桑迫孝貴

桑迫 孝貴 12J106024

1 結論

(1)故意と錯誤の関係性は複雑・多岐にわたり、学説上の対立も過去から現在の長い期間起こっている。社会の発展と変化によって、刑法に求められる機能はより一層高いレベルが必要となっており、一人の人間として関心を持たなければならないと考える。

 

2.    犯罪の定義

1.    人類の歴史において、社会的に有害な行為や反社会的な行為は、過去から現在に至るまで数多く存在し多くの犠牲者を生み出し、様々な凄惨な悲劇を引き起こしている。しかしながら、そのすべての行為が犯罪としての認定を受けるわけではなく、犯罪と呼ばれる行為の中でも国家が主体となり、刑罰という人権に対する極めて強い影響力を持つ手段を使い、抑制をかけなければならないと判断し、有害・反社会的な行為に対して刑罰を科す、と刑法に規定したものが犯罪となり、刑法学上、『犯罪とは構成要件に該当し、違法かつ有責な行為』と定義されている。(罪刑法定主義)

2.    刑法学上の定義により、犯罪を構成するためには『行為』という存在が必要となってくる。犯罪を構成するために必要となる前提条件としての行為とは、『意思に基づく身体の動静』と解されるのが通説的見解とされている。行為といえるためには、身体の動静が必要となっており、動静とは運動と静止のことであり、人間の外部的行動を意味している(心の中で相手を殺したいと考えているだけでは犯罪の構成に至らない)。また、人間の外部的行動であってもその人間の自由な意思に基づく行動でなければ行為とはいえない(睡眠中の寝返りによって相手を殴打したとしても、行為とはいえない)。行為に対して刑罰という制裁を科す必要があるといえるためには、行為が違法でなければならない。言い換えるならば、違法ということは悪いことをしたという評価であり、法規範に反したということになる。刑法の目的は法益の保護にあるので、処罰に値する程度の違法な行為とは、守られるべき法益を侵害するような行為となっている。

問題は、行為が違法であるか否かを具体的にどのような基準で判断するかである。『行為』の悪さを重視するのか(Handlungsunwert 行為無価値)、『結果』の悪さを重視するのか(結果無価値)が問題点となる。

Handlungsunwert 行為無価値は、『行為』の悪さをを重視し、行為規範(国民が従うべき行動準則)に違反することが違法性の本質であると考えている。どのようなつもりで行動したのかという行為者の主観的要素を重要視している。

結果無価値は、『結果』の悪さを重視し、法益侵害が違法性の本質であるとし、法益侵害に対する違法性の判断は客観的な事情に基づいて判断され、行為者の主観面は原則的に法益侵害に対する違法性の判断に影響しないとされている。

 

Handlungsunwert 行為無価値

結果無価値論

保護の対象

社会倫理秩序

法益

違法判断の対象

行為

結果

違法判断の資料

主観面も含む

客観面のみ

違法判断の時点

行為時(事前判断)

裁判時(事後判断)

 

3.    構成要件の意義

(1)   犯罪とは構成要件に該当する違法かつ有責な行為である。すなわち、犯罪が成立するためには必要な要素として、構成要件該当性・違法性・責任(有責性)となる。社会には様々な違法かつ有責な行為が存在している。刑法を運用する国家は社会に存在している全てを処罰の対象とするのではなく、一定の政策判断

によって処罰の対象にすべき『行為』を取捨選択し、それらの行為を類型化して刑罰法規としての運用を行っている。つまり、構成要件とは、『刑罰法規が犯罪として規定している行為の類型』としての重要な意味が存在している。構成要件は、犯罪の成否を国家が検討する際に、犯罪になる行為とならない行為を振り分けるために必須となる重要な意義と役割を担っている(罪刑法定主義機能)。また構成要件には、個々の処罰すべき行為の枠組みを明らかにする(犯罪個別化機能)と構成要件に該当する行為が理論上違法であることを推定させる(違法性推定機能)といった役割を導入することにより、自由の保障という強い要請に応える機能があり、犯罪に該当する行為を明らかにすることによって国民に対する犯罪行為への抑制を行っている。

私見として、仮に構成要件による犯罪の類型化機能が存在しなかった場合、社会を生きるさまざまな人間の自由が脅かされることは容易に想像できる。現代の人間社会は国境が存在しているようで存在していないグローバルな価値観・視点によって支配されている。自国とは全く異なる人間との交流、文化の多様性や発展、経済的成長といった人間社会そのものの成長において、なによりも自由が保障されていることは近代国家の証明でもあり、経済・文化の発展を進めていく上でも極めて重要な要素となっている。昨今では香港でみられるように、デモを行っている学生に対する法の許容を超えた政府側の暴動鎮圧行為といった人間が本来持っている自由に対する必要以上の抑制に対しては非常に危機感を覚えている。犯罪の類型化を行い、犯罪に該当する行為を振り分ける役割は絶対に必要だと考える。

 

4.    構成要件的故意の要素と種類

1.    刑法381項は、『罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない』と規定している。最初に書かれている罪を犯す意思のことを『故意』と定義している。この規定は、客観的に違法な行為を行ったとしても、行為者がそのことを意識していなければ原則として

犯罪は成立しないという故意犯処罰の原則を定めている。刑法381項に規定されている『罪を犯す意思』は具体的な故意の内容については規定していない。故意の内容における刑法上の通説では、故意があるといえるためには犯罪事実の認識・認容が必要となっている(認容説)。他方異なった説としては、罪を犯す意思があればそれだけで故意の内容とする(意思説)が存在する。つまり、認容説では犯罪事実の認識・認容があれば足りるという考え方になる。しかし、意思説においては認識・認容では足らず、犯罪事実の実現性を積極的に意欲しているという要件が足されている。個人的意見として、意思説の場合は故意犯成立の要件があまりにも厳しすぎて、逆に社会の犯罪抑制に対する刑法上の応答性が阻害されてしまうと考える。よって私は通説的見解である認容説に立って考えていきたいと考える。

故意があるといえるために必要な要素は、犯罪事実の認識・予見で足りる。行為者が自分の行った犯罪事実を認識し、犯罪行為によって発生した結果と結果に至るまでの因果関係について予見していれば、規範の問題が与えられる。行為が法的に許されるのかどうかを判断する機会が与えられれば、反対動機の形成も可能になる。違法行為を認識し、それによって発生する重大な法益侵害の結果に対する予見を行うことによって犯罪を行う意思を抑制することが可能となる。チャンスが与えられたにもかかわらず、それでも犯罪を実現する意思を形成した場合は故意犯としての強い非難が向けられる。

(2)故意犯の成立は客観的構成要件要素が必要となるが、客観的に判断するにあたって法律の素人では理解しにくかったり、判断に大きなバラツキが生じてしまう場合がある。裁判官による規範的な価値判断を経なければ事実が犯罪の要素に該当するか否かを決めることができない概念を規範的構成要件要素という。

例としてわいせつ文書頒布罪(175)で考える。

チャタレー事件で争われたわいせつ性に対する認識は、@その文書に記載されている文書の存在の認識(裸の事実の認識)Aその文書の持つ社会的意味の認識(意味の認識)Bその文書が175条のわいせつに当たるという認識(当てはめの認識)という3つの認識で構成されている。通説的見解として、構成要件的故意が認められるためにB当てはめの認識までは不要であり、刑法上のわいせつに該当するという認識までは不要であるが、社会的意味において素人からいやらしいものと受け取られるであろう認識は必要となっており、裁判官の法的評価と平行した素人の社会的評価を行うことによって調整を図っている。

私見として、芸術性とわいせつ性を法的・社会的という要素だけで判断していいのだろうかと考える。芸術性と人間の性との関係は古代の時代から現代にいたるまで途切れることなく続いており、時代が進むことによって人間の性を表現した作品への評価が生まれることもある。作成者本人は自分が作る作品の芸術性を様々な人に社会的意味のある芸術作品として評価してもらいたいと思っていても、平行的評価という短い物差しで判断することによって、わいせつ性の存否が図られてしまうのは非常に残念だと考える。芸術性に対する社会的な価値観は時間の流れ、時代に変化によって大きく変化するものであり、いやらしいものを自分は作っているんだという認識を持ちながら後世に繋がる芸術作品を作ることが出来るのか非常に疑問に思う。芸術作品は絵画や彫刻作品のみならずファッション業界や広告業界といった分野においても極めて重要な要素だと考える。ITの発展によって作成した作品を国境を越えて共有できるようになっており、文化の多様性や個性の発信を考えてもわいせつ性に対する日本における全体的な評価を司法のみならず行政府や立法府おいてもう一度考え直さなければならないのではないかと考える。

(3)構成要件的故意の種類

  @確定的故意

   確定的故意とは、行為者が犯罪事実の実現を確定的なものとして認識・認容していること。

  A不確定的故意と未必の故意

   不確定的故意とは、行為者が犯罪事実の実現を不確定的なものとして認識・認容していること。

    ()概括的故意とは、一定範囲の客体のどれかに結果が発生することは確実であるが、個数や客体を不確定的なものとして認識・認容していること(誰かを負傷させる意思で群衆に向かって投石をする場合)

    ()択一的故意とは、数個の客体のいずれか1つに結果が発生することを認識・認容していること(2人のうちどちらかを殺す意思で発砲する場合)

未必の故意とは、行為者が犯罪事実の実現を可能なものとして認識・認容していること(通行人をはねてしまう可能性があるが、はねても構わないと考えて暴走運転をする)

(4)未必の故意認識ある過失の分水嶺

    故意は、行為者が犯罪事実を認識・認容していたかという部分が最も重要な要素となる。しかし、犯罪事実を認識はしていたが認容まではしていないといった場合には認識ある過失との問題が絡んでくる。

     自分は認容説の立場をとっており、犯罪事実を認識・認容している場合が故意であり、認識はあるが認容はしていない場合は過失に当たると考える。

 

5 事実の錯誤

 (1)故意犯に構成要件該当性が認められるためには、犯罪事実の認識・認容(構成要件的故意)と結果への予見が必要となっている。しかし、現実的に行為者が全く意図しない結果が発生してしまう例が存在する。事実の錯誤とは、行為者が行為時に認識した犯罪事実と現実に発生した犯罪事実が一致しないことをいう。

  行為者の認識・認容と発生した客観的事実が異なっており、構成要件的故意の成立に対しての問題が発生する。これを事実の錯誤という。

  事実の錯誤の分類としては、構成要件的事実の錯誤【@客体の錯誤(行為者が客体を誤認)A方法の錯誤(行為者が手段を誤った場合)】と違法性阻却事由に関する事実の錯誤に分類される。加えて、構成要件的事実の誤認は「具体的事実の錯誤」と「抽象的事実の錯誤」に分類される。

  事実の錯誤があった場合に、犯罪事実に対しての構成要件的故意が認められるかどうかという部分において学説上の争いがある。

  @具体的符号説

   行為者が認識・認容した事実と発生した事実が一致しない限り、原則として故意を阻却する。

  A法定的符号説

   行為者が認識した内容と発生した事実が法定の構成要件の範囲内で符合している限りは故意を阻却しない。

  B抽象的符号説

   何らかの構成要件該当事実を認識していれば故意を阻却しない。

  私見としては、法定的符号説を採りたいと考える。抽象的符号説の場合は犯罪事実に対する刑法上の網が広くなりすぎると考える。逆に構成要件の範囲が広くなりすぎることによって個人の自由に対する制約が強くなりすぎてしまうと考える。また、具体的符号説の場合は構成要件の厳格になりすぎてしまい錯誤  

や過失犯に対する処罰が難しくなってしまい、刑法上の運用に支障が出てしまうのではないかと考える。

 

6 法律の錯誤 

(1)法律の錯誤とは、犯罪事実の認識・認容はあるが違法性の認識を欠いている場合をいう。行為者が、自身の行為が違法ではないと思い込んでいた場合、つまり違法性の意識が欠ける場合に故意または責任が阻却されるのかという場合に問題が発生する。(刑法383)

ここでの違法性の意識とは、自身の行為が法律上許されないものと意識しているかどうかが問題となってくる。つまり、故意を成立に必要となる違法性の意識の存否と程度がどの程度のレベルで必要となるかの部分において故意説と責任説に分かれての見解が存在している。

故意説は犯罪事実の認識があっても違法性の意識の可能性がなければ故意が認められない。つまり、違法性の意識を故意の成立要件としている。

責任説は違法性の意識がなくても、犯罪事実の認識があれば故意が認められる。つまり、違法性の意識がなくても構成要件該当の事実の認識があれば故意が認められる。

故意または過失をどの領域で判断するかという部分において大きな違いがある。構成要件的故意の段階で違法性の意識を用いて故意または過失を判断するのか(故意説)、それとも責任要素として用いるのか(責任説)

@厳格故意説

      故意の成立には違法性の意識が必要とする見解。

      故意と過失を分ける判断要素として確実な違法性の意識が必要となり、行為者が重い責任非難を免れない犯罪事実に対して正義の意識(殺人だけど、これは正しい行いなんだ!)を持っていた場合は故意の成立が認められなくなってしまう。(ex.確信犯・常習犯)

   A制限故意説

      違法性の意識は故意の成立に不要で、違法性の意識の可能性さえあれば故意が成立する見解。法律の錯誤だからといって責任故意を阻却しない。

   B厳格責任説

    違法性の意識の可能性を故意・過失共通の責任要素とする見解。正当化事由がない(違法性阻却事由の錯誤)にもかかわらずあると誤認した場合は故意を阻却しない。

   C制限責任説

      故意責任の要素として違法性の意識の可能性を必要とする。構成要件該当事実の認識さえあれば故意が認められる(認識がなければ故意を阻却する)

    D違法性の意識不要説

    法律を知らなかったという法の不和を許さないので、故意は阻却されない。違法性の意識が存在しなくても故意が成立する。(かつての判例に使われた考え方、なぜ違法性の意識を欠いたのかという重要な部分を考慮せずに故意を認めるのは非常に乱暴だと考える)

 

故意を阻却するかという問題では勘違い騎士道事件(最決昭62.3.26)誤想過剰防衛の問題がある。事実の錯誤と法律の錯誤の両方が存在しており、あまりにも短絡的かつ身勝手な行為によって、人間の死という道義的非難を免れない重大な結果が発生している。よって何とか故意犯として処罰できないかと考える。厳

格故意説・厳格責任説の場合は違法性の意識がなければ故意の成立が認められない。制限責任説の場合、行為者は構成要件該当事実の認識を欠いているので故意の成立が阻却されてしまう。よって故意犯として処罰を求める場合には制限故意説に立って考えるしかないのではないかと私は考えます。

 

 

参考文献

基本刑法T総論 大塚裕史・十河太郎・塩谷毅・豊田兼彦

刑法総論    高橋則夫

六法全書

 

 

 

重田龍之介

 

【勘違い騎士道事件】の認識 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

はじめに…

私は、正当防衛、過剰防衛どちらにも当てはまらず、刑法の刑罰を科するべきだと考えた。

 

【概要】

198175日午後1020分頃、空手3段の腕前である英国人の被告人は、夜間帰宅途中の路上で、酩酊した女性とそれをなだめていた男性とがもみ合ううち、女性が倉庫の鉄製シャッターにぶつかって尻餅をついたのを目撃した。

その際、同女が「ヘルプミー、ヘルプミー」などと(冗談で)叫んだため、被告人は女性が男性に暴行を受けているものと誤解して、両者の間に割って入った。被告人はその上で、女性を助け起こそうとし、ついで男性のほうに振り向き両手を差し出した。

男性はこれを見て、被告人が自分に襲い掛かってくるものと誤解し、防御するために自分の手を握って胸の前あたりに上げた。これを見た被告人は、男性がボクシングのファイティングポーズをとり、自分に襲い掛かってくるものと誤解し、自己および女性の身体を防衛しようと考え、男性の顔面付近を狙って空手技である回し蹴りをし、実際に男性の右顔面付近に命中させた。

 それにより、男性は転倒して頭がい骨骨折などの重傷を負い、その障害に起因する脳硬膜外出血及び脳挫滅によって、8日後に死亡した。

 

【私の考え】

空手3段の腕前の持ち主が、一般男性に顔への回し蹴りという危険な行為に対し、男性はファイティングポーズのみの行動なので防衛行為に相当性が認められない場合、「過剰防衛」にもなりえるのではないか。

また、正当防衛の要件は、@急迫不正の侵害があること、A防衛の意思があること、B防衛の必要性があること、C防衛行為に相当性があることなので、今回の場合、男性は被告を襲うつもりがなく、@急迫不正の侵害がないので、正当防衛が成立しない。なので、過剰防衛の問題にはならずに刑法の通常の刑罰を科さねばならないのではないかと考えた。

刑法の刑罰に関連して、刑罰法規の基礎にある実質的な基盤(理念・原理)を何 に求めるのか」という問いに対して、「刑法規範ないし社会相当性に求め る」と答えるのが、行為無価値論である。

【授業で出てきた誤想過剰防衛について】

誤想過剰防衛は初めて耳にしたので、今回の【勘違い騎士道事件】において過剰防衛より妥当だなと感じました。

「急迫不正の侵害」が存在する状態でないのに、そのような状態であると誤信して防衛行為に出てしまったが、仮に行為者の認識した通りの侵害が存在したとしても、その防衛行為が防衛の程度を超えたと評価される場合を誤想過剰防衛と呼びます。なお、厳密には、「急迫不正の侵害」は現実に存在したものの、これに対抗して必要・相当な防衛行為をするつもりで、意図せずに客観的に不必要・不相当な行為をした場合も、誤想過剰防衛の一類型(過失の誤想過剰防衛)とされています。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そして、ここでは故意犯が成立するのかという誤想防衛の問題と、刑法362項を適用できるかという過剰防衛の問題がそれぞれ出てくるということが調べて分かった。

 

【故意犯の成否】

誤想過剰防衛の場合において、現在の判例・学説の多数説の立場からは、『違法性の意識』があるか否かによって故意犯の成否が決まっている。

そして、故意(意味の認識)が成立する場合構成該当要件事実の意味を認識していなくてはならないとするのが通説。

正当防衛該当事実の意識があることをを前提として、違法性の意識がある場合には、誤信があっても故意犯が成立する。

 

厳格責任説、制限責任説の違いについて考えた。】

判例は、違法性の意識不要説となり、違法性を意識し得る程度の事実の認識を故意と考えられ、必要部分だけで考えられる。

必要説は、故意説、責任説に分かれさらにそこから、4つにまた分かれている。

責任説は、違法性の意識がなくても、故意はあると考えることと捉えられ、厳格責任説、制限責任説の二つがあるが、この違いは何か。

例に言えば上記で述べた正当防衛、誤想防衛においての認識可能性が0か1かの二点での違いなのではないかと発想しました。

 

【事実の錯誤について】

事実の錯誤は二つに分けられ、違法性に関する事実の錯誤、構成要件に関する事実の錯誤だ。

刑法学では、故意を「構成要件的故意」と「責任故意」に分ける学説が多数であり、違法性に関する事実の錯誤は責任故意の成否について問われ、構成要件に関する事実の錯誤は構成要件的故意の成否について問われる。

 

錯誤についての学説

錯誤の諸事例について、法定的符合説と具体的符合説と抽象的符合説の三つが存在し、多数説、および現行刑法起草者の考えは具体的符合説であるが、判例は(泉二新熊の関与した)大正6年(1917年)の判例変更以降、一貫して法定的符合説に立つ。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 

 

【チャタレー事件での認識】

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

はじめに…度の超えた認識に問題があった。また、知っていての行為(故意)は間違いないので、故意犯が成立すると私は考えた。

 

概要

『チャタレイ夫人の恋人』には露骨な性的描写があったが、出版社社長も度を越えていることを理解しながらも出版した。626日、当該作品は押収され[2]78日、発禁となり[2]、翻訳者の伊藤整と出版社社長は当該作品にはわいせつな描写があることを知りながら共謀して販売したとして、913[2]、刑法第175条違反で起訴された。第一審(東京地方裁判所昭和27118日判決)では出版社社長小山久二郎を罰金25万円に処する有罪判決、伊藤を無罪としたが、第二審(東京高等裁判所昭和271210日判決)では被告人小山久二郎を罰金25万円に、同伊藤整を罰金10万円に処する有罪判決とした。両名は上告したが、最高裁判所は昭和32313日に上告を棄却し、有罪判決が確定した。

 

最高裁判決

最高裁判所昭和32313日大法廷判決は、以下の「わいせつの三要素」を示しつつ、「公共の福祉」の論を用いて上告を棄却した。

わいせつの三要素[編集]

徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、

通常人の正常な性的羞恥心を害し

善良な性的道義観念に反するものをいう

(なお、これは最高裁判所昭和26510日第一小法廷判決の提示した要件を踏襲したものである)

 

【私の考え】

 翻訳者と出版社社長は知っていての行為(故意)は間違いないので、故意犯が成立すると私は考えた。

故意犯が成立するためには、規範的構成要件の認識が必要であり、今回では、猥褻物頒布・販売罪刑法175条「わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする(1)。有償で頒布する目的で、前項の物を所持し、又は同項の電磁的記録を保管した者も、同項と同様とする(2)。」と規定する。

わいせつ物頒布等の罪 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に当たると考えた。

さらに度を越えていると認識があったという事につき、後ろめたい認識は全く無かったとは言い切れない認識度なのではないか。

公に晒すという事が前提だと思うので、その人々の内多数が一般的に不快に感じる部分(マイナス)があってはならないと考えた。

 

 

交通事故においての【未必の故意】、【認識ある過失】

出典

【大阪地裁堺支部 2019(平成31)125日判決】被告は控訴

 

はじめに…

 

【事故の状況】

 2017年7月2日午後7時35分ごろ、被告Aは大阪府堺市の府道で乗用車を運転中、大学4年の男性(当時22歳)が運転する大型バイクに車の前方に入られたことに腹を立て、車を加速させライトをハイビームにしてクラクションを鳴らすなどしながら約1分間追跡した後、バイクに追突して運転していた男性を死亡させました。

  

【検察・弁護側の主張】 

 検察側はAが被害者の男性を死亡させるかもしれないと認識しつつ、故意にバイクに衝突したとして、殺人罪で起訴し懲役18年を求刑しました。

  

 一方運転者の弁護側は、腹を立てて追いかけ回したり追跡したりしたことはないと反論し、ブレーキが間に合わずにバイクに衝突したとして殺意を否定し、過失運転致死罪にとどまると主張しました。

 

 

【裁判所の判断】

 

■ドライブレコーダーに映像が残る

  

 公判では、Aの車に設置されたドライブレコーダーの映像や音声などが紹介され、以下のような点が指摘されました。

運転映像を記録したメモリーカードは衝突後にレコーダーから抜かれていたが、逮捕後の所持品検査で被告の服のポケットから見つかった。

車を加速させてパッシングをしながら追跡する様子や衝突後に「はい、終わりー」と言う様子が記録されていた。

  

■「運転者の未必の故意」を認定

 こうした事実を踏まえ裁判長は以下のような判決理由を示し、被告に懲役16年の刑を言い渡しました。

「被告は、減速すれば衝突を避けられたのに100キロ以上で走行し、衝突直前には弱いブレーキしかかけていない」(あおり運転と認定)

「バイクに衝突すれば、転倒で死亡させる危険性は高いことを認識しながら、衝突してもかまわないという気持ちで、あえて衝突した」(未必の故意による殺意を認定)

 

【私の考え】

 裁判所の判断[未必の故意]に賛成であるが、被告の車の前方に入られたことに腹を立て、車を加速させライトをハイビームにしてクラクションを鳴らすなどしながら約1分間追跡したという行動、自動車という一般的に容易に人を殺める危険性、被害者が露出多いバイクを利用し100キロの速度で自動車と衝突させたという事実がある。これが事実の場合極めて危険な行動で、結果として1人の人間が亡くなった。懲役18年は短いのではないかと私は感じた。

被告は腹を立てて追いかけ回したり追跡したりしたことはないと反論し認識ある過失を主張しているのではないか、しかし、ブレーキが間に合わずにバイクに衝突したとして殺意を否定している事に対しても自分が行った行動により人が死んだということが理解できていない、反省が見られない点が私は18年は短いのではないかと述べた理由である。

むしろこのような極めて危険な事件が起きないように、4半世紀以上に延ばせば、煽り運転の抑止にも働きかけれるのではないだろうか。