吉野孝則
テーマ:裁判とは何か 吉野孝則
結論: 検察官・警察官による捜査段階での裁量行為と裁判官による公判廷での裁量行為を人権保護・真実発見の要請のなかで、どのようにバランスをとるかがこれからの司法制度には求められている。
〇はじめに
裁判とは何かを明らかにするために、以下では現状、論点、結論に分けて論ずる。
〇現状
現在の裁判制度は大きく分けると、刑事訴訟、人事訴訟、民事訴訟、行政訴訟の四つに分けることが出来る。
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公定力 |
公開 |
証明責任 |
進め方 |
証明力 |
証拠能力 |
効力 |
刑事訴訟 |
× |
〇 |
すべて検察 |
当事者主義+職権探知主義 |
〇 |
〇 |
第三者効 |
人事訴訟 |
× |
× |
分配 |
職権探知主義 |
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同上 対世効 |
民事訴訟 |
× |
〇 |
分配 修正された法律要件分類説 |
弁論主義 |
〇 |
× |
既判力 |
行政訴訟 |
〇 |
〇 |
分配 |
当事者主義+職権探知主義 |
〇 |
× |
第三者効 |
こういった違いがある中で自由心証主義というのは一貫している。この自由心証主義を理解するために現在までの裁判制度の理解が必要となるところ、2017年1月分のレポート「過失とは何か」で民事訴訟と行政訴訟について詳述したので、以下では主に刑事訴訟を中心として説明する。
現在の司法制度に至るまでには、水に沈めて浮き沈みで有罪・無罪を決めた神判の時代から、法定証拠主義を基本とする糺問主義の時代を経て近代の刑事裁判の時代に辿り着いた。神判の問題点を克服するべく法定証拠主義を採用した糺問主義は合理的であったが、@裁判官による訴訟A証拠の法定B自白偏重による拷問C非公開D専断的な判断E審理における書面中心という問題点があった。糺問主義では捜査する人と裁判する人が同じであり、さらに捜査より公判が重視されていたため、法定証拠主義と絡み、証拠の王様とされる自白を得るために多くの人権侵害が起こった。その反省を含め、法定証拠主義から自由心証主義を採用し、裁判官・検察官・弁護人という三面構造を採用する弾劾主義へと変わってきたのである。
刑事訴訟にはイギリスを代表する人権を重んじる英米法系の考え方と、ドイツ・フランスを代表する真実発見を重んじる大陸法系の考え方がある。イギリスでは陪審員制度、当事者主義、公開主義、口頭弁論主義、アレイメント、伝聞法則、ヘイビアスコーパス(人身保護手続き)など人権を重んじた独自の刑事司法が確立しており、同じヨーロッパでも糺問主義のフランスやドイツとは大きく異なっていた。革命後のフランスではモンテスキューやヴォルテール等の人権を無視した専断的、糺問的な裁判制度への避難からイギリスの刑事司法を参考にすることとなる。しかしナポレオン時代に弾劾主義、公開主義を採用しつつも、非公開で糺問的な予審制度を認め、被告人の尋問を重視する刑事訴訟法が立法されてしまう。そして日本の刑事司法ではこのフランス・ドイツの影響を受けることになる。
遠山の金さんや大岡越前にあるように糺問主義をとっていた日本としてはとても相性が良かったのである。一方、アメリカでは人権宣言に伴いdue process of lawを定めた。そして戦後のアメリカ法の影響により、日本国憲法31条に適正手続が規定される。因みに手続きが法律で定められていることだけでなく、@法律で定められた手続が適正でなければならいことA実体もまた法律で定められなければならないことB法律で定められた実体規定も適正でなければならないことを意味する。(芦部憲法より)つまり手続的保障から人権を保護するということである。
この適正手続を受けて我が国の刑事訴訟法1条に「この法律は、刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的とする。」とあるように「人権保護」と「真実発見」という大きな2つのテーゼが要請されることになったのである。そして刑事訴訟法ではこの2つの要請が糺問主義vs弾劾主義、職権探知主義vs弁論主義、職権追行主義vs当事者追行主義として現れてくるのである。しかしここで考えなくてはいけないのは二分法ではないということである。
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訴訟構造 |
訴訟の対象 |
訴訟の進行 |
職権主義 |
糺問主義 |
職権探知主義 |
職権追行主義 |
当事者主義 |
弾劾主義 |
弁論主義 |
当事者追行主義 |
職権主義からくる問題点を解決すべく当事者主義を導入したわけだが、弁論主義が過ぎればアメリカのように訴訟がゲームとなり真実から遠ざかってしまう。大切なのはどちらかではなく両者の調和点をみつけることである。さらに調和点を探す作業とともに日本の刑事司法では@被疑者国選弁護制度A公判前整理手続B裁判員制度C被害者の訴訟参加を取り入れている。
この二つの要請をもとに刑訴法317条から328条に証拠法が規定され、317条に証拠裁判主義、318条に自由心証主義が規定されたのである。法定証拠主義では有罪にするために一定の証拠が必要とされ、一定の証拠があれば一定の事実を認定しなくてはならなかった。その時期は自白が重視されていたため自白を得るために拷問が行われたのである。その「自白偏重の否定」を込めて、また、証拠の証明力は具体的な事案ごとに異なり法定することは出来ないということから、証拠の評価を裁判官の自由な心証に任せたのが自由心証主義である。自由と言っても裁判官の恣意的な判断を許すものではなく、論理則や経験則に基づく合理的なものでなければならない。そして裁判官の心証を形成させるのが証拠の証明力である。因みに証明力は証拠と事実との間の関連性の大きさを示す「狭義の証明力」と、その証拠がどの程度信用できるのかという「信用性」からなる。さらに証拠なら何でも良いというわけではなく、証拠として事実認定に用いることの適格性のことを証拠能力という。証拠能力のない証拠は裁判官の心証形成に不当な影響を及ぼすおそれから、犯罪事実の認定に用いてはならないだけでなく証拠調べをすることも許されないのである。そして現行刑訴法は伝聞法則、自白法則の証拠能力に大幅な制限を設けているのである。因みに証拠による証明として「厳格な証明」「自由な証明」「疎明」があり、それに対応する裁判官の心証の程度として「合理的な疑いを生ずる余地のない程度に真実であるとの心証(確信)」「肯定証拠が否定証拠を上回る程度の心証(証拠の優越)」「一応の蓋然性が認められるという心証(推測)」がある。
これらの証明責任はすべて検察官にある。以前は違法性・責任阻却事由に関しては当事者主義から証明責任を被告人にすべきとする議論もあったが、「疑わしきは被告人の利益に」「無罪の推定」の原則と反するため全て検察官にある。構成要件部分を証明すれば違法性・責任阻却事由がないことが推定されるため、違法性・責任阻却事由がないことを言及すれば足りるとされている。因みにだがこの「無罪の推定」をやぶる例外が刑事法にはある。民法の証明責任の転換が刑事法にもあるのである。名誉棄損罪の真実性の証明、同時傷害の特例、労働基準法121条1項但書、児童福祉法60条4項の年齢を知らなかったことについての過失がある。
民事訴訟法では証明責任は分配されており、現在では修正された法律要件分類説が通説となっている。その他の民事訴訟との違いとして@民事訴訟では所有権や債権のように当事者が自由に処分できるため、争いがなければ客観的真実と食い違っても真実として扱ってよいが、刑事訴訟の場合は刑罰権を発動するかいなかという公的なものであり客観的な真実の確保が強く要請される。A民事訴訟と刑事訴訟では原告と被告の立場が違う。同じ当事者主義でも証拠収集能力に大きな差があるため、刑事訴訟では訴因変更などの職権探知主義が認められているといった点も重要である。
〇論点
論点を最初に説明するならば、法定証拠主義と自由心証主義のバランスを「人権保護」と「真実発見」という要請の中でどうとるかにある。その視点で自白法則と伝聞法則の論点を論ずるが、論点の理解には主観的超過要素の理解が不可欠なため、以下では主観的超過要素、自白法則、伝聞法則の順番で論ずる。
主観的超過要素を理解するためには違法論の争いである行為無価値と結果無価値の争いを理解する必要がある。行為無価値とは社会倫理秩序違反を違法性の本質と考えており、社会倫理秩序に違反する行為が悪いとされ、また、この行為を行う心を罰するべきという結論に辿り着く。結果無価値とは法益の侵害とその危険を違法性の本質と考えており、主観的なものは責任段階でしか考慮しない点に特徴がある。結果無価値が旧派であり行為無価値が新派だとされている。この二つの対立は日本の刑法の礎を築いた団藤重光と平野龍一を軸に大きな流れになっていった。行為無価値一元論を徹底すると、結果が発生する前の段階で危険な思想を持っている者の心を罰することになるために思想信条の自由に抵触し問題がある。一方、結果無価値一元論を徹底すれば、夫の好物である天ぷらを食べさせて糖尿病で亡くなった場合でも構成要件段階で死という結果として評価してしまい、責任段階でしか故意・過失を判断できないところに問題があるとされている。これらの問題からどちらかを徹底するとおかしな結論になってしまうために、現在の多くの教科書ではこの争いはモデル論であり今ではそれほど重要ではないと書かれている教科書が多い。確かに現在の違法性の考え方は行為無価値からの違法二元論、修正された結果無価値論のようにかなり重なり合う部分が多いが、論者により未遂、予備、共犯の学説が微妙に異なるため、また、現在の刑法を理解するために必要だと私は考える。
旧派の三分説では責任段階でしか故意犯・過失犯を分けることが出来ないという問題があったところ、行為無価値論はある学説に解決の糸口を見つけることになる。それがハンス・ヴェルツェルによる目的的行為論である。目的的行為論とは故意を違法要素とする考え方であり、故意を違法要素とすることにより、違法類型である構成要件の段階で故意を考えられることから、構成要件段階で故意犯と過失犯を分ける事ができるのである。ヴェルツェルが三分説の解決を考えていたかは謎であるが、この学説を使って団藤重光とその弟子である大塚仁が、構成要件段階で主観的構成要件要素として構成要件的故意・構成要件的過失を考える現在の三分説を作り上げたのである。確かに包丁で人を刺殺する際に、1回刺すのと複数回刺すのとでは故意に違いがあり、責任というよりも違法性が増すと説明する方が説得的であり条文の解釈とも整合的だと考えられるが、旧派が守り続けてきた「構成要件・違法性は客観に、責任は主観に」というテーゼに反することになるのである。
行為無価値論が解決を見つける一方で結果無価値論も黙っていなかった。実際は平野龍一が黙っていなかったのかもしれないが、結果無価値からも条文の解決策を見つけたのである。それが修正された過失論である。ここは個人的な考えで何か資料があるわけではないのだが、以前中江先生に過失論を教わった際に「なぜ結果無価値が予見可能性だけでなく結果回避可能性まで求めると思う?」と訊かれたことがあったが答えを見つけることができなかった。増田先生からも「旧派である結果無価値は結果回避可能性まで求め、新派である行為無価値は予見可能性までしか求めない。時代の流れとは逆だ」という説明を受けたことがあるのだがずっと疑問だった。その答えがこの問題と関わっているのである。行為無価値は心を罰するため、心の問題である予見可能性・予見義務と親和的なのである。一方客観面を重視する結果無価値は客観的事象を判断する結果回避可能性と親和的なのである。修正された過失論はこの考え方から、予見可能性を責任段階に、結果回避可能性を構成要件段階で判断するのである。その結果、構成要件で過失犯と故意犯を分けることができるため条文の問題は解決するのである。その場合には構成要件は違法・責任類型となる。条文解釈への解決策を得たわけだが、予見可能性ありきでの結果回避可能性という議論が通じなくなるわけだが、中江先生の兄弟子である現最高裁判事の山口厚が教科書の中でその批判を綴っているので読んでもらいたい。解釈的にも客観面である結果回避可能性を検討して、回避可能性があることを前提に回避義務を認め、その後に責任段階で予見可能性・予見義務を検討する方が合理的だと考えられる。その場合には予見可能性は責任阻却事由になるのであろう。しかしこの考え方を徹底すると、薬害エイズ帝京大学ルートにおいて安部医師の過失を判断する際に、非加熱製剤しかなかったことから結果回避可能性がないことになり、予見可能性・義務を判断する責任段階の検討を待たずして構成要件段階で過失なしとなってしまい、判例を説明することができなくなるという問題は残る。これらのことより行為無価値・結果無価値どちらの考え方をとろうとも現在の三分説を説明することが出来るようになったが、主観的超過要素を認めるのか、また、認めるとしてどこに位置付けるのかという問題をめぐって今もなお議論が絶えないのである。
主観的超過要素とは故意・過失、目的犯における目的、傾向犯における内心の傾向、表現犯における内心の状態、財産犯における不法領得の意思があり、故意とは別のものであり故意に方向をつけるものだと説明される。刑148条1項の通貨偽造罪には「行使の目的で、」という目的が規定されている。故意を判例・通説である認識・認容説で考えた場合に故意は事実の認識であるから「通貨を偽造する」という事実の認識以外の「目的」は故意ではなく別の要素ということになる。これを故意から「溢れ出た部分」として「超過要素」と呼ぶのである。主観的超過要素は結果無価値論からの呼び名であり、行為無価値論からは主観的違法要素と呼ばれる。何が問題かと言うと、構成要件の段階で主観的超過要素があることにより条文が分かれてしまうことにあり、且つ、結果無価値からは構成要件・違法性で主観的なものを認めたくないために条文解釈と乖離してしまうという問題があるのである。行為無価値は主観的違法要素を認めることから何も問題なく説明できるのだが、結果無価値からの説明が困難になるのである。以下では主観的超過要素を理解するために、前述した故意・過失以外を検討する。
目的犯における目的は通貨偽造罪や誣告罪の条文自体に規定されているため構成要件要素と解するしかなく、結果無価値からでもこの目的を例外的に認める論者が多い。行為無価値からはこの目的は主観的違法要素となる。どちらの説からも主観を客観的事実から判断するしかなく、偽造された数や精巧さなどから目的を判断する。
傾向犯における内心の傾向は強制わいせつ罪と強要罪を分ける分水嶺とされる。最高裁昭和45年1月29日第一小法廷のように相手に服を脱がせる行為を客観的にみると、強制わいせつなのか強要なのかの判断が出来ないために性的意図が強制わいせつ罪の要件として必要とされた。しかし近年になり、強制わいせつ罪の法益を性的自由を侵害する罪と考えることから、以前は考慮されなかった被害者の意識を取り込むべきという要請から2017年11月29日に判例変更が行われ、性的意図が要件から外されることになった。この事件が児童のわいせつ画像の撮影だったために、罪とするためには常に性的意図が必要というわけではないという判断だった。チャタレー事件で確立されたわいせつ概念に言及することもなく非常に歯切れの悪い判例変更であるが、性的意図が必要かどうかで揺れているのが見て取れる。私個人としては脱がせたシチュエーションや何を脱がせたかのような客観的事実からわいせつ性の判断は可能であると考えることから、性的意図は不要と考える。しかしながら、いじめの際に脱がす行為を強要罪と捉えるか強制わいせつ罪と捉えるかでやはり同様の問題が残ることを考えると、歯切れの悪い判例とはいえ、なお性的意図の問題は残ると思われる。
表現犯における内心状態についても、偽証罪を主観説のように行為者の記憶に反する罪と考えるか、客観説のように客観的事実と違う陳述を罪とするかで違いが出る。記憶に反した陳述がたまたま客観的事実と同じ場合に主観説は罪とし客観説は罪としない。違法二元論の多くの論者が記憶に反する陳述が客観的事実と違う場合に罪とすべきとする。まるで偶然防衛を認めるかどうかの議論のようだが、仮に記憶に反する陳述をしたとしてもそれを証明する方法がないこと、また、仮に捜査段階と公判での証言が違っていたとしても捜査段階では真実を述べる義務や期待可能性の欠如から宣誓後の公判廷での陳述とは分けて考えるべきであり違法二元論の多数説に賛成である。証明は難しいが理論的には主観的超過要素を認めるべきである。因みに記憶には反しないが客観的事実と反する陳述をした場合は故意がないから罪にならないことになる。
不法領得の意思は書かれざる構成要件として判例に「権利者を排除して、他人の物を自己の所有物として、その経済的用法に従い、利用若しくは処分する意思」と定義づけられ、権利者排除意思と利用・処分意思に分けられる。この定義を逆手にとり、パンティを被るために盗んだ場合に経済的利用法に従っていないから不法領得の意思なしとして不可罰とする議論があったが、現在では不法領得の意思不要説や、何かしらの経済的恩恵をうけているとして不法領得の意思ありとして構成要件該当性を認めるのが通説である。もともとは領得罪と毀棄罪を分ける分水嶺として使われていたが、使用窃盗を制限するための「絞り」としても使われている。権利者排除意思、利用処分意思は論者によって違うが、領得罪と毀棄罪は客観的行為が重なり合う部分があり、不可罰的事前行為としての説明も可能だが、その場合は故意により多くを求める事となるため、不法領得の意思は必要であると考える。
これらの量刑を比べると、目的犯、表現犯においては有罪と不可罰が分かれ、傾向犯においては強制わいせつ罪なら10年以下で強要罪なら3年以下、不法領得の意思においては窃盗罪なら10年以下で器物損壊罪なら3年以下となり、主観的超過要素の判断で大きく変わってしまうことからも如何に重要かがわかる。
次に、この主観的超過要素に対して行為無価値論と結果無価値論がどのようにアプローチするかを説明する。結果無価値一元論は主観的超過要素を認めない。行為無価値一元論、違法二元論、修正された結果無価値論は認めることになる。さらに修正された結果無価値論の中で主観的超過要素を@故意に解消A故意とは別の責任要素とするB例外的に認めるという3つのアプローチがある。@説は判例の故意概念との調和に問題があり解釈論としてはとれない。A説は秀逸であり、常習賭博における身分犯を違法身分と責任身分に分けて考える説とも整合的であり、今までの結果無価値からの説明とも調和的である。しかしながら、罪が重くなる理由を責任に求めてしまうところに感覚として違和感がある。考え方にもよるが、刑事未成年、心神喪失、心神耗弱、期待可能性、避難可能性のように責任要素を犯罪成立のブレーキとする考え方とは反する。そこでB説は、主観的なものを認めない結果無価値からするとかなり柔軟な考え方であるが、その考え方自体が結果無価値ではなくなってしまう可能性がありかなり難しい。これらのことから行為無価値を取る方が判例の説明は容易いと思われるが、結果無価値の論理的な部分にも魅力がある。
次に自白法則の論点について検討する。自白法則とは証拠の王様たる自白を得るために多くの人権侵害があり、また裁判所も自白ということで認定しやすく多くの誤判をしたことの反省から、憲法38条2項で強制、拷問、強迫、不当に長い抑留、拘禁の後の自白について証拠とすることができないと定めており、さらに刑訴319条1項はそれに加え任意性のない自白も証拠とすることができない旨規定している。そして憲法38条3項と刑訴法319条2項は任意性のある自白であったとしても、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、刑罰を科せられないとされている。これを受けて、被告人を有罪とするには、自白の他に補強証拠が必要とされており、自白しか証拠がない場合は有罪となし得ないことを補強法則という。自由心証主義の唯一の例外である。
ここで問題となるのが刑訴法319条2項には「公判廷における自白であると否とを問わず」と書かれており、公判廷における自白についても補強法則の適用を認めているが、憲法38条3項には公判廷の自白に補強証拠を要するとは書かれていない。そこで憲法38条3項の「自白」に「公判廷の自白」が含まれるのかが問題となる。肯定説によれば刑訴319条2項は憲法の趣旨を明らかにしたものとなり、否定説によれば憲法の趣旨をさらに前進させたことになる。最大判昭23年7月29刑集2・9・1012は@公判廷では拷問などの不当な干渉は受けないA自己に不利益な供述はしないB仮に虚偽の供述でも裁判所は判断できるということから否定説を取った。補強法則の趣旨を「拷問の防止」、「誤判の防止」と解すると確かに拷問などの不当な干渉は受けないと思われるが、捜査段階での影響が公判廷まで続く場合があることを考えると誤判の可能性は否めない。さらに公判廷では供述の信用性についてのチェックが出来るとするが裁判官も人間である以上誤判をするわけであり、公判廷の自白とはいえ事実認定には補強証拠を必要とすべきである。したがって肯定説を支持する。
次に論点となるのが共犯者の自白である。被告人とともに犯罪を犯したと述べる共犯者の供述については、自己の責任を軽減しようとして被告人に責任を転嫁する可能性や、他の者を犯人に仕立て上げるおそれなどのいわゆる巻き込みの危険がある。そこから被告人本人の自白と同様に扱うべきとする見解もあったが@被告人にとっては第三者A反対尋問テストが可能B憲法38条3項の「本人の自白」を重視し自由心証主義の例外を安易に認めないという理由から、被告人の自白と同一視することは出来ないとするのが判例・多数説である。しかし共犯者の自白には常に巻き込みの危険がある。さらに共犯者の自白が本人の自白の補強証拠になることを考えると、本人と共犯者の自白がある場合はお互いの供述を補強して証明力が高まるが、本人の自白がなく共犯者のみの自白の場合の証明力は下がる。そして確かに被告人からすれば共犯者の自白は第三者の自白であり本人の自白とみることはできないが、共犯者の自白のみによって被告人を有罪とするのは人権上の問題があるとしか考えられず、その場合には補強証拠を要求すべきである。
補強証拠の必要な範囲についてであるが、憲法38条3項の自白は犯罪事実についてであるから、犯罪事実についてのみ補強証拠が必要とされている。問題なのは犯罪事実のうちどの部分について補強証拠が必要かは憲法にも刑訴法にも記述がなく問題となる。刑訴法で犯罪事実を認定するためには@刑法の構成要件に該当する犯罪事実の存在Aそれが被告人によって犯されたことの証明が必要とされている。@にいては実行行為・結果・因果関係とういう客観的事実(これを罪体という)と故意・過失・目的等の主観的な事実に大別される。
学説は客観的事実に補強証拠があれば架空の犯罪による処罰を防止することができる上、主観的事実については補強証拠の存在しない場合も少なくないという理由から、主観的事実まで補強証拠を必要とするものではないとする罪体説をとっている。
そして客観的構成要件事実についてどの範囲で補強証拠が必要かの争いとして形式説(罪体説)と実質説の争いがある。判例は実質説をとっており「自白を補強すべき証拠は、必ずしも自白にかかる犯罪組成事実の全部に亘って、もれなく、これを裏付けするものでなければならぬことはなく、自白にかかる事実の真実性を保障し得るものであれば足りる」と考えている。(狭い実質説)これに対して形式説を徹底するは客観的事実すべてにおいて補強証拠を求めることになる。人権保護を強く出せば形式説になるが、形式説は法定証拠主義に近づき、何か1つでも証明が欠けた場合に有罪とできないことになる。判例のとる狭い実質説は人権保護には欠けるが柔軟であり真実発見の要請には答えている。そこから行為無価値、結果無価値の議論同様に両端から歩み寄る形で調和が模索されているため、どちらをとっても実務では差は大きくないと言われている。リーディングケースとなるのが無免許運転における補強の必要な具体的範囲である。最判昭42・12・21刑集21・10・1476は無免許運転の罪について無免許であることへの補強証拠を必要とした。これは実質説から形式説に変わったという判断も出来るが、形式犯である無免許運転には自白だけで罪となってしまうことから無免許運転自体に罪体を求めたと考えられ、実質説をより厳格にした広い実質説とも、形式説からも説明が可能である。
次に伝聞法則の論点について検討する。伝聞法則とは刑訴法320条に規定されている、公判期日外における他の者の供述を内容とする供述(伝聞供述)、および公判期日における供述に代わる書面(供述書および供述録取書)を伝聞証拠といい、このような伝聞証拠の証拠能力を否定する証拠法則をいう。
供述証拠は、供述書の知覚・記憶・表現・叙述という心理過程をたどるため、その過程に誤りがないかどうかを吟味しなければ供述の信用性を確保できない。その信用性を吟味するために、公判での証人尋問では、偽証罪の宣誓がなされ、相手当事者の反対尋問にさらされ、裁判所は供述態度やその状況を通して、供述の信用性を判断する。しかし伝聞証拠の場合は法定外でなされた供述を内容とするため、上記のような公判廷における供述の信用性を吟味する手段が十分に保障されていない。そのため、このような供述の信用性が十分に吟味されていない証拠は、正しい事実を認定するという証拠法則の観点からは、証拠とすることができないのである。しかし全く証拠として使えないというわけではなく、伝聞証拠であっても「必要性」があり「信用性の状況的保障」が認められる場合には例外的に証拠能力が認められるのである。その主軸となるのが刑訴321条であり、本レポートでは講義ともっとも関係の深い1項について検討する。1項を図にすると以下の通りになる。
刑訴321条1項 |
供述不能 |
特信性 |
不可欠 |
裁判官面前調書(1号) |
〇 |
× |
× |
検察官面前調書(2号) |
〇 |
?論点 |
× |
員面調書 (3号) |
〇 |
〇 |
〇 |
証拠能力が認められるためには、伝聞証拠の性格によって要件が異なることが分かる。員面調書は捜査の段階での人権侵害が発生しやすく要件は厳しいものになっているが、裁面調書では証拠への信頼が高いことが分かる。問題は検面調書である。当事者主義と起訴便宜主義の性格を考えれば検察官は被告人を有罪にする相手方となるところ、その性格上、要件を厳しくすべきとする議論がある。同条2号を素直に読めば、要件は「供述不能」or「供述相反性+特信性」と読めるのだが、但書部分が「供述相反性」にのみ掛かるか、「供述不能」まで掛かるのか、また、どう考えるべきかが論点である。人権保護を重視すれば員面調書と同様にすべてに特信性を求めるべきとなるが、真実発見を重視すれば特信性の要件は緩くならざるを得ない。タイ国女性である被告人の退去強制により使われた検面調書について憲法37条2項に違反するとして証拠能力を争った最判平7・6・20刑集49・6・741は「@検察官において当該外国人がいずれも国外に退去させられ公判準備又は公判期日に供述することができなくなることを認識しながら殊更そのような事態を利用しようとした場合A裁判官又は裁判所が当該外国人については証人尋問の決定をしているにもかかわらず強制送還が行われた場合など」検面調書を証拠請求することが手続的正義の観点から公正さを欠くと認められるときには許容されないこともありうるとして、「供述不能」においても証拠能力が否定され得ることをしめした。因みに、特信性とは前の供述を信用すべき特別の状況の存するときにのみ証拠能力が認められることであるが、員面調書や刑訴323条3号の特信性とは異なり、検面調書における特信性は認められやすいのが特徴である。
私個人の意見としては検察の勝訴率99.9%という数字自体に懐疑的であり、当事者主義の性格、人権保護の要請から検面調書も員面調書と同様に常に特信性を要件とすべきと考える。
前述した全ての材料を使って中心となる論点を検討する。人権保護においてもっとも大切な論点は、補強証拠の必要な範囲においての罪体説が主観的事実の補強証拠を必要としていないことにある。さらに主観的超過要素によって罪の軽重が大きく変わる中、その認定には例え自白であっても補強証拠を必要としないため、捜査段階においての警察・検察による無理な取調べ・自白の強要が起こりやすい。起訴後に公判廷で調書と違う証言をした場合に特信性が認められれば、その相反性から伝聞証拠として使われる可能性が高い。それは公判廷での事実認定の際に誤判が起こりやすく人権侵害が起きる可能性が非常に高いということである。
ここで私が数年疑問に思ってきた「結果無価値の方が人権侵害が少ない」という問題に答えが出るのである。結果無価値一元論は主観的超過要素を認めないので、捜査段階で自白の強要の危険が下がるのである。行為無価値を一度は認めた平野龍一が、戦争体験から結果無価値擁護派になったのも頷ける話である。しかし上述で検討したように、現在の刑法の理論から主観的超過要素を全く認めないという選択は無理があり、犯罪論からの人権侵害の防止は難しいと言わざるを得ない。そこで刑事訴訟法に求めることになるのだが、私を悩ませたのは完全犯罪に近い場合である。当初、自白法則を勉強した際には、本人が自白しているのだから判例通りで良いと考えていたのだが、人権保護の要請を考えるととても判例には同意できなくなった。しかし、例えば殺人において、人が居なくなったという事実とその人物を殺したとする自白のみ、または、その共犯者の自白のみが証拠だった場合はどうだろうか。すべてに補強証拠を要求した場合に、仮に自白が真実であったとしても有罪とすることができないとするならば、真実から乖離した結果になってしまい正義と反する結果になってしまう。人権保護を前面に出せば全てに補強証拠を要求すべきだが、真実発見の要請から何かしらの例外を設けるべきことになる。そこで補強証拠に必要な範囲で検討した実質説が有用と考えられる。実質説ならば、完全犯罪に近い場合でもその人物が居なくなったという事実を罪体として補強証拠として使い、自白と合わせて殺人の事実認定ができるのではないかと考えている。その意味では狭い実質説である。補強証拠によって人権のフィルターをかけ、実質説で真実発見の要請に応えるのである。以上のことから現制度に、公判廷の自白、主観的超過要素についても補強証拠を必要とし、補強証拠の必要な範囲は実質説をとるのが有益と考える。
故意について補強証拠を求めないのは、故意については被告人の内心であり補強証拠を求めると真実発見から遠ざかるからである。現在の実務が客観的事実や間接事実の積み重ねにより故意を立証しているわけだが自白や承認があることに越したことはない。自白はやはり証拠の大様なのであり、刑法・刑訴法からのアプローチだけでなく別のアプローチも必要となるであろう。誤判は公判段階で、人権侵害は捜査段階で起きるのが常である。そこで現在注目されているのが捜査段階での可視化である。運用としてはまだまだだが、この可視化により捜査段階での人権侵害の防止を期待したい。誤判については2017年8月分レポート「共謀罪」で検討したように、判決は裁判官の完全なる裁量行為である。
〇結論
検察官・警察による捜査段階での裁量行為と裁判官による公判廷での裁量行為を、人権保護・真実発見の要請のなかで、どのようにバランスをとるかがこれからの司法制度に求められているのである。
結論についてのおまけだが、捜査段階での裁量行為は本来なら法律による行政の原理で縛るべきものであるが、覊束が過ぎると柔軟性に欠け真実発見から遠ざかってしまう。そのため取調べの可視化による防止はかなり有用であるが、公判段階での防止策がないのが現状である。憲法改正を視野にいれて、最高裁判事の罷免権を認めたとしてもその主体は国会になるだろう。すると議院内閣制から総理大臣や与党総裁に大きな力を与えることとなり、権力の暴走は加速し右傾化の危険がある。司法は最後の砦であるべきであり、裁判官の良心に頼るしかない状況であるが、今までの憲法の判決を見るとそうも言ってはいられないのである。若輩者の私見ではあるが、アメリカのような法曹一元制の導入に期待する。
出典
中江先生の頭
増田先生の頭
自分の頭
2年中村太一の頭
参考文献
憲法 芦部信喜
刑法総論・刑法各論 高橋則夫
刑法総論講義・刑法各論講義・刑事訴訟法講義 前田雅英
やさしい刑事訴訟法 安冨 潔
Jurist判例百選 刑法総論・刑法各論・刑事訴訟法
田中慎太郎
裁判とは
学籍番号15J113003
田中 慎太郎
私が考える裁判とは、責任の所在を明らかにし、公平で公正な判決を下す場である。
法律がこの世の中に誕生したのは、今から約4000年前の紀元前1750年頃といわれている。誰しもが一度は聞いたことがあるであろう「目には目を、歯には歯を」で有名なハンムラビ法典だ。このころの法律は決して公平なものとは言えないが、人類は太古の昔から集団の規律を保つために、自らを縛る法律を取り入れ社会秩序の安定を図ろうとしてきた。長い歴史の中で生まれた法律だが未だに数多くの論点がある。なぜこんなにも長い期間にわたって論争がやまないのか、私が思うその理由は、私たち自身が法律に公平で公正な正義を貫くものであってほしいという気持ちが強いからではないかと考えている。だからこそより良い法律とは何なのか、正義とは何なのか、この答えを追求していった結果様々な思想の対立が起き、何百年、何千年と争われているのであろう。
いまだにはっきりとした答えが出ていないと思うが、今回もこの「正義とは何か」について考えながらレポートをまとめたいと思う。
今回は罪を犯した者を厳正に裁く、裁判について考えてみたい。
裁判と聞くと、物事の正・不正を判定する場所、という事がイメージされる。
私自身この考え方はあっていると思い、また客観的に見ても正しいはずである。しかし、何をもって判定するのか、という問題が発生する。
この時に必要になるのが証拠だ。犯人の犯行を裏付ける証拠がなければ、有罪とはなりえない。このことは法定手続の保障について規定した日本国憲法第31条が無罪の推定原則を要求していることや、刑事訴訟法336条が「被告事件が罪とならないとき、又は被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言い渡しをしなければならない。」という条文から解釈できる。よって裁判では犯罪を行った事実がしっかりと証明されることが大事になるはずだ。では誰が刑事訴訟においての証明責任を負うのだろうか?それは検察官だ。
検察官が集めてきた証拠を裁判で使い、裁判官を納得させ、被告人に判決を言い渡すのだ。
その時に使われる証拠に関する規定が設けられている。要するに、集めてきた証拠すべてが使えるわけではないのだ、以下にその要件を記載する。
@
自然的関連性 証拠が証明しようとする事実に対して、必要最小限度の証明力さえも持っていないとき、関連性がないという。関連性のない証拠は、取り調べても無駄であって時間を浪費するにすぎないから、証拠能力が認められない。ただし後述するABの場合と異なり、排除決定を怠っても、判決に影響を判決に影響を及ぼすことはない。
A
法律的関連性 証拠として必要最小限度の証明力はあるが、他方、その証明力の評価を誤らせるおそれもあるものもある。その証明力を確かめるため、法は明文で一定の要件を要求している場合がある。反対尋問、任意性などがこれである。しかし、このような明文がない場合でも、排除すべき場合がある。これらの場合は、法律的に見て関連性がない場合であり、@の自然的関連性と同じではないが、両者は本質的に異なるものではない。
B
証拠禁止 法廷における証明は、適正な手続きによって行わなければならない。したがって、関連性のある証拠でも、これを用いることが、手続きの適正を害すると思われるときは、その証拠は許容されない。証拠の証明力の有無を問わない。違法に取得された証拠がその例である。
↓
違法に取得された証拠の採否
@
手続き違反の程度 これは、適法な手続きからの逸脱の程度、それによって害される利益の重要性、および、その損害の程度などの要素により規定される。
A
手続き違反がなされた状況 例えば、緊急・危急の状況で、法の尊寿が極めて困難であったといったような事情の存否が、ここでは考慮される。
B
手続き違反の有意性 それが計画的になされたものであるのか、その違法性を当然認識し、あるいは、少なくとも認識しなかったとしてもやむを得ないような性質のものであるのか。などが区別される。
C
手続き違反と当該証拠獲得との因果性の程度 例えば、手続きが合法的に行われていたとしたらそれが獲得されていなかったかどうかという事などが、一つの指標となる。ただ、それを全くの抽象的な可能性の問題として考えるときには、手続き的な保障の違反はほとんど等閑視されてしまうことにもなるので、あくまで、実際にもその合法的な手段の利用が可能であったことが、ここで考慮の前提とされなければならない。
D
事実の重大性 基本的には、法定刑の程度や罪質が基準とされようが、より具体的に、個々の事件の特性、それに対する社会的関心の強弱なども考慮に入れられてしかるべきである。
これらの他にも証拠に関する詳細な規定は、刑事訴訟法317条以下に条文が載っている。例えば319条1項は、暴行・脅迫等によって得られた任意でない自白は証拠として用いることを禁止しているし、320条では、公判期日外における他の者の供述を内容とする供述(伝聞の供述)等を証拠として用いることを原則として禁止となっている。
このように、刑事訴訟法では証拠にかかわる様々な法規定を設けることによって、より正確な事実認定を行い、誤判を防ぐことを目的としている。
以上のような要件をクリアし、証拠を証拠として使い、公判廷において取り調べる資格があるかないかを証拠能力の有無という。なお、類似した言葉として証明力(証拠価値)というものがある。これはその証拠が持っている力や強さを表す言葉だ。
例えば、覚せい剤を自身に使用した犯罪の場合、実際に使用している現場を押さえるのは非常に困難なことである。そこで被告人が使用したという証拠を見つけなければならない。この事件で重要になるのが尿検査である。尿の中に覚せい剤の成分が入っていれば、それは使用したという大きな証明力を持つ証拠になるであろう。しかし、この証拠を収集する過程で、警察官が違法なことをやっていた(無令状で、被告人を拘束していた等)場合、尿から覚せい剤成分が出ていて、被告人が覚せい剤を使っていたことは明らかでも、証拠能力がなくなり、裁判ではそのような証拠はないことを前提に進めるので無罪となる。(他に証拠があれば有罪になりえる可能性もある)。
証明力の大きさというのは判決に大きくかかわってくる要素である。高ければ、より被告人の罪を肯定するものになるし、低ければ、無罪になる事もあるかもしれない。
では、どのような証拠が一番証明力を持っているのだろうか。もちろん犯行に使われた凶器等も有力な証拠になりうるだろう。しかし、それ以上に信ぴょう性が高いものがある。
それは「自分がやりました」という自白だろう。(自白法則)
自分が犯行を認めるのであればそれ以上の証明力をもつ証拠もないはずだ。
だが、自白を過大に認めてしまうと、検察官が拷問やいきすぎた尋問により、自白を強要させ、結果として被告人の人権が損なわれる危険性が出てくる。
そこで憲法と、刑事訴訟法に自白に関する規定がある。
憲法38条
一項 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
二項 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く拘留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
三項 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない
刑事訴訟法319条(刑事訴訟法については先ほど触れたので割愛)
これらの条文から、自白を証拠として用いる場合には、その自白を肯定するための証拠が必要になる。それが補強証拠である。
この補強証拠についても、考え方がある。自白以外にいかなる証拠があれば(自白以外の証拠でどこまでの事実を認定できれば)被告人を有罪とし、又は刑罰を科すことができるかというのが、補強証拠の要否の問題であり、裁判例や学説は多岐にわたっている。
犯罪からその主体的側面(被告人と犯罪との結びつき)および主観的側面(故意、目的など)をのぞいた部分、つまり犯罪事実の客観的側面(罪体)について補強証拠を要するとする罪体説が有力である。この点について明言した判例は存在しない。
なお、罪体説の内部においても、犯罪の客観的要素のどこまでを、補強が必要な「罪体」と考えるかについては見解が分かれている。これについては
1 客観的な法益侵害の発生のみを罪体とする見解
2 法益侵害が何者かの犯罪行為によるものであることまで含むとする見解
3 法益侵害が被告人の犯罪行為によるものである(犯人性)ことまで含むとする見解
が対立するが、通説は2をもって足りるとする。
しかし、最終的な判断を下すのは裁判官である。自由心証主義 (証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に任せる。)として裁判官に任せられているのだ。その上で裁判官が合理的に判断するために、判決文における理由、証拠の標目の明記が求められ、被告人の自白だけでは有罪判決を言い渡せない、としている。(自白の補強法則)
今まで述べてきたように自白のみでは有罪にできないと規定しているが
被告人の証拠が自白のみで、公判廷で自白した場合どうなるか憲法38条三項について争った事件がある。
憲法判例「本人の自白」
最高裁判所の見解
憲法第38条第3項には、
「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない」と定めているが、
この規定の趣旨は、一般に自白が往々にして、強制、拷問、脅迫
その他不当な干渉による恐怖と不安の下に、本人の真意と自由意思に反して
なされる場合のあることを考慮した結果、被告人に不利益な証拠が本人の自白である場合には、他に適当なこれを裏書する補強証拠を必要とするものとし、若し自白が被告人に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪の認定を受けることはないとしたものである。
公判廷における被告人の自白は、身体の拘束をうけず、又強制、拷問、脅迫その他不当な干渉を受けることなく、自由の状態において供述されるものであるので、公判廷において被告人は、自己の真意に反してまで軽々しく自白し、真実にあらざる自己に不利益な供述をするようなことはないと見るのが相当で、被告人が虚偽の自白をしたと認められる場合には、その弁護士は直ちに再訊問の方法によってこれを訂正せしめることもできる。
公判廷の自白は、裁判所の面前でなされ、被告人の発言、挙動、顏色、態度並びにこれらの変化等からも、その真実に合するか、否か、又、自発的な任意のものであるか、
否かは、多くの場合において裁判所自ら判断することができる。
裁判所が心証を得なければ、被告人を根掘り葉掘り十分訊問することも可能である。
したがって、「本人の自白」には、公判廷における被告人の自白を含まないと解釈することを相当として、公判廷における被告人の自白のみで犯罪事実の認定ができるとしている。
このように、自白のみで罰することが可能だとしているのだ。
公判廷のみの自白という制限はあるもののそれはいかがなものなのか、という気がしなくもない。確かに公の場での自白なら、他人の干渉は入らないとみてもいいのかもしれない。しかし、それ以前に脅しがあり公判廷で半ば強制的に言わされる、というような危険性も多分にありそうだと私は考えている。それに、被告人が真犯人を庇って嘘の供述をし、真実から遠ざかってしまう場合も考えられるだろう。このことは責任の所在を公にし、公正で公平な判決を、という裁判の本来の目的から大きくかけ離れた結果を導き出してしまうのではと私は思う。
自白のほかの自由心証主義の例外伝聞証拠についても考えてみたいと思う。
まず、伝聞証拠とは何か、これは320条に記載される公判期日における供述に代わる書面または公判期日外における他の者の供述を内容とする供述をいうと考えられている。また、320条が原則としてこのような伝聞証拠についての証拠能力を認めていないことを伝聞法則という。
この伝聞法則の趣旨としては、このような証拠には、その成立において知覚、記憶、表現、叙述という過程があり、この過程で誤りが混入する危険性があるため、公判廷における反対尋問による吟味が必要であるところ、これがなされない場合には証拠能力を認めるべきではないというものに基づくものだ。
この伝聞法則を回避ないしは伝聞法則の適用を受けながら証拠能力を認める方法として、当該証拠が非伝聞証拠であるという考え方と321条以下の伝聞例外に当てはまるとの考え方があり、そして、この前者の考え方をするうえでは、当該証拠によっていかなる事実を立証しようとしているか、つまり立証趣旨との関係を考える必要がある。
実際の判例を見てみる。
本事例において証拠能力の有無が問題となっているのは、甲がVを殺害した事件について、乙が関与していたのではないかという事例の公判において、証人Mがした「乙が甲に『Vは目障りだ』と言っていた」旨の証言である。
さらに、丙の記載したメモには犯行計画らしきものが記載されており、これは乙が逮捕される際に、逮捕に伴う捜索差押により押収されたものである。これについては、「事前共謀の存在および乙の共犯性」という立証趣旨が明示されている。
先に述べたように、伝聞法則による証拠能力の原則否定と伝聞の回避ないし例外という方法を確認したが、Mの証言中、乙が発言した旨の部分に関しては、公判期日外における他の者の供述を内容とする供述として、原則伝聞供述として証拠能力を否定される。しかしながら、仮に立証趣旨を「当該発言が存在したこと」とした場合には、乙による供述の真実性は問題とならないため、伝聞証拠にはあたらず、非伝聞として証拠能力を認めることができると考えられる。これが判例の立場ともいえる。
もっとも、本件のように乙から甲へと伝えられた発言内容がVの殺害意思であると推論する必要がある場合に、供述の存在自体を立証趣旨とするため非伝聞であるとするのは伝聞法則の潜脱ではないかという批判がなされている。この批判によれば、このような場合には、立証趣旨となるのは供述内容の真実性であるとしつつも、原供述がこのような殺害意思を示すような場合、原供述者の内心を述べる供述として、伝聞証拠の成立過程のうち知覚、記憶という誤りの混入する恐れの大きい部分を欠いており、伝聞証拠に当たらないと考え、これを聞いた者の公判期日における供述であれば、その者への反対尋問により状況的信用性を確保する事ができ、伝聞法則は適用されないと考えるべきだとされる。どちらにせよ、結論は同じになるが、立証趣旨の考え方、供述者への反対尋問の確保という要件などが異なり、いずれの立場で論じているかを注意しながら答える必要がある。
犯行計画メモ
次に、丙の記載した犯行計画メモの証拠能力について考えてみる。
本件メモは丙が甲から聞いた犯行計画を記した物であるから、公判期日外の供述をその内容としており伝聞証拠と考えることができる。もっとも、犯行計画メモのような場合には、上記原供述が伝聞証拠とならないことと同様に、メモ作成者の現在の内心を記したものと考えられ、知覚、記憶の過程をへていないと考えられるからである。なお、このような場合であっても、その作成が真摯になされたことが証明される必要がある。
もっとも、このように考えたとしても、それはメモ作成者との関係であって、その内心を立証することを超えて、他の共謀者の内心までも立証することは許されないといえる。これを立証するには、共謀者とメモ作成者との間に共通の意思形成がなされたことが別途立証されなければならず、これが立証されれば、当該メモにより立証される作成者の内心と同じ内心を有していたことを立証することができると考えてよいだろう。
本件メモにおいてこれを考えてみると、立証趣旨は乙の事前共謀および関与とされているが、メモ自体から乙の関与は立証できず、乙の内心の立証はメモ作成者たる丙のそれを超えるものであって、当該立証趣旨との関係では本件メモは伝聞証拠であることを免れず、証拠能力が認められないものと考えられる。
最後に罪を裁くにあたっておそらく一番大事になるであろう。犯人の内心について考えたいと思う。
まず、犯罪とは何か、これは授業で何度もやったが、構成要件に該当し違法で有責な行為の事である。上から順に要件をチェックしていく。よって一番下にある有責性(故意、過失等)は最後にチェックする要件である。しかし、たとえば領得罪。領得罪には不法領得の意思が構成要件に必要と言われている。不法領得とは、支配意思と用益意思だ。これは不法に得たものを、その用法に従い又は、処分する意思によって自分の物のように扱うことが構成要件として必要だといわれている。次にわいせつ罪。わいせつ罪には他人を辱める感情が構成要件として必要になる。この感情が認められないと、強要罪になってしまう。
本来ならば、犯人の内心(有責性)に当たる部分なので、最後に検討するべきはずだ。
しかし、上記の二つの犯罪は構成要件の段階で有責性がチェックされているのだ。(主観的超過要素 主観が違法性を超えて構成要件まで上がってくる)
この問題を考えるうえで必要になる知識が、行為無価値論と結果無価値論の二つである。
(上記二つの問題は授業で何回も検討したので詳しい解説は省く)
行為無価値的に考えるならば、やはり内心の判断が大きくかかわってくるだろう。(いやらしい気持ちがあったのか、処分意思はあったのかなどである。)しかし、被告人しかしりえない内心をいかに判断するのか。その証拠をいかに証拠能力があるもの且つ、証明力が高いものとして扱うのか、このことは大きな問題になると考える。それに裁判官はどう判断するのか、自由心証主義で自由な裁量に任されているといえ、どのような基準を設けて内心について判断するのか、このことは裁判の公平性を保つうえでとても大事な要素になろう。
次に結果無価値的に考えてみよう。結果無価値であるなら、実際に起きた結果があれば、極端な話過程がどうであれ裁くということになるであろう。だが、もちろんこの考え方にも大きな問題がある。これでは著しく加害者の人権が損なわれてしまう。
それに、過失という概念が損なわれ、被害者側に大きなアドバンテージを与える判決になってしまう。これもまた裁判の公平さに対して疑問を持たざるをえない。
最後に、
こんな議論をゼミでした。(先ほど述べたわいせつ罪の構成要件について)
「被害者が辱めを受けたと主張するのであれば、加害者にその意思がなくとも、故意があるとして裁くべきではないのか。」
「いや、誠にその気持ちはなくそれこそ、異性の友達としてふと、接触があった場合にも犯罪を認めるのか。」と、言ったような内容だった。
この議論の中に今回のテーマの難しさが表れているように思う。
被害者と加害者。この二者の主張が一致することは稀だろう。だが、そのために裁判を行い、折衷を測るのも裁判の目的だと考える。そして、だからこそ両者が納得いくよう今まで述べてきたような様々な規定を作り、公正明大なやり取りを行えるようにしているはずだ。しかし、どうしても真実に向けて解明が難しくなる方は、証明する側である。他人の内心を明らかにし、それを決定づける証拠も見つける。このことは非常に難しいはずだ。そして、その結果得をするのは加害者だ。
私の個人的な意見を述べるのならば、被害者の意見を尊重し被害者を保護するべきであると思う。けれども、痴漢の冤罪等の虚偽の被害報告によって、無実の人を容疑者にし、犯人として捕まえるような事例は決して許されない行為であるはずだ。
だからこそ、伝聞や自白等の証拠だけで犯罪の事実認定をするのではなく、補強証拠として何か物的証拠を必ず証明しなければならないのではないかと考える。勿論とても難しい事ではあると思うが、それを明らかにすることこそが裁判であろう。
民事訴訟法の観点からも多少述べておきたかったのですが、やはり時間が足りませんでした。申し訳ありません。
出典 刑事訴訟法入門 著 緑 大輔 Wikipedia
http://info.yoneyamatalk.biz/判例/【憲法判例】憲法38条の「本人の自白」に公法廷/
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會田耕平
裁判とは
統治権の一つである司法権に属し、刑法、刑事訴訟法上の観点からは冤罪を避けつつ罪に応じた刑罰を判定する場
現在における裁判の立ち位置
現在日本は三権分立の体制をとっており、単一の機関への権力集中と、それに起因する権利の濫用を抑止し、司法、行政、立法とそれぞれに権力を区別、分離させて、各権力相互間の抑制、均衡を図っている。しかし、行政権を持つ内閣が最高裁判所長官の指名と各級裁判官の任命を行っている以上、少なからず内閣の思想に沿った者が司法権を持つことになると思われる。また、三権分立を採用している以上司法権の対象は法律上の争訟、つまりは当事者間の具体的な法律関係ないし権利義務の存否に関する争いであり且つ法律を適用することによって終局的に解決できるものに限られるため、司法権の及ばない範囲があり、これは俗に「司法権の限界」と呼ばれるもので、行政の自由裁量行為をはじめとして、内閣が一方的に衆議院を解散させた苫米地事件や日米安保条約に基づく刑事特別法違反であると争われた砂川事件の判例が有名である統治行為、政党が党員を除名処分にしたことが発端である共産党袴田事件が顕著な例となる自律権の範囲、本尊が偽物であることを理由に寄付金の返却を求めた板まんだら事件が例に挙がる団体の内部事項に関する行為。これら等は司法権が及ばないとされている。もちろん自律権や団体の内部事項に関する行為については無制限に適用すれば治外法権の濫立にもつながると思われるので、その範囲については議論の余地が残されている。
刑事裁判に関する原則
現在刑事裁判では自由心象主義がとられている。これは刑事訴訟法318条よりとられており、証拠の持つ証明力を裁判官の裁量にゆだねている。しかしこれには例外があり、証拠には特殊な制限が加えられることで証明力如何以前に証拠能力を失い、判決における影響力を失う場合がある。理由はおおよそにして3つほど考えられている。
一つは自然的関連性。その証拠が当該事実に対して必要最小限度の証明力すら持っていない場合、関連性がないと判断され、証拠能力を認められない。
次に法律的関連性。証拠の中には必要最低限度の証明力を持っている一方で、その評価を誤らせるものもある。その証明力を確認するために、反対尋問や任意制等、法律は明文して一定の要件を要求している場合がある。
最後に手続きの適正を害する証拠の禁止。法廷における証明は適正な手続きによって行われなければならず、関連性のある証拠であっても、それを用いることが手続きの適正を害していると思われた場合、当該証拠の証明力の有無にかかわらずその証拠は許容されない。違法に収集された証拠がその顕著な例である。
もちろんこれらの理由は排他的なものではなく、とりわけ法律的関連性と手続きの適正を害する証拠の禁止は同時に適用されることもあり、また、相互の限界が明白でない場合もある。ただし、それぞれの法律の規定を解釈する場合には、以上3つの異なった観点が存在することを念頭に置かなければならない。
そしてこれらの観点を基に証明力を制限される証拠の一つとして、いわゆる自白法則と呼ばれるものがあり、本人の自白が唯一の不利益な証拠である場合、有罪とはされないものである。憲法38条と刑事訴訟法319条2項を根拠として補強証拠を追加で要求するこれにはいくつかの理由があり、代表的なものは拷問の防止と誤判の防止である。補強証拠さえあれば問題はないが、本人の自白以外に証拠がないケースも当然あり得るため、憲法38条と刑事訴訟法319条の保護がない場合に拷問をもってしてでも自白を得て起訴するという事態が起こりかねない。また、本人の自白だけでは、当人の錯誤や真犯人の隠匿といった事態もあり得るため、充分な信ぴょう性を得ることができないという側面もある。なお、最判昭和23年7月29日判例においては、公判廷における自白が身体の拘束を受けず、また、強制、拷問、脅迫、その他不当な干渉を受けることなく、自由な状態において供述されるものであり、被告人への尋問も十分可能であることを理由に、憲法38条における自白に公判廷での供述は含まれないとした。しかし刑事訴訟法319条2項では「公判廷における自白であると否とを問わず」と明記されているため、当判決は実務的に検察側の負担を軽減する目的が多分に含まれていたのではないかという懸念は残る。なぜならば法律要件分類説により証明責任が分配される民事裁判と違い、刑事裁判において証明責任は全面的に検察側にあり、基本的に民事、刑事に限らず証明責任を持つ側が不利となっている以上、検察側が犯罪を立証しきれないことも多く、その負担の軽減がそのまま起訴率、延いては犯罪抑止につながるからである。付け加えるに共犯の自白についても、当該供述者への尋問が十分に可能である点から憲法38条にいうところの自白には含まれず、また、補強証拠も必要ないとされている。
その他には伝聞法則というものもあり、これは伝聞証拠禁止原則とも呼ばれ、他者から伝え聞いた内容を証拠として扱うことへの是非を問うものである。例えば、「XがYを包丁で殺害したところを見た。」という旨の話をAがしていたとして、それを聞いていたBが法廷で証人として「Aが『XがYを包丁で殺害したところを見た。』と言っていた。」と供述した場合。Bには見間違いや聞き間違い等の不正確な知覚、記憶の混乱、喪失、入れ替え、故意もしくは過失による記憶と供述の不一致等が原供述者のA以上に起きる可能性が高い。それもあって、供述内容の正確性を確認するために現行の刑事訴訟法では、原則として原供述者を公判期日に法廷に出頭させて供述させる制度を採用している。この制度設計により、公判期日内であれば、反対尋問を対立当事者が行えるため供述の正確性を担保することができ、また、証人として宣誓をさせることで、偽証罪による制裁の可能性がある中での証言をさせることができる。その他、裁判所は当該供述が形成される過程や、供述者の供述態度を観察することができるため、供述の証明力を判断する材料として活用することができるといったメリットが存在する。
行為無価値論と結果無価値論
そもそも犯罪とは「構成要件に該当する違法で有責な行為」のことを指す。構成要件とは罪刑法定主義と成文法主義を採用する我が国においては条文に明文された犯罪を成立させるに足る要件を指す。これを判断するのに罪体、つまりは行為から因果関係を経た結果までの一連の事実関係と、構成要件的な故意、過失があり、これに該当すると認められれば次の段階として正当な業務行為ではなかったか。正当防衛ではなかったか。緊急避難ではなかったか。というように違法性が阻却されないかが論ぜられる。そして最後に有責性があるかどうか。すなわち認識なき過失、認識ある過失、未必の故意、確定的故意等や、その他心神喪失、心神耗弱、刑事未成年といった要素が議論され、すべてクリアしてようやく犯罪は成立する。しかし現在はこれにあたって学説の対立がある。行為無価値論と結果無価値論である。ドイツ語からの直訳で多少わかりづらいが、単純化して述べれば行為無価値論とは主観的な内心の意志、行為を重視する考え方であり、結果無価値論とは客観的な事実、結果を重視する考え方である。これら二つの考え方のどちらを採用するかによって判決が変わり得る犯罪がいくつかある。
例えば強要罪と強制わいせつ罪。強制わいせつ罪は刑法176条において「暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした者は、六月以上十年以下の懲役に処する。」とされ、行為無価値論的には刑法は法に違反する意志を罰するものであり、加害者にわいせつな感情がなければ成立せず、強要罪に留まる。一方、結果無価値論的には刑法の存在意義は法益の保護にあり、この場合は被害者の性的自由を侵害した時点で強制わいせつ罪が認められる。余談ではあるが、近しいケースの判例においては最近変更があり、以前は行為無価値的に強要罪とされていたものが、結果無価値的に強制わいせつ罪であるとされた。
例えば窃盗罪。刑法235条によれば「他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、十年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。」とされている。これに限らず強盗、詐欺、恐喝、横領といった、物、利益の移転を特徴とする、いわゆる領得罪については不法領得の意志が成立要件として存在するというのが通説的見解である。これもまた行為無価値的な考え方で、大判大正4年5月21日判例によれば、権利者を排除し他人の物を自己の所有物と同様に、その経済的用法に従いこれを利用し又は処分する意志。つまり支配意志と用益意志を不法領得の意志と定義づけている。故に本来の用途、経済的用法とは異なる用法のために窃取した場合、例えば下着泥棒が盗んだ下着を壁に飾った場合などは、着用という本来の用途とは異なるため不法領得の意志があるとは言えず、無罪ということになる。個人的には壁に飾ることによって精神的な充足感や性的な興奮を促進しているのであれば、世間一般の経済的用法とかけ離れていたとしても本人にとって利益があるため、行為無価値的にも窃盗罪を認めてよいのではないかと考える。無論結果無価値的には被害者の所有権が侵害されているため窃盗罪はなんらの問題もなく成立する。
これら二つの例から読み取れるように、行為無価値論では性的意図、不法領得意志などの内心のものが有責性の部分ではなく主観的超過要素として構成要件に存在しているという特徴がある。
裁判官によってどちらの学説に立つかは異なるため、判決も変わってくる。どちらの論にもメリットとデメリットと根拠があり、学説に決着がついていないため避けられないことではあるのだろう。
まとめ
これまで刑事訴訟法における幾ばくかの法則、原則、そして現状、学説について説明してきた。自白法則をはじめとした原則に共通して言えることは「被告人の人権保護」である。しかしこれは真犯人を正しく罰するという「真実の追及」とは手続法上相反してしまう理念であり、そのため証明力、証拠能力といった概念によってバランスがとられている。冤罪の防止のために必要な証拠を増やし、証拠能力の判定を厳しくすればそれだけ真犯人を逃しやすくなり逆に緩くすれば今度は冤罪が増える。手続法の観点からこのジレンマは避けられないものである為、これを解消するには結局、警察等の捜査能力向上が一番の近道であると考える。
出典
有斐閣 ポケット六法 平成30年度版
有斐閣 刑法総論 山口厚
有斐閣 刑法各論 山口厚
日本評論社 刑事訴訟法入門 緑大輔
有斐閣ストゥディア 民事訴訟法 安西朋子、安達栄司、村上正子、畑宏樹
裁判所ホームページ www.courts.go.jp
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宮城亘汰
裁判とは?
裁判とは、社会の秩序を保つために必要なものである。
・用語的な意味での裁判とは
社会関係における利害の衝突や紛争を解決・調整するために、一定の権威を持つ第三者が下す拘束力のある判定のことである。日本の法令上の用語で裁判は、裁判所又は裁判官がその権限行使として法定の形式で行う判断を「裁判」と呼ぶ。これを形式的意義の裁判といわれ、民事訴訟事件・刑事訴訟事件に限らず、民事執行、民事保全、破産等の非訟事件においても、裁判所の判断は裁判という形式で表示される。
・裁判における判決の出し方
日本の裁判では、証拠が重要となっている証拠裁判主義である。これは、刑事訴訟法317条「事実の認定は、証拠による。」という条文に基づくものである。また、証拠裁判主義であることを前提に、自由心証主義がとられている。自由心証主義とは、「証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる。」という刑事訴訟法第318条に基づくものであり、また、裁判員制度の導入により、裁判員法62条に新たに「証拠の証明力は裁判官及び裁判員の自由な判断に委ねる」とされた原則のことである。つまり、証拠の内容を信用する度合いを裁判官が自由に決められるというものだ。これは、裁判官に対する信頼からくるものである。また、この証明力は、裁判官が証拠能力をもつと認めたものに発生する。
証拠能力とは、刑事訴訟法上では、証拠が厳格な証明の資料として用いられる適格性をいい、公訴犯罪事実、法律上の刑の加重減免事由など刑事責任の存在およびその範囲を決定するのに必要な事実は、証拠能力のある証拠によって証明されなければならないとされている。したがって、証拠能力のない証拠は事実認定の資料とみなされない。このような証拠の取り調べに対して、当事者は異議の申立権を有し、取り調べ済みの場合には排除決定がなされる。また、任意性のない自白、伝聞証拠について証拠能力の制限が設けられている。伝聞証拠とは、被告人の反対尋問の機会にさらされていない供述証拠のことであり、犯行の目撃者から話を聞いただけの別の人間による証言や、犯行の目撃者による供述を記載した調書などがこれにあたる。このような伝聞証拠は、伝聞法則と呼ばれる伝聞証拠禁止の原則によって、証拠能力をもたないとされている。
証拠能力は、民事訴訟法上においても証拠方法として用いうる適格性であるが、現行法は自由心証主義のたてまえを採用しているため、証拠能力についての制限はなく、いかなるものも証拠能力をもつとされている。しかし、例外的に当事者本人が証人になれないなどの制限もある。
このように、刑事訴訟法の証拠能力に制限が設けられているのは、やはり冤罪を防止するためだといえる。刑事裁判の原則である「疑わしきは被告人の利益に」という言葉の通り、裁判では被害者救済よりも、無実の人間を罰してはならないという意味合いが強いのだと思う。これは、刑事訴訟法第336条の「被告事件が罪とならないとき、又は被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない。」という条文にもあるように、推定無罪の原則に通ずる。日本では、裁判が起こった場合、原則として、請求をする者(権利を主張する側)が証明責任を負うことになる。たとえば、事故による損害賠償を請求する場合は、被害者側が、事故によって被った損害と、その事故との因果関係を立証しなければならない。立証できなければ、十分に請求が認められない可能性もある。これを被害者の立場になって考えると、手間もかかり不利であるといえる。しかし、その例外として、痴漢事件などが挙げられる。
・痴漢事件における証明責任
痴漢事件の場合は、被害者の供述以外の物的証拠が少ないため、どうしても被害者の供述が中心となり、その証言を信用する場合が多い。これは供述の証明力を高く扱っているといえる。そのため、被疑者側が無実であることの証明責任を負わなければならない。このように、被疑者側がしなければならない証明は、悪魔の証明とも呼ばれており、痴漢をしていないことの証拠をそろえるのはとても難しいとされている。そのため、被害者と目撃者が共謀した供述をすることで、大阪市営地下鉄御堂筋線痴漢捏ち上げ事件のケースのように簡単に被疑者の身柄が拘束される。大阪市営地下鉄御堂筋線痴漢捏ち上げ事件の場合は、関係者3人の供述が食い違っていたことから、被疑者が虚偽申告であったことを自白したが、痴漢事件は冤罪が起こりやすいといえる。痴漢行為は混雑した車内等で発生するため、単に無関係の乗客が拘束されてしまうということもあるが、これは、被害者保護が行き過ぎたためであるといえる。痴漢冤罪に対する世論の高まりとともに、痴漢被害を主張する者の衣服の指紋の採取、被疑者の指に付着した衣服の繊維や被害者の体液や皮膚の組織などのDNA鑑定等、より先進的かつ客観的な物的証拠が求められるようになり、これらの物的証拠は、起訴段階もしくは審理において重要視されるようになりつつある。
以前、大学の授業で観た『それでもボクはやってない』は、痴漢冤罪を扱った映画である。主人公である被疑者は、無実の罪を被って示談で済ませるという妥協案を拒み、起訴されてしまう、という話の流れだが、やはり痴漢冤罪における反対立証はかなり難しいものであると感じた。しかし、主人公は協力してくれる者らの力を借りながら、無実である証拠をある程度固めることができた。担当していた裁判官も、検察側の立証が不十分であるとの心証を形成していたため、このまま進めば主人公は無罪を勝ち取れていたのかもしれない。だが、この映画では、担当していた裁判官が途中で変わってしまい、新たに担当することとなった裁判官は、検察官寄りの心証を形成していた。このことが影響してか、物語は主人公である被告人が有罪判決を言い渡されるという結末で終わっている。これはまさに、自由心証主義によってもたらされた結果であるといえる。
映画を観て、実際に主人公が痴漢をしていないことを知っている側としての意見でしかないが、こういった裁判官の心証により判決が左右され冤罪が発生するのは気の毒であり、非常に心が痛む。これが自由心証主義の問題点であるといえる。こうした話を聞くと、痴漢事件であっても推定無罪の原則が正しく適用されればいいのに、という気持ちになるが、同時に、被害者が泣き寝入りしなければならないケースが増える可能性もあるため、どちらを重要視するかは一概にはいえない。
やはり、痴漢事件のそもそもの問題点は、物的証拠が少なく、被害者や目撃者の供述が中心になることであるといえる。この問題点を解決するためには、事実を証明する物的証拠を収集しやすくすることが最善であると思う。具体策として、電車に車内防犯カメラを設置することが挙げられる。この策は、山手線など、首都圏を中心に導入されることがニュースにもなっていた。車内防犯カメラの設置は、被害者の救済、冤罪の防止、双方に効果があるといえる。また、犯罪だけに限らず、迷惑行為など、その抑止力にも期待できる。ネットの意見を見ていると、監視社会まっしぐら、プライバシーの侵害、といった反対意見もあるようだが、そういった意見は1割にとどまっており、9割は賛成意見であるようだ。私個人としても、車内ではただ乗車しているだけであり、また、公共の場所であるため、車内防犯カメラの設置は商業施設の防犯カメラとなんら変わりないと思う。よって、プライバシーの侵害には当たらないという考えである。この策は、満員時は効果が期待できないという面もあるが、とくにデメリットはないといえるので、更なる導入を進めていってほしい。
・自白が証拠になりうるか
自白は古くから「証拠の王」といわれ、有罪判決に直接的に結びつく証拠であった。そのため、捜査機関はそれを求めて人権侵害を伴う過酷な取調べを行いがちであり、また、裁判所も自白があることのみによって軽率に有罪判決を下してしまうことが多かった。自白の背景によっては、その自白が任意の自白ではない可能性もあるため、憲法第38条2項により、「強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。」と定められており、不当な自白による冤罪を防止しようとしている。憲法第38条3項では、「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。」と定められている。刑事訴訟法第319条1項にも同様の条文があり、また、「その他任意にされたものでない疑いのある自白は、これを証拠とすることができない。」と規定されている。この規定を自白法則という。自白に関する有名な事件として、足利事件がある。被告人であった菅谷は、取り調べの際に警察や検察から受けた自白の強要によって、無実であるにもかかわらず自白をしてしまった。しかし、自由心証主義の例外である補強法則によって、自白のみでは有罪とはならない。補強法則とは、本人の自白のみで被告人を有罪とすることができず、有罪とするには別に補強証拠を要するとする原則であり、ここでいう補強証拠は、自白以外の証拠のことである。そのため、足利事件では、当時精度の低かったDNA鑑定の結果が補強証拠となって、菅谷に有罪判決が下された。
後に誤判であったとされる足利事件であるが、やはり自白の強要が問題点であると思う。それだけでは有罪にならないとはいえ、検察側に有利な補強証拠をねつ造された場合、たとえ無実であっても強要された自白は証明力の強い証拠となってしまう。そのため、取り調べの可視化が重要となってくる。実際、録音や録画による取り調べの可視化は全国的に進んでおり、殺人事件など、裁判員裁判で扱われるような事件では、ほとんどの取り調べが可視化されている。しかし、一部まだ可視化されていない取り調べもあるようなので、取り調べは全過程の可視化が当たり前ということになってほしいと思う。
・構成要件の要素
刑法の違法性には、結果無価値論と行為無価値論がある。結果無価値論が、違法性の本質が「法的に保護すべき国民の生活利益を不当に侵害した点にある」とし、違法性の実質が「法益侵害」にあるとしているのに対し、行為無価値論は、違法性の本質が「刑法規範の背後にある道徳、倫理などの社会規範に違反する点にある」とし、違法性の本質が「規範違反」にあるとしている。
構成要件の要素は、客観的構成要件要素と、主観的構成要件要素に分けることができる。客観的構成要件要素の具体的内容として、行為性、実行行為、結果、行為と結果の因果関係がある。対して主観的構成要件要素の具体的内容としては、故意又は過失、主観的超過要素がある。主観的超過要素とは、通貨偽造罪における「行使の目的」、強制わいせつ罪における「性的衝動を満足させる心理的傾向」、領得罪における「不法領得の意思」、未遂犯における「既遂の故意」などのことである。前述の行為無価値論であれば、この主観的超過要素が認められ、違法性に影響を与える。他方で、結果的無価値論であれば、主観的超過要素は認められないため、違法性に影響を与えない。この場合、私の考えでは故意を見逃してはいけないと思うので、行為無価値論の立場をとるべきであると思う。結果無価値論であれば、故意のある未遂犯を処罰できないし、また、故意犯と過失犯の違法性に差が無いのはよくないと思ったからである。
また、前述の、行為性、結果、行為と結果の因果関係といった客観的構成要件要素は、罪体と関係する。罪体とは、犯罪が行われた物体のことであり、殺人罪における死体や、放火罪における焼失した家屋などのことである。補強証拠の必要な事実の範囲については、犯罪から被告人と犯罪との結びつきや、故意又は過失といった主観的側面をのぞいた部分、つまり犯罪事実の客観的側面(罪体)について補強証拠を要するとする罪体説が有力とされている。通説では、法益侵害が何者かの犯罪行為によるものであることまでを補強が必要な罪体に含むと考えられている。これは、罪体がなければ自白のみで有罪になることはないので、捜査機関等に架空の犯罪をねつ造されないためにも効果的なのではないかと思う。
ほかにも、証拠が共同被告人、すなわち共犯者の自白しかない場合、その自白に証明力は認められるか、という論点もある。判例では、共同被告人であっても、被告人とは別の人間であるから、その共犯者の証明力は認められている。また、被告人の自白がある場合においても、共犯者の供述を補強証拠として用いてもよいとされている。これによって、被告人と共同被告人の判決に差が生じる可能性もあるが、判決で認められている以上、仕方のないことだと思った。
出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%81%E5%88%A4
http://www.izawa-law.com/blog/2015/05/post-33-73878.html
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https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E7%94%B1%E5%BF%83%E8%A8%BC%E4%B8%BB%E7%BE%A9-77079
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https://www.bengo4.com/c_1009/c_1196/b_218520/
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO28942840T00C18A4TJ1000/
https://www.j-cast.com/2018/05/19329047.html?p=all
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E4%BA%8B%E4%BB%B6
https://www.bengo4.com/c_1018/d_600/
https://www.asahi.com/articles/ASL665D1FL66UTIL046.html
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1474031434
https://kotobank.jp/word/%E4%BC%9D%E8%81%9E%E8%A8%BC%E6%8B%A0-102760
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http://tachibanashobo.co.jp/upload/save_pdf/03151147_56e777afed6c7.pdf
https://blogs.yahoo.co.jp/unyieldingspirit2007/25014593.html