吉野孝則
2018年1月 法律学演習レポート 中江章浩先生 吉野孝則
テーマ:過失とは何か
結論:過失と証明責任を見直すことにより社会に大きく貢献する。
「過失とは何か」を考えるにあたり「証明責任」「過失」「解決策」「社会保障と証明責任」の順番で検討する。
証明責任
証明責任とは民事訴訟においてある事実の存否が不明の場合に、その事実の存在または不存在が擬制されて判決がなされることにより当事者の一方が被る不利益のことである。
例えば、民法709条では要件である@故意・過失A損害の発生B他人の権利C因果関係D責任能力の全てを請求者側が立証する責任がある。「責任」といっても何かをしなければならないという義務ではなく、それを立証できないと自分の請求が認められないという不利益に対する責任のことである。そしてどちらが証明責任を負うのかというルールが証明責任の分配基準である。しかし、この証明責任が条文に直接規定されていないことが大きな問題となる。そこで、当事者間の公平な観点から証拠との距離や立証の難易度により分配を決しようとする利益衡量説と、条文に証明責任を読み込む法律要件分類説の対立がある。
利益衡量説は結果の妥当性を追求するあまり条文から離れすぎるという欠点があり、法律要件分類説をローゼンベルクが言ってから100年経ってもいまだに通説とされている。通説である法律要件分類説は条文を@権利根拠規定A権利障害規定B権利消滅規定として、さらに条文を一項、二項、但書にわけて証明責任を分配する。例えば、民法95条で考えると、錯誤の主張は何かしらの権利根拠規定に関する権利障害規定となり、但書以降はその権利障害規定に対する権利障害規定となり、無効を主張する側に錯誤があった事実の証明責任があり、妨害する側に表意者の重過失を証明する責任があると読める。しかし、一見便利な法律要件分類説だが、どの条文のどの部分が権利根拠規定や障害規定と読むかには議論があり、仮にそれを貫徹すると正義に反する場合や不都合があるために修正されて運用されている。
淫行条例では年齢を知らなかったことを言い訳にできない一方で、過失がなかった場合はこの限りではないとして証明責任の転換が行われている。もしも民法709条のように請求側である淫行被害者に証明責任を課すのは証拠・負担の面からも適当ではなく、政策的に証明責任の転換がされている。
転換される理由として、証明できなかった場合は「真偽不明」となり、証明責任を負っている側の請求が認められないことになって負けてしまうことになるからである。
以下では証明責任の所在を外観しておこう。
|
所在 |
内容 |
民法不法行為 |
被害者 |
加害者の故意・過失 |
淫行条例 |
加害者 |
加害者の無過失 |
自賠法3条 |
加害者 |
加害者の無過失(政策目的から転換) |
表見代理 |
本人 |
第三者の悪意・有過失 |
即時取得 |
本人 |
第三者の悪意・有過失 |
虚偽表示 |
第三者 |
第三者の善意 |
二重譲渡 |
本人 |
第三者の背信的悪意 |
証明責任の転換の例として自賠法3条についても触れて置く。高度経済成長と後述する過失の客観化、許された危険の法理によって自動車の運転による過失の認定が緩くなった結果、世の中は自動車社会となる。しかし、ここに民法不法行為における証明責任のルールをストレートに適用すると、自動車事故にあった被害者が相手の故意・過失を証明しなくてはならないことになる。証拠との距離や立証の負担、無関係なのにいきなり事故にあったこと等を考慮すると、被害者に証明責任を負わせるのは適当ではない。そこで、自賠法3条では加害者側が加害者の無過失を証明しない限り責任を免れない旨規定する。
第三者に善意無過失を要求する民法109条の表見代理も同じように規定されており、本人が第三者の悪意・有過失を証明しないと免責されない。
民法192条の即時取得については、民法186条1項で事実上の推定があるため、本人が、第三者の悪意・有過失を証明しないと権利を失ってしまう。
虚偽表示と二重譲渡については後述する。
弁論主義についても簡単に説明しておく。民事訴訟は私人間の紛争解決を目的とするため弁論主義(@主張責任A自白の拘束力B職権証拠調べの禁止)の制約を受ける。その中で、主張責任として、要件事実となる具体的事実としての主要事実、主要事実の存否を推認するのに役立つ間接事実、証拠の信用性に関する補助事実がある。伝統的通説は主要事実のみ弁論主義の拘束を受けるとしている。
過失
日本の刑法は構成要件、違法、責任の三分説を基本に結果無価値論は故意・過失を責任に置いてきた。判例は故意について認識・認容説を採っており、認識ある過失と未必の故意の分水嶺を認容に置いている。一方、現在の判例・通説である行為無価値論は故意・過失を構成要件の要素ともしている。
過失について、結果無価値論が唱える旧過失論は結果予見義務に反するものとしていた。つまり予見すべきところ、心を緩めて予見しなかったことに過失の意味を見出していた。しかしこの考え方を徹底すると、もともと注意が散漫な人や、能力の低い人が頑張っていたのに予見出来なかった場合に過失なしとなってしまい不都合が生じる。さらに、当時日本は高度経済成長の真っただ中で凄い勢いで自動車社会となりつつあった。旧過失論のように過失を結果予見義務だけとすると、車の運転には常に事故の予見ができ、事故が起きた場合に全てが過失ありとなってしまい不都合である。そこで過失には結果予見義務+結果回避義務が必要とする行為無価値論が唱える新過失論が採用されることになる。この新過失論では結果回避義務を社会的不相当性、社会的逸脱行為として捉え、個人ではなく一般的基準に求める過失の客観化がなされる。さらに許された危険の法理と共に安心して車の運転が出来ることになった。自動車社会に大きく貢献した過失の客観化だったが、結果回避義務を一般的な回避義務さえ払っていれば、損害を出したとしても過失なしとなってしまうところに大きな問題があり、事故の増加や公害問題を背景に問題点が顕在化した。そこで、具体的な犯罪事実の予見ではなく、何らかの不特定の危険があるかもしれない、という危惧感があればそれを取り除くための処置をしなければならないとする新新過失論(危惧感説)が藤木博士によって唱えられた。この危惧感説の採用により森永ドライミルク事件では過失が認定されるが、過失には因果関係の具体的予見が必要として北大電気メス事件で排斥されることになる。
予見可能性の判断基準においても、客観説、主観説、折衷説が挙げられ折衷説が通説となるも、行為者の能力が一般人を上回っている場合には、一般人以上の義務を課すべきでないとなっている。
薬害エイズ事件では予見可能性はあったが、結果回避義務まではないとして過失なしとなってしまった。本人が予見できたなら、結果回避義務まで認めるべきであり、責任を追及できないとするのは明らかにおかしい。
結局、行為無価値論と過失の客観化によって過失を責任から構成要件にまで広げたことによって、安部医師の過失を追及できなくなってしまった。そこには行為無価値論の構造的な問題があると指摘する人もいる。しかし、今までの社会の趨勢、旧過失論からの変遷を考えると過失の客観化にもかなりのメリットがあると考えられる。さらに故意犯と過失犯をパラレルに考えて責任段階で判断する結果無価値論を支持することは出来ず、条文の段階で故意犯と過失犯は峻別されていることから行為無価値論での解決策として、予見の判断基準においては、折衷説をベースに、行為者の能力が一般人を上回る場合には結果予見義務、結果回避義務ともに個別に判断するべきと考えられる。
過失責任を三大原則の1つに持つ民法でも、言葉は違うが刑法と同じような変遷を辿る。
結果責任から始まり過失責任となり、過失の内容において主観的過失から客観的過失へ、具体的過失から抽象的過失へと変わる。しかし刑法と全く同じようには考えられない。それは刑事訴訟と民事訴訟では構造を全く異にするからである。刑事訴訟では「疑わしきは被告人の利益に」と言われるように証明責任が全て検察官にある。一方、民事訴訟では前述したように私人間の紛争であり、主張責任がある方に証明責任がある。不法行為責任では他人にいきなり請求するわけだから、その内容は原告が証明するべきと考えるためであり当然のように思えるがこれを徹底すると不都合が生じる。
例えば交通事故のような立場の対等性・互換性がある場合でも、加害者にどのような過失(スピード違反、飲酒、整備不良等)があったかを被害者が立証するのは困難であり、救済への時間が掛かり過ぎるために自賠法3条が存在する。戦前の大阪アルカリ事件では許された危険同様の判決が出たが、現代の公害問題では、被害の広範さ、立場の対等性・互換性は喪失という問題のうえに、企業側の故意・過失、因果関係の立証は困難を極める。そこで、ある程度まで証明されれば、相手側から過失がなかったことを証明しない限り過失が推定されるとする「過失の一応の推定」や「証明責任の転換」により被害者の救済がはかられるようになった。四大公害訴訟(水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく)のうち、イタイイタイ病を除く3つは、過失の前提となる行為者の注意義務を高度化することにより企業の過失責任を認めるという方法で被害者の救済がはかられた。そして、さらに一歩進んで製造物責任法は無過失責任とされている。
行政法については、明治憲法下では国家無答責が原則であり国・地方公共団体の不法行為責任は否定されていたが、例外的に非権力的な行政活動や工作物から損害が発生した場合だけ民法709条の不法行為責任が認められていただけだった。戦後、日本国憲法の制定にともない、憲法17条のもと国家賠償法が制定される運びになった。国家賠償法により国・地方公共団体の責任を追及できるようになったが、民法709条をベースに作られているために証明責任が全て原告側にあり、情報の非対称性から私人への証明の負担が問題となる。
さらに、国への賠償を全て認めてしまうと財政破綻してしまうなどの問題から結果回避可能性も求められる。そこで、民法と領域はクロスするが医療事故を考えていく。
刑法でも過失の判断基準をどこに置くが大きな問題となったが、民法では東大梅毒輸血事件で医師に高度の注意義務を課し、未熟児網膜症事件でその注意義務が現代の医療水準であることを明らかにした。この判断が薬害エイズ事件の背景にあったことが窺える。また、医師と同様に高い注意義務が課せられる医薬品の製造・販売においても、スモン訴訟で高度の注意義務・結果回避義務が課せられることになった。
では国の勧奨する予防接種において後遺障害や死亡などが発生した場合がどうだろうか。本来、医療訴訟は民法の範囲だが予防接種禍においては国家賠償法の範囲とされているところ、国賠法1条の要件@公権力の行使に当たる公務員の行為A職務を行うについておこなわれたものB違法C故意・過失D損害のうち違法、故意・過失が問題となる。因果関係においてはルンバール事件により医療訴訟における証明の困難さが克服されている。
予防接種は多くの罹患者が出ることからくる甚大な損害を防ぐために行われるが、その一方で、一定数の後遺障害・死亡が発生してしまい(悪魔のくじ引きといわれる)、その損害が不可避であり救済が求められる。しかし、予防接種において違法と過失を二元的に捉える通説に依拠すると「違法無過失」の類型となり「国家補償の谷間」となってしまうことに問題がある。「国家補償の谷間」とは憲法29条3項にいう損失補償は適法行為が、国家賠償法での賠償は「違法有過失」が原則のために、「違法無過失」の類型は救済されないというものである。さらに予防接種法などの立法による救済がはかられたが少額だったために、救済策が検討されることになる。克服の方法として損害賠償からのアプローチと損失補償からのアプローチが考えられる。
損害賠償アプローチ
@
最判昭和51・9・30 インフルエンザ予防接種事件は意思に高度の問診義務を課したうえで、禁忌者に死亡・罹患等が発生した場合には予見可能性があったと推定することにより、過失が推定されるとした。「過失の一応の推定」により被害者の立証の緩和がはかられたことになる。
A
最判平成3・4・19 小樽種痘禍訴訟では予防接種により後遺障害が発生した場合は、特段の事情のない限り禁忌者だったと推定されるとし、前述@の過失の推定を使って国賠法1条による救済がはかられた。
B
東京高判平成4・12・18 東京予防接種禍訴訟では前述@+Aを使って被害児全員を禁忌者該当者と推定して、厚生大臣ついて、禁忌該当者に予防接種をさせないための十分な措置をとることを怠った過失(組織的過失)を認定し、国家賠償責任を認めた。
C
福岡高判平成5・8・10と大阪高判平成6・3・16もBと同様
D
福岡高判平成10・3・13、東京地判平成13・3・28、東京地判平成13・5・24は前述@+Aを使って医師の過失を認定し国家賠償責任を認めた。
損失補償アプローチ
@
東京地判昭和59・5・18は「特別の犠牲」において、生命・身体を財産上の損害より不利に扱う合理的理由はないとして憲法29条3項の類推適用により救済をはかった。
A
大阪地判昭和62・9・30、福岡地判平成元年4・18は「もちろん解釈」として憲法29条3項の適用による救済を認めた。
行政法は刑法と民法の要素を含んでいるため違法と過失の要素をどう考えるかに議論があるところ、違法概念を民法不法行為のように考えて、権利侵害があり損害が発生したことから違法と考えた。そして無過失の克服のために医師の過失の判断基準を高度に要求し、推定を使って過失を認定した。このことにより違法無過失を克服した。当然、医師からの強い反発があり医療の萎縮へと繋がると思われる。さらに組織的過失を認めたことも、過失を認める意味では大切だが、賠償を認めるということは「国が悪い」ということであり、後に国からの勧奨がなくなり、予防接種をする人の減少に繋がる。子宮頸がんワクチンの問題はそこにある。
損失補償アプローチの問題点は憲法29条3項が財産権に対する規定だったところにある。それを類推適用やもちろん解釈で克服したことは勇気ある判断だと評価したい。
思うに、予防接種しないことによる損害を防止するために予防接種を勧奨する国は悪いことをしているとは考えられない。もしもあるなら危険があることへの説明責任を果たさなかったことではないだろうか。ここは中江先生の意見のとおり、自己責任による解決策を支持する。消費者契約法や製造物責任法、改正されるが瑕疵担保責任で守られているとはいえ、車やパソコンを買う際には個人がとことん調べたうえで自己責任のもと購入する。医療だけ特別にする必要は情報の非対称性くらいのものではないだろうか。それも医療費を減らすために自ら医療の情報を得ることにより克服できるだろう。実際車の購入に際して我々の殆どが素人である。予防接種を受ける側がしっかり勉強しリスクを理解したうえで自己責任のもとで受けることが望ましい。さらに、後遺障害や死亡が不可避なら、予防接種の代金に一回に付き500円程度でも上乗せして、トラブルの際はそこから治療費や損害を払うという保険による解決も有益と考える。
予防接種禍では損害賠償や損失補償による救済がはかられたが、いまだに解決をみない問題がある。グリーピア事件である。我々の年金を流用して作られ、採算が取れなくなった末に雀の涙ほどの値段で売却された事件である。理屈で考えれば未必の故意から背任罪と構成するか、今ならconspirasy、つまり共謀罪の疑いから捜索できるように思われる。特捜には是非頑張ってもらいたい。しかし民法・国賠法でも証明の負担が緩和されない限り国に賠償責任を認めさせるのは不可能だろう。そこで次はこれらの解決策を考える。
解決策
見てきたように過失の問題点は、「責任」「主観」だけに位置した過失が広すぎる概念だったことから過失の客観化を使って狭めたところ、経済発展に寄与した一方で、医療訴訟や公害訴訟での弊害を克服しきれないところにある。
そこで過失の概念について客観的な基準を維持しつつ個別具体的に判断することと、前述した主張責任における弁論主義の制約を見直すべきである。通説によると、過失、正当事由、信義則、わいせつ、公序良俗、背信性などの規範的要件は主要事実であり弁論主義の制約を受けるが、過失などの中身である、事故においてはスピード違反、飲酒、整備不良など、売買においては時価の10%での売買、現地調査の懈怠、地番間違いなどに関して弁論主義は及ばないとしている。すると、裁判所が当事者の争っていない別の事実をいきなり認定して不意打ちをくらわせることにもなりかねない。この専断性こそが過失の認定を阻む原因の1つと考えられるため、間接事実などの中身までを主要事実として弁論主義の適用を受けるべきと考える。
そして、国と私人、公害問題における企業と私人のように力の差がある場合や、情報の非対称性がある場合には証明責任の転換が必要と考える。特に国賠法は民法不法行為がベースにあるため証明責任が原告側にあるが、証明の負担やそもそも公務員の行為であることを考慮すれば、国側にこそ証明責任を負わせることが正義に適うと考えられる。
なお、原告適格の見直し、審判の証拠提出をより厳格にする必要も考えられる。
社会保障と証明責任
現在、日本は1000兆円に上る債務をかかえ、財政法を無視して日銀が日本国債を買い受ける形で毎年80兆円ものお金がばら撒かられている。それにも関わらず、私達の暮らしは楽にならず、社会保障費は膨らむ一方である。500兆円のGDPに対する予算は100兆円であり、社会保障費には年間120兆円が費やされる。その費用の多くが土地や施設代であり、また、天下りの多くがグリーンピアのように施設を建設して天下ってゆく。一方、日本では中古不動産の流通が悪く、さらに税制の問題もあって空家が820万個もあるといわれる。次の調査では1000万個を超えると予想される。
不動産物件変動では公示の原則により登記を取得しないと第三者に対抗出来ないとする民法177条の制約を受ける。この第三者は「裸の第三者」と表現されるように善意・悪意を問わないが、保護される第三者について以前は無制限説をとっていた。しかし、あまりにも酷い悪意の第三者については保護する必要なしとする背信的悪意者理論が判例法理として定着した。背信的悪意者について判例は信義則に反する第三者としており、背信性の証明責任を本人(第一譲受人)としている。(判例は見つけられなかったが、法律要件分類説に立って解釈するならば、177条の第三者には善意・悪意が求められておらず、第二譲受人を背信的悪意者として得をするのは第一譲受人であり、それは権利障害規定にあたることから主張する側に証明責任があると思われる。)(弁論主義において背信性は規範的要件であり、通説では背信性の中身は間接事実であり、弁論主義の適用がないことから裁判官まかせの認定がされる恐れあり)
外観の存在を信じて取引した第三者を保護する公信の原則は、権利外観法理として虚偽表示や表見代理、即時取得などで現れる。虚偽表示の証明責任において第三者説と無効主張者説の対立がある中で、最判昭和35年2・2は第三者に善意の証明責任があることを明らかにした。思うに、94条2項は虚偽表示の無効に対する権利障害規定であるため、法律要件分類説をストレートに適用すれば善意の証明責任は第三者にあると読める。しかし、権利外観法理の帰責性の面から考えると、虚偽の外観を作り出した本人ではなく、それを信じただけの第三者に証明責任を課すのは制度的に意味がないとする無効主張者説にも説得力がある。これに対し第三者説から善意は推定されているとの反論があり、その反論に対して無効主張者説から、そもそも第三者に証明責任を負わせる意味がないとの反論がある。
そして、虚偽表示ではないが、本人が偽造された登記を放置しておいて、その外観を信じて取引をした第三者を保護するために、本人の帰責性と虚偽表示類似の形から94条2項の類推適用により保護しようという学説がある。この場合の第三者には表見代理とのバランスや、本人の犠牲により所有権を得ることなどから善意無過失まで要求される。
以下の詳しい説明は2018年1月分の相続法に譲るが、中古不動産市場の活性化への説明のために大枠だけ説明する。
過失の具体例において
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悪意 |
善意 |
過失なし |
公示の原則 |
公信の原則 善意無過失 |
過失あり |
背信的悪意者 |
公示の原則 |
二重譲渡を廃止し公信の原則だけにする。仮に二重譲渡を認めたとしても背信性の証明責任を第二譲受人に転換し、善意無重過失のものしか保護しない。
取消と登記について、取消後の第三者を民94条2項の類推適用によって善意無過失の場合のみ保護する。(証明責任についての私見は相続法にて)
不動産の物権変動についてのみ意思主義を形式主義とする。
これらのことにより、本来の権利者を守ることで安心した売買ができることになり、これが中古不動産市場の活性化につながると考えられる。中古不動産市場が活性化されれば、程度の良い中古不動産が安く手に入り、不動産市場全体の価格を下げる。このことが土地代、施設に多くの資金を必要とする社会保障に(例えば介護施設、年金暮らしの老人や低所得者などの住居など)大きく貢献すると考えられる。
以上のことより、過失と証明責任を見直すことにより社会に大きく貢献する。
参考文献 自分の頭、中江先生の頭、民法1~4 内田貴、民法1~5 川井健、刑法総論 高橋則夫、刑法総論講義 前田雅英、たのしい刑法 島伸一、憲法 芦部信喜、民事裁判入門 中野貞一郎、新民事訴訟法講義 中野貞一郎、民事訴訟法概論 高橋宏志、民事訴訟法判例百選、行政法概説2 宇賀克也、行政法読本 芝池義一、行政判例百選2
嶋野加奈子
「過失とは何か」
過失とは「うっかり」のミスではないと考え、過失に伴う証明責任は裁判において、何よりも重いものであると考える。
1.
はじめに
私たちは何かをして生きている。生きていくうえで、何かしらの「行動」というものは不可欠である。そして、行動をすればもちろん、失敗をすることもある。うっかりとしてしまった失敗を「過失」という。過失をしてしまえば、それに伴う賠償(補償)をしなくてはならない。
自動車も、自動車に限らず様々な進歩した技術が世にあふれる現代で「過失」は不可避といえる状態である。もしもうっかりとミスをされてしまったらどうしたらいいのだろうか。また、個人だけでなく、企業や国は「過失をしない」といえるのだろうか。民法、刑法、行政法の観点から「過失」というものを考え、そして未来を考えてみたいと思う。
2.
過失とは?
「1.
はじめに」でうっかりとしてしまった失敗を「過失」というといった。これでは曖昧すぎるため、過失とは何かというものを考えてみたいと思う。
まず、初めに思い浮かぶのが民法でいう過失であろう。民法では「契約責任の制度(債務不履行など)」と「不法行為」においてのみ、民事責任として損害賠償を請求することができる。ひとつ、触れておくと「賠償」は「違法行為へのつぐない(ex.損害賠償など)」であり、「補償」は「適法行為へのつぐない(ex.憲法29条3項など)」である。
民法709条の不法行為では、以下5つの要件を必要とする。ちなみに709条は一般不法行為、714条以下および特別法の不法行為(ex.自動車損害賠償保障法など)を特殊不法行為という。
【不法行為の要件】
@ 故意または過失
A 権利侵害
B 損害の発生
C 因果関係
D 責任
これらの要件を満たさないと不法行為として損害賠償の請求をすることはできない。
次に刑法の過失について考えてみたい。刑法では38条1項によれば「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。」とあり、故意犯を基本的に処罰している。しかし、ただし書きで「法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。」とあるように、例外的に過失犯も処罰をしている。刑法では209〜211条で過失犯を処罰する規定をおいている。
では、刑法でいう故意と過失の違いは何だろうか。故意と過失は以下のように分けられる。
確定的故意 |
未必の故意 |
認識ある過失 |
認識なき過失 |
このように分けることができる。しかし「未必の故意」と「認識ある過失」はあいまいで、非常によく似ている(ちなみに英米法では「未必の故意」と「認識ある過失」の曖昧な部分がない!!)。そこで判例では未必の故意について「認識・認容説」をとることにした。認識ある過失との境界線は「結果への認容」にあるとした。例えばだが、車を運転していて目の前に猫が飛び出してきたとする。「このままいけばひいてしまう!!」と認識があり、そこで「まあ、いいか」と思ったら、猫をひくという認容をしていることになる。これが未必の故意である。認識ある過失の場合は「まあ、いいか」と認容はせず、「ひくわけないか」と猫を車でひいてしまうという結果を認容していないことになるため、過失にとどまる。故意と過失では刑罰の軽重も違うため、判断は慎重でなくてはならない。
そして、刑法の過失の目玉であるのが「旧過失論」と「新過失論」である。旧過失論の過失の認定は広く、結果予見義務があれば過失と認定される。新過失論においては結果予見可能性+結果回避可能性で過失を認定し、旧過失論よりも過失の認定が狭まることになる。そして、新過失論においては過失について「客観化」がはかられた(これを過失の客観化という)。「一般人の程度」にあわせて過失の客観化はされた。しかし、新過失論では過失が認定できない事件があった。それが「森永ヒ素ミルク事件」である。この事件では、新過失論ではなく、「ちょっとした不安感で過失の認定は足りる」とする新新過失論(危惧感説)を使い、原告側は勝訴となった。ただし、危惧感(不安感)のみで過失を認定することは人間の行動を狭めることにもなるうえ、過失の認定がされやすく、世に過失犯が増える原因ともなるため、あまり危惧感説は支持されていない。実際、新新過失論が採用された判例はこの、森永ヒ素ミルク事件のみである。
最後に行政法での過失について考えてみたいと思う。昔は国などの行政は過失をしないという考えがあった。しかし、行政を動かしているのも国である以前に人間である。人間である以上、過失をする可能性はあるだろう。そこで、民法709条がベースとなる「国家賠償法」がある。国家賠償法では過失と違法性が要求される。
国賠法において、以下のような図となる。
|
過失あり |
過失なし |
違法 |
違法有過失(国賠法1条) |
違法無過失(予防接種?) |
適法 |
適法有過失(??) |
適法無過失 (職務行為基準説) |
たとえば、逮捕・起訴され、無罪になった判決の裁判があるとしよう。その場合、違法逮捕・起訴にならないのだろうか。判例によれば、職務行為基準説を採っており「逮捕」という職務行為自体をみて、特に問題がなければ違法性と過失はないとしている。刑事訴訟法199条でも「被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があるとき」には逮捕状により逮捕することができると規定している。ただし、この説を使って適法無過失になるのは公権力の人間(つまり警察と検察)であり、国会議員には適用されない。
また、予防接種の訴訟は過去に多くの判例がある。現在も子宮頸がんワクチンの後遺症に苦しむ被害者が裁判中でもあり、予防接種の被害に関する裁判は後を絶えない。
3.
証明責任とは?誰が負うのか?
以上のようにそれぞれの法律における「過失」についてみてきた。しかし、実際に過失をもとに損害賠償を請求したり、何かの罪に問ったりする場合には裁判を経なければならない。裁判の場において、誰が過失があったのかなどを証明しなければならない。中野貞一郎氏によれば証明責任とは「訴訟において裁判所が、ある事実が存在するとも存在しないとも確定できない場合(「真偽不明」)に、その結果として、判決でその事実を法律要件とする自己に有利な法律効果の発生が認められないことになるという、一方当事者の『不利益』」(『民事裁判入門』270頁)のことであるという。真偽がわからない事実に関して、証明をできなければ、証明責任を負った方が敗けてしまう。そういった意味で証明責任は「事実を証明する責任」ではなく、証明する側の「不利益」と中野氏はいったのだろう。では、この証明責任は一体だれが負うのだろうか。
刑事裁判の世界では「疑わしきは罰せず」と無罪推定の原則があるように、証明責任は検察官が負うと解されている(明確な条文はないが、憲法31条、刑事訴訟法336条の条文解釈により検察官の証明責任がいわれている)。しかし、刑法204条(同時傷害の特例)や同法230条の2(名誉棄損罪の公共の利害に関する特例)といったように、被告人が証明できれば無罪になるといった例外的に証明責任が転換されているものも存在する(これを挙証責任の転換ともいう)。
また、淫行条例でも証明責任は転換されており、被告側が過失がなかったことを証明しなければならないとされている。そして、被告人が「被害者の年齢を勘違いしていた」という錯誤によって、過失を逃れることはできない。年齢を確認しない=過失があるとされてしまう、と他の法律に比べて少々厳しい部分もある。それだけ、青少年の性的自由は国に守られているというべきなのだろうか。
それでは、民事裁判の世界では証明責任を誰が負うだろうか。さて、ここでひとつ気づくことがあるだろう。それは、証明責任に関して、誰が証明責任を負うか、条文で明確にされていないことである。上記の刑事裁判において「検察官が証明責任を負うのは当たり前」という感覚を私たちは持っているが、根拠とする条文はあくまで解釈であって、○○法第○○条といった、明確にされた規定は存在しない。それと同時に、民事裁判においても、証明責任の所在というのは明確に規定されていない。そこで「待った!」をかけたのが100年ほど前のドイツの法学者ローゼンベルグによれば、証明責任の所在は条文にかいてあると提唱した。証明責任の所在が条文に記されているというこの説を「法律要件分類説」という。これに対し、証明責任の所在は政策の観点などから考慮して決めるという説を「利益衡量説」という。学説、実務一般では前者の「法律要件分類説」が採られている。この説でいくと、例を民法94条で説明するが、以下のようになる。
94条1項:相手方と通じてした虚偽の意思表示は無効とする。
この1項の部分を「権利根拠規定」といい、無効を主張する側が証明責任を解すと考える。しかし、この世の法律すべてが権利根拠規定のみといった素直なものではない。
94条2項:前項の規定による意思表示の無効は、善意の第三者に対抗することができない。
94条2項の部分だったり、ただし書きで書かれていたりする部分を「権利障害規定」とよぶ。この場合、94条2項の「第三者」は「自分」で「善意の第三者である」ことを証明しなければならない。しかし、同じ第三者が出てくる民法109条(表見代理)では、原告側(本人)が第三者の悪意有過失であるという証明責任を負うが(表見代理の本人は善意無過失であることが条件)、94条2項は第三者が自身で「善意であること」を証明しなければならないのか。吉野孝則氏も「表見代理のような代理では日常生活の代理から家を買う代理まで、代理の重さが異なるはずなのになぜだ。」という。また「94条は登記が出てくるということは、不動産しかないのだから代理よりも厳密にするべきでは!?」と述べていた。これらの意見はごもっともなように思える。
このように、現在では証明責任の所在は条文から解する方法を採用している。ちなみに、民法709条、不法行為では原告側が上記@〜Dの証明責任を負うとされている。やはり、何かの根拠(理由)をもとに、その損害に対する賠償を求めるのだから、原告側が証明責任を負うのはある意味必然的なことなのかもしれない。しかし、民事裁判の世界においてももちろん、証明責任が転換されるといった例外は存在する。それが「指導者損害賠償保障法3条」である。
自賠法3条:自己のために自動車を運行の用に供するものは、その運行によって他人の生命又は身体を害したときは、これによって生じた損害を賠償する責に任ずる。ただし、自己及び運転者が自動車の運行に関し注意を怠らなかったこと、被害者又は運転者以外の第三者に故意又は過失があったこと並びに自動車に構造上の欠陥又は機能の障害がなかったことを証明できたときは、この限りでない。
この条文ではただし書きよりも前の文ですでに損害が起きた場合は責任をとれ、ということが書かれている。しかし、過失などがなかったということを証明ができたならば、賠償をしなくてもよいということがただし書き以降にあり、つまり、ここでは証明責任が被害者ではなく、加害者に転換されているといえる。
なお、行政法においても原則として、被害者側(訴える側)が証明責任を負うだろう。先述した淫行条例のように、証明責任の転換がはかられているものもあるだろう。
4.
私見
以上の意見をふまえて、過失と証明責任は密接な関係にあることがわかった。例えば、民法で物件の変動が外から見てわかる状態にする原則を公示の原則といい、94条2項のように虚偽表示による所有権の外観を信じたものを保護する公信の原則(=二重譲渡の場合、登記を信じて買ったなど…)という。(ただ、後者の場合は本来は公信力のないはずの登記に公信力を持たせているのではないかという意見もある。)
二重譲渡において、登記がないから勝てないというのは民法177条で納得ができなくもないが、いざ、その立場になったらおそらく、納得がいかないように思う。先にお金を出して買ったのだから、家が欲しい!!となるのも当然である。
以下個人的な意見になるが、今後、二重譲渡に類似した物件をめぐる被害が増えると私は考えた。中江章浩氏いわく、空き家は2013年現在で約820万戸あり、今後も増え1000万戸を超えるだろうと述べていた。それは核家族化による親と同居しない生活スタイルが増え、家族の形も多様化するためだ。また、高齢化社会を迎え、独居老人が増えているのも現実である。
なぜ二重譲渡に類似した被害が増えるか。そう考えた理由の背景には、高齢者単独世帯が増えているというところである。近年、ニュースでも「母さん助けて詐欺(通称オレオレ詐欺)」についてよく耳にする。その中でも高齢者を狙ったものが断然多い!!実際、ニュースで耳にしたことがある中で衝撃的だったのが、「老人ホームの入居権があたった」と嘘の連絡に騙され、家を売ってしまった被害である。「家を売ります」という詐欺による瑕疵ある意思表示(家を売る相手からの欺罔行為ではないが)により、家を取り戻すことは、法律上可能であるが、被害者にその証明は厳しいのではなかろうか。裁判所も、瑕疵ある意思は曖昧で主観的なものであり、判断がしにくいように思う。また、詐欺被害者が家を売る⇒家を売られた人がまた家を売る⇒またその人が家を売る……。二重譲渡的というよりも、民法96条に近いかもしれない。こうして本当は手放したくなかったはずの家も空き家になっていく原因になるだろう。そして、その被害者を救済しなければ、その人はやがて社会の手(=生活保護など)を借りて生きていかねばならなくなってしまう。
そして、もしも詐欺犯罪者と被害者が家を売るところとつながっていたら…?まさに、Conspiracy(共謀)だろう。
証明するとは、一般人である私たちにはこれほど難しいものはない。国ほど、違法性や過失が認定されづらいものもない。証明責任を負い、証明ができずに敗けた人間はどれだけ深い傷を負うだろうか。やがては家を手放し、社会の手を借りる運命になってしまうかもしれない。何かを求め、法的措置を使って請求することはある意味、持っているすべてを賭けて戦うことである。だからこそ、民事裁判においても、刑事裁判においても、証明の認定は厳格に行うべきであると考える。
5.
まとめ
「過失」とは一度してしまったら取り返しのつかない事実である。過失をされたほう、過失をしてしまったほうも、未来を大きく狂わせることになるだろう。本当は「うっかり」ではなく、絶対にやってはならないミスのことを「過失」というのだろう。
【参考文献等】
・民法TU内田貴著 東京大学出版
・ポケット六法 平成29年度版 有斐閣
・中江章浩先生 授業ノート
・不法行為法第5版 吉村良一著 有斐閣
・民事裁判入門第3版補訂版 中野貞一郎著 有斐閣
スペシャルサンクス:吉野孝則氏、田中慎太郎氏、會田耕平氏ほか勉強会メンバー
田中慎太郎
過失とはなにか
私は処罰する基準をどこにするかが過失の非常に難しい問題だと考える。
過失とはどのようなものか。Wikipediaによると、注意義務に違反する状態や不注意をいい、違法な結果を認識・予見することができたにも関わらず、注意を怠って認識・予見しなかった心理状態、あるいは結果の回避が可能だったにも関わらず、回避するための行為を怠ったことをいう。と記載してある。
なるほど、という事は注意義務を守り、結果を認識・予見できず、結果の回避が不可能だった場合は過失にはならないという事になりそうだ。
しかし、この説明は明らかに無理がある気がする。そもそも注意義務とは何なのか、結果の認識・予見は誰からの視点でみるのか、結果の回避の可能、不可能はどんな事柄から判断するのか、少し考えただけでも物凄く曖昧な気がしてきた。
なので、今回はこの曖昧さを少しでも明確にし、自分なりの過失に対する正義を見つけたいと思う。
まず、はじめに刑法からこの問題について考えてみようと思う。
刑法では38条1項に「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。」としており故意犯処罰を原則としているが、ただし書きで、「法律に特別の規定がある場合は、この限りではない。」と規定している。要するに刑法での過失というのは例外的な事例なのである。
<特別の規定として例えば209条(過失傷害)210条(過失致死)211条(業務上過失致死傷)116条(失火)等がある。>
そんな過失だが一体何を犯すと過失ありと認定されてしまうのだろうか?
もし、北斗神拳伝承者が秘孔を使って治療をしようとした結果、誤って必殺の秘孔を突いてしまい、人を殺してしまったらそれはどうなのか?このような出来事が起こってしまったときに過失の判断基準がどこにあるのかを考える必要が出てくる。
その判断基準の一つに旧過失論という考え方がある。
旧過失論とは、過失の判断基準を結果の予見可能性にもとめる、というものである。
行為者は犯罪事実を予見すべきであり、かつ、予見することができたにも関わらず、本人の不注意で予見できなかった点が刑法上の避難に値すると解する見解である。すなわち、過失の内容を、結果の発生を予見するよう精神を緊張させることを怠るという結果予見義務違反に求めるものだ。先ほど挙げた事例で考えると、某北斗神拳伝承者は間違えて必殺の秘孔を突いて殺してしまうかもしれない、という予見をしなくてはならないから過失ありという事になる。
では、必殺の秘孔を全く知らない一般人がマッサージ中に秘孔を突いてしまい殺してしまった場合はどうだろうか?一切予見できない出来事についても予見しなければならないのだろうか?このことが旧過失論の問題点である。これでは過失というよりも発生した出来事すべてを予見しなかったことがダメという事になってしまい、結果責任的にならざるを得なくなってしまう。もし予見できなかったら過失ではないという解釈にしたとしても個人の主観的な判断になってしまうので、注意力が一般的な人よりも注意力散漫な人の方が過失認定しにくくなってしまうという現象が発生する。なので、旧過失論は修正せざるを得ないだろう。
旧過失論を修正し新たな過失基準を提唱したのが新過失論である。
新過失論では社会生活上必要な注意を守らないで、結果回避のための適切な措置を取らなかった行為、すなわち客観的な注意を怠った落ち度ある行為こそが過失であるとしている。
旧過失論では主観的な予見可能性に過失の判断基準を求めたのに対して、新過失論においては客観的注意義務に違反した行為が過失行為であり、客観的注意義務を遵守した行為であれば、法益を侵害した場合であっても、過失犯の構成要件に該当しないという帰結になる。
そして、もう一つ過失に対する考え方がある。
それは新・新過失論(危惧感説)といわれるものだ。新・新過失論では結果の具体的な予見可能性ではなく漠然たる危惧感・不安感でたりるとされている。要するに、結果発生に至る具体的因果経過の予見までは必要なく、一般人ならば少なくともその種の結果の発生がありうるとして、具体的に危惧感を抱く程度のものであればいいという事だ。この見解は「森永ヒ素ドライミルク事件」によって明示的に採用されている。
次に予見可能性について考えてみたいと思う。
予見可能性には二つの対立があるとされている。それは具体的予見可能説と危惧感説である。
判例・通説である前者は、特定の構成要件的結果の発生およびその結果の発生に至る因果関係の基本的部分についての予見可能性が必要と解している。
危惧感説は先述したように漠然たる危惧感・不安感でいいとされている。
この予見可能性の対象をどこまで抽象化することが許されるのかだろうか。
判例を見てみよう。
森永ドライミルク事件という判例がある。
某乳業工場で製造、販売した粉乳にヒ素が混入していたため、多数の乳児がヒ素中毒を起こし死傷した事件である。この事件でヒ素が混入した原因は、納入業者がヒ素を混入した(これまで納入されていた正常な薬剤とは異なる)薬剤を納入したためであった。
勝手に外部からヒ素を持ち込まれ発生した今回のような事件で製造工場に過失はあるのだろうか?
個人的にはヒ素混入の可能性を予見するのは難しいのではないかと思う。
しかし、判例は過失ありとした。
要旨は「この場合の予見可能性は、行為者に結果回避義務として結果防止に向けられた何らかの負担を課するのが合理的だということを裏付ける程度のものであればよく、・・・・・何事かは特定できないがある種の危険が絶無であるとして無視するわけにはゆかないという程度の危惧感で足りると」としている。つまり、粉乳を工場で作る以上結果回避義務を守っていたとしてもなにか混入するかも、という危惧感があるだけで過失を認定してしまった事件である。私個人的には危惧感だけで過失を認定してしまうのは疑問に思う。これでは過失ではないことのほうが圧倒的に少なくなってしまう。刑法は国から定められている法律(公法)であるからこそ処罰根拠を明確にしてほしい。しかし、この判決に関してはしょうがなく思うところもある。それは、被害者の立場に立った場合に、自分の子供が死んでしまったにも関わらず誰も裁かれないのは正義に反すると考えるからである
予見可能性についての判例をもう一つ見てみたいと思う。北大電気メス事件という判例だ。概要は手術に用いられた電気メス器の接続を乙看護師が誤ったため、患者に重度の熱傷が生じ、右下肢を切断せざるを得なくなる医療事故を引き起こした事件だ。
この事件では看護師が電気メス器の構造・原理を知らず起こしてしまったこと、また、執刀医甲が乙看護師のミスにきづけなかったことに対する過失があるか否かが争われた事件である。
判決は甲執刀医無罪、乙看護師無罪としている。
要旨は「およそ、過失犯が成立するためには、その要件である注意義務違反の前提として結果の発生が予見可能であることを要する」「結果発生の予見とは、内容の特定しない一般的・抽象的な危惧感ないし不安感を抱く程度では足りず、特定の構成要件的結果およびその結果の発生に至る因果関係基本的部分の予見を意味する」「本件において乙ないしその立場に置かれた一般通常の間接介助看護師にとって予見可能と認められるのは、・・・・ケーブルの誤接続をしたまま電気手術器を作動させるときは電気手術器の作用の変調を生じ、本体からケーブルを経て患者の身体に流入する電流の状態に異常を来し、その結果患者の身体に電流の作用による傷害を被らせる恐れがあることについてであって、その内容は、構成要件的結果および結果発生に至る因果関係の基本的部分のいずれについても特定している」
更に、甲執刀医に対しては「執刀医である甲にとって、・・・・誤接続に起因する傷害事故発生の予見可能性が必ずしも高度のものではなく、手術開始直前に、ベテランの看護師である乙を信頼し接続の正否を点検しなかったことが当時の具体的状況のもとで無理からぬものであったことにかんがみれば、甲がケーブルの誤接続による傷害事故発生を予見してこれを回避すべくケーブル接続の点検をする措置を取らなかったことをとらえ、執刀医として通常用いるべき注意義務の違反があったものということはできないと」している
この判決では予見可能性を「特定の構成要件的結果およびその結果の発生に至る因果関係の基本的部分の予見を意味する」ものとして定義しており、危惧感説を排除した点に大きな意義があるとされている。また、執刀医の過失責任を否定する際に信頼の原則が用いられていると考えられる。
最後に薬害エイズ事件(帝京大学ルート)を見てみよう。
大学付属病院で、HIVに汚染された非加熱血液製剤を投与された血友病患者が、エイズを発症して死亡した薬害事件について、同病院内の科長等の立場にあった者の過失責任が否定された事件である。
この事件の大きな問題点は、非加熱製剤の使用によってHIVにかかってしまうことが予見できたのか、非加熱製剤使用による治療上の効能、効果と予見可能であったエイズの危険性との比較衝量である。
事件当時の同病院科長は血友病の権威で、海外ではすでに問題視されていた非加熱製剤の危険性を予見できていたのではないかと思う。しかし、過失を客観的に見るには予見可能性を当時の一般的な医者に求めなくてはならない。そうすると、当時の権威だった被告人に対しても予見可能性がなかったと判断せざるをえなくなってしまうのだ。
過失を客観的にみようとし、基準を一般人に求めてしまうと、このように上の立場にいる者が得をしてしまうことになる。しかし、過失の客観的基準をその道のエキスパートに求めるのもおかしな話だ。
以上の判例をみると、如何にして過失の予見可能性とするのか、どの程度までを結果回避義務にするのか、その範囲がやはり難しいことが分かった。
次は淫行条例における過失を見てみよう。
淫行条例とは都道府県ごとに制定している、青少年を守るための条例である。都道府県ごとに制定している時点で、なぜ統一できないのかという疑問は残るが、この条例と過失を考えた時に大きな矛盾が生じるのである。
淫行条例とは18歳以下(既婚者を除く)との淫行、みだらな性行為、わいせつな行為、みだらな性交などを規制する条文だ。
もし、条例を犯してしまった場合で、相手方が嘘をつき、自分は18歳以上であるといっていてそれを信じた場合ではどうだろうか?この場合判例だと有罪という事になる。
なぜかというと、口頭だけで相手方の年齢を信じてしまったというのは過失があるとされてしまうからである。しかし、どの程度の確認を相手方にすればよいのだろうか、
こんな事例があったとしよう。キャバクラに行った男性がそこで働いている女性と性交をしてしまった。男性は彼女がお酒を飲んでいたので18歳以上だと思っていたのであるが、後から彼女が18歳以下だと知る。この場合、男性に年齢確認を怠ったとして淫行条例違反の対象になってしまうのだろうか。お酒を飲んでいるし、お店でも働いている、このことから判断すると当然18歳以上だと思うのも仕方がない気がする。しかし、この場合でも過失ありと判断されてしまう場合もある。ならば、学生証あるいは、身分証明書を提示してもらう、これならば問題はなさそうだが、もし、この身分証明書を偽造していた場合はどうだろうか、このように淫行条例に関しても過失の問題はたくさんあるのだ。
そして、もう一つの問題が故意と過失の区別である。
淫行条例に違反してしまうという事は年齢的にきわどいところを攻めたからであろう。この時には過失というよりもあわよくば若いこが、という故意があったに違いない。しかし、過失がないとされると途端に故意もなくなってしまうのである。これが淫行条例における過失の矛盾点である。
次は民法の視点から見てみよう。
たとえばこんな事例である。
寿司屋でアルバイトをしている両津〇吉が、自転車で出前にでたが、商店街の中を走りながら競馬の結果のことを考えていて、ついハンドルを持つ手元がくるってしまい商店街のプラモ屋に突っ込んでしまい店のプラモを壊してしまった、このような事例が典型的な過失(不注意)に当てはまるだろう。
そこでいう不注意はぼんやり運転していたということでもあるが、狭い商店街で荷物を持ちながら他のことを考えながら運転していたことこそが過失であろう。もし、周りに何もなく、だれもいない道を考え事しながら運転していても過失にはならないはずだ。
そして、ここでの過失はぼんやり運転していたという主観的な過失なのである。
次に両津〇吉が出勤に遅れそうになり猛スピードで商店街を自転車で走っていたら、人にぶつかってしまった場合である。
この場合も過失になるが前述の過失とはまた違う。
先の事例は考え事をしていたという主観的な過失だが、今回は客観的にみて過失ありということになる。このようにして考えると民法上の過失も大筋は刑法と共通点があることが分かった。
次に行政法から見てみよう。
例えば、警察官がパトカーを運転していて事故を起こした場合。
公務員である警察官が民間人に損害を与えたとしても過失が認定されなければその他の補償はともかく、国家賠償は認められないこととなる。
だが、この過失の認定がやはり難しくなっている。
公務員の過失も客観的な認定が必要になり加害公務員が特定不可能な場合は一般的な公務員を対象にせざるをえなくなる。
そんな行政法のおける過失だが、おおきな問題がある。それは予防接種等における問題だ。
国賠法1条では故意、又は過失によりとある。しかし、予防接種では違法無過失と呼ばれる現象が起きる。違法無過失だとどうなるのか、違法であるという事は国賠法に該当し賠償請求ができるはずだ、だが無過失であることでその請求ができなくなってしまう。
そして補償を請求しようとしても、違法であるのでその請求もできなくなる、行政保障の谷間という問題が発生する。
次に証明責任を見てみたいと思う。
証明責任とは今まで検討してきた過失を誰が証明するのかというものだ。
これは不利益を被るほうが証明するという事になっている。
例えば、森永ミルクドライ事件ならば被害者側が証明する必要がある。
最後に物件変動に関する過失を見ていこう。
公示の原則
権利の変動それ自体は目に見えないから、第三者にその存在を知らせるためには、外部から認識することができる形式をともなわなければならない。もし、権利の変動を外部から認識できなければ、権利を喪失した者を依然として権利者であると信じて取引をする第三者が現れるおそれがある。とりわけ物権は排他的効力を有するので、第三者に不測の損害を与えるおそれが大きい。
公信の原則
物権変動の公示は、必ずしも真実の権利関係を正しく反映しているとは限らない。公示によって権利を有するとされている者が、実際には、権利者でない場合も存在しうる。そのような場合に、公示を信頼して取引をした者が、相手方が実は無権利者であるから権利を取得できないとなると、取引の安全を著しく害することになる。
そこで近代法は、物権変動の公示を信頼して取引した者は、たとえ公示が真実の権利関係と一致しなくても、公示どおりの権利を取得することを基本原則とした。これを公信の原則という。なお、公示のこのような効力を公信力と呼ぶ。
善意無過失
「善意」とは、ある事実を「知らない」という意味で、
「悪意」とは、ある事実を「知っている」という意味です。
例えば、Aが土地の売主、Bが土地の買主とします。
そして、Aが第三者Cから詐欺を受けていて、Bに土地を売ってしまったとします。
その「Aが詐欺を受けていた事実」をBが知らない場合をBは「善意」と言います。
一方、「Aが詐欺を受けていた事実」をBが知っていた場合、Bは「悪意」と言います。
「過失」とは、「不注意」を意味し、
「有過失」は、「注意していなかった」
「無過失」は「注意していた」
という意味になります。
つまり、
「善意有過失」とは「注意していていなかった」ことが原因で「知らなかった」
言い換えると、「注意していれば知ることができた」
「善意無過失」とは「注意していた」にもかかわらず、「知らなかった(分からなかった)」
という意味です。
この点は、宅建試験では、必ず理解していないといけない部分です。
表見代理
広義の無権代理のうち、無権代理人に代理権が存在するかのような外観を呈しているような事情があると認められる場合に、その外観を信頼した相手方を保護するため、有権代理と同様の法律上の効果を認める制度である。民法上、代理権授与の表示による表見代理(民法109条)、権限外の行為の表見代理(民法110条)、代理権消滅後の表見代理(民法112条)の3種がある。なお、通説は表見代理を広義の無権代理の一種とみるが、学説の中には表見代理は本質的に無権代理とは異なるものであるとみる説もある。
出典
Wikipedia 高橋則夫 刑法総論第二版 刑法総論判例インデックス 井田良 城下裕二
不備があったので訂正して送らせていただきます。レポートの後半が雑で大変申し訳ありません。私なりに頑張ったのですが、どうしても最後までまとめきれませんでした。
提出期限も1日間に合わなかったにも関わらず、この出来で私自身とても悔しいです。
採点していただけると有り難いです。
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廣戸 葵
結論: 過失は証明が困難なので、保護すべき対象を明確にした上で、証明責任を誰に負わせるかを決めることが重要である。
1.刑法から見る過失
刑法は3つの条件を満たせば犯罪が成立する。@構成要件に該当A違法B有責な行為
Bの有責には4種類ある。㋐確信的故意㋑未必の故意㋒認識ある過失㋓認識なき過失
㋑未必の故意
違法・有害な結果発生の可能性を予測している(認識あり)、それでもかまわない(故意)
㋒認識ある過失
違法・有害な結果発生の可能性を予測している(認識あり)、そんなことあるはずがない(無いと確信)
このうちの「過失」は、「注意義務違反」だとして理解されている。
注意義務違反というのは、2つの段階に分かれている。
1、結果予見義務違反 (前提として、結果予見可能性が必要)
2、結果回避義務違反 (前提として、結果回避可能性が必要)
「可能性」は「一般人を基準とした可能性」とされている。
2.過失論の展開
@旧過失論
高度成長期以前に主流となった考え方。
過失の本質として結果予見義務を重視
責任の段階で、結果予見義務違反の有無を主観的に判断。
結果無価値的立場
結果惹起を違法要素とする。
つまり、客観的な法益侵害を生じさせたという点で、違法性には何ら変わりないとする。
A新過失論
高度経済成長期、車の運転や医療行為などの有用ではあるが危険な行為の増加。事故が生じる予見可能性の増加から、旧過失論への批判が高まる。
過失の本質として結果回避義務を重視。
違法性の段階でその行為に結果回避義務違反があったかを客観的に判断。
「基準行為からの逸脱」が定義。
つまり、結果予見可能性がありそれに違反したとしても、結果を回避する義務を果たしていれば、過失犯たりえないこととなる。
行為無価値的立場
運転・医療行為が違法であるというのでは、行為者に酷で社会生活上も支障がある。
社会的に相当な行為をしているなら、たとえ何らかの事情で結果を生じさせても、処罰すべきでない。
B新新過失論(危惧感説)
昭和40年代になると、公害や薬害の社会問題が多発した。企業の生産活動が加速し、新製品を生み出す実験過程で未知の危険が多く存在するようになった。そんな中、「森永ヒ素ミルク事件」(高松高判昭和40年3月31日)が起こり、新新過失論が採用された。
本質として結果回避義務を重視する点は新過失論と同じだが、結果回避義務の要件を厳格にし、行為に不安感があればそれで過失を成立するもの。
事故が起こるかもしれないという不安感を抱いた場合、その不安感を払拭するための処置(結果回避措置)をとらない以上、実際に結果が生じた場合に過失が成立する。
3.刑事訴訟と民事訴訟の違い
刑事訴訟刑法上の過失に関しては、これが犯罪の成立要件であることから、その主張・証明責任は、原告官である検察官が一切を負担している。「疑わしきは被告人の利益に」が刑事裁判の原則であるから、被告人は注意義務違反について「合理的疑いをいれる余地がある」という程度に、検察官の立証活動に対し、防御活動を行えば足りる。
訴訟方針としては職権探知主義が原則であり、裁判所が判断を下すための証拠資料を自ら収集するというというものである。
また、刑事訴訟法317条は、証拠能力が認められ、かつ、公判廷における適法な証拠調べを経た証拠だけで証明を行われなければならないことを定めている。この証明方法を「厳格な証明」である。厳格な証明が求められているのは、証拠調べが厳格に行われることで、証拠の適正が保障され、被告人にとって十分な証明の機会が確保されることに繋がるからである。
これに対して、民事訴訟では
訴訟方針は弁論主義をとり、証拠資料の提出は当事者の権能かつ責任であるとする。証拠資料の提出を当事者に委ねる。
つまり、主要事実が証拠調べの結果によっても存否不明である場合、これを存在とするか不存在とすることにして判決がされることによる、当事者一方の不利益が生じる。
そこで、立証責任の分配は公平であることが必要となる。
民法117条1項では、「他人の代理人として契約をした者は、自己の代理権を証明することができず、かつ、本人の追認を得ることができなかったときは、相手方に対して履行又は損害賠償の責任を負う。」と規定され、証明責任の所在が明示されている。
このような場合には、その規定に従うことになるが、そのような規定は非常に少ない。
そこで、立証責任の分配の一般的基準が問題になる。この点、法律要件分類説が、学説上の通説である。
同説は、原則として、民法などの実体法規に定められている要件を基準とし、各当事者は自己にとって有利な法律効果の発生を定める法規の要件事実について立証責任を負う。
権利根拠規定(権利の発生を定める規定)の要件事実はその権利を主張する者が証明責任を負い、権利障害規定(権利根拠規定等に基づく法律効果の発生を当初から抑止する要件を定める規定)の要件事実はその法律効果の発生を争う者に証明責任がある。
4.例題 民事訴訟と刑事訴訟の過失
Aはネットで知り合ったBとホテルでセックス。ネットのプロフィールでは18歳とあったが、実は17歳であった。親、検察官がそれぞれ提訴した場合どうなるか。
親が提訴する場合、Bの権利が侵害されたとして民法709条の不法行為による損害賠償請求することができる。Aの故意又は過失と権利侵害との因果関係を証明しなくてはならない。AはBを18歳だと思い込んでいたが実は17歳であったという事実の錯誤があることから、故意は阻却される。すると過失の有無が問われることになる。ネットの情報の信憑性は疑わしいものがあるにもかかわらず信じ込み、学生証の確認などのを怠った結果予見義務があるといえるので過失ありとなる。
検察官が提訴する場合、ネットで知り合ったばかりのということで、真剣交際は認められず、18歳とのみだらな性交にあてはまり、淫行条例違反となる。
5.例題 取消と登記 二重譲渡
Cは、Aの取消後にBから不動産を購入し、かつ移転登記を受けている。この場合、証明責任は誰にあるか。
まず、Cは取消後に取引関係に入っているから、取消によって一種の物権変動があったものと捉えて、被取消者からの二重譲渡と構成することが可能である。日本の民法は意思主義をとりながらも、外界から認識できるように方法で公示をしなければならないという考え方である公示の原則の要請も満たすべく公示を促進するために、公示に対抗力を付与した、対抗要件主義を取り入れている。そこで、対抗問題として177条により決することができる。そうなると、既に登記はCにあるので、Cが悪意者であっても不動産はCのものである。つまり、法律分類用件説により、Aに証明責任があることになる。Cが過失のある背信的悪意者だった場合、不動産はAのものになるが、その有無の証明もAが担う。
その際に、過失は抽象的であるがゆえに規範的要件として主要事実にはなり得ず、例えば人が住んでいるのを調べない(現場確認)や、時価の10%で売るというようなことが主要事実となる。主要事実が認められれば、その法的効果の発生に必要な証明責任を果たしたということになる。間接事実は、その機能としては、主要事実を推認する証拠のような役割を果たす。その他の間接事実や証拠と総合して、主要事実を証明していくこととなる。
6.例題 虚偽表示
Cは、Aの不動産について、Bが勝手にB名義の移転登記をした。Cは、Bから不動産を購入。しかしAB間に所有権移転という物権変動はなかった。証明責任は誰が負うか。
公信の原則とは、虚実の登記を信頼した第三者を保護するため、登記どおりの物権変動があったことにする考え方。日本では、登記にこの公信力がないので、登記に相当する実体の物権変動がなければ、登記を信頼した第三者は保護されない。その救済措置として、94条2項、表見代理、動産の善意取得などの規定で、真実の権利関係がない虚偽の外観を信頼してしまった善意の第三者を保護しようとする考え方がある(権利外観法理)。94条2項では、当事者の真意を欠く通謀虚偽表示を信頼した善意の第三者を保護したが、Cが善意無過失であり、相手方と通謀していないので、この条文を本来の94条適用事案ではない場合にも類推して適用し、実体のない外観を信頼した第三者を保護できる。すると、証明責任の分配から、Cが証明責任を負うこととなる。
7.因果関係の証明と違法無過失
医療過誤を原因として医療機関等に損害賠償請求を行う場合、@過失(注意義務違反)、A損害の発生、B過失と損害との間の因果関係の3つの要件を満たすことが必要となる。
医療過誤(過失)と患者の損害(死亡結果や後遺障害等)の発生との間に因果関係が存在することを主張しなければならない責任は被害を受けた患者側が負うことになる。どの程度の証明が求められるのかということが問題となるが、東大ルンバール事件判決において、原告(患者側)に求められる証明の程度として「特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性」を証明することが必要であるとの判示がある。これが因果関係の存否を判断する際の基本的な基準となっている。かといって、医学文献や協力医の助言なども必要となり、過失と損害の因果関係を特定することには困難であり、被害者保護は難しい。そこで、国家賠償と損失補償の谷間で発生した違法無過失な行為に損害が発生した場合の判例をヒントとすることで被害者保護に繋がるのではないか。小樽種痘予防接種禍事件(最判平・3・4・19)において、副作用の発生の可能性が高い禁忌者に予防接種をすることは違法に当たるが、そのことに気付かないで接種したことに過失を認定することが困難だという違法無過失が起こった。法であっても無過失な行為に基づいて損害が発生した場合には、過失責任主義を採る国家賠償の対象にはできない。また、財産上の損失ではないため、損失補償の対象にもならない。そこで、
予防接種の場合には、接種に当たり禁忌者かどうかを区別する点に、実施者に高度な注意義務を課します。そして、この義務に違反していないか、義務違反がなくても副作用が発生する者であったかのいずれかを証明できない限り、過失を推定することにした。つまり、医師側へ証明責任を負わせる形となった。その上で、禁忌者か否かを見抜くのに必要な措置をとる義務を組織の長である厚生労働大臣に負わせることで、国家賠償請求が成立することを認めるとした。
8.まとめ
過失とは抽象的概念であり、過失と判断しうる行動を客観化し分析することは極めて困難を要する。さらに、何をもってして過失とみなすかという過失論は、時代の変化と共に移ろっている。刑事訴訟であれば、合理的疑いをいれる余地があるという程度に、検察官の立証活動に対し御活動を行えば足りるが、民事訴訟はそうではない。この複雑な「過失」の証明責任を負った者が敗北するといっても過言ではない。現代の日本の不動産取引においては対抗要件主義が主流であり、第三者が不当に保護されている場合が多い。そうなると、不動産の売り手側が証明責任を負うこととなる。これでは不動産を売ることに大きなリスクが伴い、不動産売買の流れが促進されない。現在、日本には820万個の空き家が活用されずに放置されている。その資産価値にして約50兆円だということだ。その資産を活用することなく、新たに老人ホームや幼稚園の建設を行い、国の税金が投入されている。約1000兆円もの借金がある日本において、すでにある資産を活用せず、更に借金を重ねていくことは愚の骨頂であり、大変にもったいない。それをどうにかする切り口として、不動産の所有者が、不動産を売って活用しようと思う仕組みづくりが必要となる。それが、今回のポイントである過失と証明責任ではないだろうか。証明責任は取引を希望する側が負う。そうすることで慎重に調べた上で取引をしようとするであろう。誰を保護することで、より大きな社会的利益につながりよりよい生活に繋がるのかを考えた上で、過失の証明責任を負わせるべき対象を決定付けるとよいのではないだろうか。
< 参考・引用に用いた書籍、又はサイト >
ポケット六法
授業ノート
試験研究室サイト 例題
最新刑法総論がよーくわかる本
著者: 中井多賀宏、坂根洋輔
図解で早わかり 最新 刑事訴訟法のしくみ
損失補償http://www.fillmore.jp/mostview/2013/01/31/1604/
法律勉強ノートhttp://houritutechou.blog46.fc2.com/blog-entry-82.html
因果関係とは何かhttps://avance-media.com/iryou/39145846/
會田耕平
過失とは
自分は、過失とは客観的に見た時に不安感を消せていない状態のことを指すと考える。
過失の種類
まず過失の学説には種類がある。はじめに、注意を払ったと言える基準を本人に置き、結果予見可能性と結果予見義務を問題点とする旧過失論。これは例えば車の運転をしていて交通事故を起こしたときに、本人の注意の程度にかかわらず、「車を運転した時点で交通事故が起きるという予見可能性が生じるため、過失犯が成立する」という考え方だ。しかし、時代の発展、工業化などに伴い、車の運転に限らずある程度の危険を伴うものが多くなってくる、その状態で旧過失論を採用し続けると誰しもが過失犯に当てはまってしまう。また、車を運転することが即事故に繋がるという予見ができなかった者、つまりは予見可能性がなかった者が裁かれず、言い方が悪くなってしまうが知能の劣る者が、得をする状況もあり得てしまう。これに対して、注意を払ったと言える基準を通常人に置き、結果回避義務を問題点とするのが新過失論だ。これは先ほどの車の運転を例にとれば、「車を運転した時点で交通事故が起きるという予見可能性が生じるが、その事故という結果を回避するための義務を果たしていれば過失犯には当てはまらない」という考え方だ。例えば工場運営ならば排出物によるなんらかの被害が出るかもしれないという予見可能性があったとしても、その排出物が周囲に広がらないように防衛装置を備えるなどの処置をきちんと施していれば過失犯には問われないし、医療においても、きちんと結果回避義務を果たしていれば、旧過失論では過失とされていた処置を行える。しかし、これにも問題があった。通常人に基準を置いた結果、それより高い地位にいる者の場合、予見可能性があったとしても、通常人では予見可能性がなく結果として結果回避義務も生じないので過失を認めることができないというものである。そして新たに新々過失論というものがでてくる。これは危惧感説とも言われており、その行為に少しでも不安感が残るのであれば、それを取り除く義務があるとする考え方だ。これについては森永ヒ素ミルク事件などが有名であるが、公害事件や薬害事件で広く過失を問える反面、責任主義に反するといった意見もあり、結局現在は新過失論が通説となっている。
証明責任について
学説の次に具体例を挙げよう。前述したいずれの論においても、いざ裁判になった時に共通して問題となるのは、誰にどのような責任を追及するのかという点ではないだろうか。例えば民法94条には、「相手方と通じてした虚偽の意志表示は、無効とする。」とあるが、第2項では、「前項の規定による意思表示の無効は、善意の第三者に対抗することができない。」とある。少し具体的にするのであれば、例えば不動産所有者Aと虚偽の不動産取引をしたBがいるとして、このBが取引は虚偽のものであったと知らない善意のCに不動産を売却したとき、AはCに不動産の返却を主張できないということだ。このとき、証明責任は誰にあるのだろうか。基本的には、それは証明できなかった時に不利益を被る側とされていて、判例でもCにあると考えられている。なぜCが証明できなかった時に不利益を被る側となっているのか。登記を重要視する公示の原則と、その公示を信じた者を保護する公信の原則を考えれば、94条2項が保護しているのは第三者であるCのため、そのままだと不利益を被るのはAにも思える。しかし、証明責任の所在については法律要件分類説がとられており、各条文の構造等が基礎になっている。つまり、94条2項を例にとれば、善意の第三者であるという前提があって初めて成立するのであり、これが証明されない場合、Cは悪意だったかもしれない第三者となってしまう。すなわち、証明しなければ不利益を被るのはCということになる。
さて、問題の過失であるが、法律行為で過失もしくは無過失の証明を必要とする例を挙げると、表見代理などがある。例えば民法112条では、「代理権の消滅は、善意の第三者に対抗できない。ただし、第三者が過失によってその事実を知らなかったときは、この限りでない。」とある。こちらは過失の有無を問われなかった94条2項と違い、善意に加えて過失がないこと。すなわち善意無過失であることが明文化されている。こちらの証明責任についても、法律要件分類説に基づいて判断すれば問題はない。例えばAの代理人Bがすでに代理権を失っているにも関わらずCと法律行為を行ってしまった場合、つまり無権代理行為をしてしまった場合、112条の本文から善意であることはCが、同条但し書きから過失の有無はAが、それぞれ証明責任を分配されることになる。
このように、過失の証明に関しても条文の通りに判断することが主になるが、例外として証明責任の転換が起きることがある。法律要件分類説は条文を基に証明責任を分配するものであるが、条文によって立証の難易等固有の事情がある場合は、それに応じて責任の分配に修正を加えることをよしとする考え方だ。これは医療過誤や淫行条例違反などで起きうることで、本来過失を立証する立場の被治療者が証明の際に専門知識を多分に必要とする場合、過失がなかったということを病院側が証明しなければならなくなるというものである。証明責任の転換とは少し異なってしまうが、実際の判例としてルンバール事件というものがあり、この判例で最高裁は、「訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつそれで足りる。」としている。この判例により、医療訴訟では自然科学的証明から高度の蓋然性に証明の難易度が下がった。このように、証明責任の程度は多少の変更がなされる場合もある。
違法ではあるが無過失の場合
さて、ここまで私人間の過失について論じてきたが、過失が認められるのは私人間だけではない。国や市区町村などの公共団体に対しても過失を問うことができる。例えば国家賠償法の1条では、「国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。」とあり、国家から損害を受けた場合、それが違法であり、且つ故意または過失を証明できれば賠償を受けられる。また、それが適法であり、且つ過失がなかったとしても、場合によっては補償という形で金銭の給付を受けることができる。しかし、そのどちらにも当てはまらない場合、つまり違法ではあるが過失がないという違法無過失の場合にはどうなるか。
そもそも違法無過失ということはあり得るのか、という話になった時、伝統的通説である違法二元論というものが出てくる。これは、違法性は客観的な問題、故意・過失は当事者の内面的な問題と分けて考えるもので、民放709条を基にして規定された国家賠償法もその影響を受けて故意・過失と違法性を分けて明文化している。この論に立てば、客観的には違法であるが、主観的には過失がないという事態は十分おきうるのである
例えばインフルエンザ等の病気に対するワクチンを注射してもらえる予防接種。これは今でこそ任意で受けることができるが、昔は予防接種法という法律による強制的なものだった。そもそも予防接種というものは、ごく少数ながら毎回死亡者の出てくるものである。もちろんそのすべてが医療機関側の責任というわけではないかもしれないが、どうしても副作用が出てしまう者もいる。当然強制的に予防接種を行うこの法律下でも被害者は出た。しかし、これを強制したことは確かに違法であるが、不注意等が原因となる過失であったかと問われれば、どうしても首をかしげてしまう。よってここに違法ではあるが過失がないという事態が発生し、その状態で訴訟が起きた。
結果として当該事件で東京地裁は医者側の過失を認め、損害賠償が支払われた上、その後予防接種は任意で行われるものになった。しかしそれによって別の問題もでてくる。予防接種を受ける人間の減少である。インフルエンザなどの病気は特に体力の少ない高齢者などの死亡率が高い。最近では子宮頸がんなどもワクチンが必要なものとして挙げられるこれらは、予防接種によって相当数被害を減らすことができる。しかし、前述の通り任意制に変わり、予防接種を受ける割合は減っている。とはいえ個人の体質的な問題や、問診時の当事者の錯誤などを原因に思いもよらぬ被害が起きることは可能性としてゼロではないため、強制にせよ任意にせよ問題が残るので明確な正解はないかもしれない。個人的な意見としては任意制の方が良いと思われるが、国側からの情報供給の質と量がカギになると思われる。
私見
ここまで過失について論じてきたが、個人的な意見を言えば現在の通説である新過失論よりも、新々過失論のほうが良いのではないかと考える。こちらの方がより広く厳しく責任を問うことができるからだ。過去にグリーンピア事件というものがあった。多額の赤字を出した当事件は結局違法性が認められず、また、過失が誰にあるかもわからなかった。もちろん違法性が認められなかった時点でなんらかのペナルティを科すことは極度に難しいが、せめて過失の所在を明確にしたいと考える。その点で新々過失論は、極めて明確な結果予見可能性がなくとも過失に問えるため、より慎重な行動を要求することが可能になる。安易な行動は当事者にとっても周囲にとってもマイナスに働く可能性が高くなると思われるため、過失は厳しく規定するべきと考える。
出典
有斐閣 ポケット六法
刑法理論の基礎 吉田敏雄
民法U 内田貴
裁判所ホームページ www.courts.go.jp
日経メディカル medical.nikkeibp.co.jp
リラックス法学部 info.yoneyamatalk.biz
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