保田敬太

 

 

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ライフデザイン演習T後期レポート課題

17J110024 保田 敬太

「過失とはなにか」

 

1.     過失に関する私的見解

筆者が考える過失とは、結果の発生を予見する義務(結果予見義務)を怠ったことにより

予め、起こる犯罪を回避する義務(結果回避義務)が果たせなくなったとき起こる違法行為であると考える。

 

<キーワード>

結果予見義務、淫行条例、新過失論、予防接種、違法無過失、公信の原則、善意無過失、表見代理、公示の原則、証明責任

 

2.     日常の中に潜む過失

過失とは、我々が普段生活している中にも潜んでいるものである。例えば、自動車を運転するときに道路標識がない道で、スピード違反で捕まってしまったときには、過失として処罰されてしまったり、台所で料理をしてる時、火元から目を離していて火事を起こしてしまい、周りの建物などにも被害が出てしまったときは、重過失(刑法上では、常人が払うべき注意義務を著しく欠くこと)となる。

 

3.     詐称による過失

筆者が過失を調べていて最初に疑問に思ったことは、もし加害者側が被害者に騙されていて起こってしまった違法行為でも過失になるのかということである。ここで挙げられる例が、未成年との性交である。本来であれば、青少年保護育成条例の中にある淫行条例で青少年(既婚者を除く18歳未満の男女)との「みだらな性行為」または、そのような行為を教えたり、見せたりする行為を規制する条文で罰せられるが、この時、被害者の女性が自分は未成年であるということを偽って成人男性と性行為をした場合、この成人男性は淫行条例により、罰せられてしまうのだろうか。確かに成人男性が予め身分証明書の提示などを求めれば事前に回避することが出来るが、一人の女性と性行為をするだけなのにそこまでしなければならないのだろうか。また、女性は法律的に16歳から婚姻が認められているが、相手が同じ成人男性でも、婚姻関係があれば淫行条例に該当することはなくなるという。このことから、婚姻関係がない成人男性との真剣な交際の上での、性行為は違法になってしまうのかなどの多くの疑問がこの条例には含まれているのではないかと筆者は考えた。このことから、筆者は淫行条例という条例を変えた方がいいのではないかと考える。例えば、お互いが金銭などによる性行為以外での関係だった場合には違法性をなくすなどとした方が分かりやすく、お互いのリスクも低くなるのではないだろうか。

 

4.     過失論について

過失論とは、従来故意と並ぶ責任要素とされてきた過失を違法要素、さらには構成要件要素でもあるとして、違法要素としての過失を客観的注意義務の違反として説明する刑法総論で、過失論には、3つの種類があるとされている。一つ目は、旧過失論と呼ばれるものであり、これは不注意によって犯罪事実の発生を認識しないことを過失とするもので、過失を行為者の責任の問題としてとらえるというものだった。しかし、この過失論は、行為者本人が細心の注意を払っていたと主張すれば無過失となってしまうため過失そのものの基準が、行為者の能力によって変わってきてしまうという欠点があった。そこで新しく提唱されたのが、新過失論である。この新過失論と旧過失論の大きな違いは、どのような視点で過失と判断するかではないかと筆者は考える。先ほども述べたように、旧過失論では、行為者の視点で過失かどうかを判断していたが、新過失論では一般的な視点、要するに第三者から見て過失かどうかを判断することにしたものである。例えば、1985年の5月から6月にかけて帝京大学医学部付属病院で血友病治療の権威として知られていた安部 英先生が血友病の男性患者に、非加熱製剤という人の血液を由来とする薬品を使用し続けた結果、男性患者が、HIVに感染してしまい1991年12月にエイズで死亡したとされる事件で、1996年に、安部先生は逮捕されてしまったが、一審判決は無罪となった判例である。なぜ、安部先生は無罪になったのかというと事件当時はHIVの性質やその抗体陽性の意味に不明点が多々存在していて、明確な危険性の認識浸透してはいなかったことや、代替治療法としてのクリオ製剤には治療に様々な支障があったことなどから無罪となった。この判決を見てわかる通り、明らかに第三者の視点から判決を下していることがわかる。この考え方が新過失論である。そしてもう一つが、新新過失論と呼ばれるものである。この考えは、社会的に不当な行為をした以上、何らかの危険があるかもしれないという漠然とした不安感・危惧感がありさえすれば過失犯は成立するとするものである。この考え方は、公害事件や薬害事件のような未知の分野について、今までよりも、広く過失犯の責任を問うべきだとしたもので、この新新過失論がおそらく唯一使われた判例に森永ヒ素ドライミルク中毒事件がある。この事件は、1955年に、ヒ素が混入した森永乳業製の粉ミルクを飲用した乳幼児に多数の死者、中毒患者を出した毒物混入事件で、この事件は森永乳業が、全国の工場で酸化の進んだ乳製品の凝固を防ぎ、溶解度を高めるために使用していた第二燐酸ソーダのなかに、大量のヒ素が含まれていたため、1万3000人もの乳幼児がヒ素中毒になってしまった。このことにより、乳幼児の親たちが森永乳業を訴訟した。第1審は、この事件を予見することは出来なかったとして森永側は全員無罪とされたが、第2審では、少しでもヒ素が粉ミルクに含まれてしまう可能性があるならそれは過失であるとして、その粉ミルクを製造していた工場の元製造課長が実刑判決を受けた。このように考えられた危険性全てを過失としてしまうのが新新過失論である。しかし、新新過失論を普通の裁判で用いてしまうと、世の中が過失だらけになってしまうのであまり使われていない。

 

5.     公務員による過失

もし、国に雇用されている人間が過失によって相手方に被害を被らせてしまった場合はその賠償責任は、国と個人どちらに賠償責任があるのだろうか。この答えは、国家賠償法第1条に記載されている。「@国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。A前項の場合において、公務員に故意又は重大な過失があったときは、国又は公共団体は、その公務員に対して求償権を有する」と書かれている。このことから、国や公共団体で働いている公務員は故意又は重大な過失がない限り個人で賠償責任を負わなくてよいということがわかる。例えば国立病院の医師が日本脳炎の予防接種を受けに来た患者に対して、事前にしっかりと検査をして安全だと判断し、希望通り予防接種をしたところ、患者が日本脳炎にかかってしまい死亡してしまったとするとき、この医師に過失が全くなかった場合どのような罪に問われるか。答えは、違法無過失というものである。違法無過失とは不法行為において損害が生じた場合、加害者がその行為について故意又は過失が無くても、損害賠償の責任を負うというもので、医師は自分が出来る最善を尽くしたが患者を殺してしまうという不法行為をしてしまったため、本来であれば賠償責任があるが、この医師は国立病院の医師なので公務員ということになる。なので今回のような事件が起こった場合、国家賠償法により国が賠償責任を負わなければならなくなるというものである。

 

6.     民法上の過失

過失には3つの法律ルートがあり、一つ目は刑法上の過失と言い、このレポートの2、3、4の小見出しで述べたことが当てはまる。二つ目は行政法上の過失と言い、このレポートの5の小見出しで述べたことが当てはまる。そして3つ目が今回の小見出しで話そうとしている民法上の過失である。これから、民法上の過失がどのようなときに起こるか説明していきたいと思う。例えば、Aが自分の土地をBに譲ると口約束した。Bはその気になりAからもらった土地に自分の家を建てようと思い、Aから土地を譲り受ける前に建設会社Cに家の建築を依頼した。Cは家を建てるために必要なものをすべて揃えていつでも建設出来るように準備をした。ところがAが急に土地を譲れないと言い始め、Bはそれを聞き入れ、Cに「家の建設はなかったものにしたい」と伝えた。しかしCはあらかじめ建設の準備をしていたため会社に損害が出てしまった。これを受け、CBに対して損害賠償を求めた。この場合しっかりとした契約もないのに、もらえる予定だった土地に建設を依頼したBに落ち度があるということになり、Bは損害責任を負うことになる。このようなことを、民法上の過失という。

7.     民法上の無過失

では、このような事例の場合はどうなるのだろうか。Aは、自分のダイヤモンドの指輪を「しばらくの間預かっていてほしい」とBに伝え指輪を渡した。しかしBが「この指輪は自分の所有物だ」と言い、その指輪を買いたいと申し出たCに売ってしまった。しばらくしてAがそのことに気づき、「その指輪は、Bに預けていたものであり自分のものだ」と主張し、Cを訴えたとする。Cはこのとき、その指輪がAのものであるということなど全く知らなかった。このときCAに指輪を返さなければいけないのだろうか。この場合はCに指輪の返還義務はない。なぜならば、指輪を預かっただけのBが無権代理人にも関わらず、自分の所有物として売買契約を結んだこと(表見代理)により、Bが所有者だと疑う余地のなかったCは、民法上の保護されるべき立場だからである。このように、たとえ相手が嘘を述べている契約でも取引きを安全に行うために真実と同等に扱うことを公信の原則と呼ぶ。よってこの事例の場合、何も知らなかったC善意無過失となり、民法192条の即時所得によって返還義務はないということになる。ただし、これがもし不動産の登記などであった場合は、公信の原則は適用されない。

 

8.     不動産に関する過失

 

次は、不動産に関する過失について考えていきたいと思う。例えば、Aが自分の家をBに売ると約束したとする。しかし、ABと契約をし終えたあとにBよりも好条件で家を買いたいと言ってきたCに家を売ることにし、Cはその家の登記を終えたとする。これを知ったBは激怒し、Cに対して土地を返還するよう訴えたとする。このような状態を二重譲渡といい、不動産に関しては先に登記をしたほうがその土地の所有者となる(公示の原則)ので、この場合Cに家の所有権があることになる。これにより、先に登記しなかったBに過失があるということになる。しかし、Bにはまだ家を取り返すことが出来る方法がある。その方法とは、Cが背信的悪意者(Bが家を買うという意思表示をしているのにも関わらず、Aからその家を買いBに対して、より高く売ろうとする意志)であることを証明すればいいのである。このように裁判などで、事実の有無が確信出来ずに不利益を被る側が事実の有無を証明しなければならないことを証明責任という。

 

9.     最後に

筆者は、今回「過失とは何か」について考えていたとき、一つの疑問が生まれた。それは現在の犯罪を裁く制度である。なぜ同じ犯罪を起こした者でも故意か過失かで罪の重さが変わるのだろうか。筆者が考えるに、殺人罪も、飲酒運転や信号無視などによる自動車運転過失致死も罪名こそ違うが、どちらも人を殺めていることに変わりがないのに、罪の重さがまったく違うことに疑問を抱いた。もし、過失や故意などにとらわれず人間ひとりひとりが自分の行動に責任を持つことが出来れば、過失という言葉はなくなるのではないかと筆者は考えた。これから先の未来で過失による被害者が一人でも多く減ることを願いたい。

以上

 

 

<目次>

1.過失に関する私的見解

2.     日常の中に潜む過失

3.詐称による過失

4.     過失論について

5.     公務員による過失

6.     民法上の過失

7.     民法上の無過失

8.     不動産に関する過失

9.     最後に

 

 

<参考・引用に用いた書籍又はサイト>

授業ノート

ポケット六法

過失共同正犯について 著者 内海朋子 出版 成文堂

判例刑法総論 第6版 著者 西田典之・山口厚・佐伯仁志 出版 有斐閣

民法判例集 第2版 著者 内田貴・山田誠一・大村敦志・森田宏樹 出版 有斐閣

wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/メインページ

コトバンク  https://kotobank.jp/

民法まとめ  https://www.minpou-matome.com/

ヤフー知恵袋 https://chiebukuro.yahoo.co.jp/

ビジネスジャーナル http://biz-journal.jp/2016/11/post_17267.html

 

 

 

 

高橋里緒

 

こんにちは。

木曜5限の法学部1年のライフデザインでお世話になっております、

高橋里緒です。秋期レポート課題が出来ましたのでよろしくお願いします。

 

昨年一年間はお世話になりました。

今年もよろしくお願いします。

 

先ほども同じ内容のレポートを提出したのですが、

参考文献を記載するのを忘れてしまいました、過失です。

 

ですので参考文献を記載したものを改めて

提出させてほしいと思います、よろしくお願いします。

 

過失とは何か

学籍番号:17J110001

氏名:高橋里緒

 

 過失にはいろいろ規定があるが簡単に言ってしまえば「不注意」ということだ。次に着目されるのは,こうなることを「考えることが出来たか」と「出来なかったか」である。そしてその違いによって,問われる責任が大きく変わってゆく。

 

過失とは

私がややこしい法律の授業を受け始めてからおよそ一年が経とうとしているが,未だに法律の一片も理解できない。法律は非常に複雑だ。様々な法律がガッチリと組み合ってひとつのルールを成り立たせている。きめの細かいガーゼのようなイメージだ。そしてちょっとした違いで異なる結果が生まれてしまう。違法な行為が起こることを事前に「少しでも考えたか」または「考えていなかったか」それだけで結果がずいぶん違ってくる。

そこで私は簡潔な区別方法を考えた。例えば,民法は「人間と人間同士のもめごと」刑法は「人やものに物理的に危害を加えること」だ。間違っていることはわかっているが,法律一年生の私にとってこの二つの区別は大体こんな感じで事足りる場合が多いのだ。易しくわかりやすくあれば良い。

私にとっての「過失」は一言で言ってしまえば,「でもわざとじゃない」である。悪いことをした大人は責任というものを追及される。小学校でいう「いけないんだ、先生に言っちゃおう」である。そんな時の言い分も決まってこうだ。「でもわざとじゃない」。

だがこの「でもわざとじゃない」だけでは片づけられない責任というものもある。もちろん,注意力が散漫している場合の「でもわざとじゃない」は「でも気を付けなかったじゃない」で片づけられるが,十分に注意したのに悪いことをしてしまった場合も同じように攻めるのはどうにも可哀想である。

大人の場合でも同じであるから,法律というのは事前に規定を作り,様々なケースに対応できるような仕組みになっている。今回はこの「でもわざとじゃない」について考えてみようと思う。

 

「わざとじゃない」の範囲

 殺人を犯した人は,法の下で罰せられる。これは当たり前のことだ。そして日本の法律では,故意か過失かが罰を決める際に重要になる場合がある。簡単に言えば「わざと」か「わざとじゃない」かだ。人を殺そうと思って殺人を犯した場合はもちろん罰を受けるのだが,もし誤って殺してしまった場合はどうだろうか。人を殺そうなんて考えていなかったはずなのに,気を抜いた一瞬で誰かを殺してしまったとしても,故意に殺人を犯した人と同じ刑罰を受けるべきなのだろうか。

これに対し旧過失論では,人を殺そうと考えていなかった場合の殺人罪でも,その状況で殺人が起きるかもしれない可能性を予想できたのならば注意義務を怠ったとして過失と認められる。「危ないのでは」と思った時点で過失への第一歩という訳である。「危ないのでは」と思った時点でその「あぶない」状況を防ぐために行動しなければならないのだ。これを結果回避義務といい,「危ないのでは」と思うべきだということ自体のことを結果予見義務という。まずは予見,そして回避だ。この二つを怠ると注意義務違反として過失になる。

だが,車の運転はどうだろうか。免許を取得するために自動車学校へ通い始めたその日に言われることは「安全第一,無事故が一番」だ。つまり,自動車の運転は常に細心の注意を払うことを義務付けられるのである。これは事故を起こさないようにするためだ。この時点ですでに「危ないのでは,と思」っていることになる。このように,注意を払ったのにも関わらず,自動車事故を起こし,人に危害を加えてしまった場合も殺人罪とするのは,生活に支障が表れてしまう可能性もあるのではないだろうか。そこで近年,「可能性を予想(予見)している上にそれを回避しようと必要かつ適切な行動をとらなかった」場合を重視する新過失論が説かれることが多くなった。要するに結果予見義務より結果回避義務を重要視しようという考えである。この新過失論は自動車運転による事故だけでなく,医療の現場でも役に立つ可能性があるのではないかと私は感じている。

 

医療現場においての過失

 新過失論が医療の現場でも役に立つかもしれない,という考えに至ったのには理由がある。それはインフルエンザワクチンの予防接種についてだ。私はこのインフルエンザワクチンの予防接種による悲しい体験がひとつだけある。それが,もしかしたら新過失論の応用になるのではないかと思ったのだ。

私の小学校時代の同級生に,生まれつき体に少しだけ麻痺がある女の子がいた。歩くときには必ず歩行器が必要であったが照れ屋で可愛い性格の女の子だった。私はこの女の子と仲が良く,週に三度は必ず遊んだ。けれども,私たちが小学五年生の時,その子は私のことを忘れてしまった。インフルエンザワクチンの接種によって脳炎を起こし,脳に障害が残る状態になってしまったのだ。今週は私の家に遊びに来てね,と言っていた彼女がその翌日に意識不明の重体になり,次に会った時には言葉にならない音を口から発していた。脳が委縮してしまった彼女は,まるで赤ちゃんのようで,少なくとも私の知っている彼女ではなかった。私は,インフルエンザの予防接種によって大切な友達を一人失ったのである。当時の私は,彼女にワクチンを投与した医者を恨んだりもしたが,いま考えるとこれは善意無過失に入るのではないかと思うのだ。

というのは,この状況を客観的に見た場合,彼女の例は副作用に当てはまることになる。医師はこうなることを予見していても,回避することはできない。つまり,新過失論によると罰することは難しいのではないかと思うのだ。それに加えて,ワクチンの副作用を十分に認知し,注意していたにしても,身体の中でどのような化学反応が起きるのかは誰にも分からなかったのだ。これは善意無過失である。実際あの後,彼女の両親が病院を訴えたという噂はなかったし,なにより彼女は生きている。それに,彼女が脳に障害を負った原因がインフルエンザワクチンにあるという確証もない。もし確証がほしい場合は証明責任が必要である。つまり,彼女の脳炎とワクチンの因果関係を調べる必要があるのだが,医学的にこれといって確証が持てる証拠もないのが現実だ。

もしこれで仮に彼女が命を落としていたとなれば話は別ではないだろうか。状況によっては国家賠償請求が成立する可能性だってある。予防接種における国家賠償請求は,グレーな部分が多い。というのも,これといって定まった法律がないのだ。国家賠償でも損失補償でも,どちらの対象ともいえないが,対象でないともいえない。判例では,医師は接種する当人に問診票などの高度な注意義務を課し,違反しているか,していないかを証明できない限り,過失を認めることになっているが,この場合,国家賠償請求が成立する。一応,成立することにはなっている。だが,もしも仮に法廷で,相手方の敏腕弁護士なんかに言いくるめられたりしたらその遺族はどうなるだろう。太刀打ちできなくなってしまうのではないだろうか。そう思うと,先ほどの新過失論と同様に,予防接種においても明瞭な法律等を施行すべきだと感じてしまう。

また,この場合とは別に淫行条例における違法無過失の場合,責任はどうなるのだろうか。

 

違法無過失のみだらな行為

 これは今回のレポートを書くにあたってキーワードをどうやって消化しようか自分なりに考えた結果,自分で事件を作ってしまおうというひらめきにたどり着いた結果である。淫行条約違法無過失を含んだケースを自作してみよう。

二十一歳のA君は二十歳のBさんと付き合っている。二人はお互いに愛し合っていて,将来は結婚したいと真剣に考えていた。もちろん,性行為もしている。ある日A君は会う約束をしていないのにもかかわらずBさんの最寄り駅で帰宅途中のBさんを待ち合せようとした。現れたのは高校の制服姿のBさんだった。問い詰めるとBさんの実年齢は十七歳で,Bさんはその事実をA君に隠し,さらに年齢を偽っていた。ここで初めてA君は「Bさんが未成年であること」を知る。この場合,A君は淫行条例に違反したことになるのだろうか。

どうだろうか。我ながら少しは良い出来だと思う。この場合,既婚者でない18歳未満と淫らな行為を行ったA君が罰せられる可能性があるのだが,A君はBさんを二十歳だと思い,それを信じ切っていた。このとき違法無過失が成立するのではないかと私は思ったのだ。これも先ほどのインフルエンザワクチンと同様,悪いところはあったが,過失でないケースである。人をむやみに信用しては後々厄介に巻き込まれる可能性もあるのだ。この例は恋人同士であるから,そのようなことはめったにないと信じたい。

だが悲しいことに,民法上の問題において,時に家族は修復不可能なほどに関係をこじらせることがある。私の曾祖母が良い例だ。私の曾祖母は子沢山だった。あの時代の家族はどこも兄弟が平気で十人はいるだろう。私の祖母はその中の一人だった。十三人兄弟は皆仲が良かったそうだが,曾祖母の死によって関係は大きく変わってしまったらしい。

というのも,曾祖母の葬式後,弁護士がもってきた遺書は,親戚が集まった場で書き残した遺書とは違う内容の遺書だったのだ。事前に知らされていた取り分とはずいぶん違う内容だったらしい。そしてそれに腹を立てた何人かは「こんなの聞いていない,これはきっと間違いだ,偽物の遺書だ」と騒いだという。曾祖母の面倒を最期まで見た十三番目の男児のお嫁さんは遺書のことを承知だったが,そのお嫁さんのいうことを信じてくれる人は誰もいなかったらしい。その後,曾祖母が正式に遺書を書き換えたという直筆の書類が見つかり,その遺書は効力を得た。これはすなわち公示の原則と似たようなケースではないだろうか。

 

物権の変動

 公示の原則とは,物権の変動を外部から認識可能な状態にすることが求められ,その公示のない物権変動は無効になる可能性がある,といった内容の原則である。つまり,物の引き渡しの詳細はきちんと第三者にわかるようにしておきなさい,ということだ。そうしないとこの引き渡しが無効になるよ,という内容なのだが,これは原則である。実際,日本の民法は当事者同士の意思のみで物権の変動は有効になるとされている。しかし,公示がない場合,第三者からなにかを問われた場合に対抗する術がなくなってしまう。先ほどの曾祖母の話でいう「お嫁さんの話を誰も信じてくれない」という状態である。お嫁さんは嘘を言っていなかったが,書類が出てくるまで,それが真実だと証明することもできなかった。つまり,公示がないので第三者である兄弟たちに対抗できなかったのだ。何事も,用意周到に進めることが大事だということである。

法律では証拠がものをいうことが多い。状況や証拠によって誰が,どのくらい悪いのかを測っているのだ。日本の民法は,「義務付けていないが行ったほうが良いこと」を怠った場合の責任が重い。例えて言うのならば,「課題は自由提出です」と言った教授が,実際に課題を出さなかった生徒に対して大幅に減点を課すことと同じである。最初から「絶対出すように」と言ってくれれば良いものの,決してそうは言わず,いざという時には厳しく罰する。「何事も自分の行動次第,自由にしてくれ。その分責任は自分で負うこと」ということだ。私は「ある程度の指示は出すが,その分責任を負うことにならないようにしてあげよう」のほうがよっぽど良い。日本の法律はそういう面に欠けている部分があるのではないかと感じる。その証拠に,ドイツの民法における公示の原則は「常に公示が必要」であり,公示がない場合の物権変動は成立しない。これは私が望む「ある程度の指示は出す」方の考え方である。こっちのほうがシンプルで分かりやすい。

また,物権の変動に関する原則でもう一つ大事なことに公信の原則が挙げられる。この公信の原則表見代理と似たような性質を持つ原則であり,どちらも契約において騙された人を保護する内容だ。公信の原則は先ほどの公示の原則とセットで説明されることが多い。その理由は恐らくどちらも「取引が無効になるのを防ぐ」役割を持っているからであろう。公示の原則は取引を「第三者から守る」役割だが,公信の原則は取引を「相手側から守る」役割である。

公示がない物権の変動は効力が否定される。これは公示の原則だ。だが,もし仮にその公示を信用し,取引したが実はその公示が虚偽だった場合その取引は無効になってしまうのだろうか。これは表見代理と通ずるものがある。表見代理の場合,取引相手が無権代理人だと知らなかった場合,(これは善意無過失の場合に限る)有権代理と同様の法律上の効果が認められる。つまり注意していたが分からなかった場合,その取引は有効ということだ。では,公示が虚偽だった場合はどうだろう。これに関しては「たとえ公示が真実の権利関係と一致しなくとも公示通りの権利を取引」できるという旨が保証されている。つまり,これも善意無過失が認められた場合には取引が有効になる。これが公信の原則だ。

この原則,取引で騙された側からしたら非常にありがたい原則である。だが,私はこうとも考える。公示の虚偽の内容によっては第三者が被害者になる可能性もあるのではないか。

例えば,「この家の持ち主は私です。この家をあなたに譲ります」といった公示が虚偽で,実際は「この家の持ち主はCさんです。この家をあなたに譲ります」だった場合,公信の原則は「あなた」を保護することになるので,Cさんは家を失ってしまうことになる。この場合はどうなのだろうか。

このようにひとつのことを覚えると,この場合はどうなるのか,この場合はどうだろうか,という興味が次から次へと浮かんでくる。それ自体は良いことなのかもしれないが,それを一つ一つ解決するほどの知識が私にはないのだ。いつかそれらを一つ一つ解決できるほどの知識を蓄えること,それが私の目標である。そのために私は今年も精進していきたいと思っている。

 

参考文献

 

『刑法 第三版』(山口厚,有斐閣 2016

『刑法各論講義 第六版』(前田雅英,東京大学出版会 2015

『民法T 第四版』(内田貴,東京大学出版会 2008

 

 

 

 

 

川崎知佳

結論

過失とは簡単に言うと不注意のことである。

刑法、行政法、民法における過失について述べていく。

 

刑法上の過失

刑法上の過失とは不注意であり、注意義務違反である。過失には旧過失論と新過失論がある。

旧過失論は、何かが起こってしまうときには予見しないといけないという結果予見義務のみが必要とする考えである。なぜかというと、刑法は構成要件、違法性、有責性に分かれていて、昔は構成要件と違法は心の外のことであり、有責性は心の中のことであると考えていた。このようにおいた上で、予見できるか否か心の中でチェックする義務が人間にはあるということが始まりである。だから何かしらの結果が発生し、行為と結果との間に因果関係が認められたならば、そこで結果を予見すべき注意義務(予見可能性)があったか否かが問題とされる。従って、行為者が結果の発生を予見することができたにもかかわらず、不注意によって予見せずに行為に出てしまい結果を発生させた場合に過失犯が成立することになる。このことから予見可能性という行為者の主観が注目されていることが分かる。行為者の主観が注目されるので、認識能力や判断能力が一般人よりも低い人の方が結果予見義務の程度が下がってしまい、逆に言えば認識能力や判断能力が一般人よりも高い人にはもっと予見できたのではないかと結果予見義務の程度が上がってしまう。それぞれの人の能力までしか求められないという問題が出てきてしまった。

そこで結果を予見できるならば回避もできるのではとされ新しくできたのが新過失論である。新過失論は、結果予見義務と結果回避義務からなり、結果回避義務を行為基準として客観化した客観的注意義務が行為者にあたったのかを重視する。よって旧過失論では予見可能性があれば過失犯として処罰されるが、新過失論では結果回避義務という一定の行為基準を設けているのいるので基準を満たさなかった者のみを処罰でき、過失の処罰範囲を制限できるようになった。

さらに森永ヒ素ミルク事件をきっかけにできたのが新新過失論である。

事件の概要は、森永乳業は1953(昭和28)頃から全国の工事で酸化の進んだ乳製品の凝固を防ぎ溶解度を高めるための安定剤として、第二燐酸ソーダを粉ミルクに添加していた。試験段階では純度の高い試薬1級のものを使用していたが、本格導入時には安価であるという理由から純度の低い工業用に切り替えられていた。1955(昭和30)に徳島工場が製造した缶入り粉ミルク(代用乳)「森永ドライミルク」の製造過程で用いられていた第二燐酸ソーダに、多量のヒ素が含まれていたため、これを飲んだ13千人もの乳児がヒ素中毒になり、130名いじょうの中毒による死亡者も出た。

このとき使用された第二燐酸ソーダと称する物質さ、元々は日本軽金属がボーキサイトからアルミナを製造する過程で輸送管に付着した産出物で、低純度の燐酸ソーダに多量のヒ素が混入していた。この産出物が複数の企業を経て松野製薬に渡り脱色精製され、第二燐酸ソーダとして販売、森永乳業へ納入された。

この事件により少しでも危ないと思う気持ちや何が起きるか分からないという危惧感があるならば、それは過失として認めていいという危惧感説が唱えられた。最高裁判決は新新過失論によって被害者側の勝訴となった。しかしこの考えは少数説にとどまり、広い支持を得るには至っていない。

以上のことをもとに考えたいのが淫行条例である。そもそも淫行条例とは、日本の地方自治体の定める青少年保護育成条例の中にある、青少年(既婚者を除く18歳未満の男女)との淫行、淫らな性行為、わいせつな行為、淫らな性交または前項の行為を教え・見せる行為などを規制する条文(淫行処罰規定)の通称である。

何が淫行条例に当てはまるか考えたいと思う。例えばA20歳、B17歳がネットで知り合い性交渉をした。そのときB子はネットのプロフィールに18歳と記載していた。この場合A淫行条例にあたるのだろうか。判例の結論から言うとA淫行条例に当たるとした。Aはプロフィールに18歳と書いてあったのを信じていて故意がないから事実の錯誤と主張したが、裁判所は過失があったと認定した。理由としては、淫行条例は青少年を保護育成するという立法目的があるので過失の認定には非常に厳格にやらなければいけない。従ってネットのプロフィールは誰でも嘘が書け、そのようなところで18歳と確認した場合には結果回避義務違反であって身分証明書を確認しなければならなかったとした。

また刑事訴訟は検察官が証明責任を負う。しかし淫行条例だけは例外でAの方が過失はなかったと証明しなければならないという性質を持っている。(証明責任の転換)

 

行政法上の過失

刑法の結果予見義務と結果回避義務を受けた民法の過失の客観化があり、その流れを受けて行政法もできているから結果的に行政法も結果予見義務と結果回避義務の仕組みは同じである。民法の場合は結構簡単に過失を認めてしまうけれども、行政法は国という統治システムを維持するためにあまりせめ込ませないようにしている。そうすると、結果予見義務と結果回避義務に加えて結果回避可能性が要件に入る。もしも東日本大震災のような大地震が起きて津波が発生したとする。その津波を防御するために30mの壁を作っておけば大丈夫と思っていたが、今回は50mの津波が来て被害が出てしまった。そのことを国のせいにできるかというとできない。国としては最善のことはやっていて、今までのデータからも30mの津波は来ないと予測していた。それでも50mの津波が来てしまったのは、もうこれは回避できなかったといえるだろう。このように、余りにも無茶なことは求められない。結果回避可能性がある場合にだけ責任をみとめるというのが行政法の過失の概念とである。

行政法には国家賠償法がある。国家賠償法のは、国または公共団体の損害賠償責任に関する一般法である。日本国憲法第17条は、明治憲法下で認められているいなかった公権力の行使に基づく損害の賠償責任を認め、その具体的要件については法律の定めるところに譲っている。そこで制定されたのが国家賠償法である。行政救済法の一つで、行政法に分類されるが、民法の特別法としての側面も持つ。

国家に賠償金を求めた例として予防接種がある。予防接種というのはウィルスを体内に注入するわけであるから必ず発病してしまう人がでる。しかし現代科学では目いっぱいやっているから、そのようなときには過失がないのではないかという違法無過失であるということをいう人がいる。発病した人を救いたい、損害賠償を払って欲しい、というときに国家賠償法がある。国家賠償法の中では故意または過失があったときには請求できる。でもそのときに過失のれべるを上げて例えば厚生労働省が予防接種をやっていて、厚生労働省の組織として過失がありと無理矢理過失の概念を広げると言ったやり方が一つ。もう一つは、そもそも発病するような人が出る予防接種は違法であると言って、これは憲法293(私有財産は正当な保障のもとに、これゆ公共のために用いることができる。)で正当な補償として、憲法17(何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国と又は公共団体に、その賠償を求めることができる。)で過失がある違法なものとして賠償金をあげるというやり方がある。判例は国家賠償法で過失のレベルを上げて憲法17条で賠償金をあげるというやり方をとった。 

また国家賠償法では被害者である国民が証明責任を負う。しかし国民は役所の内部まで調べるのには無理がある。そのため証明責任の転換をして、事実上の推定の仕組みを作ることが必要である。

 

民法上の過失

民法の過失も刑法と同じような流れをとっていて、主観的過失や客観的過失、具体的過失、抽象的過失というようなや言葉は違う。しかし同じように、もともとは心の中を基準に考えるけれども、それだけだとやはり個人差が出てきてしまうので客観化した。

民法の証明責任については3つのポイントがある。一つ目は条文の体裁。二つ目は証拠への距離。三つ目は政策目的である。家の売買を例に挙げて考えたいと思う。A(本人)B(相手方)に不動産を売却したことにして登記をBに移した。Bは自分に登記があるのをいいことに、この不動産は自分のものだと偽ってC(第三者)に売却した。Cは善意であった。このような虚偽表示の場合、民法942項でCに購入した不動産の完全な所有権を取得できる。Cを保護しないと取引の安全が害されることになる。そこで物権変動の公示を信頼して取引した者は、たとえ公示が真実の権利関係と一致しなくても、公示どおりの権利を取得することを基本原則とした。これを公信の原則という。似た言葉に公示の原則という言葉がある。これは、Aに融資したB銀行はAの所有する土地に抵当権の設定を受けた。それによりAの借金の返済ができないと、Bは抵当権を実行して土地の売却代価から優先的に再建を回収できる。ところがACに土地を売却し、CBの抵当権などを認めないと言っている。この場合に、Bが抵当権を登記することは対外的に抵当権の存在を警告する意味を持つ。この場合の登記を公示といい、物権変動にこのような外観から認識しうるものを要求する原則を公示の原則という。

では話を戻すと虚偽表示の場合は、証明責任を負うのは第三者Cであり、自分が善意ということを証明しなければならない。二重譲渡の場合は、本人ACは背信的悪意という証明をしなければならない。善意無過失の即時取得と表見代理は本人ACは悪意有過失という証明をしなければならない。そして証明をできなかった場合、証明責任を負っている側が負けとなってしまう。

 

私見

前文で述べたように、予防接種の裁判で過失のレベルを上げるという方法をとった。この方法では責任と違法性の峻別というところを崩してしまいそうすると、法体系全体が崩れてしまうという考えに賛成である。この方法をとらないためには新たに規定を設けなければならないと思った。

 

出展・参考

授業ノート

ポケット六法

法律学小辞典第5

刑法第3 山口厚

民法14 内田貴

公示の原則と公信の原則 民法まとめ

Wikipedia 

 

 

 

小齊平翔

テーマ 過失とは何か 

 

法学部法律学科 1年10組17J110012 小齊平 翔

 

結論

過失とは法律上の様々な基準の一つである。

様々な資料を参考にしながら結論に至った経緯を述べていくこととする。

 

過失とは?

簡潔に言うと不注意である。法律的に言う過失は、法律関係のいろいろな場面で一定の法律効果を生じ、またはそれに影響を与え、自分の行為から一定の結果が発生することができたのに、不注意でそれを認識しない心理状態である。心理状態だから、本人のみぞ知る世界である。万人が一つの基準を定めないと公平に法律的に裁けないから基準が存在している。その基準満たしてしまえば、その行為は過失で行われたことになるのである。認められなければ、故意(どういう結果を招くかを知っている上であえて行動し結果を起こす意思のこと。)という基準を満たすことになる。

 法律にも過失にも様々な種類がある。種類が多いということは基準も様々あるということになる。

公法(憲法、刑法)、私法(民法、商法)、過失はどのように解されているか、一つずつ述べていくこととする。

 

公法(刑法)上の過失

法律関係者や学者が様々な論を戦わせて二つの論が生まれた。旧過失論と新過失論である。事件を一つ例に出して説明する。Bが自電車を目いっぱい注意して運転していたがAにぶつかり骨折させてしまった。さてこの時、新・旧論はどのように解釈しているのだろうか。旧過失論では、目いっぱい頑張ってその人なりに注意を払っていれば過失なしである。新過失論事故が発生すれば、過失ありである。旧過失論は、結果予見義務の違反を過失の内容としている。だが、法益侵害の危険性を伴うが社会生活上必要な行為が現代社会には多く存在している。例えば、自動車交通発達に伴う交通事故増大である。結果発生の予見は容易である。旧過失論の立場に立つと過失犯の成立範囲が広くなりすぎた。欠点をふまえてできたのが新過失論である。過失の内容につき結果回避義務を中心に捉えた考え方である。現在の通説は新過失論である。学者の支持が多いのは旧過失論である。旧過失論は、社会の在り方を守る立場、公法(憲法、刑法)。新過失論は、個人の在り方を守る立場、私法(民法、商法)。である。時代によって考え方も変化する。取りうる基準も異なる。人間にも考え方人それぞれである。立場によって変化する。

人間は男も女も罪を起こしてしまう生き物である。特に多いのが男性の性犯罪である。このような場合どうであろうか。A(男20歳)とB(女17歳)がネットで知り合い男女の関係をもった。Bはネットでプロフィールを18歳と虚偽表示した。いったいどうなるか。金銭の授受があれば、淫行条例にふれAだけ罰せられる。新旧過失論の論点に当てはまる。私的には、新過失論という基準を推したいと思う。金銭の授受があり、女性が18歳以上で売春防止法にふれ女性だけ罰せられる。13歳から17歳で先ほど述べた淫行条例または、児童買春法にふれ男性だけ罰せられる。12歳以下になると刑法の強姦罪に罰せられる。金銭の授受がなければどれも罪にはならないが、17歳以下はみだらな行為で、道徳的倫理的にいかがなものであろうか。Aがとらなければいけない行動として、Bの身分証明書の確認を怠っていたことである。不注意つまり過失である。もしそういう場面に立ったならば、自分のできることをこなしたうえでグレーならば危ない橋を渡るのではなく、やめる勇気も必要である。

次は、違法無過失について判例を用いて述べていく。判例 予防接種と国家賠償責任(最判平3,4 19Xは、予防接種をうけた9日後に脊髄炎を発症し、重大な後遺症が残った。Xと両親は、Xが、接種日の数日前に咽頭炎のため発熱していたことから接種当日も禁忌者に該当していたのにもかかわらず、予診不足のため接種が実施されたことなどを主張して、国などに対して国賠法1条に基づく賠償請求をした。最高裁が下した判決は、以下のようなものであった。予防接種によって右行為障害が発生した場合には、禁忌者を識別するために該当すると認められる事由を発見することができなかったこと、被接種者が右個人的素因を有していたこと等の特段の事情が認められない限り、被接種者は禁忌者に該当していたと推定するのが相当である。簡潔にすると、過失の立証責任(証明責任)を国に転換することで、過失を認定し、国賠法による救済を図った。国家賠償法11項は、違法と過失を要件としている。その違法の意義については解釈が分かれている。だが、結果義務違反説に立ち、違法と過失の二元的判断がなされる立場には、いほうであるが、過失がないという事態が生じ得る。これが違法無過失の類型である。国家賠償の谷間の問題とされている。過失がなければ国家賠償法11項の損害賠償責任が成立しない。強制予防接種による後遺症の発生や、違法な逮捕・拘留等、客観的には違法であるが、公務員の故意・過失の認められない行為により私人が損害を被った場合国家賠償請求も損失補償請求もできない。このように公法なりの過失について基準が存在する。では、私法なりの過失の基準とは何か。述べていく。

 

私法(民法)上の過失

 公法は国家と国民の争いに使われる法律である。私法は、私人間の争いに多くつかわれる法律である。では、過失も同じであるか。例を出して述べていく。ABに貸した。Bは自分のものだと言ってCに売った。CAに貸したものであることを知らなかった。今ものはCが持っている。Aは取り戻すことはできるのか。動産の場合、錯誤があると、Cが勝つ、民法192条の即時取得(取引行為によって、平穏に、かつ、公然と動産の占有を始めた者は、善意であり、かつ、過失がないときは、即時その動産について行使する権利取得する。)公信の原則(真の権利状態とは異なる公示が存在する場合に、その公示を信頼して取引をしてしまった者を保護し公示通りの権利状態を認めるという原則。)公示がある限り、その公示通りの物権変動があるだろうとという信頼を保護することになるため、積極的信頼の保護といえるからである。民法でいうと、942項、109条、110条、112条等に表れている。日本では動産については先ほど示した民法192条の即時取得が認められている。不動産については公信の原則は認められていないが、取引安全保障のために公信の原則を適用する必要性がある。94条2項の類推適用により実質的に登記に公信力を与えるのに近い解釈が生まれた。基準を作らなければいけなくなったから作ったのである。では、不動産の場合はどうなるか。Aが勝つ。錯誤無能になるので、Bは無権利者で対抗要件民法177条不動産に関する物件の変動の対抗要件(不動産に関する物件の得喪及び変更は、不動産登記法その他の登記に関する法律の定めところに従いその登記をしなければ、第三者に対抗することができない。)で登記があるので勝つ。公示の原則(物件変動に外界から認識しうるもの(公示)を要求する原則。公示がない限り物権変動はないであろうと信頼してもとの所有者から所有権を所得してしまった者を保護するという意味において消極的信頼の保護といえる。この原則は不動産については177条、動産については178条に定めている。公示の原則は、取り引き安全のために必要とされた考え方である。

次に表見代理について説明していく。無権代理とされる場合において本人との間に特殊の関係があるために、無権代理人を本当の代理人であるか誤信して取引をした第三者を保護する目的で、その無権代理行為を代理権のある行為として扱い、本人に対して効力を生じさせる制度をいう。続いて善意無過失について説明していく。善意は知らないこと、悪意は知っていること。有過失は注意していないつまり不注意である。無過失は注意していることである。善意と無過失を組み合わせたのが善意無過失である。意味は、注意していたにもかかわらず、知らなかったである。

やはり人間だから、魅力的なものには目が留まってしまうものである。だが、浮気や不倫はよくない行為である。浮気の話をする。このような場合どちらに証明責任があるだろうか夫婦がいる。夫が浮気をした。夫が証明すべきなのか、それとも、妻が証明すべきなのか。答えは、妻に証明責任があると解されている。証明責任とはそもそもなにか、裁判をするにあたって裁判所または裁判官がある事実(ここでは不貞行為をいう。)の有無につき確信を抱けない場合にその事実の有無を前提とする法律効果ないし不発生が認められることにより被る、当事者一方の不利益のことをいう。簡潔にいうと、証明責任がある場合の方が不利で敗訴してしまうことである。(主観的証明責任)ある主要事実が真偽不明である場合に、その事実を要件とする事故に有利な法律行為の発生が認められないことになる当事者の一方が受ける不利益のこという。(客観的証明責任)主要事実が真偽不明の場合には裁判所は本来判断ができない場合に裁判所は何らかの基準に基づいて判決をして紛争を解決しなければならないと考えている。証明責任は基準である。この場合は主観的証明責任で妻にあるのである。100パーセント浮気していない、問題なく夫婦ともどもお幸せに。不明な場合、妻に証明責任がある。100パーセント浮気している、夫が完全に悪いのである。そこで、証明責任がある妻が、夫が浮気をしている証拠を100パーセント見つけない限り、証明責任を無くすことができないのである。99パーセントでも駄目である。限りなく、100パーセントに近くても駄目なのである。一番のいい解決策は浮氣をしないことだと個人的に私は思うが。

 

これからの過失(基準)

公法と私法についての過失について述べてきたが、両者異なる基準を設けて過失と認定している。時代が進むにつれて、人の考え方も変わり、テクノロジーも進化していく。昔OKだったものも時代が変わればNOとなる。法律も同じである。国民のレベルや犯罪のレベルが上がれば、法律の基準が上がるのも当然のことである。現代でも、古くて悪いものは、なくなり古くても良いものは残り続けていくのである。前期でやった共謀罪も今メディアでは、報道されなくなったが、これからも残り続ける良い基準になるのかもしれない。過失と認められる基準が低ければ見直さないといけない。高すぎるならば下げなければいけないのである。だから、過失とは法律上の一つの大切な基準なのである。

 

参考文献

ポケット六法29

ノート

法律用語がわかる辞典

https://www.minpou-matome.com//物権法総/公示の原則と公信の原/http://dokugakugyouseisyosi.seesaa.net/article/442506283.html

ウイキペディア

 

 

 

 

 

佐藤百華

 過失とは注意義務に違反する状態や不注意をいい、特に刑事責任あるいは民事責任の成立要件としては、違法な結果を認識・予見することができたにもかかわらず、注意を怠って認識・予見しなかった心理状態、あるいは結果の回避が可能だったにもかかわらず、回避するための行為を怠ったことである。しかし、その証明は容易なものではなく問題点も存在する。

 

刑法による過失

 まず、刑法の判断基準では故意と過失に分かれている。故意とは罪を犯す意思であり、構成要件に該当する違法で有責な行為となっている。過失ついては38条1項但書きによると「ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りではない。」となっており過失犯の処罰は法律に規定があるときにのみ例外的に行うとされている。確定的故意、犯罪の発生を積極的には意図しないが自分の行為からそのような事実が発生するかもしれないと思いながらあえて実行する未必の故意、自分の行為によって違法状態に至る可能性を認識しながら、その発生を避けられるものと信じて行為したが結果的に違法状態を発生させた状態の認識ある過失、認識なき過失が存在するが、故意と過失の判断は難しく、判例・通説では認識に加えて認容を必要としている。

 過失の認定として旧過失論と新過失論があり旧過失論では結果予見義務を重視しており、結果の発生を予見していなかったことに過失があると考えていたが、時代の変化とともに自動車などが普及されるようになると多少危険でも有用な行為が存在するようになり、そこで新過失論が唱えられるようになった。新過失論では予見義務に加えて結果の回避も求めており、結果を回避する義務を果たしていなければ過失とするという考え方である。

 判例として、森永ドライミルク事件では判決は過失の予見可能性判断において危惧感説(新々過失論)を採用し、徳島工場元製造課長1人が実刑判決を受けた。

 薬害エイズ事件では、「本件当時における外国由来の非加熱製剤の投与による結果予見可能性について、『血友病患者を高い確率でHIVに感染させた上、その多くにエイズを発症させてこれを死亡させることを予見し得』たとは認められない」「『通常の血友病専門医が本件当時の被告人の立場に置かれれば、およそ非加熱製剤の投与を継続することは考えないはずであるのに、利益に比して危険の大きい治療行為を選択してしまったもの』であると認めることはできないといわざるを得ない。被告人が非加熱製剤の投与を原則的に中止しなかったことに結果回避義務違反があったと評価することはできない。」とし、被告人を無罪とした。

 

民法上の過失

 次に民法上の過失は契約責任と不法行為が扱われる。民法709条の不法行為の規定では「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」と規定されている。民法では

@故意・過失の判断、A権利侵害、B因果関係、C損害の発生、D責任

証明責任は被害者の原告側に存在するが、@・Bの証明は難しい。

 動産の錯誤では192条により善意無過失ならば即時にその動産について行使する権利を取得するという公信の原則による即時取得がとられている。公信の原則は公示の原則とともに物権法の基本原則であり第三者の信頼を保護することによって取引の安全を図るものであり、権利外観法理の一環であるから表見代理などもある。この即時取得や表見代理の際の証明責任の存在は本人にあり、相手方の悪意有過失を証明しなければならない。証明責任を持つ方が証明できなければ敗訴となるので、証明責任を持つ方が不利なものが多い。

 また刑事訴訟と民事訴訟でも証拠の性質は異なり、刑事訴訟では証拠能力が必要で、厳格な証明が求められ、訴訟の方針は職権探知により証明責任はすべて検察に求められる。民事訴訟法では証明力が重要で、証拠は事実を証明する力があるか訴訟の方針は弁論主義で証明責任はどちらかに分配される法律要件分類説がとられている

 

行政法の過失

 さらに行政法上の過失は賠償の場合、違法行為に対して行われるものであり国家賠償法1条1項では「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体がこれを賠償する責に任ずる」と規定されている。違法と過失を要件としており、違法と過失の二元的判断がなされる場合には違法はあるが過失はない違法無過失の状態が生じる。また、補償は適法行為に対して行われ、憲法29条3項の「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる。」を類推適用し補償されるが、例えば違法な逮捕・拘留など、客観的には違法であるが、公務員の故意・過失の認められない行為により私人が損害を被った場合、国家賠償請求も損失補償請求もできないことになり、問題が生じる。国家賠償と損失補償のいずれかに割り切ることが困難な境界領域があり、これら二つの制度には国家補償の谷間があることが指摘されている。判例として予防接種と国家賠償責任がある。

 

【事件】

 Xは、種痘の予防接種をうけた9日後に脊髄炎を発症し、重大な後遺症が残った。Xと両親は、Xが、接種日の数日前に咽頭炎のため発熱していたことから、接種当日も禁忌者に該当していたにもかかわらず、予診不足のため接種が実施されたことなどを主張して、国などに対して国家賠償法1条に基づく賠償請求をした。

 

【判例要旨】

 予防接種によって右行為障害が発生した場合には、禁忌者を識別するために必要とされる予診が尽くされたが禁忌者に該当すると認められる事由を発見することができなかったこと、被接種者が右個人的素因を有していたこと等の特段の事情が認められない限り、被接種者は禁忌者に該当していたと推定するのが相当である。

 

 予防接種事件でも故意・過失や因果関係の証明は難しいため、過失の証明責任を国に転換することで、過失を認定し、国家賠償法による救済を図った。

 また、証明責任のレベルを下げた事例として東大病院ルンバール事件がある。

 

事件】

 Xは、化膿性髄膜炎のためYの経営するZ大学医学部附属病院小児科へ入院し、医師A・Bの治療を受け、次第に重篤状態を脱し、一貫して軽快しつつあったが、Aによりルンバールの施術を受けたところ、その15分ないし20分後突然に嘔吐、けいれんの発作等を起こし、右半身けいれん性不全麻痺、性格障害、知能障害及び運動障害等を残した欠損治癒の状態で退院し、現在も後遺症として知能障害、運動障害等がある。一般に、ルンバールはその施術後患者が嘔吐することがあるので、食事の前後を避けて行うのが通例であるのに、本件ルンバールは、Xの昼食後20分以内の時刻に実施されたが、これは、当日Aが医学会の出席に間に合わせるため、あえてその時刻になされたものである。そして、右施術は、嫌がって泣き叫ぶXに看護婦が馬乗りとなるなどしてその体を固定したうえ、Aによって実施されたが、一度で穿刺に成功せず、何度もやりなおし、終了まで約30分間を要した。

 Xは、食後間もなくルンバールを実施したA、及びXの嘔吐後に短時間の訪室のみで問題なしと判断したBの治療上・指導上の過失を主張し、Yに対して損害賠償請求訴訟を提起した。

 

【判例要旨】

 「訴訟上の因果関係の立証は、1点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつそれで足りる」

「化膿性髄膜炎の再燃する蓋然性は通常低いものとされており、当時これが再燃するような特別な事情も認められず、他に特段の事情が認められない限り、経験則上、本件発作とその後の病変の原因は脳出血であり、これが本件ルンバールによって発生したものとして、その間の因果関係を肯定するのが相当である」

 

証明責任の転換

 刑法、民法、行政法には証明責任の存在に違いが生じているが、自動車損害賠償保障法を見てみると3条には「自己のために自動車を運行の用に供する者は、その運行によって他人の生命又は身体を害したときは、これによって生じた損害を賠償する責に任ずる。ただし、自己及び運転者が自動車の運行に関し注意を怠らなかったこと、被害者又は運転者以外の第三者に故意又は過失があったこと並びに自動車に構造上の欠陥又は機能の障害がなかったことを証明したときは、この限りではない。」と規定されており、故意・過失の関係なしに運転者が悪いとなっている。民法709条を使用してしまうと被害者が相手の過失を証明しなくてはならないので、自動車損害賠償保障法では加害者が過失がなかったことを証明すれば責任はないとし ている。これは、淫行条例にも言えることで、相手方自ら過失がないことを証明する必要があり証明責任を転換している。

 

賠償と補償の判断

 民法や国家賠償法では、請求する側に証明責任があるため、故意・過失の立証が難しく行政訴訟では国が勝訴することが多く国民が不利になることが多いように思える。しかし、予防接種を例に考えても賠償は違法行為に対して行われるものであるから訴訟で賠償が認められれば予防接種自体が違法行為であることを意味するため予防接種がなくなる可能性があり、それは国民の健康を不安定にしてしまう危険性もある。補償を考えても完全に適法行為に補償はなされるものであるから故意・過失がないことになるがその判断もまた難しい。また、仮に賠償・補償が決まったとしても国の負債が増加するため、国民が負担する税金も増えてしまう。

 過失の考え方は時代とともに変化しつつ、今も問題点があり私たちに不利益なこともあるが、同時に私たち自らの賠償・補償の有無や保険の活用、社会保障の捉え方も重要になってくると思う。

 

 

 

 

 

出典

 六法、刑法判例集、ノート、Wikipedia、国家賠償と損失補償の谷間、民法上の過失T

 

 

 

 

上野貴史

ライフデザイン演習U  一年生課題

 

      「過失とは何か」

 

17j110014

法学部法律学科 上野貴史

 

私がこの課題である「過失とは何か」について、過失とは、刑法の過失、民法の過失、行政法の過失とパターンがあり、一定の結果の発生を認識すべきであったのにもかかわらず、不注意にこれを認識しないこと、一定の結果の発生を防止すべきであったのにもかかわらず、不注意にもこれを防止しなかったことであり法律上、過失は法的不利益を課すための要件として機能するため、しっかり注意義務違反「結果予見義務+結果回避義務」を自分の中で、あやまってやる、しくじってやるよりもどこまで注意を予測し考え責任を持つことが大切であると私は思う。

結果予見義務は円の外側にあり、結果回避義務は、内側にあると考えられている。

世の中には、個人の効用拡大と社会の正義は別である正を中心に考える社会契約論、個人の効用拡大が正義である善を中心に考える功利主義があり、社会契約論の過失の分析として、刑法の過失の正義の実現がある。違法性と責任の区別は、自分の能力いっぱいにやってもできない場合は、過失なし、そして、新過失論の登場によりいっぱい頑張っても基準行為に達せずに事故が発生すれば過失ありと交通事故の急増に対応して処罰範囲を縮小し過失を基準行為からの逸脱と定義して、従来の考え方、いっぱい頑張ってその人なりに注意を払っていれば過失なしとする旧過失論があり大乗仏教とかと同じである。功利主義の過失の分析として、民法の過失、国賠法の過失や被害者救済の増大がある。過失の客観化「善意注意義務」自分の能力いっぱいにやってもできない人は、本来なら責任を問われてないはずだが、この場合も過失ありとする。この場合の判断時として、無罪判決を得た場合でも逮捕時に状況を見て、問題がなければ過失なしとする。国会議員や裁判官も過失ありとする。しかし、学会から批判さ れている。

次に新過失論とは、従来の故意と並ぶ責任要素とされてきた過失を違法要素、さらには構成要件要素でもあるとして、違法要素としての過失の客観的予見義務の違反である。結果回避義務を重視し、必要かつ適切な行動をとらなかった過失の考えである。判例として、薬害エイズ事件を上げる。内容は、ヒト免疫不全ウイルス「HIV」に感染したと推定される外国の提供者からの血液を原料として、製造した血液凝固製剤を、ウイルスの不活性化を行わないで、流出させ、治療に使用した。この事件の後に、ウイルスを加熱処理で不活性化した加熱製剤が登場したが、当時日本の医療では、エイズの病原体も特定しておらず、検査方法も確立されていなくて、潜伏期間も長かったため、血液製剤による感染リスクがどの程度あるのかについて、の医学的知見は直ちに確定しなかったし、非加熱製剤が登場していたため、HIVに感染された血液製剤が流れて、エイズを発症させた事件。民事裁判では、1989年5月に大阪、10月に東京で後述の製薬会社と非加熱製剤を承認した厚生省に対して損害賠償を求めたことについて、4500万円の一時金支給を柱とする第一次和解策案を提示したが、厚生省は救済責任を認めるが、加害責任を否定した。1996年2月9日に、厚生大臣菅直人は、通称郡司ファイルが126日に発見され216日に原告団に謝罪した。刑事裁判では、19968月から10月に帝京大学医学部付属病院第一内科の責任者の安倍さん、ミドリ十字社の代表取締役だった松下、須山、川野、厚生省官僚だった、松村が業務上過失致死容疑で逮捕・起訴された。1985年に帝京大学病院で非加熱血液製剤を投与された血友病患者がHIV感染で死亡したルートを帝京大学ルート、1986年に大阪府の病院で旧ミドリ十字の非加熱血液製剤を投与した肝障害患者が死亡した事件は、ミドリ十字ルートとした。また、安倍さんの容疑は、自らが担当した患者にHIVに感染された非加熱製剤を流出させ投与して死亡させたことであり、HIV感染させた非加熱製剤を流通させたことではないとされた。この裁判で、2000年にミドリ十字の3人の被告人に実刑判決、2001年には、安倍さんは、無罪判決となった。このことについて、私は、安倍さんも無罪ではなく罪にするべきだと私は思う。なぜなら、当時日本では、非加熱製剤での投与しか知らなくおこなっていた唯一の国であったが、世界では、この非加熱製剤が危ないことが判明しているのになぜ国などが調べなかったのか疑問に思ったのと、安倍さんは、当時は、血液関係のスペシャリストの専門家でトップに立っていた人なので、やはり世界の血液とかに関する資料や論文などを数多く見てきていると思うので、それで知らなくて投与を判断したと思うと私は、おかしい話だ なと思うので、罪にすべきだと思います。しかし、このような過失により考えられた新・新過失論については、反対である。具体的なものではなくとも、危険の絶無として無視できない程度の不安感が足りるとする見解があるとすれば過失であるということである。例えば、森永ドライミルク事件の時に、公害や企業災害などを考慮して、何らかの不安感があればそれ相応の結果回避措置とる業務を果たすことのより、悲惨な自身の被害を防止しようとして主張されたものである。私は、新・新過失論は、例えば、車を運転するときに人を轢いて事故ってしまうかもしれないから車に乗らなければよいなどの過失の考えはよくないと思います。

次に予防接種違法無過失について、行政法の視点で考えたいと思います。特に国家賠償と損失についてです。損失とは、国・公共団体の適法な行政活動により加えられた財産上の特別な損失について、財産的補填をすることである。国家賠償法とは異なり一般法が存在しないため、憲法29条3項を根拠にしている。権限の制限がある場合は、常に補償が必要なわけではないため、補償の要否を判断する必要がある。補償の要否については、形式的基準と事質的基準を持って判断されている。原則として、当該財産の市場価格を基準とした完全補償が憲法上要求されるのが判例です。例えば、土地収用における補償額に関する判例として、収用されることを予定した建築制限付き土地収用において、収用前後を通じて、 財産価値を等しくする補償をすべきである。行政法では、損失と考えられる一般について、憲法的な発想では、財産権が侵害された場合、市場価格による補償が与えられなければ完全補償がなされたことに成るが、行政法では、行政活動がなかったのと同様の状態が回復されなければ完全補償とは言えないのである。発生した損失を特別な犠牲ととらえその補填をする必要があり、直接にはく奪させた権利以外に発生した不利益についても補償するのが行政法の発想である。また、国家補償と損失補償の谷間について、違法無過失な行為に基づき損害が発生した場合に予防接種がらみの判例がある。判例は、保健所で種痘の予防接種を受けたところ、重い後遺障害が残ったX及びその両親が、国や、小樽市等を相手に損害賠償請求をしたことについて、1審は、国、小樽市に対するXらの請求を一部容認し、2審は、問診義務違反と後遺症発症の間の因果関係を否定してXらの損害賠償請求を破棄し、予備的請求に係る損失補償請求を不適却下として、Xらが上告して、破棄差し戻しとなった。予防接種において、後遺障害が発生した場合には、特段の事情が認められない限り、当該被接種者を禁忌者と推定すべきとして、これにより、接種実施医師に禁忌者を識別するに足りる質問をする高度の注意義務を課すという判例法理と合わせ、接種実施者たる医師に過失を認めることが容易になり、国家賠償法による被害者救済のルートが開かれることとなった。私は、予防接種の場合には、の場合には、接種に当たる禁忌者側がどうかを判断する点において、実施者に高度な注意義務を課すことと、この義務に違反していないか、義務違反がなくても副作用が発生するものであったかのいずれかを証明できない限り、過失を推定することとし、その上で、禁忌者か否かを見抜くのに必要な措置を取り組織の長である厚生労働大臣に負わせて、国家賠償法を認めさせればいいと思います。

次に淫行条例について、日本の地方自治の定める青少年保護育成条例の中にある、青少年「即婚者を除く18歳未満の男女」との「淫行」「みだらな性行為」「わいせつな行為」「みだらな性交」また、「前項の行為=淫行など」を教おしえること、見せる行為などを規制する条文「淫行処罰規定」の通称である。

条例の種別においては、「淫行」の処罰を条例に委任する法令の規定がないため、自主条例の位置づけとなる。また、法令は、淫行条例制定の主体を特に都道府県に限定してないため、都道府県条例が存在しない場合、それに代わって、市町村が淫行条例を規定することもある。

淫行条例と過失について、性行為した相手が、「18未満だと知らなかったんです。」

事実、出会い系サイトや知り合いの性的な関係を持った相手が女子中学生であったため、40代の男性教論が、児童買春、児童ポルノ禁止違反の疑いで逮捕された。

この男性が、「18未満とは、知らなかった。」刑法上、18歳未満だと知らなかった主張が成立すれば強姦罪、児童買春罪は、成立しない。

しかし、青少年保護育成条例の場合、条例により故意ではなくても、過失があれば処罰される可能性がある。また、故意がない「過失がない」と無罪になることは、現実にも難しい面もある。「相手の容姿や体形、制服といった外見やメールやサイトにおける年齢の表示、相手の行動、言動等から、故意「未必の故意」や過失が認定され、罪に問われることもある。

年齢を確認できることはいくらでもあるとして、知らなかったでは済まされない。私は、18歳未満だと知らなくてもそこで、なぜ安全のために年齢確認や身元の確認などをすれば行為に発展することはなかったと思います。

次に善意無過失について、「善意」とは、ある事実を知らなかったこと。「悪意」とは、ある事実を知っていることであり、例えば、Aが土地の売り主、Bが土地の売主だとして、Aが第三者Cから詐欺を受けてBに土地を受けていた場合、「Aが詐欺を受けていた事実」をBが知らないとなると「善意」になり、「Aが詐欺を受けていた事実」をBが知っていたことになると、「悪意」となる。つまり、善意無過失は、「注意していなかったことが原因で知らなかった」ことになる。言い換えれば注意していれば知ることができたことである。

次に公信の原則とは、一定の法律関係や事実関係の存在を推測させるような公示であり、登記、登録、占有などの信頼した第三者がいる場合には、その公示が真実の関係に合致しない場合でも、取引の安全のためにその第三者の信頼を保護して、真実の関係があったのとどうように取り扱うことである。すなわち、取引の安全を図るために無権代理者からの譲受人を保護する制度である。しかし、不動産関係については、採用しない。民法177条、192条などがあたる。「外観法理 192条」

次に、公示の原則とは、一定の法律関係や事実関係の存否については、常に外部から認識しうるなんらかの公示「登記、登録、占有」を伴うことがひつようでありこのような、法律や事実の関係を第三者に対して主張できないとすることである。民法177条などで、不動産の場合の時に、対抗問題で登記が使える時などに使える。「早い者勝ち」

この3つのことについては、民法で取り上げることが多い。

次に表意見代理とは、外観的に代理権があると信じさせる「特定の事情」がある場合、有権代理と同様の効果を認める制度。本人は、効果帰属を拒めない。成立する要件は、本人の代理権授与表示、権限外の行為、代理権消滅後の代理行為と相手の善意無過失である。民法109、110、112条にあたる。相手方がとりえる手段として、表見代理の主張、無権代理人の責任追及、取り消し権の行為である。

次に証明責任とは、裁判をするにあたり裁判所または裁判官がある事実の有無につき革新を抱けない場合にその事実の有無を前提とする法律効果の被ることである。弁論主義と関係があり、主要事実「ABに300万円を貸す合意、300万円の受け渡し」間接事実「Bは八月以降も、毎日キャバレーに」補助事実「Bは昔からよく金を借りる男だった」などである。また、具体的事実とは、スピード違反・わき見運転・飲酒運転などである。証明責任がだれに当たるのかについては、即時取得では、ACは、悪意有過失と言わなければならないため本人Aにあたる。表見代理も同じである。虚偽表示は、Cが自分が善意であるため第三者である。二重譲渡「同じ物件を複数の者に譲渡すること。基本的には、登記が早かった人の勝ち」では、ACは背信的悪意者「悪意を持った第三者には登記があっても保護されない」のため、本人Aが証明する。また、自動車損害賠償法第三条での証明責任の誰が何を証明するのかについて、誰とは、運行の用に供する者であり、証明内容は、過失がなかったことについてである。

したがって、過失とは、いろいろの法律上の場面「民法、刑法、行政法」に登場し、あらゆる判例によっては、過失の方向性が違うことに驚きました。また、過失と言ってもどこまでが過失の範囲なのかまだ不明な判例やそれがほんとに過失であったのかといふ判例などもあったので、過失はこれからも議論するべき課題だと私は思います。

 

出典の明記

ウイキペディア

コトバンク

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判例刑法総論   西田典之・山口厚・佐伯仁志

民法T      内田貴

刑法       山口厚

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