福田哲生

帝京大学法学部 学籍番号 19j110015 の福田哲生です。

ライフデザイン演習2の課題が完成したため、送らせて頂きます。よろしくお願いします。

 

 

 

故意と錯誤

                              19j110015 福田哲生

私は、故意とは非難可能性を基礎づける事実であり、ある一定以上の錯誤によりその非難可能性を打ち消すことになると考える。

 

1 結果無価値と行為無価値

故意を考える上で、結果無価値的な考えを採るかHandlungsunwert(行為無価値)的な考えを採るかにより大きく異なってくる。結果無価値的な考えを採ると、違法性の本質は行為者の起こした結果という事になる。そのため、客観面が重要視され、故意や過失などの主観面は責任要素に過ぎないという事になる。これが結果無価値論である。一方で、行為無価値的な考えを採ると、行為者の行為という主観面が重要視され、社会的非難可能性が違法性の評価に含まれることになる。この考えを行為無価値論という。

 

2故意とは何か

犯罪が成立するためには、構成要件に該当し、違法で、責任がある(有責)必要がある。刑法381項では、「罪を犯す意思がないときは罰しない」とあり、罪を犯す意思が故意だとされ、故意がなければ犯罪は成立しない。

では、何が「罪を犯す意思」のある行為であったかを考えると、一番分かりやすいのは、構成要件に該当する行為を違法だと認識して行っていた場合だと考えられる。この構成要件的行為の認識のことを構成要件的故意という。また、自身の行為が違法であるという認識を違法性の意識というが、違法性の意識だけで故意があると認めるのでは不十分である。なぜなら違法性の意識があるかという事実のみで故意があり責任があったとすると、抽象的事実の錯誤があった時でさえ、一切故意が阻却されないという状況が生まれてしまうからである。

そこで意味の認識という考え方が出てくる。これを考えるうえで「チャタレー事件」の判例が参考になる。この判例はわいせつ物頒布罪の判例であるが、規範的構成要件要素の認識が問題となっていた。構成要件要素には、例えば、刑法199条の客体である「人」のように精神的評価作用のいらない記述的要素と、175条の「わいせつ性」のような規範的な判断を必要とする規範的な判断を必要とする規範的要素がある。記述的要素はその記述を認識すれば自然と内容も理解できるため問題はないが、規範的要素では、記述の本質的な内容とその認識に齟齬が生じる恐れのあるため、特に問題となってくる。チャタレー事件での規範的構成要件要素の錯誤は、刑法383項の法律の錯誤だとして犯意を阻却しないとした。このような違法、責任評価の基礎となる事実の社会的意味内容の認識を意味の認識という。

私は、犯罪の成立には違法性の意識意味の認識の両方が必要だと考える。意味の認識が必要だと考える理由は、意味の認識がなければ、行為者には故意がなかったといえ、非難可能性は生まれてこないからである。

 

3違法性の意識

 違法性の意識について深く考えてみる。違法性の意識とは自身の行為が違法であるという認識であることは前に述べたが、この違法性の意識が犯罪の成立要件になるのかについては3つの見解がある。

1つ目は、違法性の意識不要説である。判例ではこの見解が採られている。

2つ目は、故意説である。故意説では、違法性の意識を故意の要素に位置付ける厳格故意説と、違法性の意識の可能性を故意の要素に位置付ける制限故意説に分けられる。厳格故意説では、違法ではないと軽率に考えた場合などに故意犯の成立が否定されるといったことに疑問があり、制限故意説には、可能性があるかどうかを故意の要素にすることに疑問がある。

3つ目は、責任説である。これも厳格責任説と制限責任説に分けられ、違法性の意識を故意とは別の、責任の要素として考えることは共通している。そのため、責任説では、事実の認識を上記の構成要件的故意だけでなく、責任要素としての故意も考える必要もある。この責任要素としての故意とは、違法性阻却事由該当事実を誤信していた際に重要になってくる。

厳格責任説を採った場合では、違法性阻却事由該当事実を誤信していた場合でも、責任要素としての故意を認められ、故意を阻却しない。

制限責任説では、違法性阻却事由該当事実に錯誤があった場合、責任要素としての故意が認められず、結果として故意犯が認められない。そのため、刑法上に過失規定がない場合には無罪となる。

つまり、厳格責任説では、違法性阻却事由該当事実の錯誤を法律錯誤として扱い、制限責任説では事実の錯誤として扱うという事に違いがある。

私は、違法性の意識がないことは、非難可能性がないという事につながると考えるので、制限責任説が妥当だと考える。

 

3、違法性阻却事由該当事実の錯誤

 違法性阻却事由該当事実を錯誤した場合を深く考えてみる。

構成要件的故意をもち、行為をし、違法性阻却事由該当事実が実際にはないのにもかかわらず、あると誤信していた場合の例は、誤想防衛である。誤想防衛では、先述した通り事実の錯誤があったとして扱われるため、故意は阻却される。

 一方で、急迫不正の侵害が実際にはないのにもかかわらず、あると誤信し防衛のために反撃し、尚且つ、その反撃の程度が許される範囲を超えていた場合を、誤想過剰防衛という。判例では「勘違い騎士道事件」が有名である。この事件では、加害者が、反撃の過剰性を認識していたため、傷害致死罪の故意が阻却されなかった一方で、362項の過剰防衛の規定をつかい情状により刑を減軽した。この事件のように行為者が過剰性を認識していた場合は、「故意の誤想過剰防衛」と呼ばれる。これに対し、行為者が過剰性を認識していなかった場合は、「過失の誤想過剰防衛」と呼ばれる。過失の誤想過剰防衛の場合には行為者の認識では正当防衛が成立しているため、非難可能性があるとは考えにくい。そのため、過失犯の規定がない限りは、無罪になると考えられる。

 

4、錯誤

 故意が認められる犯罪の成立過程としては、最初に自身がこれから行う行為は社会的に非難されるという意味の認識違法性の意識を持ち、その行為を行い、結果が発生したという事になる。錯誤とは、その過程で行為者の認識と実際に発生した結果に齟齬が生じていることであり、これにはいくつか種類がある。

 最初に、法律の錯誤と構成要件的事実の錯誤に区別できる。法律の錯誤は違法だという認識がなかった場合であり、違法性の錯誤とも言われる。これは、383項に「法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない」とあり故意は阻却されない。

次に、構成要件的事実の錯誤は行為者の認識と実際に発生した結果に食い違いがあることであり、具体的事実の錯誤と、抽象的事実の錯誤に区分される。具体的事実の錯誤はまた客体の錯誤と方法の錯誤に分けられる。具体的事実の錯誤とは同一の構成要件内で生じた錯誤であり、客体の錯誤とは、その法益の数が1つの場合であり、方法の錯誤では、法益が2個以上存在している。抽象的事実の錯誤とは、錯誤が異なる構成要件にまたがっていることを言う。

事実の錯誤があった場合、故意は阻却されることは先述した。しかし、行為者が故意をもち作為行為をして、その結果、実際に発生した構成要件に該当する事実と食い違っていた場合が存在する。その場合、いかなる限度で、行為者の認識と実際に発生した構成要件に該当する事実が重なり合えば(符合)故意を阻却しないか、という事に議論がある。

まず法定的符合説という考え方がある。法定的符合説とは、行為者の認識と実際に発生した事実が構成要件の枠内で符合している場合に故意を肯定するという見解である。例えば、Aに対し殺意をもち間違えてBを殺してしまったときや、Aを殺すつもりで実行行為に着手したが、方法の錯誤がありBを殺してしまった場合では、199条の殺人罪で符合しているため1個の殺人の故意のみが認められる。

法定的符合説の中でも、基準として用いられる構成要件の理解により、抽象的法定符合説と具体的法定符合説の2つに分けられるとされている。

判例は抽象的法定符合説を採るとされており、この説では、ある特定の事実を「人」や「物」といったように抽象的にとらえ、その特定の事実の具体的な内容の錯誤では故意を阻却しないとされている。例えば、殺人罪においては、加害者が、被害者が誰であるかについて錯誤して殺人したとしても、その被害者が「人」であるという事のみが重要とされ、その被害者の具体的な内容は考慮されない、という事になる。そのため、法益侵害は、2つあるが、1つの故意犯しか認められないといったことになる。

 一方で、具体的法定符合説の考えでは、加害者が被害者に対し意思をもち、それが誤りなく実現されることで故意を持つとされている。このため、錯誤があり未遂犯と過失犯が1つの行為で起きた場合には、2つの故意犯が成立することになる。

 他にも、異なる構成要件間でも符合を認める抽象的符合説という考え方もある。

 私は、具体的法定符合説により、より被害者を保護できると考えた。

 

5、故意と過失の区分

故意が認められた場合には故意犯となり、認められなかった場合で過失犯処罰規定が存在していて過失が認められた場合には過失犯となることが分かったが、何をもって故意犯を成立し、もしくは成立しないとするかが問題となってくる。

 犯罪事実の認識である故意は、その意志の強さにより3つに分けられるとされている。それは、犯罪の実現を意図する場合(意図)、犯罪の実現を確定的なものとして確信している場合(確定的故意)、犯罪実現の確定的な認識はないが実現するであろうことを認識している場合(未必の故意)である。一方で、過失も犯罪事実が一度は行為者の意識に上った場合である認識ある過失と、犯罪事実が行為者の認識に上らなかった場合である認識なき過失に分けられるとされている。ここで未必の故意認識ある過失の限界をどのように定めるかが問題となる。

 未必の故意を認める限界を定める見解として「認容説」と「認識説」の2つが対立している。

認容説では、構成要件の実現性を認識し、それを認容して初めて故意が認められる。一方で認識説では、構成要件の実現の可能性を意識した時点で故意が認められる。認識説では、故意の限界が不明瞭になるという批判もあるが、構成要件の実現が行為者の意識に上り、それにもかかわらず結果が発生してしまったかという基準を設けることで妥当になると考えられている。

 

以上のことから、私は、故意とは避難可能性を基礎づける事実であり、ある一定以上の錯誤によりその非難可能性を打ち消すことになると考えた。

 

参考、引用

警察官のためのわかりやすい刑法 佐々木知子 立花書房

刑法総論〔第3版〕 山口厚 有斐閣

刑法判例百選1 有斐閣

授業ノート

 

 

 

柴田悠翔

私は制限責任説を推す。

 

1.はじめに

故意論や錯誤論には多くの学説が存在しており、その中の1つとして責任説が挙げられる。この責任説はさらに厳格責任説と制限責任説に分けられる。前者は設けられた基準に沿って明確に区別するというものであり、後者は基準を設けず時と場合に応じて緩やかに判断するというものである。現在は判例によってどちらの説を取るか使い分けられているが、グローバル化の進むこれからの日本は制限責任説を取るべきだと私は考える。なぜ制限責任説なのか、故意や錯誤とはどのように結びついているのかというのを判例や具体的なケースも用いながらまとめていこうと思う。

 

 

2.違法性と故意

そもそも犯罪とは「構成要件に該当し、違法で有責な行為」のことを指すが、違法であるか否かというのは違法性阻却事由の有無によって判断される。違法性阻却事由には大きく分けると正当行為と緊急行為があり、後者はさらに正当防衛と緊急避難に分けられる。ここでは正当防衛について触れようと思う。

正当防衛とは、「急迫不正の侵害に対して、自己または他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為」のことであり、この場合処罰を受けることはない(刑法36条1項)。これに対して、急迫不正の侵害がないのにあると勘違いして反撃した場合のことを誤想防衛と言う。このとき本人は自分の行為が正当防衛として許されると思っているため、後述の事実の錯誤として故意は阻却され、犯罪は成立しない(刑法38条1項)。また、誤想防衛が成立する状況の下で、その反撃が過剰になった場合のことを誤想過剰防衛と言い、このとき過剰性の認識があれば故意犯として扱われる。

誤想過剰防衛で故意犯が成立するとした事案として、勘違い騎士道事件が挙げられる。これは、酒に酔っ払ったA女をB男が介抱しているのを見て、B男がA女に暴力を振るったのだと勘違いした空手有段者の外国人XB男に回し蹴りをして傷害を負わせ、その結果B男を死亡させたという事案である。判決では誤想を認めつつも、回し蹴りという行為が明らかに防衛の程度を超えたものであったことから誤想過剰防衛として傷害致死罪の成立を認めた。

また、これに似たような事案として老父殺人事件が挙げられる。これは、老父Aが棍棒のようなものを手にして襲いかかってきたのに対し、Xは自身を守るためにその場にあった斧を斧と気づかず棍棒のようなものだと思い、そのまま手にして反撃した結果、老父Aを死亡させたという事案である。こちらは勘違い騎士道事件とは異なり誤想が認められず、単なる過剰防衛として処理された。

誤想過剰防衛にはいくつかの重要な論点がある。ここでは以下の論点において私が取る立場と見解を明らかにしていく。

()故意犯の成否

過剰防衛は故意犯、誤想防衛は過失犯として扱われるが、誤想過剰防衛はどちらで扱われるのが妥当なのだろうか。これに関しては刑法38条3項の解釈によって意見が対立している。刑法38条3項は後述の法律の錯誤に関する条文であり、その内容は「法律を知らなかったとしても、それによって故意を阻却することはできないが、情状により刑の減免はできる」というものである。これらを踏まえた上で私は誤想過剰防衛を過失犯として扱うべきだと考える。その根拠は、誤想過剰防衛を誤想防衛と同様に過失犯として扱うという過失犯説の考えにある。そもそも急迫不正の侵害の誤認が無ければ過剰な正当防衛は行われなかったのだから、過剰な正当防衛があったからといってそれによって故意犯として扱われるのは不適だというのが私の見解である。

()刑の減免の可否

誤想過剰防衛において、刑法36条2項の減免は認められるのだろうか。刑法36条2項は過剰防衛に関する条文であり、その内容は「過剰防衛は情状により刑の軽減又は免除ができる」というものである。これについて私は減免が認められないと考える。その根拠は、過剰防衛は不正な侵害に対する防衛行為であるから違法性は減少するという違法減少説の考えにある。これを誤想過剰防衛に置き換えて考えた場合、実際には急迫不正の侵害が存在しないため違法性は減少せず刑の減免も認められないというのが私の見解である。

 

違法性に関して、Handlungsunwert行為無価値)とErfolgsunwert(結果無価値)という考えがある。前者は法益侵害を刑の本質とし、行為自体に違法性があったかを重視するというものである。これに対して後者は倫理違反を刑の本質とし、行為の結果を重視するというものである。また、無価値というのは、要は違法ということであり、前者は行為をすること自体が違法であるという考えで、後者は結果を惹起することが違法であるという考えなのである。これらを踏まえた上で私は行為無価値を推す。その根拠は未遂犯における結果無価値との射程の差にある。ピストルで人を狙って撃ったが弾が完全に外れたというケースにおいて、行為の結果を重視する結果無価値では犯罪の成立には至らないが、行為無価値ならば結果が発生しなくても未遂犯として処罰できるため、行為無価値の方が優れているというのが私の見解である。

 

 

3.刑法上の責任と故意

違法性の有無については前述の通りであるが、刑法上の責任は責任能力があり、なおかつ故意又は過失があることで成立する。故意の成立には構成要件に該当する事実の認識、すなわち構成要件的故意を要する。この構成要件的故意がない場合には故意が阻却される。

故意の多くは結果の発生を確実なものとして認識している確定的故意であるが、結果の発生が不確実な不確定的故意もある。後者の中でも、結果の発生が不確実であることを認識しながらもその発生を認容して行為に出ることを未必の故意と言う。

また、これに似たものとして、認識無き過失と認識ある過失というものがある。前者は結果の発生自体を認識していない場合を指し通常の過失はこれに当てはまる。これに対して後者は結果の発生の認識はしているもののその発生の認容まではしていない場合を指す。

行為者に責任を問うには、@責任能力があり、A故意又は過失があるうえに、B違法性の意識の可能性がなければならないのだが、これらすべてが揃ったとしても、もしその行為者に適法行為をなすべき期待可能性が欠けていれば、その行為者を罰することはできない。これを期待可能性の法理という。

この期待可能性の法理を認めた事案として暴れ馬事件というドイツの判例が挙げられる。これは、被告人が、馬車につけると暴れて通行人に怪我をさせる悪癖を持っていることをよく知っている馬を、雇い主に言われるがまま馬車に使用したところ、案の定馬は暴れて通行人に怪我をさせたという事案である。判決では、もしその馬の使用を断れば雇い主に解雇されるおそれがあったことから、被告人には期待可能性がなかったとして無罪が言い渡された。

 

 

4.法律の錯誤と事実の錯誤

錯誤には大きく分けると事実の錯誤と法律の錯誤があり、前者は行為、行為の客体、行為の結果、行為と結果の因果関係等の事実認識においてズレがあった場合を指し、後者は法律を知らないことによってその行為が違法であることを知らず、あるいは違法でないと誤信した場合を指す。両者の決定的な違いは故意の阻却性にある。法律の錯誤に関しては前述の通り刑法38条3項で故意が阻却されないことが規定されている。これに対して事実の錯誤は原則として故意を阻却できるのである。つまり事実の錯誤は前述の構成要件的故意をも阻却できるということになる。

しかし、事実の錯誤であっても錯誤が同一構成要件の範囲で生じた場合には故意が阻却されない。このような考えを法定的符合説という。また、法定的符合説と並べられるものとして具体的符合説と抽象的符合説がある。具体的符合説は行為者の認識と実際に発生した事実との間に具体的な一致があれば故意が阻却されるというものであり、抽象的符合説は異なる構成要件間であっても符号を認めるというものである。ここでは3つの中でも特に意見が対立している法定的符合説と具体的符合説の違いについて以下の具体的なケースを用いて説明した上で私が取る立場と見解を明らかにしていく。

ピストルを持ったXAを殺すつもりで発砲したが、Aにはあたらず、弾がそれて近くにいたBにあたり、Bを殺してしまったというケースにおいて、法定的符合説は、錯誤が同一の構成要件の範囲で生じており、客体はABで異なってはいるがどちらも人である以上、成立するのはBに対する過失致死の1罪のみであると考える。判例ではこの説が取られている。一方具体的符合説は、客体がABで異なっているためAに対する殺人未遂とBに対する過失致死の2罪が成立すると考える。

これらを踏まえた上で私は具体的符合説を推す。このように考えるのは、具体的符合説が法定的符合説より厳格な符号を必要としているためである。ただ、具体的符合説に対して1人を殺すという1つの意思から複数の故意が認められるのは問題があるのではないかという批判もあるが、これに対しては、行為者の認識は事実であり、故意はそれを評価したものであるため問題ないと私は考える。

 

殺人など通常の犯罪は記述的構成要件要素とよばれる。これは、誰が見ても客観的に構成要件を判断できるようなもので、法律の錯誤と事実の錯誤の区別が容易である。これに対して規範的構成要件要素とよばれるものがある。これは、外部的な事実自体が一定の評価や価値的な「意味」と結びついているものであり、意味の認識を違法性の認識から区別することは容易ではない。人によって法律の錯誤か判断の判断が異なるため、判例などを加味して判断される。規範的構成要件要素には以下のようなものがある。

()わいせつ性の錯誤

わいせつ性の錯誤に関する事案としてチャタレー事件が挙げられる。これは、イギリスの文豪ローレンスの小説「チャタレー夫人の恋人」の性表現がわいせつに当たるとして、これを日本語訳して出版したことがわいせつ物頒布罪に問われた事案である。判決では、小説がわいせつ文書に当たらないと信じてもそれは違法性の錯誤に過ぎず、故意を阻却しないとした。つまり意味の認識を不要としたということである。

この判決に対して私は異を唱える。そもそも「わいせつ」とは何を指すのだろうか。どの程度でわいせつと感じるかは時代や国によって大きく異なるものであり、ましてや「チャタレー夫人の恋人」は外国では文学的作品として高い評価を受けていたため、小説がわいせつ文書に当たらないと信じたことは事実の錯誤であるとし、故意を阻却すべきだと私は考える。

()財物の「他人性」の錯誤

財物の「他人性」の錯誤に関する事案として無鑑札犬撲殺事件が挙げられる。これは、警察規則を誤解したために、鑑札をつけていない犬は、他人の飼犬であっても無主犬と見なされると誤信して撲殺し、その皮を鞣したという事案である。判決では、錯誤によって財物の他人性の認識を欠いていたかもしれず、故意があるとは断定できないとし原審に破棄差し戻しを命じた。

()行政犯における禁止事実の錯誤

行政犯における禁止事実の錯誤に関する事案としてたぬき・むじな事件とむささび・もま事件が挙げられる。前者は捕獲を禁止されている「たぬき」を行為者が「むじな」だと思って捕獲し、後者は同じく捕獲を禁止されている「むささび」を行為者は「もま」だと思って捕獲したという事案である。判決では、前者はその地域ではむじながたぬきと別の動物であると信じられていたという背景から事実の錯誤として故意を阻却した。一方後者はもまがむささびの俗称に過ぎず同一物であったため違法性の錯誤として故意を阻却しないとした。

 

 

5.厳格責任説との対立

制限責任説と厳格責任説の違いについて以下のケースを用いて説明する。

木の側に置いてあった物をAは忘れ物だと思い持って行ったが、実はそれが木の反対側で昼寝をしていたBの物だったというケースにおいて、制限責任説を取った場合、構成要件的行為はあるが責任要素としての故意はないとしてAを過失犯として扱うが、窃盗には過失犯の規定が無いため無罪となる。一方厳格責任説を取った場合、構成要件的行為も責任要素としての故意もあるとしてAを故意犯として扱う。

前者の問題点は、構成要件的故意があり、故意の成立要件を満たしているのにも関わらずより刑罰の軽い過失犯として扱わなければならないところにある。後者の問題点は、よかれと思って取った行動なのにも関わらずより重い刑罰が科されるところにある。両者の問題点を比較した場合、制限責任説の問題点は目を瞑れるが厳格責任説の問題点は無視できないと私は考える。

以上より、やはり制限責任説の方が優れているというのが私の意見である。

 

 

6.これからの故意・錯誤(まとめ)

 これまで故意論や錯誤論は時代とともに変わってきた。これまでは日本人同士間での紛争がほとんどであったが、グローバル化が進み今後、日本人と外国人間や外国人同士間での紛争が増えていく可能性は大いにあると考えられる。そうしたときにこれまでに設けた基準だけでは対応しきれないのではないのだろうか。だからこそどのような事例に対しても柔軟に対応できる制限責任説を今後取っていく必要があると私は考える。

 

(5409文字)

 

Windows 10 版のメールから送信

 

 

 

 

下山孝明

テーマ:故意と錯誤

結論:判決に至るまでの主張を知り意見を持つ事で故意と錯誤の問題に良く対応できる。

 

この結論を論じる為に勘違い騎士道事件の判例を例に挙げて論ずる。

 

勘違い騎士道事件 概要 

空手三段の在日外国人が、酩酊した甲女とこれをなだめていた乙男とが揉み合ううち甲女が尻もちをついたのを目撃して、甲女が乙男から暴行を受けているものと誤解し、甲女を助けるべく両者の間に割って入ったところ、乙男が防衛のため両こぶしを胸に前辺りに上げたのを自分に殴りかかってくるものと誤信し、自己及び甲女の身体を防衛しようと考え、とっさに空手技の回し蹴りを乙男の顔面付近に当て、同人を路上に転倒させ、その結果後日死亡するに至らせた行為は、誤信にかかる急迫不正の侵害に対する防衛手段として相当性を逸脱し、誤想過剰防衛に当たる。判例より引用

という事案である。

 

判例とは別に第一審では被告人の誤想は相当で正当防衛となる。

誤想防衛のため故意が阻却され、誤想のため過失も認められず無罪とされた。

構成要件的過失はこのため認められない

要するに一審ではHandlungsunwert(行為無価値)の立場から、被告の違法性の意識がないことを認めた。

厳格故意説による判決が下されたと認識できる。

故意の成立のためには違法性の認識が必要でありこの場合被告は自分の行為を正当防衛とかんがえていたからである。構成要件的故意はここで否定される。

刑法36条一項、「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。」が適用された。

 

 二審では被告の行った回し蹴りとそれがもたらした結果から誤想過剰防衛と判断し、傷害致死罪が成立され、刑法362項「防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。」により刑が減軽されるとした。

最高裁の判例はこれと同様である。

この判決は結果無価値論の立場から下された判決である。また他の防衛方法の選択肢が存在した時点で被告人は回し蹴りによる法益の侵害を予測できたとして被告人には未必の故意認識ある過失が存在したとされる。

そのため違法性を意識する可能性があったと評価され厳格責任説の観点からの判決と、とれる。

また、故意が阻却されていないので法定的符合説の立場にも立っている。

 

 

このことから一審と二審の意見は行為無価値と結果無価値論の対立、故意説と責任説の対立と見受けられる。

この事例では二審の判決が判例となった。

しかし、この判決は正しいのだろうか?

裁判官の規範により規範的構成要件要素が左右されてしまうとも私は思う。

 次に行為無価値論と結果無価値論を論ずることで意見を確立させていきたい。

 

行為無価値論と結果無価値論の対立について

 

佐伯仁志先生は刑法において結果無価値論と行為無価値論の争いには、異なった2つの論点がからんでいることを理解する必要があるとしていて、道徳自体を保護するのか、主観的な違法要素をどこまで認めるのかという問題としている。

 次に間接正犯類似構成において平野龍一先生の問題意識を引き継いだ結果無価値論者の山口厚先生によると

「結果無価値論は法益保護主義と違法判断の明確性が主張の根拠となり。

違法判断は、法益侵害又はその危険の惹起という客観的な事態に対する評価に尽きる。」という、物的違法論を主張している。

 

これに対し行為無価値論では

結果無価値論を支えるのは、刑法と道徳は区別されるべきであり、刑法的判断から倫理的考慮は排除されるべきだとする思想である。〔〕それじたいは正当な考え方であると思われる。国民に対する行動基準の提示という機能を違法判断に求めてはならない

井田良『刑法総論の理論構造』(成文堂、2005年)3-4頁)

としていて犯罪の抑止力として違法判断に求めてはならない。刑法と道徳が分離していないとした。

このことから

法益保護主義

罪刑法定主義(規範による一般予防)

人的違法論

の主張が見られる。

 

刑法と道徳は区別されるべき(リーガル・モラリズムの排斥)で刑法の任務が法益保護にあることを共通の前提としているというところは一致しているが、

二つの意見の違いは刑罰に抑止力を持たせるか罪刑法定主義による一般予防のどちらを取るのかという対立である。

「どちらかが優れているというわけではない。」と考える論者もいる

これはどういうことかというとどちらとも刑法の目的を法益の保護と定めているため、

その目的達成の方法、過程の違いでしかないからである。

がしかし、ドイツ刑法では結果無価値論が採用されている。

日本では平野龍一先生の門下生の方々が主張する結果無価値論が有力になっている。

また実務では (二元的)行為無価値が主流である。

(二元的)行為無価値登場によって刑法の本質的機能は規制機能・秩序維持機能

行為無価値は結果無価値論の刑法の本質的機能は法益の保護であるという見解と一致しないものとなった。

この主張の違いから日本は欧米法の影響とドイツ法の影響を受けているため多くの学派争いをしているとみられる。

 それらを踏まえると日本では、どちらの学説を支持するのがいいのだろうか?

私は(二元的)行為無価値の立場を支持して事件を考えたい。

まず(二元的)行為無価値は社会相当性を逸脱した法益の侵害・危殆化〔規範違反説〕

という見解をもつ。これは、一般市民のおおくが持ち合わせている感覚によって違法性阻却事由が判断される。そのため勘違い騎士道事件においては裁判官の規範により規範的構成要件要素が左右されてしまうと言うデメリット以外は見受けられないのだ。

またその一般の感覚によって犯罪を決定することによって罪刑法定主義による一般予防がおこなえる。

その点を私は支持したいのだ。

そもそも、何らかの故意が存在していないと犯罪は認められず罰せられない。

しかし結果無価値論は悪気がなかったとはいえ実際に何らかの被害を生じさせた過失犯には厳罰を要求する傾向がある。

これに反対なのである。大前提として人間は生きている上で何らかの過失を必ず犯す。

仕事や、日々の生活を営む上で過失を犯す。

このとき主観的違法要素を肯定し、社会相当性を逸脱した法益の

侵害・危殆化〔規範違反説〕を用いて判決を下すことによってこそ中立かつ公正な判断ができると考えられる。

 

 そして故意と錯誤において規範的構成要件が裁判官により左右されてしまうという点についてだが、まず規範的構成要件とは何かという点において、

関哲夫先生は

「規範的構成要件要素の本質は、従来一般に考えられてきたように法の解釈、適用の過程について考えてみても決して明らかにされ得ない、その本質(特殊性)を解く鍵は、この要素の本質的内容をなす社会的意味を「事実認定の過程」で認定される「認定事実」として考えるところにあると考える。」

規範的構成要件に正しく答えるためには、

「即ち「意味の認識内容」、「事実認定の問題か法律解釈。適用の問題か」、「事実認定の正確性の保障(認定の困難性−の克服)」等の問題に正しく答え得ることになると思うのである。」

と考察している。

 

 

 

 

勘違い騎士道事件 考察

まず事実として、

男性に対してけがを負わせたときの被告人は正当防衛と考えていたため意味の認識において規範の問題に被告人は直面していない。違法性の意識を認識していないその点で「どこまでが防衛なのか」という疑問は裁判官の規範による規範的構成要件要素となる。

その規範的構成要件要素を解明すると、構成要件的故意としてボクシングの構えをとった男性に対して、回し蹴りを行ったことは空手有段者の被告人にとって回し蹴りを受けた人間が身体に受けると考えられる衝撃は容易に予想がつくものであって未必の故意を認めざるを得ない。

つまりは、手加減ができたと考えられる、回し蹴りによる法益の侵害の過剰性その

意味の認識をしっかりと行えるからだ。

よって被告人の行動は誤想過剰防衛であり正当防衛は認められない。

 また、厳格責任説の立場に立つわたしから見て、被告人は回し蹴りによる防衛行動を事由違法性阻却事由該当事実の誤信をしている、それらの考えは上記に書いてあるとおり違法性の錯誤として違法性の意識の可能性の問題の答えとして正当防衛の範囲を逸脱しているという結論が生み出される。これらの述べた点から刑法第36条の二項「防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。」を適用できる。

そして被告人は有罪だとして被告人の罪の内容はどうなるのだろうか?

罪の候補として、

殺人罪

傷害罪

過失致死

傷害罪

などが挙げられるがしかし、殺人罪にするには死の結果についての故意が確認できない。

また傷害罪においても傷害の故意が確認できない。

 

その点は法定的符合説の観点から見れば答えを導くことができる。

同一構成要件内の範囲内で女性が男性に襲われていることを誤信し、被告人が認識した女性と自分自身を守る正当防衛という認識と発生してしまった男性を回し蹴りにより転倒させ頭蓋骨骨折などの重傷を負い、その障害に起因する脳硬膜外出血および脳挫滅によって、8日後に死亡した。という事実とを比べると被告人の社会的危険性という点で認識した正当防衛の内容と発生した犯罪事実との間に抽象的な符合が認められるので、すくなくとも過失により人を死亡させた場合の罪である傷害致死罪の故意犯と認めることができる。

そして何故上記に挙げた罪にならず傷害致死罪になるか説明すると、被告人は回し蹴りを行った時点で、傷害の故意(前述のように暴行の故意を含む)が確認されるその点で過失致死罪とも異なり傷害致死罪となる。

 

 

 

 

以上の立場から私が勘違い騎士道事件の事例に判決を与えるとすれば、

傷害致死罪の成立を認め、刑法362項による減刑を認める。

という最高裁の判決と同意見である。

 

 

まとめ

 故意と錯誤において判例として確立している勘違い騎士道事件を一つ一つ分解して考える事で多くの主義主張が見られた。そしてそれらの見解は私のリーガルマインドを養い

判例に対してより多くのそしてより太いバックボーンを背に自分なりの判決を事件に与えることが出来た。

                                     以上

 

 

参考文献・出典

 

講義ノート

規範的構成要件要素の研究

田中久智

日本における結果無価値論・行為無価値論の

対立の行方

関   哲 夫

山口厚 「刑法総論」

井田良『刑法総論の理論構造』

佐伯仁志『判例刑法総論・各論〔第6版〕』

 

 

 

 

 

渡邉裕太

故意と錯誤

19J110012 渡邉裕太

 

結論として、私は故意と錯誤とは、人の実行行為が悪なのか否かを決める重要な要素だと考えている。

 

1. 故意について

 

「罪を犯す意思がない行為は、罰しない」(刑法38)とあるように、罪を犯す意識、つまり故意がなければ犯罪は成立しない。(各条文で過失によるものが定められている場合は例外。)

このように故意という概念は法学において重要なことであるのは言うまでもない。 ここで改めて故意とは何かについて考えていきたいと思う。

 

 故意の成立にはまず、構成要件に該当する事実の認識が必要である。 これを構成要件的故意という。(1) そして故意には「確定的故意」と「不確定的故意」がある。 前者は結果の発生が確実なものと認識している場合であり、殆どの犯罪はこれにあたる。 それに対して、後者は結果の発生が不確定なものを指し、後者には択一的故意、概括的故意、未必の故意などがある。 この中でケースとして特に多いのは未必の故意だ。

 

未必の故意とは

自分の行為によって違法状態に至る可能性を認識しており、結果的に犯罪行為が発生してもかまわないという心理状態を表す法律用語である。(1分で読める!! [ 違いは? ]より引用)

 

そしてここでより深く考えたいのは、未必の故意認識ある過失の違いである。

 

認識ある過失とは

自分の行為によって違法状態に至る可能性を認識しながら、その発生を避けられるものと信じて行為したが、結果的に違法状態を発生させた状態のことである(1分で読める!! [ 違いは? ]より引用)

 

 この2つの用語を見比べて見ると「自分の行為によって法律状態に至る可能性を認識している」という点では一緒である。 だが、頭の中で「犯罪行為が発生してしまっても構わない」と考えるか「犯罪行為の発生は避けられる」と信じているかで非常に大きな差となる。

 

例として、2015816日の池袋暴走事故を挙げてみる。 この事件は「東京都豊島区東池袋のJR池袋駅近くで発生。容疑者運転の乗用車が歩道に乗り上げ、歩行者ら5人をはねて交差点前のビル1階の衣料品店「ZARA」に突っ込んだ。この事故で女性1名が頭などを強く打って死亡した。(産経ニュースより引用 一部変更)」といったものである。 ここで容疑者がもし「ビルに突っ込んで、人を死傷させても仕方がない。」と思っていたなら、未必の故意であり、女性が死亡させたことで殺人罪が成立する可能性がある。 それに対して、容疑者がこの事件に対して、証言していた通り「疲れていて居眠りしてしまった。運転していたのは間違いないが、歩道に突っ込んだのは記憶がない」と供述していた場合は過失で、「(ビルに突っ込んで)人が死傷するとは思わなかった。」と思っていたならば、認識ある過失であり、やったことは同じでも殺人罪ではなく過失致死傷罪になる可能性が非常に高いだろう。 前にも述べた通り、この違いは非常に大きな差となる。

 

 ここで私見を述べると、この違いを見分ける事は非常に難しい、極端に言えば不可能に近いことなのではないかと思う。 一般人の感覚ならば「交通事故や人が死亡することなどは望んでいない。」という感覚は普通であるだろうし、「人を殺す気がなかった。」と供述するのは至って普通である。 だが、他人が何を考えているかという事は誰にも正確には分からない。 もし、未必の故意であるような事件であったとしても、当事者の供述により認識ある過失という扱いになってしまう事もありえると私は考えている。 法学において、他人の実行行為が過失だったのか故意であったのかを見極めるという事はとても重要であるかつ、正確に答えを出すことは不可能に近い。 そして、人によっても様々な意見があるという点で、法学にとって永遠の課題なのではないかと私は感じている。

 

2. 錯誤について

 

次は錯誤について考えていきたいと思う。

 

錯誤とは、分かりやすい言葉でいうと「勘違い」のことである。 錯誤には「事実の錯誤」と「法律の錯誤」がある。 事実の錯誤には「具体的事実の錯誤」と「抽象的事実の錯誤」に分けられており、同一構成要件内で生じた錯誤を「具体的事実の錯誤」といい、この場合は故意は阻却されない。このことを法定的符合説という。 逆に、同一構成要件外で生じた錯誤を「抽象的事実の錯誤」という。(1)

 

 例として、「XAという人物を殺そうとしAに発砲したところ、Aと思っていた人物はBであり、Bという人物を殺害してしまった。(『警察官のためのわかりやすい刑法』より引用)」というものが挙げられる。 これは典型的な「具体的事実の錯誤」であり、「客体の錯誤」の例である。 当たり前だが、XにはBに殺意は無く、最初からBだと認識していれば発砲はしていなかったが、錯誤は同一構成要件内の範囲で起こっており、Xが殺意を持って人に向かって発砲し、人を殺害したという結果になったことは事実なので、この例はBに対する殺人罪となる。

 

 次のような例はどうであろうか、「XAという人物を殺そうとしAに発砲したところ、Aに当たってAは怪我をし、後ろにいたBにも当たり、Bまで死亡した。」

この場合は様々な意見があるだろう。 これは「具体的事実の錯誤」の「方法の錯誤」の例である。 決定的符号説に沿って考えるならば、Xは人を殺すという認識があるだけで十分であり、故意は阻却されず、Aに対する殺人未遂罪とBに対する殺人罪が成立する可能性が高いだろう。 だが、先ほど述べた通りで他の考え方もある。 例えば、Xの殺意はAにあったのだが、Aは死なずに殺すつもりの無いBが死んでしまったので、Aに対する殺人未遂罪とBに対する過失致死傷罪になるという考え方だ。 この考え方を具体的符号説という。 私は具体的符号説の考え方に賛成である。 なぜなら、決定的符号説の方の考え方はXの故意は考えておらず、Xの実行行為の結果のことにしか重点を置いてないからである。 Xの故意は最初からAを殺すことであって、Aを殺そうとして殺せなかったという点で殺人未遂罪が成立するのは間違いないと感じているが、BXの関係について考えてみると、XBには殺意は無く、Bをたまたま殺してしまったというところで考えてみると、これは過失であり、故意によるものではないと私は考えている。 なので、この例はBに対する過失致死傷罪が成立すると考えて、私は故意を抽象化している具体的符号説の考え方を取りたいと思っている。

 

 対して、このような例もある。

 

 「Xが犬を殺そうとし犬に向かって発砲したものの、弾がそれてしまい犬には当たらず、側にいたBという人物に当たってしまいBを殺害してしまった。(『警察官のためのわかりやすい刑法』より引用 一部変更)」という例がある。 これは「抽象的事実の錯誤」の例であり、この場合は構成要件は重ならない。 Xという人物は器物損壊(犬を殺すこと)の故意しかなく、過失で殺人をしてしまったということであり、つまり軽い罪を犯す意思で重い罪を犯してしまったので、刑法38条の2項「重い罪に当たるべき行為をしたのに、行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない。」により殺人罪に問うことはできない為、過失致死となる。

 

 「事実の錯誤」に対して「法律の錯誤」とは「法律を知らないで犯罪行為を実行してしまった。」という錯誤である。 刑法38条の3項には「法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。」という条文がある為、法律を知らなかったとしても故意は阻却されないということである。 つまり、法律を錯誤している場合において、故意に違法性の意識は不要ということになる。

 

 しかしながら、私は本当にこの場合において、「一概に故意に違法性の意識が不要と言えるのか?」と感じることがある。 というのも誰かに「これはやっても犯罪にならない。」と巧みな口述により騙されて犯罪行為をしてしまったりだとか、様々な要因が考えられる中、違法性の意識の有無に関わらず、一方的に「法律を知らなかったあなたが悪い。」と言っても良いのだろうか?ということである。

 

 次はここまでの故意と錯誤のことに関わる判例と私見を述べたいと思う。

 

3. 判例と私見

 

有名な判例である「勘違い騎士道事件」と「チャタレー事件」について考えたいと思う。

 

●勘違い騎士道事件

198175日午後1020分頃、空手3段の腕前である英国人の被告人は、夜間帰宅途中の路上で、酩酊した女性とそれをなだめていた男性とがもみ合ううち、女性が倉庫の鉄製シャッターにぶつかって尻餅をついたのを目撃した。

 

その際、同女が「ヘルプミー、ヘルプミー」などと(冗談で)叫んだため、被告人は女性が男性に暴行を受けているものと誤解して、両者の間に割って入った。被告人はその上で、女性を助け起こそうとし、ついで男性のほうに振り向き両手を差し出した。

 

男性はこれを見て、被告人が自分に襲い掛かってくるものと誤解し、防御するために自分の手を握って胸の前あたりに上げた。これを見た被告人は、男性がボクシングのファイティングポーズをとり、自分に襲い掛かってくるものと誤解し、自己および女性の身体を防衛しようと考え、男性の顔面付近を狙って空手技である回し蹴りをし、実際に男性の右顔面付近に命中させた。

 

それにより、男性は転倒して頭蓋骨骨折などの重傷を負い、その障害に起因する脳硬膜外出血および脳挫滅によって、8日後に死亡した。

 

1

 

千葉地方裁判所昭和5927日判決は、次のように判示し、被告人を無罪とした。

 

    被告人の行為は、被告人の誤想を前提とする限り、行為としては相当な範囲であり、正当防衛として相当なものである。結果が重大であることは、防衛行為の相当性には影響しない。

    被告人は英国人であり、本件のように誤想したことにつき過失は認められない。

    よって、本件は誤想防衛にあたるため故意が阻却され、また誤想したことにつき過失もないため、被告人の行為は罪とならない。

 

2

 

東京高等裁判所昭和591122日判決は、次のように判示し、被告人を有罪(懲役16ヶ月、執行猶予3年)とした。

 

    被告人には、防衛の手段として他にとりうる手段がいくらでもあった。にもかかわらず被告人の行った回し蹴りは重大な障害や死亡の結果を生ぜしめうる危険なものであった。

    よって、被告人の行為は誤想過剰防衛に当たり、傷害致死罪が成立するが、刑法362項により刑が減軽される。

 

最高裁決定

最高裁判所昭和62326日決定は、「本件回し蹴り行為は、被告人が誤信したA(男性)による急迫不正の侵害に対する防衛手段として相当性を逸脱していることが明らかである」として、傷害致死罪の成立を認めた上で、刑法362項による減刑を認めた原審の判断を、最決昭和4177日を引用して支持した。(Wikipediaより引用)

 

 英国人は自分に殴りかかってくるものと誤信し、空手技の回し蹴りをした行為は、誤想過剰防衛もしくは誤想防衛に当たる。 この事件の判例として、英国人の行為を制限責任説で取るか、もしくは厳格責任説を取るかで大きく変わってくる。 私見では制限責任説を取って考えている為、第一審の判決と同じく無罪であると考える。 なぜなら、私は英国人に過失に近い予想(なだめていた男が襲っているという勘違い)があったとしても、その予想は酩酊した女性が冗談で「ヘルプミー」と叫んだことにより予想を確定的なものにしたと考えている。 私は英国人には過失はなく、この事件の動機は酩酊した女性にあると思っている。 英国人は殺意を持って、なだめていた男に回し蹴りをしたという訳ではなく、あくまで「酩酊した女性を助ける為に回し蹴りをした。」と私は読み取っている。 つまり人を殺害するという認識が無い上に、私の考えでは制限責任説の立場である為、故意が阻却されて無罪になるというのが私見である。

 

●チャタレー事件

『チャタレイ夫人の恋人』には露骨な性的描写があったが、出版社社長も度を越えていることを理解しながらも出版した。626日、当該作品は押収され[2]78日、発禁となり[2]、翻訳者の伊藤整と出版社社長は当該作品にはわいせつな描写があることを知りながら共謀して販売したとして、913[2]、刑法第175条違反で起訴された。第一審(東京地方裁判所昭和27118日判決)では出版社社長小山久二郎を罰金25万円に処する有罪判決、伊藤を無罪としたが、第二審(東京高等裁判所昭和271210日判決)では被告人小山久二郎を罰金25万円に、同伊藤整を罰金10万円に処する有罪判決とした。両名は上告したが、最高裁判所は昭和32313日に上告を棄却し、有罪判決が確定した。(Wikipediaより引用)

 

 この事件の問題点として、小説『チャタレイ夫人の恋人』をわいせつ文書と考えていた人が居る一方、被告人である伊藤整と出版社社長は恐らく、わいせつ文書ではないと信じていたという予想はでき、そこに齟齬が生じるところが挙げられる。

 

ところで「わいせつ」とはまず何なのだろうか? この小説を読んで「わいせつ」だと感じる人もいる一方で「わいせつ」と全然感じない人もいるだろう。 他の判例もあり映画「黒い雪」事件では「わいせつ」に当たらないと判断されてる。 このように客観的に判断するのが難しく、具体的に判断することができない構成要件のことを規範的構成要件という。

 

 判例で最高裁は、「問題となる記載の存在とこれを頒布することの認識」があれば足り、被告人たちがわいせつの文書に当たらないと信じていたとしても、それは法律の錯誤であり、故意を阻却しないとしている。(1) つまりこの事件は意味の認識を不要とし、規範的構成要件要素の錯誤があったということになる。

 

 私はこの判例を初めて知ったときに「小説でもわいせつ物と判断されることなんてあるの?」というのが私の考えだった。 というのも今の日本では、小説はもちろん、写真が掲載されている本だったり、ビデオなど、わいせつ性がある可能性が大いにある(と私が感じている)もので溢れているにも関わらず、わいせつで取り締まるという事は殆ど聞いたことが無いからだ。 時代などが変わっていくにつれて「わいせつ」と感じる度合いが変わりつつあるのかもしれないし、この事件が起こった時の時代背景は私にはわからない。 しかしながら、私見として、この事件の判決が有罪というところには納得が出来ない。 なぜなら、最高裁の判決によれば、「この本を出版する意識」があれば十分である為、意味の認識を不要とし、法律の錯誤なので故意に違法性の意識まで不要であるということになるが、これは被告人たちの考えや表現の自由を全く考慮してないように見える。 しかも今回の法律の錯誤に関しては、具体的な構成要件要素を錯誤したわけではなく、規範的構成要件要素を錯誤したという結果になっている。 被告人たちが規範的構成要件要素の錯誤したのか否かを判断するのは非常に難しいであろうし、人によって意見は様々だろう。 今回の事件において、被告人たちはこの小説を「わいせつ文書」に当たるとして出版したとは考えにくい。 私の予想だが、小説『チャタレイ夫人の恋人』は海外でも評価の高い小説なので、「芸術性の高い小説」と考えて出版したのではないだろうか。 その小説にわいせつ性があるとして、被告人たちの意識、つまり意味の意識違法性の意識を不要とし、有罪とするのは、あまりにも一方的過ぎるのではないだろうか。

 

4. まとめ

 

法学には行為無価値と結果無価値という考え方がある。 これは犯罪行為の結果が違法と考えるならば結果無価値、逆に犯罪行為の行為自体が違法と考えるならば行為無価値ということである。(1) 法の軸となる考え方は結果無価値であるが、私は行為無

価値の考え方がとても重要だと考えている。 罪を犯そうと思っている人が、犯罪行為をし、たまたま結果に結びつかなかったとしても罪を犯す意思、つまり故意があるので罰せられることは当然だと思っているし、逆に、罪を犯そうとする気が全くなく、犯罪行為を過失で実行してしまった人と、罪を犯そうとする気があって犯罪行為を実行した人が同じ罪になるのは、甚だ理不尽なことだと感じる。 簡潔に述べると、結果も重要だが、犯罪行為を実行したときにおいて、悪いことをしようと思っていた人は重く罰するべきであり、逆に悪いことをするつもりが無かった人は軽く罰するべきだと私は考えている。

 

私自身、過失や故意の考え方を学ぶ事は重要であると感じており、その理由は、結論でもある「その行為は果たして悪なのか否か」ということや「法において正義とは何なのか?」という事を自分自身で考えることにおいて道しるべとなるからだ。 法を考える上において、人には様々な正義があり、意見がある。 自分の中の正義とは何なのかという事について、これからも考えていきたい。

 

以上。

 

出典・引用

 

1 『警察官のためのわかりやすい刑法』(立花書房)を参考にして書いたもの。

ライフデザインUの板書

ライフデザインUのノート

『ポケット六法』(有斐閣)       

1分で読める!! [ 違いは? ] (https://lowch.com/archives/8809)

池袋暴走事故 産経ニュース(https://www.sankei.com/affairs/news/150817/afr1508170012-n1.html)

違法性の意識 Wikipedia

チャタレー事件 Wikipedia

勘違い騎士道事件 Wikipedia

 

 

 

 

北川礼太

19j110014 北川礼太

                             故意と錯誤

 

1 はじめに

故意と錯誤について、基本的にどの説も二元論化するがどちらか一つにまとめる必要はないと考える。法律の条文の解釈というよりも違法の本質を深く考えなければならない。

 

 

2、故意について

故意は行為、行為の客体、行為の結果、行為と結果の因果関係つまり構成要件に該当する事実の認識を意味するつまり犯罪事実を認識しながら行為にでる場合が故意であり、故意がなければ犯罪は成立しない。また犯罪事実を認識し認容することを構成要件的故意と言う。尚、「過失により」などと定めていない限り過失犯は処罰されない。故意は大きく1)確定的故意、2)不確定的故意の2種類に分かれている。

1 確定的故意は結果の発生を確実なものとして認識している場合である。例えば通り魔殺人や窃盗、強盗等ほとんどの犯罪は確定的故意としか考えられない。確定的故意は通常の故意である。

 

2 不確定的故意は結果の発生が不確実な時の事を指し、この中で更に3種類にわけられており択一的、概括的、未必の故意という。択一的故意は結果の発生が確実だが客体が不確実な場合を言う。概括的故意は結果の実現が確実だが客体が特定されていない場合だ。そしてこの中で一番重きを置くのが未必の故意である。未必の故意は結果が発生するかもしれないと認識していながら、結果の発生を容認しつつそのまま行為に及ぶことを言う。結果の発生を容認していない状態で結果が起こった場合は未必の故意とはいえず認識ある過失と判断される。認識なき過失は通常の過失である。

 

 

3、錯誤について

行為と結果、構成要件、客観的事実が存在しその事実について行為者の主観的事実との間にズレが生じている部分を錯誤と呼んでいる。錯誤も大きく1)事実の錯誤、2)法律(違法性)の錯誤に分かれている。錯誤が生じた場合故意は阻却されるのかがここでのポイントになる。

 

1 事実の錯誤は刑法381項に関する。具体的事実と抽象的事実の錯誤にわかれており客体と方法の錯誤を具体的事実の錯誤は含んでいる。具体的事実の錯誤は同一構成要件の範囲で生じた場合を指し、故意は阻却されない。これを法定的符合説と言う。判例・通説はこの説をとっている。他に具体的符合説があるが私は行為と結果に対する故意は認めるが方法の錯誤は故意を阻却するこの説は理論的であるがあまりにも刑が軽くなる場合もあり社会的法益、個人的法益を守る抑止する力が法定的符合説よりも弱いので判例通説である法定的符合説的立場いる。抽象的事実の錯誤は錯誤が更に構成要件の枠を超えて異なる構成要件間にまたがることを指す。構成要件が重ならない時は法益毎に重なる時、判例は符号を認めその範囲で故意犯の成立を認めている。事実の錯誤は原則、構成要件的故意を阻却するもののきっちり構成要件該当事実を認識していないかぎり阻却されるかといえば上記の通りそうでもない。

 

2 法律の錯誤は刑法383項に関する。法律を知らなかったとしてもそのことによって罪を犯す意思がなかったとすることはできない。法律を知らないということはその行為が違法であることを知らないあるいは違法ではないと誤信した場合を指す。犯罪事実の認識に欠けるところではないので、故意は阻却されない。判例は一貫して故意に違法性の意識は不要という立場に立っている。しかし相当な理由があれば故意は阻却される。故意が成立するには、違法性の意識は不要であるが意識を有する可能性(知ることができた場合)は必要であり、その可能性がない場合は相当な理由があるとみなされる。斟酌または宥恕すべき事由があるときは刑の減軽をするべきであるとされている。

簡潔に言えば、事実の錯誤とは故意として認識することを要する事実の側面における錯誤をいい、法律の錯誤とは故意として認識した事実の実現についての評価の側面における錯誤をいう。

 

4、判例から考える事実の錯誤、法律の錯誤

ここでは1)勘違い騎士道事件、2)チャタレー事件、3)タヌキ・ムジナ事件を扱って故意、錯誤について考えていく。なんらかの刑法に関する事件が起こった場合それは過失なのか、故意なのか、故意であるならば錯誤があるのかないのか、故意は阻却するのか、しないのかといところが問題だ。尚、考察にあたり私はHandlungsunwert(行為無価値)をとっている。違法性の本質を結果に、法益侵害に重点があるのは納得できないからだ。また責任の時点で故意を考えるのも不自然に感じ、構成要件の時点で故意を考える行為無価値が自然に感じるためである。

 

1 勘違い騎士道事件

空手三段の在日外国人Aが酩酊した女性Bとそれをなだめていた男性Cとがもみ合ううち、Bが尻餅をついたのを目撃しBがヘルプミーと冗談で叫んだためAが助けにいく。その際にCは襲われると思い防御するために腕を胸のあたりにあげたらAACがボクシングのファイティングポーズをしたと勘違いし自分とBを守るためにCの顔面に空手技である回し蹴りを命中させそれによりCを死亡させた事件である。この判例で私が事実の錯誤ではないと考えるのは、人に回し蹴りし(恐らくそれ以外の選択があったのにも関わらず)死亡させた、攻撃するという構成要件的故意があるので錯誤はなく、自分は正当防衛だから攻撃しても平気だろうと誤信しているつまり、法律の錯誤があるからだ。誤想防衛や誤想過剰防衛でも相当な理由がなければ構成要件的故意は阻却されないと考えている。しかし善いことをしようとしたため減刑するべきだと思う。この判例で、他に授業内で取り扱った内容で考えるべき事は違法性阻却事由に関する錯誤である、厳格責任説をとるか制限責任説をとるかだ。事実の認識として責任要素としての故意を含めるかだが制限責任説で考えると含まないで構成要件的行為、故意で判断し誤想防衛であり過失犯として扱われる問題点は、個性要件的故意は認めているにも関わらず過失犯になるのかである。さらに言えばこの事件では過剰防衛の故意犯、誤想防衛での故意の過失(故意の阻却)でありそれらの複合的な誤想過剰防衛になったときどうするかと問題がある。一方で厳格責任説をとると善いことをしようとしているのに罪が重すぎることだ。私は矛盾しているがこの事件ではCの親族の立場からみれば制限責任説で過失致死扱いにして罰金が良いと思う。なぜなら下記の判例通説通りにいくと執行猶予がつくだけで特にCの親族等に補填があるわけではないからだ。お金は必要である。Aの立場にしても罪は過失致死の罰金で罪は軽くなるがその分金額を増やせば良いと思う。尚、判例通説では本件回し蹴り行為は、Aが誤信したCによる急迫不正の侵害に対する防衛手段として相当性を逸脱していることが明らかであるとして、傷害致死罪の成立を認めた上で、刑法362項による減刑を認めている。

 

2 チャタレー事件

 イギリスの文豪のローレンスの小説チャタレー婦人の恋人を日本語に訳した作家伊藤整と版元の小山書店社長小山久二郎にたいしてわいせつ物頒布罪が問われた事件である。二人ともチャタレー夫人の恋人に露骨な性的描写があり度を超えていることを理解しながら出版したとされ起訴されている。授業内ではなんらかの賞を受賞した作品を日本で出版した経緯があり、出版した人たちはチャタレー夫人の恋人を芸術作品と錯誤しているという前提で話し合っていたのでそれを前提として述べる。この事件に似た黒い雪事件では原審でわいせつ物に当たらないとしている。この二つの事件の特徴としてわいせつ性の錯誤があり、わいせつかどうかは個人個人の感性の問題である。裁判官の心の規範によって決まる要件を規範的構成要件という。規範的構成要件の場合は意味の認識(評価)を違法性の認識から区別することは多少困難である。私は事実に関しては物を頒布しているので錯誤もないと考え、芸術かわいせつは評価の側面であるため法律の錯誤であると考える。チャタレー夫人の恋人の場合は何らかの賞は受賞しているもののそれは確か日本の賞ではなかった(文化の違いがでる)ので相当性な理由として判断できないと考え故意は阻却しないと考えている。尚、判例通説では問題となる記載の存在とこれを頒布することの意識があれば足り、わいせつ文書に当たらないと信じてもそれは違法性の錯誤に過ぎず、故意を阻却しないとしている。

 

3 タヌキ・ムジナ事件

 ある人Aがタヌキの捕獲、狩りを禁止する狩猟法をしりつつ、ムジナを狩った。狩猟法違反で警察がAを逮捕し起訴した事件である。法律がありムジナなら平気だろうという点でAは誤信しているかつ相当な理由がないので故意は阻却されないと考える。尚、判例通説では、下級審で動物学においてタヌキとムジナは同一とされていること判断して有罪にした。大審院判決ではタヌキとムジナの動物学的な同一性は認めながらもその事実は(当時の)国民一般に定着した認識ではなく逆にタヌキとムジナを別種の生物とする認識はAだけに留まるものではないために事実の錯誤として故意責任阻却が妥当として無罪にした。これと似ているむささび・もま事件があるがその事件に関しては大審院は有罪判決をくだしている。むささびをもまと呼んでいるのは行為者の地方でそう呼んでいただけであり全国的にみれば別の動物であると言う認識はなかったとして故意を認めている。時代によってタヌキ・ムジナ事件は故意ありとなっただろう。むささび・もま事件は私も法律の錯誤とし故意を阻却しない考えであるが、タヌキ・ムジナ事件で仮に無罪というならむささび・もま事件も無罪であると考える。時代的に行為者にとって住んでいるところでそう呼ばれているのであれば全国的スケールで判断するのは難しいと思うので事実の錯誤として故意を阻却されるたる相当な理由と考えるからだ。

 

 

  5、まとめと私見

 人間は時に非合理的な行動をするので故意がなくなることはないだろう。例え合理的な善い行動をしたとしても人間なので錯誤が発生する。構成要件なくして犯罪なし。故意なくして錯誤なしである。色々な説がでるのも頷ける。実際実務に関して自分の意見はこれだといい、そこに理由付けする際にスムーズにいくようにしているのだろう。殺人や放火、強盗は行為に及ぶのにあたり準備が必要であるから故意ありとするのはできるが、スムーズに決めるのは以外と難しいのである。自分の意見を出しそこに理由付けをする際にほぼ二元化した説を選んでいるはずなのでどこかで矛盾したりする。知識と経験不足であるのは確かだが難しい。矛盾というかズレが生じる、しないのを選んでもなんだか腑に落ちなかったりする。判例も参考にして考えているだろうが事件によっては時代やグローバルな現代において外国人に対してどう結びつけていくか等更に複雑な問題もある。究極的に今回は故意を錯誤と認定して故意を阻却するかいなかの考察である。私は基本的に行為無価値厳格責任説の立場である。自分の中に芯のある考えを持つことは大事ではあるが、基本的に二元化するがどちらか一本だけで全ての事件を考えようにも、自分の中の正義によっては限界がきてしまうような印象をうけた。どちらかひとつにというよりいいとこ取りだけした説は柔軟に事件に当てはめることができるだろうが柔軟になりすぎるのも、行為の抽象化につながったりして危険だと思うので、明らかに妥当がないものをのぞいて色々な説ある今が最適だと考えている。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%AC%E3%81%8D%E3%83%BB%E3%82%80%E3%81%98%E3%81%AA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

https://gonte.info/2018/08/03/criminallaw_sakugo_kaisetu/

http://ma-se-law.jp/publics/index/79/

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%98%E9%81%95%E3%81%84%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E9%81%93%E4%BA%8B%E4%BB%B6

https://info.yoneyamatalk.biz/%E5%88%A4%E4%BE%8B/%E3%80%90%E5%88%91%E6%B3%95%E5%88%A4%E4%BE%8B%E3%80%91%E4%BA%8B%E5%AE%9F%E3%81%AE%E9%8C%AF%E8%AA%A4%E3%81%A8%E6%B3%95%E5%BE%8B%E3%81%AE%E9%8C%AF%E8%AA%A4%E6%98%AD%E5%92%8C26%E5%B9%B48%E6%9C%8817/

事実の錯誤と違法性の錯誤の区別 川崎一夫著

警察官のためのわかりやすい刑法 佐々木知子著

 

 

 

森下 瞳

故意と錯誤から見て私は誤想過剰防衛に着目をし、誤想防衛説(過失犯)をとるべきだと考える。 

 

1.          1.故意と錯誤 

はじめに故意と錯誤についてまとめてみる。 

1.    @故意 

故意とは犯罪事実の認識をしながら行為に出る場合である。犯罪は原則として故意によるものであることが必要である。各条文より「過失より〜」などと定めていない限り、過失犯が処罰されることはない。 

構成要件に該当する事実の認識が故意の成立には必要である。このことを構成要件的故意という。殺人であれば人を殺害する行為の認識であり、行為、行為の客体、行為の結果、行為と結果との因果関係の認識を含む。 

2.    A錯誤 

犯罪は故意を持っていることを前提としているが、錯誤を生じることがある。 

構成要件的事実の錯誤には2種類あり、錯誤が同一構成要件の範囲で生じた場合は具体的事実の錯誤といい、異なる構成要件にまたがる場合は抽象的事実の錯誤である。前者は故意を阻却されない。これを法定的符合説とという。 

具体的事実の錯誤には客体の錯誤と方法の錯誤がある。前者の例ではXAを殺そうとして発砲したらAだと思っていた人はBを殺してしまった。人違いであれば発泡しなかった。後者はXAを殺そうとしたらBにあたってしまいBを殺してしまった場合である。どちらもBに対する殺人罪であるが両者の違いは客体の個数である。だが、錯誤は同一構成要件の範囲で生じているので1つの殺人としてみる。 

 2.違法性の意識 

違法性の意識とは行為者が自分がしている行為が犯罪の構成要件に該当する違法な行為であるかと認識していることをいう。違法性の意識が犯罪の成立要件として必要とされているか、必要ならばどこに位置付けされるべきなのかが学説により対立している。 

@故意説 

違法性の意識を故意の要件とする。構成要件該当事実に加え違法性の意識が必要としている。また故意説の中でも責任故意を認めるには違法性の意識まで必要とする厳格故意説と違法性の意識があれば足りるとする制限故意説に分かれる。 

A責任説 

違法性の意識は故意とは別の責任要素であると考える説であり、違法性の意識の可能性があるのならば責任避難は可能である。責任説の中で構成要件に関わる錯誤をは構成要件的故意の問題、違法性に関する錯誤は違法性の錯誤の問題であると明確に区別する厳格責任説と構成要件に関わる錯誤を比較的に緩やかにし解しており、正当化事情の錯誤(誤想防衛)も構成要件も構成要件的事実の錯誤の範疇に考える制限責任説と分かれている。

3. 意味の認識 

故意において犯罪事実の認識が必要なのは、その認識がなければ規範の問題に行為者が直面しないからである。そうであるとすると、構成要件要素としての認識の程度としては、その社会的な意味や性質までの認識が必要となるこの認識を意味の認識という。 

事実の錯誤や違法性の錯誤に対応させることに困難はない。はっきりと故意と過失ははっきり分かれていないが故意の限界と過失の上限があり、故意の限界と過失の上限のそれぞれの意識は未必の故意の限界と意識のある過失の上限の境にある。未必の故意は犯罪事実がいまだ必ずしも発生するわけではないが、発生すればそれはそれでいいという考えである。発生するかもしれないと思っているにすぎない点で確定的故意とは区別がされる。例えば狭い道車を運転していて歩行者が飛び出しそうに見えてもぶつかるかもしれないがぶつかってもいいやと思っていることである。これに対してかもしれないと知りながら大丈夫だろうと思っている場合が認識ある過失と呼ばれている。その人の心の中では犯罪を受け入れていないので故意犯は成立しない。 

また、いきなり人に襲われたと誤信し、自分または他人を守るために反撃をした際に相手が死ぬかもしれない+それで良いと思っているのであれば犯罪を確定的なものとして認識、認容しているのならば確定的故意であり、死ぬかもしれない、それでも良いと犯罪の結果の発生自体を不確定なものとして認識、認容しているのであるなら未必の故意である。また、死ぬかもしれないがそれは困ると犯罪事実の可能性の認識認容なしが認識ある過失であり、死ぬと思っていなかったと犯罪事実実現の認識なしが認識なき過失である。 

意味の認識はわいせつ物分布罪のわいせつ性などの規範的構成要件要素における認識においてどの程度の認識が必要になるかが問題となる。 

1.    @チャタレー事件 

文芸作品がわいせつかどうかで問われた裁判として有名なのがチャタレー事件である。 

『チャタレイ夫人の恋人』を翻訳者と出版社社長が刑法175条のわいせつ物頒布罪を問われた事件である。1957年に上告棄却になった。 

『チャタレイ夫人の恋人』を出版するにあたって性的描写としての認識刑法175条に違反すると思っている上での行為であるならば未必の故意であり、『チャタレイ夫人の恋人』をわいせつ物としてではなく芸術として出版したのであるならば法律の錯誤である。 

この事件を判決するにあたってどの程度でわいせつにあたるかは時代によって国、宗教また個人の価値観や生き方によって大きく異なるため意味の認識を違法性の認識から区別することは難しい。構成要件要素の存否の認定について裁判官の規範的・評価的な価値判断を要するものを規範的構成要件要素と呼ばれる。法的価値による判断を必要とするもの(例;他人の財物)や認識上の評価が必要とするもの(例;人を欺く)が含まれる。殺人罪などの通常の犯罪は記述的構成要件要素と呼ばれ、価値判断を入れずに裁判官の解釈ないし認識活動によって確定できるものである。 

 

 4.誤想過剰防衛について 

正当防衛の場合、刑法361項より「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない」としているので暴漢が急に襲ってきたから思わず相手を殴って怪我を負わせた場合などが適応される。急迫とは法益侵害が間近に差し迫っている状況を指す。侵害は現在のものに限り、過去や将来のことは対象外になる。防衛の程度を超えた場合は正当防衛として阻却されることはない。これを過剰防衛といい、例の場合防衛の程度が超えていると相手を殴っているといった故意があるのでそのまま傷害罪が成立し、刑法362項「防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を軽減し、又は免除することができる」としているので軽減又は免除ができるだけである。過剰防衛が成立するための前提として、急迫不正の侵害がなければならないことである。防衛行為が相当の範囲であれば正当防衛っが成立し、相当性を越えれば過剰防衛になる。ただし、熊だと思って人を撃ったことに過失があるのならば過失犯が成立する。 

急迫不正の侵害がないのにあると勘違いして反撃した場合は誤想防衛という。本人は自分の行為が正当防衛で許されると思っていた(違法性が阻却される)ので故意が阻却され、犯罪が成立しない。違法性の阻却事由の錯誤はそもそもの構成要件に錯誤がある時と同じになる。相手を人ではな熊だと思って発砲した場合殺害の故意はないとしている。 

誤想防衛が成立する状況で反撃が過剰になった場合は誤想過剰防衛となる。過剰性の認識があれば故意犯として扱われる。本来の誤想防衛も防衛の程度が相当性をかければ違法性の意識があれば故意犯が成立され情状によって刑が減軽、免除されうるので刑の減免が誤想過剰防衛でも適用される。過剰性について認識していた場合は過失犯が成立する。 

違法性の意識に関してあげられるのが「勘違い騎士道事件(英国騎士道事件)」が挙げられる。空手三段の外国人が酩酊していた甲女となだめていた乙男がもみ合ううちに甲女が尻もちをついたのを目撃をし、甲女が乙男に暴力を振るわれていると勘違いし、助けようとした際に甲女が「ヘルプミー」と言われた乗っで両者の間に入ったところ、乙男が防衛のために両拳を胸の前あたりにあげたところを外国人が自分に殴りかかられると勘違い誤信し、自己及び甲女を護衛しようと思い、とっさに回し蹴りを乙男の顔面付近に当て、乙男が路上に転倒をさせ、その結果後日死亡した。 

1審では誤想防衛にあたるため故意が阻却され、また誤想したことにつき過失もなかったとして無罪となった。第2審では防衛としての程度が相当性を超えるものであり、本人は認識しているので誤想過剰防衛であるとして傷害致死罪とした。同じ事実を設定しながら防衛の程度が相当であったかとの価値判断が裁判官によって異なった。 

5.Handlungsunwert行為無価値Erfolgsunwert(結果無価値)の比較 

違法性には行為無価値論と結果無価値論の2つ対立する考えがある。どこを重視し違法性の判断するかの立場にわかれる。 

無価値=違法として考え、結果無価値論は法益の侵害やその危険性が違法の本質という考えである行為無価値論は結果だけではなく、行為の不正も違法性の本質であるという考えである。 

ピストルを撃って人を殺害したという事態を想定すると人の生命という法益が侵害されるから結果無価値は明らかである。弾が外れてかすり傷1つも負わなかった場合行為が危険であり、行為者の悪性は客観的に現れているから違法であり、処罰に値すると考え、結果が完全に発生しなくても未遂犯として処罰されるというのが行為無価値の考えである。結果を惹起したことが違法、行為がすることが違法と考える。 

 

違法性の本質 

過失 

未遂・ 

不能犯 

誤想 

防衛 

主観的違法要素 

傾向犯 

表現犯 

結果無価値 

法益侵害 

応報刑 

客観重視 

旧過失論 

結果予見義務 

違反 

小さく罰する 

客観的危険説 

違法性減少 

制限責任説 

原則認めない 

強制わいせつ 

無罪 

行為無価値 

論理表現 

教育刑 

主観重視 

新過失論 

結果回避義務 

違反 

大きく罰する 

具体的危険説 

責任減少 

厳格責任説 

認める 

 

強要 

偽証 

 

 6.私見 

私は故意と錯誤について考えるにあたって誤想過剰防衛を中心としてみるべきだと思う。 

誤想過剰防衛は通説では故意犯の成立を否定して過失犯を認める誤想防衛説と故意犯の成立を認める過剰防衛説が対立しており、判例は後者を取っている。 

私はやはり防衛する際行為者が行為の際にどのように感じたかによると思う。誤想過剰防衛の場合矛盾してしまうので故意犯か過失犯どちらを認めるかが問題点となる。私は誤想過剰防衛を過失犯を認めるべきである。自分又は他人を防衛するために行為を行ったのであるならば故意はあるかと考えたらそれは違うのではないかとおもう。 

守るために突き飛ばしたり等をして相手に怪我させるのは相手に怪我をさせようとは考えてない、つまり認識ある過失または認識なき過失であると思う。だから故意犯を認めるのは違うのではないかと思う。 

違法性の意識の位置付けで多くの学説があり、制限責任説をとるべきであると思うが、実際に私が裁判官になったら事案によってどちらの説も柔軟にとるべきだと考える。 

《引用・出典》 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/勘違い騎士道事件 (ウィキペディア) 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/違法性の意識 (ウィキペディア) 

https://blog.goo.ne.jp/pota_2006/e/70d83f24a1b5de25cd962ef23e5854a7 (刑法論点;意味の認識 

https://imidas.jp/judge/detail/G-00-0094-09.html (認識ある過失) 

https://司法試験分析.com/?p=7245 (故意説と責任説) 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/チャタレー事件 (ウィキペディア) 

https://ja.m.wikibooks.org/wiki/違法性の意識#違法性の意識の要否と位置づけ (ウィキペディア) 

http://www.nankyudai.ac.jp/library/pdf/39B43-53.pdf (誤想過剰防衛) 

ポケット六法 

警察官のためのわかりやすい刑(佐々木知子) 

授業用ノート 

 

 

 

緒方千城

先ほど送ったメールに誤りがあったので訂正したものを再送しました。

『故意と錯誤』

 

19 J110025 緒方 千城

 

[結論]故意や錯誤、違法性の意識についての学説等を比較した結果、私は制限責任説の考えに賛成である。

 

1.犯罪について

犯罪が成立する要件とは、「構成要件に該当し、違法で有責な行為」である。つまり、刑法の条文上規定されている犯罪行為を行い、違法で、責任があることによって犯罪が成立する。

まず、刑法の基本原理として保護主義というのがある。刑法で守るべき違法の本質は、道徳や社会秩序といった漠然としたものではなく、刑法で守らなければならない法益利益(法益)であり、それが侵害されたことが違法となる。

法益は大きく分けて国家的法益、社会的法益、個人的法益の3つに分類され、個人的法益は以下のように5つ分類される。

@生命、A身体、B自由、C名誉、D財産

構成要件とは刑法の条文上規定されている、犯罪が成立するための原則的な要件である。構成要件を分類すると客観的要素として「結果」、「行為」、「因果関係」、主観的要素として「故意」、「過失」に分類できる。

客観的要素は「結果」が発生しているかを確認し、それを引き起こした「行為」の存在を検討し、両者の間の「因果関係」の有無を検討する。主観的要素は「(構成要件的故意」、「構成要件的)過失」といった一般的な主観的要素を検討する。

次に違法とは、行為が「法(または法規範)に違反すること」である。違法性の学説は主に2つの立場に分かれている。Handlungsunwert(行為無価値)Erfolgsunwert(結果無価値)の2つであり、「Xは、Aの態度に腹を立て、Aを殴って怪我をさせた」という事例を使い2つの学説を説明する。

@行為無価値論

まず、行為無価値論は、違法とは、行為が国家・社会倫理規範に違反することであるという考え方である。本学説は行為者の「行為」を中心に違法性を考えていく見解であり、「行為者の側」から違法性を見ていこうとする。つまり、違法性の本質は「社会規律違反」と捉えられる。

Xの行為は、「人を傷つけるな」という国家・社会倫理規範に違反したから違法であると説明する。つまり、「XAに対し、『殴った』という行為が違法であり、その行為を行ったことは相応の罰を受けるべき」ということである。

A結果無価値論

それに対し結果無価値論は、違法とは、法益の侵害及びその危険の惹起であるという考え方である。本学説は、

「結果」を中心に違法性を考えていく見解であり、「被害者の側」から違法性を見ていこうとする。

Xの行為は、傷害罪の構成要件に該当するが、個人的法益の「身体」という法益を侵害したから違法であると説明する。つまり、「身体という法益侵害されたAを守る為に、殴ったXを罰しなければならない」ということである。

両説は、刑法の役割を法益保護としている点は共通している。

違法性についての両論を学ぶにつれ、私は結果無価値論の考えについて賛成である。理由は、Aで記述した具体例のように、私は、まず「被害者の側」から違法性を見るからである。刑法が守るべき法益を侵害された被害者を守るため加害者を罰するべきだと思ったからである。

 

2.故意(構成要件的故意)について

刑法38条1項は、「罪を犯す意思がない者は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りではない』としている。

故意とは犯罪を犯す意思があり、その行為に出ることをいう。つまり故意がなけれ犯罪は成立しない。故意は確定的故意と不確定的故意に分けられる。

確定的故意とは、行為者が犯罪にあたる事実の実現を確定的なものとして認識した場合のことで、不確定的故意は行為者が犯罪事実の実現が不確定的なものとして認識した場合のことであり、以下の3つがある。

@択一的故意

複数ある客体のいずれか一方に結果が生じることは確実だが、いずれに発生するか不確定なものと認識している場合のことをいう。

2つのコップの1つに毒を入れ、XYどちらが飲むかわからない場合などがこれにあたる。

A概括的故意

結果の発生は確実だが、結果の生じる客体やその個数が不特定の場合のことをいう。

群衆の中に爆弾を投げ込み、多くの人が死傷した場合などがこれにあたる。

B未必の故意

結果の発生を不確実なものとして認識しているが、結果の発生を「認容」してそのまま行為に出ることをいう。

故意の認識対象は、客観的構成要件(「結果」、「行為」、「因果関係」)に該当する事実である。

未必の故意について次の認識ある過失と共に詳しくみていこうとする。

 

3.未必の故意認識ある過失

過失の意義は刑法38条1項は、故意のない行為は処罰しないとしたうえで、ただし、「法律に特別の規定がある場合は、この限りでない」と定めている。過失を一言でまとめると不注意である。

過失の中には未必の故意認識ある過失があり、認識ある過失とは行為者が罪になるような結果の発生を認識しながらも、その発生を避けられる物と信じて行為し、結果を発生させた場合のこという。

具体例として、Xは狭い道を車で運転していると、狭い道のわきに老人が歩いていて、「このまま進むと老人に接触するかも」と思うが、走り抜けたところ、老人と接触し怪我をさせてしまった時だ。

未必の故意は「接触するかもしれないが、仕方がない」と老人が怪我をすることの犯罪結果の発生自体を認めてしまうことを未必の故意として故意と認定されてしまい、故意犯の責任を負う。対して、認識ある過失は「接触するかもしれないが、怪我はしないだろう」と思い、結果の発生を認めない場合は認識ある過失として、故意は認定されず、過失が認定される。

 

4.錯誤について

錯誤とは、行為者の認識と現実の不一致のことで、錯誤には事実の錯誤と違法性の錯誤(法律の錯誤)の2つがある。

@事実の錯誤

事実の錯誤とは行為者の認識した犯罪事実(認識事実)と、現実に実現した犯罪事実(実現事実)の食い違いをいう。さらに、事実の錯誤には認識事実と実現事実とが、共に同じ構成要件に該当する事実である場合の具体的事実の錯誤と異なる構成要件に該当する事実である抽象的事実の錯誤の2つがある。

A違法性の錯誤(法律の錯誤)

刑法38条3項は、「法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることにはできない。ただし、情状により、その刑を減刑することはできる」としている。

違法性の錯誤(または法律の錯誤)とは行為が法的に許されないことを知らずに誤審した場合のことをいう。犯罪事実の認識に欠けるところはないので、故意を阻却する事実の錯誤とは違い、故意は阻却されない。

なお、具体的事実の錯誤の学説として法定的符合説と具体的符合説がある。

前者は認識事実と実現事実とが、構成要件的評価として一致(符合)する程度で、事実実現についても故意責任を認める立場であり、後者は認識事実と実現事実とが具体的に一致(符合)しない限り実現事実について故意責任を認められないとする立場である。例として「Xは、Aを殺すつもりで発砲したが、Aだと思っていた人は実はBで、弾があたりBは死亡した」場合である。前者の法定的符合説Aに対する殺人未遂罪とBに対する殺人罪が成立を認めようとする説である。Aにあたり死亡した場合もBが死亡した場合、どちらも殺人罪という同一構成要件に該当する事実だからである。しかし、後者の具体的符合説はAに対する殺人未遂罪とBに対する過失致死罪つまり、未遂犯と過失犯が成立を認めようとする説だ。

錯誤の判例としてチャタレイ夫人を挙げる。

本判例は、イギリスの文豪ローレンスの小説『チャタレイ夫人の恋人』の性表現がわいせつに当たるとして、これを日本語に翻訳し、出版したことが猥褻物頒布罪として問われた裁判だ。猥褻文書販売罪で起訴されたこの判例は、規範的構成要件要素である『わいせつ』の定義について争われ、被告側(発行者・訳者)が上告を棄却して有罪が確定した。

刑法175条の猥褻文書頒布罪における『わいせつ性』や同法235条の窃盗罪の財物の『他人の物』など、人によって考えが異なる場合があるので、裁判官による規範的な価値判断を経たなければある事実がその要素に該当するか否かを決することができない概念を規範的構成要件要素という。規範的構成要件要素は自然的・外形的事実の認識が意味の認識に結びつかない場合があるために、特に意味の認識がないとされる。

たぬき・むじな事件(大判大正14年69日)は故意阻却を認め、構成要件該当事実の認識があっても特別な事情が介在したため、意味の認識が欠けるとした。これらを参考に規範的構成要件要素の錯誤が事実の錯誤であるのか違法性の錯誤であるのかは、意味の認識の有無によって決せられることになった。

 

5.違法性の意識

違法性の意識とは、実行行為者が、自分の実行している行為が犯罪の構成要件に該当する違法な行為であるという認識をしていることをいう。学説は故意説と責任説(通説)に分かれている。

前者は違法性の意識を故意の一要素と考える説であり違法性の意識と構成要件該当事実がある。後者は違法性の意識は故意とは別個の責任要素であると考えられ、違法性の意識の可能性があれば責任非難は可能であるとされている説。なお、前者は厳格故意説と制限故意説に、後者は厳格責任説と制限責任説に分かれる。

故意説

@厳格故意説

違法性の意識があるにも関わらずあえて違法行為を実行するところに、故意犯として非難すべき根拠があると解する。違法性の意識を責任要素としての故意の要件とする。

A制限故意説

違法性の意識は故意の要件としては不要だが、その可能性が故意の要件あるとする見解。原則違法性の錯誤は責任故意を阻却しないが、違法性の意識の可能性すらない場合には故意犯は成立しないとする。

責任説

@厳格責任説(法律の錯誤説)

故意を構成要件該当事実の認識に限定し、正当化事由の錯誤は違法性の錯誤であるという考え、正当化事由の錯誤は故意の成否とは無関係であり、錯誤が避けられない場合には責任の段階で違法性の意識の可能性がなく責任が阻却されるが、錯誤が避けられる場合には故意犯が成立するとする。

A制限責任説(事実の錯誤説)

故意の認識対象を構成要件該当事実および正当化事由不存在の事実であると考え、誤送防衛の場合には違法性の意識を喚起するような違法性を基礎づける事実の認識がないとして故意を阻却するとする。つまり誤送防衛において、前者は故意犯か無罪、後者は過失犯か無罪となる。

誤送防衛の判例として勘違い騎士道事件(最決昭和26326日)が挙げられる。

空手3段を持つ英国人が酩酊状態の女性となだめていた男性がもみ合ううちに尻もちをついたのを目撃して、男性が女性に暴行していると判断し、女性を助けようとしたところ男性が防御体制をとり、ファイティングポーズをとったと誤信した。英国人は自己と女性の防衛の為に男性に回し蹴りをして傷害を負わせ、その後男性は死亡した。本判決の争点は正当防衛か誤送過剰防衛かということである。最高裁は「回し蹴りという行為は、「被告人(英国人)が誤信した男性による急迫不正の侵害」対する防衛手段を逸脱していることは、明らかである」として、誤送防衛ではなく、誤送過剰防衛であり、傷害致死罪の成立を認め、刑法38条2項により減刑された。

私は、この判決文を見て制限責任説の考えに賛成した。理由は、英国人は回し蹴りをしたことに過剰の意識つまり、事実の認識があるとみる。誤送防衛は事実の認識がない場合無罪となるが、今回の誤送過剰防衛は事実の認識はある。これにより私は、傷害致死罪が成立する制限責任説の考えに納得したからである。

 

6.まとめと私見

本テーマについて、故意か過失かどうかを判断するのは難しいと感じた。違法性の意識において制限責任説に賛成であるが、近年では様々な判例・学説が用いられている。グローバル化していく日本の法律はその時の状況や社会に応じて変えていかなければならないと感じた。日本は判例・通説を重視し法律を変えることは中々少ない。そういう時にグローバル化社会を利用し他国の法律やまた別の学説を適用するのも悪くはないと感じる。

 

参考文献・引用

Wikipedia 違法性の意識」、「行為無価値」、「結果無価値」

コトバンク 「認識ある過失

的外れ みのる法律事務所便り http://www.minoru-law.com/upfile/200808_220.pdf

警察官のためのわかりやすい刑法 著者 佐々木知子

基本刑法T総論 第3版 著者 大塚祐史・十河太郎・塩谷毅・豊田康彦

刑法判例百選T総論 第7版

中江先生の授業ノート

レポート対策勉強会の板書