも思える。
6.裁量行為はいいものか
個人的には、裁量行為は権利の私物化になりかねないと考えている。羈束行為のように裁量を認めなければ、その判断に従うだけでいいため、公平性があるのに対し、裁量行為の場合は、権利を行使する者の価値観によって判断されてしまうため、いろいろなところでルールが変わってきてしまい、混乱を招く。また、気に食わないという理由で判断してしまう者も出てこないとは考えられないため、あまり裁量を認めないほうがよいと考える。しかしながら、相手の事情に合わせて判断できるという利点もあるため、一概にも悪いとは言えないというところがなかなか考えどころである。
【出典URL】
・法学館憲法研究所
http://www.jicl.jp/now/date/map/33.html
・安楽死−東海大学病院安楽死事件をめぐって−
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/8692/anrakushi.html
山田順也
テーマ「人権と裁判所の権限」
15J118021
山田 順也
結論
人権は、保障されるべきで裁判所の権限はもっと強くすべきである。
統治行為に関する判例
(1)砂川事件
1957年7月8日に特別調達庁東京調達局が強制測量をした際に、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法違反で起訴された事件。
争点
@外国軍隊の駐留は憲法九条二項(日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。二 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。)の戦力不保持に反するか。
A安保条約は違憲審査の対象となるか。
B米軍駐留は合憲か。
裁判所の見解
@憲法九条二項は固有の自衛権を否定せず、憲法の平和主義は無防備・無抵抗を定めたものではない。憲法九条は、戦力不保持によって生ずる防衛力の不足について、他国に安全保障を求めることを禁じていない。
A安保条約は、国家の存立の基礎に極めて重大な関係を持つ高度の政治 性を有し、内閣・国会の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなし、その内容が一見極めて明白に意見無効と認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にある。
B米軍の駐留は、憲法九条・九八条二項(この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又 は一部は、その効力を有しない。二 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。)・前文の趣旨に適合こそすれ、意見無効が一見極めて明白であるとは認められない。このことは、憲法九条二項が自衛戦力の保持をも許さないものか否かにかかわらない。
判決
統治行為論採用として一審の無罪判決を棄却し地裁に差し戻した。差し戻し審の結果、有罪判決が確定した。
(2)苫米地事件
衆議院の解散により衆議院議員の職を失った原告・苫米地義三(とまべちぎぞう)が、任期満了までの職の確認と歳費の支給を訴えて争った事件。原告の名をとってこう呼ばれる。また、判決は苫米地判決とも呼ばれる。統治行為論が大きな争点となった。
争点
衆議院の解散は裁判所の違憲審査の対象となるか。
裁判所の見解
直接に国家統合の基本に関する、高度に政治性のある国家行為は、たとえそれが法律上の争訟となり、これに対する有効無効の判断が法律上可能な場合であっても、裁判所の審査権の外にある。そして、その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねられている。この司法権に対する制約は、三権分立の原理に由来した、司法権の憲法上の本質に内在する制約である。衆議院の解散は、極めて政治性の高い、国家統治の基本に関する行為であり、裁判所の審査権の外にある。これが訴訟の前提問題として主張されている場合においても同様である。
判決
上告を棄却した
この二つの判例に対する私見
この二つの判例は統治行為が大きくかかわっている。統治行為とは、高度に政治的な決定についても裁判所が最終的に白黒をつける、というのでは、裁判官の権力があまりに強大なものになる。また、その種の政治的決定の合憲性が後から裁判で否定されると、重大な混乱を招く。だから、高度に政治的な決定に問題点があるとしても、裁判ではなく、政治の現場で解決していくべきだということである。しかし、統治行為にはおかしな点があると私は考えている。それは政治の現場で解決していくべきだと言っているが政治的現場で解決できていないから裁判が起こるのであるので、裁判官の権力を強くすればいいと思った。裁判官が強くなっても最高裁の裁判官は、天皇が任命しているが国民が決めるようにして、裁判官が不当なことをしたら国民がやめさせるようにすれば裁判官の権限が強くなっても問題ないと私は考え裁判所は統治行為についても裁判をして判断すべきであると思う。また砂川事件の判決は正しいと思うが、苫米地事件は衆議院になって任期までは保障すべきであると私は思った。憲法七条・六九条解散どちらにせよ苫米地氏に損害を与えることに変わりはないので裁判所はしっかり裁判し損害賠償を認めさせる判決を出すべきであると思った。
裁量行為に関する判例
(1)朝日訴訟
1957年(昭和32年)、戦前から重度の結核で国立岡山診療所に入院していた朝日茂氏は、生活保護法に基づく医療扶助及び生活扶助を受けていたところ、実兄から毎月1500円の送金を受けられることになった。当時の社会保険事務所長は、日用品費の生活扶助を600円打ち切る金額900円を医療費の一部として、朝日氏に負担させる保護偏向処分をした。月額600円の基準金額が生活水準を維持するに足りない違法なものであると主張して、却下裁決の取り消し訴訟を提起した。朝日氏は、上告中に死亡した。朝日氏の養子夫婦は、相続人として訴訟の継承を主張した。
争点
@生活保護受給権は相続の対象となるか。
A生存権の法的性質はどのようなものか。
裁判所の見解
@生活保護受給権は、一審専属の権利であって、相続の対象になりえない。
A憲法二十五条一項は、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生 活を営み得るよう国政運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に具体的権利を贈与したものではない。具体的権利としては、生活保護法によって初めて与えられている。何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、厚生大臣の合目的的な裁量に委されており、その判断は直ちに違法の問題を生じない。ただ、現実の生活条件を無視して著しく低い基準を設定する等憲法及び生活保護法の趣旨・目的に反し、裁量権の限界を超えた場合又は裁量権を濫用した場合は、違法行為として司法審査の対象となる。最高裁は、憲法二十五条が国会や行政をコントロールする力をまったく欠いた規定であるとは考えておらず、その意味で最高裁の立場は、憲法二十五条を国の努力目標を定めただけとする「プログラム規定説」ではないとした。それは、だれの目から見ても明らかな判断ミスを国が犯した場合には、裁判で意見と評価される場合があるからである。
判例
朝日氏の負け
(2)堀木訴訟
原告の女性は、視力障害者であり、1970年(昭和45年)当時の「国民年金法」に基づいて障害福祉年金を受給していたが、離婚した後自らの子供を養育していたことから生別母子世帯として児童扶養手当も受給できるものと思い知事に対し請求した。しかし、当時の児童扶養手当制度には手当と公的年金の併給禁止の規定があったことから、知事は児童扶養手当の請求を退けた。そこで、原告はこの処分を不服として提訴した。
争点
併合禁止は、平等違反ではないか
裁判所の見解
憲法二十五条の規定は、国権の作用に対し、一定の目的を設定しその現実の為の積極的な発動を期待するという性質のものである。しかも、「健康で文化的な最低限度の生活」なるものは、極めて抽象的・相対的な概念であって、その具体内容は、その時々における文化の発達の度、経済的・社会的条件、一般的な国民生活の状況等との相関関係において判断されるべきであり、また、「国の財政事情を無視することができず」「高度の専門的技術的な考察とそれにも基づいた政策的判断を必要とするものである」。一般的にいって、ふたつの障害ないし事故を有していたとしても、「稼働能力の喪失又は低下の程度が必ずしも事故の数に比例して増加するといえないことは明らかである」から、「社会福祉給付の全般的公平を図るため公的年金相互間における併給調整を行うかどうかは、立法府の熱量の範囲に属する事柄と見るべきである。」とした。
裁判所の判決
堀木氏の負け
(3)マクリーン事件
アメリカ合衆国国籍を有する原告ロナルド・アラン・マクリーンは、1969年5月10日に在留資格(在留期間1年)の上陸許可の証印を受けて日本に入国した。同在留資格は他の資格に含まれない「その他すべて」を網羅するもので、許可の際に活動内容(目的・職種・勤務先等)が個別に指定されるところ、マクリーンはある語学学校の英語教師としての稼働許可を受けたが、17日間で入国管理事務所に届け出ることなく別の職場に勤務先を変更した。また、在留中にデモなどに参加した。
翌1970年に1年間の在留期間更新の申請をしたところ、許可はなされたが活動内容は「出国準備期間」とされ、期間は120日間に短縮されたものであった。これを受け、マクリーンは在留期間1年を希望して再度の在留期間更新申請に及んだが、同再申請は不許可となった。
そこで、マクリーンはこの処分の取消しを求めて法務大臣を被告として提訴した。
争点
@外国人には日本への入国・在留の権利が認められるか。
A外国人の人権享有主体性。
B外国人の政治活動の自由
裁判所の見解
@憲法二十二条一項は、国内での居住・移転の自由を保障するもで、外国人の入国について規定するものではない。これは国際慣習法と同様の立場であり、外国人には入国の自由や在留ないし引き続き在留する権利は憲法上保障されていない。
A基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみがその対象と解されるものを除き、日本に在留する外国人にも等しく及ぶが、この保証は外国人在留制度の枠内で与えられるにすぎない。
B政治活動の自由は、日本の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動等外国人の地位に鑑み認めるのが相当でないものを除き、その保証が及ぶが、出入国管理令上、在留期間更新につき法務大臣は広い裁量を有し、在留中の政治活動を理由に更新を拒否しても違法ではない。
裁判所の判決
マクリーン氏の負け
この三つの判例に対する私見
朝日訴訟は兄弟ともに貧乏であり弟は重度の結核で働くこともできず兄からなけなしの仕送りをされていたからと言って生活補助額を減額するのは兄の負担が大きくなるのと最低限度の生活を送るのに困難という理由から朝日氏をかたせるべきであったと私は思った。確かに国民の税金で生活保護は賄われているので厳格に審査をすべきだと思うがこの事件は明らかに病気で働ける状況ではなく、兄も養うだけのお金がないことからこの結論に至った。
堀木訴訟も併給を禁止するのは、不平等であり違法であると私は思った。なぜなら、補助してもらわないと苦しいから補助してもらってるのにそれを併合禁止にするのは酷だと思ったからである。
マクリーン事件は、政治活動をしたからと言って在留期間の延長を許さないのは人権侵害であると私は思った。外国人が政治活動をしたからと言って法務大臣が自分の裁量で決めるのは、差別であり許される行為ではないので裁判所はマクリーン氏を勝たせるべきである。
部分社会論に関する判例
神戸高専剣道実技拒否事件(エホバの証人)
公立学校の学生が、自己の宗教的信条に反するという理由で、必修科目である剣道の履修を拒否したため留年処分となったうえに、次の年度も留年処分となったため、学則にしたがいその退学処分にした処分に対して、違法であると取消しを求めた行政訴訟(抗告訴訟)である。
争点
必修の体育科目の一部である剣道の授業を拒否した学生に対して、学校側はレポート提出等の代替措置を一切認めず欠席扱いとし、最終的には退学とした学校側の措置は裁量権の逸脱である。学校側による剣道の履修の強要は、日本国憲法が保障する信教と良心の自由を侵害する行為である。
裁判所の判決
一連の学校側の措置については、『信仰の自由や宗教的行為に対する制約を特に目的とするものではなかったが、学生の信仰の自由に対して配慮しない結果となり、原級留置処分の決定も退学処分の選択も社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超えた違法なものといわざるを得ない』として、学校側の処分取り消しを決定した。
この判例に対する私見
神戸高専剣道実技拒否事件に関しては、裁判所の判断は正しいと思います。しかし、似たような事件で富山大学事件というものがあって大学生の単位を認めないことを争った事件があり学校の方針に従わなかったのが悪いとして裁判所では、部分社会論のことは判断できないとして大学側に判断を任せたというのはおかしいと私は思った。なぜなら、これが卒業に関係するなら判断を裁判所が行うというのは、卒業に関係あるなしに関係ないと思ったからです。
自己決定権とパターナリズムに関する判例
エホバの証人・輸血拒否事件
「エホバの証人」の信者Aは、無輸血手術の実績を持つ病院(東京大学医科学研究所附属病院。以後医科研)に入院し、「免責証書」(Aは輸血を受けることができないこと及び輸血をしなかったために生じた損傷に関して医師及び病院職員等の責任を問わない旨が記載されていた。絶対的無輸血。)に署名した上で、医師Bの手術を受けた。医科研は、輸血拒否の意思を尊重しつつも、生命の危険が生じた場合には輸血する(相対的無輸血)との方針を採っていた。Bらはこの方針を説明せず手術に着手し、手術中、輸血をしない限りAを救うことができない可能性が高いと判断して輸血をした。手術は無事終了し、Aは退院した。
争点
自己決定権の侵害
病院のパターナリズム
救命するのは第一の目標である
裁判所の見解
患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、いかなる場合にも輸血を受けることを拒否するとの固い意思を有しており、輸血を伴わない手術を受けることができると医科研に入院したことを医師たちは知っていたなど本件の事実関係の下では、医師は、手術の際に輸血以外には救命手段がない事態に至ったときには輸血するとの方針を採っていることを説明して、手術を受けるかどうか患者自身のゆだねるべきであったと解するのが相当であるとした。本件では病院のパターナリズムの説明がなく、その時点で患者の自己決定権を侵害したとして病院が責任を負うべきであるとした。
裁判所の判決
患者の勝ち、病院は民法七百十五条に基づく不法行為責任を負う。
この判例に対する私見
この判例に私は賛同する。なぜなら、輸血が必要になる可能性が手術前からわかっていたにもかかわらずそれを患者に伝えず、この事例ではそういう事態に至り病院側の患者の意見を無視した勝手なおせっかい(パターナリズム)により宗教上の信念に反する輸血が行われたことは、エホバの宗教を否定することにもなり患者に損害を与えるからであると考えたからである。
まとめ
裁判所が国に対して裁判できる原則
統治行為
部分社会の法理
裁量行為
自律権
+
付随的審査
↓
裁判できる
付随的審査とは具体的なことがないといけないということである。この判例は、警察予備隊違憲訴訟であり実際に憲法九条のようなことにあっていないので裁判できないとした。
まとめとしての私見
裁判所は行政にあまくて、個人には厳しく裁判をしているというのが分かった。一見明らかに逸脱・濫用がないと裁判すら行ってくれないというのは明らかにおかしいと思う。統治行為・部分社会・裁量行為・自律権は裁判所には、判断することができず現場の判断に任せるというのはあまりに無責任に思える。
信教の自由は裁判において強い力があるということが分かった。また、判例と自分の見解に結構食い違いがあったことに驚いた。そのほかの私見はそれぞれの判例後に書いた通り。
参考文献
砂川事件 - Wikipedia
ja.wikipedia.org
マクリーン事件 - Wikipedia
ja.wikipedia.org
統治行為論 - Wikipedia ja.wikipedia.org
神戸高専剣道実技拒否事件 - Wikipedia
ja.wikipedia.org
苫米地事件 - Wikipedia
ja.wikipedia.org
朝日訴訟 - Wikipedia
ja.wikipedia.org
堀木訴訟 - Wikipedia
ja.wikipedia.org
「エホバの証人」輸血拒否事件 上告審www.cc.kyoto-su.ac.jp
プログラム規定説 - Wikipediaja.wikipedia.org
富山大学事件 - Wikipediaja.wikipedia.org
警察予備隊違憲訴訟 - Wikipediaja.wikipedia.org
自律権(議員自律権)とは -意味/解説/説明 | 弁護士ドットコムで法律用語をわかりやすくwww.bengo4.com
「はじめての憲法学第3版」 三省堂 編著者:中村 睦男
「新・判例ハンドブック(憲法)」 日本評論社 編者:高橋 和之
木村圭佑
人権と裁判所の権限について
神戸高専剣道実技拒否事件の判例はエホバの証人である学生が最高裁の判決で勝利した。
エホバの証人である学生は自己の宗教的信条の理由で、必修科目である剣道の履修を拒否したため、学則に従い退学処分になった。エホバの証人である学生は退学処分に対して、違法であると取り消しを求めた行政訴訟であり、学校教育における信教の自由の保障が争われた事件である。信教の自由をめぐる事件は神戸高専剣道実技拒否事件以外にも輸血拒否事件なども挙げられる。
「原告(エホバの証人)
・必修の体育科目の一部である剣道の授業を拒否した学生に対して、学校側はレポート提出等の代替措置を一切認めず欠席扱いとし、最終的には退学とした学校側の措置は裁量権の逸脱である。
・学校側による剣道の履修の強要は、日本国憲法が保障する信教と良心の自由を侵害する行為である。
・他の学校では同様な格闘技の授業を拒否する学生に対し代替措置が行われている。また高等専門学校において剣道実技の履修が必須のものとはいえない。
被告(学校側)
・学校入学時の募集要項に必修科目の事が記載していたはずであり、単位として取得できなければどのような措置になるかが周知されていたと言える。そのため履修拒否することは最初から予期していたはずだ。
・原告が主張する代替措置を学校が認めたら、特定の宗教の信仰を救助したことになり、日本国憲法20条3項の政教分離に反することになる。
・信教の自由による行為が常にその自由が保障されるというものではない。信教の自由を制限して得られる公共的利益の方が学校運営上必要である。」
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wikipedia(神戸高専剣道実技拒否事件)引用 「」で囲んでるところを引用
最高裁判所は、「高等専門学校においては、剣道実技の履修が必須のものとまではいい難く、教育目的の達成の代替的方法によってこれを行うことも性質上可能」とした。 「剣道実技への参加を拒否する理由は、信仰の核心部分と密接に関わる真しなものであった」とした。「信仰上の理由による剣道実技の履修拒否の結果として、他の科目では成績優秀であったのにもかかわらず、原級留置、退学という事態に追い込まれたこと」は「その不利益が極めて大きい」として退学処分を違法とした。
自分はこの事件について、やはりこの判例は学校側を勝たせるのではなくエホバの証人である学生を勝たせるべきであると思う。剣道必修は、学校側は事前に説明しており、学生側はそれを知っていて自由意思で受験・入学をしたが、必修である剣道実技をやらないだけで学校を退学にさせるのは間違っていると考える。学生は代替措置としてレポートの提出を求めたのに学校はそれを受け入れないのはおかしいと思いました。また学校側は、代替措置について何ら検討をすることもなく原級留置処分をし、さらに、不認定の主たる理由及び全体成績について勘案することなく、二年続けて原級留置させたことは裁量権の範囲を超える違法なものと考えることもできる。憲法19条の思想及び良心の自由は「思想及び良心の自由はこれを侵してはならない」そして、憲法20条1項(信教の自由)は「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と定められているので、学校側は憲法に反していると自分は考えます。
朝日訴訟の判例は原告である朝日茂さんが国に負けてしまった。
戦前から重度の結核で、国立岡山診療所に入院していた朝日茂氏は生花保護法に基づく医療扶助及び生活扶助を受けていたところ、実兄から毎月1500円の送金を受けられることになった。当時の社会保険事務所長は、日用品費の生活扶助を600円打ち切る残額900円を医療費の一部として、朝日氏に負担させる保護変更処分をして、訴訟を起こした事件である。
「原告の主張
・原告は、当時の「生花保護法による保護の基準」による支給基準が低すぎると実感し、日本国憲法25条、生活保護法に規定する「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障する水準には及ばないことから、日本国憲法違反にあたると主張した。」
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wikipedia(朝日訴訟)引用 「」で囲んでるところを引用
最高裁は、憲法25条1項の「規定はすべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を付与したものではない。具体的権利としては、憲法の規定の趣旨を実現するために制定された生活保護法によってはじめて与えられているというべきである。」 「健康で文化的な最低限度の生活なるものは、抽象的な相対的概念であり、その具体的内容は、文化の発進、国民経済の進展に伴って向上するのはもとより、多数の不確定的要素を総合考慮してはじめて決定できるものである。したがって、何か健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、いちおう、厚生大臣の合目的的な裁量に委ねられており、その判断は、当不当の問題として政府の政治責任が問われることはあっても、直ちに違法の問題を生ずることはない。 ただ、現実の生活条件を無視して著しく低い基準を設定する等憲法及び生活保護法の趣旨・目的に反し、法律によって与えられた裁量権の限界を超えた場合または裁量権を濫用した場合には、違法な行為として司法審査の対象となることをまぬかれない。」本件判断は、与えらえた裁量権の限界を超えたとは言えないとした。
・最高裁判決は、「健康で文化的な最低限度の生活」になるものは、抽象的で相対的な概念であり、認定作業は、厚生大臣の合目的的な裁量に委ねており、その判断に際して、政治責任が問われることはあっても、直ちに違法とはならないとした。
・そして、現実の生活条件を無視して「著しく低い」基準を設定する等、憲法及び生活保護法の趣旨・目的に反し、法律によって与えられた裁量権の限界を超えた場合または裁量権を濫用した場合には、違法な行為として司法審査の対象となるとした。
朝日訴訟
→抽象的な相対的概念である
→純粋な意味でのプログラム規定説ではない
自己決定権のあり方・パターナリズム
国民の権利 知識人の裁量
製造権 官僚
信教の自由 教師
生死の自己決定 医師
今回の朝日訴訟の判例について自分がどのように思うかというと、この事件は国を勝たせるのでなく、原告である朝日茂さんを勝たせるべきであると考える。なぜなら朝日さんは結核であり、お仕事ができなくて日本国政府から一ヶ月600円の生活保護給付金と医療扶助を受領して、国立岡山診療所で生活していて、600円では生活できないと保護給付金の増額を求めたのに、政府はその申し出を却下したことには自分は納得できないと思いました。仕事をしたくてもできない状態なのに、保護給付金の増額を却下したことは、生活保護法第一条の「国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障する」 第二条「すべて国民は、この法律の定める要件を満たす限り、この法律による保護を、無差別平等に受けることができる」 第三条「この法律により保障される最低限度の生活は、健康で文化的な生活水準を維持することができるものでなければならない」ことに違反しているものと自分は考えます。
砂川事件は第一審はデモ隊7人は無罪を言い渡されたが、最高裁判決は破棄して、国側が勝利した。
在日米軍基地の飛行場の拡張に反対するために、でも隊員の一部は、米軍基地の金網の柵を破って突入した。そのことが、(安保条約を維持するためにつくられた)「刑事特別法」に違反するとされ起訴された刑事事件である。最高裁は憲法9条違反に関する議論を提示することなく、事案を第一審に差し戻した。差し戻し後に有罪が確定した。
最高裁判所は、「本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国として我が国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであって、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点が少なくない。
・在日米軍や、国会の自律権の問題については、司法審査を行わない。しかし、砂川事件では、「一見極めて明白違憲無効かどうか」の審査はできる可能性を残したことから、「純粋な」意味での「統治行為」論ではないと「も」言える。
それ故、違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従って、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査の範囲外のものであって、それは第一次的には、条約の審査権を有する内閣及びこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解するを相当とする。」とした。
統治行為とは、「直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為」で、「法律上の争訟」として裁判所による法律的な判断が理論的には可能であるのに、事柄の性質上、司法審査の対象から除外される行為をいう。
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外交・貿易問題については日本は裁判しないということ。つまり、部分社会論である。
つまりこれは日米安保に関する司法審査を、ほぼ否定したとされる事例である。
また、統治行為論で抑えておくべき判例は砂川事件以外にも苫米地事件である。
昭和27年8月27日、第3次吉田内閣による抜き打ち解散が行われたが、同解散が憲法条のみに拠ったこと等を違憲として、当時の当時に衆議院の苫米地氏が、自分の歳費等の返還を求めて、訴訟を提起した事件である。
最高裁判所は、「わが憲法の三権分立の制度のもとにおいても、司法権の行使についておのずからある限度の制約は免れないのであって、あらゆる国家行為が無制限に司法審査の対象となると即断すべきではない。直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為のごときはたとえそれが法律上の争訟であっても、かかる行為は裁判所の審査権の外にあり、その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治的判断に委ねられている」とした。
つまりこれは、衆議院の解散に関する是非を審査することを否定した事例である。
苫米地事件は内在的制約説を論拠に、がっつりと統治行為論を打ち出しているが、砂川事件は統治行為論と自由裁量行為をたして二で割ったような判断をしている。
砂川事件・・・統治行為は条約は裁判所は判断しない。
苫米地事件・・・統治行為は政治は裁判所は判断しない
砂川事件について自分がどのように思うかというとやはりデモ隊である学生7人を勝たすべきであると考える。学生は日米安保条約に基づく刑事特別法違反の容疑で逮捕されたが、2年後に東京地裁は学生7人を無罪判決にして、米軍残留は憲法9条に違反するとしたが、翌年12月に検察庁が跳躍上告し、最高裁大法廷が一審判決を破棄して、その後の地裁の差し戻し審で7人は罰金2000円の逆転有罪となったことに自分は納得ができない。デモを起こすのは自由だし、戦争が終わったにもかかわらずアメリカが日本の
砂川町の米軍基地の拡張をするのは自分では憲法9条に反すると考えます。
(感想)中江先生の基礎教養演習の授業受けてみて、一年生のときに習った憲法の内容をさらに詳しく教えてもらうことができてよかったです。自分は将来公務員になり市役所で働きたいと思っているので、しっかりと基礎教養演習で公務員になるための基礎をしっかりと身につけて将来に向けて頑張っていきたいと思います。秋期の基礎教養演習でもよろしくお願いします。
嶋田 健
「テーマ」人権と裁判所の権限
裁判所の権限は法律で行政機関を制限しないといけない
統治行為について
まず最初にに統治行為について考えていきたいと思います。まず、統治行為論とは国家統治の基本に関する高度な政治性を有する国家の行為については、法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても、これゆえに司法審査の対象から除外すべきとする理論のことをいいます。裁判所が法令個々の違憲審査を回避するための法技術として説明されることが多いが、理論上は必ずしも憲法問題を含むもののみを対象にするわけではないものです。すなわち、憲法81条の定める違憲立法審査制度の下で、裁判所は原則として国家のすべての行為について合憲性の審査を加えることができるが、そこには一定の限界があり、統治行為にあたるものについては審査を控えるべきだとするという考えです。また統治行為論にあたる事件として苫米地事件があります。この事件は衆議院の解散によって衆議院議員の職を失った苫米地さんが衆議院の内閣不信任決議を経ずに内閣によって一方的にされた衆議院の解散と歳費の支給を訴えて合憲性を争った事件です。この事件の当時は憲法7条による解散の事例がなく解散権による論争がおきてしまいました。この苫米地事件の判決は原告敗訴となったがこの判決は適切だと考えます。なぜなら、衆議院の解散が、その依拠する憲法の条章について適用を誤った故に、法律上無効であるかどうか、これを行うにつき憲法上必要とせられる内閣の助言と承認に欠点があったが故に無効であるかどうかのことは裁判所の審査権に服しないものと考えられるからです。そして、裁判所の権限としては統治行為を採用して違法性の判断を回避したため、裁判所の権限の外にあると考えます。また衆議院の解散に関連した事件は砂川事件があります。この事件はアメリカ合衆国軍隊の駐留が、憲法九条二項前段の戦力を保持しない旨の規定に違反し許すべからざるものであるということを前提として、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約三条に基く行政協定に伴う刑事特別法二条が、憲法三一条に違反し無効であるというのであります。裁判所は、国内法としての一般条約を含む一般の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限をあります。しかし憲法の三権分立の理念、司法権の性質、行使の仕方、その効果に照らし、例外として、ある種の国会各院の行為または政府の行為で、裁判所によってそれが違憲であると決定されるに適しないため裁判所の審査権の対象から除外されるべきものがあります。私は欧米の憲法上の統治行為や裁判所の審査に服しない高権行為、もしくは政治問題などと呼ばれるものについて知るところがないが、日本には、統治行為の観念はこれを定義しまたは明らかにすることは困難であるとしつつもこの名の下に国会の行為または政府の行為のうちには裁判所の違憲審査の対象とされるべきでないものが存すると思います。
輸血拒否事件
次にパターナリズムについて考えていきたいと思います。パターナリズムの定義は強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるように、本人の意志に反して行動に介入、干渉することをいいいます。パターナリズムの類別にはパターナリズム強いパターナリズムと弱いパターナリズム、直接的パターナリズムと間接的パターナリズムに種類区分がされています。これからパターナリズムの区分の見方ができるか判例で検証していきたいです。パターナリズムに関するものとしてキリスト教系の新宗教の組織のエホバの証人が挙げられます。川崎学童輸血拒否事件では小学生の男児が神奈川県川崎市高津区で交通事故に遭い、両親が輸血拒否したことにより死亡したとされる事件で裁判所から略式命令が下され、児童の両親は無罪、運転手が業務上過失致死罪で起訴され罰金15万円の有罪となりました。エホバの証人の見解では、献血については、輸血に加担するものとして、行わないように信者に指導しているため、エホバの証人が献血を行うことは教義上ないと思います。そしてこの事件は医療におけるパターナリズムに関する問題だと思います。またこの事件は憲法第20条の信教の自由の保障に該当しているため無罪と主張できると考えます。結果として輸血拒否事件は輸血するとの方針を採っていることを説明しないまま手術を施行して輸血をした場合において医師の不法行為責任を認めました。また輸血拒否問題は自己決定権として捉えることができると思います。なぜなら自己決定権とは自らの生命や生活に関して、権力や社会の圧力を受けることなく,本人自身が決定できる権利だからです。また基本的人権の尊重は自由や平等など誰もが持っている権利です。これは憲法によって保証されている。例えば住む場所や職業を自由に選ぶことができる居住・移転の自由、職業選択の自由。自分の意見を自由に述べる事ことができる言論・集会の自由。法の下で平等に扱われる法の下の平等など。しかしこの大切な権利が侵されたら大変なことになります。また権利同士がぶつかり合ったときにトラブルになるかもしれません。そんなときに助けてくれるのが裁判所です。裁判所では法律に基づい争いごとを解決したり罪のあるなし判断したり国民の権利を守ります。次に朝日訴訟についてみていきたいと思います。この事件は生活保護処分に関する裁決の取消しを求めて争われた行政訴訟です。争いの事実は長期重症結核患者として国立岡山療養所に入所していた朝日茂が 1956年、長年音信不通であった実兄から月額 1500円の仕送りを受けることになり、これに対し津山市社会福祉事務所長が生活保護の変更決定を行い同年8月以降 600円の生活扶助 (日用品費) を廃止し,代りに送金分から 600円を渡し、残余の900円を医療扶助の一部負担に充当したことから始まりました。この事件は厚生大臣が最低限度の生活水準を維持するに足りると認めて設定した保護基準による保護を受け得ることにあると思います。もとより、厚生大臣の定める保護基準は、憲法8条2項の事項を守ったものであることを要し、結局は憲法の定める健康で文化的な最低限度の生活を維持するにたりるものでなければならないからです。しかし、健康で文化的な最低限度の生活なるものは、抽象的な相対的概念であり、その具体的内容は文化の発達、国民経済の進展に伴つて向上するのはもとより、多数の不確定的要素を綜合考量してはじめて決定できるものであるからです。したがって、何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、一応、厚生大臣の合目的的な裁量に委されているため、判断は当不当の問題として政府の政治責任が問われることはあってもすぐに違法の問題を生ずることはないと思います。結果として原判決は、保護基準設定行為を行政処分たる覊束裁量行為であると解し、なにが健康で文化的な最低限度の生活であるかは、厚生大臣の専門技術的裁量に委されていると判示しその判断の誤りは、法の趣旨、目的を逸脱しないかぎり、当不当の問題にすぎないものであるとしました。日本国内でプログラ規定説が問題となった訴訟としては、社会保障立法における併給禁止規定の合憲性を争った堀木訴訟などがあります。これらの最高裁判所の判例はプログラム規定説に立っているが、両訴訟とも裁量権の著しい逸脱など、一定の場合に第25条の裁判規範性を認めていることから、純然たるプログラム期定説ではないとも言われるそうです。
裁量行為について
次に部分社会論について考えていきたいと思います。部分社会論の定義は日本の司法において、団体内部の規律問題については司法審査が及ばないとする法理です。部分社会論に関連する用語としては三菱樹脂事件が挙げらられるます。私企業が試用期間にある労働者の思想、信条を理由として本採用を拒否したところから起こった裁判事件で、私人相互間における憲法上の人権保障の効力、労働者の思想・信条の自由や法の下の平等と私企業の財産権、営業の自由との関係を問題とすることによって、日本の資本主義の枠やあり方を問題とした事件でした。私はこの事件に対しては企業側が勝つと思います。なぜなら人は基本的人権の尊重がありそして思想の自由があるからです。企業側が好ましくない思想をもった人を採用か不採用かを決めるのは企業に採用の自由があるため最高裁判所の判決は納得できるため適切な判断だと私は思います。裁量行為とは行政行為のうち、要件または内容について法律が一義的に明確な概念で定めていないか、まったく定めていない場合、または当該行政行為を行うことができると定めている場合に、行政庁の裁量に基づいてなされる行為です。ここでは行政裁量と覊束行為の二つに分けてみていきたいとも思います。まず行政裁量とは行政行為を行う際に法律により行政機関に認定された判断余地のことです。しかし、行政機関に裁量は良いことばかりではないと思います。なぜなら行政機関を法律で拘束しなければ行政機関は国民の権利を侵害をする恐れがあるからです。しかし政府に判断の余地があったとしてもすぐに国民の権利の批判や内閣へのコントロールなど不当な行為を許さない力は様々な形で存在すると思います。そのため法律ばかりに頼らなくても人権の保障は可能だと思います。次に覊束行為とは行政庁の行為のうち,自由裁量の余地のない行為。法の規定が一義的であって,行政庁はそれをそのまま執行しなければならない行為という定義があります。覊束裁量は法律が客観的な基準を定めていて、その基準に従うことを求めているが問題点があると私は思います。その理由は覊束裁量では行政行為が違法と判断されやすいからです。だが自由裁量では裁量の逸脱や濫用がないと不当行為にとどまり違法とは評価されないが、いずれも司法審査に服することは同じだと考えます。
まとめ
今回10個のキーワードを調べていく中でたくさんの専門用語がありました。自分で積極的に調べてことは自分のためにもなるし将来知ってて損はないと思うのでこれからも専門知識を増やしていけるように頑張って努力していきたいです。
参考文献:弁護士ドットコム、裁判所COURTS IN JAPAN
六法、Wikipedia
足立シオン
人権と裁判所の権限
裁判所は統治行為や部分社会論、裁量行為において、憲法81条において判断を下すべきである。
なぜこのような考えに至ったのかこれから述べていきたい。
《1統治行為論と部分社会論》
裁判所は憲法81条によって一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限をもっている。しかし、裁判所は統治行為論と部分社会論については判断しないということを行っている。
ではここで、統治行為論と部分社会論について少し詳しく説明していきたいと思う。
まず、統治行為論とは、政治部門の行為のうち法的判断が可能であってもその高度の政治性ゆえに司法審査の対象とされない行為を言いう。
部分社会論とは、たとえば大学は、国公立たると私立たるとを問わず、一般市民社会とは異なる特殊な部分社会を形成し、一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題は、司法審査の対象から除外されるべきであるとする、最高裁昭和52年3月15日判決の考え方を言う。後者の例としては、さらに、宗教団体、政党などが挙げられている。
この二つの論についてなぜ裁判所は判断を回避するのであろうか。
裁判所は統治行為について「法的問題を含み、その面で司法部による審査が可能であるにもかかわらず、高度の政治性を有するために司法部による審査には服し得ず、従って、政治過程における合法性の統制にしか服し得ない」
と考えている。
また、部分社会論については、“独自の規範がある団体の内部には司法審査はしない”と考えている為、裁判所は判断回避をしている。
これに対して、以下で述べる3つの判例を絡めて私の意見を述べていきたい。
《2砂川事件》
この事件は立川にあった米軍基地を拡張することに反対したデモ隊の一部が米軍基地の柵を壊し敷地内に侵入したことからアメリカと日本の安全保障条約に違反したということで起訴されたもので、裁判での争点が“アメリカ軍の日本駐留は憲法第9条の集団的自衛権に反している”というものだった。
しかし最高裁判所は日米安全保障条約は、主権国としての存立の基礎に極めて重大な関係を持つ高度の政治性を有しており、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権範囲外であるので判断しないとした。
この判決に対して私は、違憲審査権を裁判所は所持しているにもかかわらず判断を回避したことに国会、内閣、裁判所の3つが互いに互いを判断し合うという三権分立が成り立っていないのではないかと感じた。
《3裁量行為とエホバの証人事件》
裁量行為とは行政行為のうち,要件または内容について法律が一義的に明確な概念で定めていないか,まったく定めていない場合,または当該行政行為を行うことが「できる」と定めている場合に,行政庁の裁量に基づいてなされる行為である。
そして裁量行為には羈束裁量と自由裁量の二つに分類され、羈束裁量とは法律の客観的な基準によって、裁量を効かせられる範囲が決まっているものをいい、自由裁量とは縛りがなく、行政庁の政策的・専門的な判断による裁量を発揮できるものをいう。
エホバの証人という判例はこの裁量行為と密接に関わっている事件である。
事件の概要は、1990年に神戸市立工業高等専門学校に入学した学生には、「エホバの証人」の信者5名がいた。この年に同校は新校舎に移転したことにともない、体育科目の一部として格技である剣道の科目を開講した。この科目に対して5名は、彼らの信仰するところの聖書が説く「彼らはその剣をすきの刃に、その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず、彼らはもはや戦いを学ばない」という原則と調和しないと主張し、剣道の履修を拒否した。彼らもただ授業を拒否しただけでなく、病気で体育が出来ない学生のように授業を見学した上でレポートの提出をもって授業参加と認めるように体育教師とかけあったが、認められなかった。そのため、5名の信者が体育の単位を修得できず、同校内規により第1学年に原級留置となった。
翌年、信者5名のうち3名は剣道授業に参加したため第2学年に進級出来たが、1名は自主退学、もう1名(原告)は前年と同様の経緯をたどったため、再び第1学年に原級留置とされた。同校の学則は2年連続して原級留置の場合は退学を命ずることができるという内規があり、その内規により退学処分を命じられたというものである。
これに対し主張し原告側必修の体育科目の一部である剣道の授業を拒否した学生に対して、学校側はレポート提出等の代替措置を一切認めず欠席扱いとし、最終的には退学とした学校側の措置は裁量権の逸脱であるというのと
学校側による剣道の履修の強要は、日本国憲法が保障する信教の自由を侵害する行為であるとの主張から原告が処分取り消しの裁判を起訴したのがエホバの証人事件である。
ではこの事件と裁量行為がどのように関わっているかというと、学生に対して原級留置処分または退学処分を行うかどうかの判断は校長の合理的な教育的裁量に委ねられているので学校側は退学処分を下したとされている。先ほど説明した裁量行為に校長のした処分は含まれているわけだが、裁量行為であっても裁量権の逸脱・濫用は裁判所の判断できる範囲内にあり、校長の裁量権行使(原告への退学処分)は社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超えるということで原告の勝ちとした。
この判決について私の意見としては、校長がした判断は間違っていないのではないかと感じた。なぜならば、確かに憲法で信教の自由は保障されているがだからといって必修の授業である体育(剣道)をせず、レポートで許してしまうのはその学生たちを特別扱いしていると思うからである。また校長のした退学処分が裁量権の逸脱・濫用だという裁判所の判断も間違っていると思ったからだ。
《4プログラム規定説と朝日訴訟》
生存権の法的性格として3つの学説が関連している。プログラム規定説、抽象的権利説、具体的権利説である。
プログラム規定説とは、憲法25条は国民の生存を国が確保すべき政治的、道義的目標を定めたにすぎず、具体的な権利を定めたものではない、とする考え方である。
つまり、国に課されている生存権を実現する義務は、努力すればよい、全ての国民に必ずしも最低限度の生活を保障しなくてもよい、それに向けて努力してさえいればよい、という考え方である。
具体的権利説とは、憲法25条は生存権の内容を具体的に定める法律がなくても、直接25条に基づいて訴訟を起こすことができる、とする考え方であり、具体的権利説はプログラム規定説と反対に最も強く生存権を保護する考え方である。
抽象的権利説とは、生存権は直接25条に基づいて訴えを起こすことはできず、生存権を具体化する法律があって初めて訴えを起こすことができる、とする考え方である。(通説)。
抽象的権利説はプログラム規定説と具体的権利説との中間に位置している。
朝日訴訟とは 上告人は、十数年前から国立岡山療養所に単身の肺結核患者として入所し、厚生大臣の設定した生活扶助基準で定められた最高金額たる月600円の日用品費の生活扶助と現物による全部給付の給食付医療扶助とを受けていた。ところが、同人が実兄Cから扶養料として毎月1500円の送金を受けるようになったために、津山市社会福祉事務所長は、月額600円の生活扶助を打ち切り、右送金額から日用品費を控除した残額900円を医療費の一部として原告に負担させる旨の保護変更決定をした。同決定が岡山県知事に対する不服の申立および厚生大臣に対する不服の申立においても是認されるにいたつたので、原告は、厚生大臣を被告として、右600円の基準金額が生活保護法の規定する健康で文化的な最低限度の生活水準を維持するにたりない違法のものであると主張して、同大臣の不服申立却下裁決の取消を求める旨の本件訴を提起した事件である。
最高裁は生存権は、国に国民の生存を確保すべき政治的・道義的義務を国に課したにとどまり、具体的請求権を保障したものではない(プログラム規定説)とし、何が最低限度の水準かは、厚生大臣の合目的的な裁量に委ねられるとしたので原告側が敗訴した。
この事件の最高裁の判決について、わたしは厚生労働大臣が生活保護費の増減を裁量に委ね、最低限度の水準かどうかを決められるのでおかしいと思ったのでこの判決には反対の意見をもった。
なぜおかしいと思ったかというと、何が自分の健康で文化的な最低限度の生活基準なのかは憲法13条の自己決定権によって保障されているはずである。だが、パターナリズムで厚生大臣などの官僚の裁量によって国民の権利が侵害されるのはおかしいと感じたからである。
《5裁判所の判断》
裁判所は知識人の裁量行為に判断を委ねたり、その裁量行為が逸脱・濫用されない限り違法とは判断しないとしていてまた、部分社会論や統治行為論においても高度な政治性があるからといって判断回避をしている。
では、この先もずっと判断を回避しといていいのであろうか。
三権分立で裁判所は法の番人であるのに政治、外交問題について判断をしなかったり知識人の裁量に任せっきりのままでは誰が政治や外交、知識人を法で判断をくだすのか。
この先裁判所の権限の限界を打破しなければ、三権分立が機能しなくなる日がくるであろう。
《6まとめ》
今回の人権と裁判所の権限について深く考察してみて、現在の日本には憲法裁判所はないので違憲だとの判断を下すことはできないし、官僚や教師などの知識人は1回国家試験を受かれば政治や団体に関わることなどで法律で裁かれたりすることはほとんどないので自由に裁量を判断できるということに危機感を感じた。
なので、裁判所は統治行為や部分社会論、すべての裁量行為について判断を下すべきだと思う。
《出典・参考文献》
・
小林 節 『政治問題の法理』 日本評論社、1988年 172〜173ページ
・
高橋和之編『新・判例ハンドブック[憲法]』日本評論社
・
Wikipedia
・
授業内ノート
・
『行政裁量(羈束行為と裁量行為)とは?』http://info.yoneyamatalk.biz/行政法/行政裁量(覊束行為と裁量行為)とは?わかりや/
・
ブリタニカ国際大百科辞典
・
統治行為論の本質
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7009/mg0001-2.htm
・
憲法を分かりやすく第12章社会権
http://consti.web.fc2.com/12shou1.html
・
憲法判例集 生存権の性格 朝日訴訟
http://blog.livedoor.jp/cooshot5693/archives/52516890.html