服部友哉

裁判とは何か    17j108005服部友哉

 

自分の結論 裁判官が罪を犯した人に法律を適用して、罪の重さを決めることだと思う。

 

 

キーワード 自由心証主義、証明責任、証明力、証拠能力、自白法則、伝聞法則、補強証拠、主観的超過要素、罪体、共犯

 

 

@    京三鷹バス痴漢事件について

自由心証主義証明責任について私は、上記の事件をテーマについて私の意見を考えた。

自由心証主義とは、裁判所が事実を認定するに際し、証拠資料の範囲や信用性の程度につき、法律上なんら拘束されず自由に判断できる主義のことである。革新的な証拠がなくとも裁判官が、こいつが犯人ではないかと思えたら、有罪にできることである。しかし自由心証主義のことを調べて、私は、犯行を目撃した証人の証言を証拠として、どのくらい信用するのかを、裁判官と裁判員が自由に判断できるという部分に関して、疑問を抱いた。いままで、いろいろなテレビニュースをみてきたが、犯行を目撃した人が、必ずしも、すべて信用できる内容でない場合が、あると私は、考えている。私は、犯行を目撃した人が、正直どこからどこまで信用できるのかに疑問を抱いた。裁判官と裁判員は、もっと目撃情報だけでなく、もっと有力な情報が必要だと思う。自由心証主義に関する事件で、私が思いつく事件として、東京三鷹バス痴漢冤罪事件がその例だと思う。この事件は、最終的に裁判官が女の言い分のみを丸吞みし有罪判決を出した事件が自由心証主義と大きく関わっていると思う。「疑わしきは被告人の利益に」という理念を全く理解してない裁判官が金と名誉のためによくやる最悪の事例が見事に証明された裁判となった。2014715日、東京高裁は女子高生の勘違いと判断した。地裁判決を破棄し無罪を言い渡した。私は、この東京三鷹バス痴漢冤罪事件について、女の言い分だけで、裁判官が全部鵜呑みした行為は、最悪だと思うし、冤罪と男性の暗い将来を歩むことになってしまったことに憤りを感じてしまう。私は、犯行を目撃した人が、必ずしも、すべて信用できる内容でない場合が、あると私は、考えている。私は、すべての事件において犯行を目撃した人が、正直どこからどこまで信用できるのかに疑問を抱いた。裁判官と裁判員は、もっと目撃情報だけでなく、もっと有力な情報が必要だと思う。例えば、東京三鷹バス痴漢事件なら女の言い分だけで決めるのではなく、バスの車載カメラがあったにも関わらず女の言い分だけで有罪判決を出したのか?そして、バスの中には、他にも乗っている客はいなかったのか?なぜ警察は、バスの車載カメラを徹底的に調べなかったのか?そしてそのバスに乗っていた客は何も見ていなかったのか?この東京三鷹バス痴漢冤罪事件の判決に疑問を私は、ずっと抱いてしまう。

犯人を有罪にするときにまだはっきりとした証拠がないと無罪になると私は思う。東京三鷹バス痴漢事件は証明責任を果たさないまま、有罪判決を出してしまっている。私が、痴漢を疑われた、男性の気持ちを考えるとすごく心が痛くなるし、自分も他人ごとではないなと感じてしまう。正直なところ、やはり、痴漢の有罪率は、日本では、約95%を超えるとされている。日本における有罪率推移は、2015年最高裁判所では、96.32%、地方裁判所では99.87%。2016年最高裁判所は、96.29%、地方裁判所は、99.8%である。正直、今の日本は痴漢を疑われたら、ほぼ、証明責任を果たさないまま、有罪になってしまう。ただし、私は悪意がある人は別と考えている。今出した事例は、悪意がなかった人に限る。

A和歌山カレー毒物混入事件

証拠能力証明力について,私は上記の事件をテーマを考察した。。

証拠能力とは、一定の資料が証拠となりうる資格をいう。言い換えれば、証拠調べの対象となりうる資格のことを証拠能力というわけである。刑事訴訟法においては、この証拠能力がきわめて厳格に規律されている。たとえば、伝聞証拠や違法収集証拠などは、原則として証拠能力が認められておらず、証拠として用いることはできないとされている。

これに対し、証明力とは、事実を認定されるための証拠の価値をいう。言い換えれば、証拠が有している事実を認定させるための証拠の価値をいう。言い換えれば、証拠が有している事実を推認させる力のことをいうわけである。この証明力は、裁判官の自由な評価を委ねている(自由心証主義

和歌山毒物カレー事件では、物証が乏しく、被告人も行為を否定している。証拠能力はないが、証明力により、起訴に至った事例であると考える。

 

 

B栃木小1殺害事件について

自白法則補強証拠について、私は上記の事件をテーマについて私の意見を考えた

栃木県日光市で2005年12月に小1の女子児童が連れ去られて殺害された事件の裁判員裁判が宇都宮地裁で始まった。

被告は殺人について全面否認している。

 被告は犯行を自白したり否認したりと供述を変遷させているようで,凶器等の重要な物的証拠が何もないまま,自白の任意性・信用性だけを焦点に判断がなされるようである。

 自白に関しては 自白法則補強証拠という二つのルールがある。

 自白法則とは拷問による自白・脅迫による自白・不当に長期の拘禁後の自白

その他任意性のない自白については証拠にできないというルールである。

今回の事件は重要な物的証拠が無いので自白に任意性がなければ証拠はほとんど無いことになり無罪がほぼ決定した。

これに対して補強証拠 は自白以外に証拠がなければ有罪判決をしてはいけないというルールです 。今回の事件は,重要な物的証拠がほとんど何もなく事件から8年も経過して逮捕されており,この補強法則も問題になるはずなのですが,あまり問題にされていないようである。

私は自白法則について、警察による自白は、自白法則に引っかかると思う。私は自白法則はいらないと思う。メリットとデメリットをあげるとするなら、メリットは、警察官による拷問がなくなるからである。デメリットは、証拠が自白しかないときに有罪にできないこと。一人の犯罪を出すのに、何人もの冤罪者を出すのか、冤罪を防ぐために犯罪者を逃がすのかのバランスが大事であると私は考えている。正直、自白法則については、私は、すごく難しいことだと思う。

補強証拠については被告人本人の供述、つまり危険な証拠は、いくら重ねても補強証拠にはならないと考えている。共犯者の自白も同様であって、自白が危険な証拠であることには変わりはないと考えている。これも補強証拠となりえないと思う。自白の他に補強証拠が要るという法文がこれを示している。それ以外の証拠であれば、証拠能力があり(危険な)自白と相まって要証事実の存在を証明するに足りる一応の証明力ある証拠であれば、直接証拠でなく間接証拠であっても差支えない。また非供述証拠であれば被告人の作ったものと私は考えていいと思う。

他に自分が考えた補強証拠の例として、病人を殺した場合、証拠がない状況において、自白だけでは有罪にはならない。しかし、死体という補強証拠が、ある場合、つじつまが合っている場合、それは補強証拠となり、有罪となりうると私は考える。

 

 

C伝聞法則

判例(最判昭和2749)は、「憲法372項は、裁判所が尋問すべきすべての証人に対して被告人にこれを尋問すべきすべての証人に対して被告人にこれを尋問する機会を充分に与えなければならないことを規定したものであって、被告人にかかる審問の機会を与えない証人の供述には絶対的に証拠能力を認めないとの法意を含むものではない」として、あくまで憲法372項は、直接主義・口頭主義をうたった規定にすぎず、ここにいう「証人」とは、あくまで語義に素直に、公判期日において尋問される証人をいうものと解しています。こう解しても、公判期日外の供述者に対しては、憲法372項後段によって保障されている証人喚問権によって、喚問を請求し、証人すればよいため不都合はない、と考えているのです。このように解すれば、「反対尋問を経ること」は証人審問権に含まれない。

自分が思いつく、例として、ある証人が「AさんがBさんのバックを盗んでいるのを見た。」と言っているのを聞いたと証言したとする。この場合、その証人の証言自体は反対尋問を経ていることになるわけであり、証言は伝聞証拠(=反対尋問を経ていない供述証拠)にあたらないことになってしまうと私は考える。そもそも反対尋問だけで伝聞法則を説明することには無理があると私は考える。例えば被告人の供述書については、3221項全段に規定があって伝聞例外とされてしまっている。この供述書が伝聞証拠にあたる理由を実質説から検討すると反対尋問を経ていないからというわけになるわけになってしまうからであると私は考える。

 

D主観的超過要素

A説:主観的違法要素を認める(行為無価値的)
・行為者の主観は違法性に影響を与える
→同じ事をしているのに、行為者の主観によって違法であったり
違法でなくなったりするのはおかしいと批判されます
・社会規範(≒倫理)に反する行為が違法という行為無価値と親和的
→行為無価値に対する批判もほぼそのまま妥当する
→法益侵害が起きていないのに悪い事を考えただけで違法という
事になりかねないので、国家による倫理の押しつけになりかねない。

B説:主観的違法要素を認めない(結果無価値的)
・違法性の有無は法益侵害の有無という客観的な基準で決する
・行為者の主観は違法性ではなく責任で考慮する。
→目的犯の「目的」や未遂犯の「故意」はどの様に扱うのか?

主観的超過要素という概念を持ち出して問題の解決を試みたんですね。

目的犯の「目的」や未遂犯の「故意」は主観的超過要素として、
例外的に違法性に影響を与えるが、原則として主観は違法性に影響しない。
この様に両説の中間的な説明をしようとしたんですね。

→犯人の故意を問題にしなければ、未遂処罰ができないはずではないのか?
A人種、民族、宗教的、性的、性嗜好などの偏見が、信念、信仰にまでこうじて、差別、迫害、虐殺などに至る例である。

 

私が考える主観的超過要素の例として思い浮かぶのが、わいせつな行為である。性的意図は不要としても、故意論として、わいせつな行為をおこなっていること、わいせつな結果を生じさせていることに対する認識は必要であると私は思う。性的意図を一律に強制わいせつ罪の成立要件とすることは相当では無いとするが、基本的に、主観的構成要件要素として性的意図は一律に要するか要しないかが重要であると私は思う。正直、最高裁の理由付けも私は、曖昧だと思う。性的意図という主観的構成要件要素と、客観的な構成要件要素であるわいせつ行為は別の要件であると私は考えている。

 

 

E罪体

…被告人の公判廷における自白には,憲法上は補強証拠を必要としていないとするのが判例の立場であるが,刑事訴訟法3192項は,憲法の趣旨をさらに拡充して〈公判廷における自白であると否とを問わず,その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には〉有罪にしてはならないと規定した。補強証拠によって証明すべき事実の範囲については,犯罪の客観的側面(罪体)に関して補強が必要であるとする罪体説(形式説)が有力であるが,判例は,補強証拠としては自白にかかる事実の真実性を担保するものであれば足りるとしている。これを実質説という。…

 

では、犯罪を構成する重要部分(罪体)とはいかなるものであろうか?

確かに、誤判のおそれを重視すれば犯罪事実のすべて(客観的側面、主体的側面、主観的側面)について補強を要するとするのが良いように私は思える。しかし、このすべてについて補強を要するのは捜査機関に困難を強いることになるので妥当ではないと私は考える。自白による誤判は、架空の犯行に基づくよりも、多くは犯人を被告人と誤認するところから生じるのであり、犯罪事実の主体的側面(犯人と被告人との結びつき)については自白内容の信用性をより慎重にするべきであると私は考える。

 

F共犯

数人が特定の犯罪構成要件に該当する事実を協力して実現する場合をいう。正犯に対する概念である。刑法は共同正犯 (60) 教唆犯 (61) 従犯 (62) 3種類をとして規定している。後2者は狭義の共犯と呼ばれて共同正犯と区別される。

私が、考える共犯の例として、人間関係が産む冤罪が思いつく。ある日突然、共犯の容疑で逮捕されてしまうことが思い浮かぶ。例えば、Aさんが起こした事件にも関わらず、警察の主張は、「すでに逮捕されたAさんが、Bさんの指示でやったと言っている」という場合は、「共犯」の容疑になってしまいます。私は、いろいろな共犯に関するニュースを見てきて、感じることが、共犯者になる人は、自分の友達や知り合いだったりする場合が多いなと感じている。すでに逮捕されたAさんは、自分の罪を少しでも軽くしようとして、自分は主犯ではなく、Bさんの指示でやったと主張し、警察がその言い分をあっさり信じてしまった結果、何の関係もないBさんが逮捕されてしまうことに私は、Aさんを許すことができないし、何も関係がないBさんの人生が台無しになってしまうことになるので、Aさんの罪を重くするべきだと思う。なぜなら、Aさんは、自分の罪を軽くしようと思って、Bさんを共犯者にしたからである。

 

 

最後に私の裁判に関する意見

裁判とは一般的に検察官が被告人はどんな罪を犯したか裁判官に告げ、その証拠を示すことである。そして、その犯罪の被害の大きさ、犯罪のやり方などを考えると、このくらいの重さの罰がふさわしいと意見を述べることであると思う。逆に、弁護人は、被告人のために、その言い分を裁判官に述べる立場であると私は考えている。例えば、「被告人は本当に犯人ではない。」とか、「軽い罰を与えるべきだ。」ということを主張することであると私は考える。そこで、裁判官は検察官と被告人・弁護人の言い分をよく聞き、判決をすることである。法律に違反する罪を犯した人は、罰を受けなきゃならないし、罰として刑務所に入ることだってあるということだと私は思う。

 

用いた出典資料

https://kotobank.jp/word/自由心証主義-77079

https://ja.yourpedia.org/wiki/東京・三鷹バス痴漢冤罪事件

https://弁護士刑事事件.com/keijijiken_yuzairitsu/

https://kotobank.jp/word/証拠能力-79206

https://kotobank.jp/word/証明力-533452

https://ameblo.jp/deguchilo1997/entry-12134352035.html

https://ja.wikipedia.org/wiki/自白法則

https://ja.wikipedia.org/wiki/補強法則

http://attack-defense.biz/法律/刑事訴訟法/伝聞法則総論/

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1433630724

https://kotobank.jp/word/罪体説-1322822

https://kotobank.jp/word/共犯-53012

 

 

 

 

 

嶋貫芳秋

水曜5限 基礎教養演習

テーマ:裁判とは何か

キーワード:自由心証主義、証明責任、証明力、証拠能力、自白法則、伝聞法則、補強証拠

      主観的超過要素、罪体、共犯

 

結論:裁判とは法治主義にとって必要なファクターではあるが、一概に正義とは限らない。

 

.そもそも裁判とは

 ウィキペディアによると、社会関係における利害の衝突や紛争を解決・調整するために、一定の権威を持つ第三者が下す拘束力のある判定をいう。ここでの社会関係の衝突とは、貸した金を返してくれというものや土地・建物を明け渡してくれといった日常生活から生じたトラブルが話し合いでは解決できない場合に裁判所に判断を委ねる民事訴訟と刑法に違反した者に対し国家が刑罰を科す刑事訴訟と行政事件に関し公権力の行使の適法性などを争い、その取消し・変更などを求める訴訟の3つのことである。どの国家機関によるどのような行為が「裁判」と呼ばれるかは、必ずしも一様ではないが、現代の三権分立が成立した法治国家においては、「裁判」と言うと一般的には、国家司法権を背景に、裁判所が訴訟その他の事件に関して行うもの、を指していることが多い。、だが、裁判と言っても国家機関が行うものとも限られておらず、国家間の紛争については国際裁判所が国際法に基づいて法的拘束力のある判決を下し解決する手続である国際裁判というものもあるとされている。簡潔に言えば、裁判は司法権に属しているため法律上の争訟、当事者間の具体的な法律関係ないし、権利・義務の存否に関する争いを憲法・法律を適用することで最終的に解決する作用である。そして、裁判の前提条件となる学説がある。それは、行為無価値論と結果無価値論のであり、この二つの学説は対立している。一つ目は、現在採用されている行為無価値論である。これは、犯罪を犯す「意思」、「心」に重点をおいて主観重視し、主観的超過要素を認めている。一方の結果無価値論は、引き起こした「結果」に重点をおいて客観直視し、主観的超過要素を認めていない。私は、裁判において必要なのは、裁判官が憲法と法律にのみ拘束され、良心によって判断を下す(憲法763項)ことと、判断に踏み切ることができる決定的な証拠(刑事訴訟法第317条)が必要であると考える。また、現在採用されている行為無価値論は、もし仮に国家権力が「お前には犯罪を犯す心がある」としてしまえば、戦時中に存在した「治安維持法」のように不当な侵害を受ける可能性が少なからずあると考える。こうして、私は、結果無価値論寄りの考え方だが、構成要件のみに該当し、被害者、加害者の気持ちを尊重しないのは、いささか不十分なのでは、と考える。よって結果無価値論を主体として殺人罪などの重大犯罪において行為無価値論との融和案を策定することの必要性があると考える。

2.判決(判断)に至るまでの要素

 上記でも触れたが、裁判には民事訴訟と刑事訴訟と行政訴訟の三つに分けることができる。ここでは、民事訴訟と刑事訴訟について取り上げる。三つの訴訟を判断するのは司法を司る裁判所の裁判官である。日本において現行刑事訴訟法は、証拠裁判主義(317条)とともに自由心証主義が採用されている。これは、裁判官が証拠資料にもとづいて事実認定を行うに際し、自由な判断をもって証拠の証明力の判断を行うことができ、一定の証拠があれば有罪を認定しなければならないとする、法定証拠主義に対となる原則である。ここでの証明力とは、ある証拠がもっている証拠の価値つまりその証拠が立証のテーマに対してもっている証明の力量のことである。ひとえに自由といっても、無制限に自由が許されているわけではなく裁判官の経験法則や論理法則にもとづく内在的な制限が存在する。もちろん、自由心証主義には例外が存在し、自白法則伝聞法則がある。自白法則とは、犯罪事実の重要点や全てを自己で認める供述を偏重する傾向にあり、不当な人権侵害や冤罪を防ぐための規則のことである。また、憲法383項、刑事訴訟法3192項において、唯一の証拠が自白だけの場合、無罪とされ、その自白を補強する証拠(補強証拠)がなければならないとされている。補強証拠は、行為から因果関係、結果の部分(罪体)を補強すれば有罪という罪体説(形式説)と内容でみる実質説に範囲が別れる。伝聞法則とは、公判廷外の供述内容を立証するため、第三者を介し、間接的に書面にした供述調書に証拠能力を否定する考え方のことである。これらの例として共犯をあげようと思う。共犯には、刑法60条〜に定められ正犯、間接正犯、共同正犯、教唆、幇助に分けられる。共犯は二人以上で犯すものであり、仮に、一人は物的証拠と自白があり起訴できたとしても、もう一人の証拠が自白のみや第三者の証言(伝聞)の場合、補強証拠がないため、有罪にはならない。犯罪の構成要件要件を成立させるには、証明責任を果たす必要があり、その証明責任は原告である検察官が一切を負担している。「疑わしきは被告人の利益に」という刑事訴訟の原則であるから、検察官の立証に対し、反証すれば足りえるとする。訴訟方針としては職権探知主義が原則であり、裁判所が判断を下すための証拠資料を自ら収集するというというものである。また、刑事訴訟法317条は、証拠能力が認められ、かつ、公判廷における適法な証拠調べを経た証拠だけで証明を行われなければならないことを定めている。このように、厳格な証明が求められているのは、証拠調べが厳格に行われることで、証拠の適正が保障され、被告人にとって十分な証明の機会が確保されることが憲法37条で規定されているためである。一方で、民事訴訟において、民事訴訟では訴訟方針は弁論主義をとり、証拠資料の提出は当事者の責任であるとし、証拠資料の提出を当事者に委ねている。つまり、主要事実が証拠調べの結果によっても存否不明である場合、これを存在とするか不存在とすることにして判決がされることによる、当事者一方の不利益が生じる。そこで、証明責任の分配は公平であることが必要となる。民法1171項では、「他人の代理人として契約をした者は、自己の代理権を証明することができず、かつ、本人の追認を得ることができなかったときは、相手方に対して履行又は損害賠償の責任を負う。」と定めており、証明責任の所在を明確にしている。例えば、去年の最高裁判決のあったNHK受信料の問題では、テレビを設置した日に遡って請求できるが、証明責任NHK側が果たさなければならない。

3.裁判(司法)には問題点は存在しないのか

 問題の一つ目は、司法権(裁判)の限界である。憲法上、明文化されている限界と国際法上の限界(自由裁量行為、自律権、統治行為、国体の内部事項に関する行為)の二つがある。警察予備隊事件や苫米地事件など判例が出ている。二つ目は、罪なき者が不利益を被る冤罪である。上記、刑事訴訟でも述べたが、自白の強要は憲法38条で禁止されおり、自白法則伝聞法則によって抑止されているだろうが、完全に根絶されているのか。足利事件や富山氷見事件など自白のみで有罪判決を受ける事件がある。これはあくまで氷山の一角で、公にはなっていない自白や伝聞のみで有罪、執行猶予処分も未だにあると推定できる。上記二つは教科書などでよく取り上げられる問題点でもあるが本当にこれだけか、と考えたが私なりにもう一つあるのでは、と思った。それは判例に縛られることである。この問題も取り上げられることはあるが、教科書ではあまり取り上げられない。裁判所法は1947年に成立したが、当時の帝国議会裁判所法案委員会では英米法学者の貴族院議員高柳賢三が、米国では判例集は裁判所外の第三者機関が作成するものであること、裁判所法案は大日本帝国時代の手法を踏襲し英米式を採用していないこと等について、司法省に対し強い反対論を述べている。しかし逆に「裁判所は法律において特に定める権限を有する」ということが裁判所法第3条に定められている。またその後、1998年の改正訴訟法は、ある判決が判例に反する場合は上告等の理由となるとして、判例の拘束性を増大させた。そうであっても、日本は実質的に法典法主義を採用しており、法律制度上はいわゆる判例拘束性の原理を採らない。現行制度は最高裁判所の判例につきその変更は慎重な手続きを設けて、容易に変更が出来ないようにしており、またこれに反する下級審の裁判があったときには法令解釈の違背があるとして取り消すことができる。法令の安定的な解釈と事件を通しての事後的な法令解釈の統一を図るためであり、最高裁判所の判例には後の裁判所の判断に対し拘束力があるものと解釈されている。確かにイギリスやアメリカは判例を法源とし、拘束力は強いが、それは比較的緩やかに判例の変更をすることができるためである。英米と日本ではこのように違うため、矛盾しているように思える。一番問題視すべきは、日本の判例が古いということである。確かに最近の判例はあるが、大正や昭和前期が多い。これでは、技術や考えが変化する時代の流れについていけないのでは、と考える。

まとめ

 したがって、法治主義である我が日本にとって裁判は、国家にとっても、国民にとっても必要なシステムであることに違いない。しかし、一見、一貫性があり、完璧とも思える裁判制度は、憲法・法律の解釈する立場が変わることや対立する学説によって、ひとそれぞれの判決(判断)になってしまう恐れがある。どの解釈が正しく、どの学説が正しく、何が正義か。十人十色の答えがあるはずだ。少なからず私は、全ての判決が正しいとも正義だとも思わない。これを結論としたい。

参考文献

基礎教養演習授業ノート

中江ゼミ勉強会ノート

https://ja.wikipedia.org/wiki/裁判

https://ja.wikipedia.org/wiki/免田事件

https://ja.wikipedia.org/wiki/判例

ポケット六法平成29年版 山下友信・山口厚著 2017年 有斐閣

自由心証主義 庭山英雄著 1978年 学陽書房

憲法第六版 芦部信嬉著 2017年 岩波書店

 

 

 

落合遼

学籍番号 17J108025  名前 落合遼

 

テーマ:裁判とは何か

結論:裁判とは、関わった人の考えを、できるだけうまく一つにまとめるものである。

 

1.         裁判所のはたらき

裁判所は、個人間などの法律的な紛争を解決すること、罪を犯した疑いがある人が有罪か無罪かを判断することにより、国民の権利を守り、国民生活の平穏と安全を保つはたらきをもっている。これを司法という。裁判所で扱う事件には、大きく3つあり、刑事事件、民事事件、行政事件を裁判することができる。さらに、裁判を行うにあたって、正しい裁判を実現するために三審制を採用している。

 

2.         民事裁判と刑事裁判

民事裁判では、当事者が、原告(訴える方)と被告(訴えられる方)に分かれ、人又は法人が原告、被告になる。当事者には、訴訟代理人として弁護士がつくこともあるが、本人が自分だけで裁判手続を行うことも可能である。また、民事裁判は、当事者間での権利義務に関する紛争、例えば、不動産の明渡し、人身損害に対する損害賠償、雇用問題などの民事事件を取り扱っている。

 刑事裁判では、当事者が、検察官(訴える国家機関)と被告人(罪を犯したとして起訴された人又は法人)に分かれる。また、刑事裁判は、人又は法人が、刑法や特別法の刑罰法令に違反して起訴された事件、例えば、窃盗、殺人、交通事故などの刑事事件を取り扱っている。

 

3.         日本の裁判と自由心証主義

日本の裁判は、証拠裁判主義をとっている。これは、民事訴訟法179条、同法247条、さらに刑事訴訟法317条により具現化されている。

自由心証主義とは、訴訟法上の概念であり、証拠裁判主義を前提として提出された証拠の「証明力の評価」は裁判官の自由な判断に委ねるというものである。また、自由心証主義は、民事訴訟法179条と刑事訴訟法318条が根拠条文である。

今回は、刑事訴訟についての自由心証主義について言及する。

刑事事件が起きた場合、犯罪の嫌疑を受けた者に対し、公共の福祉と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現するために刑事訴訟法を用いて、刑事手続を行うことを刑事訴訟という。刑事訴訟における事実認定の証明責任はすべて検察官にあり、この検察官によって提出された証拠は、上記のとおり自由心証主義による裁判官の自由な判断に基づき事実認定される。しかし、自由心証主義には例外が存在しており、自白法則伝聞法則と呼ばれ、2つのうちどちらかが事実認定の際に認められた場合には、証拠能力が否定され、被告人は有罪にはならない。

自白法則とは、憲法382項と刑事訴訟法3191項に規定されており、自白の強要を防止している。さらに、被告人は、自白しか証拠がない場合には有罪とされない(憲法383項、刑訴3192項)ことにおいて、有罪認定に際して自白以外の証拠である補強証拠を同時に求められる。この補強証拠については、議論が交わされている。1つ目の議論は、憲法38条の「本人の自白」に公判廷での証言は含まれているかというものであるが、判例はこれを「開かれた法廷のため拷問の可能性はない」ので事実認定の証拠として証拠能力が認められ、憲法38条の「本人の自白」には含まれないとした。2つ目は、公判廷での自白があった場合に補強証拠は必要かについて議論された。判例は、1つ目の議論と同じ理由で、公判廷の自白だけで足りるので補強証拠は不要であることを明らかにした。また、共犯者の自白があった場合にも、証明力があるとみなされ補強証拠は不要である。(最高裁昭和511028日第一小法廷判決)

伝聞法則とは、憲法37条と刑事訴訟法320条に規定されており、被告人の反対尋問を受ける機会を保障している。そのため、他人の発言を書いただけの調書は証拠にはできない。しかし、刑事訴訟法321条以下には、伝聞証拠であってもこれを証拠とすることができる例外が存在する。特に321条に規定されている裁判官面前調書や検察官面前調書、警察官面前調書が例外として使われることが多い。

 

4.         犯罪とは

まず、犯罪とはどのように判断しているのかについて考える。

犯罪の成立要件は、@構成要件に該当するA違法であるB有責性が認められるという3つに分けられる。構成要件では、構成要件的故意や目的犯の目的、罪体があるかで判断される。違法性では、正当行為や正当防衛、緊急避難により違法性阻却事由があるかについて判断されるが、ここには結果無価値論と行為無価値論という大きな対立が存在する。有責性では、責任的故意や責任能力によって判断される。

 

今回の最大の論点は結果無価値論と行為無価値論の対立にある。

はじめに、結果無価値論と行為無価値論について説明する。結果無価値論とは、刑法の任務を法益保護と解する立場から、法益侵害・危険(これを結果無価値という)の惹起が禁止の対象であり、結果無価値の惹起が違法性の本質であるという見解で、つまり、違法性を結果で判断する立場のことをいう。行為無価値論とは、刑法の任務を社会倫理の保護と解する立場から、あるいはそれを法益保護と解しながらも、行為に対する社会的非難を違法性の評価に加味するべきであるという見解で、つまり、違法性を結果と行為者の内心を評価する(これを主観的超過要素という)立場のことをいう。

ここで何が問題なのかというと、結果無価値論と行為無価値論における主観的超過要素についてである。結果無価値論だけをとった場合、法益侵害の有無という客観的な基準を重視して違法性の有無を判断するため主観的超過要素を認めない。しかし、行為無価値論だけをとった場合、上述したとおり主観的な基準を重視しているため主観的超過要素を認めている。この主観的超過要素という観点から若干の犯罪類型について考えていきたい。

 まずは、目的犯の犯罪における目的が主観的超過要素かが学説上問題とされている。目的犯は、一定目的を有することが成立要件とされている犯罪を指す。学説は、目的の内容が法益侵害行為を行うことにある場合には、この目的は法益侵害の危険の有無・程度に関する主観的超過要素であるとした。例えば、通貨偽造罪(刑法148条)や文書偽造罪(刑法1551項、1591項)における「行使の目的」がこれにあたる。なぜなら、偽造通貨・文書の行使は、通貨・文書の信用性という通貨偽造罪・文書偽造罪の保護法益を害する侵害行為であり、それを行う意思の存在によって、法益侵害の危険が基礎づけられるためである。

 次に、表現犯の内心状態は主観的超過要素かが問題になる。表現犯とは、内心の表現が処罰の対象になる犯罪を指す。これは、偽証罪(刑法169条)における「虚偽の陳述」の意義に関係して議論された。このとき、陳述と内心の記憶との食い違いを「虚偽」と解する主観説では、主観的超過要素が認められ、客観的事実との相違を「虚偽」と解する客観説では、それが否定されている。

最後に、傾向犯の内心の意図が当該犯罪において主観的超過要素と認められ、構成要件要素とされるかが問題となっている。傾向犯とは、行為者の内心の意図ないし傾向を構成要件要素とする犯罪を指す。ここで争われているのが、強制わいせつ罪(刑法176条)であり、同罪において行為者における「性的意図」が構成要件要素であるかが問題とされる。昭和45年の判例は、かつてこれを肯定し、強制わいせつ罪が成立するためには、わいせつ行為が「犯人の性欲を刺戟興奮させまたは満足させるという性的意図」の下に行われることを必要とした(最判昭和45129刑集2411頁)。これは、行為無価値論における主観的超過要素が認められなければ強制わいせつ罪は成立せず、強要罪(刑法223条)が適用されることを意味する。しかし、昭和45年の判決が20171129日の最高裁判決により覆ることとなった。この判決では、今まで強制わいせつ罪の成立に「性欲を満たす意図」が必要だったものが、自己の性欲を刺戟興奮させ満足させる意図の有無な関係なしに、被告人が金銭目的で、客観的に被害者の性的自由を侵害する行為をして、行為者がその旨を認識しているのであれば、強制わいせつ罪が成立することとなった。これは、行為無価値論における主観的超過要素が認められなければ強制わいせつ罪が成立しなかったものが、例外として主観的超過要素がない結果無価値論を用いて、結果無価値の惹起つまり、違法性を結果だけで判断できることを意味する。

このように、現在の日本では、結果無価値の惹起と行為無価値の双方を考慮するという折衷的行為無価値論が多数採られている。裁判官が実務を行う場合においても、この折衷的行為無価値が使われている。

 

5.         私見

以上をふまえて、裁判所で行う裁判にはさまざまな問題があることが分かった。特に最大の論点である結果無価値論と行為無価値論については、自分が裁判の当事者になってみないと本当のことはわからないことが多いと思われる。いまだに結果無価値論と行為無価値論についての議論は続いているので、時の流れによってこれからも形を少しずつ変えていくことは間違いないだろう。個人的な意見を言えば、今はまだ現在の実務で使われているような行為無価値論を中心とした折衷的行為無価値論によって裁判をするのがいいと考える。なぜなら、その方が裁判官によって関わった人の考えをまとめることができるからである。仮に結果無価値論だけで裁判を行うようになれば、結果だけで罪を判断できてしまうので、最終的には裁判官を使わずAIだけで裁判を行うことができるようになる可能性があるのではないか、さらにえん罪が増えてしまうのではないかと考えられる。たしかに悪人を正しく罰することができるのは魅力的であるが、それに対してえん罪のリスクを考えると釣り合わない気がする。この2つのバランスをよく考えて、これから少しずつ裁判を変えていくことが大切である。

このことから私は、裁判とは、関わった人の考えをできるだけうまく一つにまとめるものであり、そのまとめかたは時代によって変えなければならないものだと考える。

〈参考・引用に用いた書籍又はサイト〉

有斐閣 ポケット六法

刑法総論 山口厚

刑事訴訟法判例百選[10]

裁判所ホームページ www.courts.go.jp

中江章浩先生 授業ノート

勉強会ノート

Wikipedia

コトバンク

リラックス法学部 info.yoneyamatalk.biz

https://弁護士刑事事件.com

 

 

 

本間巧人

氏名 本間 巧人

学籍番号17J108026

裁判とは何か

結論

裁判とは法治国家である日本において司法権を行使し、物事の対立を解決できる一番の権利でありながら、訂正しなければならない問題を含んでいる。その問題の一部についてこのレポートでは述べていきたい。

初めに

裁判は適法、違法または権利義務の存否をめぐり争われる事件または訴訟について、第三者機関が法を利用して公権的に判断して解決する手段である。そして、裁判というと一般的には国家の司法権を背景に裁判所が訴訟その他の事件に関して行うものを言う。理論的に概観すると2種類ある。ひとつは、事件の紛争解決し当事者の権利を保護するために、ある「訴訟の目的」(訴訟物)についてなされる実体裁判であり、(その手続的な面については訴訟法の規定に従ってはいるが)この実体裁判というものの内容は実体法の適用によって定まっている。もうひとつは、訴訟手続上のことがらについてなされる裁判であって、この種の裁判は訴訟法だけに依拠しており、実体法とは直接の関連はない。 裁判にはこれら2種がありはするが、裁判制度の肝心な部分は前者の実体裁判である。現代法学では、裁判というのは「事実認定」と「法律の適用」の2段階に分けて論じられている。裁判の場で言う「事実」、判決の基本となる「事実」には、不要証事実と要証事実がある。不要証事実は、裁判所の認定権が排除されているのに対し、要証事実の認定(つまり、主張されていることが本当に起きたのか起きていないのかの真偽を判断すること)は、証拠に基づいて裁判官の自由な心証判断によってなされる※1。これを自由心証主義という。しかし裁判官の自由な心証によって事実認定を決めてよいからとはいえ、全ての恣意的な判断を許すわけではなく、論理法則や経験則に基づく合理的なものではならないとされている。そして同じ自由心証主義でも民訴と刑訴では別々に規定されている。次項では民訴と刑訴の観点から自由心証主義についての疑問や考えを論じていく。

民事訴訟と刑事訴訟

前項で述べた自由心証主義についてだが、民訴上では民事訴訟法247条(裁判所は、判決をするに当たり、口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果をしん酌して、自由な心証により、事実についての主張を真実と認めるべきか否かを判断する)、刑訴上では刑訴318条(証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる)と規定されている。民訴の自由心証主義の内容として証拠方法の無制限や弁論の全趣旨の斟酌、証拠の証拠力の自由な評価を下すことができるというものだ。証拠方法の無制限とは証拠取り調べの対象となるものに原則として制限がない、つまりは証拠能力に原則として制限がないといえる。証拠能力とは証拠を事実認定の資料として用いるための証拠の形式的な資格と定義する。弁論の全趣旨とは、当事者の陳述の態度や証拠提出の時期など、証拠資料以外の審査過程に現れた一切の状況をいう。補助的な心証形成手段であるが、やむを得ない場合はこれだけで(証拠によらずに)事実認定が可能である※2。証拠力の自由評価とは証拠の証明力の評価を裁判官の自由な判断に委ねることである。証明力とは証拠が裁判官に心証を持たす力があるかどうかの実質的価値と定義する。この場合も恣意的な判断ではなく論理法則や経験則に拘束されると考えられる。原則として無制限とされているが以下のような場合は制限がある。

@証拠方法の無制限の例外

ア まず、手続の画一性、迅速性などの要請から証拠方法が制限される場合がある。すなわち、口頭弁論の方式に関する規定の遵守は調書によってのみ証明することができる(160-3)。また、疎明は即時に取調べる事のできる証拠によってしなければならない(188)。そして、手形訴訟においては、証拠調べは訴訟に限られる(352-1

イ 次に違法収集証拠も原則として証拠能力を有するが、人格権侵害や反社会的な手段を伴う証拠収集を防ぐ必要

 そこで、人格権を侵害するような反社会的手段によって得た違法収集証拠には証拠力が認められないと考える

(2)A証拠力の自由評価の例外

ア 文書の形式的証拠力については推定が及ぶので(228-2.4)この場合は証拠力の自由評価が制限を受ける

イ また、当事者が文書提出命令に従わない場合、証明妨害の際に制限を受ける(224-1.2 229-2

(3)B当事者の合意による制限

 証拠契約など、当事者が特定の証拠を提出し無い事を合意したような場合、かかる合意も有効であると解する。なぜなら、弁論主義のもとでは、証拠の提出は当事者にイニシアティブが認められるからである※3※4。

このようにしてみると制限が意外と多いように感じるが民法においての証明責任は原告にある。証明責任とは証明は請求をする者(権利を主張するもの)が負うことと定義する。訴える者が全て自由に(制限を受けずに)証拠を出せてしまえば原告側に有利なように裁判が進んでしまう事案が増えてしまう恐れがあるので制限があることは当然のことだと思う。

刑訴においての自由心証主義の内容として証拠の証明力の評価を裁判官の自由な判断に委ねることを意味するとされている。自由心証主義といっても、刑訴法には裁判の適正を担保するための制度が置かれている。その点におい一番顕著であるのが自白法則である。これは憲法382項(強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない)及び刑訴法3191項(強制、拷問又は脅迫による自白、不当に長く抑留又は拘禁された後の自白その他任意にされたものでない疑のある自白は、これを証拠とすることができない)を根拠条文として、任意性のない自白を排除すべきものとする考えである。自白による罪を立証する場合には補強証拠が必要となる。補強証拠とは自白だけでは罪にならず、それを有罪とするための自白以外の証拠と定義する。この場合刑訴法318条と憲法38条及び319条は矛盾しているのではないかと感じる。これを自由心証主義の例外と言われている。本人の自白だけでは起訴することができないということは判例でも示されている。有名な判例の一つで最高裁421221日の判決がある※5。ここでは憲法383項及び刑訴法3192項を適用し、その判決をした裁判所の公判廷における被告人の自白を含まないとし本件上告を棄却した。ここで補強証拠が必要となるわけだが、補強証拠の範囲や程度については明文が無く、かかる規定趣旨から導くほかないとされている。刑訴法では自白の証明力補強法則により制限している。学説では補強を必要とする範囲については、罪体の全部又はその重要部分とする説が有力となっている。罪体とは、犯罪事実の全体から被告人が犯人であること及び被告人に犯意その他の主観的要素が備わっていたことの2点を除外したものを意味する※6。判例では自白に係る事実の真実性を保証し得るものであれば足りるとして柔軟に判断している。これを実質説という。私はここまでの説明で二つの疑問を感じた。一つは刑訴法318条に319条が矛盾していることはいいのか?二つ目は補強証拠の範囲については自由心証主義が少なからず適用されてしまうが裁判官の心証で補強証拠証明力証拠能力の有無を決めていいのか?ということだ。私は簡潔にまとめると自由心証主義(刑訴法318条)には反対である。裁判の重要な証拠を裁判官の自由な心証で決めていいとは思わない。経験則や論理法則に基づき、恣意的な判断をしないといえ、裁判官も人間である。そこには自分の独断や偏見も介在するであろう。自由心証主義の考え方では証拠評価の面において裁判官が大きな裁量権をもつため、十分な証拠能力を有した証拠が裁判官の心証により不採用になったり、逆に信ぴょう性に乏しい証拠が重要視され冤罪事件が発生するなどの恐れがある。有名な冤罪事件の一つに免田事件がある。この事件では警察が拷問や誘導尋問を行い、アリバイ証人に対し証言を誘導させ、検察側も証拠品を廃棄して裁判を有利に進め、その裁判では死刑が言い渡された(その後の再審で無罪判決が下った)。ここで問題となるのが拷問や誘導尋問によって作られた信ぴょう性の低い証拠を、裁判官の心証により重要な証拠を認定してしまったことにあると私は考えている。痴漢などに冤罪が多いのもこれと同様に証言だけの信ぴょう性の低いものを証拠として採用できてしまうことだと感じる。共犯事件においても双方の意見が食い違う(片方が偽証をしている)場合どちらを証拠能力の高いものとして採用するのであろうか。偽証をしているという証拠があれば正しい判断ができるかもしれない。しかし証拠があがらなかった場合、裁判官の心証に委ねてしまっては間違った方向へ裁判が進んでしまうのではないか。はたしてこの刑訴法318条は正しい判断ができるといえるだろうか?全ての裁判官ができないとは一概には言えないがその逆ですべての裁判官ができるとは思えない。私の意見として、刑訴法318条を廃止して裁判官がもっと客観的な立場から証拠を判断できるシステム、さらには第三者の立場の意見を取り入れられる(ここでの第三者は関係のない者ではなく、有識者や証拠の証明力を判断するうえで打倒だと考えられる人物と定義する)システムを構築するべきではないかと考えられる。裁判官だけに裁量権を与えるのではなく、幅広く証拠を吟味することが証拠の客観性を上げ、証拠の証明力を高めることができるのはないかと思う。さらに私が自由心証主義に反対するもう一つの理由は、裁判官が行為無価値派か結果無価値派で裁判の結論が変わってしまうのではないかと考えられるからである。行為無価値と結果無価値については次項で詳しく述べていきたいが、このようなことから私は自由心証主義に反対である。行為無価値と結果無価値を述べる前に刑訴法について語るにあたり重要になる伝聞法則について述べていきたい。伝聞法則とは刑訴法320条を根拠条文とし、伝聞証拠の証拠能力を否定する法則である。つまり、伝聞証拠は原則として証拠とすることができない。日本では刑事訴訟法にのみこの法則を適用している。供述が伝聞証拠という形で公判廷に提示されるとすると、対立当事者などが(反対)尋問をすることはできない。すなわち、書面に反対尋問をすることはできないし、又聞きの場合には、原供述者の誤りについては反対尋問をすることができない。上記の例で言えば、目撃者の供述に誤りがないかは、目撃者を(反対)尋問しなければ確認する過程を経ることができず、それを聞いたと言う供述者を尋問しても、確かに目撃者がそう言っていたかどうかについては検証することができても、それ以上の検討はできない。したがって、伝聞証拠を証拠とすると事実認定に誤りを生じる可能性が類型的に高いことから、証拠能力を否定して原則これを証拠とすることは出来ない、とするものである。 以上の理論を実定化したものが刑訴法320条である※7。しかしこの法則にも例外がある。例えば刑訴法321条(1.被告人以外の者が作成した供述書又はその者の供述を録取した書面で供述者の署名若しくは押印のあるものは、次に掲げる場合に限り、これを証拠とすることができる。 一,裁判官の面前(第157条の41項に規定する方法による場合を含む。)における供述を録取した書面については、その供述者が死亡、精神若しくは身体の故障、所在不明若しくは国外にいるため公判準備若しくは公判期日において供述することができないとき、又は供述者が公判準備若しくは公判期日において前の供述と異なつた供述をしたとき。二,検察官の面前における供述を録取した書面については、その供述者が死亡、精神若しくは身体の故障、所在不明若しくは国外にいるため公判準備若しくは公判期日において供述することができないとき、又は公判準備若しくは公判期日において前の供述と相反するか若しくは実質的に異なつた供述をしたとき。但し、公判準備又は公判期日における供述よりも前の供述を信用すべき特別の情況の存するときに限る。

3.2号に掲げる書面以外の書面については、供述者が死亡、精神若しくは身体の故障、所在不明又は国外にいるため公判準備又は公判期日において供述することができず、且つ、その供述が犯罪事実の存否の証明に欠くことができないものであるとき。但し、その供述が特に信用すべき情況の下にされたものであるときに限る。

2.被告人以外の者の公判準備若しくは公判期日における供述を録取した書面又は裁判所若しくは裁判官の検証の結果を記載した書面は、前項の規定にかかわらず、これを証拠とすることができる。

3.検察官、検察事務官又は司法警察職員の検証の結果を記載した書面は、その供述者が公判期日において証人として尋問を受け、その真正に作成されたものであることを供述したときは、第1項の規定にかかわらず、これを証拠とすることができる。

4.鑑定の経過及び結果を記載した書面で鑑定人の作成したものについても、前項と同様である。32111号を裁判面前調書(裁面調書)、2号を検察官面前調書(検面調書)という。この規定以外にも例外はあるが、ここまでで伝聞法則の例外は多いという印象をうける。例えば3号の規定によると、公判廷での供述はたとえ伝聞証拠だとしても、証拠として認定できてしまう。伝聞証拠だとしても、公判廷であれば証拠力が上がってしまうのは320条を規定し、伝聞証拠を否定した意味がないのではないかと感じる。公判廷での証言が全て証拠力が高いものだとすると、先ほどの冤罪事件のように検察側の誘導尋問が行われる可能性も疑われる可能性もある。このようなことから伝聞法則の例外を認めすぎてしまうのは良ことだとは一概には言えなくなる。これも自由心証主義の判断する範囲が広いためと言える。ここまでで刑訴法の問題点を述べたが、次項ではもう一つの問題定義として、行為無価値と結果無価値について述べていきたいと思う。

行為無価値と結果無価値

行為無価値と結果無価値を論じるにあたり、まず自分がどちら側の意見から論じていくかだが、私は行為無価値寄りの意見で論じていきたい。行為無価値と結果無価値の最大の違いは主観的超過要素を認めるか、否かである。行為無価値は主観的超過要素を認め、結果無価値はこれを認めていない。つまり行為無価値は主観的な立場を、結果無価値は客観的な立場を違法性の判断基準として組み立てていくことになるということだ。結果無価値を支える考えとして、刑法と道徳は区別するべき、倫理的考慮は排除すべきである。しかし私は行為無価値の立場からでも刑法と道徳の区別は可能であると考える。私が行為無価値の方が優れた考えである最大の要因は法益の保護を目的とした行為規範の違反行為を違法の対象にできること、つまり罪刑法定主義を根拠として行為の時点で違法であるかどうかの行為規範を示すことができ、犯罪の抑止力になりうるのではないかと考えることができる。これが行為無価値のメリットのひとつであるといえる。もちろん結果無価値にもメリットはある。結果無価値は客観的な立場から犯罪を見て、事後の結果で違法か、適法かを判断する。つまり違法判断を明確なものとすることができる。前項までに述べた自由心証主義の問題点から考えれば私は結果無意味的派ではないかと感じると思う。しかしそうではない。なぜ私が行為無価値のほうが良いと感じるかについて例を出して述べていきたい。例えば窃盗罪における不法領得の意思を採用できるからである。私は窃盗罪の構成要件として不法領得の意思を要求することに賛成であり、判例もまた窃盗罪の成立に不法領得の意思が必要であることを明言している。しかし客観的な立場から結果を違法性の判断基準とし、主観的超過要素を認めない結果無価値の考え方では主観的要件である意思を問題であるとする不法領得の意思を罰することはできないのではないだろうか?このように主観を重要視しなければならない時が刑法において少なからずあると思う。もちろん行為無価値に問題はある。現在の法律において犯罪の成立要件には構成要件、違法性、有責の三つが必要である。言い換えれば犯罪の成立には三段階の要素をすべて満たさなければいけない。行為無価値もこの考え方に賛成しているが、三段階の要素を満たしてはじめて犯罪が成立するということは、逆に三段階の要素のどれかに当てはまらなければ犯罪は成立しなければいけない。つまり犯罪の成立の幅が狭まるということになる。疑わしきは罰せずという言葉があるが、この考えが必ずしも正しいとは言い切れないと私は感じる。その点結果無価値は犯罪の根拠を明確化しているので犯罪の成立が行為無価値よりはっきりしていて優れていると感じる。なのでこの項の締めくくりとして私は行為無価値の考えを軸とした結果無価値との融和の発想が一番正しい刑法の考え方、裁判の基礎として優れている考えになるのではないかと感じている。

 

まとめ

裁判官の心証に委ねた裁判は裁判官次第で判決が大きく変わってしまうため正しい判決が必ずしも執行されるという保証がないので問題があるといえる。裁判官が行為無価値的な考えであるか、結果無価値的な考え方で証拠が裁判官に与える証明力が変わってくると思う。一人に与える裁量権が大きいと心証の大小の差が大きくなり、結果冤罪などの可能性が大きくなるのが今の裁判の問題の一つの例ではないかと私は感じている。

 

引用・出典

 

※1 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%81%E5%88%A4

※2

※3https://blog.goo.ne.jp/minority-m/e/3d9b28e0132547b83cbec8b9e57ac6c3

※4カッコ内はすべて民事訴訟法

※5http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=50870

※6https://www.bengo4.com/c_1018/d_600/

 

※7

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E8%81%9E%E8%A8%BC%E6%8B%A0%E7%A6%81%E6%AD%A2%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%89%87

レポート内の条文はポケット六法より引用

他授業ノートや勉強会を参考にさせていただきました

 

 

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小山内天海

・裁判とは何か

私は裁判とは「悪いことをした人間、法を犯した者を、正義に基づいて公平に、公正に裁き、罰を与えるもの」だと考える。

では誰が悪人を裁くのだろうか。それはもちろん裁判官である。

自由心証主義とは

日本の裁判はいわゆる証拠裁判主義を採っている。これは、民事訴訟法179条、247条、刑事訴訟法317条により具現化されている。

自由心証主義とは、この証拠裁判主義を前提として、提出された証拠の「証明力の評価」は判断権者である裁判官(裁判員裁判制度の下では更に裁判員)の自由に任せられるというものです。とはいえ、「無限定な評価」ではなく、論理則や経験則には縛られます。簡単に言えば、「常識的な評価」を外れることはできません。この「常識的な評価」を外れると、「判決に影響を及ぼす法令の違反」として取り扱われ、(民事であれ刑事であれ)上告受理事由・事件受理事由になると考えられています(民訴法3251項、刑訴法4111号)。控訴理由になることももちろんです。なお、自由心証主義は民訴法247条、刑訴法318条が根拠規定となります。

(引用文:https://ameblo.jp/jurisdr/entry-11395526057.html

【民訴法第247条:裁判所は、判決をするに当たり、口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果をしん酌して、自由な心証により、事実についての主張を真実と認めるべきか否かを判断する

刑訴法第318条:証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる。】

自由心証主義とは以上のように、証明の度合いが80%でも、裁判官が確信すれば事実認定ができるというものである。しかし、全てがこれに当てはまるわけではない。

自白原則(憲法38条)、伝聞原則(憲法37条)がこれの例外となる。

【第38条:@何人も、自己に不利益な供述を強要されない。

A強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。

B何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。

37条:@すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受 ける権利を有する。

A刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。

B刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する。】

 

自白原則とは、自己に不利益な唯一の証拠が自白のみでは証拠として認めないものであり、この場合補強証拠が必要となる。

これは憲法38条において、取り調べにおける拷問の防止を目的としたものである。

伝聞原則とは、反対尋問できないものは証拠にできないとするものである。これは憲法37条において、反対尋問を保証するものであり、他人の発言を書いただけの書類も証拠にできる。しかしここでは調査は証拠にすることができない。

なお、裁面調書・検面調書・員面調書は調査の例外とされている。

通説では、公判廷での被告人の自白・共犯者の自白は証拠として含まれ、補強証拠の範囲は罪体説を採っている。

 

例えば防犯カメラがないような時代だとする。そこで3人の外国人が相談して無賃乗車をする。Aが実行に移す。しかし失敗。BCは検察官の調べで「Aがやったのを見た」と供述。そのご二人は国外退去に。一方Aは黙秘を続ける。

この場合Aは有罪になるのかどうかだが、自由心証主義によって有罪とすることができる。

1.公判廷での被告人の自白は、自白原則(憲法38条)により証拠能力がないとされ、認められない。

2.次に共犯者の自白は、検面調書により証拠能力はあるものの、補強証拠としては不十分である。

刑事訴訟法第321条1項2号

被告人以外の者が作成した供述書又はその者の供述を録取した書面で供述者の署名若しくは押印のあるものは、次に掲げる場合に限り、これを証拠とすることができる。

検察官の面前における供述を録取した書面については、その供述者が死亡、精神若しくは身体の故障、所在不明若しくは国外にいるため公判準備若しくは公判期日において供述することができないとき、又は公判準備若しくは公判期日において前の供述と相反するか若しくは実質的に異なった供述をしたとき。但し、公判準備又は公判期日における供述よりも前の供述を信用すべき特別の情況の存するときに限る。

刑訴では、証明責任は全て検察官にある。

これにより、今回の共犯者の自白は証拠能力を持つ。

.裁判官は罪体説ではなく実質説を採り、自白が真実性を担保する程度の事実に補強証拠が足りるとして、Aを有罪とする。この場合の補強証拠とは、共犯者であるCB

以上のようにして、Aを有罪とすることができる。

 

 

 

罪体説と実質説について

自白について補強を要するとして、どの範囲まで補強を要するか。明文規定がないため問題となる。

この点、判例は自白の真実性を担保する程度の事実に補強証拠があれば足りるとしている(実質説)。

しかし、そもそも補強法則の趣旨は自白偏重による誤判を防止するため、わざわざ裁判官の事実認定を拘束したものである。それを自白の真実性の担保の有無を裁判官自身が判断するのでは、何のために事実認定を拘束したのか分からない。補強法則の趣旨が没却されてしまう。

そこで、裁判所の認定基準を明確化し恣意的な判断を防止する観点から、犯罪を構成する重要部分(罪体)について補強証拠を必要とすると解するべきである(形式説・罪体説)。

(引用文:http://ww2.tiki.ne.jp/~tanaka-y/note/keiso94.htm

 

罪体とは、犯罪を構成する重要部分、つまりは犯罪事実のすべて(客観的側面、主体的側面、主観的側面)である。

しかしこれらすべての補強は困難であり、妥当ではない。

 

少なくとも罪体とは犯罪事実の客観的側面(何人かによる被害の発生という客観的側面)についての補強が必要であるとするのが、基準の明確性という点で妥当と考える。

(引用文:http://ww2.tiki.ne.jp/~tanaka-y/note/keiso94.htm  )

 

通説ではこれを採っているうえで、公判廷での被告人の自白、共犯者の自白も認めている。

 

補強証拠の範囲について罪体説を採る以上、自白の証明力とは一応区別し、補強証拠自体で一応の証明力を有する必要があると解するべきである。

(引用文:http://ww2.tiki.ne.jp/~tanaka-y/note/keiso94.htm  )

 

次に主観的超過要素について考える

まず初めに、主観的超過要素とは、

主観に対応する客観面がない主観的要素のことである。

・不法領得の意思

・目的範における目的

・傾向犯における傾向(強制わいせつ罪の判例を参照)

不法領得の意思とは、窃盗などの財産領得罪につき、故意のほかの構成要件として必要とされている要素を意味する。

不法領得の意思に関してはその要否に関し、論点が置かれるが、判例・通説ではこれを認めている。

不法領得の意思とは、

@権利者を排除して他人のものを自己の所有物として振る舞い、

Aその経済的用法に従い利用又は処分する意思を意味する。

つまり、

@本来の権利者を追い払い、自分がさも権利者かの如く振る舞い、

Aその物の本来の用法にしたがって利用もしくは処分することである。

(引用文:https://www.bengo4.com/c_1009/c_1207/d_7068/

条文では不法領得の意思が必要であるということは一切出てこないにもかかわらず、判例は一貫して不法領得の意思を必要としている。

なぜか。理由は、窃盗罪と使用窃盗及び毀棄隠匿罪を区別する必要性があるからだ。

例えば、隣の席の人の消しゴムを後で返すこと前提で一瞬だけ貸してもらうという場合、

短時間だけ他人のものを使うという使用窃盗は不可罰であるとされている。

このような、不可別の使用窃盗と可罰的な窃盗罪とを区別するために判例は不法領得の意思を必要としている。

(参考:http://tarosyun.com/archives/2812654.html  )

 

では次に、強制わいせつ罪の判例を見てみる。

2017年に強制わいせつ罪の判例変更が、47年ぶりにされた。

従来の判例は以下のものだった。

 

昭和421226

【判示事項】

専ら報復または侮辱虐待の目的をもつて婦女を脅迫し裸にして撮影する行為と強制わいせつ罪の成否

【裁判要旨】

強制わいせつ罪が成立するためには、その行為が犯人の性欲を刺戟興奮させまたは満足させるという性的意図のもとに行なわれることを要し、婦女を脅迫し裸にして、その立っているところを撮影する行為であっても、これが専らその婦女に報復し、または、これを侮辱し、虐待する目的に出たときは、強要罪その他の罪を構成するのは格別、強制わいせつの罪は成立しない。 (参照法条:刑法176条)

刑法第176条:13歳以上の者に対し、暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした者は、6月以上10年以下の懲役に処する。13歳未満の者に対し、わいせつな行為をした者も、同様とする。

(引用文:http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=50924  )

ここでは、強制わいせつ罪の成立には「性欲を満たす意図」が必要とされている。

主観を重視し、主観的超過要素を認める行為無価値論で考えられ、結果は無罪となった。

 

しかし2017年の事件では、この判例の考え方を覆し、強制わいせつ罪を成立させた。

概要はこうだ以下のとおりである。

 

被告の甲府市の男(39)は平成27年1月に13歳未満の女児の体を触り、裸を撮影したとして、強制わいせつと児童買春・ポルノ禁止法違反罪に問われた。被告は、知人から金を借りる条件としてわいせつな行為を撮影した画像を送るよう要求されただけで、性的な意図はなかったと主張した。

(引用文:https://弁護士刑事事件.com/kyouseiwaisetsu_hanrei/#i-17  )

 

従来であれば上記のように行為無価値論で考えられ無罪にできるはずだったが、最高裁大法廷では、性的意図がなくても罪が成立するとの考えを示し、裁判官15人全員の一致した意見となった。

これは主観的超過要素を認めず、客観を重視した結果無価値論の考えである。

行為者に性的意図がなかったとしても、客観的に明らかなものだとして有罪判決を下した。つまり、行為者の性的意図の有無が、強制わいせつ罪の成立に影響を及ぼさないようになったのである。

 

自由心証主義は裁判官に対する国民の信頼から成り立っており、その信頼に基づき、事件に対して自らの正義に従い判決に臨むことが重要であると私は考える。

故に私は、裁判とは、「悪いことをした人間、法を犯した者を、正義に基づいて公平に、公正に裁き、罰を与えるものだと考える。」

 

 

 

 

松澤大輔

裁判とは何か

 

 

私は裁判とは、裁判官、裁判員が、検察官、弁護士らの書面や答弁などの証拠を聞き、それを踏まえて事件について被告人に対し有罪か無罪かの判決を下す場所であると考える。

 

1.  はじめに

現在の日本では、国会(立法府)、内閣(行政府)、裁判所(司法府)の3つからなる三権分立の制度を採用しており、そのなかで裁判所は司法権を行使している。(憲法76条)ただ、裁判所の審査権には範囲があり、裁判所の審査権は法律上の争訟にあてはまらないものには及ばないとされている。法律上の争訟とは、「判例は、「法律上の争訟」の意味について、@当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否(刑罰権の存否を含む)に関する紛争であって(したがって、裁判所の救済を求めるには、原則として自己の権利または法律によって保護される利益の侵害という要件が必要とされる)、かつ、Aそれが法律を適用することにより終局的に解決することができるものに限られる、と説明している。」[注1]裁判所は司法権を用いて裁判をおこなうが、なぜ、裁判所の審査権が及ばないのか。またそういった事件とはどういうものなのか。

 

2.司法権の限界

原則として裁判所は法律上の争訟を裁判するが例外がある。その例外を司法権の限界という。司法権の限界とは、法律上の争訟として司法権の範囲に含まれても、裁判所が審査しないもので、1.憲法の明文上の限界、2.国際法上の限界、3.憲法の解釈上の限界、があり、さらに憲法の解釈上の限界を細かく分類すると自立権に関する行為、自由裁量に関する行為、統治行為、部分社会の法理に分けられる。まず、憲法の明文上の限界には憲法55条(資格訴訟の裁判)や、憲法64条(弾劾裁判所)がある。憲法55条は「両議院は、各々その議員の資格に関する争訟を裁判する。但し、議員の議席を失はせるには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする。」[注2]、憲法64条は、「国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける。」[注3]以上のことから、どちらも裁判所の審査権は及ばない。次に国際法上の限界には、治外法権や条約による裁判権の制限がある。例えば外国人の外交官が日本で犯罪をおかした場合、争訟事件となり司法権の範囲となるが、外交官には治外法権が認められているため、この外国人外交官には日本の裁判所で裁判することができない。最後に憲法の解釈上の限界は、細かく分類して4つに分けられ、自立権に関する行為の「自立権」とは「他の機関からの圧迫や干渉を加えられずに自主的に決定できる権能のこと」[注4]であり、これに関連する判例に警察法改正無効事件があげられる。警察法改正無効事件とは、「昭和二九年に成立した新警察法は、その審議にあたり、野党議員の強硬な反対のため、議場混乱のまま可決されたものとされたが、その議決が無効ではないかが争われた。最高裁は、警察法が「両院において議決を経たものとされ適法な手続きによって交付されている以上、裁判所は両院の自主性を尊重すべく同法制定の議事手続きに関する・・・事実を審理してその有効無効を判断すべきでない」と判示した」[注5]、裁判所は議院の自律権を尊重して審査できないと解した。つぎに自由裁量行為がある。自由裁量行為とはその裁量を著しく逸脱したり著しく濫用したりしない限り、裁判の対象にならない。例えば国務大臣の任免権(68条)や総理大臣による国務大臣の訴追の同意などがあり、任免された国務大臣は任免されたことに不服として訴えを起こすことができないとされている。3つ目の「統治行為」とは、「一般に、「直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為」で、法律上の争訟として裁判所による法律的な判断が理論的には可能であるのに、事柄の性質上、司法審査の対象から除外される行為を言い、アメリカでは政治問題と呼ばれる。」[注6]これに関連する判例として苫米地事件があげられる。苫米地事件とは、「衆議院議員苫米地義三が、一九五二年八月二八日のいわゆる抜き打ち解散の効力につき、@解散は憲法六九条にいう内閣不信任決議を前提とすべきであるのに右解散は七条を根拠に行われたこと、A右解散の決定には適法な閣議を欠いていたこと、を理由として争った事件。最高裁は、衆議院の解散が統治行為に当たるとし、この「司法権に対する制約は、結局、三権分立の原理に由来し、当該国家行為の高度の政治性、裁判所の司法機関としての性格、裁判に必然的に随伴する手続上の制約等にかんがみ、特定の明文による限定はないけれども、司法権の憲法上の本質に内在する制約と理解すべきものである」と判示した。」[注7]つまり、最高裁は衆議院解散といった統治行為に裁判所の審査権は及ばないとした。最後の部分社会の法理の「部分社会」とは、一般の市民社会の秩序とは直接関連しない団体のことで、地方議会や大学などといったものです。こうした部分社会の内部的な紛争には裁判所の審査権は及ばない。例えば、地方議会議員の懲罰処分や政党の党員の除名処分、大学の単位不認定などは裁判所の審査権には及ばない。ここをまとめると司法権は法律上の争訟にあてはまらないものに裁判所の審査権は及ばず、司法権の限界は主に3つに分けられ、また憲法の解釈上の限界を細かく分類すると4つに分けられることが分かる。

 

3.裁判においての証拠と共犯の証明について

裁判を行うにあたり、証拠とは被告人に判決を下す際に必要となる重要な材料であり、その証拠の証明力は刑事訴訟法318条自由心証主義が該当する。自由心証主義(刑事訴訟法318条)とは、「証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる」[注8]と記されているが、逆に言えば、裁判官が確信できれば、例えその事実がなかったとしても、その事実はあったことにしてもよいということになる。また自由心証主義の例外として自白法則(憲法38条3項)と伝聞法則(憲法37条)がある。憲法38条3項は「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。」[注9]とあり、つまり、自白が唯一の証拠の時は、無罪となる。また自白法則には被告人に対する拷問防止の意味を有している。なお、判例では、被告人の公判廷での証言は開かれた法廷での拷問の可能性になるため、本人の自白は証言には含まれず、補強証拠は不要である。補強証拠によって証明すべき事実の範囲は犯罪の罪体に関して補強が必要とする罪体説が有力であるが、判例は、補強証拠としては自白にかかる事実の真実性を担保するものであれば足りるとしている(実質説)。また、自白だけでは証明力の価値はないとされるため、自由心証主義自白法則は矛盾しているとも言われている。そのことから自由心証主義の例外とされている。憲法37条は「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。」[注10]とあり、反対尋問保障の意味を有している。伝聞法則は伝聞証拠禁止の原則とも呼ばれており、伝聞証拠の証拠能力を否定する訴訟法上の原則という意味。これにより、伝聞証拠は原則として証拠にすることができない。(刑事訴訟法320条)さらに、この原則は日本法では刑事訴訟のみに認められる。また、事実の認定を証拠に基づいて行うとき、証拠の取り調べの結果から事実の存否を確定することができないことがある。しかし、被告人は憲法37条により、裁判を受ける権利が認められていることから裁判所は真偽不明を理由に裁判を拒否することができず、結論を出さなければならない。そこで証明責任が用いられる。証明責任は、「ある事実が真偽不明であるときに、その事実を要件(前提)とする自己に有利な法律上の効果が認められないことによる不利益をいう。証明責任の問題はある事実が真偽不明となった際の不利益の負担という裁判問題である。」[注11]証明責任を誰に負担するかという問題を証明責任の分配といい、民事訴訟と刑事訴訟とで考え方が異なる。民事訴訟では実体法を基準に自己に有利な効果を発生させることを主張している者が原則として証明責任を負い、刑事訴訟では「疑わしきは罰せず」という法原則に基づき原則として検察官が証明責任を負う。また、共犯に関する事件の場合の証拠も共犯関係にある者(ここでは仮にXYとする)と考えられるとき、Xが「Yと二人でやった」といった場合、その言はYにとって第三者の供述なのか、それとも共犯者の自白になるかが問題になる。もし第三者の供述であれば、補強証拠は不要となり、共犯者の自白であれば、補強証拠が必要となる。共犯は必要的共犯と任意的共犯の2つに分けられ、任意的共犯には共同正犯、教唆犯、幇助犯の3つが属している。これらを広義の共犯といい、特に教唆犯と幇助犯の2つのみを狭義の共犯という。広義の共犯である共同正犯(刑法60条)は「二人以上共同して、犯罪を実行したものは、すべて正犯とする。」[注12]ことであり、狭義の共犯である教唆(61条)とは「人を教唆して犯罪を実行した者には、正犯の刑を科する。」[注13]、幇助(刑法62条)とは、「一項 正犯を幇助した者は、従犯とする。二項 従犯を教唆した者には、従犯の計を科する。」[注14]という意味がある。構成要件段階における共同正犯の成立には、各人の構成要件的故意または構成要件的過失と「共同して犯罪を実行した」ことが必要である。犯罪の成立要件において、故意・過失は、一般的主観要素とも呼ばれ、犯罪の成立にはこのいずれかが必要となる。一方、特別に一定の目的を必要とするものもあり、このような犯罪の成立には通常の故意・過失を超えた特別の意欲が必要となる。これを主観的超過要素と呼ばれる。主観的超過要素は、故意・過失を責任要素として構成要件に含まれない見解においても、含まれるとする見解が多数となっている。以上のことから、証拠は自由心証主義により裁判官に委ねられるが、例外もあり、また共犯共犯者の自白だった場合は補強証拠を必要とする。犯罪の成立要件は一般的には故意・過失だが、中には通常の故意・過失を超える意欲がある主観的超過要素があることがわかる。

 

4.私見

このように見ていくと、三権分立の一つである裁判所(司法権)は一見ほとんどの事件に対する判決を行うと思われていたが、実際は司法権には範囲・限界があり、裁判所の審査権に及ばない。また自由心証主義により、証拠の証明力は裁判官次第ということもあり、もしかしたら冤罪となってしまう事件も出る可能性もありえる。共犯の場合も共犯者の片方の証拠が見つかったが、もう片方の証拠が見つからなかった場合、その証拠が見つからなかった人は無罪になってしまうのか、など法律はとても広いため、どこかに抜け穴がある可能性も今後あり得てくると思われるので、早急な対応が必要になると私は思う。

 

5.まとめ

したがって、裁判とは、事件の判決を下す場所ではあるが、司法権の範囲・限界があるため、裁判所では対応できない事件もある。

 

 

 

 

〈レポートに用いた参考文献〉

・(注1)著者 芦部信善、補訂者 高橋和之、『憲法 第六版』、岩波書店、「p.338-339

(注2)編集代表 山下智信 山口 厚、『ポケット六法 平成29年度版』、有斐閣「17頁」

(注3)編集代表 山下智信 山口 厚、『ポケット六法 平成29年度版』、有斐閣「16頁」

(注4)「憲法をわかりやすく」、≪http://consti.web.fc2.com/16shou1.html≫、(参照2018-8-1

・(注5)著者 芦部信善、補訂者 高橋和之、『憲法 第六版』、岩波書店、「p342

(注6) 著者 芦部信善、補訂者 高橋和之、『憲法 第六版』、岩波書店、[p342-343]

(注7) 著者 芦部信善、補訂者 高橋和之、『憲法 第六版』、岩波書店、[p343]

(注8) 編集代表 山下智信 山口 厚、『ポケット六法 平成29年度版』、有斐閣「1584頁」

(注9) 編集代表 山下智信 山口 厚、『ポケット六法 平成29年度版』、有斐閣「14頁」

・(注10)編集代表 山下智信 山口 厚、『ポケット六法 平成29年度版』、有斐閣「14頁」

(注11)「証明責任-Wikipedia」、≪https://ja.wikipedia.org/wiki/証明責任≫、(参照2018-8-1

(注12) 編集代表 山下智信 山口 厚、『ポケット六法 平成29年度版』、有斐閣「1477頁」

(注13) 編集代表 山下智信 山口 厚、『ポケット六法 平成29年度版』、有斐閣「1477頁」

(注14) 編集代表 山下智信 山口 厚、『ポケット六法 平成29年度版』、有斐閣「1477頁」

・構成要件 ウィキパーシティ、≪https://ja.wikiversity.org/wiki/構成要件#構成要件の機能≫「参照2018-7-31

・罪体説とは、≪https://kotobank.jp/word/罪体説-1322822≫「参照2018-7-30

 

 

学籍番号17J108012  氏名 松澤 大輔

 

追記(以前、中江先生に確認で送ったメールアドレス(帝京用メールアドレス)のパスワードを忘れてしまい、そちらのメールアドレスのほうで送ることができなかったので、代わりのメールアドレスでレポートを送らせていただきました。確認のほどよろしくお願いします。)

 

 

 

 

川島真治

中江先生様

 

お世話になっております。川島です。

 

提出資料をお送りします。

 

以下、メールしてお送りします。

 

基礎教養演習レポート

題名:裁判とは何か?

キーワード:自由心証主義自白法則伝聞法則補強証拠主観的超過要素

罪体証拠能力証明力証明責任共犯

法学部 法律学科

17108021 川島 真治

結論:裁判とはいかなる時も公平かつ正しい決断をするためのものだと思う。

1.裁判の形式

裁判の形式には、判決、決定、命令の3種類がある。ある内容の裁判について、

どの主体がどのような形式で行わなければならないかは、民事訴訟法や刑事訴訟法

などの各手続法で決められている。

判決は、民事訴訟事件や刑事訴訟事件において、裁判所が口頭弁論という厳重な

手続保障を経た上で判断を示すものである。ここにいう裁判所とは、官署とし

ての裁判所ではなく、裁判機関としての裁判所をいい、複数(地方裁判所では

原則として3人)の裁判官で構成される合議制の場合はその合議体、1人の裁判

官で行う単独制の場合はその裁判官である。

決定と命令は、訴訟手続上の付随的な事項について判断を示す場合や、民事執行、

民事保全、破産等の厳重な事前の手続保障よりも迅速性が求められる手続において

判断を示す場合に行われる。そのうち「決定」は裁判所が行うもの、「命令」は

裁判官(裁判長や受命裁判官、受託裁判官)が行うものである。判事補が単独で

することもできる(民事訴訟法123条)。

決定と命令は、判決と異なり、口頭弁論を経るかは裁量に委ねられており(民事訴

訟法871項ただし書参照)、相当と認める方法で告知すれば足り(民事訴訟法

119条参照)、書面による必要もない(民事訴訟規則6717号参照)。上訴は

、抗告や再抗告、準抗告といった簡易な方法によるが、必ずしも独立の上訴ができ

るとは限らない。刑事訴訟法上は、上訴を許さない決定や命令には、理由をつけな

いでもよいとされている(刑事訴訟法442項)。

なお、個々の裁判の法律上の名称は、その内容に基づいて定められていることがあ

り、裁判形式と一致しないことがある。例えば、差押命令、転付命令、仮処分命令な

どは、「命令」という名がついているが、形式としては「決定」である。

その他、家事審判手続においては、家庭裁判所がする裁判は「審判」という形式でな

される。ただし、家事事件手続法(かつては家事審判法)に規定された裁判所の行為

としての「審判」には、裁判としての性質を有しないもの(例えば、限定承認の申述の

受理等)も含まれている。

 

2.判例と意見@

次に、授業で取り扱った判例を挙げていきながら裁判について考えていこう。まずは、

キセル乗車の事件を例に挙げる。この事件は、ABCの三人がいてBCが買春をして

いたところを警察に捕まり、警察が二人の余罪について調べるとキセル乗車をしていた

ことが分かった。すると、BCAもキセル乗車をしたと証言している。

1.  Aと三人で相談してキセル乗車をした。

2.  検察の取り調べで「Aが新宿で乗るのを見た」と供述している。

3.  その後BCはタイへ国外退去。

4.  Aは黙秘をしている。

果たしてAは有罪になるかどうか?

ここで問題となる点は、Aがキセル乗車をしたといっているBCの供述は信用できる

のか?

BCは国外退去のため日本にいない。そのため、裁判所で証言できないという点だ。

証明の度合いが80%でも裁判官が確信すれば事実認定しても良いとなっている自由心証主義

という裁判官の自由な判断に委ねるという決まりがある。そのため、裁判官がBCの供述

を認めればAは有罪になる。しかし、自由心証主義には例外がある。それは、憲法382

項の自白原則は、事故に不利益な唯一の証拠か自白のみのときは無罪としている。しかし、

この判例の場合はBC補強証拠があるためこの時点で唯一の証拠ではなくなったため、

この法により無罪という考えはなくなったと思う。しかし、共犯者の供述(その者にとって

は自白)については、自己の刑事責任を回避、軽減されることをねらって第三者を巻き込む

おそれ、いわゆる引っ張り込みの危険がある。そのため、共犯者の供述だけで被告人を有罪

とすることができるか、それとも、共犯者の供述(自白)も本人の自白と同視して、補強証

がなければ被告人を有罪となしえないかが問題となる。学説には、補強証拠必要説と補強

証拠不必要説がある。

補強証拠必要説は、

@  自白偏重防止の観点からは、本人の自白と共犯者の自白に区別はないこと。

A  判の危険の観点からは、共犯者の自白のほうがむしろ危険であること。

B  白した者が無罪となり、否認した者が共犯者の自白から有罪となるのは非常識な結論で

あることを理由とする。

これに対し、補強証拠不要説は、

@  自白に補強証拠を必要とするのは、自白が反対尋問を経ないにもかかわらず証拠能力が認

A  められるからであり、共犯者に対しては、被告人は反対尋問を行いうるのであるから、これ

を同一視できないこと。

B  自白した方が無罪となり、否認したほうが有罪となるのも、自白が反対尋問を経た供述より

証明力が弱い以上、当然であり不合理でないことを理由とする。

私は、この場合には補強証拠不要説を支持する。なぜなら、共犯者だけの補強証拠では不安要素

が多いうえに、証明力がないに等しいと思うからだ。

それに、Aがキセル乗車したと供述したBCは日本にはもういないため、裁判での反対尋問は行

えない。そのため、憲法37条の伝聞原則にあるように、反対尋問できないもの、つまり他人の発

言を書いただけの調書は証拠にできない。そのためAが有罪であると判決するのは難しいのだ。

よって私は、この判例では、刑法336条の「被告事件が罪とならないとき、又は被告事件について

犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない」と定めている。という疑わしきは罰

せずということと同意見のため、このキセル乗車をしたと疑われているAは証拠不十分のため、私は無罪

であると思う。

3.判例と意見A

次も授業で扱った、末期癌の父Aの人工呼吸器を息子のBがはずしてしまいAが死亡してしまった判例

についてだ。この判例では二つポイントがあり@Bが公判廷で「自分がはずした」と言った場合AAの娘

でありBの妹のCが警察の取り調べでBがはずした」と言っていた』という場合Bは有罪になるかどう

か?この@とAを別々に有罪かどうか考えた場合は、どちらもBが呼吸器をはずしたと言っているが大き

な違いがあるのだ。@はB本人が供述しているのに対してAではCBがはずしたと言っていたと供述して

いるという違いがある。結論からいうと@は有罪でAは無罪であると私は思う。だが、@、Aのポイントを

合わせて考えるとBは有罪になると思う。

なぜなら、今回の判例の場合証明責任のあるBが自白しているため自由心証主義により裁判官がBの自白を

認めれば有罪になるからだ。それに、今回はC補強証拠があるため自白が唯一の証拠ではないからだ。

被告人の公判廷における自白には,憲法上は補強証拠を必要としていないとするのが判例の立場であるが,

刑事訴訟法3192項は,憲法の趣旨をさらに拡充して〈公判廷における自白であると否とを問わず,その

自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には〉有罪にしてはならないと規定した。補強証拠によって証明

すべき事実の範囲については,犯罪の客観的側面(罪体)に関して補強が必要であるとする罪体(形式説)

有力であるが,判例は,補強証拠としては自白にかかる事実の真実性を担保するものであれば足りるとして

いる実質説を支持している。

他にも、判例では、開かれた法定のため拷問の可能性はないため憲法38条の「本人の自白」に被告人の公判

廷での証言は含まれず、公判廷の自白だけで有罪にできるため補強証拠は不要としている。私もこの判例と

同意見のためBは有罪であると思う。そして、Bは単なる故意にとどまらずAに対する強い信念のようなもの

に衝き動かされてなされた主観的超過要素のような犯罪だと私は思った。

4.まとめ(感想)

私は、この世の中では、色々な場面で多数派の意見が通ることが多いと思う。それにより間違っている意見が強引

に正しいとされたり、正しい意見が強引に間違っていることにされたりしていると思う。しかし、裁判ではこのよ

うなことは決してあってはならない。そのため、裁判官は,憲法第76条第3項にあるように、憲法や法律に拘束

されるほかは,良心に従って,独立して各事件について判断を行うという役割がある。また、憲法第78条,裁判所

法第48条などで定められているように裁判の公正を保つために,裁判官には身分保障が与えられていて,憲法上一

定の手続によって罷免される場合を除いては,その意思に反して免官,転官,転所,停職又は俸給の減額を受ける

ことはない。私は、中江先生の基礎教養演習で毎週判例を見ながら自分はその事件の内容をみて有罪だと思うか無

罪だと思うかを考えたりしたり、なぜそう思うのかをグループになって話し合って自分の意見や相手の意見を共有

していくことによって裁判とは何かについて考えるようになった。そして色々な事件や判例を調べたりしていくな

かで、自分だったらどのような条文を用いて判決を下すかを考えるにつれて憲法141項のすべて国民は、法の下

に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別さ

れない。2華族その他の貴族の制度は、これを認めない。3項栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権

も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。というこ

とから法の大切さを分かった気がした。よってこれらのことから裁判とはいかなる時も公平かつ正しい決断をする

ためのものだと私は思った。

〜参考文献〜

Wikipedia、コトバンク、今日コソブログ、春期の授業で書いたノート、自分の脳

ポケット六法

以上です。

 

よろしくお願いします。

 

川島 真治