上野友斗

「故意と錯誤」

18j107010 上野友斗

 

 

1.総説

故意と錯誤とは、行為者がある行為を行ったときに、想定していたことと異なる結果がもたらされた場合、どのように処罰すべきかを思慮することである。人間が生活していくうえで、刑法に抵触する行為を行う、若しくは結果が発生してしまうことは往々にしてある。そのような場合に、どういった理由で刑罰を科すべきか、或いは不可罰とすべきかが大きな論点となる。そのことについて、学説の対立や判例の立場を踏まえながら検討する。

 

2.犯罪論 総説

まず、錯誤がある場合の罪責を考える前に犯罪とは何かを検討する必要がある。犯罪とは、構成要件に該当する違法で有責な行為を指す。構成要件とは、条文を解釈して得られた犯罪行為の類型である。犯罪に該当するためには、構成要件該当性を満たす必要がある。構成要件該当性の中には様々な概念があるが、ここでは、「故意と錯誤」に関わる概念のみを検討する。構成要件該当性の判断においては、@実行行為、A構成要件的結果、B因果関係、C構成要件的故意の4つのファクターがある。

@実行行為とは、構成要件に該当する行為を行うことである。客観的に判断されるが、この点については特に異論はない。A構成要件的結果についても、結果が発生したか否かで判断される。この点も客観的に判断されることになる。次に、B行為と結果の因果関係が必要である。ここまでは客観的に結果を見て判断される。

そして、次に本稿のテーマである故意の問題が生じる。それは、C構成要件的故意の判断である。そもそも故意とは、罪を犯す意思であるが、犯罪事実の認識・予見と言い換えられる。故意は、構成要件的故意と責任要素としての故意に分けられる。後者は有責性のところで検討するとして、まず構成要件的故意とは、構成要件に該当する事実の認識があるか否かである。例えば、殺そうと思わずに人を殺した場合はこの場合の故意(構成要件的故意)は否定されるが、いわゆる確信犯で殺すことを正義だと思って殺した場合は故意が認められる。構成要件的故意を認めるには、故意の構成要件関連性が必要である。故意の構成要件関連性とは、構成要件該当事実をすべて認識、予見し、意味の認識をも認められるということである。意味の認識とは、犯罪事実の法的な評価についての認識を指す。そもそも構成要件要素には規範的構成要件要素と記述的構成要件要素がある。規範的構成要件要素とは、窃盗罪における「他人の」や、「わいせつ」などのように、その認識のために規範的な判断を要する要素を指す。一方で、記述的構成要件要素とは「人」など、特に判断しなくても認識しうる要素を指す。ここで問題となるのが規範的構成要件要素の認識がどこまで意味の認識として必要であるかという問題である。意味の認識が構成要件的故意に含まれる以上、仮に意味の認識が無かった場合、故意が阻却されることになる。その場合、過失犯若しくは無罪となる。他方で故意が認められるものの違法性の意識が無いという場合は通常の故意犯が成立する(判例)。両者は明らかに刑の重さが異なっており、よって両者の区別が非常に重要となる。この区別がいわゆる事実の錯誤と違法性の錯誤の限界を決める問題である。これについては後で述べることにする。

ちなみに、この意味の認識について、薬物犯罪の場合には多少緩く故意を認める方向に解している。覚せい剤の輸入、所持の事例において対象物が覚せい剤である可能性が認識されていれば故意を認めるとした判例(最判H2.2.9)が代表的な事例である。この問題については判例、下級審及び学説が多様な見解を示しており、一概に述べることが難しいので深入りしないことにする。

 さて、構成要件該当性についての検討を終える前に、故意と非故意との区別についても述べておく必要がある。前に軽く触れたように、故意犯が認められるか否かは非常に重要な分岐点と言える。繰り返しになりくどいようだが改めて述べると、故意が阻却された場合、過失犯若しくは無罪ということになる。一方で故意犯が成立する場合は通常の法定刑を基に判断されることになる。この両者は刑罰の重さに明らかな相違があり、よって区別することが非常に重要となる。そこで、故意と非故意の区別が必要になるが、これが即ち故意と過失の境界線を決めることになる意味で実益があるところである。

 故意と過失を峻別するにあたって両者を細かく分類すると、大きく分けて認識なき過失、認識ある過失未必の故意、確定的故意の4つに分けられる。認識なき過失とは、行為者が犯罪事実の認識を欠いている過失をいう。また、認識ある過失とは、犯罪事実自体の認識はあるが結局それを否定した場合をいう。そして、未必の故意とは、犯罪事実の確定的な認識はないがその蓋然性を認識しており、結果発生を認容した場合をいう。確定的故意は犯罪事実の発生を明らかに認識している場合である。ここでは、特に認識ある過失未必の故意との分水嶺を巡って争いがあるが、これは故意の本質をどのように捉えるかというところに帰着する。そして、以上で示した峻別論は全て認容説に立つものである。認容説とは、故意の本質を意思と解し、故意を認めるためには認容という主観的な意思が必要だとする考え方である。認容説からは認容の有無が認識ある過失未必の故意との分水嶺と解している。判例・通説はこの見解に立つものとされる。他にも認識説や動機説があるが、具体的な結論に大きな差異は無いとされる。

 次に、違法性について検討する。なお、違法性のところでは違法性阻却事由の成立要件なども大きな論点であるが本稿では省略し、本質的な部分であるerfolgsunwert(結果無価値)とHandlungsunwert(行為無価値)を対比して検討する。まず、違法性には客観的違法性と実質的違法性の2つの概念がある。客観的違法性とは、客観的に判断される違法性のことである。違法性を形式的に解釈し、客観的に見て違法と言えるか否かを当てはめるとする客観的違法論が通説である。これに対し、行為無価値論からは内心を重視すべきと主張する(主観的違法論)。なお、客観的に判断するのが原則であるが、主観的違法要素がその例外である。主観的違法要素とは、目的犯の目的や偽証罪における虚偽の陳述など、行為者の内心を判断せざるを得ない類型における違法要素である。行為無価値論からは、主観重視の立場からこれを緩やかに肯定する一方、結果無価値論からは限定的に肯定するにとどめるといった微妙な解釈の相違がある。

 続いて、実質的違法性について検討する。実質的違法性とは、実質的に理解された違法性をいう。実質的違法性のところでは、erfolgsunwert(結果無価値)とHandlungsunwert(行為無価値)とが特に本質的な理解の違いから厳しく対立している。結果無価値論とは、ドイツ語をもう少し適切に訳すところの「反価値」を惹起することが違法性の本質とする考え方である。端的に言うと、悪い結果がもたらされることを悪と考える。この考え方からは、刑の本質を法益侵害への応報刑とする。一方で行為無価値論とは、非難されるような倫理違反行為を行うことを違法性の本質とする考え方である。この考え方からは、刑の本質を倫理違反に対する教育刑とする。結果無価値を採るか行為無価値を採るかによって根本的な解釈の方向性が変わってくるといえる。

 次に、有責性について検討する。有責性とは、刑罰を科すには本人に責任がある必要があるという要件である。刑法は責任主義を採っているので、犯罪の成立には責任が存在する必要があるが、その解釈には争いがある。責任の理解には行為責任論と性格責任論がある。前者は刑罰の本質を応報刑と捉える立場(結果無価値)から、後者は刑罰の本質を目的刑と捉える立場(行為無価値)から主張されている。しかし、両者はもはや刑法の方法論というより哲学的な理解の相違とも取れる面があり、難しいところである。よってこの対立は哲学の問題が多く含まれ、論理的に説明すること自体かなり困難といえる。

 さて、本稿において重要になるのは、責任要素としての故意である。責任要素としての故意は実質上、違法性阻却事由該当事実の認識、予見のことをいう。この責任要素としての故意がどのように扱われるかについては争いがあり、それが最も大きな論点である。この点については後述する。責任論には、他にも過失や責任能力といった要素があるが、これについては特に詳説しない。

 

3.錯誤とは何か

 犯罪論を大まかに述べたところで、次に錯誤について検討する。錯誤には事実の錯誤と法律の錯誤(違法性の錯誤)がある。事実の錯誤とは、構成要件該当事実について行為者が認識、予見した内容と実際に発生した構成要件該当事実に食い違いがあることである。事実の錯誤を大きく分けると具体的事実の錯誤と抽象的事実の錯誤に分けられる。具体的事実の錯誤とは、行為者が認識、予見した事実が該当する構成要件と実際に発生した事実が該当する構成要件とが同じ場合をいう。一方で抽象的事実の錯誤とは行為者が認識、予見した事実が該当する構成要件と実際に発生した事実が該当する構成要件とが異なる場合をいう。そして、錯誤はさらに客体の錯誤、方法の錯誤、因果関係の錯誤の3つに区別される。事実の錯誤の場合に故意の有無をどのような基準で判定するかについて争いがある。この問題は事実の錯誤に共通する見解の対立として重要な意味を有する。

まず、判例、通説は法定的符合説を採る。法定的符合説とは、故意を構成要件該当事実の認識、予見と解する立場から、認識、予見した事実と実際に発生した事実とが構成要件の範囲内において重なり合っている場合に客観的な結果に対する故意を認めるとする立場である。法定的符合説の中にも争いがあり、構成要件の要素が認識されていれば故意を肯定する抽象的法定符号説(判例、多数説)と結果が発生した客体が違った場合(Aを殺す故意でBを殺したような場合)に被害者ごとに判断すべきとする具体的法定符号説(少数有力説)が対立している。この対立では、故意の個数が1個と解されるか数個と解されるかという相違がある。故意犯は1個とする(一故意説)か数故意として別々に評価する(数故意説)かによって結論が変わることがある。また、そもそも法定的符合説を採らない立場として、何らかの構成要件に該当する認識があれば故意を認めるとする抽象的符号説も存在する。しかしこの説ではあまりにも処罰の範囲が広がりすぎることから、あまり支持されていない。なぜならこの説に立つと、およそ罪を犯すつもりで行為を行えば基本的に故意が阻却されなくなってしまうからである。

 それから、抽象的事実の錯誤とは、異なる構成要件にまたがる事実の錯誤のことである。具体的事実の錯誤がそれぞれ同一構成要件内における食い違いの類型である一方、抽象的事実の錯誤では直接的な付合がないため、実質的な重なり合いという概念を使い、その有無を故意の判断基準としている。判例は公文書無形偽造と公文書有形偽造などでは実質的重なり合いを認めた。しかし、微妙な場合にどう解釈するか(付合の限界)は割り切ることが難しい。保護法益の相違なども踏まえながら総合的に判断していく必要がある。

 ここまで事実の錯誤ついて述べてきたが、錯誤論におけるもう一つ重要なものとして法律の錯誤(違法性の錯誤)がある。法律の錯誤(違法性の錯誤)とは、法律を知らなかった場合や規範的構成要件要素の意味を知らなかった場合を指す。つまり、違法性の意識を欠いていた場合をいう。ところで、事実の錯誤と法律の錯誤の限界をどのように画すかについては争いがある。そもそも事実の錯誤の場合、条文上の根拠は38条1項となり、処罰としては過失犯又は無罪となる。一方で法律の錯誤は38条3項であるが、刑罰を科すうえでは減刑されるにすぎず、故意は阻却されないとなっている。つまり、故意犯として処罰されることになる。よって両者では刑の重さも大きく異なるため、区別が重要である。しかし、むささび・もま事件、たぬき・むじな事件、チャタレー事件、無鑑札犬事件などはいずれも判断が一貫しているとはいえない状況である。とはいえ、これらを一貫した論理で判断するのはむしろ困難であるように思われる。結局は個別具体的に判定していくほかないと考えざるを得ない。

 

4.違法性阻却事由に関する錯誤

 違法性阻却事由に関する錯誤とは、違法性阻却事由に該当するものだと思って行為を行ったが、実際には該当しない場合をいう。違法性阻却事由については、正当防衛における過剰防衛、誤想防衛がその中心となる類型であるが、これらの処理を巡って見解の対立がある。具体的には違法性の意識と故意は別とし、さらに誤想防衛を事実の錯誤とする制限責任説(判例)、違法性の意識と故意は別とするが誤想防衛を法律の錯誤とする厳格責任説、違法性の意識の可能性を故意の一部して捉える制限故意説、故意犯の処罰には違法性が必要とする厳格故意説に分かれる。先述の通り判例は制限責任説に立つ。判例の展開として、過剰防衛には故意犯(最判S24.4.5など)、誤想防衛には過失犯が成立すると解される。ちなみに、英国騎士道事件では誤想過剰防衛を事実の錯誤として扱ったといわれる。では、誤想過剰防衛についてはどのように解されるかが争点となる。

結論としてここで問題になるのは厳格責任説と制限責任説の比較であろう。要するに、誤想防衛を事実の錯誤とするのか、法律の錯誤とするのかどちらが妥当かというところに帰着する。厳格責任説では誤想防衛を法律の錯誤として解するため、故意犯として罰することになる。ここに土台を置いて誤想過剰防衛を検討すると、英国騎士道事件のような勘違いはしたが助けようとした人を故意犯として罰することになる。確かに論理は通っているが、このように解するのは結論の妥当性に疑問が残る。他方で制限責任説を採る場合、誤想防衛を事実の錯誤として解するため、過失犯として罰することになる。ここに土台を置いて誤想過剰防衛を検討すると、勘違いをして助けようとしたような人には過失犯又は犯罪類型によっては無罪になることもあり得るという軽い法定刑となる。確かに構成要件的故意があるにもかかわらず過失犯になるという矛盾は生じるが、刑罰の重さは妥当である。元より本当の善意で人を助けようとしたが、実は錯誤に陥っていて結果として罪に問われてしまったという場合に重い故意犯として処罰するのは妥当ではない。よって、制限責任説の主張が相当だと考える。

 

5.総括

以上、故意と錯誤についてかなり大まかではあったが基本論点や判例の立場などを述べた。このテーマが示唆を与える最も重要な点は、全くの善意で不本意な結果が発生した場合に、どのような刑罰を科すべきかという点である。まさにこれこそが故意と錯誤の本質だといえる。英国騎士道事件では、全くの善意で助けようとした人が結局犯罪者となったわけだが、その処罰のあり方についてはかなり難しい問題がある。結果が発生している以上は厳しい処罰が必要という見解もあれば、制限責任説のような緩やかに解する見解もある。私は見て見ぬふりや黙って立ち去ったもの勝ちを良しとしないという考えに立つ。ゆえに、誤想過剰防衛というような場合に故意犯として厳しく罰することである種の萎縮効果をもたらし、人助けをしなくなるようなインセンティブを与えるべきではないと考える。一方で、論理を突き詰めていくと厳格責任説から故意犯にならざるを得ないという結論になる。そして、この問題は論理のみならず哲学的な要素も含むため非常に難しいテーマだといえるが、だからこそ一般人の感覚をも持ち合わせた上で諸問題を検討していくことが重要である。

 

 

*参考文献

・山口厚『刑法〔第3版〕』有斐閣、2015年

 

 

 

 

野口萌々子

こんばんは。夜分遅くにすみません。

基礎教養演習Uのレポートを提出します。よろしくお願いいたします。

 

 

「故意と錯誤」

18J107001 野口萌々子

≪結論≫

故意と錯誤について個人の意見や考え方の違いによって生じるものであり、さまざまな学説が存在する。それぞれの立場によって意見や考えが異なることから状況に応じて使い分ける必要があると考える。

 

T.はじめに

 

そもそも「故意」と「錯誤」とはどのような状態を指すのか。“故意”とは「罪を犯す意思」をいい犯罪事実の認識・予見と言い換えることができる。(刑法381項)つまり自分の行為から一定の結果が生じることを知りながら行為をすることである。(コトバンク参照)“錯誤”とは行為者が認識していた事実と実際に発生した事実に食い違いがあることをいう。故意といっても多くの学説が存在し錯誤は大きく分けて事実の錯誤と法律の錯誤の2つに分けられる。故意と錯誤に関する判例を用いて私見と照らし合わせて考えていきたい。

 

 

 

U.構成要件要素と故意

 

犯罪の成立要件は問題となる行為が構成要件に該当することである。(構成要件該当性)構成要件は様々な見解があるが、「立法者が犯罪として法律上規定した行為の類型」というのが基本的な見解である。殺人を例にとると、「人を殺す」行為には知りながら(故意で)人を殺す場合(殺人罪)と、うっかり謝って(過失で)人を殺す場合(過失致死罪)がある。このように構成要件を限定する要素としての故意・過失をそれぞれ、構成要件的故意・構成要件的過失という。少数説であるが、構成要件を単に違法行為の類型と解し、故意・過失は行為の違法性には影響せず、責任の要素であるという見解から、構成要件から故意・過失を排除する見解も主張されている。構成要件要素には、殺人罪(刑法199条)における「人」などのように、特段の精神的な評価作用の働きなしに認識しうる記述的構成要件要素と窃盗罪(刑法235条)における財物の「他人」性、わいせつ物頒布罪(刑法175条)における「わいせつ」性のように、その認識のために規範的判断を必要とする規範的構成要件要素が存在する。(規範的構成要件要素の認識)規範的構成要件要素の意義は裁判所の法解釈によって決まるが、裁判所と同じ判断が求められるわけではない。そうなると違法性の意識を部分的に要求することになり、高度の法的知識を備えた者のみに故意を認めうることになり妥当ではない。例えば、外国語で書かれたわいせつ文書について文字は認識できても意味を理解していない以上「わいせつ」性の認識を肯定することはできない。故意にとって必要なのは、当該事実を立法者が罰則を制定する上で着目した属性において理解することである。これを意味の認識という。つまりわいせつ文書に対して人の性的な事柄に関係する“いやらしいもの”程度の認識である。意味の認識が存在しない場合は故意を認めることができない。判例の中には「裸の事実」の認識があれば故意を認めることができ、それに対する法的評価の認識は故意とは無関係だとするものがある。判例としてはチャタレー事件(最判昭32/3/13)が挙げられる。この事件ではイギリス作家DH・ローレンスの作品『チャタレイ夫人の恋人』を日本訳した作家と出版元の社長に対して刑法175条のわいせつ物頒布罪ではないかということにより日本政府と連合国軍最高司令官総司令部により検閲が行われ、わいせつ物頒布罪と憲法21条に規定されている表現の自由との間で争われた事件である。最高裁は「わいせつの三要素」を示しつつ、「公共の福祉」の論を用いて上告を棄却し有罪判決が確定した事件である。私見として、本書はわいせつな描写が多く記載されているからといって検閲により有罪となるのは表現の自由に違反すると考えた。出版内容は作家の自由であり本書が全体として芸術的、思想的作品であり、その故英文学界において相当の高い評価を受けているという。このことから表現の自由が保護され無罪になるのではないかと考えた。

 

 

 

V.未必の故意と認識ある過失

 

上記でも述べたように故意とは犯罪意思の認識・予見を言うが、大きく分けて犯罪事実の発生を確定的に認識する確定的故意と不確定なものとして認識する不確定的故意がある。このうち、不確定的故意には結果発生は確実であるが、@その客体や個数が不確定である概括的故意A数個の客体のうち、どれに結果が発生するか確定していない択一的故意B自分の行為によって違法状態に至る可能性を認識しており、結果的に犯罪行為が発生しても構わないという未必の故意に分けられる。これに対し非故意である過失は@自分の行為によって違法状態に至る可能性を認識しながら、その発生を避けられるものと信じて行為したが結果的に違法状態を発生させた状態である認識ある過失A犯罪事実が行為者の意識に上がらなかった認識なし過失に分けられる。このうち未必の故意認識ある過失との関係が問題となる。例えば、「横断歩道に歩行者が大勢いる交差点に信号無視をして車で突入すれば、誰かが死ぬ可能性が高いが誰かが死んでもいいだろう」と考えて突入した場合、「未必の故意」になり一方、「横断歩道に歩行者がいない交差点に信号無視をして車を突入すれば、誰かが飛び出してきた場合死ぬ可能性はあるが、一度も飛び出してきたことはないから大丈夫であろう」と考え結果的に事故を発生させた場合は「認識ある過失」になる。また危険性は認識していたものの、明確な殺意はなく結果的に人を殺してしまった場合、「未必の故意」で「殺人罪」となるか、「認識ある過失」で「過失致死罪」となるかで量刑も大きく変わっていくのである。

 

 

W.Handlungsunwert行為無価値)と結果無価値

 

犯罪とは、構成要件に該当し、違法で有責な場合に成立し、違法性とは行為が法規範に反することをいい、違法性の理解においては実質的根拠から理解することによって違法性阻却事由についての解釈基準を提供する点においてまた、実質的に判断して違法性が認められない場合を明らかにすることにより、明文にない違法性阻却事由を導くことを可能にする点で重要である。実質的違法性の理解についてHandlungsunwert行為無価値と結果無価値と2つの学説があり、Handlungsunwert行為無価値)は主観重視で犯罪に至ったた過程を重視する考えであり一方、結果無価値は客観重視で犯罪の結果を重視する考えである。たとえば、警察官と揉み合いになり殺すつもりはなかったが殺してしまった場合、Handlungsunwert行為無価値)によると犯罪の過程が重視されることから加害者の言い分も考慮されると考えられる。一方、結果無価値によるといくら殺すつもりがなくても死亡してしまった結果が重視され殺人罪になると考える。現在ではHandlungsunwert行為無価値)が主流であると言われているが結果無価値も多数とされている。この例では加害者の状況であればHandlungsunwert行為無価値)の方が都合がよいと考えられるが、被害者側からすると結果無価値が良いと考える。このことから相手方の立場によって使い分けるべきだと考える。

 

X.違法性の意識

 

違法性の意識とは、自己の行為が法的に(刑法上)禁止されているものであると認識していることであり、学説は違法性の意識を故意の要素として位置づける故意説と責任の要件に位置づける責任説に大別される。故意説は違法性の意識を故意の要件とする厳格故意説と違法性の意識の可能性を故意の要素とする制限故意説に分かれる。対して責任説は違法性阻却事由該当事実の誤信について、故意を阻却するものではなく違法性の錯誤として違法性の意識の問題とする厳格責任説違法性阻却事由該当事実の誤信について故意を阻却するものであって違法性の意識の可能性ではないと考える制限責任説に分かれるが、判例は違法性の意識に触れておらず、その可能性も要求しており違法性の意識は不要であると解されている。(違法性の意識不要説)違法性阻却事由該当事実「正当行為(刑法35条)、正当防衛(刑法36条)、緊急避難(刑法37条)」が実際には存在しないのに存在すると誤信した場合が誤想防衛であり、許容される範囲を超えた行為を行ったときを誤想過剰防衛という。誤想過剰防衛の判例として勘違い騎士道事件(最判昭623/26)が挙げられる。空手三段の腕前を有する在日英国人Xは泥酔した女性Aとなだめていた男性Bに対してXBAに暴行を加えているものと誤解し、Aを助けBの方を向き手を差し出した。するとBはファイティングポーズのような姿勢をとったためXBが殴り掛かってくると誤信し自分とAの身を守るためにBに対して回し蹴りをし死亡させた事件である。第一審では無罪であったが最高裁では傷害致死罪の成立を認めた上で、刑法362項による減刑を適用した。この事件においてXAを助けるためにBに傷害を加えた点は違法性阻却事由である正当防衛(刑法36)に該当すると考えられることから第一審の判決も納得がいく。しかしいくらAを助ける為だからといって回し蹴りで死亡させてしまうまではやりすぎであり誤想過剰防衛に該当し最高裁の判決に賛成できる。元々は正当防衛として無罪判決が出ていたことから有罪判決になったとしても刑法362項により罪が減刑されることも納得がいく。また正当防衛における過剰防衛は故意犯とされ誤想防衛は過失犯とされていることから本件である誤想過剰防衛はどうなるのか。私見としては本事件は誤想によって発生した事件であるから誤想過剰防衛は過失犯になると考えた。

 

 

Y.事実の錯誤と法律の錯誤

 

錯誤について考えてみようと思う。錯誤とは主観的認識と客観的な事実又は評価との不一致をいい事実の錯誤(刑法381)と法律の錯誤(刑法383)に分けられる。事実の錯誤は厳格責任説を採用しており、@同一の構成要件内における事実の錯誤(具体的事実の錯誤)A異なった構成要件にまたがる事実の錯誤(抽象的事実の錯誤)に区別される。またそれぞれの錯誤事例はさらに@侵害客体が認識・予見した属性とは異なった属性を有していた場合(客体の錯誤)A認識・予見した客体とは別の客体に侵害が生じた場合(方法の錯誤)B認識・予見した客体に侵害が生じたが、結果に至る因果経過が認識・予見したものとは異なっていた場合(因果関係の錯誤)に類型化される。また最近では同一構成要件間の客体の錯誤は故意を阻却しないと解されている。法定的符合説は錯誤が同じ構成要件内のある場合は故意を認めるものであり、構成要件内の具体的事実に関する主観的・客観的の食い違いは故意の観点から重要ではない。たとえば、殺害した相手が男だと思ったら女であった場合、「人殺し」についての認識・予見があることだけが必要であり、男か女かは重要ではないという説である。また法定的符合説は抽象的法定符合説と具体的法定符合説に分けられる。法律の錯誤は制限責任説を採用しており、行為が法的に許されないことを知らないこと、また許されていると誤信することをいう。事実の錯誤に関する判例としてたぬき・むじな事件(最判大14/6/9)が挙げられる。たぬきとむじなは同一とされていたことから狩猟法違反として有罪としたが昔からたぬきとむじなは別の生物であると認識されており認識は被告人だけに留まらないことから「事実の錯誤」として故意責任阻却が妥当であり無罪である。一方、法律の錯誤に関する判例としてむささび・もま事件(最判大13//25)が挙げられる。この判決では、「もま」は「むささび」と同一のものでありそのことを知らなかったのは「法律の錯誤」に当たるため罪を犯す意思なしとは言えない。2つの判例の相違点としてたぬき・むじな事件ではたぬきが禁猟であることを認識していたが、「たぬき=むじな」という事実は認識していないが「たぬき≠むじな」という確信的な認識を持っていたのに対して、むささび・もま事件においては「むささび」が禁猟であることを認識していたが、「むささび=もま」という事実は認識していない。しかし単に「むささび」と呼称することを知らなかっただけであって「むささび≠もま」という確信的な認識は持っていないという点が相違点である。

 

 

Z.まとめと私見

 

冒頭でも述べたように、故意と錯誤は個人の意見や考え方の違いによって生じるものであり学説が異なることからさまざまな視点から考えることができる。またこれといったはっきりした結論を出すことが困難であると思う。違法性の意識において判例は違法性の意識を不要とする違法性の意識不要説を採用しているが、学説の1つである制限責任説は違法性阻却事由該当事実の誤信について故意を阻却するものであって違法性の意識の可能性ではないと考えることから判例である違法性の意識を不要とするという考えに類似していると考えたことから制限責任説を判例として採用しても良いと考えた。

 

 

≪参考文献、引用したサイト≫

 

・ポケット六法

 

・中江章治先生授業ノート

 

・勉強会ノート

 

・刑法第3版 山口厚

 

Wikipedia 「法定符合説」・「誤想過剰防衛」・「違法性の意識」・「厳格責任説」・「制限責任説」・「規範的構成要件要素」・「記述的構成要件要素」・「意味の認識」・「構成要件的故意」・「Handlungsunwert(行為無価値)」・「結果無価値」・「未必の故意」・「認識ある過失」・「チャタレー事件」・「勘違い騎士道事件」・「たぬき・むじな事件」・「むささび・もま事件」

・コトバンク 「事実の錯誤」・「法律の錯誤」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

佐々木諒太

先ほどお送りしたメールで一部赤文字になってなかった部分があったため再送いたします。

 

基礎教養演習を受けている18j107020佐々木諒太です。

本メールにてレポート課題を提出いたします。よろしくお願いします。

 

以下本文

 

故意と錯誤

帝京大学法学部法律学科 佐々木諒太

18J107020

キーワード

法定的符合説誤想過剰防衛違法性の意識厳格責任説規範的構成要件要素意味の認識構成要件的故意Handlungsunwert(行為無価値)未必の故意認識ある過失

以下本文

≪結論≫

私は実施的違法性について、2つある学説のうちの結果無価値論の立場をとるべきだと考える。

≪はじめに≫

私が結果無価値論の立場をとるべきだと考える理由は以下である。

「結果」を中心に違法性を考えていく見解であり、「被害者の側」から違法性を見ていこうとするため。

 

≪結果無価値論と行為無価値論≫

そもそも結果無価値論、行為無価値論とは違法な行為つまり刑法における法益侵害行為である犯罪を処罰するにあたり、行為が違法であるか否かを具体的にどのような基準で判断するかを位置づけるものである。

結果無価値論〜

Erfolgsunwert(結果無価値)とは法益を侵害した際の「結果」の悪さを重視する考え方であり、「被害者の側」から違法性の本質を判断していく。刑法の任務を法益保護と解する立場から、法益侵害・危険の惹起が禁止の対象であり、結果無価値の惹起が違法性の実質をなすという見解。

〜行為無価値論〜

Handlungsunwert(行為無価値)とは法益を侵害した際の「行為」の悪さを重視する考え方であり、「行為者の側」から違法性の本質を判断していく。刑法の任務を社会倫理の保護と解する立場、あるいは、それを法益保護と解しながらも行為に対する社会的非難を違法性の評価に加味すべきだとする見解

 

*この2つの論説に共通する「無価値」という言葉は「ゼロ」という意味ではなく、もともとドイツ語であるunwertを訳した言葉で「価値に反する」という意味を持つ。よって「反価値」という言葉を使うのが妥当だが、「無価値」が定着してしまっているのでそのまま使われている。

 

 

 

結果無価値論

行為無価値論

刑法の機能

裁判規範

行為規範

違法性の本質

法益侵害

行為規範

(社会倫理規範)違反

判断資料

客観的事情

客観的事情+主観的事情

判断時点

結果発生時(事後判断)

行為時(事前判断)

基本刑法T総論 3版より引用。

 

≪故意と過失≫

故意と過失には主に4種類ある。

確定的故意

未必の故意

認識ある過失

認識なき過失

故意がある                              故意がない

確定的故意

−犯罪の実現を確定的なものとして認識、認容している。(死んでほしい)

未必の故意

−犯罪の結果の発生自体を不確定的なものとして認識、容認している

(死ぬかもしれない+それでよい)

認識ある過失

−犯罪事実実現の可能性の認識、容認をしていない。(死ぬかもしれない+それは困る)

認識なき過失

−犯罪事実実現の認識をしていない。(死ぬとは思っていなかった)

 

〜判例〜

被告人は、警ら中の巡査Bからけん銃を強取しようと決意して同巡査を追尾し、東京都新宿区ab丁目c番d号先附近の歩道上に至つた際、たまたま周囲に人影が見えなくなつたとみて、同巡査を殺害するかも知れないことを認識し、かつ、あえてこれを認容し、建設用びよう打銃を改造しびよう一本を装てんした手製装薬銃一丁を構えて同巡査の背後約一メートルに接近し、同巡査の右肩部附近をねらい、ハンマーで右手製装薬銃の撃針後部をたたいて右びようを発射させたが、同巡査に右側胸部貫通銃創を負わせたにとどまり、かつ、同巡査のけん銃を強取することができず、更に、同巡査の身体を貫通した右びようをたまたま同巡査の約三〇メートル右前方の道路反対側の歩道上を通行中のAの背部に命中させ、同人に腹部貫通銃創を負わせた、というのである。(事件番号昭和52()623

より引用)

 

この裁判では未必の故意があった点からBに対して意図して襲撃し、殺害までは至らなかった点から殺人未遂となり、襲撃した理由が拳銃を奪うためという強盗行為であること結び付け、Bに対する強盗殺人未遂が成立した。Aに対しては過失を認め過失致死傷となり、こちらも強盗の機会における死傷ということで強盗殺人未遂が成立した。(その他、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反も成立した。)しかし弁護側は、強盗殺人未遂罪は殺意があるときにしか成立しないとする最高裁判例を引用し、Aに対する殺意を否定したのにも関わらずBに対する強盗殺人未遂の成立を認めたのは判例違反であると上告した。しかしBに対する殺害行為とAの傷害との間に因果関係が認められる為、Aに対する殺人未遂も成立する。また、Bに対する殺害行為は強盗の手段として行われたことから強盗との結合犯としてBに対してはもちろんのこと、Aに対しても強盗殺人未遂が適用できるとして上告を棄却した。

 

私的見解

被告人は巡査Bを故意的に襲ったが殺そうとした確定的故意ではなく、死んでしまうかもしれないという未必の故意であった。また通行人Aに対しては殺そうとも当たるかもしれないとも思っていなかった。そのため被告人はAに対して認識なき過失であったと言えると考える。

被告人はBを狙って撃ったが、結果的にBだけでなく全く狙っていなかったAにも当ててしまっている。このように認識・予見した客体とは別の客体に侵害が生じることを、方法の錯誤(打撃の錯誤)という。

 

≪構成要件的過失≫

構成要件的故意とは行為者が犯罪事実を表象し、かつ、認容することだ。犯罪事実の表象とは、構成要件に該当する客観的な事実を認識し理解することである。例えば殺人罪について、行為者が生きている人間を殺そうとしている、つまり相手を死亡させる危険があるということを承認していることが必要である。

のちに述べる規範的構成要件要素の表象は、その行為者がその意味の認識を有することが必要だ、たとえばわいせつ物頒布罪においては、行為者が自分の販売している、配っている文書にわいせつ性があることを承知してなければならない。

≪錯誤≫

「方法の錯誤」について、行為者がAを殺すつもりで発砲したところ弾丸が逸れ、Aの傍らにいたBを誤って殺してしまった場合など本来攻撃するつもりだった客体には何ら結果が発生しなかった事案を上げることが多い。判例はいわゆる法定的符合説錯誤が同じ構成

要件内にある場合には故意の成立を認める。この見解では,具体的事実の錯誤の場合は故意を阻却しないが,抽象的事実の錯誤は故意を阻却する)を取り、Bに対する故意犯を認めてきた、これがABどちらも死亡していた場合でも同じように考えられてきた。方法の錯誤のほかにもいくつか錯誤がある。

「客体の錯誤」はAを殺そうと思い発砲して死亡させたが、実は撃たれていたのはAではなくBであったというパターンだ。法定的符合説に立って考えるとAであろうと、Bであろうと、客体は「人」であることは変わらない。そのため、殺人罪(刑法199条)の構成要件の範囲内で、認識・予見した事実(Aを拳銃で打って死亡させる)と実際に発生した事実(Bを拳銃で打って死亡させる)が同一の構成要件の範囲内で重なり合っているといえるため、故意が肯定される。

 

〜事実の錯誤と法律の錯誤の区別〜

判例 「チャタレイ事件」

チャタレイ事件とは、出版業を営む書店の社長として同社の出版販売等一切の業務を統括していた被告人がDH・ロレンスの著作になる『チャタレイ婦人の恋人』の翻訳本の出版を企図し、Yにその翻訳を依頼して日本語訳を手に入れ、その中に性的描写をした記述のあることを知っていたが、これを上下2巻に分冊して出版し、昭和254月中旬頃から、これを販売したという事案に関するものである。

この事案について、最高裁判所大法廷は、「刑法175条の罪における犯意の成立については問題となる記載の存在の認識とこれを頒布販売することの認識があれば足り、かかる記載のある文書が同条所定の狸褻性を具備するかどうかの認識まで必要としているものでない。かりに主観的には刑法175条の狸褻文書にあたらないものと信じてある文書を販売しても、それが客観的に狸褻性を有するならば、法律の錯誤として犯意を阻却しないものといわなければならない。狸褻性に関し完全な認識があったか、未必の認aがあったのにとどまったか、または全く認識がなかったかは刑法383項但書の情状の問題にすぎず、犯意の成立には関係がない。」と判示した。(事実の錯誤と違法性の錯誤の区別より引用)

 

わいせつ物頒布における「わいせつ性」など法律の素人にはわかりにくく、裁判官による規範的な価値判断を経なければある事実がその要素に該当するか否かを決することができない概念を規範的構成要件要素という。わいせつ性以外には窃盗罪における財物の「他人性」や公務執行妨害罪における職務の「適法性」がそれにあたる。これらの場合違法性の意識がない場合がある。違法性の意識とは自己の行為が違法(法的に許されないもの)であると知っていることをいう。責任能力を有する者ならば、通常は自己の行為の違法性を容易に認識できることができ、現に認識していることが多いだろう。(例:人殺しは犯罪だ等)このように違法性を現に認識していながら犯罪行為を行う場合は当該行為者を強く非難できる。違法性の意識の認識可能性を故意・過失共有の独立した責任要素であると解する見解を責任説という。その中でも責任説を厳格に貫き、違法性阻却事由該当事実の認識は故意とは無関係な責任要素であるから、その誤信に回避可能性がある場合にのみ責任阻却が肯定されるとする見解が厳格責任説である。この見解によれば、構成要件的故意が肯定される場合には、故意犯が成立するか不可罰となるかの二者一択であり、過失犯が成立することはないことになる。

また、厳格責任説をとると妥当でない結論に至ることを踏まえ、違法性阻却事由該当事項

実の誤信は故意を阻却するという考え方の制限責任説も存在する。この場合誤想防衛や誤想避難についての故意阻却が肯定されることとなる。

 

≪錯誤についての学説≫

錯誤についての学説も法定的符合説以外に二つ存在する。具体的符合説と抽象的符合説だ。抽象的符合説が法定的符合説と具体的符合説の中間に入るといわれている。法定的符合説と具体的符合説は正反対の立場をとっており、具体的符合説は錯誤が同一構成要件内にある場合、故意は阻却されるとなっている。「抽象的符合説」は犬(物)を殺すつもりでピストルを撃ったら、隣にいた人Aに当たって死んでしまった場合、法定的符合説によれば、犬(物)に対する「器物損壊未遂罪(処罰規定なし)」と、人に対しては人を殺すつもりはなかったことから「過失致死罪(罰金刑のみ)」を認めようとするもの。この場合に、犬に当たったら「器物損壊罪(懲役刑あり)」だが、人に当たったことで「過失致死罪(罰金刑)」になるのは妥当ではないとして、人に対する「過失致死罪」に加えて犬に対する「器物損壊罪」をも認めてしまおうとする説である。 

 

誤想過剰防衛

判例 〜勘違い騎士道事件〜

この事件は198175日午後1020分頃、空手3段の腕前である英国人の被告人は、夜間帰宅途中の路上で、酩酊した女性とそれをなだめていた男性とがもみ合ううち、女性が倉庫の鉄製シャッターにぶつかって尻餅をついたのを目撃した。

その際、同女が「ヘルプミー、ヘルプミー」などと(冗談で)叫んだため、被告人は女性が男性に暴行を受けているものと誤解して、両者の間に割って入った。被告人はその上で、女性を助け起こそうとし、ついで男性のほうに振り向き両手を差し出した。

男性はこれを見て、被告人が自分に襲い掛かってくるものと誤解し、防御するために自分の手を握って胸の前あたりに上げた。これを見た被告人は、男性がボクシングファイティングポーズをとり、自分に襲い掛かってくるものと誤解し、自己および女性の身体を防衛しようと考え、男性の顔面付近を狙って空手技である回し蹴りをし、実際に男性の右顔面付近に命中させた。

それにより、男性は転倒して頭蓋骨骨折などの重傷を負い、その障害に起因する脳硬膜外出血および脳挫滅によって、8日後に死亡した。

 

第一審(千葉地方裁判所)

被告人を無罪とした。被告人の行為は、被告人の誤想を前提とする限り、行為としては相当な範囲であり、正当防衛として相当なものである。結果が重大であることは、防衛行為の相当性には影響しない。被告人は英国人であり、本件のように誤想したことにつき過失は認められない。よって、本件は誤想防衛にあたるため故意が阻却され、また誤想したことにつき過失もないため、被告人の行為は罪とならない。と判示した。

第二審(東京高等裁判所)

被告人を有罪(懲役16ヶ月、執行猶予3年)とした。被告人の行為は誤想過剰防衛にあたる。防衛の手段はほかにいくらでもあった。にもかかわらず空手の有段者である被告人の行った回し蹴りは危険で過剰であった。この場合傷害致死罪が適用されるが正当防衛(刑法第362項)により減刑された。

最高裁(最高裁判所)

誤想した被告の回し蹴りを傷害致死罪の成立としながらも、正当防衛(刑法第362項)を適用し減刑された高等裁判所の判決を支持した。

この事件は誤想防衛であり過剰防衛であるため誤想過剰防衛と認識されている。襲われたと誤想し反撃しようとして死亡させた場合は、誤想に誤想が重なって起きたため二重の誤想防衛ともいわれている。

 

≪まとめ≫

前期の民法と違い、刑法は非常に多くの説や錯誤があり混乱を極めた。レポートの最初に結論として「結果無価値論」を推していたが、正直レポート作成中は結局どっちを使えばうまく世の中が回っていくのかよくわからなくなっていった。今回のレポートを仕上げていく中で調べ学んだ説や錯誤、故意過失は今後法学部にいる限り必ず必要になることだと感じる。このことを今回だけで留めず、今後ほかの授業でも活用していきたい。

 

≪参考文献≫

「基本刑法T総論 3版」日本評論社 大塚裕史・十河太郎・塩谷毅・豊田兼彦

「刑法 3版」有斐閣 山口厚

「刑法判例百選@総論 7版」有斐閣 山口厚・佐山仁志

錯誤(刑法)Wikipedia 120日閲覧

「事実の錯誤と違法性の錯誤の区別 一主要判例を中心として一」 川崎一夫

 

 

 

 

甲斐新大

 

基礎教養演習のレポートを提出いたしたいと思います。

 

 

 

【故意と錯誤】

            法学部 法律学科

                           18j107022   甲斐新大

キーワード

法定的符合説、誤想過剰防衛、違法性の意識、厳格責任説、規範的構成要件要素、 

意味の認識、構成要件的故意、Handlungsunwert(行為無価値)、未必の故意、

認識ある過失

 

《結論》

故意と常に隣合わせで考えていかなくてはいけないのは錯誤であり、両者あっての刑法、民法であると考える。

 

1.    はじめに

まず初めに、錯誤とはなにか、考える。

刑法上の錯誤とは行為者の表象と、現実に存在し発生したところとの間に、不一致が生じていることをいう。この場合にどのような基準で故意を認めるかについて議論がある。大きく分けて、事実の錯誤と法律の錯誤(違法性の錯誤)があることが分かる。

構成要件に関する事実の錯誤は、同一構成要件内の事実の錯誤と、異なる構成要件間の事実の錯誤に分類されることが分かる。

同一構成要件内の事実の錯誤とは、客観的事実と認識の食違いが同一の構成要件の範囲内である場合であり、例えば殺人罪を行おうとする意思を持ち、客観的にも、殺人罪に当たる行為を行った場合であると考える。異なる構成要件間の事実の錯誤とは、客観的事実と認識の食違いが異なる構成要件間で起こった場合であると考える。

法律の錯誤(違法性の錯誤)とは、発生した違法な事実については認識があり、認識通りの結果が発生しているが、自分の行為は「違法ではない」と思い込んでいた場合である。

私は、故意と錯誤、両方の存在によって、日本の刑法、民法の一部は成り立っているのではないかと、法学部に入り、法学の勉強を通し、また中江章浩 教授の授業である基礎教養演習の授業を通して、考えるようになった。このレポートでは刑法が中心となった私自身が考える故意と錯誤の両方の存在の結びつきを、論じていきたいと考える。

 

 

2.    錯誤についての学説

日本には三つの符号説があると考える。法定的符合説と具体的符合説と抽象的符合説である。多数説、および現行刑法起草者の考えは具体的符合説であるが、判例は、大正6年(1917年)の判例変更以降、一貫して法定的符合説に立つ。これらの説とはなにか、論じるとする。まず法定的符号説とはなにか。それは最近では、同一構成要件間の客体の錯誤は故意を阻却しないと解されている。〈法定的符合説〉は錯誤が同じ構成要件内にある場合には故意の成立を認める。この見解では、具体的事実の錯誤の場合は故意を阻却しないが、抽象的事実の錯誤は故意を阻却するとされている。例に挙げるとすると、A物をねらってピストルを射ったが、弾丸がそれて、B人を殺した場合、B人に対しては過失致死罪に問われるのみだが、A物をねらってピストルを射ったがC物をこわした場合は、C物に対する器物損壊罪に問われるとされる。

私の私見とすれば、法定的符号説は、簡単な言葉で表現するとしたら当然なことだと考える。

次に、これらの錯誤のいずれが故意を阻却するかについてはいろいろな見解が主張されているのが具体的符号説である。行為者の認識と現実に発生した事実との間に具体的な一致を要求する〈具体的符合説〉によれば、錯誤はつねに故意を阻却する。例に挙げると、A人をねらってピストルを射ったが弾丸がそれてB人を殺してしまった場合、B人に対しては過失致死罪に問われるのみであるとされる。もっとも、最近では、同一構成要件間の客体の錯誤は故意を阻却しないと解されている。

私は具体的符号説に対しては否定する形を取ろうと考えている。この具体的符号説から私は人を殺すつもりで人を殺している人間が、殺人既遂にならないのは明らかにおかしいのではないだろうかと考えている。理論や理屈も大事だとは思うが私は、全て取っ払って、素の人間の心で当たり前と、普通に考えてという感覚も重要なのではないだろうかと考える。

最後に抽象的符号説とは、なにか。

具体的事実の錯誤の場合は故意を阻却しないが、抽象的事実の錯誤は故意を阻却する。例に挙げるとA物をねらってピストルを射ったが、弾丸がそれて、B人を殺してしまった場合、B人に対しては過失致死罪に問われるのみだが、A物をねらってピストルを射ったがC物をこわした場合は、C物に対する器物損壊罪に問われる事である。また、〈抽象的符合説〉は行為者の認識と発生した事実とが構成要件を異にするときでも、軽い罪の限度で故意を認める。例に挙げると、人だと思って射ったところ人形だったという場合は、軽い故意の器物損壊罪の成立を認めるとある。

これらから抽象的符号説は法定的符号説と少し近いところがあると感じた。

 

3.    違法性阻却事由の錯誤

違法性に関する事実の錯誤ないし違法性阻却事由の錯誤とは、その名の通り、自分の行為には違法性阻却事由があるため違法ではないと勘違いしていた場合をいう。違法性阻却事由とは、通常なら違法とされる行為でもこれを備えていれば例外的に違法とはされず、犯罪として処罰されないという条件のことをいう。典型的には正当防衛や緊急避難のことである。つまり、ある人を殴ってもそれが自分の生命を守るためにされた正当防衛であるならば暴行罪は成立しない、という場合の正当防衛が違法性阻却事由にあたる。この違法性阻却事由がないのにあると勘違いして行動した場合が違法性阻却事由の錯誤であるが、これを事実の錯誤と考えるのか、違法性の錯誤と考えるのかについては争いがある。

問題となる事例を挙げてみるとする。Aが道を歩いていたところ、向かいから歩いてくるBが突然手を振り上げた。Aは襲われたと思って反撃し、Bの顔面を殴りつけた。しかしBはたまたまAの後ろを歩いていた友人に手を振っただけで、Aが襲われたわけではなかった。Aの行為は暴行罪の構成要件にあてはまる。事実BAに襲いかかってきたのだとしたら、その行為は自己を守るための正当防衛であり、違法性が阻却され、犯罪は成立しない。しかし現実には正当防衛になるような状況がなかった(正当防衛を規定した刑法361項にいう「急迫不正の侵害」がなかった)のであるから正当防衛にはなり得ないと解するのが一般である。ただAが正当防衛の要件があるという誤った想像をしていただけなのである。これを誤想防衛といい、違法性阻却事由の錯誤における典型例である。ここでは、誤想防衛について考えていきたい。

誤想防衛には3つのパターンがあるとされている。

1・「急迫不正の侵害」がないのにあると思い込み、相当な手段で反撃した。

2・「急迫不正の侵害」がないのにあると思い込み、過剰な手段で反撃したが行為時にその認識がなかった。

3・「急迫不正の侵害」がないのにあると思い込み、過剰な手段で反撃し行為時にその認識があった。

これらの12は誤想防衛に該当する。では3はなんだろうか。

3誤想過剰防衛に当てはまると考えられる。そこで日本で起きた刑事事件で誤想過剰防衛で起きた事件がある。

それは勘違い騎士道事件、または英国騎士道事件である。最高裁判所が誤想過剰防衛について刑法362項による刑の減刑を認めた事例として知られる。英国人である被告人が、状況につき誤解したまま騎士道精神に基づいて行動しようとしたためにおきた事件であることからこう言われている。第一審では無罪、第二審では有罪、最高裁決定でも傷害致死罪の成立を認めた上で、刑法362項による減刑を認めた原審の判断を支持したとされている。

私もこの事件に対し、被告人自身は違法性の意識は無かったのだから、第一審のように無罪を主張したいという気持ちもあるのだが、やはり人を殺してしまっている事が大きな要因ではないのかと私も考えた。

この最高裁の決定に私は賛成である。

 

4.    違法性の意識

違法性の意識とは、実行行為者が、自分の実行している行為が犯罪の構成要件に該当する違法な行為であるということの意味の認識していることをいう。違法性の意識がある行為者は、犯罪であることを認識しながらあえて規範の壁を乗り越えて行為しているのであるから、これに非難(責任非難)を加えることができる。問題は、そのような違法性の意識を明確に有していない行為者に対しても、責任非難を加えることができるかどうかである。これは違法性の意識の要否と呼ばれる問題である。違法性の意識が犯罪の成立要件として必要とされるか、必要だとすれば犯罪体系上どこに位置づけるべきなのかについては、学説が複雑に対立していることが分かる。その中で二つの説について考える。

まずは、故意説である。違法性の意識を故意の一要素と考える説である。この場合の故意とは「責任故意」を指す。

故意説はさらに、責任故意を認めるには違法性の意識まで必要とするという厳格故意説と、違法性の意識がなくとも、違法性の意識の可能性があれば足りるとする制限故意説に分かれる。

もう一つが責任説である。

違法性の意識は故意とは別個の責任要素であると考える説である。責任説は、違法性の意識の可能性があれば責任非難は可能であるとする。

責任説はさらに、厳格責任説と制限責任説に分かれる。厳格責任説は、構成要件に関わる錯誤は構成要件的故意の問題、違法性に関わる錯誤は違法性の錯誤の問題であると明確に区別する。制限責任説は、構成要件に関わる錯誤を比較的緩やかに解しており、いわゆる正当化事情の錯誤(誤想防衛)も構成要件的事実の錯誤の範疇に入れて考えている。

 

5.    構成要件的故意

構成要件的故意とは,行為者が、犯罪事実を表象し、かつ、認容することです。

構成要件的故意の内容についても争いがある。

・表象説(認識説) :事実の認識

・蓋然性説 :事実の認識+結果発生の蓋然性の認識

・認容説 :事実の認識+結果の予見+結果の認容

・意思説 :事実の認識+結果の予見+結果に対する積極的意欲

構成要件的故意の内容は、大まかにいって認識的要素と意思的要素に分けられる。

認識的要素を必要としない学説はないが認識的要素内容については争いがある。

その中で三つ挙げるとすると、

・記述的要素

記述的要素、すなわち行為の客体や行為の内容については認識的要素に含めることで争いはない。行為の客体に錯誤があった場合は後に述べる構成要件事実の錯誤の問題になる。

・因果関係

因果関係を認識的要素に含めるべきかどうかについては争いがある。有力な見解は、基本的な因果の流れを認識することは故意の内容として必要であるが、具体的な因果の流れについて錯誤があったとしても、故意を阻却するものではないとする

 

 

・規範的要素

客体の規範的な意味内容を認識していることが必要とされるかどうかについても争いがある。問題となるのはわいせつ物頒布罪(175条)における「わいせつ」性の認識である。判例は「わいせつ」性を認識しているかどうかは違法性の錯誤の問題であり、故意を阻却しないとしている。

そして、規範的構成要件要素についての表象があったといえるためには、行為者が、その意味の認識を有することが必要になると考える。

ただしチャタレー事件では反対されている。

次に意思的要素である。故意の意思的要素とは、犯罪を実現しようとする意思、すなわち実現意思である。結果発生を明確に意欲する実現意思を確定的故意というが、その段階に至っていない、いわば不確定要素を残している場合を不確定的故意という。不確定的故意には、次のようなものがある。

・択一的故意

ABか、どちらかの客体に結果が発生することを意欲しているが、どちらに発生させるかまでが明確でない状態。

・概括的故意

ある範囲の客体に結果を発生させることを意欲しているが、どの客体に発生させるかまでは明確でない状態。

未必の故意

結果発生を積極的に意欲していないが、結果が発生してもやむを得ないと認容している状態。

不確定的故意が認められる場合は、いずれも、故意犯が成立する。

 

6.    未必の故意認識ある過失の違い

未必の故意とは、自分の行為によって違法状態に至る可能性を認識しており、結果的に犯罪行為が発生してもかまわないという心理状態を表す法律用語です。

例に挙げると、「横断歩道に歩行者が大勢いる交差点に、信号無視をして車で突入すれば、誰かが死ぬ可能性が高いが、誰かが死んでもかまわない」と考えて突入した場合に未必の故意なります。

  

認識ある過失とは、危険性は認識していたものの、明確な殺意はなく、結果的に認識ある過失であると考える。認識のある過失、意識的過失とは客観的な不注意が存在することを行為者が認識している過失をいう。違法・有害な結果発生の可能性を予測しているが、その結果が発生しないであろうと軽信することをいう。

例に挙げると、「自動車運転中、道路脇を走行中の自転車に接触するかもしれないと思いつつも、充分な道路幅があるので、自転車に接触することはない。」と思うような場合であると考える。

人を殺してしまった場合、「未必の故意」で「殺人罪」となるか、「認識ある過失」で「過失致死罪」となるかで、量刑も大きく変わっていくことが考えられる。

これらのことから、

私は、私自身、未必の故意になり殺人罪などになることはこれから先の人生において100%ないと考えられるが、認識のある過失として罪に問われる可能性はゼロではないと考える。私自身、普段、自動車を運転する機会が多いからである。

認識のある過失の例で挙げた通り、このくらいなら大丈夫であろうという考えが違法、有害な、結果発生を予測しているのにも関わらず、結局発生しないであろうと軽信を私もしていたのではないのかと考えさせられる。明確な殺意などは一切ないにしろもし私自身人を殺してしまうような結果が起こりかねない。こうしたことが起こらないよう普段からの注意を心がけたい所存である。

 

7.    Handlungsunwert(行為無価値)と結果無価値

行為無価値」という概念は、もともとはドイツの刑法学者ハンス・ヴェルツェルが目的的行為論・人的不法論を提唱するにあたり、違法性の実質における法益侵害説を「結果無価値」として批判するために定立したもので、全体主義化するナチス政権下において、従来の法益侵害説を基調とする自由主義的な旧派刑法理論を克服するための概念であった。

ヴェルツェルの人的不法論によれば、刑法の任務は社会倫理の心情(行為)価値の保護にあるとされ、行為無価値は不法の本質をなすものであるのに対し、結果無価値は人的に違法な行為の内部でのみ意義を有する非本質的な部分的要素にすぎないものであると批判され、たとえ結果無価値が欠けても行為無価値が残る場合には処罰が可能であるとされた。実務では、現在でも「行為無価値論」が主流であると言われている。

だが私はこの両方の考え方である価値論を強く押している。

現在の日本では、ドイツとは異なり、行為無価値と結果無価値の双方を考慮するという二元的行為無価値論ないし折衷的行為無価値論がほとんどで、その限りで、我が国の「行為無価値論」は「結果無価値論」にかなりの程度まで接近する傾向を示していることが考えられる。

現在では、従来「結果無価値論」と「行為無価値論」の対立とされた点は、

@    違法性を規範的なものととらえるか物的なものととらえるか、

A    違法評価を道徳的・倫理的判断からどれだけ切り離すのか、

B    違法性の判断基準を主観的なものとするか客観的なものとするか、

C    違法性の判断対象を主観的なものとするか客観的なものとするか、

D    違法性を判断する時点を行為時するか事後にするか、の対立の全部又は一部で、

論者によって「結果無価値」・「行為無価値」という概念が様々な意味で用いられたことが複雑な違法性論の学説状況を生み出したとされている。

以上のような事情を反映して、「行為無価値論」の立場から「結果無価値論」を吸収合併しようとする試みもなされているが、なお両論には、刑法の任務・機能についての根本的な考え方の違いがあるだけでなく、その対立は、正当防衛における防衛の意思の要否、対物防衛の可能性、被害者の同意が違法性阻却を認める範囲等の多くの個別の論点に及ぶことから、両論を完全に総合することは容易になし得ないとされている。

 

8.    総括

以上、私はこのテーマである、故意と錯誤、難しい論点ばかりではあるが、私は結論でも申した通り、故意と錯誤の関係性はなくては刑事事件、民事事件は解決できないと私は考える。

また故意と錯誤は人間まだしも動物にも適用して考えることも出来ることもこのレポート作成を通して考えることもできた。

例に挙げると「たぬき・むじな事件」と「むささび・もま事件」である。この二つの事件は刑法第38条における「事実の錯誤」と「法律の不知」が原因で起きた事件である。たぬき・むじな事件が、この先例である「むささび・もま」事件と逆の判断となった理由は、

たぬきとむじなについては、「同じ穴のむじな」という慣用句にも現れているように、当時はたぬきとむじなが一般には別の動物だと考えられていた。そのため、「むじな」を捕まえる意思では、「たぬき」を捕まえる意思(故意)がないとされた。それに対して、「むささび」と「もま」の場合は、行為者の地方で「むささび」のことを「もま」と呼んでいただけ(「むささび=もま」)、すなわち、被告人が「むささび」という名称を知らなかっただけであり、全国的に見れば「むささび」と「もま」が別の動物であるとの認識はなかった(言い換えれば、「もま」という語が全国的に知られていないだけである)。そのため、「もま」を捕まえる認識があれば、一般的に「むささび」を捕まえる意思(故意)を認めることができた。

私は故意と錯誤を適用しなにもかも取っ払い、皆がこの判決は当たり前といった気持ちも故意と錯誤を考える上では重要であり、これから先も法を学んでいく上故意と錯誤は最も重要であると考えているので忘れぬようしていきたい所存である。

 

                                以上

 

参考文献

 

Wikipedia

コトバンク

Weblio辞書

https://lowch.com/archives/8809

中江教授 基礎教養演習 授業ノート

 

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よろしくお願いいたします。

 

 

 

横山健大

18J107011 2学年 法学部法律学科 横山健大 基礎教養演習 課題レポート

 

故意と錯誤

 

1 結論

私は、故意と錯誤が事件での争点となった場合、法廷的符号説行為無価値という考え方を採用するのが公平性ある裁きが下せると考える。

 

2 そもそも故意とは?錯誤とは?

故意と錯誤というものを考えるとき、そもそもこの二つが何なのかをまず明らかにしなくてはならない。故意というのは刑法において「罪を犯す意思」であるという。(刑法第31条1項より)これをさらに詳しく見ていくと「行為者が犯罪事実を表象し、かつ任用すること」分かりやすく説明すると犯罪を行おうとする者が、自分がこれから罪を犯すという事を認識していて(意味の認識という)、かつそれでもかまわないという心理的態度のことを構成要件的故意という。さらに構成要件的故意は確定故意と不確定故意の二つに分けられる。確定故意とは行為者が犯罪の構成要件的結果を確実なものとして認識している場合、例えるなら殺人罪において行為者が「一族の仇!こいつだけは絶対に殺す!」などと思っている場合は確定故意となる。不確定故意とは未必の故意とも言い、構成要件的結果が発生すると認識していながらもそれが発生するならそうなってもかまわないと認容するものをいう。(結果の発生を認容してはいなかったが結果として規範的構成要件的要素が発生した場合は認識ある過失となる)同じく殺人罪の例において、行為者が「こいつこういう事したら死んじまうかもしれないけどまぁいいか」などと思っている場合が該当する。主に犯罪に関する事実確認をする場合、この確定故意や不確定故意があったと認められた場合は有罪となる。一方、錯誤とは、実際に起こった客観的事実と行為者の思惑である主観的事実にズレが生じることを言う。錯誤にも種類があり、大きく分けると具体的事実の錯誤と抽象的事実の錯誤がある。具体的事実の錯誤は客観と主観のズレが一つの犯罪の構成要件に収まっている場合をいう。例えばAさんがBさんを刃物で殺そうとしたが人違いでCさんを殺した場合(客体の錯誤)やAさんが拳銃でBさんを殺そうと撃ったが無関係なCさんに当たった場合(方法の錯誤 この様な事件は昭和期の暴力団抗争などで実際に起きている)がこれに当たる。抽象的事実の錯誤は客観と主観のズレが別個の犯罪の構成要件に跨っている場合を指す。例えば忘れ物だと思って自分が取ったバッグが実は持ち主の占有が及んでいたという場合やその反対に窃盗を行おうと思っていたが持ち主の占有権が及んでおらずに忘れ物であった場合などがこれに当たる。どうやら故意と錯誤は意味の認識の中身、つまり実際に起きた具体的事実と行為者自身の主観的事実のズレがどれほど少ないかが重要であるように思える。

 

3 行動とそれらの元になる認識

故意と錯誤には意味の認識というものが重要になってくることが分かった。ではそれらはどのような形で犯罪のケースに当てはまってくるのであろうか。具体的な事例として、このようなものがある。空手3段の腕前である男性X(身長180cm80kg)が、夜間帰宅途中の路上で、酩酊した女性Aとこれをなだめていた男性B(身長160cm60kg)とがもみ合ううち、A女が倉庫の鉄製シャッターにぶつかって尻餅をついたのを目撃した。その際、A女が「ヘルプミー、ヘルプミー」などと(冗談である。これがいけなかった)叫んだため、Xは『女性が男性に暴行を受けている』と誤解して両者の間に割って入り、A女を助け起こそうとし、ついでBのほうに振り向き両手を差し出した。Bはこれを見てXが自分に襲い掛かってくるものと誤解し、防御するために自分の手を握って胸の前あたりに上げたところ、Xもまた、『Bがファイティングポーズをとり自分に襲い掛かってくる』と誤解し、自己およびA女を守ろうと考え、B男の顔面付近を狙って空手技である回し蹴りをし、実際に男性の右顔面付近に命中させた、という男性Bと男性Xが只々報われない事件が起こった。(最高裁判所昭和62326日刑集412182頁。通称、『勘違い騎士道事件』) XBの体格差、Bは両手を掲げてファイティングポーズを取っただけのことを考えると、空手の有段者が、顔への回し蹴りという危険な技を放つことが許されるのかは些か疑問である。従って、過剰防衛の事件とも思える。過剰防衛が成立する場合には、刑法362項による刑の任意的減軽・免除が認められる。しかし、そもそもBXを襲うつもりがなかったから、「急迫不正の侵害」がないので、正当防衛が成立しない。そのため、過剰防衛の問題にはならずに(刑の任意的な減免が認められずに)、通常の刑罰を科さねばならないケースのようにも思える。一方で、Xには「襲われる」という勘違い(つまり事実の錯誤)があったので、罪を犯す意志(故意)がなかったとしてそもそも故意犯が成立しないことになるとも考えられる。このように、 「急迫不正の侵害」が存在する状態でないのに、そのような状態であると誤信して防衛行為に出てしまったが、仮に行為者の認識した通りの侵害が存在したとしても、その防衛行為が防衛の程度を超えたと評価される場合を誤想過剰防衛と呼ぶ。つまりこのケースの場合は、Xが、「女性に乱暴するクズ男(男性B)が襲ってくる!」と勘違いをし、(実際XBをどのように思っていたかは定かではないが)回し蹴りを放った。回し蹴りを人に放つことは暴行罪や場合によっては傷害罪などにも問われる。しかしXの認識ではBXに対して暴行をはたらこうとした、つまり正当防衛の範疇である。これは見方を変えるとXBXに対して暴行罪をはたらこうとしたという、規範的構成要件要素である、行為者が他人に対して暴行をはたらく(この場合行為者がBである)という認識の錯誤してしまったということになると考えられる。また、過剰防衛である以上、Xには故意があったのか、という点も問題となる。このケースの場合、Xの放った回し蹴りはA女を助けるための手段であり初めからBを傷つけるためのものではなかったことを考えると故意ではなく認識ある過失であると考えるのが妥当であると考えられる。

 

4 故意と錯誤はどう裁かれるべきか

ではこれらの故意と錯誤をどう裁いてゆくのが公平だろうか。そもそも犯罪とは、構成要件に該当する違法で有責な行為のことを言う。そもそも故意と錯誤の問題以前に違法性の意識という、「そもそも違法であると知らなかった」という場合もあるが、この場合だとしても罪を犯す意思がなかったとは言えず、つまり故意が無かったとすることはできないと刑法38条3項は定めている。この法規の解釈には様々あり、厳格故意説や制限故意説、厳格責任説や制限責任説があり未だに解釈については別れており確定していない。つまり犯罪を裁く上で「違法性」はかなり重要なキーワードであると言える。この「違法性」という部分については結果無価値と行為無価値という二つの考え方がある。結果無価値というものは法益の侵害やその危険性が違法の本質という考えのことである。つまり、行為の結果が不正となるのが違法の本質であるとする、違法性を結果で判断するということである。それに対して、行為無価値というものは、結果の不正だけでなく、行為の不正も違法性の本質であるという考え方のことである。結果だけでなく、行為の不正も違法性の本質であるということである。違法というものが結果だけなのか、行為にも及ぶのかという違いだが、結果無価値で犯罪というものをすべて裁くというのは大雑把すぎると感じる。何故なら単純な違法行為の結果、というものには故意犯だけでなく過失犯も含まれるからだ。その為、故意というものを拡大解釈させ過ぎてしまう可能性があると私は考える。交通事故などが良い例であると思う。例えば交通事故で死人が出た場合、事故を起こした自動車の運転者に「人を殺す」という故意があった場合は殺人罪となるだろう。しかし、違法性が結果のみであれば故意なくして事故を起こし、同じ結果を引き起こしたとなれば、本来過失であるにもかかわらず、殺人罪として裁かれることになってしまう。確かに起こした結果はどちらも同じだが、両方ともに人を殺すことを認容したとして裁くのはあまりに不正確であり、公平性にも欠く。行為無価値であれば殺人を犯した者の人を殺すという行為を違法として裁くことが出来る。その結果故意犯と過失犯をわけることができる為、行為無価値のほうが優れていると私は考える。また、故意を裁く上で錯誤が刑の可否や量刑に関わるケースではこれまでの故意や錯誤、認識の問題を踏まえて法廷的符号説をとるのが最適だと考える。法廷的符号説とは、錯誤が同じ構成要件内にある場合には故意の成立を認めるとする考えである。この見解では,具体的事実の錯誤の場合は故意を問うが,抽象的事実の錯誤は故意を問わない。たとえば,A物をねらってピストルを射ったが,弾丸がそれて,B人を殺した場合,B人に対しては過失致死罪に問われるのみだが,A物をねらってピストルを射ったがC物をこわした場合は,C物に対する器物損壊罪に問われるとする。この法廷的符号説を公平性が高いとする理由は、具体的錯誤が起こっていても明確に故意を裁けるところにある。行為者が起こした客観的事実にとらわれずに行為者の主観的事実を元にみており、行為者の起こした行動の中に故意というものを見出しているからである。結果がどうであれ、故意を持って行動を起こした、という点を要点にしているため過失犯との混同もされない。私は裁判においては罪を犯した行為者の故意を裁くべきであり、錯誤によって行為者の故意が軽く裁かれることはあってはならないと思う。よって私は行為者の行為の中にある故意を裁くことの出来る行為無価値という考え方と法廷的符号説を支持する。

 

5 法廷的符号説を元にした判例

法廷的符号説を元に私が、公平に行為者が裁かれたと考える判例を紹介する。

Xは、巡査Aからけん銃を強取する目的でAを狙って建設用びょう打銃(いわゆるネイルガンである。アメリカのドラマの殺人鬼がよく持っている)を改造した手製装薬銃を発射し、びょうはAに命中し、貫通して、たまたまそこを通行していたBにも命中し、両者に重傷を負わせました。この事件に裁判所は、Aに対する傷害の結果について、強盗殺人未遂罪が成立するとするには被告人に殺意があることを要することは、所論指摘のとおりである。犯罪の故意があるとするには、罪となるべき事実の認識を必要とするものであるが、犯人が認識した罪となるべき事実と現実に発生した事実とが必ずしも具体的に一致することを要するものではなく、両者が法定の範囲内において一致することをもって足りるものと解すべきであるから、人を殺す意思のもとに殺害行為に出た以上、犯人の認識しなかった人に対してその結果が発生した場合にも、右の結果について殺人の故意があるものというべきである。被告人が人を殺害する意思のもとに、手製装薬銃を発射して殺害行為に出た結果、被告人の意図した巡査Aに右側胸部貫通銃創を負わせたが殺害するに至らなかったのであるから、同巡査に対する殺人未遂罪が成立し、同時に、Xの予期しなかった通行人Bに対し腹部貫通銃創の結果が発生し、かつ、右殺害行為とBの傷害の結果との間に因果関係が認められるから、同人に対する殺人未遂罪もまた成立し、しかも、Xの右殺人未遂の所為は同巡査に対する強盗の手段として行われたものであるから、強盗との結合犯として、XのBに対する所為についてはもちろんのこと、Aに対する所為についても強盗殺人未遂罪が成立するというべきである。

(昭和53728日最高裁)事件番号 昭和52()623

とした。この場合、実際に起こった客観的事実とXの想定した主観的事実の間で具体的錯誤が起こっているが、裁判所は巡査Aに対する故意も通行人Bに対する故意も認められている。Xの意図としてはBを傷つけるつもりはなかったのであろうが、そもそも巡査Aに対する故意が無ければBの怪我も発生していなかった訳であり、間接的にはXBに対しても故意があったという事を認めても良いということになる。Xの故意が錯誤によって揺らがずに公平に裁かれていると私は考える。

 

6 参考資料 出典

https://info.yoneyamatalk.biz/判例/【刑法判例】流れ弾が狙っていない者にあたった/

2020 1月15日)

sloughad.la.coocan.jp/sono/crim/keih/td500.htm

2020年1月15日)

https://blog.goo.ne.jp/pota_2006/e/70d83f24a1b5de25cd962ef23e5854a7

2020年1月15日)

https://info.yoneyamatalk.biz/刑法/違法性の行為無価値論と結果無価値論についてわ/

2020年1月15日)

https://gonte.info/2018/08/03/criminallaw_sakugo_kaisetu/

2020年1月15日)

https://lawyer-nakamura.jp/archives/category/cases/17275/

2020年1月15日)

https://legalus.jp/others/laws_and_regulations/ed-1684

2020年1月15日)

https://ja.wikipedia.org/wiki/違法性の意識

2020年1月15日)

https://ja.wikipedia.org/wiki/行為無価値

2020年1月15日)

https://ja.wikipedia.org/wiki/錯誤_(刑法)

2020年1月15日)

https://kotobank.jp/word/法定的符合説-1414521

2020年1月15日)

山口 厚『刑法』第3版 平成291025日 第3版第5刷発行 有斐閣

 

 

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小野 陸

故意と錯誤

       18J107006 小野 陸

 

 

1.    はじめに

私は、故意と錯誤について結果無価値の立場を推奨する。

 

2.    故意と錯誤の学説の展開

刑法上における錯誤とは、行為者の表象と、現実に存在し発生したところとの間に、不一致が生じていることをさすが、このような場合にどのような基準で故意を認めるのかについて議論がある。錯誤は、大きく分けて、事実の錯誤と法律の錯誤に分けられる。事実の錯誤は、構成要件に関する事実の錯誤と、違法性に関する事実の錯誤に分けられる。また、刑法上において、故意を構成要件的故意と責任故意に分ける学説が有効であるが、この立場からは、構成要件に関する事実の錯誤は構成要件的故意の成否についての議論であり、違法性に関する事実の錯誤つまり誤送過剰防衛などは、責任故意の成否についての議論であるといえる。

故意とは、一般的にある行為が意図的なものであることをさし、法律上は他人の権利や法益を侵害する結果を発生させることを認識しながらそれを容認してその行為をすることを意味するが、故意の基礎に置かれるべきものは、構成要件に該当する客観的事実の認識であると私は考える。またこの客観的事実の認識とは、将来発生すべき事実に対する予見を含む表象であるという点についても共通の理解がされており、これについても私は同意見である。このような考え方についてとなえた説が、認識説といわれるものである。故意がある、あったとするその基準をなにに求めるのかといった議論はこの認識説から始まった。認識説の説明は以下の通りである。

故意は、確定的故意と不確定的故意に大きく分けられる。確定的故意とは、結果に対する認識が確定的な場合であり、不確定的故意は、結果に対する認識が不確定な場合である。不確定的故意はさらに、概括的故意、択一的故意および未必の故意に分類されるが、過失との境を接する未必の故意は結果発生の認識そのものが不確定な場合を指す。また故意との境を接する認識ある過失とは、犯罪事実の発生は可能でも、その発生はないであろうと信じている場合のことを意味する。

最初に述べたように故意を構成要件的故意と責任故意が有力であるが、構成要件的故意において、その行為者が誤信していたことに対して行為者に構成要件的過失があったかどうかが問題となる。構成要件的故意とは、行為者が、犯罪事実を表象し、かつ認容することをいい、犯罪事実の表象だが、犯罪事実とは、構成要件に該当する客観的な事実、すなわち、実行行為の客観面や、構成要件的結果、またその両者の間の因果関係のほか、行為の主体や客体、状況などを含む観念である。表象とは、行為者が外界の事実を自己の心の中にうつしだすことであり、すなわち、現在の事実に関しては、それを認識することであり、将来の事実については、そのことを予見することにほかならないとされている。例えば、殺人罪について、犯罪事実の表象があったというためには、行為者が自分は人であり、生きた人間に対して殺すという行為を行おうとしていること、つまり、その行為には、相手方を死亡させる現実的な危険性が含まれており、その行為によって相手方が死亡するであろうことを承知していることが必要であるということである。行為者が、自分の攻撃を加えようとしている対象が、精巧に作られたマネキンであったり、自分が相手方につきつけているものは玩具のピストルだと考えていた場合、実際は本物の人間であったり、手にしていたものが本物のピストルであったとしても、行為者には、殺人罪の構成要件的故意は認められないとされているこのような誤信があった場合、誤信したことについて行為者に構成要件的過失があったかどうかが前にも述べたが問題となる。

表象は、原則として、犯罪事実の全部に及ばなければならないとされている。結果犯においては、構成要件的結果の表象とともに、実行行為と構成要件的結果との間の因果関係の認識も必要とされている。すなわち、殺人罪においては、自分の行為によって死ぬであろうことを表象しなければならない。

これに対して、主観的構成要件要素である目的などについて表象することは、必要ない。目的などは、構成要件的故意の要素ではなく、行為者に存在しさえすれば構成要件的該当性を認めることができる。また、構成要件の要素ではない責任能力や処罰条件などの表象が構成要件的故意の要素でないことは、明らかである。

ところで、規範的構成要件要素についての表象があったというためには、行為者が、その意味の認識を有することが必要であるともされている。たとえば、猥褻文書販売罪(175)においては、行為者が自分の販売するものが、猥褻な文書であることを承知していなければならないとされている。

ここまでで故意と錯誤についてさまざまな説を使って説明してきたが、私は錯誤が発生するのは故意の問題であり、故意を考えるにあたって、違法性の意識があったかどうかが重要なことであり、これは事実の認識に基づいてなされることからして、法律の錯誤は事実の錯誤がなかった場合にのみ考慮されるものであると考える。事実の錯誤の成立範囲は故意の概念と同じであり、つまりは認識と結果は共に構成要件的事実でなければならない。行為者自身、責任能力、人的処罰阻却事由は故意の対照でないため、それらの錯誤は事実の錯誤ではないとされている。事実の錯誤において、行為者の認識した犯罪事実と、客観的に存在する犯罪事実が食い違がっている場合をいい、このような場合において行為者に犯罪事実の表象が欠け、故意が認められないのではないかという問題が浮上するが、この点において犯罪事実の表象における意味の認識の程度としては、構成要件に抽象化された規範の問題を想像することができる程度の認識で足りる。つまり、行為者の認識した犯罪事実と、客観的に存在する犯罪事実とが同一構成要件内で符合する、つまり具体的事実の錯誤に限り、完全な故意責任を問うことができるとされている。これを法定的符合説というがこの説は、故意の認識対象は構成要件に該当する客観的事実であるとし、構成要件の枠をこえて、故意の成立を認めることはできないとする。また、故意責任の本質から、故意があるというためには、直接規範の問題が与えられる程度の認識が必要である。規範は構成要件という形で国民に与えられているものであるため、構成要件で類型化された事実の認識があれば、故意に必要な認識あったといってもよいと考えている。例えば、殺人罪において重要なのは、人を殺すという認識であり、Aさんという人を殺す認識ではないということである。Aという人を殺すという認識で行われた実行行為により発生した人の死亡は、直接的犯規範的意思活動によって発生した結果であり、認識した事実と発生した事実とが構成要件上同一の評価を受けるという点において符合している限り、発生した事実について故意を認めるべきと考えていて、たとえ錯誤が発生したとしても人を殺すという認識があれば、故意があったと認めるべきであると私は考える。責任説という考え方の中に、厳格責任説という考え方があるが責任説というのは違法性の意識は故意とは別の責任要素であるとするものでそれをさらに明白に分ける考え方である。私はこの考え方ではなく、違法性の意識と故意は同じ要素であり、違法性の意識があることによって故意があると認識されるものであるから別の要素として考えなくてよいと考える。

 

3.    結果無価値と行為無価値

結果無価値は違法性の本質を、犯罪の結果に重点を置いて解釈するものであるが、行為無価値は犯罪の行為に重点を置いて解釈するものである。この二つの考え方の最大の違いは、故意、過失の検討をどの段階で行うのかということである。刑法において、1、構成要件2、違法3、責任の順番で犯罪の成立の有無を検討することになるが、行為無価値であれば構成要件の段階で故意、過失を検討する。また、結果無価値の場合3番目の責任の段階で故意、過失を検討する。結果無価値は、法益の侵害またはその危険つまり、良くない結果が発生することを違法性の本質と解している。結果無価値においては、故意、過失という意思的要素は、同じ結果が発生するのであれば、故意であろうが過失であろうが法益の侵害に変わりないため、違法性の本質に含まれず責任の問題にすぎないこととなり、主観的な要素も例外的な扱いになるとしている。行為無価値は結果無価値と比べて、結果ではなく、行為の反論理性までも違法の本質として処罰の対象に含まれてしまい、処罰範囲を不明確にしてしまうという点において考えると私は、やはり結果無価値の立場を推奨する。

 

4.    まとめ

まとめとして、事実の錯誤において、行為者の認識した犯罪事実と、客観的に存在する犯罪事実が食い違う場合、構成要件に抽象化された規範の問題を認識している程度であれば、法定的符合説によって故意責任を問うことができる。行為者の表象と現実に発生したところとの間に錯誤が生じた場合にどのような基準をもって故意を認めるかについて私は、行為者が違法性を認識していたとき、故意があったと認めることができ、責任と故意は同じ要素として考えるべきであり、責任説の考え方には賛成できない。行為者の認識した犯罪事実と、客観的に生じた犯罪事実が構成要件をまたいでいた場合において、道義的責任非難をすることが可能であれば、その限度内において、限度が認められていることについても責任と故意は密接な関係であるといえる。刑法の犯罪において、違法性の重点を結果においている結果無価値論も犯罪成立の有無についても責任において故意、過失の検討をしている。また、Aさんと間違えてBさんを殺してしまったといった事例においても錯誤に陥ったことは問題ではなく、人を殺したという点が重要であり、人を殺すという認識があれば、故意を認識についても私は、賛成である。最初に結果無価値を推奨すると述べたが。行為無価値にもよい点もあり、それぞれ悪い点もある。この二つの考え方を併合していくことが一番理想的である

 

5.    出典

井田良『入門刑法学各論』(有斐閣、第2版)

山口厚『刑法』(有斐閣、第3版)

前田雅英『刑法総論講義』(第5版、東京大学出版会、2011

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武藤光司

故意と錯誤

                                       18J107019 武藤光司

キーワード 法的符合説 誤想過剰防衛 違法性の意識 厳格責任説 規範的構成要件要素 意味の認識  

      構成要件的故意 Handlungsunwert(行為的無価値) 未必の故意 認識ある過失

 

結論 故意と錯誤については判例によってばらばらであるのでどの事件にも同じ考え方で判決したほうがいいと思う。

 

これらの錯誤の諸事例について法定的符合説具体的符合説抽象的符合説があるとされる。〉

法定符合説は構成要件の範囲で事実と認識の符合があれば足りるとする説であり、構成要件要素という抽象的なレベルでの符合があれば足るとするとなっている。具体的には、同一構成要件内の具体的事実の錯誤は、故意を阻却しないとする。なぜなら、故意とは、犯罪事実を認識し、規範に直面し反対動機を形成できたにもかかわらず、これを認容する積極的反規範的人格態度であるから、故意が阻却されるか否かは、規範に直面していたか否かによって決すべきであるところ、構成要件は当罰的な行為を抽象化・類型化したものであり、犯罪事実を誤認していても、それが同一構成要件の範囲にあれば、当該類型化された犯罪行為をしてはならないという同一規範に直面していたといえるからである。違法性に関する通説である・結果無価値二元説(折衷説)によれば、行為者は少なくとも人を殺してはいけないという規範に直面し、反対動機(やっぱり止めようという考え)の形成が可能であったのにあえて行為を行った以上、故意を認めるべきとされるのである。

一方、異なった構成要件間にわたる抽象的事実の錯誤は、故意を阻却するとする。なぜなら、行為者は規範に直面していなかったからである。ここで判例を使って故意なのか過失なのか見てみることにする。

〈勘違い騎士道事件〉

この判例は空手3段の腕前である英国人の被告人は、夜間帰宅途中の路上で、酩酊した女性とそれをなだめていた男性とがもみ合ううち、女性が倉庫の鉄製シャッターにぶつかって尻餅をついたのを目撃し同女が「ヘルプミー、ヘルプミー」などと(冗談で)叫んだため、被告人は女性が男性に暴行を受けているものと誤解して、両者の間に割って入った。被告人はその上で、女性を助け起こそうとし、ついで男性のほうに振り向き両手を差し出した。

男性はこれを見て、被告人が自分に襲い掛かってくるものと誤解し、防御するために自分の手を握って胸の前あたりに上げた。これを見た被告人は、男性がボクシングのファイティングポーズをとり、自分に襲い掛かってくるものと誤解し、自己および女性の身体を防衛しようと考え、男性の顔面付近を狙って空手技である回し蹴りをし、実際に男性の右顔面付近に命中させた。

それにより、男性は転倒して重傷を負い、その障害によって、8日後に死亡した判例である。1審では被告人は自分に襲い掛かってくると認識しそれと英国人であるかとから誤想したことにつき過失は認められないとし、誤想を前提とする限り、行為としては相当な範囲であり、正当防衛として相当なものである。結果が重大であることは、防衛行為の相当性には影響しない。よって、本件は誤想防衛にあたるため故意が阻却され、また誤想したことにつき過失もないため、被告人の行為は罪とならないとなった。

しかし2審では防衛の手段として他にとりうる手段がいくらでもあった。にもかかわらず被告人の行った回し蹴りは重大な障害や死亡の結果を生ぜしめうる危険なものであった。

よって、被告人の行為は誤想過剰防衛に当たり、傷害致死罪が成立するが、刑法362項により刑が減軽された。「本件回し蹴り行為は、被告人が誤信したA(男性)による急迫不正の侵害に対する防衛手段として相当性を逸脱していることが明らかである」として、傷害致死罪の成立を認めた上で、刑法362項による減刑を認めた原審の判断を支持した。この争点は誤想過剰防衛という点であるである。被告人のとった行為は違法性阻却事由の正当防衛に当てはまるが誤想防衛なら過失犯、過剰防衛なら故意犯になり罪の重さが変わってくるからだ。

故意としては女性を助ける為だから蹴ってもいいという認識、行為は男性を蹴るという行為。男性が怪我をしてもやむをえない、と結果の発生を認めてしまうと、「未必の故意」として、故意が認定され、男性にケガさせるかもしれないがそんなことはまず起こらないだろう、と結果の発生を認めない場合、「認識ある過失」として、故意は認定されず、過失が認められる。

構成要件的故意に男性を蹴るという認識があるからだ。女性を助ける為だから蹴ってもいいという責任要素としての故意。ここで、故意を阻却するか否かという故意の成否の問題がある。

故意犯説をとると誤想防衛を違法性の錯誤とする厳格責任説によれば、誤想過剰防衛の場合は、違法類型としての構成要件に該当する事実を認識している以上、当該行為が禁じられているかどうかの問題に直面し、 ただ誤って許されていると信じたにすぎない違法性の錯誤である。従って、違法性に関する事実に 錯誤があったとしても、それは法律の錯誤にすぎず、故意犯は成立する。もっとも、その錯誤が相当な理由により、違法性の意識の可能性すらない場合にのみ責任を阻却されるにすぎないとする。ただし誤想過剰防衛については、刑法362項の刑の減軽の明文規定がないところから、通常の過剰防衛と同様に刑の 減軽または免除が認められるか否かについて争いがある。私はこれについて責任減少説が適任ではないかと考える。責任減少説とは、正当防衛の要件を具備しない過剰防衛行為は、正当防衛でない以上、明らかに違法行為であるが行為者が興奮、驚愕、恐怖、狼狽に より過剰行為に出てしまった場合には、期待可能性が減少しその分だけ責任が減少するとする考え方である。したがって、急迫性が客観的に存在しようがしまいが、行為者が主観的に急迫であると思ってあわてている以上、責任は減少するのである。これを今回の判例に照らし合わせると被告人が回し蹴りしたことは正当防衛でなく違法行為であるが主観的にみて急迫であわてていることを考えると36 2 項の適用ないし準用を認め罪を軽減することにしたほうがいいと思う。

誤想過剰防衛を過剰防衛の一種と捉え、急迫不正の侵害が存在しない誤想過剰防衛においても、 行為者が恐怖、驚愕、興奮、狼狽等による心理的異常状態にあることを根拠に通常の過剰防衛と異なるところがなく36 2 項の適用ないし準用を認めるべきであると私は考えます。

 

もう一つの判例もみて故意と錯誤について考えていきたい。

〈チャタレー事件〉

チャタレー夫人の恋人』には露骨な性的描写があったが、出版社社長も度を越えていることを理解しながらも出版した。翻訳者の伊藤整と出版社社長は当該作品にはわいせつな描写があることを知りながら共謀して販売したとして、913日、刑法第175条違反で起訴された。第一審(東京地方裁判所昭和27118日判決)では出版社社長小山久二郎を罰金25万円に処する有罪判決、伊藤を無罪としたが、第二審(東京高等裁判所昭和271210日判決)では被告人小山久二郎を罰金25万円に、同伊藤整を罰金10万円に処する有罪判決とした。両名は上告したが、最高裁判所は昭和32313日に上告を棄却し、有罪判決が確定した。

この判決で故意犯が成立するためには、規範的構成要件要素についての認識が必要なので、この規範的構成要件要素について錯誤が存するときは故意を阻却するわけだが、通常の事実の錯誤の場合(事実に対する認識)と異なってその錯誤はある種の事実評価をその基礎としているため、その性質としては『処罰されないだろう』という違法性の錯誤に近接する部分が強い。要するに、刑法175条の猥褻物頒布・販売罪における故意とは、『猥褻な記載』が存することの認識とそれを頒布販売する認識があれば足り、その記載が175条にいう「わいせつ」性を具備していることの認識までは要しない、ということがわかる。
そもそも「わいせつ」の認識がなかった場合に故意を認めることは出来ないけれども、「確かにわいせつかもしれないけど、こんなもの大した事ないでしょ」というのは、猥褻の意味の認識は確かにそこに存しているわけだし、ただ単に法規範に当てはめを間違えただけなので、意味の認識としての故意をそこに認めることができる。

ただ何がわいせつであるかという問題に対し、わいせつ概念は社会的通念によって時代とともに変化し正義感や価値観が変わってくるので難しい問題だと思う。私は時代の価値観も大事で世間一般の考えに合うような判決をしていくことを望む。

 

 

〈まとめ〉

今では故意と錯誤には厳格責任説だったり制限責任説などあり事件ごとに使い分けたりしていることが分かった。それぞれによって罪の重さが変わってきたりしてくるのでどれか一つにまとめることで判決が厳格責任なのか制限責任説なのかの論争はいらなくなると思う。先ほども述べたがチャタレー事件のようなわいせつ物の定義がないもは時代の変化によって考えを変え世間一般に合うようにしていけばいいと思う。騎士道事件ではHandlungsunwert(行為的無価値)と結果的無価値があり英国人の被告人がした行為を客観的にみて危険な行為なので結果無価値をとるべきと思えるしHandlungsunwert(行為的無価値)でもとれるべき点もある。

行為無価値と結果無価値の双方を考慮するという二元的行為無価値論ないし折衷的行為無価値論というのもあるので双方をうまく使い合わせしかも時代の流れに合わせて法律を変えていくことも必要になってくると思う。刑法36条による罪の軽減について詳しく書いてないので適用される事例を明確に決めるといいと思う。私なら行為者に行為を主観的にみて急迫であると思ってあわてているのなら責任を減少すべきであると思う。もとは自分の身を守るためであるから責任を減少させることに問題はないと思うからだ。まとめで書いたようにこれからはいくつかある考え方からいいところをそれぞれとり一つにまとめることになればいいと思う。

 

 

 

 

 

山口佑都

水曜5限 基礎教養演習U

レポート試験提出課題

18J107018 山口 佑都

テーマ:故意と錯誤

結論:故意を阻却する錯誤と阻却しない錯誤の違いにより、罪刑は異なったものになる。

 

1、故意

@故意の内容:罪を犯す意思のない行為は罰しない。故意の本質は、規範の問題に直面しながら、あえてこれを乗り越えた、反規範的人格態度に対する、重い道義的責任非難にある。したがって、罪を犯す意思とは、犯罪事実を認識、予見(犯罪事実の表象)しただけでは足りず、あえて犯罪結果を望んだこと、ないし、犯罪結果が生じることを認容していた場合に、肯定される心理状態と考える。

そもそも、故意を犯罪体系のどこに位置づけるかについて、学説上根本的な対立がある。

違法性の本質を法益の侵害ないしその危険に求める結果無価値一元論の立場からすると、故意犯と過失犯は、同じ法益侵害結果を発生させている以上、違法性の程度において異ならないことになる。たとえば、殺人罪と過失致死罪は生命侵害という結果(結果無価値)においては同じであるから、同程度の違法性を有することになる。したがって、故意犯と過失犯の区別は、違法性ではなく責任の段階において評価されなければならない。したがって、結果無価値一元論の見地からは、故意は(もっぱら)責任要素であることになる。

これに対して、違法性の本質を、法益侵害のみならず社会的行為規範に対する違反に求める行為無価値論(行為無価値・結果無価値二元論)(行為無価値=Handlungsunwert)の立場からすると、故意犯と過失犯は、社会的規範に対する違反の程度(行為無価値)において差があり、したがって、違法性の程度においても異なる(故意犯のほうが違法性が重い)。したがって、二元論の見地からは、故意も過失も(もっぱら)違法要素であることになる。そしてたとえば、殺人罪(故意犯)と過失致死罪(過失犯)は構成要件段階で区別されることになる。

注1)構成要件該当性を論ずるには、実行行為の客観面に対応する主観面の要素として,故意犯においては,構成要件的故意が,また,過失犯においては,構成要件的過失が必要である。

A未必の故意未必の故意とは、自分の行為によって違法状態に至る可能性を認識しており、結果的に犯罪行為が発生してもかまわないという心理状態である。似たような状況下において、認識ある過失というワードがある。これは、自分の行為によって違法状態に至る可能性を認識しながら、その発生を避けられるものと信じて行為したが、結果的に違法状態を発生させた状態である。

注1)犯罪結果を確定的に予見していた場合を、確定的故意という。犯罪事実の認識と、犯罪実現の認容は、一応分けて観念でき、犯罪事実の認識が確定的であっても、未必的であっても、犯罪実現を志向、認容する心理状態を想定することは可能である。

B違法性の意識:犯罪事実の表象には、1.物体、事象の知覚→2.意味の認識→3.違法性の意識→4.具体的条文の認識の4段階が観念できる。このうち、「罪を犯す意思」に含まれる犯罪事実の表象としては、違法性の意識まで必要でなく、意味の認識で足りるものと考える。なぜなら、意味を認識しながら、規範の問題を乗り越えて犯罪を実現した場合と、規範の問題さえ惹起せずに犯罪に及んだ場合、質的に差異はあるものの、違法性を意識して犯罪を回避できた条件(違法性の意識可能性)としては同一(であり、同じ程度に非難可能)だからである。

注1)したがって、違法性の意識可能性さえない場合は、責任非難の対象となる土台(違法性を意識する可能性があったという状況、機会)がなく、故意責任は否定される。

注2)違法性の意識の内容については、前法律的な社会倫理規範によって許されない行為であるとの認識と考える説もある。しかし、意味の認識との区別が不能となり、妥当でない。したがって、違法性の意識の内容としては、法律上禁止された行為である、との認識をもって足りる心理状態と解する。

C意味の認識:記述的構成要件要素においては、物体、事象の知覚が意味の認識を導く。しかし、裁判官の規範的評価を経て初めて確定される、規範的構成要件要素においては、社会的意味の認識が直ちに規範的評価を導かない。したがって、故意に欠けるのではないかが問題となる。しかし、裁判官の規範的評価の土台となる社会的意味の認識(素人間の並行的評価)があれば、規範の問題に直面する機会は与えられていたといえ、故意責任を肯定すべきである。

 

2、錯誤

@事実の錯誤:事実の錯誤とは、行為者の認識した犯罪事実と、客観的に存在する犯罪事実が食い違っている場合をいう。この場合、行為者に犯罪事実の表象が欠け、故意が認められないのではないかが問題となる。この点、故意責任の本質は規範の問題に直面する機会を与えられながら、あえて犯罪を実現させた反規範的人格態度に対する重い道義的責任非難にある。したがって、犯罪事実の表象における意味の認識の程度としては、構成要件に抽象化された規範の問題を想起できる程度の認識で足りる。よって、行為者の認識した犯罪事実と、客観的に存在する犯罪事実とが、同一構成要件内で符合する(具体的事実の錯誤)限り、完全な故意責任を問い得る(法定的符号説)。

注1)したがって、因果関係の錯誤においても、行為者の主観において予見された因果関係において、実行行為の危険性が現実化する過程が想起されていた場合は、構成要件レベルの抽象化された規範の問題と直面する機会があったことになり、故意責任を問える。

注2)故意に要求される意味の認識の度合いを構成要件段階まで抽象化する以上、故意に個数は観念できず、客体が複数生じた場合、故意犯も複数成立する。もっとも、観念的競合として、一罪で処断される。

A抽象的事実の錯誤:行為者の認識した犯罪事実と、客観的に生じた犯罪事実が、構成要件をまたいで食い違っている場合を、抽象的事実の錯誤という。この場合、構成要件段階まで抽象化された規範の問題さえ、想起できたといえず、規範の問題に相対する機会が与えられていたといえないから、故意責任は問えないように思われる。しかし、両事実が実質的に重なり合う場合、重なり合う軽い罪の限度で、道義的責任非難をすることが可能である。したがって、その限度で、故意が認められる。

B法律の錯誤と事実の錯誤:法律の錯誤とは、現実には法律上禁止された行為を、行為者が、法律上禁止されていないと考えて、行ったしまったような場合をいう。法律の錯誤は、行為者が規範の問題に直面しうる機会を得ていた場合であり、事実の錯誤は、規範の問題に直面しうる事実の認識を欠く場合である。たとえば、ムササビを捕獲してはならない、という禁止規範がある場合に、自己が知覚した動物に、モマという意味を与えることは、事実の錯誤にも思える。しかし、‘モマであればムササビではない”と言う通念が一般的でない場合には、規範の問題に直面する機会を付与されていないといえず、意味の認識に欠けるところがなく、法律の錯誤に過ぎない。これに対して、狸を捕獲してはならないという禁止規範があるときに、自己が知覚した動物にムジナとの意味を与えた場合、‘ムジナであれば狸ではない”という社会一般の共通認識があるときは、狸を捕獲してはならないという規範の問題に直面しえず、ムジナと意味づけたことが、事実の錯誤を構成する。

注1)   狸とムジナの事案に関しては、違法性の意識の可能性の問題とも言い得るように思われる。

C厳格責任説:構成要件に関わる錯誤は構成要件的故意の問題、違法性に関わる錯誤は違法性の錯誤の問題であると明確に区別する。

D法律的意味の認識意味の認識には、法律上の意味の認識が含まれる場合がある。たとえば、他人の所有物か、否か、である。たとえば、他人の所有物を、自己の所有物であると法的に誤った意味づけを与えて、不法領得の意思を発現する行為を行ったとしても、横領罪は成立しない。事実の錯誤として、故意を欠く。これに対して、他人の所有物を他人の所有物と認識して、不法領得の意思の発現行為をした場合でも、当該行為が法的に禁止されていないと考えていたときは、法律の錯誤の問題として、故意を阻却されない。

 

3、過剰防衛・誤想防衛:正当防衛がその客観的要件を満たさない場合の処理が問題となる。

@過剰防衛:防衛の程度を超えた行為は、刑を減刑し、又は免除できる(36条2項)。この根拠は、急迫不正の侵害を前にし、冷静な対応は難しく、行為が防衛の程度を超えたことについて、責任の減少が認められる点にある。

A狭義の誤想防衛:正当防衛の客観的要件を具備していない場合、行為の正当性は基礎付けられず、正当防衛は、成立しない。しかし、行為者が主観において正当防衛の存在を誤信していた場合、故意が阻却されると考えられる。すなわち、故意責任の本質は、規範の問題を想起できる機会を与えられながら、あえて犯罪を行い、ないし漫然と犯罪を実現した反規範的人格態度に対する、道義的責任非難にある。しかし、行為者が正当防衛の存在を誤信していた場合、行為者は自らの行為の正当性を疑えず、規範の問題を想起する機会に面したといえない。したがって、故意責任を問うことはできないと考えられる。

B誤想過剰防衛:正当防衛の客観的要素を満たさない場合、正当防衛は成立しない。しかし、主観において、正当防衛が存在すると誤信していた場合、故意が阻却されるのは、上述のとおりである。そして、急迫不正の侵害を誤想し、かつ、誤想の侵害に対する防衛行為に相当性がないのに相当性があると誤信していた場合、行為者は主観において、規範の問題に直面できる事実の認識を欠き、規範の問題を想起する機会に面していない。したがって、この場合、故意責任を問えない(二重の誤想防衛)。これに対して、急迫不正の侵害を誤信し、これに対する防衛行為の不相当性を認識していた場合には、規範の問題に直面する機会を有しており、故意を阻却されない。

C狭義の誤想過剰防衛と36条2項:急迫不正の侵害を誤信している以上、正当防衛はおろか、過剰防衛もその客観的成立要件を欠き、成立しない。しかし、過剰防衛の趣旨を急迫不正の侵害を目の当たりにして、冷静な判断は困難であることから、責任が減少する点に求めると、行為者が急迫不正の侵害を誤信している以上、責任の減少を認める基礎がある。したがって、狭義の誤想過剰防衛の場合、36条2項を類推適用して、減刑、または免除を認めるべきである。

D緊急避難:緊急避難においてもBCと同様に考えられる。例に挙げるとすれば、英国人騎士道事件であろう。誤想過剰防衛の典型例であり、減刑の余地は十分に考えられる。英国人の善意による行動は一定の評価をすべきであり、これを減刑の余地なく有罪とするには緊急避難・正当防衛の機会可能性を著しく低下させ、治安維持の観点からしても好ましくないのではないだろうか。

 

[参考文献]

I2練馬斉藤法律事務所リーガルグラフィック東京

https://i2law.con10ts.com/2018/07/27/

(このページの続き、前を含む。参考ページ過多につき省略する。添付URLに続きページの案内がある為。)

wikibooks

https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%81%95%E6%B3%95%E6%80%A7%E3%81%AE%E6%84%8F%E8%AD%98

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