吉野孝則

テーマ:裁判とは何か                    吉野孝則

 

結論: 検察官・警察官による捜査段階での裁量行為と裁判官による公判廷での裁量行為を人権保護・真実発見の要請のなかで、どのようにバランスをとるかがこれからの司法制度には求められている。

 

〇はじめに

 裁判とは何かを明らかにするために、以下では現状、論点、結論に分けて論ずる。

 

〇現状

 現在の裁判制度は大きく分けると、刑事訴訟、人事訴訟、民事訴訟、行政訴訟の四つに分けることが出来る。

 

 

公定

証明責

進め

証明

証拠能

刑事訴

×

すべて検

当事者主義+職権探知主

第三者

人事訴

×

×

職権探知主

 

 

対世

民事訴

×

修正された法律要件分類

弁論主

×

既判

行政訴

当事者主義+職権探知主

×

第三者

こういった違いがある中で自由心証主義というのは一貫している。この自由心証主義を理解するために現在までの裁判制度の理解が必要となるところ、20171月分のレポート「過失とは何か」で民事訴訟と行政訴訟について詳述したので、以下では主に刑事訴訟を中心として説明する。

 現在の司法制度に至るまでには、水に沈めて浮き沈みで有罪・無罪を決めた神判の時代から、法定証拠主義を基本とする糺問主義の時代を経て近代の刑事裁判の時代に辿り着いた。神判の問題点を克服するべく法定証拠主義を採用した糺問主義は合理的であったが、@裁判官による訴訟A証拠の法定B自白偏重による拷問C非公開D専断的な判断E審理における書面中心という問題点があった。糺問主義では捜査する人と裁判する人が同じであり、さらに捜査より公判が重視されていたため、法定証拠主義と絡み、証拠の王様とされる自白を得るために多くの人権侵害が起こった。その反省を含め、法定証拠主義から自由心証主義を採用し、裁判官・検察官・弁護人という三面構造を採用する弾劾主義へと変わってきたのである。

 刑事訴訟にはイギリスを代表する人権を重んじる英米法系の考え方と、ドイツ・フランスを代表する真実発見を重んじる大陸法系の考え方がある。イギリスでは陪審員制度、当事者主義、公開主義、口頭弁論主義、アレイメント、伝聞法則、ヘイビアスコーパス(人身保護手続き)など人権を重んじた独自の刑事司法が確立しており、同じヨーロッパでも糺問主義のフランスやドイツとは大きく異なっていた。革命後のフランスではモンテスキューやヴォルテール等の人権を無視した専断的、糺問的な裁判制度への避難からイギリスの刑事司法を参考にすることとなる。しかしナポレオン時代に弾劾主義、公開主義を採用しつつも、非公開で糺問的な予審制度を認め、被告人の尋問を重視する刑事訴訟法が立法されてしまう。そして日本の刑事司法ではこのフランス・ドイツの影響を受けることになる。

遠山の金さんや大岡越前にあるように糺問主義をとっていた日本としてはとても相性が良かったのである。一方、アメリカでは人権宣言に伴いdue process of lawを定めた。そして戦後のアメリカ法の影響により、日本国憲法31条に適正手続が規定される。因みに手続きが法律で定められていることだけでなく、@法律で定められた手続が適正でなければならいことA実体もまた法律で定められなければならないことB法律で定められた実体規定も適正でなければならないことを意味する。(芦部憲法より)つまり手続的保障から人権を保護するということである。

 この適正手続を受けて我が国の刑事訴訟法1条に「この法律は、刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的とする。」とあるように「人権保護」と「真実発見」という大きな2つのテーゼが要請されることになったのである。そして刑事訴訟法ではこの2つの要請が糺問主義vs弾劾主義、職権探知主義vs弁論主義、職権追行主義vs当事者追行主義として現れてくるのである。しかしここで考えなくてはいけないのは二分法ではないということである。

 

訴訟構

訴訟の対

訴訟の進

職権主

糺問主

職権探知主

職権追行主

当事者主

弾劾主

弁論主

当事者追行主

職権主義からくる問題点を解決すべく当事者主義を導入したわけだが、弁論主義が過ぎればアメリカのように訴訟がゲームとなり真実から遠ざかってしまう。大切なのはどちらかではなく両者の調和点をみつけることである。さらに調和点を探す作業とともに日本の刑事司法では@被疑者国選弁護制度A公判前整理手続B裁判員制度C被害者の訴訟参加を取り入れている。

この二つの要請をもとに刑訴法317条から328条に証拠法が規定され、317条に証拠裁判主義、318条に自由心証主義が規定されたのである。法定証拠主義では有罪にするために一定の証拠が必要とされ、一定の証拠があれば一定の事実を認定しなくてはならなかった。その時期は自白が重視されていたため自白を得るために拷問が行われたのである。その「自白偏重の否定」を込めて、また、証拠の証明力は具体的な事案ごとに異なり法定することは出来ないということから、証拠の評価を裁判官の自由な心証に任せたのが自由心証主義である。自由と言っても裁判官の恣意的な判断を許すものではなく、論理則や経験則に基づく合理的なものでなければならない。そして裁判官の心証を形成させるのが証拠の証明力である。因みに証明力は証拠と事実との間の関連性の大きさを示す「狭義の証明力」と、その証拠がどの程度信用できるのかという「信用性」からなる。さらに証拠なら何でも良いというわけではなく、証拠として事実認定に用いることの適格性のことを証拠能力という。証拠能力のない証拠は裁判官の心証形成に不当な影響を及ぼすおそれから、犯罪事実の認定に用いてはならないだけでなく証拠調べをすることも許されないのである。そして現行刑訴法は伝聞法則自白法則証拠能力に大幅な制限を設けているのである。因みに証拠による証明として「厳格な証明」「自由な証明」「疎明」があり、それに対応する裁判官の心証の程度として「合理的な疑いを生ずる余地のない程度に真実であるとの心証(確信)」「肯定証拠が否定証拠を上回る程度の心証(証拠の優越)」「一応の蓋然性が認められるという心証(推測)」がある。

これらの証明責任はすべて検察官にある。以前は違法性・責任阻却事由に関しては当事者主義から証明責任を被告人にすべきとする議論もあったが、「疑わしきは被告人の利益に」「無罪の推定」の原則と反するため全て検察官にある。構成要件部分を証明すれば違法性・責任阻却事由がないことが推定されるため、違法性・責任阻却事由がないことを言及すれば足りるとされている。因みにだがこの「無罪の推定」をやぶる例外が刑事法にはある。民法の証明責任の転換が刑事法にもあるのである。名誉棄損罪の真実性の証明、同時傷害の特例、労働基準法1211項但書、児童福祉法604項の年齢を知らなかったことについての過失がある。

民事訴訟法では証明責任は分配されており、現在では修正された法律要件分類説が通説となっている。その他の民事訴訟との違いとして@民事訴訟では所有権や債権のように当事者が自由に処分できるため、争いがなければ客観的真実と食い違っても真実として扱ってよいが、刑事訴訟の場合は刑罰権を発動するかいなかという公的なものであり客観的な真実の確保が強く要請される。A民事訴訟と刑事訴訟では原告と被告の立場が違う。同じ当事者主義でも証拠収集能力に大きな差があるため、刑事訴訟では訴因変更などの職権探知主義が認められているといった点も重要である。

 

〇論点

 論点を最初に説明するならば、法定証拠主義と自由心証主義のバランスを「人権保護」と「真実発見」という要請の中でどうとるかにある。その視点で自白法則伝聞法則の論点を論ずるが、論点の理解には主観的超過要素の理解が不可欠なため、以下では主観的超過要素自白法則伝聞法則の順番で論ずる。

 

主観的超過要素を理解するためには違法論の争いである行為無価値と結果無価値の争いを理解する必要がある。行為無価値とは社会倫理秩序違反を違法性の本質と考えており、社会倫理秩序に違反する行為が悪いとされ、また、この行為を行う心を罰するべきという結論に辿り着く。結果無価値とは法益の侵害とその危険を違法性の本質と考えており、主観的なものは責任段階でしか考慮しない点に特徴がある。結果無価値が旧派であり行為無価値が新派だとされている。この二つの対立は日本の刑法の礎を築いた団藤重光と平野龍一を軸に大きな流れになっていった。行為無価値一元論を徹底すると、結果が発生する前の段階で危険な思想を持っている者の心を罰することになるために思想信条の自由に抵触し問題がある。一方、結果無価値一元論を徹底すれば、夫の好物である天ぷらを食べさせて糖尿病で亡くなった場合でも構成要件段階で死という結果として評価してしまい、責任段階でしか故意・過失を判断できないところに問題があるとされている。これらの問題からどちらかを徹底するとおかしな結論になってしまうために、現在の多くの教科書ではこの争いはモデル論であり今ではそれほど重要ではないと書かれている教科書が多い。確かに現在の違法性の考え方は行為無価値からの違法二元論、修正された結果無価値論のようにかなり重なり合う部分が多いが、論者により未遂、予備、共犯の学説が微妙に異なるため、また、現在の刑法を理解するために必要だと私は考える。

旧派の三分説では責任段階でしか故意犯・過失犯を分けることが出来ないという問題があったところ、行為無価値論はある学説に解決の糸口を見つけることになる。それがハンス・ヴェルツェルによる目的的行為論である。目的的行為論とは故意を違法要素とする考え方であり、故意を違法要素とすることにより、違法類型である構成要件の段階で故意を考えられることから、構成要件段階で故意犯と過失犯を分ける事ができるのである。ヴェルツェルが三分説の解決を考えていたかは謎であるが、この学説を使って団藤重光とその弟子である大塚仁が、構成要件段階で主観的構成要件要素として構成要件的故意・構成要件的過失を考える現在の三分説を作り上げたのである。確かに包丁で人を刺殺する際に、1回刺すのと複数回刺すのとでは故意に違いがあり、責任というよりも違法性が増すと説明する方が説得的であり条文の解釈とも整合的だと考えられるが、旧派が守り続けてきた「構成要件・違法性は客観に、責任は主観に」というテーゼに反することになるのである。

行為無価値論が解決を見つける一方で結果無価値論も黙っていなかった。実際は平野龍一が黙っていなかったのかもしれないが、結果無価値からも条文の解決策を見つけたのである。それが修正された過失論である。ここは個人的な考えで何か資料があるわけではないのだが、以前中江先生に過失論を教わった際に「なぜ結果無価値が予見可能性だけでなく結果回避可能性まで求めると思う?」と訊かれたことがあったが答えを見つけることができなかった。増田先生からも「旧派である結果無価値は結果回避可能性まで求め、新派である行為無価値は予見可能性までしか求めない。時代の流れとは逆だ」という説明を受けたことがあるのだがずっと疑問だった。その答えがこの問題と関わっているのである。行為無価値は心を罰するため、心の問題である予見可能性・予見義務と親和的なのである。一方客観面を重視する結果無価値は客観的事象を判断する結果回避可能性と親和的なのである。修正された過失論はこの考え方から、予見可能性を責任段階に、結果回避可能性を構成要件段階で判断するのである。その結果、構成要件で過失犯と故意犯を分けることができるため条文の問題は解決するのである。その場合には構成要件は違法・責任類型となる。条文解釈への解決策を得たわけだが、予見可能性ありきでの結果回避可能性という議論が通じなくなるわけだが、中江先生の兄弟子である現最高裁判事の山口厚が教科書の中でその批判を綴っているので読んでもらいたい。解釈的にも客観面である結果回避可能性を検討して、回避可能性があることを前提に回避義務を認め、その後に責任段階で予見可能性・予見義務を検討する方が合理的だと考えられる。その場合には予見可能性は責任阻却事由になるのであろう。しかしこの考え方を徹底すると、薬害エイズ帝京大学ルートにおいて安部医師の過失を判断する際に、非加熱製剤しかなかったことから結果回避可能性がないことになり、予見可能性・義務を判断する責任段階の検討を待たずして構成要件段階で過失なしとなってしまい、判例を説明することができなくなるという問題は残る。これらのことより行為無価値・結果無価値どちらの考え方をとろうとも現在の三分説を説明することが出来るようになったが、主観的超過要素を認めるのか、また、認めるとしてどこに位置付けるのかという問題をめぐって今もなお議論が絶えないのである。

主観的超過要素とは故意・過失、目的犯における目的、傾向犯における内心の傾向、表現犯における内心の状態、財産犯における不法領得の意思があり、故意とは別のものであり故意に方向をつけるものだと説明される。刑1481項の通貨偽造罪には「行使の目的で、」という目的が規定されている。故意を判例・通説である認識・認容説で考えた場合に故意は事実の認識であるから「通貨を偽造する」という事実の認識以外の「目的」は故意ではなく別の要素ということになる。これを故意から「溢れ出た部分」として「超過要素」と呼ぶのである。主観的超過要素は結果無価値論からの呼び名であり、行為無価値論からは主観的違法要素と呼ばれる。何が問題かと言うと、構成要件の段階で主観的超過要素があることにより条文が分かれてしまうことにあり、且つ、結果無価値からは構成要件・違法性で主観的なものを認めたくないために条文解釈と乖離してしまうという問題があるのである。行為無価値は主観的違法要素を認めることから何も問題なく説明できるのだが、結果無価値からの説明が困難になるのである。以下では主観的超過要素を理解するために、前述した故意・過失以外を検討する。

目的犯における目的は通貨偽造罪や誣告罪の条文自体に規定されているため構成要件要素と解するしかなく、結果無価値からでもこの目的を例外的に認める論者が多い。行為無価値からはこの目的は主観的違法要素となる。どちらの説からも主観を客観的事実から判断するしかなく、偽造された数や精巧さなどから目的を判断する。

傾向犯における内心の傾向は強制わいせつ罪と強要罪を分ける分水嶺とされる。最高裁昭和45129日第一小法廷のように相手に服を脱がせる行為を客観的にみると、強制わいせつなのか強要なのかの判断が出来ないために性的意図が強制わいせつ罪の要件として必要とされた。しかし近年になり、強制わいせつ罪の法益を性的自由を侵害する罪と考えることから、以前は考慮されなかった被害者の意識を取り込むべきという要請から20171129日に判例変更が行われ、性的意図が要件から外されることになった。この事件が児童のわいせつ画像の撮影だったために、罪とするためには常に性的意図が必要というわけではないという判断だった。チャタレー事件で確立されたわいせつ概念に言及することもなく非常に歯切れの悪い判例変更であるが、性的意図が必要かどうかで揺れているのが見て取れる。私個人としては脱がせたシチュエーションや何を脱がせたかのような客観的事実からわいせつ性の判断は可能であると考えることから、性的意図は不要と考える。しかしながら、いじめの際に脱がす行為を強要罪と捉えるか強制わいせつ罪と捉えるかでやはり同様の問題が残ることを考えると、歯切れの悪い判例とはいえ、なお性的意図の問題は残ると思われる。

表現犯における内心状態についても、偽証罪を主観説のように行為者の記憶に反する罪と考えるか、客観説のように客観的事実と違う陳述を罪とするかで違いが出る。記憶に反した陳述がたまたま客観的事実と同じ場合に主観説は罪とし客観説は罪としない。違法二元論の多くの論者が記憶に反する陳述が客観的事実と違う場合に罪とすべきとする。まるで偶然防衛を認めるかどうかの議論のようだが、仮に記憶に反する陳述をしたとしてもそれを証明する方法がないこと、また、仮に捜査段階と公判での証言が違っていたとしても捜査段階では真実を述べる義務や期待可能性の欠如から宣誓後の公判廷での陳述とは分けて考えるべきであり違法二元論の多数説に賛成である。証明は難しいが理論的には主観的超過要素を認めるべきである。因みに記憶には反しないが客観的事実と反する陳述をした場合は故意がないから罪にならないことになる。

不法領得の意思は書かれざる構成要件として判例に「権利者を排除して、他人の物を自己の所有物として、その経済的用法に従い、利用若しくは処分する意思」と定義づけられ、権利者排除意思と利用・処分意思に分けられる。この定義を逆手にとり、パンティを被るために盗んだ場合に経済的利用法に従っていないから不法領得の意思なしとして不可罰とする議論があったが、現在では不法領得の意思不要説や、何かしらの経済的恩恵をうけているとして不法領得の意思ありとして構成要件該当性を認めるのが通説である。もともとは領得罪と毀棄罪を分ける分水嶺として使われていたが、使用窃盗を制限するための「絞り」としても使われている。権利者排除意思、利用処分意思は論者によって違うが、領得罪と毀棄罪は客観的行為が重なり合う部分があり、不可罰的事前行為としての説明も可能だが、その場合は故意により多くを求める事となるため、不法領得の意思は必要であると考える。

これらの量刑を比べると、目的犯、表現犯においては有罪と不可罰が分かれ、傾向犯においては強制わいせつ罪なら10年以下で強要罪なら3年以下、不法領得の意思においては窃盗罪なら10年以下で器物損壊罪なら3年以下となり、主観的超過要素の判断で大きく変わってしまうことからも如何に重要かがわかる。

次に、この主観的超過要素に対して行為無価値論と結果無価値論がどのようにアプローチするかを説明する。結果無価値一元論は主観的超過要素を認めない。行為無価値一元論、違法二元論、修正された結果無価値論は認めることになる。さらに修正された結果無価値論の中で主観的超過要素を@故意に解消A故意とは別の責任要素とするB例外的に認めるという3つのアプローチがある。@説は判例の故意概念との調和に問題があり解釈論としてはとれない。A説は秀逸であり、常習賭博における身分犯を違法身分と責任身分に分けて考える説とも整合的であり、今までの結果無価値からの説明とも調和的である。しかしながら、罪が重くなる理由を責任に求めてしまうところに感覚として違和感がある。考え方にもよるが、刑事未成年、心神喪失、心神耗弱、期待可能性、避難可能性のように責任要素を犯罪成立のブレーキとする考え方とは反する。そこでB説は、主観的なものを認めない結果無価値からするとかなり柔軟な考え方であるが、その考え方自体が結果無価値ではなくなってしまう可能性がありかなり難しい。これらのことから行為無価値を取る方が判例の説明は容易いと思われるが、結果無価値の論理的な部分にも魅力がある。

 

次に自白法則の論点について検討する。自白法則とは証拠の王様たる自白を得るために多くの人権侵害があり、また裁判所も自白ということで認定しやすく多くの誤判をしたことの反省から、憲法382項で強制、拷問、強迫、不当に長い抑留、拘禁の後の自白について証拠とすることができないと定めており、さらに刑訴3191項はそれに加え任意性のない自白も証拠とすることができない旨規定している。そして憲法383項と刑訴法3192項は任意性のある自白であったとしても、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、刑罰を科せられないとされている。これを受けて、被告人を有罪とするには、自白の他に補強証拠が必要とされており、自白しか証拠がない場合は有罪となし得ないことを補強法則という。自由心証主義の唯一の例外である。

ここで問題となるのが刑訴法3192項には「公判廷における自白であると否とを問わず」と書かれており、公判廷における自白についても補強法則の適用を認めているが、憲法383項には公判廷の自白に補強証拠を要するとは書かれていない。そこで憲法383項の「自白」に「公判廷の自白」が含まれるのかが問題となる。肯定説によれば刑訴3192項は憲法の趣旨を明らかにしたものとなり、否定説によれば憲法の趣旨をさらに前進させたことになる。最大判昭23729刑集2・9・1012は@公判廷では拷問などの不当な干渉は受けないA自己に不利益な供述はしないB仮に虚偽の供述でも裁判所は判断できるということから否定説を取った。補強法則の趣旨を「拷問の防止」、「誤判の防止」と解すると確かに拷問などの不当な干渉は受けないと思われるが、捜査段階での影響が公判廷まで続く場合があることを考えると誤判の可能性は否めない。さらに公判廷では供述の信用性についてのチェックが出来るとするが裁判官も人間である以上誤判をするわけであり、公判廷の自白とはいえ事実認定には補強証拠を必要とすべきである。したがって肯定説を支持する。

 次に論点となるのが共犯者の自白である。被告人とともに犯罪を犯したと述べる共犯者の供述については、自己の責任を軽減しようとして被告人に責任を転嫁する可能性や、他の者を犯人に仕立て上げるおそれなどのいわゆる巻き込みの危険がある。そこから被告人本人の自白と同様に扱うべきとする見解もあったが@被告人にとっては第三者A反対尋問テストが可能B憲法383項の「本人の自白」を重視し自由心証主義の例外を安易に認めないという理由から、被告人の自白と同一視することは出来ないとするのが判例・多数説である。しかし共犯者の自白には常に巻き込みの危険がある。さらに共犯者の自白が本人の自白の補強証拠になることを考えると、本人と共犯者の自白がある場合はお互いの供述を補強して証明力が高まるが、本人の自白がなく共犯者のみの自白の場合の証明力は下がる。そして確かに被告人からすれば共犯者の自白は第三者の自白であり本人の自白とみることはできないが、共犯者の自白のみによって被告人を有罪とするのは人権上の問題があるとしか考えられず、その場合には補強証拠を要求すべきである。

 補強証拠の必要な範囲についてであるが、憲法383項の自白は犯罪事実についてであるから、犯罪事実についてのみ補強証拠が必要とされている。問題なのは犯罪事実のうちどの部分について補強証拠が必要かは憲法にも刑訴法にも記述がなく問題となる。刑訴法で犯罪事実を認定するためには@刑法の構成要件に該当する犯罪事実の存在Aそれが被告人によって犯されたことの証明が必要とされている。@にいては実行行為・結果・因果関係とういう客観的事実(これを罪体という)と故意・過失・目的等の主観的な事実に大別される。

学説は客観的事実に補強証拠があれば架空の犯罪による処罰を防止することができる上、主観的事実については補強証拠の存在しない場合も少なくないという理由から、主観的事実まで補強証拠を必要とするものではないとする罪体説をとっている。

 そして客観的構成要件事実についてどの範囲で補強証拠が必要かの争いとして形式説(罪体説)と実質説の争いがある。判例は実質説をとっており「自白を補強すべき証拠は、必ずしも自白にかかる犯罪組成事実の全部に亘って、もれなく、これを裏付けするものでなければならぬことはなく、自白にかかる事実の真実性を保障し得るものであれば足りる」と考えている。(狭い実質説)これに対して形式説を徹底するは客観的事実すべてにおいて補強証拠を求めることになる。人権保護を強く出せば形式説になるが、形式説は法定証拠主義に近づき、何か1つでも証明が欠けた場合に有罪とできないことになる。判例のとる狭い実質説は人権保護には欠けるが柔軟であり真実発見の要請には答えている。そこから行為無価値、結果無価値の議論同様に両端から歩み寄る形で調和が模索されているため、どちらをとっても実務では差は大きくないと言われている。リーディングケースとなるのが無免許運転における補強の必要な具体的範囲である。最判昭421221刑集21101476は無免許運転の罪について無免許であることへの補強証拠を必要とした。これは実質説から形式説に変わったという判断も出来るが、形式犯である無免許運転には自白だけで罪となってしまうことから無免許運転自体に罪体を求めたと考えられ、実質説をより厳格にした広い実質説とも、形式説からも説明が可能である。

 

 次に伝聞法則の論点について検討する。伝聞法則とは刑訴法320条に規定されている、公判期日外における他の者の供述を内容とする供述(伝聞供述)、および公判期日における供述に代わる書面(供述書および供述録取書)を伝聞証拠といい、このような伝聞証拠の証拠能力を否定する証拠法則をいう。

供述証拠は、供述書の知覚・記憶・表現・叙述という心理過程をたどるため、その過程に誤りがないかどうかを吟味しなければ供述の信用性を確保できない。その信用性を吟味するために、公判での証人尋問では、偽証罪の宣誓がなされ、相手当事者の反対尋問にさらされ、裁判所は供述態度やその状況を通して、供述の信用性を判断する。しかし伝聞証拠の場合は法定外でなされた供述を内容とするため、上記のような公判廷における供述の信用性を吟味する手段が十分に保障されていない。そのため、このような供述の信用性が十分に吟味されていない証拠は、正しい事実を認定するという証拠法則の観点からは、証拠とすることができないのである。しかし全く証拠として使えないというわけではなく、伝聞証拠であっても「必要性」があり「信用性の状況的保障」が認められる場合には例外的に証拠能力が認められるのである。その主軸となるのが刑訴321条であり、本レポートでは講義ともっとも関係の深い1項について検討する。1項を図にすると以下の通りになる。

刑訴3211

供述不

特信

不可

裁判官面前調書(1号

×

×

検察官面前調書(2号

?論

×

員面調書   (3号

 

証拠能力が認められるためには、伝聞証拠の性格によって要件が異なることが分かる。員面調書は捜査の段階での人権侵害が発生しやすく要件は厳しいものになっているが、裁面調書では証拠への信頼が高いことが分かる。問題は検面調書である。当事者主義と起訴便宜主義の性格を考えれば検察官は被告人を有罪にする相手方となるところ、その性格上、要件を厳しくすべきとする議論がある。同条2号を素直に読めば、要件は「供述不能」or「供述相反性+特信性」と読めるのだが、但書部分が「供述相反性」にのみ掛かるか、「供述不能」まで掛かるのか、また、どう考えるべきかが論点である。人権保護を重視すれば員面調書と同様にすべてに特信性を求めるべきとなるが、真実発見を重視すれば特信性の要件は緩くならざるを得ない。タイ国女性である被告人の退去強制により使われた検面調書について憲法372項に違反するとして証拠能力を争った最判平7620刑集496741は「@検察官において当該外国人がいずれも国外に退去させられ公判準備又は公判期日に供述することができなくなることを認識しながら殊更そのような事態を利用しようとした場合A裁判官又は裁判所が当該外国人については証人尋問の決定をしているにもかかわらず強制送還が行われた場合など」検面調書を証拠請求することが手続的正義の観点から公正さを欠くと認められるときには許容されないこともありうるとして、「供述不能」においても証拠能力が否定され得ることをしめした。因みに、特信性とは前の供述を信用すべき特別の状況の存するときにのみ証拠能力が認められることであるが、員面調書や刑訴3233号の特信性とは異なり、検面調書における特信性は認められやすいのが特徴である。

 私個人の意見としては検察の勝訴率99.9%という数字自体に懐疑的であり、当事者主義の性格、人権保護の要請から検面調書も員面調書と同様に常に特信性を要件とすべきと考える。

 

前述した全ての材料を使って中心となる論点を検討する。人権保護においてもっとも大切な論点は、補強証拠の必要な範囲においての罪体説が主観的事実の補強証拠を必要としていないことにある。さらに主観的超過要素によって罪の軽重が大きく変わる中、その認定には例え自白であっても補強証拠を必要としないため、捜査段階においての警察・検察による無理な取調べ・自白の強要が起こりやすい。起訴後に公判廷で調書と違う証言をした場合に特信性が認められれば、その相反性から伝聞証拠として使われる可能性が高い。それは公判廷での事実認定の際に誤判が起こりやすく人権侵害が起きる可能性が非常に高いということである。

ここで私が数年疑問に思ってきた「結果無価値の方が人権侵害が少ない」という問題に答えが出るのである。結果無価値一元論は主観的超過要素を認めないので、捜査段階で自白の強要の危険が下がるのである。行為無価値を一度は認めた平野龍一が、戦争体験から結果無価値擁護派になったのも頷ける話である。しかし上述で検討したように、現在の刑法の理論から主観的超過要素を全く認めないという選択は無理があり、犯罪論からの人権侵害の防止は難しいと言わざるを得ない。そこで刑事訴訟法に求めることになるのだが、私を悩ませたのは完全犯罪に近い場合である。当初、自白法則を勉強した際には、本人が自白しているのだから判例通りで良いと考えていたのだが、人権保護の要請を考えるととても判例には同意できなくなった。しかし、例えば殺人において、人が居なくなったという事実とその人物を殺したとする自白のみ、または、その共犯者の自白のみが証拠だった場合はどうだろうか。すべてに補強証拠を要求した場合に、仮に自白が真実であったとしても有罪とすることができないとするならば、真実から乖離した結果になってしまい正義と反する結果になってしまう。人権保護を前面に出せば全てに補強証拠を要求すべきだが、真実発見の要請から何かしらの例外を設けるべきことになる。そこで補強証拠に必要な範囲で検討した実質説が有用と考えられる。実質説ならば、完全犯罪に近い場合でもその人物が居なくなったという事実を罪体として補強証拠として使い、自白と合わせて殺人の事実認定ができるのではないかと考えている。その意味では狭い実質説である。補強証拠によって人権のフィルターをかけ、実質説で真実発見の要請に応えるのである。以上のことから現制度に、公判廷の自白、主観的超過要素についても補強証拠を必要とし、補強証拠の必要な範囲は実質説をとるのが有益と考える。

故意について補強証拠を求めないのは、故意については被告人の内心であり補強証拠を求めると真実発見から遠ざかるからである。現在の実務が客観的事実や間接事実の積み重ねにより故意を立証しているわけだが自白や承認があることに越したことはない。自白はやはり証拠の大様なのであり、刑法・刑訴法からのアプローチだけでなく別のアプローチも必要となるであろう。誤判は公判段階で、人権侵害は捜査段階で起きるのが常である。そこで現在注目されているのが捜査段階での可視化である。運用としてはまだまだだが、この可視化により捜査段階での人権侵害の防止を期待したい。誤判については20178月分レポート「共謀罪」で検討したように、判決は裁判官の完全なる裁量行為である。

 

〇結論

検察官・警察による捜査段階での裁量行為と裁判官による公判廷での裁量行為を、人権保護・真実発見の要請のなかで、どのようにバランスをとるかがこれからの司法制度に求められているのである。

 

結論についてのおまけだが、捜査段階での裁量行為は本来なら法律による行政の原理で縛るべきものであるが、覊束が過ぎると柔軟性に欠け真実発見から遠ざかってしまう。そのため取調べの可視化による防止はかなり有用であるが、公判段階での防止策がないのが現状である。憲法改正を視野にいれて、最高裁判事の罷免権を認めたとしてもその主体は国会になるだろう。すると議院内閣制から総理大臣や与党総裁に大きな力を与えることとなり、権力の暴走は加速し右傾化の危険がある。司法は最後の砦であるべきであり、裁判官の良心に頼るしかない状況であるが、今までの憲法の判決を見るとそうも言ってはいられないのである。若輩者の私見ではあるが、アメリカのような法曹一元制の導入に期待する。

 

出典

中江先生の頭

増田先生の頭

自分の頭

2年中村太一の頭

 

参考文献

憲法 芦部信喜

刑法総論・刑法各論  高橋則夫

刑法総論講義・刑法各論講義・刑事訴訟法講義  前田雅英

やさしい刑事訴訟法  安冨 潔

Jurist判例百選 刑法総論・刑法各論・刑事訴訟法

 

 

 

笹森勇治

「裁判とは何か」

結論

 裁判とは、私は紛争解決の一つで、当事者にとっては最後の砦になるため、公正で中立的な立場に立ち、厳格な審査の下、正確な判断を下す必要があるものだと考える。

 

1.はじめに

 裁判は主に司法権を行使する裁判所が行い、憲法761項では「全ての司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」と定めている。この司法権の範囲は民事裁判、刑事裁判、行政事件の裁判を司法権とし、これを通常裁判所に属するものとした。

 

2.裁判手続

 裁判には、それぞれ手続が存在し、民事裁判では、原告が裁判所に訴状を提出し、訴状に不備がなければ裁判所は、口頭弁論の期日を指定し、被告に送達する。その訴状が送達された被告は、口頭弁論の期日までに、訴状に記載されている事実関係の認否や事実・法律関係に関する主張を述べた「答弁書」を裁判所に提出する。それが提出された後、原告と被告は法廷で、お互いに証拠を出し合って事実上・法律上の問題を争うという流れになっており、この解決には時に和解的解決がなされることもある。また、行政事件訴訟の裁判手続についても民事訴訟と同様である。

 では、刑事裁判の手続はどうなっているのか。

 刑事裁判では、告訴や告発があり、そこから捜査を行い、起訴する時は検察官が裁判所に起訴状を提出する。そして、起訴状が出された後、裁判が行われ、被告人に対して判決が下され、刑が執行される。

 しかし、これらの訴訟手続、とくに刑事訴訟と行政事件訴訟の手続については、人がその自由、生命、財産を奪われたり刑罰を受けたりするとき、「法の適正な手続」に従わなければならないとしている。この「法の適正な手続」を主にdue process of low と呼ぶが、このdue processは人が刑罰を受けるとき、その人の基本的人権が尊重され、かつ法の手続に従って行われるときのみ有効とされている。これは、憲法31条により規定されているが、刑事訴訟と行政事件訴訟においてのdue processとは何なのか。

 

 現在、日本では刑事訴訟法第317条により「事実の認定は、証拠による。」と規定され、証拠裁判主義をとっていることが明らかである。これは、事実は、証拠により認定されなければならないという原則であり、また、刑事訴訟法第317条の規定では事実を認定するには自白によらなければならないという原則を否定し、単に証拠によればいいというわけではなく、事実を認定する証拠には、

@)証拠能力がなければならない

A)適式な証拠調べを経ていなければならない

という点を明らかにしたことから、やはり、刑事訴訟や行政事件訴訟においては、証拠調べ手続がここでいうdue process にあたるのではと私は考える。

 

3.証拠

 裁判における事実認定としては、当事者が犯罪事実や犯罪の成立を否定する事実などを証明しようとして提出した証拠につき、その証明力を評価することが中心となる。そのような証拠が事実についての心証を形成させる力を証明力というが、証明力は、その有無だけでなく程度が問題となる。

 また現在、裁判においては事実認定が最も困難な問題となることが多く裁判官の自由な判断に任されている証拠の証明力の評価が形式的・一義的には決定し得ないという点にある。これは、刑事訴訟法第318条に「証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる。」と規定されていることから、裁判官の理性と良心を信頼して証拠の証明力の評価を裁判官の自由な判断に委ねる自由心証主義を採用していることが伺える。

 かつては、証拠の証明力を裁判官の自由心証に委ねず、一定の証拠がなければ有罪とされないとか、一定の証拠があれば一定の事実を認定しなければならないとされていた(法定証拠主義)が、この時期、自白が重視されていたため、自白を得るための拷問などが行われており、その自白偏重の否定の意味で、自由心証主義が登場したとも言える。また、証拠の証明力は具体的な事案により異なるため、予め一般的に法定するのは無理なため、法定証拠主義が否定された理由もある。

 もっとも、自由心証主義は裁判官に恣意的な判断を許しているわけではなく、その判断は論理則、経験則に基づく合理的なものでなければならず、現代社会においては、裁判官による経験則に適合した合理的な判断がなされているかが重要になってくる。

 

 では、裁判官の自由心証により証明力の評価がなされる証拠は誰が、どの様な証明責任を負うのだろうか。証明責任は真偽が不明な対象に対し証明を負う責任で、挙証責任(立証責任)ともいう。これは、犯罪事実を立証しなければならない、つまりは検察官がその責任を負うとしている。

 検察官の証明責任は犯罪の構成要件に該当する事実、処罰条件である事実、法律上刑の加重理由となる事実の存在のすべてが検察官にあり、違法性阻却事由、責任阻却事由、処罰阻却事由、法律上刑の減免理由となる事実の不存在についても検察官に証明責任がある。

 

 ここまでで、証拠の証明力がとても重要だと言うことがわかるが、証明力を欠く証拠も存在する。訴訟法は、どのような証拠が証拠能力を有するかについての一般的な定めをせず、むしろ、証拠能力が制限される場合について規定している。

 また、規定がなくても、解釈上、証拠能力が制限される場合が考えられる。

 それらは、証拠の性質として、実質的に証明力を欠く場合と、証明力が全くないとまではいえないものの、事実認定を誤らせる危険性があるため、証拠能力が制限される場合に大別される。

 前者の例として、当該事件に関する意思表示文書があげられ、例えば起訴状などは、検察官の主張と意思表示だけを内容とする書面であるから、その性質上当然に証明力はなく、証拠能力は認められない。検察官の論告や弁護人の弁論を記載した書面、両当事者の証拠説明書等も同様である。

 後者の例として、事実上の根拠を持たない単なる噂、想像、意見を内容とする証拠があげられ、その性質上説明力が極めて乏しいため、証拠能力が否定される。証人の場合には、自ら体験した事実による推測した事項を供述することが出来るが、推測事項であれば証拠能力が認められるものの、単なる想像、意見であれば証拠能力はないから、その両者を区別しなければならない。新聞記事等であっても、単なる風聞や意見にすぎない場合は証拠能力がない。

 

4.自由心証主義の例外

 刑事訴訟法第318条で自由心証主義をとっているが、その例外が存在する。

 一つは、憲法第38条、刑事訴訟法第318条により規定されている、自白法則である。これは、「自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされない」とするものである。そもそも、自白とは、被告人本人が自身の犯罪事実を認める供述証拠の一つであり、かつては、事実認定において「証拠の王」として重んじられていた。そのためか、強制・拷問・脅迫などにより自白をさせ、有罪としたことも多々あり、大きな問題を抱えていた。そこで、自白法則では自白について証拠上の特別の制約を設け、慎重な取り扱いを定め、証拠能力の要件である任意性と証明力に関する補強証拠を必要とした。

 もう一つは、憲法第37条、刑事訴訟法第320条により規定されている、伝聞法則である。これは、反対尋問を経ていない第三者の供述証拠(伝聞証拠)は原則、証拠になり得ないとしたものである。伝聞証拠とは、具体的には「公判期日における供述に代わる書面」及び「公判期日外における他の者の供述を内容とする供述」(伝聞証言)で、その原供述の内容である事実の証明に用いられる証拠を意味する。

 

 しかし、自白法則には、幾つかの問題がある。

 自白法則の問題は、@公判廷における自白は本人の自白になるのか、A被告人以外の者の供述、である。

@  公判廷における自白は本人の自白になるのか

 刑事訴訟法第3192項「公判廷における自白であると否とを問わず、その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない」として、公判廷における自白についても補強法則の適用を認めているが、憲法第383項は公判廷の自白に補強証拠を要するとは明言していない。そこで、憲法第383項の自白に公判廷の自白が含まれるかが争いとなっている。肯定説では、憲法の趣旨を明らかにしただけ、否定説では、憲法の趣旨を更に前進させただけということになっており、判例は否定説をとっている。

 

最大判昭23729  食糧管理法違反被告事件

 食糧管理法および物価統制令違反容疑につき、被告人の公判廷における自白を唯一の証拠として、被告人を有罪とした。これに対し、被告人は憲法383項および応急措置法103項に違反するとして上告した。

 最高裁は@公判廷の自白には強制の加わる余地がなく、人権擁護に欠けることがないとしてもっぱら自白の任意性を理由としているものと、A公判廷の自白は全く自由な状態において供述されるので、被告人は自己の意思に反してまで軽々しく自白することはなく、また、虚偽の自白をした場合でも弁護士によって直ちに訂正されうる、として上告を棄却した。

 

これからもわかるように、公判廷における自白は、憲法第38条にいう本人の自白には含まれず、補強証拠も必要としないとしているが、果たして、厳格な審理がなされたといえるのか、疑問が残る判決に私は感じる。確かに、原則として補強証拠を必要とすると言っているため、例外も存在し、この判例も例外に含まれたのだと解せるが、例外となる範囲はどのようになっているのだろうか。

補強の範囲としては、客観的要素である、行為、因果関係、結果にあたる罪体補強証拠を必要とすると解し、また、行為無価値にあたる主観的要素である主観的超過要素(不法領得の意思、通貨偽造の目的、性的意図など)にもこの補強証拠の範囲が及ぶとされている。

そのため、例外となる範囲は上記の補強の範囲外に存在するものにあたるのではと考えられる。

A  被告人以外の者の供述

 被告人以外の者の供述は、それが共犯者や共同被告人のものであり、被告人が犯罪事実に関与したことを認める供述であっても、ここでいう本人の自白にはあたらない。

 では、共犯者や共同被告人の自白で、被告人を有罪とすることが出来るかが問題にもなってくるが、最大判33528 練馬事件では、共犯者の自白は「本人の自白」には含まれないとし、その自白は証人の供述とその本質を異にしないということで、上告を棄却している。この判例には、反対意見などがでている。

 

結論

 以上のことから、理想とはかけ離れている裁判のされ方から、私は、裁判とは、当事者にとっては最後の砦になるため、公正で中立的な立場に立ち、厳格な審査の下、正確な判断を下す必要があるべきものだと考える。

 

 

参考文献

憲法 6版 芦部信喜

新・判例ハンドブック 憲法 2版 高橋和之

憲法判例百選U 長谷部恭男・石川健治・宍戸常寿

刑事訴訟法 3版 寺崎嘉博

刑事訴訟法講義 6版 池田修・前田雅英

刑事訴訟法講義 5版 渡辺咲子

刑事訴訟法 基本判例解説 2版 椎橋隆幸・柳川重規

中江先生の講義ノート

法務省サイト

 

文字数4,322文字

 

 

 

塚田浩平

英米法  期末レポート

裁判とは何か?

 

裁判とは社会関係における利害の衝突や紛争を解決、調整するために一定の権威を持つ第三者が下す拘束力のある判定をいいます。裁判所の法的拘束力は判決を決定は主文のみが法的拘束力を当事者に対して義務とします。しかし、金銭支払いや建物明渡しは、裁判所を通じて強制執行できるのに対し、裁判所執行官が強制的に実現できない請求では、主文で命じても強制的に国家が実現することは不可能であり、実質的には実現できない場合もあります。

国の機関である裁判所が判定によっては国民の財産、権利等を拘束するため、適正な手続きが必要になります。それをアメリカではdue processと呼びます。このままでは「適正手続」を意味するにすぎませんが、一般にはアメリカ合衆国憲法中の、国や州が市民の生命、自由、財産を奪うときに守らなければならない手続due process of lowの略語として用いられ、「適法手続」または「法の適正な手続」と訳されることが多いです。

実際の裁判において、裁判官も人なので原告と被告どちらの主張が真実か判らないという場合があります。そのような場合にも裁判をしないというわけにはいかず、最終的には何かしらの判決を下さなければなりません。そのために、予め法律の定めによって抽象的にどちらか一方の当事者が事実の立証が十分にできなかった場合に、敗訴するリスクを負わされています。これを証明責任、立証責任といいます。

裁判では証拠裁判主義といって、当事者が証拠を提出しなければ勝つことはできません。そこで民事訴訟においては、証拠の範囲や信憑性について裁判官の自由な判断を認め、これに法律上の制限を加えない自由心証主義が適用されています。自由心証主義においては証明力がとても大事になってきます。証明力とは、証拠が裁判官の心証を動かし得る効果のことです。似た言葉で証拠能力がありますが意味は異なります。証拠能力とは、民事訴訟法上、証拠方法として用いうる適格性のことをいいます。自由心証主義を採用しているため、証拠能力についての制限はなく、いかなるものも証拠能力をもちます。

刑事訴訟法上では、証拠が正しい証明の資料として用いられる適格性をいいます。公訴犯罪事実、法律上の刑の加重減免事由など刑事責任の存在およびその範囲を決定するのに必要な事実は、証拠能力のある証拠によって証明されなければならなりません。したがって、証拠能力のない証拠は事実認定の資料となしえない。このような証拠の取り調べに対しては当事者は異議の申立権を有し,取り調べ済みの場合には排除決定がなされる。任意性のない自白、伝聞証拠について証拠能力の制限が設けられ、このほか明文の規定はないが理論的に違法収集証拠、当該事件に関する意思表示的文書、無効な実体的形成行為によって作成された証人尋問調書などについても証拠能力が否定されています。

自由心証主義というのは何も必然の制度ではありません。過去には「法定証拠主義」というものが存在しました。これは、「ある一定の証拠例えば被告人の自白や証人二人の証言があれば法律上定められた事実を認めなければならない。」というものです。刑事被告人の自白であれば「罪となるべき事実」の存在だということになります。このような法定証拠主義は、とりわけ刑事事件においては、自白偏重を生み、それが故に拷問を(事実上)推奨する側面を有していました。しかしそれでは冤罪事件などが起こってしまいます。そのような事件をなくすために補強法則というものが存在します。補強法則とは自白法則と関連する点が多く、本人の自白のみで被告人を有罪とすることができない。有罪とするには別に補強証拠を要するとする原則を意味します。自由心証主義の例外であると考えられます。被告人の公判廷における自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には有罪にしてはならないと規定した。補強証拠によって証明すべき事実の範囲については,犯罪の客観的側面つまり罪体に関して補強が必要であるとする罪体説が有力であるが,判例は,補強証拠としては自白にかかる事実の真実性を担保するものであれば足りるとしている。つまり不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には有罪とされないとされている。

証拠能力には2つの法則があり供述の内容いかんにかかわりなく伝聞であるというだけで形式的に証拠能力を否定するのが、伝聞法則である。

これに対して、伝聞ではなくとも、(自己の犯罪事実の全部又は重要部分に対する供述である)自白が任意になされていないという、供述過程に踏み込んだ判断をした上で任意性が否定された場合、自白の証拠能力を否定するのが自白法則だと思う。

刑罰法規によって定義された犯罪行為の類型の事を構成要件と言うが構成要件の要素は、客観的構成要件要素と主観的構成要件要素に分けることができる。違法構成要件と責任構成要件に分ける見解もある。

客観的構成要件要素とは

  行為性 行為性を構成要件外の要件とする少数説もある

  実行行為 未遂論や共犯論との関係について議論がある

  結果 結果を不要とする構成要件もある

  行為と結果の因果関係 結果を不要とする構成要件においては因果関係も不要である。また詐欺罪など、構成要件によっては特定の因果経過に限定されているものもある。

 

 

 

•主観的構成要件要素

 主観的超過要素

o目的犯における目的-例・通過偽造罪の「行使の目的」

o傾向犯における主観的傾向-例・強制わいせつ罪の性的衝動を満足させる心理的傾向

o表現犯における内心的状態-例・偽証罪の主観的な記憶に反するという心理状態

o領得罪における不法領得の意思

o背任罪における図利加害目的

o未遂犯における既遂の故意

目的犯の「目的」や未遂犯の「故意」はどの様に扱うのか?

主観的超過要素という概念を持ち出して問題の解決を試みたということです。

目的犯の「目的」や未遂犯の「故意」は主観的超過要素として、例外的に違法性に影響を与えるが、原則として主観は違法性に影響しません。

 

この様に両説の中間的な説明をしようとしたということです。民事訴訟では,裁判所に訴えを提起した側の当事者を「原告」といい,訴を提起された側の当事者を「被告」といいます。

なお,行政事件訴訟も,裁判手続については民事訴訟と同じです。

次に民事裁判と刑事裁判の実際の流れに触れていこうと思います。

民事裁判の流れ

裁判は,原告が裁判所に「訴状」を提出することから始まります。 訴状に不備がないときは,裁判所は,口頭弁論の期日を指定し,被告あてに訴状を送達します。

被告は,口頭弁論の期日までに,訴状に記載された事実関係の認否や事実・法律問題に関する主張を述べた「答弁書」を裁判所に提出します。

 

原告と被告は,法廷(裁判官の面前)で,お互いに証拠を出し合って事実上・法律上の問題を争います。

裁判所(裁判官)は双方の言い分を確かめ,証拠に基づき法律に照らして,原告の請求あるいは被告の主張のいずれかを正当とする判決を言い渡します。

なお,裁判所からの勧告に基づき,当事者同士が妥当な解決方法を話し合う「和解」等の手続によって解決を図ることもあります。

 

敗訴判決を受けた一方の当事者は,判決を受け入れるときは確定させて,判決の内容を実現することになります。 しかし,敗訴判決を不服とするときは,上級裁判所に判断を求めることになります。 このことを「上訴」といいます。

 

判決が確定したのにもかかわらず,その内容が任意に実現されないときは,勝訴判決を得た者は,裁判所(執行裁判所)に対し,その強制的実現を求めることになります。

次に刑事裁判の流れ

刑事事件の裁判においては、まず被告人に対して人定質問が行われます。

人定質問というのは、被告人に氏名・年齢・職業・住居・本籍に尋ねるものです。

次に検察官が起訴状を読み上げます。

起訴状を読み上げた後に、裁判官は黙秘権について説明します。

実は被告人はこの陳述まで、事件に関する発言ができません。

ここではじめて検察が読み上げた起訴状の犯罪を行ったのか?

その犯罪を起こさなければならなかった弁解や事実関係が異なる部分がある、などについて述べることが出来ます。

罪を素直に認めれば波風が立たずに刑事事件の裁判が進んでいきますが、認めない場合は検察と弁護士が争うことになります。

証拠調べ手続きとは、検察が裁判で被告人の犯罪を立証することです。

刑事事件では検察が被告人の犯罪を確実な証拠をもとに証明する責任があります。

検察は刑事事件の裁判を起こすにあたって起訴状以外のものを提出することができません。

この理由は、裁判がはじまる前に検察が被告人に不利な証拠を提出してしまうと、裁判官が先入観をいだき、被告人に不利な判決を下してしまう可能性があるからです。

証拠調べ手続きは以下のような流れで行われます。

1

冒頭陳述とは、提示した証拠でどのような事実を証明しようとするかを明らかにするために行われます。検察官の冒頭陳述の後に、被告人や弁護士も冒頭陳述を行うことができます。

2

冒頭陳述後に検察官は事件に関係がある証人の尋問、証拠物や鑑定の請求を行います。。被告人又は弁護士はこれに対し、証拠意見を述べます。事実関係を検察と弁護士が争わない場合、「同意します」「異議はありません」等の意見を述べることになります。

また、事件と直接関係がないものや、まだ特定されてないような証拠は裁判所に却下されます。

3証人尋問・被告人質問

刑事事件では検察と弁護側の言い分が食い違うとき、証人尋問・被告人質問証人において何が行われていたかを明らかにします。尋問は証人を連れてきた側から尋問します。これを主尋問といい、後から相手側が行う尋問を反対尋問と言います。

被告人質問とは、被告人が証言台の前に立ち、弁護士、検察官、裁判官からの質問に対して答えていく手続きです。

被告人質問では、なぜ罪を犯してしまったのか、今後罪を犯さないためにどのようなことを行うのか、今後どのように生活をしていく予定なのかなどを被告人は述べます。

被告人質問が終わると、検察官は論告・求刑を行います。

そして被告人・弁護人の最終陳述後、判決期日に判決が述べられます

最後にかならず被告人・弁護人が発言できる機会が与えられます。

その後、判決期日に裁判官は判決を述べます。

私たちは、おおよそ普通の生活をしている範囲のなかでは、「共通のルール」である各種「法律」に従い、

「裁判」によって善悪が判断されるのが妥当です。

少なくとも、戦後の義務教育を受けている日本人は、社会の勉強でそう教えられており、実際に法に守られて生活しているのです。日本にいて安全に生活ができているのも法律というルールがありそれに従う裁判所という国の機関があるからだと思います。

 

学籍番号 15j101001

3 塚田浩平

 

文字数/

4397文字

 

参考文献/

裁判とは何か/萩原金美

裁判所は何を判断するか/岩波書店

裁判の仕組みが面白いほどわかる本/伊藤 良徳

日本の裁判/瀬木比呂志

民法概論/川井健

ポケット六法

 

参考webサイト/

amebaブログ「アメリカ弁護士への遊歩道」

                  「とある法学徒の社会探訪」

wikipedia

コトバンク

教えてgoo!

 

 

 

 

齋藤敦

前期英米法期末レポート

「裁判とは何か」

 

まず裁判とは社会関係における利害の衝突や紛争を解決、調整するために一定の権威を持つ第三者が下す拘束力のある判定をいいます。裁判所の法的拘束力は判決を決定は主文のみが法的拘束力を当事者に対して義務とします。しかし、金銭支払いや建物明渡しは、裁判所を通じて強制執行できるの対し、裁判所執行官が強制的に実現できない請求では、主文で命じても強制的に国家が実現することは不可能であり、実質的には実現できない場合もあります。

国の機関である裁判所が判定によっては国民の財産、権利等を拘束するため、適正な手続きが必要になります。それをアメリカではdue processと呼びます。このままでは「適正手続」を意味するにすぎませんが、一般にはアメリカ合衆国憲法中の、国や州が市民の生命、自由、財産を奪うときに守らなければならない手続due process of lawの略語として用いられ、「適法手続」または「法の適正な手続」と訳されることが多いです。

裁判の中には大きく分けて刑事裁判と民事裁判の2つが存在します。刑事裁判では、犯罪を犯した人に有罪無罪や刑罰を決めるための審理を行います。一方で、民事裁判では、個人間や家族間、行政との様々なトラブルを審理しています。どちらとも、証拠を出し合って審理することには変わりませんが、手続きの流れなどは異なります。

当事者の違い、手続きの流れや結果、結論を出すまでの必要な証明の度合いも違います。

 

裁判の際、裁判官も人間なので原告と被告どちらの主張が真実か判らないという場合もあります。しかしそのような場合にも裁判をしないというわけにはいかず、最終的には何かしらの判決を下さなければなりません。そのために、予め法律の定めによって抽象的にどちらか一方の当事者が事実の立証が十分にできなかった場合に、敗訴するリスクを負わされています。これを証明責任、立証責任といいます。大雑把に言うと証明責任は、請求をする者(権利を主張する側)が責任を負います。例えばAさんが交通事故に遭い損害賠償をBさんに請求するとします。その際損害賠償を請求するのはAさんなので事故の起きた経緯や被害などの事故と発生したことの間に因果関係があるかどうかを立証しなければいけません。損害の立証責任は被害者であるAさんが行うことになっており、これを怠ると請求が十分にみとれられない場合があります。

返済の滞ったお金の返済を求める場合もお金を借りたという証拠を立証するのは貸した側となります。逆に、お金を借りてはいたがもうすでに返済しているのにも関わらずまた返済を請求された、というパターンだと証拠を立証するのはお金を借りてた側となります。私も以前家族が交通事故にあった際、証拠を集めるために動いたのは被害者である私達家族になりました。

 

民事訴訟の証拠調べにおいては自由心証主義という考え方が採用されています。

自由心証主義とは、証拠から事実認定の過程において、裁判所の一存で決めてよいということです。当事者の申し出がないものについて、裁判所は証拠調べをしてはならないというものです。つまり、証拠を出すかどうかについては当事者に主導権がありますが、ひとたび出された証拠をどのように扱うかについては、裁判所の一存で決めることができるということです。

自由心証主義において証明力は非常に重要なキーワードになります。証明力とは、証拠が裁判官の心証を左右しうる効果のことです。似た言葉で証拠能力がありますが意味は異なります。

では証拠能力とは、民事訴訟法上、証拠方法として用いうる適格性のことをいいます。自由心証主義を採用しているため、証拠能力についての制限はなく、いかなるものも証拠能力をもちます。

刑事訴訟法上では、証拠が厳格な証明の資料として用いられる適格性をいいます。公訴犯罪事実、法律上の刑の加重減免事由など刑事責任の存在およびその範囲を決定するのに必要な事実は、証拠能力のある証拠によって証明されなければならなりません。したがって、証拠能力のない証拠は事実認定の資料となしえない。このような証拠の取り調べに対しては当事者は異議の申立権を有し,取り調べ済みの場合には排除決定がなされる。任意性のない自白、伝聞証拠について証拠能力の制限が設けられ、このほか明文の規定はないが理論的に違法収集証拠、当該事件に関する意思表示的文書、無効な実体的形成行為によって作成された証人尋問調書などについても証拠能力が否定されています。

先ほどでも記載していたのですが証拠能力には一定のルールが存在します。自白法則や、伝聞法則などです。

・自白法則とは憲法上、被告人に対する強制、拷問若しくは脅迫による自白や不当に長く抑留、拘禁された後の自白は、証拠とすることができないと憲法条に規定されておりこれを受けて刑事訴訟法上も、これに加えてその他任意にされたものでない疑いのある自白は、証拠とすることができない旨が刑訴法条規定されています。

・伝聞法則とは被告人の反対尋問の機会にさらされていない供述証拠です。このような伝聞証拠は原則として証拠能力をもたず、つまり犯罪事実の認定やその他の重要な事実の認定のための証拠としては利用されえないということです。つまり伝聞証拠禁止の原則とは、伝聞証拠の証拠能力を定する訴訟法上の原則を言います。これにより、伝聞証拠は原則として証拠とすることができません。日本法では、この原則は刑事訴訟にのみ認められますが例えばアメリカ法においては州によって多少の差異はあるものの民刑事を問わずに妥当する重要な法原則の一つです。

しかし、自由心証主義には問題点もあるということに気づきました。

裁判における証拠評価において裁判官が大きな裁量権を持つ為、十分な証拠能力を有した証拠を裁判官の心証によって不採用とし、信用性に乏しい証拠を重要視した結果、冤罪事件に結びつくケースが存在すると思います。被害者の証言のみで有罪判決となる事が慣例化している痴漢事件などが代表的なものであると思い、また痴漢冤罪等には強制的な自白を要求するケースもここ日本で問題になっていました。

そのようなケースをなくすために補強法則というものが存在します。補強法則とは先ほどの自白法則と関連する点が多く、本人の自白のみで被告人を有罪とすることができない。有罪とするには別に補強証拠を要するとする原則を意味します。自由心証主義の例外であると考えられます。この自白のとは、被告人を有罪とするための自白以外の他の証拠をいいます。補強法則の趣旨として、@自白は裁判官によって過度に信用される性質があり、自白のみで有罪とするのは誤判のおそれが生じること、A自白だけで有罪にできるとすると捜査機関による自白の強要や人権侵害が生じるおそれがあること、にあります。

ここで一つ疑問に思ったことがあります。なぜ憲法や刑法において自白の強要を規制、禁止してるのにも関わらず警察の自白強要は無くならないのでしょうか。それは、供述を元にした裏付け捜査の必要性、供述による証拠の要素が少しでもあるためだと考えることができました。供述による証明ができないとなってしまえば、証拠を見つける

のが困難な場合、罪を立証することが難しくまた、目撃情報などもその対象に入ってしまいます。そのため黙秘権などを使う人に対して警察側が少なからずとも自白させようという考えに至ってしまうのだなと思いました。

 

被告人の公判廷における自白には,憲法上は補強自白の中にも罪体説と実態説があります。

証拠を必要としていないとするのが判例の立場ですが、刑事訴訟法条項は,憲法の趣旨をさらに拡充して(公判廷における自白であると否とを問わず、その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には)有罪にしてはならないと規定しています。補強証拠によって証明すべき事実の範囲については,犯罪の客観的側面に関して補強が必要であるとする罪体説が有力ですが、判例は補強証拠としては自白にかかる事実の真実性を担保するものであれば足りるとしています。これを実質説といいます。

 

次に主観的超過要素という考え方についてです。

単なる故意にとどまらず、強い信念のようなモノに衝き動かされてなされた犯罪のことをいいます。その主観が、違法性に影響を与えるか。この考え方には肯定する説と比定する説の二つがあります。

主観的違法要素を認める(行為無価値的)

・行為者の主観は違法性に影響を与える

 

・社会規範に反する行為が違法という行為無価値と親和的。

・行為無価値に対する批判もほぼそのまま妥当する。

・法益侵害が起きていないのに悪い事を考えただけで違法。

事になりかねないので、国家による倫理の押しつけになりかねないということです。

主観的違法要素を認めない(結果無価値的)

・違法性の有無は法益侵害の有無という客観的な基準で決する。

・行為者の主観は違法性ではなく責任で考慮する。

 

→主観的超過要素という概念を持ち出して問題の解決を試みたということです。

目的犯の「目的」や未遂犯の「故意」は主観的超過要素として、例外的に違法性に影響を与えるが、原則として主観は違法性に影響しません。

この様に両説の中間的な説明をしようとしたということです。

 

裁判とは結論からしていうと、人と人との争いや事件を人を裁くものであり、またその倫理的な考え方などはその国の歴史や文化などによっても変わってくると思います。古代は神、中世は有力者、近代では人が法となって人を裁くためその考え方や思想はもっと学ばなければいけないのだと思いました。またまた国民も憲法という国に対抗できうる手段を持って裁判に挑むこともできます。近代の日本の様な先進国では国民も国に対抗できうる手段があるのでこの様な国に生まれてよかったなと思いました。また裁判員制度もあり、裁判はとても私達にも身近なものになっているはずです。私達がもっと学んでいこうとより一層思えました。以上です。

 

文字数/4160

学籍番号 15j102019

42 齋藤敦

 

出典図書

裁判とは何か萩原金美

裁判所は何を判断するか/岩波書店

民法概論川井健

ポケット六法

 

参考サイト

wikipedia

※コトバンク

goo!

 

※は参考に閲覧した程度です。