齋藤向矩

現在の、人権と裁判所の権限は、見直す点があると考える。

 

1.   序論(理由)

 人権と裁判所の権限に関連する事柄として、最近、プライバシー権、環境権など、憲法の定める個別の権利保障規定に明示されていない権利、いわゆる「新しい人権」が問題となっている。また、外国人の人権、自衛隊(安保法制)による国民の人権も問題となっている。特に、外国人の人権、安保法制による国民の人権は長年にわたり問題となっており、法律・解釈等の見直しをする必要があるからだ。しかしながら、人権と裁判所の権限は、全てが間違っているわけではなく、合理的な部分があるので、今回は、数多くの判例を基に、自らの意見を論ずる。

 

 

2.司法権の限界

 裁判所は、「一切の法律上の争訟を裁判」(裁判所法3条)するところであり、最高裁判所(以降、最高裁)は、「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないか決定する権限を有する終審裁判所」(憲法81条)である。しかし、この原則には、いくつかの例外がある。その一つとして、国会ないし各議院の自律権(ないしは自主権)に属する行為、行政機関ないし国会の自由裁量に属する行為、およびいわゆる統治行為、部分社会の法理(部分社会論)、裁量行為、など、法律上の係争ではあるが、事柄の性質上裁判所の審査に適しないと認められるものが、特に問題となる。要するに、国家のパターナリズムによって、国民の自己決定権が制限されることが問題となっている。

 

 

3.自己決定権パターナリズム

 自己決定権とは、自分の生き方や生活についてを自由に決定する権利。例えば、家族に関する自己決定権(妊娠・結婚)、日常生活における権利(服装・髪型等)、医療・生命に関する自己決定権(治療方法の選択・安楽死)がある。自己決定権は、憲法13条の幸福追求権から導きだせるものであり。「公共の福祉に反しない」限りにおいて尊重される。

 パターナリズムとは、強い立場にあるものが、弱い立場にあるものの利益になるようにと、本人の意思に反して行動に介入・干渉することをいう。この典型例として挙げられるのが、専門家と素人、国家と国民、国際政治である。とくに、国家と個人(国民)の関係に即していうならば、パターナリズムとは、個人の利益を保護するためであるとして、国家が個人の生活に干渉し、あるいは、その自由・権利に制限を加えることを正当化する原理である。

 

エホバの証人輸血拒否訴訟

 1992年9月、「エホバの証人」の信者(患者)が手術中、意に反する輸血を受けたため、自己決定権の侵害を理由に損害賠償を求めた事件、原審判決が輸血への同意権を「自己決定権に由来する」権利と述べて損害賠償を認めたのに対し、最高裁は、自己決定権には言及することなく、輸血を伴う医療行為を拒否する意思決定をする権利は「人格権の一内容として尊重されなければならない」と述べて原審判決を維持した。

私は、これらの判決は妥当だと考える。医師(専門家)が患者(素人)に輸血を行うことは、パターナリステックな干渉であり、「輸血は受け入れない」という患者の自己決定権信教の自由の侵害行為である。また、医師は、輸血を行わない別の方法(「LRA(より制限的でない他の選びうる手段)」)を提示すべきだったと思う。

 

 

4.統治行為

統治行為とは、一般に、「直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為」で、法律上の争訟として裁判所による法律的な判断が理論的には可能であるのに、事柄の性質上、司法審査の対象から除外される行為のことである。三権分立制において司法(裁判所)が立法(国会)に干渉を防ぐためである。

 

砂川事件

 1957年(昭和32年)、アメリカ軍の使用する東京都下砂川町の立川飛行場の拡張工事を始めた際に、基地反対派のデモ隊が乱入し、旧安保条約3条に基づく刑事特別法違反として起訴された。東京地方裁判所は、安保条約によって、「わが国が自国と直接関係のない武力紛争の渦中に巻き込まれる虞があ」るとして、駐留軍が憲法9条2項の戦力に該当して違憲である、と判示したが、最高裁は、戦力とは「わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力というものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しない」とし、また、安保条約は高度の政治性を有するものであって、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限り、司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものである、と判示し、原判決を破棄・差し戻した。

 私は、最高裁の判決が妥当だと考える。これは外国との関係上、統治行為の適用はやむを得ないからだ。

 

・警察法改正無効事件

 昭和29年に成立した新警察法は、その審議にあたり、野党議員の強硬な反対のため、議場混乱のまま可決されたものとされたが、その議決が無効ではないかが争われた。最高裁は、警察法が「両院において議決を経たものとされ適法な手続きによって公布されている以上、裁判所は両院の自主性(自律権)を尊重すべく同法制定の議事手続きに関する……事実を審理してその有効無効を判断すべきでない」と判示した。

 私は、最高裁の判決は不当だと考える。パターナリズムにおいて、国家は国民の生命・財産を保護する義務があるとはいえ、議場混乱まで起こして過剰な介入(余計なお節介)をすべきでないと考える。

 

 

5.部分社会論(部分社会の法理)

部分社会論とは、地方議会、大学、政党、労働組合、弁護士会等々の自主的な団体(「一般市民社会の中にあってこれとは別個に自律的な法規定を有する特殊な部分社会」)の内部紛争に対して、法律上の争訟であれば司法審査に服するのが原則であるが、純粋に内部的事項の場合には、事柄の性質上、それぞれの団体の自治を尊重して、司法審査を(一部において)控えることである。

 

・富山大学事件(単位不認定事件)

 富山大学の学生であった原告6名は、昭和41年度のA教授の講義を受講していたところ、経済学部長は同年12月にA教授の授業担当停止の措置、及び学生への代替科目履修の指示を行った。原告はこの指示に従わず、A教授の授業を受け続け、試験を受けた。そしてA教授は合格の判定を行い、学部長に成績票を提出した。ところが学部長による単位認定は行われることがなかったので、原告が学部長を被告として、単位授与・不授与未決定の違法確認の訴えを起こした。一審・二審共に原告敗訴、最高裁に上告したが棄却判決が下された。最高裁は、国公立であると私立であるとを問わず、「一般市民社会とは異なる特殊な部分社会を形成している」とし、「単位認定行為は、他にそれが一般市民法秩序と直接の関係を有するものであることを肯認するに足りる特段の事情のない限り、純然たる大学内部の問題として大学の自主性、自律的な判断に委ねられるべきものであって、司法審査の対象にはならない」と判示した。

 私は、これらの判決は妥当だと考える。原告は既に、A教授の授業担当停止の措置の件を知っており、代替科目履修で単位授与することも知っていた。そのため、A教授の授業を受ける自由・権利(憲法23条)をとるか、代替科目履修による単位認定をとるかの自己決定権があり、それによって生じた不利益・責任は(裁判所に訴える以外で)自分で対処すべきだったと思う。

 

 

6.裁量行為

裁量行為とは、行政機関がある決定を行う際に一定の判断の余地が認められており、そうした判断が裁判所によっても尊重されることである。但し、「裁量権の範囲をこえ又はその濫用があつた場合に限り、裁判所は、その処分を取り消すことができる」(行政事件訴訟法30条)。

 

朝日訴訟

 1956年当時の生活扶助費月額600円が健康で文化的な最低限度の生活水準を維持するに足りるかどうかが争われた事件。一審判決は、原告(朝日茂)の主張を容れ、「健康で文化的な生活水準」の具体的内容は固定的ではないが、理論的には特定の国における特定の時点においては一応客観的に決定しうるから、厚生大臣の生活保護基準の設定行為は裁判的統制に服する羈束行為だとし、本件のようにこの生活基準を維持する程度の保護に欠ける場合は、生活保護法3条・8条2項に違反すると同時に、実質的には憲法25条にも反する、と判示した。しかし、上告中に朝日氏が死亡したため、養子夫妻が訴訟の継承を主張したが、最高裁は、生活保護受給権は一身専属的な権利であるから死亡により訴訟は終了した、と判示し、「なお、念のため」として、(1)25条1項は、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に具体的権利を賦与したものではない(プログラム規定説)、(2)何が「健康で文化的な最低限度の生活」であるかの判断は、厚生大臣の裁量に委されている、旨の意見を付加した。

 私は、最高裁の判決は不当だと考える。プログラム規定説は財政問題の軽減のために導入された解釈である。しかしそれは、客観的に見ても、パターナリズムによって生活扶助費を制限していることが問題となっているからだ。

 

・神戸高専剣道実技拒否事件

 信仰する宗教(「エホバの証人」)の教義に基づいて、必修科目の体育の剣道実技を拒否したため、原級留置・退学処分を受けた神戸市立工業高等専門学校の学生が、これらの処分は信教の自由を侵害するとし、その取り消しを求めて争った事件で、一審判決は、剣道に代替する単位認定の措置をとると、「信教の自由を理由とする有利な扱い」をすることになり、「公教育の宗教的中立性に抵触するおそれがある」としたが、上告審判決は、(1)「剣道の履修が必修のものとまではいい難く、体育科目による教育目的の達成は、他の体育種目の履修などの代替的方法によって」も「性質上可能」であること、(2)学生の剣道実技への参加拒否の理由は「信仰の核心部分密接に関連する真しなもの」で、その被る不利益(原級措置、退学処分)は「極めて大きい」こと、自由意思で剣道実技を採用している学校を選択したことを理由に、このような「著しい不利益」を与えることが当然に許されるわけではないこと、(3)他の学生に不公平感を生じさせないような適切な方法、態様による代替措置は、「その目的において宗教的意義を有し、特定の宗教を援助、助長、促進する効果を有するものということはできず、他の宗教者又は無宗教者に圧迫、干渉を加える効果があるともいえない」こと、(4)「当事者の説明する宗教上の信条と履習拒否との合理的関連性が認められるかどうかを確認する程度の調査」は、「社会観念上著しく妥当を欠く処分」であり、「裁量権の範囲を超える違法なもの」(行政事件訴訟法30条)である旨判示し、これと同旨の原審の判断を是認した。

 私は、最高裁の判決は妥当だと考える。最高裁が出した4つの理由はもちろんだが、「LRA」の観点から言えば、正当である。また、「二重の基準」によって立憲民主政の政治過程にとって不可欠の権利である精神的自由(信教の自由)が、経済的自由(学校側の公共的利益)より厳格な基準のもとで、審査されるからだ。

 

 

7.まとめ

 今回は、数多くの判例・判示、又それらに対する自分の意見を述べてきた。

 統治行為では、三権分立制における司法の問題が浮き彫りとなった。本来憲法等の法律を遵守する裁判所が、統治行為を理由に、全ての事件・訴訟を棄却(却下)してもいいのだろうか。外交関係上の問題があれば、国家間の便宜上やむを得ないだろうが、国内上では、自己決定権を少なからず尊重すべきだと考える。

部分社会論では、「部分社会」の内部的事項は、それぞれの「部分社会」における規則、ルールに基づいて行われているため、こちらは問題ないと考える。但し、公的機関に属する「部分社会」は、裁量権の濫用による取り消し(行政事件訴訟法30条)がある。

 裁量行為では、個人(国民)の自己決定権を尊重し、憲法13条等の国民の権利を明確にすべきだと考える。

以上を、私見とする。

 

 

参考文献・引用文献

・『ポケット六法 平成28年版』有斐閣 2015年10月23日発行

・『法律学小辞典 第5版』有斐閣 2016年3月20日第5版発行

・『憲法 第六版』芦部信喜著 岩波書店 2015年3月5日発行

Wikipedia

・弁護士ドットコム

http://www.ne.jp/a/box/kuro/report/yhwh.htm

・ライフデザイン演習授業ノート

 

 

 

 

岩間柚香

「人権と裁判所の権限」

16J110007

岩間柚香

1、   結論

人権は尊重されるべきであるが、裁判所は司法権の届く範囲内で裁判するしかない。

 

2、   砂川事件

砂川事件は、砂川闘争をめぐる一連の事件である。特に、195778日に特別調達庁東京調達局が強制測量をした際に、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法」違反で起訴された事件を指す。第一審東京地方裁判所では、1959330日、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第92項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条に違反する不合理なものである」と判定し、全員無罪の判決を下したことで注目された(伊達判決)。これに対し、検察側は直ちに最高裁判所へ跳躍上告している。最高裁判所判決は、同年1216日、「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」と統治行為論を採用し、原判決を破棄し地裁に差し戻した。差戻し判決に基づき再度審理を行った東京地裁は、1961327日、罰金2000円の有罪判決を言い渡した。この判決につき上告を受けた最高裁は1963127日、上告棄却を決定し、この有罪判決が確定した。1

 

3、   神戸高専剣道実技拒否事件

  神戸高専剣道実技拒否事件とは、公立学校の学生が、自己の宗教的信条に反するという理由で、必修科目である剣道の履修を拒否したため留年処分となったうえに、次の年度も留年処分となったため、学則にしたがいその退学処分にした処分に対して、違法であると取消しを求めた行政訴訟(抗告訴訟)である。1990年に神戸市立工業高等専門学校に入学した学生には、「エホバの証人」の信者5名がいた。この年に同校は新校舎に移転したことにともない、体育科目の一部として格技である剣道の科目を開講した。この科目に対して5名は、彼らの信仰するところの聖書が説く「彼らはその剣をすきの刃に、その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず、彼らはもはや戦いを学ばない」という原則と調和しないと主張し、剣道の履修を拒否した。彼らもただ授業を拒否しただけでなく、病気で体育が出来ない学生のように授業を見学した上でレポートの提出をもって授業参加と認めるように体育教師とかけあったが、認められなかった。そのため、5名の信者が体育の単位を修得できず、同校内規により第1学年に原級留置となった。翌年、信者5名のうち3名は剣道授業に参加したため第2学年に進級出来たが、1名は自主退学、もう1名(原告)は前年と同様の経緯をたどったため、再び第1学年に原級留置とされた。同校の学則は2年連続して原級留置の場合は退学を命ずることができるという内規があり、その内規により退学処分を命じられた。原告は、必修の体育科目の一部である剣道の授業を拒否した学生に対して、学校側はレポート提出等の代替措置を一切認めず欠席扱いとし、最終的には退学とした学校側の措置は裁量権の逸脱である。学校側による剣道の履修の強要は、日本国憲法が保障する信教と良心の自由を侵害する行為である。他の学校では同様な格闘技の授業を拒否する学生に対し代替措置が行われている。また高等専門学校において剣道実技の履修が必須のものとはいえないと主張した。被告(学校側)は、校入学時の募集要項に必修科目の事が記載していたはずであり、単位として取得できなければどのような措置になるかが周知されていたといえる。そのため履修拒否することは最初から予期していたはずだ。原告が主張する代替措置を学校が認めたら、特定の宗教の信仰を援助支援したことになり、日本国憲法203項の政教分離に反することになる。信教の自由による行為が常にその自由が保障されるというものではない。信教の自由を制限して得られる公共的利益の方が学校運営上必要であると部分社会論を主張した。第一審の神戸地裁は学校側の主張を認め、原告の主張を棄却した。しかし、大阪高裁及び最高裁は、地裁の判決を破棄し、学校側による一連の措置は裁量権の逸脱であり違憲違法なものであったと認定し原告の主張を認めた。最高裁第2小法廷が199638日に全員一致で出した判決文の主旨によれば、『他の学校では同様な格闘技の授業を拒否する学生に対し代替措置が行われている』とし、『高等専門学校において剣道実技の履修が必須のものとまではいい難く、他の体育科目による代替的方法によってこれを行うことも性質上可能である』とした。一連の学校側の措置については、『信仰の自由や宗教的行為に対する制約を特に目的とするものではなかったが、学生の信仰の自由に対して配慮しない結果となり、原級留置処分の決定も退学処分の選択も社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超えた違法なものといわざるを得ない』として、学校側の処分取り消しを決定した。なお学校側が主張した、学生の行為を認めたら日本国憲法203項の政教分離に反するか否かであるが、『代替措置を講じることは特定の宗教に対する援助をするわけではない』として、特定宗教の援助にはあたらないとした。2

 

4、   エホバ輸血事件

  宗教上の信念からいかなる場合にも輸血を受けることは拒否するとの固い意思を有している患者に対して医師がほかに救命手段がない事態に至った場合には輸血するとの方針を採っていることを説明しないで手術を施行して輸血をした場合において医師の不法行為責任が認められた事例。3 患者は、「エホバの証人」の信者であり、いかなる場合でも輸血を拒否するという固い信念を有していたが、悪性の腫瘍のために手術が必要となった。他方、病院の医師は輸血を伴わない手術をした実績があることで知られていたが、病院では手術を受ける患者が「エホバの証人」の信者である場合には、患者の意思を尊重してできる限り輸血をしないが、輸血以外には救命手段がない事態に至ったときには輸血をする方針であった。患者は、病院で医師の手術を受けることになったが、そのさい、輸血を受けることを拒否する意思を表明していた。しかし、手術での出血量が多く、医師は、輸血をしない限り患者を救うことができないと判断して輸血をした。退院後このことを知った患者は、病院を相手に不法行為を理由として損害賠償を請求した。第一審では、請求は棄却されたが、原審では一部が認められた。その後、病院側が上告。が、上告は棄却。患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような自己決定権は、人格権の一内容として尊重されなければならない。そして、患者が、宗教上の信念からいかなる場合にも輸血を受けることは拒否するとの固い意思を有しており、輸血を伴はない手術を受けることを期待してこの病院に入院したことを担当医師らが知っていたなど本件の事実関係の下、担当医師らは、手術の際に輸血以外には救命手段がない事態が生ずる可能性を否定しがたいと判断した場合には、患者に対して、病院としてそのような事態に至ったときには輸血するとの方針をとっていることを説明して、病院への入院を継続したうえ、担当医師らのもとで本件手術を受けるか否かを患者自身の意思決定に委ねるべきであったと解するのが相当である。ところが、医師らは手術に至るまでの約一か月の間に、手術の際に輸血が必要とする事態が生ずる可能性があることを認識したにもかかわらず、患者に対して病院の採用していた方針を説明せず、患者らに対し輸血する可能性があることを告げないまま本件手術を施行して方針に従って輸血したのである。そうすると、本件においては、担当医師らは、説明を怠ったことにより患者が輸血を伴う可能性のあった本件手術を受けるか否かについて自己決定権を奪ったものといわざるをえず、この点において病院のパターナリズムにより当人の人格権を侵害したものとして、当人がこれによって被った精神的苦痛を慰謝すべく不法行為に基づく損害賠償責任を負う。4

 

5、   朝日訴訟

  朝日訴訟とは、1957年(昭和32年)当時、国立岡山療養所に入所していた朝日茂が厚生大臣を相手取り、日本国憲法第25条に規定する「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(生存権)と生活保護法の内容について争った行政訴訟である。5 原告(朝日茂)は、肺結核のため療養所に長期入所し、日用品費の生活扶助と医療扶助の生活保護を受給していたところ、実兄から扶養料の送金を受けるようになったため、福祉事務所長により、生活扶助の打ち切りおよび医療費の一部負担の保護変更決定がなされた。そこで、原告は、県知事及び旧厚生大臣(現厚生労働大臣)に対し保護変更決定に対する不服申立てを行ったが、いずれも認められるに至らなかったため、原告の不服申立てを却下した旧厚生大臣の裁決の取り消しを請求した。第一審では、保護変更決定の違法性を認め、原告の裁決の取り消しを認めたが、原審では、一審判決を取り消したため、原告が上告した。上告申し立て後に原告が死亡し、相続人が訴訟を承継できるかが争われることになった。最高裁判所は、保護受給権が一身専属の権利である以上、相続の対象となりえないと解するのが相当であるとし、本人の死亡により訴訟は終了したとの判決を下した。6 最高裁判所は、「なお、念のため」として生活扶助基準の適否に関する意見を述べている。それによると、「憲法251項はすべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に具体的権利を賦与したものではない」とし、国民の権利は法律(生活保護法)によって守られれば良いとプログラム規定説を採用した。「何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、厚生大臣の合目的な裁量行為に委されて」いる、とする。5

 

6、   私見

裁判所には司法権しかないのだから、立法府の裁量行為、統治行為、部分社会の法理、自律権の他の大きな権利が関わってくるものを裁判しないのは、仕方がない。上記の判例を理由とし、過失がない限り人権は尊重されるし、裁量行為、統治行為、部分社会の法理、自律権は裁判されないと考える。

 

引用

1砂川事件-Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6

2神戸高専剣道実技拒否事件-Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E9%AB%98%E5%B0%82%E5%89%A3%E9%81%93%E5%AE%9F%E6%8A%80%E6%8B%92%E5%90%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6#cite_note-1

3裁判所|裁判例情報:検索結果詳細画面

http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=52218

4民法基本判例集 第三版補訂版 編者 遠藤浩 川井健 発行者 井村寿人 発行所 勁草書房 P308~309

5朝日訴訟-Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E8%A8%B4%E8%A8%9F

6民法基本判例集 第三版補訂版 編者 遠藤浩 川井健 発行者 井村寿人 発行所 勁草書房 P439~440

 

 

 

 

 

川崎大輝

              「人権と裁判所の権限」

                   

           16J110008  川崎大輝

 

[結論]

人が皆、生まれながらにして所有するのが人権であるが、皆が所有するが故に、全ての者が十全にその権利を主張することは不可能である。よってその裁定は裁判所に委ねるべきだと私は考える。

 

[統治行為論は不要]

日本の判例において統治行為論に言及したものは非常に少ないとされている。統治行為とは国家統治の基本に関する高度な政治性を有する国家の行為については、法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても、これゆえに司法審査の対象から除外すべきとする理論のことをいう。

 

日本で初めて統治行為論が用いられた判決としては昭和三十四年の砂川事件がある。この事件では旧日米安全保障条約の合憲性が争点となったが、最高裁はこの点について、 「主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度に政治性を有するも のというべきであって、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣及びこれを承認した国会の高度の政治的な意思自由裁量的判断と表裏をなす点がすくな くない」とし、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは裁判所の司法審査 権の範囲外のもので」あると述べた。そのうえで「一見極めて明白に違憲無効」であるか どうかの審査を行い、その可能性が認められないとして上告を棄却した。

 

私はこの事件における裁判所の判断は支持できない。

 

その理由としては

1)憲法上、違憲立法審査権が認められている以上、統治行為という理由だけでは憲法判断を制限することは許されない。そして裁判所が憲法の違憲立法審査権を破棄し、政府や立法府の違憲行為を追認することも許されないと考える。

 

2)また同じく統治行為論を認めた「苫米地事件」も同様である。司法審査はすべて政治性を有するといえるので、その政治性が高度であるか否かの判断は極めて困難であり、そのような判断を裁判所に委ねるならば裁判所の便宜的判断で問題が逃避されかねない。さらにはこのような裁判所の自制を認めてしまうと、裁判所は判決による政治的な影響ばかりを重視することとなり、判断が恣意的なものになる懸念が生じるおそれがあるからだ。

 

3)そして一番の問題は、高度な政治性を有する国家の行為について裁判所が何も言えないようなことがあると、日本が外国と戦争などになった場合、裁判所は何も言えないので、戦争を指導している内閣の官僚を止めるものがいなくなってしまう恐れがあることだ。

 

 

[人権の限界]             

日本国憲法では,人権について,第11条や第97条で「侵かすことのできない永久の権利」と定められている。しかし,だからといって,人権が絶対無制限のものというわけではない。特に,他人との人権との関係で,制約されることがあるのは,ある意味当然のことである。例えば,憲法12条で「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふう。」と規定していたり、3条では「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定していたりする。このように,憲法では「公共の福祉」という語を使って,人権が制約される場面があることを表現している。

 

日本国憲法第二十条において、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない」「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式または行事に参加することを強制されない」「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と定められている。

 

信教の自由」の保障が争われた判例として、「神戸高専剣道実技拒否事件」がある。

1990年に神戸市立工業高等専門学校に入学した学生には、「エホバの証人」の信者5名がいた。この年に同校は新校舎に移転したことにともない、体育科目の一部として格技である剣道の科目を開講した。この科目に対して5名は、彼らの信仰するところの聖書が説く「彼らはその剣をすきの刃に、その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず、彼らはもはや戦いを学ばない」[1]という原則と調和しないと主張し、剣道の履修を拒否した。彼らもただ授業を拒否しただけでなく、病気で体育が出来ない学生のように授業を見学した上でレポートの提出をもって授業参加と認めるように体育教師とかけあったが、認められなかった。そのため、5名の信者が体育の単位を修得できず、同校内規により第1学年に原級留置となった。

 

最高裁の判決は、『信仰の自由や宗教的行為に対する制約を特に目的とするものではなかったが、学生の信仰の自由に対して配慮しない結果となり、原級留置処分の決定も退学処分の選択も社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超えた違法なものといわざるを得ない』として、学校側の処分取り消しを決定した。

 

この事件は最終的に「政教分離の原則」は問題にならないとして、学校側の敗北で終わったが、私は最高裁の判断に納得できない。

 

その理由としては

1      教育の機会均等をうたった教育基本法3条、91項、憲法14条に違反し、教育の一環としての「剣道」の機会は他の人とおなじように平等に与えられているのにも関わらず、拒否したのは本人である。

 

2      そして代替措置を採らずに欠課扱いに関しては高等教育機関において、このような代替措置を容易に認めることはできない。宗教上の理由であれ、特別招致をとってしまうと次々と同じようなこと主張する者があらわれ規則が乱れ、公共の福祉に反するからだ。

 

3      そして学校入学時の募集要項に必修科目の事が記載していたはずであり、単位として取得できなければどのような措置になるかが周知されていたといえる。そのため履修拒否することは最初から予期していたはずである。そして知ったうえで入学後に文句を言うのは悪質である。

 

4      原告が主張する代替措置を学校が認めたら、特定の宗教の信仰を援助支援したことになり、日本国憲法203項の政教分離に反することになるからだ。

 

5      仮に剣道による評価がゼロだったとしても、他で万全を期せば体育の認定は可能であった。     

 

 エホバの証人は、統治体の出す文書を絶対的基準として細部にまで忠実に従うため、教義が一般的な宗教とは異なることがある。そのため社会とのかかわりで生じた摩擦をめぐり、教徒が提起した民事訴訟事件など周囲との裁判事件は他にもあり、「輸血拒否事件」などがある

 

この「輸血拒否事件」は、自己決定権VS病院側のパターナリズム(病院側のおせっかい)である。

憲法で民主主義と人権の尊重を定めている国では、患者がどのような治療を受けるかの自己決定権を守るための患者の権利やインフォームド・コンセントが定められている。ただし、救急救命センターに搬送された患者で、患者の心身の状況により本人の意思確認が不可能であり、代理権を行使する家族に連絡がつかない、または家族が来院不可能な場合は、医師の判断で救命や回復のために治療が行われる。

 

自己決定権とは、自分の生き方や生活について自由に決定する権利である。

しかし、自己決定権はあくまで「公共の福祉に」反しない限り尊重されるものであって、ある特定の行為を自己決定権として裁判で名言することは不可能である。

 

「勘違い」

この権利は新しい憲法などと言われているが、私は国や裁判所できちんと範囲を明記すべきであると考える。

これは「公共の福祉」に反しなければ、何をやってもいいという考え方であり、「何をしてもいい」などというのは、単なるわがままであって、「権利」などと言えるはずがない。

 

 

また、同じく学校側を控訴した判例で「富山大学事件」がある。

これは、富山大学の学生が履修していた科目の単位修得を認められなかったことで単位不認定等の違法確認を求めた行政訴訟である。この裁判では、単位不認定と専攻科修了不認定の2つが争われた。そして最高裁の判決で「大学は、国公立であると私立であると問わず、学生の教育と学術の研究とを目的とする教育研究施設であって、一般市民社会とは異なる特殊な部分社会を形成しているのであるから、このような特殊な部分社会である大学における法律上の係争のすべてが当然に裁判所の司法審査の対象になるものではない。と理由で原告側の敗訴で幕を閉じた。この裁判では、団体内部の規律問題については司法審査が及ばない、とする部分社会の法理が適用された。

 

この判決は、適切であると私は考える。

気に入らないことがあるたびに、このように主張していてはキリがない。

 

憲法の特定の人権規定に関して、形式的に人権として法文においては規定されていても、実質的には国の努力目標や政策的方針を規定したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではないとするプログラム規定説がある、

 

朝日控訴」や「堀木事件」のような「裁量行為」が論点になった判例では、一見明らかな権利濫用のように見えるが、裁判所の判断は間違っていないと私は思う。

 

 

 

「私見」

前文で述べたように高度な政治性を有する国家の行為、そして「統治行為」、「裁量行為」、「部分社会の法理」、「自立権」については付属的違憲審査が認められないかぎり、基本的に裁判所はなにもいえないとされている。

民主主義とはいえ、国家の生末を決めているのは内閣の一部官僚であるので、万が一他国と戦争になった場合でも裁判所は何一つ言えないので国民は従うほかないような事になってしまうので、人権も保障し尊重されるべきだが、裁判所は多少強引ではあるが、もっと介入すべきである。

 

 

 

 

 

#参考文献

「新版 私たちと裁判」後藤 昭著

「憲法 第六版」高橋 和之

「民法1」 内田 貫

「ポケット六法 28」山下 友信 その他

 

Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E8%A1%8C%E7%82%BA%E8%AB%96

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E9%AB%98%E5%B0%82%E5%89%A3%E9%81%93%E5%AE%9F%E6%8A%80%E6%8B%92%E5%90%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

 

 

吉野亮成

16J110020 吉野亮成

テーマ 人権と裁判所の権限

1.(結論) 

人権とはそれがなくては人間が人間らしく生きることができないものである。

 

2.(結論するに至って)

人権は公権力対国民の間で直接の効力を発揮し、公権力の施策について「自分には〇〇する権利があるから公権力から干渉される筋合いはない」と主張できるために必要である。もし仮に人権がなければ人は公権力には逆らえず国民が大変なことになろう。

裁判所は最高裁判所と下級裁判所に分かれており、憲法81条により最高裁判所は一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。と定められていて司法消極主義において、組織内には立ち入らないとする部分社会論、政治外交問題に関する統治行為論、すべては専門家に任せる裁量行為論がある。

また、上記で話した公権力とは何かというと、政府の統治行為のうち、物理的な力により執行されるもの、あるいは服従しなければ刑罰を科されるものを指す。

 

本件に関する参考ページ

http://www.geocities.jp/kenpowokangaeru/9frame.html

 

3.(統治行為)

先ほど出てきた統治行為だが統治行為とは国家統治の基本に関する高度な政治性”を有する国家の行為については、法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても、これゆえに司法審査の対象から除外すべきとする理論のことをいう。この統治行為に関係した判例を説明しよう。

砂川事件である。この事件は19577月8日に特別調達庁東京調達局が強制測量をした際に、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を破壊し、基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法違反で起訴された事件をさす。

 自分の考えを述べると、日本国は憲法第九条により戦力を保持しないはずなのに外国の軍が日本に駐在するのは良いのだろうかと考えたが最高裁が憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできないと述べている。

 

本件に関する参照ページ

http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=55816

 

4.(他の人権に関する判例)

他の人権に関する有名な判例を説明するとしよう。

まずはじめは、朝日訴訟である。

簡単に説明するとXさんは、重症の結核を患い、生活保護法に基づく医療扶助及び生活扶助を受けていましたが、実の兄から仕送りをしてもらうことになり、社会福祉事務所長はその仕送りの金額から日用品費を控除した額を医療費の一部負担額としてXさんに負担させることにしました。

Xさんは、その保護変更処分に対して不服申し立てをしましたが、これが却下されたため、生活保護処分に関する裁判取消訴訟を提起しました。

この裁判は憲法の保障する「生存権」の法的性質と子の裁判の途中でXさんが亡くなったので、「生活保護受給権は相続の対象となるのか」というところにあると思います。

第一審では、「健康で文化的な生活水準」を維持する程度の保護に欠けるとして生活保護法三条、八条二項に違反すると同時に実質的に憲法二十五条にも反すると判断したが、控訴審で「本件生活保護基準はすこぶる低額ではあるが、違法とまでは断定できない」として原判決を取り消した、その後Xさんは上告したが、その後死亡したため「生活保護受給権は一身専属的な権利であるから死亡により訴訟は終了した」と判示した。

最高裁判所は

「憲法251項はすべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に具体的権利を賦与したものではない」

「何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、厚生大臣の合目的な裁量に委されてる。そしてその判断は、当不当の問題として政府の政治責任が問われることはあっても、裁量権の濫用がある場合以外は、違法の問題は生じない」

この判例は一般的には、生存権のとらえ方としてプログラム規定説を採用したものと評価されていますが、立法裁量権の著しい逸脱があれば、司法審査の可能性を認めるという裁判規範性を認めている点で、完全なプログラム規定説ではないと解されている。ちなみに学説では、生存権をどうとらえるかは抽象的権利説が有力とされている。

 

私は、違憲判決の方が良かったのではないかと思う、その理由としてこの事件では月600円しか払われていない。月600円で何ができるのだろうかと私は思う。

600円では必要最低限とは言えないと思うからである。

 

※参照ページ

http://www.chukyo-u.ac.jp/educate/law/academic/hougaku/data/2/3/matumoto=hannrei.pdf#search='朝日訴訟+判決'

 

5.(エホバの証人)

エホバの証人とは19世紀の半ばごろアメリカで始まった宗教グループです。現在は、「ものみの塔聖書冊子協会」という名前です。ふだんは略して「ものみの塔」といっています。

 かれらは自分たちのことを神に忠実に使えている者という意味を込めて「エホバの証人」といっています。エホバとは、聖書の神のことです。読み方がわからなくなっていた旧約聖書に出てくる神の名前を示す文字の便宜的な読み方で、13世紀ごろに作られた読み方です。

 一般的には、ものみの塔という名前よりもエホバの証人という名前の方が有名かもしれません。それで、エホバの証人という呼び方で、個々の信者だけではなく、宗教組織の方を示すこともあるようです。

聖書に記されていることを文字通りに実践することを説いています。その教えの中には、進化論の否定、軍隊への入隊拒否、暴力や格闘技の否定といったことの他に「輸血の禁止」があります。

 エホバの証人で有名な事件はエホバの証人輸血拒否事件と神戸高専剣道実技拒否事件である。ではまず前者について説明していこう。ある女性がいて肝臓癌を患っていてこの女性にはすぐにでも手術が必要な状態でしたが、信仰上の理由から手術の際に輸血ができません。そこで、同じような肝臓ガンのケースで、輸血せずに生理食塩水の点滴のみで手術を成功させた実績のある東大病院に転院し、そこで手術を受けることにしました。彼女は担当医に自分の信仰を説明し、どんな事態になっても輸血だけはしないでほしいと訴え、たとえ輸血をしなかったことで命を落としたとしても病院側の責任は一切問わないという内容の文書を記し、それを病院に提出しました。

 一方、担当医はこの女性に「わかりました、できるだけ患者さんの信仰は尊重します」と応じましたが、もし手術中に輸血しなければ生命を救えない状況になったら、その場合には輸血するという相対的な治療方針をたてていました。担当医は輸血が必要になる大手術になる可能性も十分予測していましたが、手術中の状況しだいでは輸血するという治療方針については、患者の女性に説明しませんでした。

 まもなく、彼女の様態が急変しため、緊急手術が必要になりました。手術は肝臓の多くを取り除く大手術となり、患者の女性は出血からショック状態に陥ったため、担当医は生命を救うことを優先し、輸血をして手術をつづけました。手術自体は成功し、女性の生命は救われました。しかし、彼女にとって、なんの説明もなく一方的に輸血をしたことは自分への裏切り行為です。どうか輸血だけはしないでほしいと何度も頼み、担当医も「わかりました」と応じていたにもかかわらず、患者をだますようなやり方で輸血したのは、あまりにもひどいのではないかと考えました。結局、この女性は担当医と病院への不信感から、再度転院し、翌年の1993年、担当医と東大病院に対して、信仰の自由と自己決定権の侵害により1200万円の損害賠償を請求する民事訴訟を起こした。

原告は医療によってあつかわれる「生命」とは患者の生命であり、どのような医療を受けるかを最終的に判断するのは、医師ではなく、患者本人でなければならない。日本の医療現場では、医師が一方的に治療方針を決め、患者はそれに従っていればいいとするパターナリズムによる上下関係が長年続いてきたが、このような患者本人の意志を無視した医療のあり方はまちがっている。患者は医師から十分なインフォームド・コンセントを受け、納得した上で、自ら治療方針を決める自己決定権をもっているはずである。ところが、この事件では、担当医は「輸血しないでほしい」という患者の信仰を知り、それに同意していたにもかかわらず、緊急手術では一方的に輸血をおこなった。これは患者の自己決定権と信仰の自由を踏みにじるごう慢な行為といえる。また、患者の女性は重症の肝臓病だったため、輸血が必要な緊急手術になる可能性があることも医師はあらかじめ予測していた。それにもかかわらず、その対応について、患者にまったく説明せず、一方的に医師の判断で輸血をおこなったのは、あきらかにインフォームド・コンセントが不十分である。よって、担当医と病院は患者の自己決定権と信仰の自由を侵害しており、損害賠償を請求する。と主張していて、被告側は医療の役割は患者の生命を救うことであり、医師には患者の生命を救う義務がある。この事件の患者は重い肝臓病であり、手術では輸血をすることでしか患者の生命を救えない状況だった。医師は、できるかぎり患者の意思を尊重するが、もしも輸血をするしか救う手段がない場合には、輸血をおこなうという方針をたてていた。この方針は、生命を救うという医療の役割に基づいたものであり、きわめて合理的な判断といえる。実際、この治療方針によって、手術は成功し、患者の生命も救われたのである。出血多量による生死の境にある状況で、なお輸血を拒否するというのは自殺行為であり、すべての輸血を拒否するという患者の信仰自体、非常識で反社会的なものといえる。そうした患者の信仰に医師や病院が同調し、患者を死亡させる危険をおかしてまで無輸血で手術をするとしたら、それは治療を放棄するのと同じであり、生命の尊重という医療の本質に反する行為である。したがって、手術の際に輸血をおこなった担当医と病院には、なんら過失は見られない。と主張している。

最高裁は患者の自己決定権は保障されるべきものであり、医師は患者に治療方針を十分に説明しておらず、インフォームド・コンセントをおこたっている。として損害賠償として55万円の支払い命令を医者に下した。

 

二人の主張をもとに自分の考えを述べるともし自分がその医者であったならこの事件と同じようにこの女性を救っていただろう。医者は人の命を救い病を治すことが仕事であり、見殺しにしてしまってはきっと後悔するからである。しかし、輸血しないという書類にサインして騙すような形になってしまって相手の自己決定権を侵害したことは悪いと思うが、あくまでも医者の仕事は人を助けることであり、しっかりと職務を、完うしたにもかかわらず侵害賠償を払わなければならないのはよろしくないと自分は思う。

被告側の意見を自分は尊重したいと自分は考える。

 

※本件に関する参考ページ

http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/yhwh.htm

http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Kaigan/2272/naani.html

 

次に神戸高専剣道実技拒否事件である。

これは、公立学校の学生が、自己の宗教的信条に反するという理由で、必修科目である剣道の履修を拒否したため留年処分となったうえに、次の年度も留年処分となったため、学則にしたがいその退学処分にした処分に対して、違法であると取消しを求めた行政訴訟である。

最高裁は「他の学校では同様な格闘技の授業を拒否する学生に対し代替措置が行われている」とし、「高等専門学校において剣道実技の履修が必須のものとまではいい難く、他の体育科目による代替的方法によってこれを行うことも性質上可能である」とし違法とした。

この事件は信教の自由が抑圧された事件である。

 

私は、この判決に賛成である。

他の学校ではレポートなどの代替え措置が行われていたにもかかわらずその措置をしなかったことも悪いし、信教の自由があるにもかかわらず剣道をやらなければ留年という処分はとてもひどいものだと私個人は思う。

 

※本件に関する参考ページ

https://ja.wikipedia.org/wiki/神戸高専剣道実技拒否事件#.E6.8E.A7.E8.A8.B4.E5.AF.A9.E3.83.BB.E4.B8.8A.E5.91.8A.E5.AF.A9

 

.(まとめ)

ここで改めて人権と裁判所について考えてみよう。

人権とはそれがなくては人間が人間らしく生きることができないものである。

そのため裁判所は厳格に審査する必要がある。

神戸高専剣道実技拒否事件、朝日訴訟、砂川事件の判決はそれなりに理解できるが、エホバの証人輸血拒否事件だけは納得ができない自己決定権よりか命の方が大切であるからである。輸血せずに人を死なせれば損害賠償はなく、逆に職務を全うし人の命を助けたのにもかかわらず、損害賠償を請求されるのはいくらなんでもひどいと私は思った。

 

 

 

 

鈴木友太

 

 

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「人権と裁判所の権限」

16J110023

鈴木友太

キーワード

統治行為、砂川事件、部分社会論、裁量行為、エホバの証人、信教の自由、朝日訴訟、プログラム規定説、自己決定権、パターナリズム

 

1.   司法権

 1957年、砂川町(現 立川市)にある米軍基地内に憲法9条に反していると主張するデモ隊が侵入したのが砂川事件である。この事件の争点となったのが日米間における安保6条に基づくものだった。しかし、最大判では「9条は自国が管理・指揮できる軍隊のことであるため米国の軍隊は9条に反していない」とした上で「一見、明らかに逸脱・濫用していないなら審査しない」と統治行為論を採用し、上告を棄却した。

 司法権には法律上の争訟とういうものがあり、これは当事者の具体的な権利義務(民事)ないし法律関係の存否(刑事)に関する紛争であって、かつ、それが法律を適用することによって終局的に解決することができるものである。裁判所法第三条一項にも法律上の争訟について触れてある。

 

裁判所法第三条一項

 裁判所は、日本国憲法に特別の定のある場合を除いて一切の法律上の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する。

 

司法権にも以下のような限界がある

(1)        憲法で規定されている限界

(2)        国際法で定められている限界

(3)        憲法の解釈上の限界

 

 砂川事件で採用された統治行為論は司法権の限界の(3)にあてはまる。(3)憲法の解釈上の限界には統治行為論の他に、裁量行為、部分社会論、自立権がある。

・統治行為論

 「直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為」で、法律上の争訟として裁判所による法律的な判断が理論的には可能であるのに、事柄の性質上、司法審査の対象から除外されるもの。つまり、政治的な色彩が強い問題は政治部門が解決すべきということである。しかし、一見、逸脱・濫用なら裁判所は介入するとされている。

 統治行為論が用いられた判例・・・・砂川事件、苫米地事件

 

裁量行為

 政治部門の自由裁量にゆだねられていると解される行為には裁判所の統制は及ばないとするもの。しかし、統治行為論同様に裁判所が介入する場合もある。

裁量行為が用いられた判例・・・・朝日訴訟、堀木訴訟

 

・自立権

 国会または各議員の内部事項については自主的に決定できる権能のこと。

つまり、裁判所は議員の懲罰や疑似手続きなどに関しては判断を下さないということである。

自立権が用いられた判例・・・・警察法改正、警察予備隊

 

部分社会論

 一般市民秩序と直接関係しない純然たる内部紛争は、すべて司法審査の対象とならないと考えられるのが部分社会の法理である。                        

 地方議会、大学、政党、労働組合、弁護士会、などの自主的な団体(部分社会)の内部紛争に対して、司法審査が及ぶか否かという問題である。部分社会論が争点となった裁判はたくさんある。

部分社会論が用いられた判例・・・・富山大学、全農林、昭和女子大学

 

 

2.   司法権に対する私見

 司法、内閣、そして国会。この三権がしっかりと均衡を保つためには司法権の限界は当然必要なものになってくると自分は思っている。それぞれの専門分野の方々に裁量を任せた方が無関与な司法が介入するより適正な判断ができるであろうからだ。しかし、司法がその分野に関して全く関与しないと三権分立の関係が崩れかねないと思う。

 砂川事件について近年ちらほら耳に入ることがある。当時の最高裁判所の裁判長だった田中耕太郎が米国側の外交官密会していたというものだ。この密会により、米国側に偏った判決が出たのではないのかと自分は考えている。

 また、裁量行為が認められた朝日訴訟についても判決に納得のいかないところがいくつかある。最高裁への上告が、保護を受ける権利がないため棄却されたのは妥当な判決だろう。しかし、念のために出した判決は決して妥当な判断だったと言えないと自分は思っている。最高裁判所が、プログラム規定説のリーディング・ケースである食糧管理法違反事件で示された生存権の解釈を踏まえ「何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、厚生大臣の合目的な裁量に委ねる」と、裁量行為を採用したことに納得がいかない。個人個人によって「健康で文化的な最低限度の生活」の基準は変わってくると自分は考えている。そのため、厚生大臣の自由裁量により国民の生活の基準を定めるべきではないと思っている。生活保護対象者全員に対して裕福な生活をさせるわけではなく個々にとっての「健康で文化的な最低限度の生活」をできるようにしてあげるのが日本のトップに立つ人々が最低限しなくてはいけないことだ。司法は介入しないことで三権分立の均衡を保とうとするのではなく、外部から監査することで均衡を保つべきだと思う。

 砂川事件と朝日訴訟のように司法権の限界があることにより適正な判決がくだされないこともある。専門分野に裁量を任せるのにも範囲の制限を設けるべきだろう。

 

3.   エホバの証人

エホバの証人の信者による訴訟はいくつかある。ライフデザイン、憲法の講義でも取り上げられた神戸高専剣道実技拒否事件は、憲法学上著名な事件である。この事件の争点となったのが、憲法第20条 信教の自由である。

 

憲法第20条 信教の自由

1項      信教の自由は、何人に対してもこれを保証する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない

2項      何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3項      国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 

 このように、憲法上に明記され信教の自由は、全国民に対し保証されている。しかし、この事件では、信教の自由が侵されているのではないかと争点になったのだ。また、この事件では。司法権の限界である学校側の裁量権も争点となった。

 この神戸高専剣道実技拒否事件同様に、エホバの証人の信者の信教の自由が侵されていると問題になったのが、輸血拒否事件である。この事件は、エホバの証人の信者である人が、輸血拒否の自己決定権が病院によるパターナリズムにより侵害されたというものだ。

 

4.   エホバの証人に対する私見

 憲法上にも明記されている通り、信教の自由は保障されている。そのため、神戸高専剣道実技拒否事件のように信教の自由を侵害し、自由裁量により不当な体裁を受けるのは当然おかしい。確かに、学習要領に必修と記されているにもかかわらず、入学した原告側にも否はあるが、原告側にとって進学先がそこしかなかったため学校側は原級留置ではなく、代替措置をこうずるべきと私も考え、最高裁判所の判決を支持する。

 また、輸血拒否事件では病院側のパターナリズム、ようは、お節介により問題が起きた。パターナリズムとは、強い立場にあるものが、弱い立場のものの利益になるようにと、本人の意思に反し、行動に介入・干渉することである。この事件の場合は、専門知識のある病院側が、エホバの証人の信者の意思を無視し勝手に輸血したことがパターナリズムである。一見、この病院のパターナリズムはお節介なように思えるが、自分が病院の立場だったら間違いなく輸血していただろう。そのため、この事件に関しての自分内での判決はとても難しい。

 

 

 

 

 

5.   レポート内容全部に対しての私見

 今回のレポート内容の重要な観点となったのが、司法権の限界であると思う。輸血拒否事件でも神戸高専剣道実技拒否事件でも、病院、学校の自由裁量が原因で事件が起きている。先ほども述べたが、裁量を司法ではなく、専門分野各々に任されているということは、専門的に問題を見極め適正な判断を出すことが大事だと思う。

 また、レポートのテーマでもある人権は不可侵なものであり、エホバの証人の事件のように、侵害してはいけない。

 そして、司法権の限界により、裁量を司法から手放すということは、何度も言うが各々が適正に判断し、人権を侵害しないようにしなくてはならない。

 無知な我々が人権を侵害されることにおびえず生活していくためには、専門分野がしっかりと機能してもらわなくてはならないと思う。しっかりと機能させるためには、司法、国会、内閣だけではなくて部分社会とのつながりも必要だと思う。

 

6.   半期の講義を通して

 半期を通して、法学に対する考えが深まりました。授業外でも法学について聞きたいことがたくさんあるので、後期、研究室にお邪魔させてもらいます。

 

※参考文献

ウィキペディア 砂川事件(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6

司法権 (http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/1503/sihouken.html

ポケット六法 有斐閣

ウィキペディア 苫米地事件 (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%AB%E7%B1%B3%E5%9C%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6

ウィキペディア 朝日訴訟(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E8%A8%B4%E8%A8%9F

ウィキペディア 神戸高専剣道実技拒否事件(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E9%AB%98%E5%B0%82%E5%89%A3%E9%81%93%E5%AE%9F%E6%8A%80%E6%8B%92%E5%90%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

ウィキペディア 輸血拒否事件 (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%B8%E8%A1%80%E6%8B%92%E5%90%A6

ウィキペディア エホバの証人 (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9B%E3%83%90%E3%81%AE%E8%A8%BC%E4%BA%BA

ウィキペディア パターナリズム (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0

 

 

 

 

宮橋直也

結論:私は裁判所だけがすべて判断するのはやはり限度があると思うが人権について明確な基準を設けるべきだ。

〜はじめに〜

争いが起これば裁判官が裁判で解決してくれるだろう。と思いがちではないだろうか。しかし、日本にある争いごと全部を裁判所が解決するというわけにはいかないのだ。実は裁判所が扱えるのは法律的な具体的事件(法律上の訴訟)だけなのだ。他にも、法律上の争訟であっても司法審査の範囲外にある司法権の限界と呼ばれるケースがある。

〜司法権の限界〜

憲法において、「政治過程における正義」の実現を目指す「法の支配」の思想を継受した我が国では、司法府は憲法上、一切の法律、命令、規則又は処分の合憲性を決定する権限を有する(憲法第81条、裁判法第3条第1項)とされるが、一定の問題については司法審査権が及ばないとされる。例えば、明文上の限界としては、「議員の資格の争訟」(憲法第55条:裁判所ではなく国会が独自に行う)、「裁判官弾劾裁判」(憲法第64条)、「大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権の決定」(憲法第73条7号)があり、また含意的な限界として、「プログラム規定」、「部分社会論」(団体の内部自治に関する事項には、裁判所は関与しない)、「自律権」(議院運営の方法など)、「行政・立法裁量」、「事情判決」(一定の公益上の理由・判決のもたらす混乱を回避するために、違法でも有効なものとして扱う、という判決)がある。そして、その中の一類型として、いわゆる「統治行為論」がある。ここではこれらの判例を挙げつつ裁判所の権限についてみていこうと思う。

 

統治行為

憲法上の解釈上の限界として、統治行為がある。統治行為論とは、高度な政治性を帯びた国家行為には司法権は及ばないとする考え方のことである。「高度な政治性を帯びた国家行為」とは、直接国家統治の基本となるような国家行為のことだ。例えば、安全保障に関すること。これに関連した判例に砂川事件がある。東京都砂川町(現立川市)の駐留米軍使用の立川飛行場の拡張の測量に反対するデモ隊が基地内に侵入。これが刑事特別法2条(米軍が使用する施設または区域を侵す罪)に問われ起訴された。上告審判決では、最高裁判所は「安保条約の様な高度の政治性を有する事項は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査には原則としてなじまず、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にある。」として、安保自衛隊問題に対して「統治行為論」を展開したのであった。「統治行為論」は、「裁判」の機能と「民主主義下の政治」という意思決定方式の調和を巡る問題に関わるといえるのではないだろうか。そして、司法がそのグレーゾーンに進出し過ぎた時、裁判官はその判決を「統治行為」と書くのではないだろうか。

〜部分社会の法理〜

憲法の解釈上の限界として部分社会論がある。部分社会論は、部分社会の法理とも呼ばれる。    部分社会とは、一般の市民社会の秩序とは直接関連しない団体のこと。例えば、地方議会、政党、大学などのことである。こうした部分社会の内部的な紛争には裁判所の審査権は及ばないとする。つまり、校則や政党規則には、違憲審査権が及ばないということになる。これに関連する判例に村議会の懲罰決議に関する訴訟について地方議会議員の懲罰決議、共産党袴田事件についての政党の党員除名処分、富山大学事件についての大学単位不認定が司法審査の対象となるかが問題となった。いずれも議会内、政党内、大学内での自手的、自律的判断に委ねられるべきものであって、司法審査の対象とならない」と判示した。

 

裁量行為について〜

行政庁の行う行為は羈束行為と裁量行為に分かれている。羈束行為は法律に書いてあることを機械的に執行し、そこに裁量の入り込む余地のない行為のこと。 裁量行為は法律に書いてあることがある程度抽象的なのでそこに行政庁の裁量の余地が生じる行為のこと。裁量行為は覊束裁量と自由裁量に分かれている。 覊束裁量は法律にある程度縛られて、残りの部分に裁量が生じる。 自由裁量は法律による縛りのない、完全な裁量行為のことである。国会や内閣などの自由裁量に属する行為は、その裁量を著しく逸脱したり著しく濫用したりしない限り、裁判の対象にならないのだ。ここまでは裁量行為についての説明である。この裁量行為に関する訴訟に朝日訴訟がある。これは原告(朝日茂)が、当時の「生活保護法による保護の基準」による支給基準が低すぎると実感し、日本国憲法第25条、生活保護法に規定する「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障する水準には及ばないことから、日本国憲法違反にあたると主張したものである。第1審の東京地裁は原告の主張を認め、憲法25条の趣旨に合致せず違法と判断した。ここで注目されるのは、東京地裁判決が、「健康で文化的な最低限度の生活」とは、「単なる修飾ではなく」、「理論的には特定の国における特定の時点において一応客観的に決定すべきものであり、またしうるものである」と明確に述べている点。しかしながら、第2審の東京高裁は違法とまでは断定できないとして、第1審東京地裁判決を取り消した。原告は上告したがのちの死亡によって最高裁はこの訴訟は終了した、という判断を行った。しかし最高裁は、「念のために」として、次のような判断も行った。ここからが本件の重要な部分である。『日本国憲法25条の「生存権」は、個々の国民に対して具体的な権利を保障したものではなく、その実現のために国政を運営すべき責任が国にあるということを宣言したものに過ぎない。なにが「健康で文化的な最低限度の生活」にあたるのかは、厚生大臣の裁量に委ねられており、その裁量権の行使に著しい濫用がある場合は別として、厚生大臣による生活保護基準の決定が直ちに違法とされることはない』といったのだ。これはつまり生存権の法的性格としてプログラム規定説を採用したと同時に生活保護基準は厚生大臣による自由裁量ということである。プログラム規定説とは、憲法25条は国民の生存を国が確保すべき政治的、道義的目標を定めたにすぎず、具体的な権利を定めたものではない、とする考え方である。つまり、国に課されている生存権を実現する義務は、努力すればよい、全ての国民に必ずしも最低限度の生活を保障しなくてもよい、それに向けて努力してさえいればよいと言っているようなものである。法を学んでいないものからすれば生存権によって私たちの生活は保護されるべきであると理解するものも少なくはないはずだ。しかし、これでは、国の側が「生存権」の実現をいくら怠ったとしても国民の側からそれに対抗すべき途はまるでなく、「生存権」は有名無実に等しい、と語っているのとなんら変わりはないであろう。

そしてもう一つこの裁量行為にかかわった神戸高等事件(エホバの証人剣道実技拒否事件)という信教の自由に対する制限について争われた判例がある。神戸高専事件では、信者が信仰上の理由から体育科目の剣道を履修拒否した。すると、学校側はこれを単位不足として留年させた。翌年も学生が剣道を履修拒否し、学校側は単位不足として留年させた。学校側は大替措置を認めず最終的には退学とした。原告(信者)は学校に対し、学校側の措置は裁量権の逸脱であると主張し、退学処分取り消しを求めて訴えた。この訴えに対し、一審は請求棄却(信者の方の敗訴)。二審は、請求認容(信者の方の勝訴)という判決が下された。二審で敗訴した神戸高専側が、最高裁に上告した。高裁および最高裁は一連の学校側の措置については、『信仰の自由や宗教的行為に対する制約を特に目的とする ものではなかったが、学生の信仰の自由に対して配慮しない結果となり、原級留置処分の決定も退学処分の選択も社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超えた違法なものといわざるを得ない』として、学校側の処分取り消しを決定した。本件処分による信者が被る不利益は甚大であり、学校側が代替措置を取るべきであるのは明白であることから、校長の裁量行為は裁量権の逸脱としたこの判決は妥当だといえよう。

 

〜自己決定権VSパターナリズム〜

医療訴訟などでは、しばしば患者の自己決定権が論点になる。パターナリズム自己決定権の衝突が起きるのだ。 パターナリズムとは日本語では、「父権主義」「温情主義」或いは、「父親的温情主義」とも訳され、もともとの意味は、半人前の子供のためにいろいろ世話を焼く父親のことを言っている。つまり、父親は、その行為において、自分の利益に関係なく子供にとって最善の方法を選んでいる。と、いう意味だ。宗教上の信念から輸血を拒否したエホバの証人の信者に対して、輸血治療を拒否する明確な意思があることを知りながら輸血の方針に関し説明をしないで手術を施行した事例では、意思決定をする権利を奪い、患者の人格権を侵害したとして、国と医師に対する損害賠償が認められた。健康で判断力を備えた成人ばかりを対象とするわけではない医療においてはインフォームド・コンセントの前提がそもそも成り立たず、パターナリズムによる医療が行われる場面は多い。患者が十分な理解力を備えた成人である場合でも問題が無いわけではない。あらゆる医療行為に伴い、起こる可能性があり専門家が考慮すべき医学的事項は膨大な範囲に及び、素人である患者は、専門家とはかけ離れた、限られた量の知識を元にして判断を行わざるを得ない。そのため、無制限に与えられる「患者の主体性」を認めることが果たして良いことかどうか、疑問視する考えもある。しかし、インフォームド・コンセント自体はそのような知識量の不均衡は当然の前提とした上で確立してきた概念である。「充分な情報提供 (inform) 」が何より重要な前提ではあるが、その上でなされた患者の自己決定権(とそれに伴う責任)は、最大限に尊重されるべきであるとする立場である。前述のエホバの証人の判例が示すように、現在では日本でも、パターナリズムよりも患者の自己決定権が優先される傾向にある。患者が、医学的観点から不適切であることがほぼ確実な治療方針を自ら選ぶ場合、生命を守ることが使命である医療従事者側は、非常に強い心理的抵抗を受けることになるだろう。現在、各医療機関の裁量に任されており、具体的なガイドラインはほとんど存在しない。裁判例においても見解が必ずしも一致しておらず、法整備やガイドラインを作成するべきである。

統治行為論の本質                                                                               http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7009/mg0001-2.htm

日本国憲法の基礎知識                                                                                                   http://kenpou-jp.norio-de.com/ 

憲法をわかりやすく                                                                                                     http://consti.web.fc2.com/index.html   

パターナリズムと態度の変更                                                                     http://www.e-oby.com/monthly/backup/06_01.html

ウィキペディアパターナリズム                                                                                                                     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0

ウィキペディアインフォームドコンセント                                                                                                                https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88

 

 

 

 

片岡漱

人権は、裁判所の権限によってある程度制限されるべきであると私は考えました。

【司法権の効力】

在日米軍立川飛行場(立川基地)の拡張に反対して1955年から1960年代まで戦われた住民運動をめぐる一連の事件である砂川事件において、当該行為である強制測量は統治行為に当たるとされました。すなわち、強制測量は国家統治の基本に関する高度な政治性を有する、と裁判所に認められたのです。日本は憲法第9条によって平和主義を掲げているが、刑法における正当防衛などと同じように、自衛の手段は持つべきであると私は考えています。そして、その自衛の手段には米軍との協力関係も含まれる以上、本件が高度な政治性を有しているということに異論を差し挟む余地はなく、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法に基づいた判決に間違いはなかったと考えられます。すなわち、憲法第13条による基本的人権の尊重であっても、国家統治に関する政治的行為には関与できないということです。その一方で、この統治行為自体には些か疑問が残ると言わざるを得ません。司法権、立法権、行政権の三つが相互に監視、牽制し、独裁的な権力の確立を防ぐことを目的として、三権分立は存在しています。国家統治の基本に関わる行為、すなわち行政権に対して法的判断が可能でありながら、司法権が及ばないとすることはこの三権分立の意義を成していないと言えるのではないでしょうか。似たようなことは部分社会論にも適用できます。これは日本の司法において、団体内部の規律問題については司法審査が及ばない、とする法理のことを指しますが、簡単に言えば組織の中の問題はその内輪だけで片付けろ、という話です。しかし、第三者機関による裁定なくしては根本的な解決には繋がりにくく、一度解決してもしばらく時間が空いたところで、また同じような問題が発生する可能性が考えられます。しかし、最も公平かつ強力な第三者機関の代表例である裁判所でも、根本的な解決が可能とも言えません。何故なら、能動的に行動に移すことができる立法権や行政権とは異なり、司法権はどうしても受動的にならざるを得ないからです。訴えなくして動くことができない点からしても、司法権の効力は他の二権と比べて少々劣ると見えます。けれど、ひとたび発揮すれば、「裁き」を可能にするのは司法権にのみ許された特権であり、それには立法権や行政権も逆らえません。総評すると、「条件は厳しいが非常に強力な権限を持つ」ことが司法権の効力だと言えるでしょう

【裁量行為の限界】

エホバの証人の信者である学生が、剣道の授業の履修を拒否して退学となった事件は、憲法第20条に規定された信教の自由の侵害であり、学校の裁量行為の逸脱濫用であるとされ原告が勝利しました。これに対し、朝日訴訟においては生活保護基準は自由裁量であるとし、憲法の特定の人権規定に関して、形式的に人権として法文においては規定されていても、実質的には国の努力目標や政策的方針を規定したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではないとする考え方(出典:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E8%A8%B4%E8%A8%9F)すなわちプログラム規定説に従い、原告の請求は棄却されました。これらのような行政行為のうち、要件または内容について法律が一義的に明確な概念で定めていないか,まったく定めていない場合,または当該行政行為を行うことが「できる」と定めている場合に,行政庁の裁量に基づいてなされる行為(出典:https://kotobank.jp/word/%E8%A3%81%E9%87%8F%E8%A1%8C%E7%82%BA-6830)のことを裁量行為と言いますが、その全てが司法審査などにおいて許されるわけではありません。では、その裁量行為の限界はどこにあるのでしょうか。私は「第三者の目から見て明らかに不義に映る場合」に限界は存在するのではないかと考えました。先に述べた学生が退学となった事件では、学校側がレポートの提出や他の実技授業などによる代替措置を一切取らず、半ば問答無用に近い形で退学処分としました。他の学校では同様な格闘技の授業を拒否する学生に対しては代替措置が取られており、学校側の措置が正当ではないと言わざるをえないでしょう。加えて、最高裁判所の判決によると、こうした代替措置を講じることは特定の宗教に対する援助をするわけではなく、むしろ一般の生徒と同じ措置を講じることを求めるものです。一方、朝日訴訟においては、原告は当時の「生活保護法による保護の基準」による支給基準が低すぎるとし、これは憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障する水準には及ばず、憲法違反であると主張しました。しかし、支給基準というものは個人によって非常に左右されやすく、支給金額が並外れて低い場合でもない限り明確な憲法違反であるとは言えません。そして本件の場合、不足額は当時の値段で70円という決して大きくない値であり、第三者の目から見て明らかな不義に映るとは思えません。以上のことから、「エホバの証人の信者の学生による、神戸高専剣道実技拒否事件」と「朝日訴訟」から裁量行為の限界を推し量ることができます。

【自分の選択】

我々は、自己決定権があると信じています(憲法13条参照)。自己決定権とは、言わずもがな、自分のことは自分で決める権利です。これをより具体的にいうと、自分の住む世界観や人生を他人ではなく、自分本人が決することができる、言い換えれば、人生や世界観を他者に強制されない自由があるということです。 

また、自己決定権とは対をなすパターナリズムという言葉があります。その内の1つにリーガルパターナリズムがあり、法的父権主義と訳され、法が個人に対し、一定の後見的作用を持つことをいいます。例えば、各種消費者法上の規定や、刑法の自殺関与等罪(刑法202条)などがこれに当てはまります。 

上記2つを見比べればわかるとおり、これらは時に対立します。例えば、いわゆる安楽死ですら、現在の日本では(法の建前上は)せいぜい自殺幇助罪や嘱託殺人罪です(なお、安楽死等に理論上完全な違法性阻却を認めるかは判例・学説上議論のあるところです)。自己決定権とリーガルパターナリズムのいずれが優先するかは難問です。真に自己決定権なるものを突き詰めれば、人は他人の行動には干渉できず、ひいては国家の存立基礎を否定することになります。しかし、逆にリーガルパターナリズムを突き詰めれば、そこに「自己の生(き方)」はなくなるでしょう。人は社会ないし国家(あるいは独裁国家であればその独裁者)の決定した「善き生(き方)」に従わなければなりません。

このように見たとき、我々が突き当たる問題は2つあります。まず、「善き生」は誰が決定するのかという問題。そして、仮にその「善き生」を何者かが決した時、他者はそれに対して異を唱えることができるのか、唱えることができたとして、それはいかなる価値を持つのかです。もし、善き生を個人が決定することができるのなら、国家や社会、さらには他人が「お前の生き方は正しくない」ということはできないはずです。しかし、現実にはそんなことはおそらくなく、例えばいわゆるブラック企業問題にせよ、社会が企業に「善き生」を強制しているように見えます(若干の付言をすると、会社も法人として社会的実在だとすると、自己の会社をどのようなものとして存在させるかは当該の会社が決することができ、また従業員も自己の判断で当該会社に入社した以上、第三者がどうこういうことはできないはずです)。逆に、社会や国会が「善き生」を決することができるというのにも違和感があります。例えば、アニメや漫画で児童ポルノを楽しんでいる人が、「それは正しくない」と断じるべきか。おそらく、「何も社会に迷惑をかけていないではないか」という反論が出てくることでしょう(不快感というものについては後述)。 

おそらく、通説的・一般的な理解としては、「善き生」の決定権者は個人だというのはそれほど疑われていないと思います。しかし、なぜ人は自分の生き方を自分で決することができるのでしょうか。現実的な問題として、人は自己以外のものから受ける作用を否定することはできません。他者の考えや感性に触れ、自己の見解を変えていくことは間々ある話ですし、自然豊かなところで育った人と都市部で育った人ではまた人生観は異なるはずです。その意味で、本人は「自分で決した」つもりでも、そうとは言い切れない面があるのです。これは、いわゆる「自由意思論」や「決定論」などに繋がる問題ではあります。これについては、「決定されつつ決定する」という平野龍一博士の言があるところです(平野龍一『刑法の基礎』参照)が、そのことが自己決定権を正当化する根拠にはならないでしょう。まして、社会が「汝殺すなかれ、盗むなかれ」と求めており、彼が実際に出来心から盗んでしまい、社会的非難を受けたために改心した時、彼の「盗むことには問題ない」という自己決定は「矯正」されたことになります。

自己決定は果たして万能なのでしょうか。つまり、「これは自己決定の結果だ」ということがどれだけの意味を持つのでしょうか。この問題にはきめの細かい検討が必要です。私たちが自室にいるときと、公道上にいるときでは、自己決定の持つ意味や範囲は異なりそうです。自室にいるときの行動で、かつ全く誰にも迷惑をかけ内容な行為であれば、それはすべて自己決定に従わせることができるでしょう。対して、公道上でわいせつな行為を行えば、公然わいせつ罪(刑法174条)となります。これは、言い換えれば、公道上でのわいせつな行為を行う「自己決定」を実現できないということを意味しています。したがって、「自己決定」を名目に何でもできるということはあり得ません。

このように考えてくると、一定の範囲で自己決定はリーガルパターナリズムによって制限されるということになります。しかし、なぜそのようなことが可能なのでしょうか。いくつかのあり得る考えがあります。1つは、自己決定の濫用が他者に迷惑(危害)を加える(おそれがある)からだというものです。これはいわゆる他害禁止原則であり、自己決定内在的な制限だという見方もできます。その意味では純然たるリーガルパターナリズムではありません。よりわかりやすいものは、自己決定をなす者の能力不足を指摘する場合です。この場合には、まさに「パターナル」な目的があります。しかし、例えば3歳児や現在の成年後見にあたるような精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く常況にある者(民法7条)に対してはこれはある意味正当化し得ても、いわゆる「普通の大人」は「能力不足」はないのでしょうか。我々の決断は、それまで得てきた知識と養ってきた思考力、そして価値観に影響を受けており、必ずしも「最善」ではありません。それどころか、将来においてはそのような諸要素が変容する可能性は十分にあり、その個人史の中ですら、自分から見ても「最善」だということにはならないかもしれません。そうすると、3つ目として、そもそも人間は不完全なのだから、より才能のある人間(いわば聖人)が個人の意思とは関係なく、最善を決することができるというものです。しかし、これはそのような判断者が実現し得ないという問題があります。 

現代において法の設定権者である国家の役割は、国民の幸福を維持・増進させることだということがいえます。そうすると、国家にある程度の交通整理をすることを認めざるを得ません。ですが、その「国家」が上手に交通整理をしてくれる保証はなく、場合によっては過少だったり過剰だったりし得るのです。そのときに、それが「過少である」とか「過剰である」という切り札が自己決定だということにもなるのかもしれません。ですが、この発想は、「まず自己決定あり」ではなく、「まずパターナリズムあり」です。これについては、その交通整理は、「まず自己決定を尊重する」という立場でなされる限り、自己決定が優先するとみることもできそうですが、やはり、その「自己決定を優先する」という判断自体がパターナリスティックだということができそうです。 (出典:http://s.ameblo.jp/jurisdr/entry-12035764420.html)

 

 

 

 

滝島 慎

 

 

テーマ「人権と裁判所の権限」

 

16J110015 滝島 慎

結論 

日本の法律のシステムにはまだまだ不備があり、改善すべき点もあるということ。                                                                              

 

理由

()砂川事件や苫米地事件や朝日訴訟などのようにと裁判所が統治行為を認めたことによって裁判事態が形式的になってまったのではないかということ。プログラム規定説の有無

()エホバの証人事件のような、信教の自由自己決定権、そしてパターナリズムをどう解釈すればよかったかということ。またその裁量行為に関して

()部分社会論や自立権などの法律で裁くことが難しい解釈など。

 

本論

・まずは()砂川事件のような例だが、この事件は東京立川の砂川米軍基地でデモ隊が米軍基地に侵入したとして起訴された事件であるが、当時の最高裁判所は原告の主張に対し、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、「一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」と述べている。しかし私はこれに疑問を持つ。    そもそも憲法9条には「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とある。この解釈を素直に受け止めるならば、米軍の存在は決して見逃せないはずだ。 もちろん

米軍が果たして9条の武力に当てはまるかというとそれには確かに疑問が残る。しかしそれならば憲法を国民によって改正するか否か問うことも可能なはずだ。だがこの事件を見る限り、私には裁判所が統治行為論を盾に一方的に断っているようにしか見えない。そもそも司法は国会や内閣とは分離されるべき存在のはずなのに、これではまるでその国会や内閣に賛同しているように見える。しかもこの事件は後に当時の米国の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世が、同判決の破棄を狙って外務大臣藤山愛一郎に最高裁への跳躍上告を促す外交圧力をかけたり、最高裁長官・田中と密談したりするなどの介入を行なっていたことが判明した。これが事実ならばまさに憲法は米国によって管理されていたということになり、それはもはや「日本国」憲法とは呼べないのではないかと思った。またつい最近まで話題になっていた集団的自衛権なども、もしまた米国の圧力が加わってしまったらと思うとゾッとする。私は日本がもっと自分たちの意見を確立しそれを隠すことなく広めていかなければ、この先こういう問題は再び起こると思う。                                                           

・つづいて()エホバの証人事件のような場合だが、このような問題も裁判する上では極めて意見が分かれるところであると思う。例えば1985年に起こった「エホバの証人輸血事件」では子供が重傷を負ったにもかかわらず親が輸血を拒否したため、子供は死んでしまった。私自身はこの事件は命と信条のどちらが上かという我々に問いかけているような問題だと思う。そもそも、命と宗教では命の法が、圧倒的に大事だと思われるはずだが、この事件はあまりにも命を軽視しすぎてはいないだろうか。「輸血拒否者が法律上の成人であり、自己の身体の状況や治療方法を認識・理解し、治療方法の選択と意思表示の必要十分な能力がある場合は、憲法で民主主義と人権の尊重を定めている国では本人の自己決定権が尊重されるので、輸血を拒否することも、その結果として死に至ることも、法律上の問題にはならない」らしいが、確かに法律上は問題ないかもしれない。しかし常識的な視点を加えれば、命を優先させる方が大事であるべきだろう。また同じくエホバの証人絡みの事件として、神戸高専剣道実技拒否事件があるがこれは逆に宗教側を優先するべきと私は思う。なぜなら先ほどの命とは違い、代替ができるからだ。この事件の簡単な概要として「公立学校の学生が、自己の宗教的信条に反するという理由で、必修科目である剣道の履修を拒否したため留年処分となったうえに、次の年度も留年処分となったため、学則にしたがいその退学処分にした処分に対して、違法であると取消しを求めた行政訴訟(抗告訴訟)である。」結果としては原告側が勝利となった事件であるが、この中で被告側も「原告が主張する代替措置を学校が認めたら、特定の宗教の信仰を援助支援したことになり、日本国憲法203項の政教分離に反することになる」と述べている。私はこれを見て少し納得してしまった。確かにこれだけ見れば特定の宗教を贔屓にしたといわれてもしょうがないだろう。だがよくよく考えればこういう問題があるからこその代替措置であり、この学校は憲法20条を盾にしているということが自分は思った。信教の自由というのは大変素晴らしいものであると思うのだが、国や自治体がしっかりと宗教を理解しない限り、このような事件やオウム真理教のようなテロ組織のような危険な思想の宗教も誕生してしまうのではないかと私は思う。そのためには自由でありつつも、やはり多少の規制はやむを得ないと思う。 

()のケースでは、部分社会論を正当化する根拠の一つとして

当該個人がその団体すなわち部分社会に入るか否かということが重要になってくる。私情を挟んでもらうと、私が送ってきた学生生活では、それが如実に表れていた。生徒間のルールがまるで社会の暗黙の了解のルールのようになっていたりしていた。そういった意味でも部分社会論というものがいかに我々に根付いているかということがよくわかる。 法実証主義の下では、法は法規範、すなわち社会規範の一種と考えられる。逆に言うと、法が存在するためには、その基盤となる社会の存在を必要とする。そして社会とは一般に人間の集団を意味する。そこで問題となるのが、法がその存立の基礎、基盤としている社会というのは、どのような人間の集団を意味するのか、という点である。これに対する抽象的な解答は「法の社会的基盤というのは、他の上級の社会団体の授権・委任ないし承認に依存することなく、自己固有の意思によって法を生み出しまたは承認し、そしてその存立と作用を支え保障する所の社会、つまりその明示ないし黙示の承認によって法の生命を究極の所で支えている、その社会を言う。法の直接の定立者とか強制者とかいうのではなく、むしろその背景ないし基底にあって法の生命を支え動かしている、いわば法のトレーガーたる社会」である、と言うことになろう。

  そこで、次に問題になるのが、そのトレーガーたる社会とは、具体的にはどのようなものと観念されるか、という点である。講学上の部分社会の概念は、この概念の一つとして観念されている法が社会規範の一種である以上、その基盤は特定の社会の上に存在している。法が社会秩序に関する規範であり、社会秩序は、当該社会に存在する基本的価値観によって決定される以上、法の基盤となるところの社会とは、共通の価値観を持つ人間の集合として理解することが出来る。

  全体社会の中にあって、その構成員の一部のものによる部分集合を、部分社会と呼ぶ。部分社会をどのような基準を使用して定義するかは一つの問題であるが、ここでは最大の外延を与えるということを根拠として、その所属員を法的観点から見て他と区分するメルクマールが存在しているところでは、その存在を認めることが出来ると考えることにしよう。この定義による場合には、国家、官庁、会社、家族などのように長期に存在することを予定する組織を有するものばかりでなく、契約等の存在をメルクマールとして、その契約等の当事者で構成されるごく短期的かつ無組織な社会も部分社会として認めることとなる。このように定義することは、同時に判例理論の根拠となった田中耕太郎説とも一致すると考えて良いであろう。

 すなわちその中で同判事は「法たるがためにはその社会が組織化されていることを必要とせず、組織化されざる社会もまたその状態に相応した法を要求するものと考える」と述べていたし、その少数意見の中でも、組織化の程度を問わず、部分社会一般を対象として議論をしてきていたからである。

  このように、二種類の社会を考えた場合、そのいずれが法の基盤となる社会であるかが次の問題となる。第一節に述べたとおり、全体社会とする恒藤説と部分社会とする田中説の対立がここにあるわけであるが、次の理由から全体社会説を妥当と考えたい。すなわち、部分社会論を採ると、例えばやくざの部分社会とか、盗賊の部分社会とかを規律する法規範を、裁判所は、その部分社会構成員を拘束する法規範として承認しなければならないことを意味するからである。承認するとは、要するに、その社会に属しない通常の国民がそれを尊重して行動することを意味するわけであるが、これは明らかに社会価値の多元性を導き、安定的な社会の建設を不可能にするものと考える。

  すなわち、部分社会論による場合には、これら反全体社会的な価値によって支配されている部分社会の法でさえも、国家の定立した法と衝突する限度においてのみ否定され、個々的には、国家の法と整合性を有している限り、裁判所としてそれに基づいて判断を下すことを要求されることになるからである。なお、このことの具体的な意味については後に改めて考察する。

  全体社会説を採用するにあたっては、いま一つ検討を要する点がある。それは、法の基盤を国家とする説との関係である。すなわち、我々日本人の周囲にあって、共通の価値観を持つ人間の最大の集合、すなわち恒藤恭のいうところの全体社会は、日本と呼ぶことが出来る。すると、同じ日本を国家と呼ぼうと全体社会と呼ぼうとどういう違いがあるのだ、という疑問が出てくるのは当然であろう。現に、佐藤幸治は「現代国家を対象とする限り、『全体社会説』が、『国家説』と異なる、どのような存在理由を主張しうるのか必ずしも明らかではないように思われる。」という疑問を呈している。

私見

私自身は法というものについて詳しいというわけではない。しかしこれらの判例を見て、まとめていく内に法律とは完璧なものではなく、その時代背景に合わせて刻々と変化していくものという認識がついた。法とはいわば生きていく上での形式上の規則であり、また実質上の規則でもある。しかし事件によっては同じような内容でも裁判官によっては全く真逆の結果になってしまうこともある。それは必ずしも同じ事件はないといわれれば仕方がないことかもしれないが、私はそうだとしても万人に納得できるようにするべきだと思った。以上のことから私は日本の法律にはまだまだ問題点もあり、そしてそれは、まだまだ伸びていく所もあるということでもある。

参考文献

wikipedia

http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/ronbun/bubun.htm いわゆる「部分社会の法理」につい

 

 

 

 

松本和也

 

人権と裁判所の権限

結論

すべての人権は保障されるべきであるが裁判所の権限により保障されない場合がある

裁判所の立場

裁判所の権限から考えてみると、司法消極主義というものがあり、まず司法消極主義とは、「司法府は、立法府および行政府の措置をできるだけ尊重し、その措置が違憲無効であることがきわめて明白な場合に限って、その措置を違憲無効と宣言する、という立場」(www.bengo4.com司法消極主義とは)これには部分社会論統治行為裁量行為、というものがあり、1つ1つ判例とともに考えていく。

裁判所と政治、外交問題

まず、統治行為では、有名な判例として砂川事件というものがある。砂川事件の裁判のなかで「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第92項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。」と第一審はしている。たしかに9条2項では陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。となっていて確かに日本政府がアメリカ軍の駐留を認めたのは戦力の保持になっているのではないか、と考えた。しかし最高裁の判断は、「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6)この裁判所の判断に対して自分は賛成的な意見を持っています。このような国と国との取り決めによって決められたことは、いわばその道のプロ達、専門家が考えたことを裁判所が勝手に違憲か違憲でないかを決めることは、外交的な問題にも関わってしまいかねないと考えています。このように最高裁が正確に判断できないために守られるべき人権も守られなくなってしまっても仕方ないと考えています。統治行為がなければ裁判所は外交についても口出しできるようになってしまい、国家の尊厳までも失われてしまう可能性もあると考えています。

組織内部と裁判所の関係

次に様々な組織の内部についてのことだが、ここで司法消極主義の1つである、部分社会論について考えてみると、団体内部の規律問題には司法審査が及ばないとされている。これの理由としては、団体、強いていえば会社や学校などがあるが、学校や会社にはその組織の中での規律を守るために様々なルールがある。これに違反すると学内制裁や社内制裁が行われる。これらのことは入る前から分かっていることであり、それを踏まえて入るかはいらないかを決める自由がある。それに同意して入るのでそこでの制裁について裁判所がとやかくいうべきではないため部分社会論があるのだと考えている。部分社会論がなければ組織は自由に規則を作れなくなってしまうこれでは組織内の規律が守られなくなってしまう。このため裁判所は組織内部のことに関しては審査できないとしているのだと自分は考えている。しかし疑問に思うとこがある。それは、神戸高専剣道実技拒否事件でのことであるが、この事件はエホバの証人の信者が信仰する聖書に基づき体育の必修科目である剣道の授業の履修を拒否して原級留置を二回して、学校の規則である二回原級留置をしたものは退学ということを命じられ、元学生が必修の体育科目の一部である剣道の授業を拒否した学生に対して、学校側はレポート提出等の代替措置を一切認めず欠席扱いとし、最終的には退学とした学校側の措置は裁量権の逸脱である。

学校側による剣道の履修の強要は、日本国憲法が保障する信教と良心の自由を侵害する行為である。

他の学校では同様な格闘技の授業を拒否する学生に対し代替措置が行われている。また高等専門学校において剣道実技の履修が必須のものとはいえない。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E9%AB%98%E5%B0%82%E5%89%A3%E9%81%93%E5%AE%9F%E6%8A%80%E6%8B%92%E5%90%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6)として学校側に対して裁判を起こしたがこれに対して学校側は、学校入学時の募集要項に必修科目の事が記載していたはずであり、単位として取得できなければどのような措置になるかが周知されていたといえる。そのため履修拒否することは最初から予期していたはずだ。

原告が主張する代替措置を学校が認めたら、特定の宗教の信仰を援助支援したことになり、日本国憲法203項の政教分離に反することになる。

信教の自由による行為が常にその自由が保障されるというものではない。信教の自由を制限して得られる公共的利益の方が学校運営上必要である。(上のURLと一緒)と反論した。学校側の主張から考えてみると、たしかに入学時の募集要項に記載していたため必修科目については知っているはずであり、それを承知で入学したはずである。しかし元学生は制裁に対して不服とし訴えた、これなら部分社会論を用いて裁判所は組織内部のことは審査できないとするはずである。だが最高裁は、地裁の判決を破棄し、学校側による一連の措置は裁量権の逸脱であり違憲違法なものであったと認定し原告の主張を認めた。最高裁第2小法廷が199638日に全員一致で出した判決文の主旨によれば、『他の学校では同様な格闘技の授業を拒否する学生に対し代替措置が行われている』とし、『高等専門学校において剣道実技の履修が必須のものとまではいい難く、他の体育科目による代替的方法によってこれを行うことも性質上可能である』とした。

一連の学校側の措置については、『信仰の自由や宗教的行為に対する制約を特に目的とするものではなかったが、学生の信仰の自由に対して配慮しない結果となり、原級留置処分の決定も退学処分の選択も社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超えた違法なものといわざるを得ない』として、学校側の処分取り消しを決定した。

 

なお学校側が主張した学生の行為を認めたら日本国憲法203項の政教分離に反するか否かであるが、『代替措置を講じることは特定の宗教に対する援助をするわけではない』として、特定宗教の援助にはあたらないとした。このように判断し元学生側の主張を通し学校側の処分を取り消しているではないか、これでは裁判所が学校内部のことについて司法審査してしまっている。この判決に対して自分は反対しています。これでは部分社会論が意味をなしていないことになっていると考えている。裁判所は元学生の人権を守るために組織内部のことに立ち入ってしまっている。これでは司法消極主義の原則からはずれてしまっていると自分は考えている。

生存権と権利説

朝日訴訟を使って考えていく。まず原告が当時の「生活保護法による保護の基準」(昭和28年厚告第226号)による支給基準が低すぎると実感し、日本国憲法第25条、生活保護法に規定する「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障する水準には及ばないことから、日本国憲法に(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E8%A8%B4%E8%A8%9F)反するとして厚生大臣を相手に裁判を起こした事件である。判決は、「憲法251項はすべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に具体的権利を賦与したものではない」とし、国民の権利は法律(生活保護法)によって守られれば良いとした。「何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、厚生大臣の合目的な裁量に委されて」いる、とする。裁判所は判断を厚生大臣に任せたとしているが、これは裁判所が裁量行為論を適用して裁判所自らが判断を下すより専門家である厚生大臣に判断を一任する方が正しい判断が行えるとしたものである。また、憲法251項はすべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に具体的権利を賦与したものではないとしているがここでプログラム規定説を使用している。たしかに憲法25条の生存権はここの国民に対して具体的にどのように保障するなども相手おらず、国の責務としているだけであり、具体的な内容が全く明記されていない。これを勝手に裁判所が判断し判決を下すにはやはり無理があるとは思う。だが、このプログラム規定説には反対であり、これでは憲法25条の生存権が何の意味もなく国民の人権を守ることができなくなってしまっている。裁判所は人権を守るためにはプログラム規定説ではなく具体的権利説や抽象的権利説を用いて考えていかなくてはならないと考えています。人権を守るためには抽象的権利説では25条を直接根拠として請求ができないため少し弱くなってしまいプログラム規定説にかなり近いものとなってしまう。それで、具体的権利説を用いれば確実に生存権を保障することが可能になります。これまでのことを踏まえて、人権について考えていくと、人には自己決定権があると自分は思っているが、これをすべて権利として認めてしまうと、憲法の13条の幸福追求権の公共の福祉に反しないかぎりすべてのことが認められてしまう。これに対抗するためには裁判所が独自にきめることができないことに関しては専門家や詳しい人にゆだねるようなパターナリズムをとるべきなのか考えていかなくてはならない。現代は自己決定権が強く尊重されているが、裁判所は部分社会論統治行為論、裁量行為論から、基本的に専門家や知識が多いひとに任せることがあり、専門家などに頼りすぎてしまっているし、そちらの方が正しい判断ができているとなってしまっている。これは裁判が自らの判断により失敗してしまう責任から逃れようとしているのではないか。パターナリズムを使うことにより国民を専門家や国家が制限してしまっているとも考えている。これを解消するためには自己決定を尊重し、線引きを決めて判断していかなくてはならないだろう。パターナリズムに関することを明確にすることも人権を保障することにつながっていくのではないか。これらのことから考えて、結論である、すべての人権は保障されるべきではあるが、裁判所の権限により保障されないことがあるということになると自分は考えている。

                                                                                       

 

 

 

 

嶋田凌也

「テーマ」人権と裁判所の権限

裁判所の権限は法律で行政機関を制限しないといけない

 

統治行為について

まず最初にに統治行為について考えていきたいと思います。まず、統治行為論とは国家統治の基本に関する高度な政治性を有する国家の行為については、法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても、これゆえに司法審査の対象から除外すべきとする理論のことをいいます。裁判所が法令個々の違憲審査を回避するための法技術として説明されることが多いが、理論上は必ずしも憲法問題を含むもののみを対象にするわけではないものです。すなわち、憲法81条の定める違憲立法審査制度の下で、裁判所は原則として国家のすべての行為について合憲性の審査を加えることができるが、そこには一定の限界があり、統治行為にあたるものについては審査を控えるべきだとするという考えです。また統治行為論にあたる事件として苫米地事件があります。この事件は衆議院の解散によって衆議院議員の職を失った苫米地さんが衆議院の内閣不信任決議を経ずに内閣によって一方的にされた衆議院の解散と歳費の支給を訴えて合憲性を争った事件です。この事件の当時は憲法7条による解散の事例がなく解散権による論争がおきてしまいました。この苫米地事件の判決は原告敗訴となったがこの判決は適切だと考えます。なぜなら、衆議院の解散が、その依拠する憲法の条章について適用を誤った故に、法律上無効であるかどうか、これを行うにつき憲法上必要とせられる内閣の助言と承認に欠点があったが故に無効であるかどうかのことは裁判所の審査権に服しないものと考えられるからです。そして、裁判所の権限としては統治行為を採用して違法性の判断を回避したため、裁判所の権限の外にあると考えます。また衆議院の解散に関連した事件は砂川事件があります。この事件はアメリカ合衆国軍隊の駐留が、憲法九条二項前段の戦力を保持しない旨の規定に違反し許すべからざるものであるということを前提として、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約三条に基く行政協定に伴う刑事特別法二条が、憲法三一条に違反し無効であるというのであります。裁判所は、国内法としての一般条約を含む一般の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限をあります。しかし憲法の三権分立の理念、司法権の性質、行使の仕方、その効果に照らし、例外として、ある種の国会各院の行為または政府の行為で、裁判所によってそれが違憲であると決定されるに適しないため裁判所の審査権の対象から除外されるべきものがあります。私は欧米の憲法上の統治行為や裁判所の審査に服しない高権行為、もしくは政治問題などと呼ばれるものについて知るところがないが、日本には、統治行為の観念はこれを定義しまたは明らかにすることは困難であるとしつつもこの名の下に国会の行為または政府の行為のうちには裁判所の違憲審査の対象とされるべきでないものが存すると思います。

 

輸血拒否事件

次にパターナリズムについて考えていきたいと思います。パターナリズムの定義は強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるように、本人の意志に反して行動に介入、干渉することをいいいます。パターナリズムの類別にはパターナリズム強いパターナリズムと弱いパターナリズム、直接的パターナリズムと間接的パターナリズムに種類区分がされています。これからパターナリズムの区分の見方ができるか判例で検証していきたいです。パターナリズムに関するものとしてキリスト教系の新宗教の組織のエホバの証人が挙げられます。川崎学童輸血拒否事件では小学生の男児が神奈川県川崎市高津区で交通事故に遭い、両親が輸血拒否したことにより死亡したとされる事件で裁判所から略式命令が下され、児童の両親は無罪、運転手が業務上過失致死罪で起訴され罰金15万円の有罪となりました。エホバの証人の見解では、献血については、輸血に加担するものとして、行わないように信者に指導しているため、エホバの証人が献血を行うことは教義上ないと思います。そしてこの事件は医療におけるパターナリズムに関する問題だと思います。またこの事件は憲法第20条の信教の自由の保障に該当しているため無罪と主張できると考えます。結果として輸血拒否事件は輸血するとの方針を採っていることを説明しないまま手術を施行して輸血をした場合において医師の不法行為責任を認めました。また輸血拒否問題は自己決定権として捉えることができると思います。なぜなら自己決定権とは自らの生命や生活に関して、権力や社会の圧力を受けることなく,本人自身が決定できる権利だからです。また基本的人権の尊重は自由や平等など誰もが持っている権利です。これは憲法によって保証されている。例えば住む場所や職業を自由に選ぶことができる居住・移転の自由、職業選択の自由。自分の意見を自由に述べる事ことができる言論・集会の自由。法の下で平等に扱われる法の下の平等など。しかしこの大切な権利が侵されたら大変なことになります。また権利同士がぶつかり合ったときにトラブルになるかもしれません。そんなときに助けてくれるのが裁判所です。裁判所では法律に基づい争いごとを解決したり罪のあるなし判断したり国民の権利を守ります。次に朝日訴訟についてみていきたいと思います。この事件は生活保護処分に関する裁決の取消しを求めて争われた行政訴訟です。争いの事実は長期重症結核患者として国立岡山療養所に入所していた朝日茂が 1956年、長年音信不通であった実兄から月額 1500円の仕送りを受けることになり、これに対し津山市社会福祉事務所長が生活保護の変更決定を行い同年8月以降 600円の生活扶助 (日用品費) を廃止し,代りに送金分から 600円を渡し、残余の900円を医療扶助の一部負担に充当したことから始まりました。この事件は厚生大臣が最低限度の生活水準を維持するに足りると認めて設定した保護基準による保護を受け得ることにあると思います。もとより、厚生大臣の定める保護基準は、憲法82項の事項を守ったものであることを要し、結局は憲法の定める健康で文化的な最低限度の生活を維持するにたりるものでなければならないからです。しかし、健康で文化的な最低限度の生活なるものは、抽象的な相対的概念であり、その具体的内容は文化の発達、国民経済の進展に伴つて向上するのはもとより、多数の不確定的要素を綜合考量してはじめて決定できるものであるからです。したがって、何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、一応、厚生大臣の合目的的な裁量に委されているため、判断は当不当の問題として政府の政治責任が問われることはあってもすぐに違法の問題を生ずることはないと思います。結果として原判決は、保護基準設定行為を行政処分たる覊束裁量行為であると解し、なにが健康で文化的な最低限度の生活であるかは、厚生大臣の専門技術的裁量に委されていると判示しその判断の誤りは、法の趣旨、目的を逸脱しないかぎり、当不当の問題にすぎないものであるとしました。日本国内でプログラ規定説が問題となった訴訟としては、社会保障立法における併給禁止規定の合憲性を争った堀木訴訟などがあります。これらの最高裁判所の判例はプログラム規定説に立っているが、両訴訟とも裁量権の著しい逸脱など、一定の場合に第25条の裁判規範性を認めていることから、純然たるプログラム期定説ではないとも言われるそうです。

 

裁量行為について

次に部分社会論について考えていきたいと思います。部分社会論の定義は日本の司法において、団体内部の規律問題については司法審査が及ばないとする法理です。部分社会論に関連する用語としては三菱樹脂事件が挙げらられるます。私企業が試用期間にある労働者の思想、信条を理由として本採用を拒否したところから起こった裁判事件で、私人相互間における憲法上の人権保障の効力、労働者の思想・信条の自由や法の下の平等と私企業の財産権、営業の自由との関係を問題とすることによって、日本の資本主義の枠やあり方を問題とした事件でした。私はこの事件に対しては企業側が勝つと思います。なぜなら人は基本的人権の尊重がありそして思想の自由があるからです。企業側が好ましくない思想をもった人を採用か不採用かを決めるのは企業に採用の自由があるため最高裁判所の判決は納得できるため適切な判断だと私は思います。裁量行為とは行政行為のうち、要件または内容について法律が一義的に明確な概念で定めていないか、まったく定めていない場合、または当該行政行為を行うことができると定めている場合に、行政庁の裁量に基づいてなされる行為です。ここでは行政裁量と覊束行為の二つに分けてみていきたいとも思います。まず行政裁量とは行政行為を行う際に法律により行政機関に認定された判断余地のことです。しかし、行政機関に裁量は良いことばかりではないと思います。なぜなら行政機関を法律で拘束しなければ行政機関は国民の権利を侵害をする恐れがあるからです。しかし政府に判断の余地があったとしてもすぐに国民の権利の批判や内閣へのコントロールなど不当な行為を許さない力は様々な形で存在すると思います。そのため法律ばかりに頼らなくても人権の保障は可能だと思います。次に覊束行為とは行政庁の行為のうち,自由裁量の余地のない行為。法の規定が一義的であって,行政庁はそれをそのまま執行しなければならない行為という定義があります。覊束裁量は法律が客観的な基準を定めていて、その基準に従うことを求めているが問題点があると私は思います。その理由は覊束裁量では行政行為が違法と判断されやすいからです。だが自由裁量では裁量の逸脱や濫用がないと不当行為にとどまり違法とは評価されないが、いずれも司法審査に服することは同じだと考えます。

 

まとめ

今回10個のキーワードを調べていく中でたくさんの専門用語がありました。自分で積極的に調べてことは自分のためにもなるし将来知ってて損はないと思うのでこれからも専門知識を増やしていけるように頑張って努力していきたいです。

 

 

参考文献:弁護士ドットコム、裁判所COURTS IN JAPAN

     六法、Wikipedia