小川夕輝
中江 先生
提出が遅れ大変申し訳ありません。
帝京大学・16J101024 小川夕輝です。
2年間大変お世話になりました。先生のご講義を賜りまして、この大学を選んで良かったと感じております。最後まで不出来な学生でしたが、改めて感謝申し上げます。
故意と錯誤
16j101024
小川 夕輝
キーワード 法定的符合説、誤想過剰防衛、違法性の意識、厳格責任説、規範的構成要件要素、意味の認識、構成要件的故意、Handlungsunwert(行為無価値)、未必の故意、認識ある過失、
1 はじめに
平成21年から裁判員制度が始まった。刑事裁判は高度に専門的な判断を有することから国民の司法への理解を深める司法制度改革の一つとして始まり、それから10年が経過した。以前から多くの裁判において一般人の感覚からは受け入れがたい判決が出ているが、そもそもなぜそのような感覚の乖離が生まれるのだろうか。本レポートでは、まず2章に故意とは何かついて検討し、3章に錯誤論、4章で違法性を扱い、犯罪の成立とその不成立から意見の不一致にアプローチを試みる。
2. 故意とは
一般的に、「構成要件に該当する違法で有責な行為」が犯罪であるとされる。
刑法38条1項は故意犯処罰の原則を定め、犯罪成立のためには故意を要するとしている。そして故意とは、犯罪事実の認識ないし客観的構成要件要素の認識があれば足り、その本質は『規範に直面し反対動機の形成が可能であったにも関わらずあえてそれを乗り越えて行為に及んだことに対する強い動機的非難』にある。規範とは構成要件のかたちで我々国民に周知され、罰されることを知ってなお行為に及んだから故意があるとし、またその点につき非難が可能であるから責任を負うとするのが一般的な考えである。
しかし上記38条1項では「罪を犯す意思」が故意であると言っているだけで、故意の地位などについては触れていない。まずは故意の体系的な問題について触れておきたい。
主観的構成要件要素としての故意は構成要件的故意と称される。構成要件的故意と違法と責任はどのような関係にあるのか。つまり、故意は違法の要素なのか、責任の要素なのか、違法かつ責任のどちらにも要求される要素なのかが明らかにされていないため、さまざまな見解がみられる。本レポートでは、故意は違法要素かつ責任要素の二重の地位を有するとする多数説に則り進めていく。
違法要素から派生するのが構成要件的故意であり、責任要素から派生するのが責任故意である。責任故意については後述するとし、まずは構成要件的故意について検討したい。
構成要件的故意の要素に犯罪事実の認識が必要である点には争いがない。問題は、事実についての認識はどの程度まで必要なのか、また認識以外の要素を必要とするか否かにある。故意の認識対象となるのは構成要件に該当するすべての事実であるから、法律によって禁じられていたことなどの認識は一切必要ない。それらについての不認識はすべて法律の錯誤であり、故意の成否を争うことにはならないからだ。
第一に、認識以外の要素を必要とするか否か。これにつき、犯罪事実の実現を積極的に意欲している必要はないが、少なくともその実現を仕方がないものと認容していることを要する認容説が多数説である。犯罪事実を認識していたならば本来それを回避しなければならないところ、あえて認容し成り行きに任せた結果犯罪が成立したという場合は過失犯よりも強く非難できるのは当然であろう。この認容の有無が故意と過失を分ける分水嶺になる。
第二に、事実についての認識はどの程度まで必要なのか。認識のレベルは事実の認識、意味の認識、条文の認識のレベルに分けられ、原則は意味の認識まであれば構成要件的故意が認められる。
しかし、その時代における価値観によって意味する内容が異なる規範的構成要件要素については、その対象を認識していたとしても意味の認識に結びつかない場合がある。
この規範的構成要件要素の錯誤につき争ったのがチャタレー事件だ。被告人たる出版会社社長は、「チャタレー夫人の恋人」の翻訳にあたり性的な描写があることを知っていたが、それが「みだらに性慾を興奮又は刺激せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反するもの」というわいせつ性の定義を充足することを知らなかった。
最高裁は「刑法175条の罪における犯意の成立については問題となる記載の存在の認識とこれを頒布販売することの認識があれば足り、かかる記載のある文書が同条所定のわいせつ性を具備するかどうかの認識まで必要としているものではない」と判示した。つまり、規範的構成要件要素の錯誤において事実の認識さえあれば故意を認められるとしたのだ。
意味の認識がないのに故意を認めるのは少し疑問が残るが、故意の有無を争っているとすれば故意の本質から考えると納得がいく。すなわち故意の本質とは上記にもある通り規範に直面し反対動機の形成が可能であったにも関わらず、あえてそれを乗り越えて行為に及んだことに対する強い動機的非難にある。そして反対動機の形成には意味の認識が必要であるところ、行為者にわいせつ性の定義について専門家レベルの認識がなくとも、なにかいやらしい描写があるという素人的認識さえあれば十分に反対動機の形成が可能であったといえる。そこで、規範的構成要件要素に対する意味の認識があったと言うには、一般人が知っているような性質の認識(素人的認識)で足りるというのが通説だ。
2.1 故意の種類
構成要件的故意は、確定的故意と不確定的故意とに分かれる。確定的故意とは犯罪の実現を確定したものとして認識し、かつそれでよいと認容している場合をいう。それに対して不確定的故意とは犯罪の実現を不確定なものとして認識し、それでよいと認容している場合をいう。
不確定的故意はさらに概括的故意、択一的故意、未必の故意に分別される。概括的故意とは、一定の範囲内のどれかの客体に犯罪の結果が実現することは確実であるが、客体の個数や対象を不確定なものとして認識・認容している場合をいい、択一的故意とは複数の客体のうちどれかに犯罪結果が実現することは確定しているが具体的にどの客体に発生するかは不確実なものと認識・認容している場合をいう。未必の故意とは、認容説によれば犯罪の結果が実現することそのものを不確実なものとして認識・認容している場合をいう。純粋な不確定的故意である未必の故意すら認められない場合には過失として扱われることになる。過失は認識ある過失と認識なき過失に分類される。
この未必の故意と認識ある過失を分けるものが認容説だと上記したが、学説はいまだ対立している。意味の認識があり構成要件的故意が認められるような犯罪事実の認識があれば足りるとする認識説と、さらに踏み込んで犯罪事実の実現を意欲していなければならないとする希望説の対立である。表象説を採ると犯罪事実の実現ないしその可能性の認識がある認識ある過失は故意に含まれることになる。
3. 錯誤論
構成要件的故意に属する最も重要な論点たる事実の錯誤について述べていく。
事実の錯誤は認識していた犯罪事実と実現した犯罪事実が同一構成要件内において異なった具体的事実の錯誤、認識していた犯罪事実と実現した犯罪事実が異なる構成要件にまたがって食い違った抽象的事実の錯誤、さらに客体を取り違えた客体の錯誤と犯罪の実現を意欲した客体とは別個の客体にも結果が生じた方法の錯誤に分類される。
このような具体的事実の錯誤にも故意が認められるかについて、具体的符合説と法定的符合説の対立がある。
具体的符合説は、故意犯の成立のためには行為者の認識した事実と発生した事実が具体的に符合・一致しなければならないとする説である。これによると、具体的事実の錯誤のうち方法の錯誤については故意が否定される。たとえば、AがBを殺そうとして銃を撃ったものの弾が当たったのはCであった事案の場合、Aが具体的に認識していた犯罪事実はBに対する殺人のみであるからCに対する構成要件的故意は認められないことになる。よってBに対しては殺人未遂罪が成立し、Cに対しては過失があれば過失致死罪が成立する。もっとも、客体の錯誤については具体的符合説からでも故意が肯定できる。AがBだと思って殺害したのが実はCだったという場合にも、目の前にいるその人を殺すという意思でその人を殺している以上、あくまで主観と客観が符合しているからCにい対する殺人罪の故意を肯定できる。
しかし、そもそも錯誤論とは構成要件的事実の錯誤があるにもかかわらず、故意の存在を認定できる場合があると論ずる。主観で認識した事実と客観的に発生した事実に符合がなければすぐに故意を阻却するのであれば、錯誤論を論ずる意味はない。あくまで錯誤論は故意の問題であり、錯誤が存在した場合にどの程度主観と客観に一致があれば故意があるといえるのかが問題になっている。そうすると、具体的符合説は故意を厳格に介するあまり処罰の間隙を生むといえる。特に客体が財物である器物損壊罪などの適用を争う場面において方法の錯誤がある場合、理論上は器物損壊罪の未遂と過失の器物損壊罪が成立するものの実際にはそのような処罰規定がないため不可罰となり、妥当な結論が導けない。
そこで判例・多数説は、故意犯が成立するためには行為者の認識と発生した結果とが構成要件の範囲内で符合していれば足りるとする法定的符合説を支持する。法定的符合説であれば具体的符合説の部分で述べた方法の錯誤の事案においても、認識していた犯罪事実と発生した犯罪事実とが具体的事実で一致せずとも構成要件的評価ではおよそ人を殺す故意で人を殺しているという符合が認められ、結果の発生した客体についての故意犯が成立する。
3.1 故意の個数
次に、犯罪事実の実現を意欲した客体と別の客体にも犯罪の結果を生じさせた場合、いわゆる過剰結果の併発事例の場合には誰に対する故意をいくつ認めるべきか、故意の個数が問題となる。
たとえばAがBを狙って銃を撃ったが、Bを死亡させただけでなくCにも怪我を負わせたという事案では、法定的符合説に立脚するとB・Cどちらに対する故意も認められるものと思われる。しかしAが殺そうとしたのはBのみであるにもかかわらず、結果として両者に対する故意犯が成立するのははたして妥当であるのか検討したい。
法定的符合説の内部で、さらに一故意犯説と数故意犯説が対立している。一故意犯説とは実現した犯罪事実のうちもっとも重い結果に対してのみ一個の故意犯の成立を認め、それ以外の結果に対しては原則として過失犯にとどまるとする見解である。上記の事例に対し、この見解からはBに対する殺人罪とCに対する過失傷害罪が成立する。
一故意犯説の価値判断は処罰範囲の不当な拡大の防止にあるが、たとえ一個の行為から二個以上の故意犯が成立したとしても観念的競合として科刑上一罪となるから、特段の不都合は生じないと考える。そして法定的符合説は故意を構成要件の範囲で抽象化して考えるとすると、そもそも故意の個数を考えるのは不可能なのではないだろうか。
もう一方が犯罪の結果の数だけ複数の故意犯が成立しうるとする数故意犯説である。数故意犯説は故意の内容を構成要件の範囲で抽象化して考えるため、故意の数を観念することはできない。敷衍すると、構成要件的故意を「Bに対する故意」や「Cに対する故意」という具体的な方法で考えるのではなく、ざっくりと「人を殺す」ことを認識し、かつ認容していれることが構成要件的故意だと考えるならば、どちらかに対する構成要件的故意はあったが他方に対する構成要件的故意はなかったとは言えないだろう。およそ「人を殺す」レベルにまで抽象化した故意は一つしかあり得ないからである。
これについて、被告人Aが強盗を遂げるためBの殺害を企て建設用びょう打銃を発射したところ、Bの体を貫通したびょうが意外のCにも命中し両者に重傷を与えた事案がある。最高裁判所は「…犯罪の故意があるとするには、罪となるべき事実の認識を必要とするものであるが、犯人が認識した罪となるべき事実と現実に発生した事実とが必ずしも具体的に一致することを要するものではなく、両者が法定の範囲内において一致することをもって足りるものと解すべきである(中略)から、人を殺す意思のもとに殺害行為に出た以上、犯人の認識しなかった人に対してその結果が発生した場合にも、右の結果について殺人の故意があるものというべきである。」旨判示し、法定的符合説かつ数故意犯説に立つことを明らかにした上でBおよびCにそれぞれ強盗殺人未遂罪の成立を肯定した。
判例は未遂犯についても錯誤を認める立場だが、B・Cともに傷害という結果であった場合、つまり未遂については錯誤の問題ではなく現実に生じた傷害は殺人罪との関係で未遂犯として把握されるべきとし、Bについては殺人未遂罪、Cについては過失致傷罪が成立するのが妥当とする見解もある。
3.2 抽象的事実の錯誤
異なる構成要件にまたがる錯誤に関して、刑法38条2項は「重い罪にあたるべき行為をしたのに、行為の時にその重い罪にあたることとなる事実を知らなかった者は、その思い罪によって処断することはできない」と規定している。すなわちこの規定は、主観が客観よりも軽い場合に、重い客観にに対応した罪が成立しないと述べるにとどまり、この場合に軽い主観に対応した罪が成立するか否か、また逆に客観が主観より軽い場合にいかなる罪が成立しうるかについては一切言及していない。そうなると、刑法38条2項は抽象的事実の錯誤の場合にも故意犯を認めてよいこと、また主観より客観が重い罪を実現した場合にはその重い罪で処罰してはいけないことを規定しているだけで、どのような範囲の事実について故意を成立させるかについては解釈上の問題となる。
この抽象的事実の錯誤がある場合において、抽象的符合説と法定的符合説の対立がみられる。
第一に、抽象的符合説とは、およそ犯罪を成立させる意思で結果が生じた以上、38条2項の範囲で軽い方の罪については故意犯が成立するとする見解である。たとえばAがBを殺す意思で銃を発射したところ弾が逸れて熊に当たった場合について考えると、この見解からは殺人の故意だけでなく器物損壊の故意も認定されることになり、殺人未遂罪のみならず器物損壊罪も成立することになるであろう。いうなれば、犯罪理論たる主観主義刑法理論に立脚した見解であるといえる。すなわち主観主義刑法理論にとっての故意とは行為者の内心における社会的危険性を判別するための要件であるが、犯罪を実現させる意思で結果を生じさせた以上社会的危険性の徴表として十分であるとし、その結果38条2項を逸脱しない範囲で故意犯の成立を肯定する。だからこそ上記の人を殺す意思で誤って熊を殺した事例では38条2項に引っかかることなく殺人の未遂罪と器物損壊罪が成立することになる。
第二に、具体的事実の錯誤の場面でも述べた法定的符合説からは原則として故意は否定されることとなる。繰り返しになるが、故意の本質とは規範に直面し反対動機の形成が可能であったにも関わらずあえてそれを乗り越えて行為に及んだことに対する強い動機的非難にある。そして規範は構成要件の形でわれわれに与えられており、構成要件的故意の認識となる対象は構成要件該当事実であるから、異なる構成要件にまたがる抽象的事実の錯誤の場合には、行為者が規範に直面していたということはできない。
以上から基本的に法定的符合説が妥当であると考えられるが、異なる構成要件間にどのような符合があればよいのかにつき学説が分かれている。
第一にハードな構成要件的符合説であるが、これは構成要件間の故意の関連性を厳格に解するあまり符合を認める範囲が狭いと言わざるをえまい。
第二にソフトな構成要件的符合説があり、この説によれば認識していた犯罪事実と発生した犯罪事実の構成要件が保護法益・行為において共通性が認められる場合、その実質的な重なり合いの限度で規範に直面していたといえる。たとえば重い罪である窃盗罪を犯す意思をもって軽い罪である占有離脱物横領を実現した場合、両者は財物という保護法益および財物の取得という行為が共通しており、実質的な重なり合いが認められることから占有離脱物横領罪の限度で構成要件的故意が肯定される。確かに様々な構成要件が行為規範として法益保護のために規定されていると考えれば法益の共通性が重なり合いにおいて基本とされるべきであり、その意味からもこの説の妥当性が導ける。
対立する学説について整理したところで、次に抽象的事実の錯誤の三類型と処理に移りたい。
(イ)重い罪を犯す意思で軽い罪を実現した場合
たとえば上記の窃盗罪のつもりで占有離脱物横領罪を犯したような場面であれば、重い罪である窃盗罪は成立しない。何故ならば重い犯罪の客観的構成要件に該当する事実が存在しないからである。他方で軽い犯罪の占有離脱物横領罪の構成要件的故意の有無が問題になる。故意の本質から考えていけば、やはり占有離脱物横領罪についての故意を認めることになろう。
(ロ)軽い罪を犯す意思で重い罪を実現する場合
たとえば占有離脱物横領罪を犯す意思で窃盗罪を犯した場合にも重い犯罪が成立しないのは上記と同様である。しかし、その理由は重い犯罪の構成要件的故意が存在しない場合として38条2項が適用される結果、重い犯罪の成立が否定されることになる。軽い犯罪について故意は当然に認められるものの、この類型では犯罪の構成要件的故意に対応した軽い客観が存在するか否か、客観的構成要件該当性の有無が問題になる。したがって構成要件的故意の問題ではない以上は、客観的構成要件に該当しているか否かを保護法益・行為の共通性を通して実質的に判断していくことになろう。この場合も(イ)と同じ結論に帰結すると考えられる。判例でも、軽い麻薬所持の認識で重い覚醒剤所持を実現した事案につき、両方の構成要件は軽い麻薬所持の限度で実質的な重なり合いを認め麻薬所持罪の故意を肯定し同罪を成立させた。
(ハ)主観と客観で同じ重さの罪を実現させた場合
たとえば詐欺罪を犯すつもりで横領罪を実現した、あるいは覚せい剤輸入罪を犯す意思で麻薬輸入罪を実現した場合に代表される。この場合は両方の構成要件に実質的な重なり合いが認められれば、客観に対応した罪が成立する。
4. 違法性
ある行為が構成要件に該当すると判断されたのちその行為は原則として違法の推定を受けるが、違法性阻却事由が存すれば違法性が阻却される。刑法は一般的な違法性阻却事由として35条に法令行為・正当業務行為を置き、緊急行為としての違法性阻却事由として36条に正当防衛、37条に緊急避難を設定している。
各規定をみる前に、まずは違法性の本質をめぐる対立を整理していく。
第一に、形式的違法性と実質的違法性の対立がある。行為が形式的に刑法上の行為規範に違反することを形式的違法性といい、違法とはそのまま法に反することをいうとする見解であるが、このような捉え方では行為に対する違法判断の基準たり得ない。したがって、学説上は形式的違法性を基礎にしつつ違法性の実質を解明しようとする実質的違法性を採用している。
第二に、主観的違法論と客観的違法論の対立がある。主観的違法論いわく法規範は法を理解している人のみに向けられており、責任無能力者や故意・過失のない行為は規範の範囲外にあるから違法とはいえない、つまり違法と責任は区別されないことになる。一方の客観的違法論は規範が向けられている範囲を広くとり責任のない者に対しても違法を問いうるとする見解であり、こちらでは違法と責任は区別される。現在は後者の客観的違法論が定説となっている。
そして、客観的違法論の中で刑法規範の構造をどのように捉えるのかが結果無価値と行為無価値(Hundlungsunwert)の対立に関わってくる。
違法性の実質について、結果無価値論から結果の無価値性に違法性の実質があるとする主張がされた。刑法の機能は生命や身体、財産などの法益を保護することに尽き、それ以上の倫理的な秩序維持は刑法の役割ではない。それゆえ、行為の結果たる法益侵害・法益侵害の危険に実質を求めていくのである。
対する行為無価値論は結果のみならず行為の無価値性にも違法性の実質を求める主張がなされた。刑法は法益保護だけでなく社会倫理秩序維持もその役割としており、それゆえ社会的相当性を逸脱した法益侵害・法益侵害の危険性に違法性の実質を求めていくのである。
しかし、結果無価値論・行為無価値論のどちらかのみに独立して異議を認めるのは妥当ではないと考える。刑法にいう犯罪は、通常であれば行為があって結果が生じる。その行為が望ましくないと解するのか、結果が望ましくないと考えるのかで見解が分かれている。
4.1 違法性の意識とその可能性
構成要件に該当し、違法性阻却事由もなく、責任阻却事由もなかった場合に犯罪が成立する。つまり、行為者において責任無能力者(限定責任能力者)、違法性の意識の可能性がない、適法な行為を行う期待可能性がない場合には責任が阻却され犯罪が成立することはない。
違法性の意識とは、自分の行為が法律上許されないこと、すなわち行為の実質的な違法性を認識ないし意識していることをいう。適法行為に出ることが可能であるのにその行為の決意をしないで違法行為にでた場合に責任非難が加えられるべきであり、その適法行為への決意が可能であるためには行為者が行為の違法性を認識し得たこと、ないし違法性の意識の可能性があったことが責任非難の根拠となる。
違法性の意識の取扱につき、故意の問題とする故意説と責任の要素であるとする責任説が対立している。
故意説の内部でさらに厳格故意説と制限故意説、違法性の意識不要説に分かれている。
厳格故意説は、違法性の意識があれば行為者が行為に出るに際して反対動機を形成することができるとし、これを踏み越えて行為に出たところに重い責任根拠を求める。そして、違法性の意識こそが故意と過失を分ける分水嶺になるとする。つまり故意の要件として構成要件該当事実と違法性の意識が要求されるため、法律の錯誤がある場合には故意犯の成立を認めず、過失犯処罰規定がある場合にあらためて過失犯の成否を問題にする。
しかし、この説は妥当でないと考える。行為が悪くなければ犯罪が成立しないという考え方であるが、この説を貫徹すると一般人の法感覚で「悪い」と感じる行為についても故意が認められないことになり、とうてい現実的とはいえないであろう。また確信犯の可罰性を説明できないとの批判もあるが、これについては行為者自身の内部には行為そのものが違法であるとの認識は存在しており、単に自分の確信が法に優先すると誤信しているにすぎないのであるから、これについて適確な批判とはいえまい。
一方の制限的故意説とは、故意の成立に違法性を現実のものとして認識している必要はなく違法性の意識の可能性があれば足りるとする。この制限的故意説に立つと、法律の錯誤がある場合、違法性の意識の可能性さえあれば故意犯が成立し、それすらなければ過失犯処罰規定がある場合にのみ過失犯の成立を問題にする。つまり、たとえ本人が悪いと思っていなかったとしても一般人ならば違法性の意識を持ちえたと判断されると故意が認められる。
最後に違法性の意識不要説がある。故意があるというためには犯罪事実の認識があれば充分であり、違法性の意識ないしその可能性は故意の要件ではないとする。判例はこの立場に立っていると考えられる。
次いで、責任説の内部にも厳格責任説と制限責任説で見解が分かれている。
厳格責任説とは違法性の意識ないしその可能性は故意の要素ではなく独自の責任要素であると解し、後述する正当化事情の錯誤は法律の錯誤であるとする説である。この説に立つと、法律の錯誤がある場合、その錯誤を避けることができたときには違法性の意識の可能性があり故意犯の成立が肯定され、避けることができなかったときには責任が阻却されて故意犯は成立しない。
対する制限責任説とは、違法性の意識ないしその可能性は故意とは別の責任要素であるとする点で厳格責任説と同じだが、正当化事情の錯誤を事実の錯誤として故意を阻却する。
38条3項をそれぞれの説はどう読むだろうか。
まず厳格故意説にたつと、38条3項の「法律を知らなかった」とは、条文や法令の存在を知らなかったということであろう。違法性の意識があっても通常人が細かな条文について知っているとは考えがたいため、一般的な規定に思える。
次に制限故意説にたつと、「法律を知らなかった」とは違法性の意識がなくとも違法性の意識の可能性、または過失さえあれば罪を犯す意識があったと読める。また責任説も、ほとんど制限故意説と同じ処罰の範囲になる。
4.2 法律の錯誤
38条3項は、「法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減刑することができる。」と規定している。行為者が法律の不知、またはあてはめの錯誤により違法性の意識を欠いた場合がこれになる。もっとも法律の不知やあてはめの錯誤があったからといって、常に違法性の意識を欠くとは限らない。構成要件などを具体的に知らなかったからとしても自分の行為について違法性の意識をもつことは充分に考えられるからである。
法律の錯誤が故意と責任にどのような影響を齎すかは、違法性の意識についてどの立場を摂るかによって決する。たとえば制限故意説からは原則として故意は阻却されず、違法性の意識の可能性すらない場合にはじめて故意が阻却されることになる。そこで、どのような場合に違法性の意識すらなかったといえるのかが問題となる。
第一に、法律の不知による場合は原則として違法性の意識の可能性が肯定される。法律は合理的な方法でその公知が図られているから、よほど特殊な事情でもなければ可能性の否定はされないだろう。
第二に、あてはめの錯誤による場合、たとえば確立されたと思われる判例や公的機関の意見を信頼したときには原則として違法性の意識の可能性は否定される。
しかし公務員の個人的な意見を信じたにすぎない場合には違法性の意識の可能性は肯定されるだろう。判例も、飲食店を経営する被告人が百円札を模したサービス券の作成にあたり知り合いの巡査および警察署防犯係長らに判断をあおいだところ、巡査らの態度が好意的だったため処断されることはないだろうと思い同サービス券を発行したが通貨及証券模造取締法違反に問われた事案において、なお被告人には違法性の意識の可能性があったとしている。また、法律の専門家ではない私人の意見のみならず弁護士など専門家の意見を信頼した場合であっても、やはり違法性の意識の可能性が肯定されるというのが通説である。
上述のように違法性の意識に欠ける場合には原則として責任故意は阻却されない。しかし、事実の認識に欠ける場合には原則として構成要件的故意が阻却されるため、両者の区別が重要となる。この理解のために「たぬき・むじな事件」と「むささび・もま事件」を扱いたい。
まず「たぬき・むじな事件」は、捕獲が禁じられている「たぬき」と「むじな」は同一の動物であったが、それを知らなかった被告人が「むじな」であれば捕獲しても罪にはならないと信じてこれを捕獲した事案である。結論から言うと、事案につき大審院は事実の錯誤として故意の阻却を認めた。
一方「むささび・もま事件」も同様に「むささび」と「もま」は同一の動物であったにも関わらずそれを知らなかった被告人が、「むじな」であれば捕獲しても罪にはならないと信じてこれを捕獲した事案である。こちらの事案については法律の錯誤として故意が阻却されなかった。
ほとんど同じような事案であるのに両者の結論が事実の錯誤と法律の錯誤で分かれたのは、「一般人ならば違法性を意識しうる程度の事実認識を有していたか」にある。すなわち、「たぬき・むじな事件」の当時、専門家以外にはたぬきのほかにむじなという動物がいると広く信じられていたことから、被告人にはむじなを捕獲してはならないという「一般人ならば違法性を意識しうる程度の事実認識」を有していなかったといえ、事実の錯誤で故意が阻却された。
これに対し「むささび・もま事件」においてはそのような特殊な事情は存在していない。被告人のいる地域でのみむささびのことをもまと呼称しており、他の一般人ならば充分に違法性を意識しえただろう。そうなると、被告人には「一般人ならば違法性を意識しうる程度の事実認識」があったといえ構成要件的故意に欠けるところはなく、単に法律の錯誤であると導かれた。ここにもっとも大きな事実の錯誤と法律の錯誤の区別があると考える。
4.3 違法性阻却事由
構成要件は違法有責行為類型であるから、構成要件に該当する行為は原則として違法性の推定を受ける。今時の通説は正当化事由・違法性阻却事由に推定をやぶる機能をみとめる「原則型−例外型」の処理方法をとり、違法性の推定が例外として事後的に覆されることがあったとしても、その推定自体に例外を設けることは認めていない。違法性阻却事由の前にさらに違法性判断を介入させるのは妥当とはいえないだろう。
前述した違法性の実質をいかに解するかによって、違法性阻却の根拠が異なってくる。
結果無価値論からは、ある法益を保護するためにはそれと同等か、またはそれよりも小さな法益を犠牲にすることも許されるという法益権衝説が採用される。それに対し、行為無価値論からはある行為によって法益侵害やその危険が生じたとしても、その行為が社会的にみて相当であれば違法性が阻却されるという社会的相当性説が採用されている。
そして、その違法性の判断は客観的になされなければならない。その点で責任判断とは大きく異なる。
4.4 緊急行為
正当行為については割愛し、緊急行為についての違法性阻却事由に移りたい。
本来ならば個人の法益は国家によって保護・救済されるべきであるが、その救済を期待できない事態には例外的に自力救済を認める規定が正当防衛・緊急避難である。もしもそのような緊急時においても自力救済を認めず自身の行った行為について責任を負うとすると、かえって世間の混乱を招く事態になりかねない。そこで法の自己保全として、防衛行為を行った者の違法性は阻却されることになる。
刑法36条1項は「急迫不正の侵害に対して、自己または他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない」旨規定している。この要件を満たせば違法性が阻却される。
まず、「急迫不正の侵害」について検討する。この要件は急迫、不正、侵害の三個に分類することができ、急迫とは法益の侵害が元に存在しているか、またはその危険が間近に迫っていることをいう。
次に、不正とは違法性のことをいう。たとえばAがBにすれ違いざま殴られた場合、Bの行為は暴行罪(208条)の構成要件を満たし、かつ何らの違法性阻却事由も認められないので、Aが防衛のために反撃した場合には正当防衛として違法性が阻却されるであろう。しかし、このAがBから逃げるためにそばにいたCを突き飛ばして怪我を負わせたといった場合は、あくまで防衛のためであっても不正な侵害の対象に向けられた行為ではないから、緊急避難として違法性阻却を検討することになる。このように、不正対正の関係が正当防衛、正対正の関係が緊急避難である。
最後に、侵害とは他人の法益に対して実害・危険を加えることをいう。この侵害は通常人間の行為であることが予想されるが、犯罪行為であることを要しない。つまり動物やその他の物による侵害に対しても、正当防衛が検討されることになる。
不正とは違法性のことを意味すると述べたが、その違法性は犯罪の成立要件としての違法性とは意味が異なる。あくまで被侵害者の権利・法益を侵害した行為に対して正当防衛が許されるかどうかを実質的に判断する考え方であり、したがって動物の行動についてもいえることとなる。そうすると動物からもたらされた侵害にも正当防衛が認められるのか、対物防衛の問題が導出される。
対物防衛については肯定説と否定説が分かれている。否定説は、不正とは違法、つまり法規範違反であるところ、法規範は人間のみに向けられた物であるから、動物の侵害行為は不正たりえないとする。この見解からは対物防衛行為は不正の侵害を満たさないから緊急避難として処理することになろう。
しかし、否定説から成立する緊急避難は正対正の関係であるから、当然正当防衛に比して判断も厳格となり侵害を受けた者の保護にかけるとする批判がある。そこで肯定説は不正とは正当防衛が許されるか否かという一般法的観点における違法性を意味すると解し、動物の攻撃も十分不正たりえると導く。
この対物防衛に関し、B所有の番犬が突如A所有の猟犬に襲いかかり、Aは番犬の所有者に制止を求めたが応じられなかったため、仕方なく猟犬を守るために自分の猟銃を発砲し番犬に傷を追わせたという事案において、判例は次のように解した。すなわち「右番犬を狙撃して其の活動を制止するの外他に右危難を避くるに足る適当の手段方策なかりしこと」は明白であり、Aが「策尽きて遂に前示行為に及びたるは其の所有猟犬に対する現在の危難を避くる為已むことを得ざるに出でたるものと認めざるを得ず」として、緊急避難を成立させた。つまり判例は動物の加害行為は違法な侵害たりえないとする否定説を採り、37条にいう「現在の危難」を肯定したものと読める。しかし、動物による攻撃について飼い主に故意や過失がある場合には、動物に反撃したとしても実質的には208条など飼い主の違法行為に対する反撃であることから対物防衛を論じる余地はなく、この判例は正当防衛を認めるべきであったと思われる。
個人的には肯定説を採り、対物防衛であっても正当防衛を成立させるべきだと考える。確かに法規範は理解できる人間にのみ向けられているから違法性は人間の行為のみに生ずるとする否定説も理解できるが、不正を犯罪成立要件としての違法性に厳格に限定する必要はない。人間による侵害行為には正当防衛を認めつつも動物など物からの侵害行為には要件の厳しい緊急避難しか認めないというのは明かに不均衡であるし、そもそも正当防衛とは国家による救助を望めない状況下で自らの利益を自ら保護することを正当化するものである。そしてどの程度までの防衛行為が正当化されるかということは、裏返せばどの程度の侵害については甘受しなければならないかということを意味する。動物の攻撃が一般人から見て違法性を感じるものであった場合、それを甘んじて受けなければ責任を追及されるというのでは緊急行為の実効性が損なわれるといえるであろうし、やはり対物防衛においてもその侵害の排除は正当化されるのが望ましいのではないだろうか。
4.5 過剰防衛
36条は2項に「防衛の程度を超えた行為は、情状によりその刑を軽減し、又は免除することができる」として過剰防衛に関する規定をおいている。防衛の程度を超えたとは、防衛行為がやむを得ずにしたものといえないことである。
過剰防衛行為について犯罪の成立は否定されないが任意的減免が認められている。その刑の減免の根拠に関し、恐怖や興奮など特殊な心理状態に基づく行為であり、強い非難ができないから責任が減少するという責任減少説、法益侵害に対して正当な利益が維持された防衛効果が認められたから違法性が減少するという違法性減少説、責任が軽減されるとともに違法性も減少するという違法性・責任減少説がある。
少なくとも過剰防衛の場面では、後述する誤想防衛とは異なり急迫不正の侵害があり、その限りで違法性が減少しているといえるだろう。また、極度の心理状態にあることも想定できるから強く非難することはできず責任も減少している。よって通説は責任減少説だが、私は折衷的な違法性・責任減少説が妥当であると考える。
4.6 正当化事情の錯誤
誤想防衛と誤想過剰防衛を扱うにあたり、違法性阻却事由の前提に関する正当化事情の錯誤について触れておく。この錯誤が責任故意を阻却するか否かにつき、正当化事情の錯誤が事実の錯誤か法律の錯誤のどちらに位置するかで学説が分かれている。
第一に、正当化事情の錯誤は行為の違法性に関する錯誤であるから法律の錯誤であるとする説がある。つまり、構成要件に関する錯誤ではないから事実の錯誤たりえず法律の錯誤になるという。
しかし、錯誤は故意の問題であるから故意の本質から考えていく。故意の本質とは規範に直面し反対動機の形成が可能であったにも関わらず、あえてそれを乗り越えて行為に及んだことに対する強い動機的非難にある。正当化事情の錯誤は「急迫不正の侵害」といった違法性を阻却する事実を誤って認識している以上、規範に直面しておらず反対動機を形成する余地はなかったというべきである。これが事実の錯誤説であり、現在の通説・判例となっている。
一般人の素朴な法感覚からすると、急迫不正の侵害という事実の認識が欠けているために過失犯の責を負うならともかく、故意犯としての責までは問えないのではないかと考えるであろう。それゆえ故意を阻却する事実の錯誤説がやはり望ましいと考える。
4.7 誤想防衛・誤想過剰防衛
急迫不正の侵害がないのにこれがあると誤信して防衛行為をする場合を誤想防衛という。この場合、主観的に防衛の意思があるものの客観的には防衛の効果がないので、原則違法性は失われない。
そして誤想防衛と過剰防衛が競合する場合を誤想過剰防衛という。すなわち、急迫不正の侵害がないのにこれをあると誤信して防衛行為に出たところ、それが行為者の誤想した侵害に対する防衛行為の評価として過剰であった場合を意味する。
誤想防衛と誤想過剰防衛の処理にあたっては、行為者が過剰性の基礎となる事実について認識していなかった場合と認識していた場合とに分けて考えるのが通説である。
第一に過剰性の基礎となる事実について認識していなかった場合には、誤想防衛と同様に規範に直面しているとはいえないだろう。したがって責任故意が阻却される。
たとえば、老夫が棒状のものを持って襲いかかってきたため、被告人は防衛の意思でその場にあった棒状のものを手にして反撃し、興奮状態で防衛の程度を超え数度老夫の頭を打ち据えたところ被告人が手にしていたのは斧であったため老夫が死亡したリーディングケースがある。
最高裁は「斧はただの木の棒とは比べものにならない重量の有るものだから、いくら興奮して居たからといってもこれを手に持って殴打する為振り上げればそれ相応の重量は手に感じる筈である。......老父が棒を持って打ってかかって来たのに対し斧だけの重量のある棒様のもので頭部を原審認定の様に乱打した事実はたとえ斧とは気付かなかったとしてもこれを以て過剰防衛と認めることは違法とはいえない」と判示し、誤想過剰防衛ではなく単に過剰防衛であるとしたのである。急迫不正の侵害事態は存在しているものの、被告人には「斧による反撃」という過剰性についての認識がなく規範に直面していないことから責任故意を阻却していったと考えられる。
第二に過剰性の基礎となる事実について認識していた場合には、行為者は誤想防衛と同様に「急迫不正の侵害」を誤って認識している。したがって規範に直面しているとはいえないものの、反撃行為として過剰であることを認識しながらあえて行為に及んでいる点で誤想防衛とは異なる。とするとその点でなお規範に直面し反対動機の形成が可能であったといえ、この場合には責任故意が認められるというべきである。
判例として勘違い騎士道事件が挙げられる。空手三段を有する被告人たる英国人は、酩酊状態の女性Aとそれをなだめている男性BがもみあううちにAが尻もちをついたのを目撃し、AがBに暴行されているものと誤解した。被告人は同女を助け起こそうとし、次いでBの方に近づいたところ、Bがこれに対し両手を胸のあたりにあげたのをボクシングのファイティングポーズのような姿勢を取り殴りかかってくるものと誤信した被告人はとっさに回し蹴りをBの顔面にあてて頭蓋骨骨折などの傷害を負わせ、Bを死に至らしめたという事案である。
最高裁は「右事実関係のもとにおいて、本件回し蹴り行為は、被告人が誤信したBによる急迫不正の侵害に対する防衛手段として相当性を逸脱していることが明らかであるとし、被告人の所為について傷害致死罪が成立し、いわゆる誤想過剰防衛に当たるとして刑法36条2項により刑を減刑した原判断は、相当である」旨判示した。
被告人は空手三段の腕前を有しており、その回し蹴りはほぼ凶器といえた。そして、Bを撃退するだけならば体に当てず寸止めするだけで充分に撃退できたであろうところ、顔面を狙って回し蹴りをあてている。さらにBが倒れたのち、被告人は去り際に「警察を呼べ」とAに向かって発言していることから、自身の防衛行為の過剰性を認識していたものと判断された。
ちなみに、この勘違い騎士道事件は被告人に減刑がなされている。「急迫不正の侵害」は実際には存在しないのだから違法性は減少していないため、責任の部分が減少する責任減少説を採ったのだろう。
5. おわりに
わいせつ物に該当するかどうか争われた「チャタレー夫人の恋人」の裁判で、わいせつ性の判断は客観的に行うべきであり著者の主観的意図は影響せず、芸術的作品であってもわいせつ性を有する場合があると裁判所は判示した。その12年後、「悪徳の栄え」事件で文章の個々のわいせつ性はその部分だけを取り出して判断するのではなく、文書全体との関係において判断されなければならないとし、たとえ芸術的な側面を持つ作品であってもわいせつ性を有するものとできると示された。
さらに「悪徳の栄え」事件から11年後、「四畳半襖の下張り」事件において、文書のわいせつ性にあたっては当該文書のせいに関する露骨で詳細な描写の程度とその手法や比重、思想等との関連性やその構成や展開、そして文書のもつ芸術性によって性的刺激がいかに緩和されているかなどの検討が必要であるとした上で、これらの観点から文書全体を俯瞰して読者の好色的興味に訴えるものと認められるか否かなどの検討を総合し、その時代の健全な社会通念に照らしてわいせつ性の定義に該当するか否かを決すべきとした。「チャタレー夫人の恋人」事件から実に20年以上経ってから、ようやくわいせつ性について具体的な判断基準が示されたのだ。そして『その時代の健全な社会通念に照らして』から読み取れるように、わいせつの概念をどう捉えるかは時代とともに移り変わることが示唆されている。
実際に「チャタレー夫人の恋人」事件では芸術性とわいせつ性は根本から違うものとされたが、「悪徳の栄え」事件では芸術性が性的描写による性欲の興奮を緩和させる場合があるとして、芸術性とわいせつ性の関係が変化しているとも読める。
フェミニズム的な思想をうたいノーベル賞を受賞した作品が、日本での頒布にあたり思想も何もないいわゆる「エロ本」と同じくくりのわいせつ物に該当してしまったことに改めて強い違和感を覚えた。読者は知識階級であり、作品に性的描写があってもいかがわしいだけの本として捉えられることはないと「チャタレー夫人の恋人」事件の被告人は主張したが、もっともだと思う。受け取る側の性質で属性は変化する。それをどう捉えるべきだろうか。
参考文献
川端博『刑法総論講義』成分堂、2013年。
高橋則夫『刑法総論』成分堂、2016年。
山口厚・佐伯仁志『刑法判例百選I』有斐閣、2014年。
千葉涼太
故意と錯誤
結論 人の主観の評価は難しいので極力考慮しないほうがいいかもしれない。
1,故意論
まず、刑法は罪刑法定主義で38条を根拠に原則故意犯を罰する。
犯罪は基本的に故意犯と過失犯に分かれる。刑法は罪を犯す意思がない行為は罰しない。ただし、ただし、特別な規定がある場合はこの限りではない。(38
条1項)ここでいう罪を犯す意思が故意である。刑法が処罰するのは原則として故意犯であり過失犯は法律に特別に規定がある場合に例外的に処罰されるにすぎない。
故意犯が原則として処罰される根拠についてさまざまな議論がある。
第一に、故意を持った行為者は当該行為が違法であるとの違法性の意識を有し、反対動機を形成することが可能なのに違法な行為に出たのだから行為者は重く避難されるべきとの理解がある。この考え方が伝統的で通説的な理解である。しかしこの考え方には故意と違法性の意識を区別し、それぞれ固有の意義を持たせることが困難であるという問題点がある。
第二に、故意とは、犯罪結果に対する行為者の心理的関係の一つだとする考え方であり、この観点に立ちつつ、故意を持って行為に出た動機形成過程を避難し得るか否かを違法性の意識の可能性として問題にするならば、故意と違法性の意識の可能性とは明確に区別されることになる。
第三に、はHandlungsunwert(行為無価値)の立場から、故意は基本的な行為規範に直接違反する点で、過失よりも違法性が高い故に、故意犯は重く処罰される。この考え方でも故意と違法性の意識とは区別されることになるが、故意は違法要素に位置づけられる。Handlungsunwert(行為無価値)によれば行為の違法性は規範に違反する行為に出たことによって判断され、規範違反行為に出た者の心理状況は、当該行為の違法性を評価するための本質的要素となる。
第二、第三の考え方の妥当性はどの違法性論の立場に立つかによって変わる。
結果無価値論だと、故意、過失は責任要素で判断される。しかしこの考え方を理解しながらも、構成要件の犯罪個別化機能を重視する場合には、構成要件としての故意、過失が要求される場合がある。
意味の認識、規範的構成要件要素の認識
故意を成立させるためには構成要件に該当する事実が犯罪性を帯びているという意味の認識が必要である。構成要件に該当する事実は存在したが犯罪性の認識
を欠く場合、属性の認識が欠けるために、故意を認めることができない一方で故意を認めるために法的概念へのあてはめは不要であり、裸の事実の認識では足りないが、意味の認識があれば良いとされている。故意説、厳格責任説からは素人領域における並行評価があれば良い。
構成要件要素には殺人罪の客体である人のように比較的容易に意味の認識が出来る記述的構成要件要素とわいせつ物頒布罪(175条)におけるわいせつ性のように基準がないものに裁判官の一定の判断が要求される規範的構成要件要素がある。しかし、いずれにおいても意味の認識がなければ故意は成立しない
特に規範的構成要件要素の認識はどこまでの認識があれば意味の認識があったと言えるかはとても難しい。結局判例を考慮し、法解釈
を通じて決定されるため一般人にそこまで要求することは不可能である。そこである事実が規範的構成要件要素に該当しないと思った場合でも故意を否定することはできないとされる。
判例でチャタレー夫人の恋人事件というものがある。この判例はわいせつな文書という存在自体は認識していたが、それがいやらしい物という認識すらなかった者には意味の認識が欠け、わいせつ性の認識を肯定することができないと思われるが、「刑法175条における犯意の成立について問題となる記載の存在の認識とこれを頒布販売することの認識があればたりる。」としている。
私はこの判例について非常に疑問がある。確かに法律的な立場からすれば一般人の感覚なので故意を認めるのにそこまで正確な認識は必要ないかもしれないが、問題となる記載の認識はあっても意味の認識がなければ故意を肯定することはできないと私は思う。そして社会的な価値がある文学作品であるならばわいせつ性は免除されて故意の成立要件をもっと小さく限定的なものにするべきであり、無罪であると私は思います。(刑175条の解釈にいたずらに制欲を刺激させ、性風俗に反するものとあるがノーベル賞を取った文学作品なのでいたずらに広めている訳でもないのでこの点からも構成要件的故意から外れてるいのではないだろうか。
2,未必の故意と認識ある過失の区別の難しさについて、
未必の故意とは、行為者が犯罪事実の発生を確定的なものとしては認識していないが、その発生がありえないものではないものと認識している心理状態をいう。犯罪類型によっては、その成立にとって未必の故意では足りないのではないかという問題となるものもあるが他の犯罪類型では未必の故意で十分だとされるのが普通である。とはいえ、未必の故意は、故意として認められる最低限の心理状態を指すから、未必の故意と認識ある過失との区別が重要な問題である。
学説では、未必の故意と認識ある過失を区別する基準は、故意の本質は構成要件実現の認識にあるとする表象説や認識説と、構成要件実現の意思であるとする意思説を前提としつつ犯罪事実発生を認容したという行為者の人格態度を重視する認容説、犯罪結果の認識が動機となって結果の実現意思となったことを故意とする動機説が主張されている。
さらに表象説、認識説を前提として行為者に高い水準の認識まで要求すれば譜善性説に至る。判例、通説は認容説である。故意が成立するには盗品等であるかもしれないと思いながらもあえてこれを買い受ける意思があれば足りるとする。(最昭和23年,3,16)
3,錯誤論
錯誤とは、行為者の当該行為の結果に関する予測と現実に生じた結果との食い違いを言う。刑法で問題にされる錯誤は事実の錯誤と法律の錯誤である。事実の錯誤は主観的構成要件該当事実と客観的構成要件該当事実が食い違うことであり、この食い違いの結果についての故意を認めるかが問題となる。
法律の錯誤とは違法性に関する法秩序の客観的評価と行為者の主観的評価の間に食い違いがあるこという。行為者が違法性の意識がないのにもかかわらず、故意ないし責任を肯定できるかが問題となる。
事実の錯誤には具体的事実の錯誤と抽象的事実の錯誤がある。
具体的事実の錯誤は事実とその認識との間の齟齬が、同一構成要件内で生じている状態をいう。一方、抽象的事実の錯誤は、事実とその認識との齟齬が異なる構成要件にまたがっている状態をいう。
事実の錯誤は客体の錯誤、方法の錯誤、因果関係の錯誤の三つに分かれる。
客体の錯誤とは結果が生じるものとして認識された客体の属性に関する錯誤である。
方法の錯誤は結果が生じるものとして認識された客体に対して結果が生じた場合である。
因果関係の錯誤は行為者が認識した対象に結果が生じたが、生じるに至る因果経過が行為者の認識と異なった場合である。
これらを踏まえて事実の錯誤の重要性を判断する基準、すなわち認識と事実がどれだけずれた場合に故意の成立を否定すべきかを決定する錯誤に関する学説は三つある。
構成要件的に重要な事実において、認識した内容と発生した事実が具体的に一致してなければ故意は認められない具体的不合説、認識事実と実現事実とが構成要件の範囲内において符合している場合には実現事実については故意が認められる法定的不合説、認識した内容と発生した結果とが意思ないし性格の危険性の点で抽象的に符合していれば故意は阻却されない抽象的不合説がある。
判例は法定的不合説を採用している。学説でもその基本的発想が支持されている。
法律の錯誤の学説
法律上ゆるされない事が許されていると錯覚することを法律の錯誤というが、この取り扱いについては、違法性の意識の可能性の要否をめぐる対立ある。
a違法性の意識不要説、故意を阻却せず、犯罪が成立、同説によれば38条3項の「法律」とは違法性を意味し、但し書きは、法律の錯誤によって違法性の意識がなかったが、情状により刑の減刑可能性を規定したものだとされる
学説は、違法性の意識(又はその可能性)を、故意の要素 ( Vorsatzmerkmal ) として位置づける見解(故意説)と責任の要件 ( Schoolmarm ) に位置づける見解(責任説)に大別される。 故意説は、違法性の意識を故意の要素とする「厳格故意説」と違法性の意識の可能性を故意の要素とする「制限故意説」に分かれる。 一方、責任説は、違法性の意識の可能性を、故意犯及び過失犯に共通の責任要素とするものであるが、それはさらに、違法性阻却事由該当事実の誤信について故意の阻却を否定し、違法性の錯誤として、違法性の意識の可能性の有無を基準に責任の有無を決する「厳格責任説」と違法性阻却事由該当事実の誤信について故意の阻却を肯定する「制限責任説」に分かれる。
故意説
厳格故意説
この説は、違法性の意識があるにもかかわらず、敢えて違法行為を実行するところに、故意犯として非難すべき根拠があると解する。 つまり、違法性の意識の有無は、故意と過失とを分かつ分水嶺であると考えることができ、「敢えて行った」ことに対して故意を厳格に認めるべきであるという見解である。
厳格故意説によると、刑法38条3項は「法規の認識」が不要であることを定めたものと解されることになる。 しかし、この学説には以下の批判がある。
· 常習犯や確信犯には、そもそも違法性の意識がないため、故意犯の成立が否定される。
· 違法でないと軽信しただけで故意犯の成立が否定されうる。
· 刑法38条3項が上記のように単なる確認規定であると解するのは、現行刑法の解釈として疑問がある。
· この説によると、高度の法的知識を備えた者のみに故意を認めうることともなり、妥当ではない。
したがって、違法性の意識を故意の要件とすることには問題がある。 そこで、こうした批判を意識した見解は、違法性の意識の内容を緩和し、法的な禁止の認識のみならず、前法的な規範違反(社会的有害性など)の認識で足りるとしている。
なお、「違法性の意識を欠いたことに過失があった」場合、故意犯の成立が否定されるだけなので、(過失処罰規定があれば)過失犯が成立する余地はあることになる。
制限故意説[編集]
違法性の意識は故意の要件としては不要であるが、その可能性が故意の要件であるとする見解である。 原則として違法性の錯誤は責任故意を阻却しないが、違法性の意識の可能性すらない場合には故意犯は成立しないとする。
これは、違法性の現実の意識を不要とすることで具体的な結論の妥当性を担保しようとするものであるが、「可能性」概念を故意に取り込むことには疑問があるし、違法性の意識の可能性がない場合、過失犯の成立が肯定されるのかに疑問があるとの批判が可能。
責任説
違法性の意識の認識可能性を故意・過失共通の独立した責任要素であると解する見解を責任説という。 この説では、犯罪事実の認識は故意そのものであり、違法性を認識すべきものであるので、違法性の意識の有無が行為を行った時点であったかどうかは責任非難の質的差異をもたらすものではないと考える。 つまり、現実にその行為の違法性を認識していたか否かを問わず、故意犯としての責任を免れないことになるのである。
刑法38条3項は、違法性の意識の可能性の有無にかかわらず故意が阻却されないことを定めたもので、刑法38条3項但書は、違法性の意識を認識することが困難である場合には非難可能性が減少するため、刑を減軽することを定めたものであると解する。 違法性の意識の可能性すら存在していなかったとされる場合には、非難可能性がなく、刑法38条3項但書の趣旨から、責任阻却が肯定されると解する。
厳格責任説
責任説を厳格に貫き、違法性阻却事由該当事実の認識は故意とは無関係な責任要素であるから、その誤信に回避可能性がある場合(つまり違法性の意識の可能性がある場合)にのみ責任阻却が肯定されるとする見解である。 この見解によれば、構成要件的故意が肯定される場合には、故意犯が成立するか不可罰となるかの二者択一であり、過失犯が成立することはないことになる。
制限責任説
厳格責任説を採ると妥当でない結論に至ることを踏まえ、違法性阻却事由該当事実の誤信は故意を阻却するとする見解である。 この見解によれば、誤想防衛や誤想避難について故意阻却が肯定されることとなる。
判例
判例は、違法性の意識に触れておらず、その可能性も要求しており、違法性の意識は不要であると解されている(違法性の意識不要説)。
しかし、大審院の判例(大判昭和7年8月4日、大審院刑事判例集11巻1153頁)以後の下級審判決では、違法性の意識までは必要ないとしても、違法性の意識の可能性は少なくとも必要であるという判決が多数ある。これら下級審の判例では、映倫管理委員会の審査を通過した映画を上映する場合には、その映画が刑法174条における公然わいせつには該当しないと信ずるに値するので、174条を犯す意思はなかったとした判例である黒い雪事件(東京高判昭和44年9月17日、高等裁判書判決22巻4号595頁)に代表されるように、制限故意説が主流となっているとも理解されている。しかし、端的な責任阻却という理由を採らず故意阻却としたのは、刑法38条1項という法文にその手がかりを求めたに過ぎないとも解されるので、必ずしも制限故意説を採るものとは言えず、制限責任説からも同じ結論が導かれる。
4,これらを踏まえた上での誤想過剰防衛の処理
正当防衛
→36条1項は,「急迫不正の侵害に対して,自己又は他人の権利を防衛するため,やむを得ずにした行為は,罰しない。」として正当防衛を規定する。構成要件に該当する
行為をしても,正当防衛が成立するときは,違法性が阻却されて犯罪は成立しない。
2 正当化根拠
→刑法36条1項の要件を満たす急迫不正の侵害という緊急状態における防衛行為は, それが構成要件に該当する行為であっても,個人の自己保全の利益という観点や,正
は不正に譲歩する必要はないとの観点(法確証の利益を確保する観点)から,正当防
衛として違法性かが阻却されて,犯罪は成立しないと解されている。個人の自己保全の利益とは,不正な攻撃に対してとっさに反撃して自己保全を図るの
は人間の本能として許されるから正当防衛に当たる行為は違法性が阻却され不可罰と
なるとするものである。
法確証の利益とは,急迫不正の侵害が許されないことを確認してそれを宣言する利益
があるから正当防衛は不可罰となるとするものである。「正は不正に譲歩する必要はない」との観点から,正当防衛は不可罰になるということもある。
3 成立要件
(1) 急迫不正の侵害
ア
侵害の「急迫性」の意義
→侵害の「急迫性」とは,法益侵害の危険が現に存在するか切迫していることをいう。
● ・将来の予期される侵害には急迫性がないため,それに対する正当防衛は認められな
い。もっとも,将来の侵害を予期して不法侵入者に対して攻撃をしかける忍び返し
のような装置を設置した場合であっても,防衛の効果が侵害の急迫したときには
はじめて生じたのであれば侵害の「急迫性」は肯定されうる。
・過去の侵害行為に対する正当防衛は許されず,侵害が既に終了したときはもはや「急
迫性」は認められない。過去の侵害に対しては自救行為が成立する余地があるのみ
である。
・学説では,侵害の急迫性は,性質上,行為者の主観によらず客観的に判断されると
するものが多い。一方,判例は,行為者が,予期される侵害を利用して積極的に加
害行為にでる場合に急迫性の要件を認めていないため,行為者の主観が急迫性の要
件に影響する場合があることを認めている(最決昭
52.7.21,最決平
29.4.26)。
(2) 防衛の意思
ア
防衛の意思の要否
→正当防衛の成立要件として防衛の意思が必要かについては議論がある。
・判例は防衛の意思を必要としている(最判昭
50.11.28 等)。
・36条1項の条文上「防衛するため」と規定されていることや,防衛の意思がある
防衛行為こそ自己保全の利益と法確証の利益があるものとして正当防衛を正当化できることから,正当防衛の成立には防衛の意思は必要とする見解がある(防衛の意
思必要説)。
・一方,「防衛のため」とは客観的に防衛に向けられた行為をいい,正当防衛の成立に
防衛の意思は不要であるとの見解もある(防衛の意思不要説)。
イ
防衛の意思の内容
・防衛の意思の内容 積極的な防衛の目的や動機を必要とする見解もあるが,正当防衛の緊急性に鑑み, 正当防衛の成立にそこまでの意思を要求する必要性はなく,急迫不正の侵害を認識
しつつ,これを避けようとする単純な心理状態が認められれば防衛の意思があるといえると解されている。
・積極的加害意思
防衛の意思と攻撃の意思が併存していても,急迫不正の侵害を認識しつつ,これを
避けようとする単純な心理状態が認められる限り,防衛の意思は否定されない。も
っとも,防衛に名を借りて積極的に攻撃を加える意思(積極的加害意思)をもって
防衛行為にでるときは,前記単純な心理状態とはいえないため,防衛の意思を欠く
ものといえる。これと結論が同じ判例がある(最判昭
50.11.28)。
・積極的加害意思の位置づけ判例の分析 判例は,侵害発生の前の時点での積極的加害意思は「急迫性」の問題とし,侵害発
生の時点での積極的加害意思は「防衛の意思」の問題としている。
(3) やむを得ずにした行為(必要性と相当性) ア
意義
→判例は,「やむを得ずにした行為」とは,急迫不正の侵害に対する反撃行為が,自己
または他人の権利を防衛する手段として必要最小限度のものをいうとしている。
・判例は,「やむを得ずにした行為」とは,急迫不正の侵害に対する反撃行為が,自己
または他人の権利を防衛する手段として必要最小限度のものであること,すなわち
反撃行為が侵害に対する防衛手段として相当性を有するものであることを意味するのであって,反撃行為が右の限度を超えず、したがって侵害に対する防衛手段と
して相当性を有する以上,その反撃行為により生じた結果が,たまたま侵害されよ
うとした法益より大であっても,その反撃行為が正当防衛行為でなくなるものではないとしている(最判昭
44.12.4)。
判例は,相当性の判断の対象を,防衛行為から生じた結果ではなく,防衛行為の
態様に置き,防衛行為の手段としての相当性が肯定されれば「やむを得ずにした行
為」といえることを肯定する。○
・ホーム上で電車を待っていた女性が,酒に酔ってしつこくからんでくる男性を突き
放すために,その男性の胸を手で突き飛ばしたところ,その男性が3mほど後ずさ
りしてホームの上から転落し,ホームに侵入してきた電車とホームの間に挟まれ死
亡したため,その女性は傷害致死罪で起訴された。千葉地裁は,この女性の防衛行
為に相当性その他の正当防衛の成立要件の充足性を肯定し,正当防衛の成立を認め
た(千葉地判昭
62.9.17・船橋駅事件)。○
5
LEC専任講師
矢島純一
イ
相当性の判断の方法
→判例は,「やむを得ずした行為」とは,防衛手段としての相当性をいうとしており, その相当性について,防衛する手段として必要最小限度といえるか否かという基準
で判断している。●
この判断の際は,1侵害行為と防衛行為とを比較し,それぞれの行為の危険性を
比較衡量して,実質的に武器対等といえるかということを検討する。例えば,ナイ
フと素手なら武器対等ではないというように形式的に考えるのではなく,行為者の
性別,年齢,体力,格闘技の経験の有無,その他具体的な事情を考慮して実質的に
武器対等といえるかをみる。●
さらに,2実際の防衛行為とその場面で他に採り得る仮定的な防衛行為(代替行
為)とを比較し,その仮定的な防衛行為を採るべきであったと判断されるときは, 防衛する手段として必要最小限度とはいえず相当性の要件を満たさない(防衛行為
と代替行為の比較)。なお,正当防衛は,緊急避難のように補充性の要件は課されて
いないので,実際の防衛行為が唯一の防衛手段といえることまでは要求されない。
○
・防衛者と相手方の年齢や体力,防衛者が菜切包丁を相手に向かって振りかざすので
はなく腰のあたりに携えて防御の体制をとっていたにすぎないという武器の使い方
などの事実関係から,実質的な武器対等,代替行為との比較の観点から,素手の攻
撃に対する防衛者の菜切包丁を用いた防衛行為の相当性を認めた判例を紹介する。
被告人(48歳)は,Vと自動車の駐車をめぐって怒鳴り合いになった際,年齢
も若く体力にも優れたV(39歳・男性・ダンプカー運転手)から「お前,殴られ
たいのか。」と言って手拳を前に突き出し,足を蹴り上げる動作を示されながら近づ
かれ,さらに後ずさりするのを追いかけられて目前に迫られたため,その接近を防
ぎ,同人からの危害を免れるため,やむなく菜切包丁を手に取ったうえ腰のあたり
に携え,「切られたいんか。」などと言った行為について,銃砲刀剣類所持等取締法
違反,暴力行為等処罰に関する法律違反の罪により起訴された事件で,被告人の正
当防衛の成否が争われた。最高裁は,「被告人の右行為は,Aからの危害を避ける
ための防御的な行動に終始していたものであるから,その行為をもって防衛手段と
しての相当性の範囲を超えたものということはできない。」として,素手の相手に
対して菜切包丁を向ける態様での防衛行為の相当性を肯定した(最判平元.11.13)。
本判決は,被告人と相手方の年齢や体力の違いや,素手の相手方に対して菜切包
丁を向けたとはいえ,被告人の防衛行為の態様が「防御的な行動」であったことな
ど着目して,防衛行為の相当性を判断したものといえる。
矢島の短期集中マスター~刑法の間接正犯・共犯
第9章
過剰防衛 1 意義
→36条2項は「防衛の程度を超えた行為は,情状により,その刑を減軽し,又は免除
することができる。」として過剰防衛を規定する。過剰防衛は,正当防衛の成立要件の
うち,急迫不正の侵害と防衛の意思の要件は満たすが,やむを得ずにした行為との要
件を満たさないときに成立する。○
・過剰防衛が成立するときは,構成要件に該当する行為が,正当防衛としては違法性が
阻却されないので犯罪は成立し,ただ,任意的に刑が減軽または免除できることにな
るにすぎない。過剰防衛は,犯罪が成立することを前提とした科刑の問題である。○
2 過剰防衛の減免の根拠
→現在の通説は,過剰防衛の刑の減免の根拠を,急迫不正の侵害に対する反撃行為によ
って正当な利益が維持されたことで違法性が減少し,急迫不正の侵害という緊急状態
下における恐怖,狼狽などによる心理的動揺から責任が減少(非難可能性)するとし
て,責任の減少と違法性の減少の両者に求める見解に立っている(違法・責任減少説)。
●
・減免の根拠を違法減少と責任減少の両者に求める見解の中でも,違法減少と責任減少
の関係について,違法減少と責任減少の双方が減免の根拠として要求されるとする見
解(重畳的併用説)と,違法減少か責任減少のいずれかが認められれば減免の根拠と
しては足りるとする見解(択一的併用説)とがある。学説では後者の見解が多数であ
る。○
・過剰防衛の刑の減免の根拠を明確に示した判例は存在しないが,責任減少に減免の根
拠を求める見解に親和的な判例が多いとされる。このことから,判例は,減免の根拠
につき,責任減少説や,違法責任減少説のうち択一的併用説と整合する。○
7
LEC専任講師
矢島純一
第10章
誤想防衛・誤想過剰防衛 1 誤想防衛(狭義の誤想防衛)
→急迫不正の侵害がないにもかかわらず,それがあると誤信して防衛行為に及ぶことを
誤想防衛という(狭義の誤想防衛)。誤想防衛は,正当防衛の要件のうち,急迫不正
の侵害の要件は満たさないが,防衛の意思や,やむを得ずにした行為といった急迫不
正の侵害の要件以外の要件が全て満たされているときに成立する。●
関連問題:H27
司法論文
・狭義の誤想防衛の処理~違法性阻却事由に関する事実の錯誤
○
誤想防衛が問題となる事案では,まず,行為者の行為が構成要件に該当することを確
定し,行為者は正当防衛のつもりで行為にでているが,急迫不正の侵害がないため正
当防衛は成立せず,行為の違法性は阻却されないということを示す。
その上で,急迫不正の侵害という正当防衛の成立要件に関する事実の錯誤は,一般
的にいえば,違法性阻却事由についての事実の錯誤があることになる。違法性阻却事
由に関する事実の錯誤があるときでも,構成要件該当事実については認識認容してい
るため,構成要件該当事実に関する事実の錯誤として故意(構成要件的故意)は阻却
されない。もっとも,違法性阻却事由の事実の錯誤があるときは,行為者は,自己の
行為が許されていると誤信して,規範の問題に直面して反対動機を形成することがで
きなかったため故意責任を課し得ず,故意(責任故意)が阻却されると解される。し
たがって,違法性阻却事由に関する事実の錯誤がある場合は故意犯は成立しない。例
えば,急迫不正の侵害を誤認して傷害罪の構成要件に該当する行為をした者でも,誤
想防衛が認められると,故意犯である傷害罪は成立しない。
もっとも,違法性阻却事由に当たる事実を誤認したことにつき過失があるときで, 過失犯処罰規定があるときは,別途,過失犯が成立しうる。例えば,誤想防衛により
傷害罪の故意が阻却されて傷害罪が成立しないときでも,急迫不正侵害を誤認したこ
とに過失があれば過失傷害罪が成立する。
注:なお,「責任故意」ではなく「故意責任」というときは責任故意の問題だけでな
く,構成要件的故意の問題を意味するときがある。
・H27 司法論文(出題の趣旨・抜粋) 誤想防衛ないし誤想自救行為として,傷害罪の故意を否定する場合,さらに,侵害について誤信
した点についての過失を検討する必要がある。これに過失があるとすれば,過失傷害罪が成立す
ることとなろう。
矢島の短期集中マスター~刑法の間接正犯・共犯
2 誤想過剰防衛 (1) 意義
→正当防衛の成立要件のうち,防衛の意思はあるが,急迫不正の侵害がないにもかか
わらずそれがあると誤信し,防衛手段の必要性・相当性を満たさず防衛手段として
過剰性がある場合を,誤想過剰防衛という。簡単にいえば誤想防衛と過剰防衛が合
わさったものである(誤想防衛+過剰防衛)。
・誤想過剰防衛は,次の2つのものに分類できる。
(A) 行為者が,急迫不正の侵害を誤認しているが過剰性を基礎づける事実を認識し
ている場合(狭義の誤想過剰防衛)
(B) 行為者が,急迫不正の侵害を誤認しているだけでなくさらに過剰性を基礎付け
る事実を認識していない場合(二重の誤想過剰防衛) 上記各誤想過剰防衛については,それぞれ処理の仕方が異なる。
(2) 狭義の誤想過剰防衛の処理の方法
→急迫不正の侵害を誤認しているが過剰性を基礎づける事実の認識がある場合(狭義
の誤想過剰防衛),行為者は,違法な過剰事実を認識したことで,そのような行為
にでてはいけないとの規範の問題に直面して反対動機を形成する機会が与えられて
いたため,故意責任(故意非難)を課し得る。そこで,この場合は,故意(責任故
意)は阻却されず,故意犯が成立する。
もっとも,狭義の誤想過剰防衛の場合でも,行為者が誤認した侵害から狼狽して
過剰な防衛手段にでることはやむをえない面があり責任減少が認められるので,過
剰防衛の任意的な刑の減軽または免除を規定する刑法36条2項が準用されると解
されている。
誤想過剰防衛に刑法36条2項を準用するとしても,刑の免除まで認めると,同
じ誤想防衛でも防衛手段の過剰性がない通常の誤想防衛の事案で急迫不正の侵害
を誤信したことに過失があるため過失犯が成立する場合に刑を免除することができ
ないこととの均衡を図るために,誤想過剰防衛により故意犯が成立する場合は刑の
減軽にとどめ刑の免除まではするべきではないと解されている。○
9
LEC専任講師
矢島純一
・例えば,Aが,Bから殴りかかられると誤想して,所持していたナイフでBの腹部
を刺して傷害を負わせた場合において,Aが急迫不正の侵害の存在は誤認したが, 過剰性を基礎付ける事実を認識していたといえるときは,まず,Aの行為は傷害罪
の構成要件に該当することを確定する。そして,急迫不正の侵害や手段の相当性と
いう正当防衛の成立要件を欠き,正当防衛が成立しないため,行為の違法性が阻却
されないことを確定する。
次に,Aは,自己の行為が正当防衛になると思って行為に及んでいるので,責任
非難を課しえず責任故意が阻却されるとも思えるが,Aは,過剰性を基礎付ける事
実を認識し自己の行為が正当防衛として許されないという規範の問題に直面して
反対動機を形成する機会を与えられている。それにもかかわらず,行為に及んだA には故意責任(故意非難)を課しうる。したがって,責任故意は阻却されない。以
上より,Aの行為は傷害罪の構成要件に該当し,違法性及び責任は阻却されず傷害
罪が成立する。
もっとも,Aが急迫不正の侵害を誤認したことで狼狽して過剰な防衛行為に及ん
だといえれば責任減少が認められるので,その場合には,同じく狼狽から防衛手段
が過剰となった場合に刑の任意的減免をみとめる過剰防衛についての刑法36条2 項の準用を認めるが,通常の誤想防衛で過失犯が成立する場合に刑の減免の余地が
ないこととの均衡から,刑を任意的に減軽しうるにとどまる。○
・狭義の誤想過剰防衛の事例の判例 男性Vが飲酒して酩酊していた女性をなだめていたところ,空手三段の被告人は, Vが女性を暴行していると誤信して,女性を助けるために,Vと女性の間に入り, 次いでVの方を振り向きVに近づいていったところ,Vが防御するため手を握って
胸の前あたりに上げたのを,ボクシングのファイティングポーズをとって被告人に
殴りかかってくるものと誤信して,自己の身と女性の身を守るために,空手技の回
し蹴りでVの顔面を蹴って路上に転倒させて頭蓋骨骨折,脳硬膜外出血,脳挫滅の
傷害を負わせて死亡させた。被告人は傷害致死罪で起訴された。
最高裁は,本件回し蹴り行為は,被告人が誤信したVによる急迫不正の侵害に対
する防衛手段として相当性を逸脱していることは明らかであるとして,被告人に傷
害致死罪の成立を認めた上で,過剰防衛の任意的な刑の減軽または免除を定める刑
法36条2項により刑を減軽した原審の判断を正当なものとして是認した(最決昭
62.3.26・勘違い騎士道事件)。
H20-7
5まとめ
最初に書いたように人によって考え方が違うので主観面を評価するのはできる限り避けたほうがいいと思う。このままだとは何も知らない一般人のほうが特になってしまうかもしれない。いろいろな学説があってもあくまで実務の人たちにとってより良いものであるべきだ。これから特定技能実習生などでいわゆる移民が日本に増える流れの中で日本人の当たり前が通用しないのではないだろうか。規範的構成要件要素などの裁判官の規範的価値観に託されるようなものはもっとグローバルな視点に立てるように裁判官は考えなければならない。
もしかしたらこれからは脳科学やAIなどの発展により故意などのような主観面の問題の議論に決着がつくかもしれない。仮にこの議論に決着がついても、決して無駄ではなく、新たな説などが出てきてむしろ発展したらいいと思う。これからの法律は人類の最新技術と並存して一般人にもわかりやすくし、法律というものをもっと一般的なものにしていくべきだ。
法律は人類の正義のためにあるのだから法律家にしか理論がわからないなんて私はおかしいのではないだろうか。
参考文献
Wikipedia、択一六法、山口刑法、法学スケッチブック(則武先生)、判例集百選刑法T、LEC専任講師 矢島純一の論文対策
岩川 達
故意と錯誤
16j108004 岩川達
故意と錯誤について、とても密接に関係しているがとても難しい。たくさんの説や考え方があるので事案により変わるが、厳格責任説と制限責任説などあるができるだけ一本にまとめれいいと思う。私は厳格責任説の考えをとっていくといいと思う。
行為無価値
日本では戦後まもなく、平野龍一、平場安治、福田平らによって、ヴェルツェルの刑法理論が紹介されたが平野は、瀧川幸辰、佐伯千仭の法益侵害説の影響の下、自説を改めて「結果無価値論」を採用することを明確にし、団藤重光らの「行為無価値論」を刑法の任務を道徳の保護にあるとするもので、過度に刑法を心情化し妥当でないと批判して、戦後の自由主義的な風潮の下支持を広げた。
もっとも、現在では、「結果無価値論」・「行為無価値論」という名称は、誤解を招くもので、この名称による学説の画一的類型化は妥当ではないとされている。
まず、「結果無価値論」に立つ場合でも、およそ旧派刑法理論に立つ限り犯罪は違法な「行為」なので、法益侵害の結果発生の危険性を有する行為の方法及び態様は、現実的に結果が発生していなくても考慮することができるとされ、その限りで、「結果無価値論」という言葉は結果の現実的な発生のみを問題にする見解であるかのように誤解を招くとされている。
また、「結果無価値論」内部で、違法性の実質について法益侵害の結果ないし結果発生の危険に求める点については広く合意が認められるものの、未遂犯における故意については主観的違法要素であるとする論者もいるだけではなく[3]、その他にも、主観違法要素を一切否定するのか、認める場合にもどの範囲で認めるのか等多くの問題について必ずしも見解が一致しているわけではない。
逆に、「行為無価値論」内部でも、日本では、ドイツとは異なり、行為無価値と結果無価値の双方を考慮するという二元的行為無価値論ないし折衷的行為無価値論がほとんどで、その限りで、我が国の「行為無価値論」は「結果無価値論」にかなりの程度まで接近する傾向を示しており、「結果無価値」という概念は、もともとヴェルツェルが用いていた「行為無価値」の対立概念としての意義を失っている。
現在では、従来「結果無価値論」と「行為無価値論」の対立とされた点は、@違法性を規範的なものととらえるか物的なものととらえるか、A違法評価を道徳的・倫理的判断からどれだけ切り離すのか、B違法性の判断基準を主観的なものとするか客観的なものとするか、C違法性の判断対象を主観的なものとするか客観的なものとするか、D違法性を判断する時点を行為時するか事後にするか、の対立の全部又は一部で、論者によって「結果無価値」・「行為無価値」という概念が様々な意味で用いられたことが複雑な違法性論の学説状況を生み出したとされている。
以上のような事情を反映して、「行為無価値論」の立場から「結果無価値論」を吸収合併しようとする試みもなされているが、なお両論には、刑法の任務・機能についての根本的な考え方の違いがあるだけでなく、その対立は、正当防衛における防衛の意思の要否、対物防衛の可能性、被害者の同意が違法性阻却を認める範囲等の多くの個別の論点に及ぶことから、両論を完全に総合することは容易になし得ないとされている
錯誤とは
錯誤には、事実の錯誤と法律の錯誤がある。
事実の錯誤とは、事実とその認識との間に齟齬があることをいう。構成要件的事実の錯誤の他、違法性阻却事由の事実的前提に関する錯誤も含まれる。
法律の錯誤とは、違法性に関する法秩序の客観的評価と行為者の主観的評価との間に齟齬があることをいう。
構成要件的事実の錯誤
構成要件的事実の錯誤には、具体的事実の錯誤と抽象的事実の錯誤の2つある。
具体的事実の錯誤とは、事実とその認識との間の齟齬が、同一構成要件内で生じている場合をいう。他方、抽象的事実の錯誤とは、事実のその認識との間の齟齬が、異なる構成要件にまたがって生じている場合をいう。
事実の錯誤の態様
事実の錯誤は、客体の錯誤、方法の錯誤、因果関係の錯誤の3つの態様に分かれている。
客体の錯誤とは、認識した侵害客体の属性についての錯誤いう。
Ex Aだと思って射殺したところ、それはBだったという場合
方法の錯誤とは、認識した客体と異なる客体に侵害が生じた場合をいう
Ex
Aに向けて拳銃を発砲したところ、意外にもBに命中してBが死亡した場合
因果関係の錯誤の錯誤とは、認識した客体に侵害が生じたが、因果経過が予見したものと異なる場合をいう。
Ex
Aを溺死させようとして川に突き落としたが、Aは橋桁に頭を打ち付けて死亡した場合。
事実の錯誤の重要性を判断する基準、すなわち認識と事実がどれだけずれた場合に故意の成立を否定すべきかを決定する基準に関しては、次の3つの学説が対立している。
錯誤に関する学説、具体的符合説(構成要件的に重要な事実において、認識した内容と発生した事実が具体的に一致していなければ故意は認められない。)
法定的符合説(認識事実と実現事実とが構成要件の範囲内において符号している場合には実現事実について故意が認められている。)
抽象的符号説(認識した内容と発生した結果とが意思ないし性格の危険性の点で抽象的に符号していれば、故意は阻却されない。)
これに関する判例を考えて行こうと思う。
出版業を営む書店の社長として同社の出版販売等一切の業務を統括していた被告人がD・H・ ロレンスの著作になる 『チャタレイ婦人の恋人』 の翻訳本の出版を企図し、Yにその翻訳を依頼して日本語訳を手に入れ、その中に性的描写をした記述のあることを知っていたが、これを上下2巻に分冊して出版し、昭和25年4月中旬頃から、これを販売したという事案に関するものである。 この事案について、最高裁判所大法廷は、
「刑法175条 の罪、事実の錯誤と違法性の錯誤の区別 35における犯意の成立については問題となる記載
の存在の認識とこれを頒布販売することの認識があれば足り、かかる記載のある文書が同条所定の狸褻性を具備するかどうかの認識まで必要としているものでない。かりに主観的
には刑法175条の狸褻文書にあたらないものと信じてある文書を販売しても、それが客観 的に狸褻性を有するならば、法律の錯誤として犯意を阻却しないものといわなければならない。狸褻性に関し完全な認識があったか、未必の認aがあったのにとどまったか、また は全く認識がなかったかは刑法38条3項但書の情状の問題にすぎず、犯意の成立には関係がない。」と判示した。「わいせつ性」は、規範的構成要件要素である。規範的構成要件要素
とは、定義をしても一義的には確定できない要素をいう。規範的構成要件要素は、さらに社会的規範的構成要件要素と法律的規範的構成要件要素に区別されるべきである。「わいせつ性」
は前者に属するものである。本判例は、わいせつ性の認識に関して、「問題となる記載の存在の認識......があれば足り、かかる記載のある文書が同条所定の狸褻性を具備するか どうかの認識まで必要としているものでない」としている。この趣旨について、「問題となる記載の認識」とはどのような認識をいうのかが必ずしも明白とはいえないが、問題となるべき部分の単なる言葉の羅列を認識していれば足りるという趣旨ではなく、社会においてその言葉によって表現される意味を理解していることを必要とする趣旨である。「問題となる」という判示の文言は、このことを表現するものである。したがって、本判例の判示は規範的構成要件要素における意味の認識の問題として一般的に理解されていることと異なるものではないであろう。ただ、本判例は「狸褻性に関し完全な認識があったか、未必の認識があったのにとどまっていたか、または全く認識がなかったかは......犯意の成立に関係がない」としているので、これとの関係で本判決が意味の認識すらも不要としていると解することができるようにも思われる。しかし、おそらくはそのように理解すべきではない。わいせつ性に関し「全く認識がなかったとしても、わいせつ性に関する未必的認識
の可能性が故意の成立と無関係であるとされたわけではないからである。したがって、問題となる記載の認識としては、描写に用いられている表現について社会における一般的意味を理解してい
ることを必要とし、かつそれをもって足りるとするのが、本判決の趣旨であると解する。
したがって、行為者がわいせつ性に関する未必的認識の可能性を否定されるような認識しか
もっていなかった場合には、事実の錯誤として故意が否定されるが、その可能性を認める
ことができる程度にまで意味の認識をしているのに、わいせつではないと誤信しているのであれば、その誤信は「当てはめの錯誤」であって、故意は阻却されない。本判例は、この
ような結論を採用しているように思われる。
鑑札犬撲殺事件
無鑑札犬撲殺事件とは、養兎業を営む被告人が養兎を襲う犬に対する防止策として罠を仕掛けていたところ、ある日その罠に首環をつけていたが鑑札をつけていないポインター種
の犬が挟まったので、無鑑札の犬は他人の飼犬であっても無主犬とみなされるものと信じて、その犬を撲殺したが、明治34年の大分県令第27号飼犬取締規則1条には、飼犬証票がなく、かつ飼主が分明しない犬は無主犬とみなす旨の規定があり、本条は同令7条の警察官吏・町村長による獣疫 その他危害予防のために行われる無主犬との関係上設けられた ものであって、無主犬とみなされる犬の私人による撲殺を容認する趣旨のものではなかっ
たという事案に関するものである。原審裁判所は被告人の行為が器物損壊罪等の罪を構成
するとしたが
、弁護人の側から上告があり、最高裁判所は、「右警察規則等を誤解した結果鑑札をつけていない犬はたとい他人の飼犬であっても直ちに無主犬とみなされるものと誤信していたというのであるから、本件は被告人において右錯誤の結果判示の犬が他人所有に属する事実について認識を欠いていたものと認めるべき場合であったかも知れない」と判示した
本判例において問題となっているのは、「他人の物」、すなわち「物の他人性」という規範的構成要件要素に関する錯誤の場合である。規範的構成要件要素の認識については、従来、
「意味の認識」を誤認する場合は事実の錯誤であって故意が阻却されるが、意味を認識した
うえで「当てはめの錯誤」をしているにすぎない場合は違法性の錯誤であって故意は阻却
されないと解されてきた。
しかし、規範的構成要件要素には、たとえば、わいせつ文書頒布
・販売罪(刑法175 条)における「わいせつな」という要素のように、社会的意味の認識が問題となる社会的規範的構成要件要素と、たとえば、本判例で取り上げられている器物損壊罪における「他人の」という要素のように、法律的意味の認識が問題と事実の錯誤と違法性の錯誤の区別なる法律的規範的構成要件要素とが区別されるべきであり、前述の意味の認識に関する理論は、前者についてのみ適用されるものと解したい。したがって、法律を誤解した場合であっても、そのことによって事実に関する法律的意味の誤認が生じたときは、事実の錯誤として処理されるべきである。これを「法律的事実の錯誤」と呼ぶことができるであろう。
本判例における事案も、このような法律的事実の錯誤が問題となったものの一つである。被 告人は、その犬が無鑑札ではあるが、首環をつけているポインター種の犬であることを認識
していたのであるから、いったんはその犬が他人の所有に属することを認識していたといえるであろう。「物の他人性」を社会的規範的構成要件要素と同じに考えて、社会的な意味の認識があれば故意があるとするならば、被告人のこのような認識
に着目して故意の成立を認めてもかまわないように思われるかもしれない。
しかし、本判例は、警察規則等の誤解によって「物の他人性」に関する認識を欠いた場合として故意の成立を否定しているのである。このことは、法律の誤解が単純
に違法性の錯誤とされるのではなく、法律的事実についての錯誤とされる場合のあることを認めているといえるであろう。
故意と過失
故意とは犯罪事実の認識という(刑法38条)故意には体系上の位置付けで本来責任要素であるとされるが構成要件要素としてとして位置付ける学説が多い。そのうえで、故意を構成要件的故意としての故意とに分けて考える立場が根強く主張されている。故意には、確定的故意と不確定故意に分けられ、不確定故意は概括的故意、択一的故意、未必の故意が付随している。不確定故意の未必の故意と認識ある過失の線引きが難しいのが問題になっている。
責任要素としての故意に違法性の意識があり、違法性の意識とは、自己の行為を違法である意識していることである。違法性の意識については、その要否・程度などにつき争いがある。これらの理解の相違により、38条3項の解釈について見解が分かれている。それに繋がってくるのが、誤想過剰防衛についてだ。勘違い騎士童事件では女性が男性に暴行を受けている勘違いした空手の有段者である被告人が回しげりして男性を死亡させた場合、被告人の誤想した気迫不正の侵害に対する防衛手段として相当性を逸脱していることは明らかであるから、傷害致死罪が成立するが、誤想過剰防衛に当たり、36条2項によって、刑が減軽される。誤想過剰防衛の処理について、従来は、誤想防衛か過剰防衛か(過失犯が成立するのか故意犯が成立するのか)という二者択一的な議論がされてきたが、近時では、故意犯の成否の問題と、36条2項の減免の効果を認めるか否かの問題とを分けて別個に検討する立場が有力となっている。違法性の意識について、その要否・程度・体系的位置付けが争われている
構成要件に関する錯誤以外はすべて法律の錯誤とする(厳格責任説)
違法性阻却事由の錯誤は事実の錯誤とする(制限責任説)この2つの説が争われているが僕自身としては中江先生と同じで厳格責任説が一番今の時代の合っていると思う。
まとめ
今回のテーマについて考えるのは非常に難しかった。これからの時代考え方やAIの進歩により、この話は終わりになると中江先生もおっしゃっていたので私もそうなると思う。本当にこの論点は難しかった
出典
刑法択一六法
Wikipedia
16j108004 岩川 達
松井悠太
テーマ:故意と錯誤
17j112018 松井悠太
キーワード:法定的符合説、誤想過剰防衛、違法性の意識、厳格責任説、規範的構成要件要素、意味の認識、構成要件的故意、Handlungsunwert(行為無価値)、未必の故意、
認識ある過失
結論:厳格責任説と制限責任説という2つの立場があるが私は制限責任説の立場を取るべきだと考える。
1.故意(刑法38条)について
まず初めに故意とは、本来責任要素であるとされるが、構成要件要素として位置付ける学説が多い。そのうえで、故意を構成要件的故意と責任要素としての故意(責任故意)とに分けて考える立場が強く主張されている現状である。さらに責任要素としての故意の立場には、違法性を基礎付けるその他の事実の事象と違法性の意識の可能性とに分かれている。
・故意の成立要件について
故意の成立には、構成要件的事実(記述的要素と規範的要素)の認識が必要である。
⑴記述的要素
構成要件要素の存否について、価値判断を入れずに裁判官の解釈ないし認識的活動によって確定できる要素を指す。
⑵規範的構成要件要素
規範的構成要件要素とは、構成要件要素の認定について、裁判官の規範的・評価的な
価値判断を必要とする構成要件を指す。(
例えば、物の他人性、文書性、わいせつ
性などがある)。
・構成要件的故意の種類
⑴確定故意
確定故意とは、行為者9が、犯罪事実、とくに構成要件的結果の発生することを確実なものとして表象する場合(死ぬかもしれない+それでよい)
⑵不確定故意とは、行為者が、犯罪事実、とくに構成要件的結果の発生することを不確実なものとして表象する場合
・未必の故意
未必の故意とは、行為者が、犯罪事実が発生するかもしれないと表象しながら、発生するならば、してもかまわないと認容する場合
(死ぬかもしれない、それでよい)
未必の故意と似て非なるものとして「認識ある過失」というものがある。
⑴認識なき過失
認識なき過失とは、行為者が犯罪事実の認識を全く欠いている過失をいう。
(死ぬと思っていなかった)
⑵認識ある過失
認識ある過失とは、認識はあるが、認容を欠いている過失をいう(認容説)。
(死ぬかもしれない、それは困る)
(故意の本質の解し方により、未必の故意と認識ある過失を区別する)。
未必の故意と規範的構成要件要素の認識という観点から「チャタレー事件」という
判例がある。
この判例は、わいせつ物頒布罪(刑法175条)のわいせつ性の意味の認識について問われ
たものだ。被告人Xは「チャタレー夫人の恋人」という本を翻訳出版する企てをし、被告
人Yにその依頼をし、その内容に性的描写のあることを知っているにもかかわらず、これ
を出版した。そしてX、Yは猥褻文書販売罪で起訴された。わいせつ性にかんする認識は問
題となる記載の散財の認識とこれを頒布販売することの認識があれば足り、175条のわ
いせつ性を具備するかどうかまでの認識は必要しないとした。私の意見としては、制限責任
説の立場をとっているのでこの判例の判決に異論はないと考える。
2.錯誤について
錯誤は大まかに、事実の錯誤、法律の錯誤の2つに分けられる。
1.事実の錯誤
事実の錯誤とは、事実とその認識との間に齟齬(食い違い)があることをいう。構成要
件的事実の錯誤のほか、違法性阻却事由の事実的前提に関する錯誤も含まれる。
2.法律の錯誤
法律の錯誤とは違法性に関する法秩序の客観的評価と行為者の主観的評価との間に齟齬があることを言う。
・構成要件的事実の錯誤
1.具体的事実の錯誤と抽象的事実の錯誤
・具体的事実の錯誤とは?
具体的事実の錯誤の処理に関しては、具体的符合説と法定的符合説とが対立する。(抽象的符合説は、法定的符合説と同様の結論に至る)。
・抽象的事実の錯誤とは?
抽象的事実の錯誤とは、事実とその認識との間の齟齬が、異なる構成要件にまたがって生じている、といえる。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
38条2項は、抽象的事実の錯誤のうち、軽い犯罪を行うつもりで重い犯罪を実現した場合について、重い犯罪により処断することができない旨定めるが、軽い犯罪に対応する刑は科すことができるのか、それとも無罪なのか明らかでない。また重い犯罪を犯すつもりで、軽い犯罪を実現したという場合や、両者の法定刑が同じ場合については、定めがない。そこで、これらの点をめぐって、法定的符合説と抽象的符合説が対立する。
2.事実の錯誤の様態 事実の錯誤とは、⑴客体の錯誤、⑵方法の錯誤、⑶因果関係の錯誤の3つの態様に分
かれる。
⑴客体の錯誤とは、認識した侵害客体の属性についての錯誤を言う
Ex, Aだと思って射殺したところ、それは B だったという場合
⑵方法の錯誤とは、認識した客体と異なる客体に侵害が生じた場合
Ex, Aに向けて拳銃を発砲したところ、意外にも B に命中して B が死亡した場合
⑶因果関係の錯誤とは、認識した客体に侵害が生じたが、因果経過が予見したものと異なる場合をいう
Ex, Aを溺死させようとして川に突き落としたが、A は橋桁に頭を打ちつけて死亡した場合
符合説の中でも3つの説がある
・具体的符合説 (具体的法定符合説)
構成要件的に重要な事実において、認識した内容と発生した事実が具体的に一致していなければ故意はみとめられない。
・法定的符合説 (抽象的符合説)
認識事実と実現事実とが構成要件の範囲内において符合している場合には実現事実について故意が認められる。
・抽象的符合説
認識した内容と発生した結果とが意思ないし性格の危険性の点で抽象的に符合していれば、故意は阻却されない
この3つのうち2番目の法定的符合説が現在判例通説となっている。
また法定的符合説には数故意説と一故意犯説とが存在する
・数故意犯説は発生した結果に対応する複数の故意犯の成立を肯定と解する説
・一故意犯説は一個の故意がある場合には、故意犯は一個しか成立しないと解する説
故意の個数に関する判例で「判決53.7.28」の判例を見てみると、被告人が警察官Aを殺しAの所持している拳銃を奪い取るという意思で、建設用びょう打銃を改造した手製装薬銃を、Aに向けて発砲したところAの方を貫通して通行人Bにも命中させてしまいA,B両方に重症を負わせてしまった。
この場合人を殺す意思で殺害行為に出た以上、たとえ犯人が通行人Bを認識していなかったとしてもその結果が発生してしまったので犯人に故意があるといっても良い。よって強盗殺人の故意で警察官Aに向けて発砲したが通行人Bにも負傷させてしまったので2個の強盗殺人未遂罪が成立する。
この説に関しては世間一般の正義観からも数故意犯説が適切だと、私はそう思う。
他にも事実の錯誤に関して、「無監察犬撲殺事件」(最判昭26.8.17)という判例がある。
この事件は「他人性」の錯誤について争われた判例で、他人所有の無監察犬を撲殺した場合でも、飼主証票なき犬は無主犬とみなす旨の大分県令を誤解した結果、当該犬が他人所有に属する事実について認識を欠いていたと認めるべき場合は事実の錯誤として犯意を阻却しうる、というものだ。この判例の場合、犬が「他人」の犬であることは法律的事実。しかし法律的事実であっても、違法性という刑法的評価の対象となる事実の中に含まれているので、その法律的事実に関する錯誤は事実の錯誤となる。よって、判旨が、大分県令を誤解した結果、事実の錯誤となる場合があるとされている。
3.違法性の意識について
・違法性の意識、自己の行為を違法であると意識していることである
また違法性の錯誤という言葉があるがこれは法律の錯誤のことである。
ここで問題になってくるのが、事実の錯誤と法律の錯誤、どっちの見方をするべきなのかである。
4.違法性阻却事由の錯誤
⑴違法性阻却事由にあたる事実がないのに、あると誤信した場合の取り扱い争いがある。
⑵誤想防衛
正当防衛(36条)の要件にあたる事実がないのに、あると誤信した場合をいう。
↓
誤想防衛には、他にも誤想過剰防衛というものも存在する。
誤想過剰防衛に関して、今までは誤想防衛なのか過剰防衛(過失犯なのか故意犯)なのかが争われてきた。しかし、近年では故意犯の成否の問題と、刑法36条2項の減免の効果を認めるか否かの問題とに分けて検討する立場が有力となってきている。
この論点で有名な判例に「勘違い騎士道事件」(最決昭62.3.26)というものがある。
この事件は、女性が男性に暴行を受けていると勘違いした空手の有段者である被告人が、回し蹴りをして男性を死亡させた場合、被告人の誤想した急迫不正の侵害に対する防衛手段として相当性を逸脱していることは明らかであるから、傷害致死罪が成立するが、誤想過剰防衛に当たり、36条2項によって刑が減軽された、というものだ。
この判例では厳格責任説の立場を取った場合、「無罪」となる。
しかし、私の意見としてはいくら殺そうという意識がないにしろ殺してしまったという事実は揺るがず、また被害者の遺族としてもそれは納得できないと考える。よって私の正義を貫くのであれば、刑の減軽というかたちをとり罪を与えたほうが良いと考える。
この事件を民法で見たとき、過剰防衛は「正当防衛」として不法行為責任を阻却しないと考えている。しかし加害者は過剰性の認識があるので、正当防衛にはならない。そこで民法722条2項の過失相殺を適用して、今回の判例だと4割の過失相殺が認められる。刑法と民法でここまで結果が違ってくるため注意が必要である。
4.行為無価値(Handlungsunwert)と結果無価値(Erfolgsunwert)
1.形式的違法性と実質的違法性
・違法性の本質
⑴形式的違法性
行為が実定法規に違反すること。(行為が法律上許されないということを形式的に示すにすぎない)
⑵実質的違法性
行為全体としての法秩序に実質的に違反するという性質のこと。(法益侵害と規範違反説が対立している)
・法益侵害説(結果無価値論)
実質的違法性を法益の侵害又はその危険性とする。
・規範違反説(一元的行為無価値論)
実質的違法性を、社会倫理規範違反とする。
・二元説(二元的行為無価値論)
実質的違法性を社会倫理規範に違反する法益侵害の惹起とする。
2.主観的違法論と客観的違法論
⑴主観的違法論
法を命令・禁止と解し、その命令・禁止に従って行為することができるのにそれに違反することが違法であるとする立場をいう。(責任能力者の行為だけが違法判断の対象)
⑵客観的違法論
法を評価規範と決定規範とにわけ、評価規範に客観的に違反することが違法であり、決定規範に主観的に違反することが違法であり、決定規範に主観的に違反することが責任であるとする立場。(行為の違法性は、責任能力の有無とは関係なし)
・違法性の要素
2.客観的違法要素
⑴構成要件の客観的要素
*構成要件は違法類型
⑵構成要件以外の要素
・法益侵害・危険の程度(結果無価値)
・行為の手段・方法、行為の態様など(行為無価値)
3.主観的違法要素
主観的違法要素の肯否
⑴行為無価値論
行為者の主観的事情も考慮して違法性を判断するので、主観的違法要素を一般的に肯定する考え方。(判例)
⑵結果無価値論
法益侵害及びその危険に限定して違法性を考えるので、主観的違法要素を全面的に否定する考えかた
4.詰まるところ
刑法の機能・・・結果無価値論(以降A)は法益保護、行為無価値論(以降B)も法益保護と社会倫理秩序維持
客観的違法論との関係・・・Aは判断対象による区別、Bは判断基準により区別
違法性阻却事由の一般原理・・・Aは法益衡量説、Bは社会的相当説・目的説
5.最後に
刑法はいろいろな説が多くてどの説も正しいと錯覚してしまうので、自分の意見をしっかりもってこれからの社会で戦える人間になりたいと思った。また正義を貫くにせよ、そもそもそ正義こそが錯誤なのかもしれないのでじっくりよく考えて行動したいと思う。
参考文献:刑法総論 第3版 著:高橋則夫
刑法択一六法
六法全書
刑法判例百選 山口厚・佐伯仁志編
https://ronnor.hatenablog.com/entry/20110822/1313941816
https://blog.goo.ne.jp/sugiyama-kfa/e/3e81edfdea76f3c6527f5d182b9b3f8f
保田敬太
1.結論
筆者は、犯罪の違法性の意識と故意を1つの責任要素として考えるべきだと思う。
<キーワード>
法定的符合説、誤想過剰防衛、違法性の意識、厳格責任説、規範的構成要件要素、意味の認識、構成要件的故意、Handlungsunwert(行為無価値)、未必の故意、認識ある過失
2.刑法における故意と過失とは
刑法における故意と過失には4つの種類がある。1つ目は、犯罪の実現を確定的なものとして認識、認容している確定的故意、2つ目は、犯罪の結果の発生自体を不確定的なものとして認識、認容している未必の故意、3つ目は、犯罪事実実現の可能性は認識しているが、認容はしていない認識ある過失、4つ目は、犯罪事実実現の認識、認容をしていない認識なき過失という考え方がある。刑法上、1つ目と2つ目は構成要件的故意として故意犯が成立し、3つ目と4つ目は構成要件的過失として過失犯が成立する。未必の故意と、認識ある過失の判断基準としては、結果的にそうなってしまっても構わないと思って起こした犯罪は未必の故意となり、結果的にそうなってしまうかもしれないが大丈夫だろうと思って起こした犯罪は認識ある過失になる。未必の故意の有名な判例で、昭和23年3月16日最高裁の賍物故買罪に問われた事件がある。被告が衣類を数十点、盗まれたものとは知らずに買い付けてしまったことでこの事件が起こった訳だが、裁判の結果被告に対して賍物故買罪が成立した。理由としては被告が買い付ける段階で盗まれたものかもしれないと思いつつ買い付けたことで未必の故意が成立したのである。また、故意が成立するためには、構成要件的事実の認識が必要とされている。構成要件事実とは、記述的構成要件要素と規範的構成要件要素の2つにわかれていて、記述的構成要件要素とは、構成要件要素の存否の認定について、価値判断を入れずに裁判官の解釈ないし認識的活動によって確定できる要素で殺人罪などがこれである。規範的構成要件要素とは構成要件要素の存否の認定について、裁判官の規範的、評価的な価値判断を必要とする構成要件要素のことで、例えば物の他人性や文書性、わいせつ性などがある
3.刑法上における錯誤について
刑法上における錯誤とは、行為者の表象と、実際に発生したことの不一致のことで、簡単に説明すると勘違いである。錯誤には事実の錯誤と法律の錯誤という2つがあり、事実の錯誤とは、事実とその認識との間に食い違いがあることで(刑法38条1項)、大まかな種類として、行為者の狙い通りの人に損害を発生させたものの、予定していた人ではなかった場合の客体の錯誤、行為者が狙っていた人とは別の人に損害を発生させてしまった場合の方法の錯誤、行為と結果を結ぶ因果の経過が予定と違った場合の因果関係の錯誤がある。また事実の錯誤には3つの学説があり、構成要件的に重要な事実において、認識した内容と発生した事実が具体的に一致していなければ故意が認められない具体的符合説と、認識事実と実現事実とが構成要件の範囲内において符合している場合には実現事実について故意が認められる法定的符合説、認識した内容と発生した結果とが意思ないし性格の危険性の点で抽象的に符合していれば、故意が認められる抽象的符合説というものであり、これを例にあてはめると、Aを殺そうと思って誤ってBを殺しても殺人罪にならないのが、具体的符合説であり理由としては殺そうという故意はAに向けられていたからである。Aを殺そうと思って誤ってBを殺しても殺人罪になるが、Aの飼い犬を誤って殺しても器物損壊(動物傷害)罪にならないという考え方が法定的符合説であり、理由としては殺そうという意思は人に向けられていたからである。Aを殺そうと思って誤ってBを殺せば殺人罪、Aの飼い犬を誤って殺せば器物損壊(動物傷害)罪になるのが、抽象的符合説であり、理由としては殺そうという故意があったからである。この3つの学説にはそれぞれ問題点があり具体的符合説は、故意の成立が難しくなりすぎてしまい、法定的符合説は、犬を殺そうと思ってピストルを撃ったときに誤って人を殺してしまっても殺人罪ではなく、過失致死罪となり懲役刑ではなく罰金刑になってしまう。また抽象的符合説では、故意になる範囲が広くなりすぎてしまう。そして現在、日本ではこの3つのうち、法定的符合説と修正された具体的符合説がよく使われている。また事実の錯誤の中に構成要件的事実の錯誤というものがあり、具体的事実の錯誤と抽象的事実の錯誤の2つに分かれる。具体的事実の錯誤とは、客観面と主観面のズレが同一の構成要件内に収まっていることを言い、具体的符合説と法定的符合説が対立する。抽象的事実の錯誤とは、客観面と主観面のズレが別々の構成要件に跨っている場合のことを言い(刑法38条2項)、法定的符合説と抽象的符合説とが対立している。次に法律の錯誤だが、法律の錯誤とは違法性に関する法秩序の客観的評価と行為者の主観的評価との間に食い違いがあることを言うもので(刑法38条3項)、これにも4つの学説があり1つ目は、違法性の意識を故意の要素とし、これがない以上故意は阻却されるという厳格故意説と、違法性の意識を故意の要素としつつも、その人が違法性の錯誤をするにつき、相当な理由がない場合は故意を阻却しないとする制限故意説、違法性の意識を故意、過失とは別個独立の責任要素だとする責任説がある。さらにこの責任説には2つの考えがあり、1つは違法性阻却事由を誤信した場合には、行為者に違法なことをする故意がなくても故意を阻却せずに、責任の問題としてとらえる厳格責任説と、違法性阻却事由の誤信に関しては故意を阻却するという制限責任説がある。事実の錯誤の有名な判例として「たぬき・むじな事件」がある。概要を説明すると、1924年2月29日に栃木県で発生した狩猟法違反の事件で、当時、タヌキを捕獲することが禁じられていたにも関わらず被告がむじなだと思い込んでタヌキを洞窟に閉じ込め、その後3月3日に閉じ込めていたタヌキを狩猟した。そして警察が3月1日以後にタヌキを狩猟することを禁じた狩猟法に違反するとして被告人を逮捕した。下級審ではタヌキとむじなは同一とされていることと、実際にタヌキを捕獲したのは3月1日以後であると判断し有罪判決が出たが、被告が自分の住んでいる地域を始めとして昔からタヌキとむじなは別の生き物であると考えられてきたことと、2月29日の段階でむじなを逃げ出さないよう洞窟に閉じ込めていたのでこの日が捕獲日にあたるとして、大審院まで争った結果、タヌキとむじなが同一の生き物ではないと信じ込む人が被告だけではないとして事実の錯誤とし、さらに捕獲日はタヌキを占有しはじめた日にさかのぼり2月29日だとして無罪になった。一方で法律の錯誤の有名な判例が、「むささび・もま事件」である。「むささび・もま事件」は、地方では「もま」と呼ばれている禁猟のむささびを捕獲した被告人が訴えられた事件。「たぬき・むじな事件」とは対照的に、1924年4月25日、大審院は被告人に有罪判決を下した(大正13年(れ)第407号)。この判決では、「もま」は「むささび」と同一のものであり、そのことを知らなかったのは「法律の不知」に当たるので(法律の錯誤)、罪を犯す意思なしとは言えない、とした。 この二つの事件の判決からわかる通り、行為者が別物であると信じ込みかつ、それを疑う余地がない場合に限り、事実の錯誤が認められるということがわかる。
4.違法性阻却事由の考え方
刑法における犯罪とは、構成要件に該当する違法で有責な行為である。この中で本来は法律上違法とされる行為なのにも関わらず、その違法性を否定する事由がある。これが違法性阻却事由である。刑法の違法性阻却事由は主に3つあり、1つ目は、正当行為(刑法第35条)
といい、医療行為などが代表的である。2つ目は、正当防衛(刑法第36条1項)といい、自分や他人の生命・権利を防衛するためにやむを得ずにした行為は罰しないというものである。3つ目は、緊急避難(37条1項)といい、自己または第三者に対する現在の危難を避けるため、侵害以外に対して行った避難行為は罰しないというものである。しかし、刑法36条と37条にはそれぞれ2項がある。36条2項には、防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。となっていて、37条2項には、前項の規定は、業務上特別の義務がある者には、適用しない。となっている。ここで筆者が感じたのは、正当防衛であることを理由に、人を殺めてしまっても殺人罪に問われないのではないかと感じた。調べてみた結果、今現在自分や周りの人の命、身体、財産が攻撃を受けていたり、もうすぐやられそうなのに逃げることが出来なかったりした時にそれらを守るために自分のできる最低限の力で行う行為と定義づけられていた。ようするにやり過ぎてしまうと正当防衛は成立しないどころか、故意があるとして過剰防衛になってしまうのである。では自分や他人が侵害を受けていると勘違いして起こしてしまった防衛行為はどうなるのだろうか。これを誤想防衛といい、通説では事実の錯誤として故意を阻却する。この分野の有名な判例に、「勘違い騎士道事件」というものがある。概要を簡単に説明すると、空手3段の在日イギリス人が、酔っ払っていた女性を介抱している男性を見て、男性が女性に乱暴していると勘違いし、仲裁に入ったところ男性が殴りかかってきたと誤信して、男性の顔に回し蹴りをして殺してしまったという事件で、この事件は過剰防衛と誤想防衛の2つが合わさった事件で、最高裁判所はこれを誤想過剰防衛として、被告に対し傷害致死罪を言い渡した。これが過失致死にならなかったことからわかるように、誤想過剰防衛は、過失犯ではなく故意犯になる。
5.行為者の行動に基づく刑罰
故意の分野でも説明したように、日本で犯罪を裁くときは加害者の違法性の意識などが大切になってくるのだが、この分野にも刑法上大きな学説がある。それが、Handlungsunwert(行為無価値)と、Erfolgsunwert(結果無価値)である。それぞれの考え方としては、行為無価値は、結果がどうあれその行為に違法性があれば罰するという考えで、結果無価値は、結果に違法性があれば罰するという考えである。従来の裁判では、結果無価値を使って裁くことが多かったが、近年では行為無価値を使うことも増えてきている。また、行為者がどう捉えていたかによって罪に問われるか否かを判断する場合もある。そのうちの一つが意味の認識というものである。意味の認識とは、故意において犯罪事実の認識が必要なのは、その認識がなければ規範の問題に行為者が直面しないからである。そうであるとすると、構成要件要素としての認識の程度としては、その社会的意味や性質までの認識が必要となる。この認識を「意味の認識」という。例えば、わいせつ物頒布罪においては、わいせつ性などの規範的構成要件要素における認識について問題となるが、どの程度の認識が必要かが問題となる。この点については、「素人領域における平行的評価」で足りるとする。この意味の認識について争われた有名な判例が「チャタレー事件」である。簡単に説明すると、ノーベル文学賞を受賞した「チャタレー夫人の恋人」という本を日本語訳して出版したところ内容が卑猥であったとしてわいせつ物頒布罪になってしまったという事件である。被告はこれに対して、チャタレー夫人の恋人はノーベル文学賞作品であり、この本を読む人は知識人であり、卑猥だと思って読むことはないし、むしろ芸術色のほうが強いと主張したが、先ほどの意味の認識の定義によると「素人領域における平行的評価」とされているのでこの判決は妥当であると筆者は考える。
6.最後に
今回、故意と錯誤に関して調べた結果、最初の結論で述べた通り違法性の意識があった段階で故意を認めるべきであると改めて思った。認識ある過失なども故意にしたほうが判断しやすいと思う。
<出典>
択一六法 刑法
https://blog.goo.ne.jp/pota_2006/e/70d83f24a1b5de25cd962ef23e5854a7
https://ja.wikipedia.org/wiki/メインページ
https://auhoritu.exblog.jp/7140389/
中江先生の板書
Windows 10 版のメールから送信
板垣さくら
提出が大変遅くなり申し訳ございませんでした。
ご確認よろしくお願いいたします。
17J103010_板垣 さくら
<テーマ>
故意と錯誤
<キーワード>
決定的符号説・誤想過剰防衛・違法性の意識・厳格責任説・規範的構成要件要素・意味の認識・構成要件的故意・Handlungsunwert(行為無価値)・未必の故意・認識ある過失
<目次>
1.そもそも錯誤とは何か
2.現行の法律において故意犯と過失犯に分けられている
3.違法性の意識の位置付けで何が変わるのか
4.減刑の可能性
5.違法性の意識にはどのレベルが求められているのか
6.まとめ
故意犯と過失犯を分ける新たな指標が必要だ。
1.そもそも錯誤とは何か
錯誤とは起こってしまった事実(人が死んでしまった等。)つまりは客観的に見て起きたことと自身の起こした事実にズレがあることを言います。(本当は熊だと思ってた等。)主観的事実と客観的事実の重なりの有無等で現在学説が3つ出ています。
それが決定的符合説、具体的符合説、抽象的符号説の3つです。決定的符合説は同一構成要件の中でのみ符合を認めるものである。具体的符合説は具体的ケースごとに判断し、抽象的符合説では異なる構成要件の間でも同質性が認められれば符合と認めるとしている説である。
2.現行の法律において故意犯と過失犯に分けられている
故意犯と過失犯を分ける要素は主に3つに分けることができる。1つめは構成要件(TatBestand)。構成要件とは『刑法の条文上に記載されている、犯罪が成立するための原則的な要件※3』を指します。例えば刑法235条『他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、十年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。※1』においての構成要件は「他人」の「財物」を「窃取した」ということである。2つめは違法性である。違法性とは『国家・社会的倫理規範に違反して,法益に侵害または脅威を与えること※4』である。この違法性のところで争われる例として正当防衛・緊急避難がある。3つめは有責であるか。また、有責の中には違法性の意識の可能性と責任能力が含まれる。これを合わせたものを責任故意という。
故意犯と過失犯を分けるには心理状態の分類も含める。故意犯の中に確定的故意、未必の故意。過失犯の中には認識ある過失、認識なき過失がある。『未必の故意は、犯罪事実がいまだ必ずしも発生するわけではないが、発生すればそれはそれでいいと思っている場合です。発生する「かもしれない」と思っているにすぎない点で、確定的故意とは区別されます。しかし、「それでいい」という投げやりな心情に陥っている点で、犯罪結果を消極的に受け入れているわけですから、故意ありとして非難されます。たとえば、車を運転していて歩行者が飛び出しそうに見えたときに、ぶつかるかもしれないがそれでもいい、と思っているのが未必の故意です。これに対し、「かもしれない」と知りながら「大丈夫だ」と思っている場合は「認識ある過失」と呼ばれます。※5』
3.違法性の意識の位置付けで何が変わるのか
違法性の意識の位置付けは故意説と責任説とそれぞれ分けることが可能である。中でも責任説を分解すると厳格責任説と制限責任説に分けることができる。厳格責任説は錯誤の中でも事実の錯誤である。事実の錯誤は刑法38条1項(罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない※2)で定められている。また制限責任説は刑法38条3項(法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる。※2)と定められている。事実の錯誤と法律の錯誤の大きな違いは客観面での事実の認識の違いと刑罰が異なる。例えば事実の錯誤においては当人は熊を撃ったつもりが本当は人間を撃ってしまっているといった場合に適用される。刑罰については事実の錯誤は過失犯として、法律の錯誤は故意犯として刑を受けることになる。
また誤想防衛の点では事実の錯誤の場合は制限責任説を取っている。こちらは結果無価値である。しかしここには問題がある。それは構成要件的故意があるのになぜか過失犯として処理されてしまっているからだ。逆に法律の錯誤においては厳格責任説を取っている。こちらはHandlungsunwert行為無価値的立場である。
Erfolgsunwert結果無価値とHandlungsunwert行為無価値の違いについてここでは見てみる。
Erfolgsunwert結果無価値は法益侵害に対して働く、いわゆる応報刑である。逆にHandlungsunwert行為無価値は倫理違反に対して働く、教育刑である。
ここで判例を見てみる。
<判示事項>※6
『傷害致死につき誤想過剰防衛であるとされた事例』
<裁判要旨>
『空手三段の在日外国人が、酩酊した甲女とこれをなだめていた乙男とが揉み合ううち甲女が尻もちをついたのを目撃して、甲女が乙男から暴行を受けているものと誤解し、甲女を助けるべく両者の間に割つて入つたところ、乙男が防衛のため両こぶしを胸に前辺りに上げたのを自分に殴りかかつてくるものと誤信し、自己及び甲女の身体を防衛しようと考え、とつさに空手技の回し蹴りを乙男の顔面付近に当て、同人を路上に転倒させ、その結果後日死亡するに至らせた行為は、誤信にかかる急迫不正の侵害に対する防衛手段として相当性を逸脱し、誤想過剰防衛に当たる。※1』
ここにおいての構成要件的故意は蹴るという行為の認識だ。責任要素としての故意は不当な侵害がないのにあると思ってしまっていることで認められる。また本件においては防衛行為の相当性は認められていない。(判例においては回し蹴りをしたという行為はやりすぎであると判断された)
本件において急迫不正の侵害はないとしている。(主観的にはそう見えたが客観的には異なる)
4.減刑の可能性
我々一般人からしてみれば助けてと言っている女性がいたらただ事ではないことをある程度察することができるだろう。本件はそう言った良識から来たものだと私は考えている。であれば本件の外国人には減刑を求めたい。しかしそうもいかないのが現実である。前述にある通り厳格責任説と制限責任説を使って当てはめてみる。違法性減少説(過剰防衛の場合、防衛の程度を超えたにしても、なお急迫不正の侵害者の法益を侵害することによって正当な者の利益が維持されたという防衛効果が生じた点に、違法性の減少を認めようとする立場※7)において考えれば本件の外国人の減刑は出来ない。では責任減少説(過剰防衛は、急迫不正の侵害が存在する緊急な事態のもとでなされるので、恐怖・驚愕・興奮・狼狽などの精神の動揺のため「ゆきすぎ」があっても、強く非難できない場合があることを理由に責任が減少するとされる※7)ではどうだろうか。これだと減刑はできるがかなり広範囲の人が対象に入ってしまう。つまりは刑が不均等になってしまうのだ。
5.違法性の意識にはどのレベルが求められているのか
以下はチャタレー夫人の恋人事件の判示事項と裁判要旨である。
<判示事項>
『一 刑法第一七五条にいわゆる「猥褻文書」の意味
二 「猥褻文書」に当るかどうかは事実問題か法律問題か。
三 「猥褻文書」に当るかどうかの判断の基準。
四 社会通念とは何か。
五 刑法第一七五条にいわゆる「猥褻文書」に当る一事例。
六 芸術的作品と猥褻性。
七 猥褻性の存否と作者の主観的意図。
八 刑法第一七五条に規定する猥褻文書販売罪における犯意。
九 憲法第二一条に保障する表現の自由と公共の福祉。
一〇 旧出版法第二七条と刑法第一七五条との関係。
一一 憲法第二一条第二項による検閲の禁止と猥褻文書販売罪。
一二 憲法第七六条第三項にいう裁判官が良心に従うとの意味。
一三 刑訴法第四〇〇条但書に違反しない一事例。』
<裁判要旨>
『一 刑法第一七五条にいわゆる「猥褻文書」とは、その内容が徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する文書をいう。
二 文書が「猥褻文書」に当るかどうかの判断は、当該文書についてなされる事実認定の問題でなく、法解釈の問題である。
三 文書が、「猥褻文書」に当るかどうかは、一般社会において行われている良識、すなわち、社会通念に従つて判断すべきものである。
四 社会通念は、個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定されるものでない。
五 Aの翻訳にかかる、昭和二五年四月二日株式会社小山書店発行の「チヤタレイ夫人の恋人」上、下二巻(ロレンス選集1・2)は、刑法第一七五条にいわゆる猥褻文書に当る。
六 芸術的作品であつても猥褻性を有する場合がある。
七 猥褻性の存否は、当該作品自体によつて客観的に判断すべきものであつて、作者の主観的意図によつて影響されるものではない。
八 刑法第一七五条に規定する猥褻文書販売罪の犯意がありとするためには、当該記載の存在の認識とこれを頒布、販売することの認識があれば足り、かかる記載のある文書が同条所定の猥褻性を具備するかどうかの認識まで必要とするものではない。
九 憲法第二一条の保障する表現の自由といえども絶対無制限のものではなく、公共の福祉に反することは許されない。
一〇 旧出版法第二七条と刑法第一七五条とは特別法と普通法の関係にある。
一一 憲法第二一条第二項によつて事前の検閲が禁止されたことによつて、猥褻文書の頒布、販売を禁止し得なくなつたものではない。
一二 憲法第七六条第三項にいう裁判官が良心に従うとは、裁判官が有形、無形の外部の圧迫ないし誘惑に屈しないで自己の内心の良識と道徳感に従う意味である。
一三 本件第一審判決がその判示のごとき理由で被告人に無罪の言渡をしても控訴裁判所において「右判決は法令の解釈を誤りひいては事実を誤認したものとして」これを破棄し、自ら何ら事実の取調をすることなく、訴訟記録及び第一審裁判所で取り調べた証拠のみによつて、直ちに被告事件について、犯罪事実を認定し有罪の判決をしたからといつて、必ずしも刑訴第四〇〇条但書の許さないところではない。』
本件においての構成要件的故意は刑法175条の「わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。」より本屋でそもそも本書を販売しても良いのだろうか。という点がある。またこの条文より本書はわいせつな文書に当たるか否かという問題点があります。それを判断するために必要な認識・意識の段階が存在します。上から「裸の事実の認識」「意味の認識」「違法性の意識」「条文の認識」です。記述的構成要件要素において必要なのは裸の事実の認識のみです。規範的構成要件要素において必要なのは裸の事実の認識と意味の認識が必要です。
また、原告と被告の立場で「わいせつか否か」「判断基準はどこに置くのか」「性行為非公然の対象」についての見解が変化します。「わいせつか否か」では原告側では客観的・絶対的ですが被告側では相対的です。「判断基準はどこに置くのか」では原告側では一般人の感覚ですが被告側では行為者、つまりは知識人の感覚です。(しかしこの中での知識人とはその本を読む人、つまりは読者を指します。一般人の中での読者なのでこちらの方が対象者がぐんと減少します。)「性行為非公然の対象」について原告側は文書も含むとしていますが被告側は性行為のみとしています。また、本件において美術品だから卑猥ではないという考え方は否定されている。
6.まとめ
故意と錯誤を分けるのは非常に困難である。私は故意は客観的事実から推測するしかないと考えている。それによって生じた錯誤を補うのもまた客観的事実なのではないだろうか。監視カメラの設置等、現代は客観的事実を集めやすくなっていると私は感じている。だからこそ今一度客観的事実の重要性を見直すべきではないだろうか。
<引用元>
※1http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=50315
※2https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=140AC0000000045#248
※3http://ma-se-law.jp/publics/index/81/
※4http://sloughad.la.coocan.jp/sono/crim/keih/tc100.htm
※5https://imidas.jp/judge/detail/G-00-0093-09.html
※6http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=50315