上野友斗
「法学と感染症」
18J107010
上野友斗
結論:法学と感染症とは、新型コロナウイルスによって生じるワクチン禍や休業命令といった直近の法律問題に加え、コロナ後の社会を見据えた法制度のあり方を検討する試みをいう。
1.総説
現在の日本は、新型コロナウイルス(COVID-19(Coronavirus Disease2019))の流行により、社会に大きな変化が起ころうとしている。元より、現代社会は情報革命が進行している最中であり、今後大きな変革が起きていくと考えられていた。しかし、今般の新型コロナの発生によって、その勢いがより一層増すことが想定されている。そこで、コロナ後の社会のあり方や、それを踏まえた立法論を確立していくことが必要になる。
とはいえ、まずは直近に起こるであろうワクチン禍や休業命令といった法律問題を検討しなければならない。そのためには、過失論や因果関係論などを一通り再検討していくことが必要である。そこで、本稿では第一の柱としてワクチン禍や休業命令といった法律問題を天王山として据え、まずはそれらを論じるために必要となる過失論、因果関係論、違法性の問題から検討していく。第二の柱として、コロナ後の理想的な社会の姿を哲学、経済学、社会学全般から考察し、そのような社会を目指す際に必要となる法制度について検討していく。
2.過失論
ワクチン禍の問題を賠償で処理する場合、国賠法1条の適用を受けることになる。国賠法1条は過失責任のため、そもそも過失とは何かについて検討しなければならない。まず、過失について刑事法の議論を踏まえると、おおむね3つの説に分かれる。まず、旧過失論という考え方がある。旧過失論は、過失を主観的な予見義務違反と解する。他方で、新過失論では、結果回避義務違反を過失とする。そして、新々過失論(危惧感説)では、何らかの危険が認められたのに回避しなかったことを過失とする。
旧過失論から新々過失論に行くにつれて、本来内心の問題であるはずの過失が客観的なものとして処理されている。そのため、このような議論の変遷を「過失の客観化」という。そして、過失が客観化されればされるほど、その効果として過失が認められやすくなる。例えば、工場で商品を生産しているとすると、原材料の化学反応によって何かしらの危険物質が排出されることが予想される。そして、実際に公害が発生したとすると場合、新々過失論では物を作る時点で危険が予測されたと評価され、過失が認められる可能性が高い。
民法判例に大阪アルカリ事件や梅毒輸血事件などがあるが、いずれも過失を内心の問題としては捉えていない。このような事例では過失の立証が困難であるゆえ、過失を客観的に判断して被害者を救済したものと思われ、そのことに問題はないと考える。しかし、過失を安易に認めるのは、犯罪の成立要件でいうところの違法性と有責性を混同することを意味する。したがって、犯罪の成立が認められやすくなることになり、結果的に人権侵害につながりかねない。ゆえに、新々過失論のような極端な考え方は相当でないと思われる。
ちなみに、そもそも過失を責任要件とすべきでないという考え方もある。重過失責任から結果責任までいくつかの類型があるが、先述の通りワクチンの問題は過失責任に該当する。しかし、実態として過失を緩く認定することで過失の要件を形骸化させているならば、そもそもワクチンの問題も過失責任とは別の類型で判断しても良いのではないかという見解もある。
例えば、民事訴訟法260条2項は大判昭和12年2月23日で、国賠法2条は高知落石訴訟でそれぞれ無過失責任とされている。そこで、過失を曖昧にして緩く判断するならば、ワクチンの問題も無過失責任として処理してもよいとも言えようか。しかしながら、国賠法1条を無過失責任とする場合、国賠法の射程(ワクチン禍のためだけの法律ではない!)も踏まえると、あまりにも賠償範囲が広がりすぎると考えられる。したがって、結局は過失責任の枠組みでみる方が妥当と思われる。
過失を認めやすくするものとして、過失の推定と監督過失といった法理も存在する。過失の推定とは、過失があったものと推定することをいう。有過失が前提とされるため、反証が無ければ過失があったことにされる。また、監督過失とは、監督義務者が監督を怠ったことを過失として評価することをいう。結果的に監督過失は認められなかったが、JR東海ボケ老人轢死事件において、JR側は認知症患者の家族に監督義務があったとし、それに基づく監督が不十分であったとして監督過失を主張していた。これをワクチン事故のケースに当てはめると、厚労省と現場(病院)との間の監督過失というものを想定することができよう。また、厚労省の組織的過失というものを認める考え方もある。これらはいずれも過失の立証を緩和するものであるから、行き過ぎた適用がされないようにしなければならない。
ちなみに、ドイツ民法では契約締結上の過失(culpa in contrahendo)という理論が用いられている。BGB823条が日本法でいう民法709条にあたるものの、あまり適用されていない。そこで、契約関係がなくても「契約締結上の過失」を認めて賠償させるという法理論が用いられている。ドイツ民法では不法行為責任をあまり認めない分、このような理論を用いて契約違反にこじつけることで問題を処理している。日本法では不法行為責任が認められやすいためこのような考え方は不要であるが、不法行為責任と契約責任では効果が異なる部分もあるため、制度の建てつけの問題として一考する余地はあるのではないかと指摘しておく。
3.因果関係論
損害賠償の請求をするためには、因果関係の立証が必要である。ここでは、因果関係に関する議論を整理していく。まず、因果関係論において最も重要なのが条件説と相当因果関係説の対立である。条件説とは、「あれなければこれなし」と言える場合に因果関係を肯定する理論である。他方で、相当因果関係説とは、条件関係に加えて相当性を要求する理論である。さらに、相当因果関係説には判断基準によって主観説(本人が知っているか)、折衷説(本人と通常人が分かるか)、客観説(完全に客観的要件とする、言うなれば神仏の目で見る)の三説に分かれる。
刑法の判例では条件説がベースとなっており、条件関係と行為者による危険な行為の現実化をもって因果関係を認めるとする考え方(危険の現実化説)をとっていると解される(老女布団むし、大阪南港、トランク追突死事件ほか)。他方で、ドイツ法では客観的帰属論という考え方が通説となっている。この考え方をとると、最終的には日本の刑法判例がとる危険の現実化説と似た結論になりやすい。だが、大前提として客観的帰属論では因果関係という考え方それ自体を否定しており、この点で危険の現実化説とは大きな差異がある。危険の現実化はあくまで因果関係論の範疇での議論であるが、客観的帰属論ではそもそも因果関係という概念を全く無視しており、革新的な理論だといえる。
とはいえ、刑法、民法共に学説では(民法では判例も)相当因果関係説をとる。相当因果関係説では、常識的な範囲内でのみ因果関係を認めるため、妥当な結論を導けるためである。条件説をとると、救急車事例(殴った相手が救急車で運ばれている間に事故に遭って死亡といった陳腐な教室事例)のような異常な場合でも因果関係が肯定されてしまう。そのため、通説は経験則や合理性を考慮すべきとしている。
一方で、既述の通り刑法判例においては条件説がベースとなっている。相当説は妥当な結論を導けるが、相当性という概念が曖昧であり、その点で不都合がある。刑事訴訟の場合は処罰の有無を決定するため、分かりやすく、機械的に判定できる基準で判断しなければならないというのが条件説をとる根拠とされている。しかし、あまりにも異常な経過をたどった場合にまで因果関係を認めるのは酷である。ゆえに、刑事事件においても、部分的に相当説の考え方を取り入れても良いと考える。この点、熊撃ち誤射事件や米兵ひき逃げ事件など、事実関係の評価の過程で、条件説を若干修正したとみられる判例は参考に値する。
それから、因果関係の中断と断絶の相違についても触れておく。因果関係の中断は条件関係のみある場合、因果関係の断絶は条件関係すらない場合をいう。因果関係の断絶の例として、人を殺そうとして毒薬を飲ませたが、毒薬の効き目が表れる前に被害者が自殺したような場合が該当する。この場合は相当性どころか条件関係すらない以上、致死についての責任は負わず、殺人未遂罪が成立するにすぎない。他方で、因果関係の中断は条件関係があるので、条件説をとると結果に対する責任を負うことになる。因果関係の中断はそれを認めるか認めないかという評価が入るため、条件説をとるか相当説をとるかによって結論が異なる。
民事法における因果関係は被害者側が立証しなければならない。ちなみに、刑事事件では原則検察官が因果関係を証明するが、例外として同時傷害の特例(刑法207条)などがある。それは置いておくとして、民事裁判ではしばしば被害者側が因果関係を立証することが困難な事態に直面する。薬害や公害などがその典型である。通常は自由心証主義(民訴247条)のため、原告は裁判官が納得するまで因果関係を証明する必要があるが、薬害などの場合において、専門的な知識を欠く市民が一般的に要求される程度の証明をすることは困難である。そこで、被害者側の証明責任を軽くする法理として疫学的因果関係や割合的因果関係などが用いられている。疫学的因果関係とは、疫学的、統計的に証明された因果関係を法的な因果関係として認めることをいう。また、ここでいう割合的因果関係とは、薬品等の市場占有率などから因果関係を肯定する理論をいう。東大病院ルンバールショック事件などの医療訴訟においても以上のような考え方がとられている。
ただし、被害者救済の大義のもと、因果関係の証明責任を事実上無くしてしまうような所まで緩めてしまうとそれは行き過ぎであり、衡平を欠くことになる。このような事例は民事上の紛争であるため、被害者救済の必要性など諸点を総合衡量し、ケースバイケースで着地点を見出していくことが望ましいと考えられる。
4.違法性をめぐる議論の諸相
犯罪の成立には構成要件該当性、違法性、有責性が必要である。その中で、正当防衛、緊急避難、被害者の同意はそれぞれ違法性を阻却ないし減少させる事由として考えられている。しかし、犯罪の本質を法益侵害とする結果無価値論と社会倫理違反とする行為無価値論では、違法性阻却事由の理解について見解の相違がある。
まず、正当防衛について検討する。正当防衛における見解の対立として、防衛の意思の必要性と対物防衛の成立の可否が争われている。まず、防衛の意思については、必要説と不要説が対立している。判例及び行為無価値の立場からは、防衛の意思必要説が主張されている。行為無価値的に考えると、防衛の意思がない行為はただの攻撃なので、それは社会倫理違反に該当するため、仮に客観的には正当防衛が成立しているような場合(偶然防衛)でも、正当防衛は成立しないと解する。他方で、結果無価値論からは客観を重視するため、防衛の意思を正当防衛の要件とはせず、よって偶然防衛を肯定している。判例は行為無価値をとるなどと述べているわけではないが、防衛の意思必要説をとりながら、予見性がある場合や攻撃の意思が併存している場合でも防衛の意思を認めつつ、防衛に名を借りた積極的加害意思がある場合に防衛の意思がなかったと評価している。すなわち防衛の意思を緩めに評価しているものと解されている。この点については、防衛の意思必要説の方が妥当と思われる。なぜなら、防衛の意思がない反撃行為はただの暴行であり、帰せずして正当防衛と評価されうる状況が惹起されたとしても、客観的に見て違法性を阻却すると解するのは妥当でないと考えられるためである。
それから、対物防衛(犬からの防衛等)についても対物防衛肯定説と否定説が対立している。これについては、犬の行為を不正と言えるかが正当防衛の成否における分水嶺となる。対物防衛否定説(行為無価値)は「不正」(=違法)を人の倫理違反行為に限定するので、犬の行為は「不正」に当たらない。そうだとすると、所有者または占有者(飼い主または飼い主から寄託を受け、ないし賃借等している者)の故意または過失による場合(犬をけしかけ、ないし管理の瑕疵など)を除いて、純然たる犬からの侵害は正当防衛の「不正」要件を満たさず、よって正当防衛は成立しないと解される。他方で、結果無価値は客観的な法益侵害があればそれで「不正」といえると考えるため、「不正」要件を満たし、正当防衛が成立すると解する。この点は結果無価値的な考え方(対物防衛肯定説)の方が妥当と思われる。犬によって侵害自体は発生しているのに緊急避難にしかならないとすると、襲ってきた犬の値段次第で刑の重さが変わる(緊急避難では害の均衡が要求されるため)ことになり、結論の妥当性に疑問が残るためである。
なお、行為無価値からも「不正」の定義を「違法」と捉えないことで、結論として犬の行為をも「不正の侵害」に該当するとみなし、正当防衛が成立すると解する見解もある。しかし、本稿で「不正」の解釈まで検討するのは過剰と思われるため、省略する。
また、誤想防衛の解釈についても争いがある。誤想防衛とは、侵害があると勘違いして防衛行為をしてしまった場合をいう。誤想防衛を故意犯と解するか、過失犯または無罪とするかについては学説の対立があるが、ここでは一般的な見解を簡単に触れる程度にする。結論として、誤想防衛については制限責任説が通説・判例の立場で、過失犯または無罪と解する。
制限責任説は構成要件的故意(防衛する、相手を攻撃する故意)があるのに故意犯でなくなるという論理矛盾があるが、有責性段階での「責任要素としての故意」が阻却されるため故意犯にならないという解釈をとる。これに対して、厳格責任説は誤想防衛を故意犯と解すが、少数説である。
それから、過剰防衛の場合は刑法36条2項により故意犯が成立する。そこで問題となるのは、誤想で、しかも過剰な防衛の場合である。英国騎士道事件では誤想過剰防衛として、故意犯になるか過失犯になるか争われた。誤想防衛は過失犯、過剰防衛は故意犯となるのが一般的な見解ゆえ、誤想過剰防衛はどちらが土台になるのかが争われたが、判例は結果的に故意犯が成立するとした。
英国騎士道事件は、行為者が女性は攻撃されているものと勘違い(誤想)し、さらに被害者に過剰な攻撃をした(過剰)事例である。これについて、加害者は女性を助けようとして攻撃したわけであり、善意で人を助けようとした人に重い故意犯を成立させるのは相当でないという見解(行為無価値的)と、客観的に法益侵害があったのだからその報いとして考えれば軽い過失犯では相当性を欠き、よって重い故意犯で処罰すべきだという見解(結果無価値的)が対立している。つまり、ここでも行為無価値的に考えるか、結果無価値的に考えるかによって判断が分かれる。
これに関連して、故意犯の成立に違法性の意識(違法なことだという行為者の認識)が必要かどうかについても見解の対立がある。判例は違法性の意識不要説をとっていると解される。この説によると、行為者がその行為を違法だと認識していなくても故意犯が成立すると考える。他方で、行為者がその行為を違法だと認識する可能性がなければ故意犯は成立しないとする制限故意説及び行為者がその行為を違法だと認識していなければ故意犯は成立しないとする厳格故意説も主張されている。
なお、既に述べた通り、判例は違法性の意識不要説をとってきているが、百円札模造事件において、違法性の意識の可能性に触れていることから、違法性の意識の可能性が必要という見解に傾きかけたのではないかとも言われている。
また、被害者の同意も違法性阻却ないし減少事由であるが、ここでも違法性減少の程度などで見解が対立している。この分野では、とりわけ安楽死が大きな争点となっている。違法性阻却事由を言い換えると、「侵害が許される人権」ということになる。そこで、本人の同意がある場合に、命を絶つことをも許しても良いのかという問題は、人の生命という人権の根幹をどう捉えるかの問題でもある。よって、違法性阻却事由と人権保障のための法解釈を考える上では哲学・宗教的な検討も必要である。
安楽死の類型として積極的(積極的類型)、間接的(対症療法的)、消極的安楽死(尊厳死的)がある。東海大学安楽死事件、山内名古屋安楽死事件では厳しい要件を設定しつつ、安楽死は違法性阻却事由になり得ると判断している。
安楽死の実施が問われているような段階では、患者は意思もはっきりしないケースが多いため、そのような場合に死にたいという意思表示があるからといって簡単に安楽死を肯定すると、安楽死の濫用も起こりかねない。それは究極の人権侵害を意味する。他方で、本人が死にたいと主張しているにもかかわらず安楽死を認めないとする場合、今度は医療行為を受けたくないという自己決定権を無視していることになるし、そもそも苦しみながら生かされ続けることになるため、逆にそれ自体が人権侵害だとも解釈できる。私の個人的な見解としては後者の方がむしろ人権侵害にあたると考える。したがって、安楽死を違法性阻却事由として考えてよいと思う。ただし、命の選択の是非や、行為無価値でいう「社会倫理」とは何なのかといった点が定かでないため、社会全体での議論が必要になるだろう。
以上が違法性の問題だが、結果無価値をとるか行為無価値をとるかで判断が分かれる部分が多い。私の見解を並べてみると、行為無価値的に考えている部分が多いものの、結果無価値的な結論を出したテーマもあった。よって、結論として結果無価値と行為無価値のどちらをとるかを決定するには至らなかった。
とはいえ、あらかじめ結果無価値と行為無価値のどちらをとるかを先に決めた上で個別の問題にあてはめていくよりも、個別の問題の結論をそれぞれ出していく方が妥当ではないかと考えている。そのため、このような曖昧な見解になってはいるが、それはそれでよいのではないかとも思っている。
5.ワクチン禍の法律問題
ここから、ワクチン禍の問題を検討する。新型コロナウイルスのワクチンによる事故はいずれ発生すると予想されるため、これまでの過失論や因果関係論を踏まえてこの問題を検討する。まず、予防接種禍と国家補償の谷間という問題が議論される。国家補償の谷間とは、違法で無過失の場合をいい、補償も賠償も手当されない範囲を指す。この場合、行為を合法と評価して補償の問題で解決するか、理由をつけて過失を認めることで賠償の問題とするか、大きく分けて2つのアプローチがある。
まず、補償の問題とするアプローチについて検討する。そもそも補償とは、憲法29条3項を根拠として、私人に対して公共のために特別の犠牲を強いた場合に、国が損失を補償することである(特別犠牲説・通説)。財産権は通常、物について用いられる概念であるが、生命身体への侵害も特別犠牲と言えるため、憲法29条3項を適用することができるとする見解がある(憲法29条3項適用肯定説・有力説)。東京地判昭和59年5月18日や大阪地判昭和62年9月30日がこの見解を採用している。
ただし、判例法としては適用否定説をとるものと解されている。つまり、損失補償請求の問題ではなく、賠償の問題として扱うということである。また、根本的な問題として、補償の場合は額が小さいことも指摘される。憲法29条3項のいう「正当な補償」の意義に関して、完全補償説(通説)と相当補償説(判例)が対立している。判例は相当補償説をとっているため、合理的な額で足りるとしており、結果的に額が小さいということになる。正当防衛や緊急避難でよく使われる表現をすると、補償は正対正で、すなわち国は正しいことをしているのだから、額が小さくても良いというのが相当補償説の根拠とされる。
確かに、完全補償説をとると憲法29条が使われる本来の場合(工事での収用等)まで完全賠償する必要が出てくるため、補償範囲が広がりすぎて問題である。そうであるならば、生命身体への特別犠牲の場合に限って完全補償説をとるといった法理を確立することが望ましいと考える。賠償の問題とする場合、過失をこじつけることによる人権侵害の恐れがある以上、補償で解決する方が適当だと思われる。その上で、補償でも完全補償説をとることで被害者救済を図るべきである。ただし、そのようにすると補償範囲が広がりすぎるとの批判があるため、生命身体への侵害があった場合に限定して完全補償をするといった場合分けをすればよいと思う。
他方で、賠償でアプローチする判例の立場も検討する。賠償は悪いことをしたので全て賠償して当然と考えられており、全額賠償が基本である。いわゆる正対不正なので、原状を元に戻すという考え方から、損失全額が賠償される。そのため、相当補償よりも額が大きく、被害者救済として十分に機能する。
しかしながら、既述の通り過失や因果関係を強引に認めることによる弊害が懸念される。そして、国としては賠償命令を阻止するべく、素因減責や信頼の原則を持ち出して対抗することになる。
素因減責とは、被害者の素因が損害の拡大をもたらした場合に賠償額から減額する理論をいう。割合的因果関係説や否定説もあり、英米法では個別の事情によって賠償額が変わるべきでないとの理由で素因減責が否定されている。しかし、日本においては過失相殺類推適用説が判例の立場であり、よって、過失相殺と同様に賠償額からの減額が認められている。それ自体は公平の観点から首肯されると思う。
ただし、問題はどのような場合に素因減責が認められるかである。被害者側の原因と言っても、例えば、被害者の基礎疾患、首長、高齢者、認知症、精神疾患があった等々様々な状況を想定できる。これについては判例も多種多様であり、首長の場合は疾患ではないので認めなかったり(最判平成8年10月29日)、特殊な心理的な要因がある場合に認めたり(最判昭和63年4月21日)しており、画一的な判断基準はないものと解される。
そして、素因減責と自殺の問題も例に漏れず見解の対立がある。最判平成5年9月9日では、交通事故が原因となって被害者が自殺した事例において、事故と自殺との相当因果関係を認めた上で素因減責を認めた。素因減責と自殺の問題では、そもそも事故と自殺に相当因果関係を認めるか認めないかという段階でまず争いがある。また、被害者の過失によって死亡結果が生じた貝採り事件でも、逸失利益の計算が必ずしも確立した論理でされているわけではない。この点については、素因減責はもちろんだが、そもそも結果との間の相当因果関係を認めるかというところから検討が必要である。
ただし、過失相殺、素因減責、逸失利益の算定といった問題は民事法の範囲での議論である以上、一貫した判断基準や理論理屈を定立する必要はないように思われる。事実関係を踏まえた上で、被害者救済や妥当性を重視しつつ、個別具体的に判断していくべきと考える。
信頼の原則とは、他人を信頼して自分は問題のある事柄に注意を向けなかったとしても、そのことをもって過失があるとはされないとする考え方をいう。信頼の原則的な考え方を読み込んだとされる条文として、金融商品取引法21条2項3号が挙げられる。金商法21条は、虚偽記載のある有価証券報告書を元に、投資家に対して投資の勧誘等をして当該株式等を取得させ、投資家が損害を被った場合に、役員や金融商品取引業者が賠償する責任を負うと定めた規定である。そして、同条2項3号は、金融商品取引業者等が財務計算書類以外の部分で無過失を立証した場合に賠償責任を負わないとしている。この条文のポイントは、財務計算書類「以外の部分」としているところにある。逆に言うと、財務計算書類の部分に関しては過失があっても賠償責任を負わないということを意味する。
財務計算書類は、公認会計士や監査法人が作成している。これらを見るためには、専門的な知識が必要となる。したがって、仮に金融商品取引業者等が公認会計士等を信頼し、虚偽記載があることに気づかずにまんまと投資家に勧誘をしても、金融商品取引業者等はその責任を負わないことになる。この条文には信頼の原則的な考え方が含まれているものと考えられる。
他方で、刑法の判例では北大電気メス事件という事例がある。この事件で最高裁は、看護師の電気メスの接続ミスを執刀医が見落としたとしても、電気メスの接続は看護師の仕事の範疇だから執刀医は責任を負わないと判示した。
コロナ関連で結果回避義務と信頼の原則を検討する場合、厚労省と製薬会社、厚労省と医師などで考えられる。しかし、そもそも信頼の原則を認めないとする解釈も当然できる。これについて、一元的に厚労省から医師への信頼に過失を認めないと解することは妥当でないが、反対に多くの場合で信頼の原則を認めて厚労省の結果回避義務違反を認めないとすることもまた不適切である。したがって、この点についても事故の事実関係を踏まえ、ケースバイケースで判断していくことが望ましい。
6.店に休業させる場合の法律構成
キャバクラ店等を休業させたい場合に、行政がその店に対して何らかの要請ないし指示を出すことになるのは言うまでもない。問題は、その要請ないし指示の法的性質や強制力、合憲性といった点にある。
店に休業させたい場合の行政側からのアプローチとして、通常は行政指導、命令などが行われる。新型コロナによる休業要請は、行政指導に該当する。行政指導に行政作用法の根拠は要しないが、強制力もない。そして、要請に従わないことをもって行政側から制裁を加えることも許されない(行政手続法32条2項)。実例として、武蔵野市マンション訴訟では、行政指導に従わないマンションの水道契約を拒否するという市の嫌がらせを違法と判断した。したがって、休業要請に従わないパチンコ店の店名公表についても、「制裁目的」では許されないため、「単なる事実の公表」という建前にする必要がある。
以上より、休業させることが必要と考える場合、行政指導では不十分ということが分かる。ところで、行政法では、侵害留保原則という考え方があり、法律の根拠がある限り国民の権利を害するような命令をしても良いとされている。つまり、新型コロナ特措法という法律で仮に「休業命令を出せる」と規定したら、休業命令を出せることを意味する。そして命令という行政行為(Verwaltungsakt)には拘束力があるため、強制的に店を休業させることができる。さらに、行政行為を下命、禁止、許可、特許、認可、確認といった講学上の分類に当てはめて検討することもできるが、行政法学の抽象論に拘泥したところで実益に乏しいため、この辺りでやめておく。
抽象論はさておき、問題となるのは根拠法(ここでは特措法)の憲法適合性である。侵害留保とはいえ、経済的自由を不当に制限する法律は憲法違反となる。違憲審査をする場合、精神的自由と経済的自由では前者をより厳しく審査する二重の基準論が通説とされる。休業命令によって営業の自由や職業選択の自由(憲法22条1項)などが侵害されることになるが、両者は経済的自由に該当する。ゆえに、精神的自由よりも緩やかに違憲審査されるが、規制目的二分論という考え方があり、その中でも違憲審査の厳しさに違いがある。
規制目的二分論では、国民の安全を守るための規制(消極目的規制)と経済の調和を目的とする(積極目的規制)に分類する。消極目的規制では厳格な合理性の基準、積極目的規制では明白の原則で違憲審査する。なお、厳格な合理性の基準とLRAの基準はほぼ同義と考えても良い。両者の違いを細かな理論を持ち出して区別する学者もいるが、実益はない。
今般予想される休業命令は、公衆衛生が目的となるため消極目的規制に該当する。よって、厳格な合理性の基準が適用されるため、やや厳格な審査がされることになろう。その場合、休業命令等を定めた特措法が違憲となる可能性も考えられる。すると、特措法は無効になるため、休業させられなくなる。
そこで最後の手段として使われるのが国家緊急権である。国家緊急権とは、「平時の統治機構をもっては対処できない非常事態において、国家の存立を維持するために、国家権力が、立憲的な憲法秩序を一時停止して非常措置をとる権限」(芦部376頁)をいう。簡単に言えば、超憲法的に人権侵害をできるようになる権限といってしまってもよい。国家緊急権と経済的自由は言うまでもなく両立できないため、国家緊急権を発動する際は職業選択の自由がほぼ無視されることになろう。
ただし、国家緊急権は憲法に明文の規定がない。そのため、それを憲法の中から解釈で読み込めるのかが争いとなっている。しかし、国家緊急権は安易に認めるべきでない。むしろ、緊急事態にこそ適正手続きに基づく立法や行政が行われる必要がある。むろん、戦争が発生しているような場合は別だが、少なくとも、風邪のウイルスが流行している程度で国家緊急権を認めるのは、国家緊急権の濫用につながりかねず、危険である。
ちなみに、超憲法的権利として抵抗権が挙げられるが、これは国民の側からの権利であるため、性質を異にする。
7.まとめとコロナ後の社会を見据えた立法論
ここまで、感染症から直接的に生じる法律問題を検討してきた。最後に、コロナ後の社会を見据え、法律がどうあるべきか、立法論を検討する。
現代社会は情報革命の途上にあると位置づけられる。このような状況下で今般の新型コロナウイルスの流行が起こったとされるが、この事象が社会に与える影響はかなり大きいと推測されている。私のイメージとしては、情報革命が少しずつ進展していたが、新型コロナという大波が押し寄せてきたことで加速度的に情報革命が進んでいくと考える。それに伴って社会も大きく変化していくと予想されるが、そのような社会の変化を受け、法律としてはどうあるべきかを熟考する必要がある。
具体的な社会の変化として、二通りあると考える。一つはA.個人が各々ビジネスして競い合う社会、もう一つは、全くの個人でなくとも、B.疑似家族的な小さな集団の中で協調しあいながら生きていくような社会である。AとBの細かな比較は末尾の参考別表に委ね、法律的な部分のみに触れることにする。いずれにしても中間団体(企業や法人)が無力化していくことが想定されるが、そうなったときに、裸の個人が競争し合う社会になるのか、疑似家族的なものが残り、その中で協調し合う社会になるのか、大きな岐路に立つものと思われる。
Aの社会では、個人主義的な傾向が強まると考えられる。そのような社会では、犯罪は結果次第(結果無価値)、民事法では取引安全重視になると考えられる。他方でBの社会では、疑似家族的な集団の中で協調し合うことが前提となるため、犯罪は倫理に反する行為とされ(行為無価値)、民事法では本来権利者保護を重視するような法制度になると思われる。
このことを前提とすると、私は疑似家族内での協調を重視する社会の方が望ましいと考える。個人主義、効率重視では弱者が守られず、全て自己責任と言われるような無味乾燥とした社会になると推測する。したがって、コロナ後の社会を見据えた立法論を展開するにあたっては、疑似家族的な小さな集団内で協調し合う社会を理想とし、そのような社会を実現させられるような法制度を考察していくべきである。
*参考文献
・山口厚『刑法(第3版)』有斐閣、2015年
・芦部信喜=高橋和之『憲法(第6版)』岩波書店、2015年
・大橋洋一『社会とつながる行政法入門』有斐閣、2017年
・藤岡康宏ほか『民法W−債権各論(第3版補訂)』有斐閣、2009年
*別表:コロナ後の社会の分析
|
A.完全な個人主義の社会 |
B.疑似家族的な小さな集団内で協調し合う |
a.社会のあり方 |
自由主義、個人主義、自己責任 |
協調主義 |
b.哲学的分析 |
パレート的 |
ロールズ的 |
正義観念 |
good、功利主義的 |
right、社会契約論的 |
c.経済学的分析 |
新古典派経済学と調和的 |
MMT、ポストケインズ主義的 |
刑事法のあり方 |
結果無価値的 |
行為無価値的 |
d.民事法のあり方 |
取引安全、経済重視 |
本来の権利者、弱者保護に傾倒。 |
e.制限行為能力制度 |
代理権基軸的 |
同意権基軸的 |
f.物権変動の解釈 |
ゲルマン法的 |
ローマ法的 |
財政政策 |
財政均衡主義、消極・緊縮財政 |
機能的財政論、積極財政 |
貿易政策 |
自由化 |
消極的、自国産業を守る |
移民政策 |
移民受け入れ推進 |
移民受け入れ反対 |
国境概念、国家論 |
国境撤廃、グローバリズム |
保護主義的 |
貨幣論 |
商品貨幣論 |
信用貨幣論 |
g.問題点 |
格差拡大、過当競争 |
非効率、イノベーションが起きづらい |
→マトリクスの解説
a.A社会では個人が自由な競争をすることを重視する。B社会では疑似家族内での協調を重視。
b.A社会では市場に放任するため、効率的、合理的になる。その結果、社会全体のパイが大きくなる。
他方で、B社会では弱者を救う反面、非効率、非合理的な側面も多くなる。
c.A社会では裸の個人がそれぞれ自由に競い合うことになり、政府はそれに干渉しない。
他方で、B社会では各集団がある程度の生活を維持できるようにするため、政府が積極的に役割を果たす。
d.A社会では効率を重視するため、民事法では取引安全を重視する。例えば、民法193条(盗難品の例外)などは取引経済のため廃止するなどが考えられる。他方でB社会では本来権利者の保護を重視するため、詐欺や錯誤取消の拡張などが考えられる。
e.A社会では効率を重視するため、アホな人間には取引させず、法律行為は代理人が全てする。
B社会では、疑似家族内が自己実現を手助けするため、できるだけ本人に法律行為をさせる。利益相反も疑似家族内では緩くみる。
f.A社会では自分が相手を信頼したのであれば、例えば物を貸した相手が勝手に第三者に売却したとしても、第三者には対抗できないとする。動産物権変動で善意無過失の第三者が即時取得するゲルマン法的な考え方を採用する。他方でB社会では本来権利者の保護を重視するため、無から有は生じないというローマ法的な観点から物権法を理解する。即時取得には否定的。
g.A社会では市場に任せて裸の個人が競争し合うことが望ましいと考え、小さな政府を目指す。すると必然的に国境もない、国家もない中で個人が激しく競争していくことになる。その結果、「人を見たらライバルと思う」ような個人主義の社会になると思われる。この場合、優秀な個人は富む一方で、そうでない人は過当競争の中で困窮することになる。すなわち、格差が拡大していく。さらに、政府は自由化、規制撤廃、民営化でその役割を放棄して全て個人の自己責任とするため、社会保障の制度も形骸化する。新古典派経済学は政府の役割が拡大していくことを嫌うため、弱者保護のための生活保障も実施されない。
他方で、B社会では困窮した弱者を疑似家族が支えることを前提とする。しかし、現実として疑似家族内の相互扶助にも限界がある以上、全ての集団が内々で扶け合いながら共存していけるようにするためには、政府が国債発行によって小さな集団(疑似家族)を支援したり、仕事を提供することが必要になろう。MMTが主張する雇用賃金保障プログラムが後者の典型例である。しかしながら、政府の役割が拡大していくことは、社会全体の効率性という観点から見ると好ましくない。無力化した中間団体の代わりを公営セクターが担うとすると、結局非効率的な公営事業が蔓延することになる。財政赤字(=民間黒字、ここでは疑似家族黒字といえる?)が拡大すること自体は問題でないとしても、非効率な公営事業はイノベーションを遅らせ、ひいては日本全体の経済発展をも阻害することが懸念される。
⇒いずれにしても、このようにして理想的な社会のあり方を論考しつつ、そのような社会を形作るために
必要となる法制度や法解釈を思索していくことが「法学と感染症」の本質である。
上野貴史
先日中江先生のメールからレポートの合格メールが来たのですがメールのエラーなど
があり不安だったので確認のため送ります。よろしくお願いします。
「法学と感染症」
17j110014
上野貴史
キーワード/COVID-19(CoronavirusDisease2019)・国家緊急権と経済的自由・違法性阻却事由と人権保障・予防接種禍と国家補償の谷間・素因減責と自殺・結果回避義務と信頼の原則・証明責任・過失の推定と監督過失・因果関係の関係と中断と断絶・客観的帰属論
結論→法律の整備や感染症対策として事前対応型にすべき。
(理由)
今回のテーマである「法学と感染症」について、私は、今回のCOVID-19の対策もそうだが、もしこれからも新しい感染症が発生した時に感染症が発生してから防疫措置を講ずるといふ事後対応策型ではなく。平常時から感染症の発生・拡大の防止につなげる措置を講じること人権保障に配慮した入院手続きの整備等の改正などするべき事前対応型に転換させるべきである。また、COVID-19のように世界全体に影響を与え経済や人々の生活や人権などを狂わす新たなウイルスが出るかもしれないため常に防疫の準備すること、法改正をすること、常に予見し続けることそして、それを守るための保障のお金を貯めることが大切であると思いました。
・COVID-19について・
COVID-19は、中国の湖北省武漢市の武漢華南海鮮卸売場市場で原因不明の肺炎クラスター(小規模の集団感染)が発生したことが当局によって報告された。最初の患者群は主に海鮮卸売市場との関連がみられたためウイルスは動物原性感染したものと考えた。この感染を引き起こしたウイルスはコウモリコロナウイルス、センザンコウコロナウイルス、およびSARSコロナウイルスとの密接な関連のある新しいウイルスとして初めて同定された。特徴は、今までのSARS・MERS等と同等かと思いきや過去にない潜伏性の高さから、人類の経済活動を利用して急速に感染を拡大させ2020年1月30日に世界保健機関WHOが6回目となる「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態(PHEIC)を宣言しました。2月28日にはこの疾患が世界規模で流行する危険性について最高レベルの「非常に高い」となった。テドロス・アダノムWHO事務局長はWHOの基準を逸脱してパンデミック相当との認識を表明しました。また、全世界が感染症の危険に陥りロックダウンや入国制限、オリンピック延期など、人類が過去に経験したことがない事態となった。パンデミックを収束させるために実施されたロックダウンなど各種政策において、反グローバルリズム、反民主主義的な措置も一部必要となり、世界の体制に大きな変化をもたらしました。経済的にも打撃が大きく、国際通貨基金(IMF)は、2020年の世界GDP成長率がー3,0%になるとの予測を公表しました。この負の成長率は2008年のリーマン・ショック時のー0,1%を遥かに超える値で1929年の世界恐慌(当時の世界恐慌の-15,0%の世界GDP成長率)以来の大恐慌となり各界でコロナ・ショックともなった。
・予防接種禍と国家補償の谷間、結果回避義務と信頼の原則、過失の推定と監督過失、証明責任について・
予防接種禍と国家補償の谷間について、判例を用いて説明する。似たような判例として、薬害エイズ事件がある。内容は、ヒト免疫不全ウイルス「HIV」に感染したと推定される外国の提供者からの血液を原料として、製造した血液凝固製剤を、ウイルスの不活性化を行わないで、流出させ、治療に使用した。この事件の後に、ウイルスを加熱処理で不活性化した加熱製剤が登場したが、当時日本の医療では、エイズの病原体も特定しておらず、検査方法も確立されていなくて、潜伏期間も長かったため、血液製剤による感染リスクがどの程度あるのかについて、の医学的知見は直ちに確定しなかったし、非加熱製剤が登場していたため、HIVに感染された血液製剤が流れて、エイズを発症させた事件。民事裁判では、1989年5月に大阪、10月に東京で後述の製薬会社と非加熱製剤を承認した厚生省に対して損害賠償を求めたことについて、4500万円の一時金支給を柱とする第一次和解策案を提示したが、厚生省は救済責任を認めるが、加害責任を否定した。1996年2月9日に、厚生大臣菅直人は、通称郡司ファイルが1月26日に発見され2月16日に原告団に謝罪した。刑事裁判では、1996年8月から10月に帝京大学医学部付属病院第一内科の責任者の安倍さん、ミドリ十字社の代表取締役だった松下、須山、川野、厚生省官僚だった、松村が業務上過失致死容疑で逮捕・起訴された。1985年に帝京大学病院で非加熱血液製剤を投与された血友病患者がHIV感染で死亡したルートを帝京大学ルート、1986年に大阪府の病院で旧ミドリ十字の非加熱血液製剤を投与した肝障害患者が死亡した事件は、ミドリ十字ルートとした。また、安倍さんの容疑は、自らが担当した患者にHIVに感染された非加熱製剤を流出させ投与して死亡させたことであり、HIV感染させた非加熱製剤を流通させたことではないとされた。この裁判で、2000年にミドリ十字の3人の被告人に実刑判決、2001年には、安倍さんは、無罪判決となった。このことについて、私は、安倍さんも無罪ではなく罪にするべきだと私は思う。なぜなら、当時日本では、非加熱製剤での投与しか知らなくおこなっていた唯一の国であったが、世界では、この非加熱製剤が危ないことが判明しているのになぜ国などが調べなかったのか疑問に思ったのと、安倍さんは、当時は、血液関係のスペシャリストの専門家でトップに立っていた人なので、やはり世界の血液とかに関する資料や論文などを数多く見てきていると思うので、それで知らなくて投与を判断したと思うと私は、おかしい話だと思うので、罪にすべきだと思います。
このような事から、今回のCOVID-19のもとにいくつか説明していく。
1つ目に、Aの取締役代理人からBの会社の本人からCの第3者に賠償を受ける件について民法と会社法で違いを見てみる。
|
代理人の主観要件 |
賠償を受ける第3者の要件 |
証明責任 |
賠償 |
民法 |
過失責任 |
善意無過失 |
本人側 |
相当因果関係 |
会社法 |
無過失責任 |
善意有過失 |
本人側 |
取締りの利益 |
このようになる。
また、無過失から有過失までの範囲で合法だった場合憲法29条財産権をもとに休業要請がとれる。もし違法で有過失の範囲だった場合は、賠償責任になり憲法17条国及び公共団体の賠償責任となる。その他に民法709条不法行為による賠償責任、同法715条使用者等の責任も関わってくる。2項の監督過失について、監督過失とは、直接行為者が過失を犯さないように監督する注意義務に違反する過失の事です。そして、管理過失とは、管理者等による物的設備、人的体制などの管理不備それ自体を過失として、問うものである。一般的に監督過失が問われるのは、デパートやホテル、病院などの大規模火災などの自然現象などから起こるものである。また、過失の推定とは、反証がない限り過失があったものと判断することである。例えば、一般に不法行為に基づく損害賠償請求権は、侵害者が故意あるいは過失によって、侵害行為を行った場合に認められるなどである。
2つ目に、厚生労働省から医師にCOVID-19のワクチンを認可させ国民に使用した時、もし後遺症が残った場合とコロナ後の社会の変化について、先ほどの予防接種禍と国家補償の谷間で説明した薬害エイズ事件をもとに説明する。まず過失について、過失とは、刑法の過失、民法の過失、行政法の過失とパターンがあり、一定の結果の発生を認識すべきであったのにもかかわらず、不注意にこれを認識しないこと、一定の結果の発生を防止すべきであったのにもかかわらず、不注意にもこれを防止しなかったことであり法律上、過失は法的不利益を課すための要件として機能するため、しっかり注意義務違反「結果予見義務+結果回避義務」を自分の中で、あやまってやる、しくじってやるよりもどこまで注意を予測し考え責任を持つことが大切であると私は思う。結果予見義務は円の外側にあり、結果回避義務は、内側にあると考えられている。特に先ほどの判例でだした薬害エイズ事件では、結果回避義務があったとは言えない。次に過失の客観化について、旧過失論と新過失論、新々過失論がある。自分の能力いっぱいにやってもできない場合は、過失なし、そして、新過失論の登場によりいっぱい頑張っても基準行為に達せずに事故が発生すれば過失ありと交通事故の急増に対応して処罰範囲を縮小し過失を基準行為からの逸脱と定義して、従来の考え方、いっぱい頑張ってその人なりに注意を払っていれば過失なしとする旧過失論があり大乗仏教とかと同じである。功利主義の過失の分析として、民法の過失、国賠法の過失や被害者救済の増大がある。過失の客観化「善意注意義務」自分の能力いっぱいにやってもできない人は、本来なら責任を問われてないはずだが、この場合も過失ありとする。この場合の判断時として、無罪判決を得た場合でも逮捕時に状況を見て、問題がなければ過失なしとする。国会議員や裁判官も過失ありとする。しかし、学会から批判さ れている。
次に新過失論とは、従来の故意と並ぶ責任要素とされてきた過失を違法要素、さらには構成要件要素でもあるとして、違法要素としての過失の客観的予見義務の違反である。結果回避義務を重視し、必要かつ適切な行動をとらなかった過失の考えである。次に信頼の原則について、被害者又は第3者が不適切な行動にできないことを信頼するに足りる事情がある場合には、それを前提として、適切な行為をすれば足り、その信頼が裏切られた結果として法益侵害が発生したとしても、過失責任を問われることはないとする原則。
・因果関係の中断と断絶、素因減責と自殺、証明責任、客観的帰属論について・
まず考え方として、厚生省Aが新型コロナウイルスのワクチンを認可しBがワクチンを受けた。その後後遺症が起こり1、3ヶ月後に水泳で死亡。2、3か月後自殺した時と考える。
素因減責と自殺に関して、素因減責は、素因はある結果を生ずるもの→なんかしらの原因。減責はそのまんま厳しく責めること。さっきの例題を利用するとBさんが新型コロナウイルスワクチン接種後「後遺症」が残ってしまった時、1で考えた水泳中に死亡2、自殺場合1は事故の過失行為「過失(誤って)死に向かっていった。」2は、自己の故意行為「故意(わざと)死に向かっていった。」自殺の場合だと素因→自殺に至る原因。これに関しては、後遺症のせいなのかそれともなにか別の原因があるのか分かれる。私が思うに後遺症のせいではない。減責→故意だから責任がある。次に因果関係から次の図で表す。
|
|
事実的因果関係 |
But for Test |
相当因果関係 |
経験則+合理則→損害賠償の範囲 |
|
事実的因果関係 |
相当因果関係 |
因果関係の中断 |
〇 |
× |
因果関係の断絶 |
× |
× |
因果関係の中断とは、因果関係の進行中に自然的事実または自由かつ故意に基づく他人の行為が介入したときは,それによって,因果関係が中断されるとする立場です。
因果関係の断絶とは、[定義]
条件関係(因果関係)の断絶とは、同一の結果に向けられた先行条件がその効果を発揮する以前に、それと無関係な後行条件によって結果が発生した場合である。
[効果]
先行条件となった行為とは別の行為(後行条件)によって結果が発生した場合には、先行条件がなくとも結果が発生した場合であるから、先行条件と結果との間に条件関係は認められない。
次に相当性の判断について、1、論理→無過失責任と2、結果の妥当性→結果責任がある。
また、証明責任について、裁判をするにあたり裁判所または裁判官がある事実の有無につき革新を抱けない場合にその事実の有無を前提とする法律効果の被ることである。今回の場合、過失の推定と組織的過失に分かれる。
次に客観的帰属論とは、惹起された結果は、行為者の行為が行為の客体に危険を創出し、その危険が具体的な結果に実現した(危険実現)という場合にのみ、行為に帰属されるという理論である。
条件関係の公式を基礎としつつ、条件関係論では因果関係の有無を明らかにできないところから、条件関係を一定の範囲で限定するためのものである。
・国家緊急権と経済的自由、違法性阻却事由と人権保障・
国家緊急権と経済的自由の観点から説明すると、国家緊急権とは、戦争や災害など国家の平和と独立を脅かす緊急事態に際して、政府が平常の統治秩序では対応できないと判断した際に、憲法秩序を一時停止し、一部の機関に大幅な権限を与えたり、人権保護規定を停止したりするなどの非常措置をとることによって秩序の回復を図る権限のことをいう。当該権限の根拠となる法令の規定を緊急事態条項という。経済的自由とは、基本的人権における自由権の一つ。人の経済的な活動を人権として保障するのが目的である。これは、自立した個人であるためには、経済的な活動基盤を獲得することが前提であるので、それに対する国家や権力からの干渉(農奴制など)を制約する必要があるためのことです。
2つの例題をもとにすると、まずぼけ老人Aが末期がんを持っており人工呼吸器をつけている。しかし、Aは自分が死ぬことが分かっているので成年後見人Cに命令をして、コロナ患者Bに人口呼吸器をつけてやれと言いました。次に床屋Eが新型コロナウイルスの影響により国Fから休業命令やソーシャルディスタンスのためにお客様の数を制限するために台を1台ずつ開けた時どうなるのか2つに関して表す。
被害者の同意
犯罪不成立→財産犯、住居侵入、強姦
罪が軽くなる→同意殺人
変化しない→国家法益、社会的法益
後見と保佐と補助の観点から代理権の範囲が自分で決定できるのか弱者が自分で決定できるのか範囲が別れる。
そして、憲法保障の観点から、1国家緊急権→コロナ特措法(営業の自由・憲法22条・、財産権・憲法29条・)、2抵抗権3法令害責がある。
また、結果無価値、行為無価値の観点から図で表すとこうなる。
|
本質 |
未遂犯 |
不能犯 |
被害者の同意 |
死刑 |
保安処分 |
処罰対象 |
結果無 |
本益侵害 |
軽い |
客観的 |
重く |
認める |
二元主義 |
犯罪 |
行為無 |
社会倫理 |
重く |
具体的 |
軽い |
認めない |
一元主義 |
犯罪者 |
次に違法性阻却事由と人権保障について、違法性阻却事由とは、「違法性」の意味:ある行為が法秩序に反する事「阻却」の意味:しりぞける事、さまたげる事「事由」の意味:法律で、理由または原因となっている事実や行為である。通常は法律上違法とされる行為について、その違法性を否定する事由をいう。日本では、民法上のものと刑法上のものがある。
刑法→第36、37条
民法→第720条
の2つを用いる。
考え方として、コロナの情報を盗むまれないように、中国の成都とアメリカのヒューストンで正当防衛ができるのか、Aの飼い犬Bと散歩している時CがAに話しかけたがAが無視した為Cが怒り狂いDの家の民家に入りDの飼っているどうもうな犬Dをはなした。その時Dの犬がBの犬に襲い掛かった時にAがBの犬を守るために杖でつついた。その時にDの犬の目をつぶしてしまった。この場合どうなるかまず図で説明する。
違法性阻却事由 |
必要性 |
相当性 |
正当防衛 |
急迫不正の侵害 |
予期していた場合、加害の意識がある場合。「防衛の意思」正 VS. 不正 |
緊急避難 |
現在の危難 |
法益均衡、補充性、厳←正 VS. 正 |
被害者の同意 |
不治、激痛 |
医師による判断 |
また、結果無価値と行為無価値の観点から図で表す。
|
安楽死 |
防衛の意思 |
誤想防衛 |
結果無価値 |
否定的 |
不要 |
過失犯 |
行為無価値 |
肯定的 |
必要 |
故意犯(故意か阻却か) |
人と物の間では、民法に関して損害賠償→物も正当防衛になる
刑法では、違法性阻却事由
今回のテーマである「法学と感染症」のレポートを書いてみて、正直難しかったです。ですが、私は、COVID-19の影響力により日本の法律でもなかなか保障されることが難しい事、まだまだ改善していかないといけない事がわかりました。中江先生が話したように未知のウイルスである黒船がきて日本の経済の作り上げてきた形や人権の保障、予防接種など今まで築き上げてきたものが全部崩され崩壊寸前に陥る影響力があったと感じました。特に経済に関して、自営業や航空業界小売業界などお客様がきて利益があがる業界や幅広い業界に大打撃を与え国や都道府県が保障手当を出しても足りなくなり底をついてしまう状況に陥っています。私が思うにこれからはCOVID-19に寄り添った生活スタイルや経済的活動などをするべきである。次にCOVID-19以外の新たなウイルスが発見され今後流行してしまう時に、その国々でいつでも対策できるように人権の保障の整備や経済の危機管理など事前に対策をする事前対応型に変えるべきである。そして、今後ワクチンを開発している国が増えているが私が思うに1番最初にできた国が経済の成長や有利に立つことができると思います。しかし、そうなってしまと先進国などが買い占めてしまうおそれがあり発展途上国に回らなくなり経済的格差が生まれてしまうのでお互いが協力し合うことが大切である。これからも、目まぐるしく状況が変わると思うので日々のニュースや新聞などの情報や中江先生の授業などでしっかり学んでいきたいです。残り、学生生活が後期分しかないので悔いが残らずようにしっかり中江先生の授業についていけるように後期も気を引きしめて頑張りたいと思いますので、卒業までご指導のほどよろしくお願いいたします。後期からは、就活も終わっているので毎週授業に出られるのでよろしくお願いします。
参考文献
中江ゼミ授業
まとめノート
山口厚 「刑法」
Wikipedia
リラックス法学
ポケット六法
刑法判例百選
刑法判例「総論、各論」50
日本評論社
刑法レジュメ
不法行為法レジュメ
不法行為 吉村良一
保田敬太
法学と感染症
17J110024
保田敬太
<キーワード>
COVID−2019(Coronavirus2019)、国家緊急権と経済的自由、違法性阻却事由と人権保障、予防接種禍と国家補償の谷間、素因減責と自殺、結果回避義務と信頼の原則、証明責任、過失の推定と監督過失、因果関係の中断と断絶、客観的帰属論
結論
日本がCOVID−2019(Coronavirus2019)を食い止めるためには国家権力を用いてロックダウンが出来る法整備を一刻も早く行うべきである。
2.国家緊急権とは
国家緊急権とは、戦争や災害など国家の平和と独立を脅かす緊急事態に際して、政府が平常の統治秩序では対応できないと判断した際に、憲法秩序を一時停止し、一部の機関に大幅な権限を与えたり、人権保護規定を停止したりするなどの非常措置をとることによって秩序の回復を図る権限のことをいい、現在、日本国憲法ではこの国家緊急権に関する規定はないとされている。しかし、国家緊急権にもいくつかの学説がある。一つ目は国家緊急権を認めていないとする否定説、二つ目は国家緊急権を認めている容認説、三つ目は緊急権規定がないのは憲法の欠陥であるとみる欠缺説、そして最後の4つ目は緊急権規定の不在を積極的に評価する否認説の4つの学説がある。筆者はここで国家緊急権のどこが問題なのかを考えてみた。一つ目の問題点としては、国家緊急権を行使することそのものが国民に対する人権侵害にあたってしまうということと、二つ目の問題点は、国民の仕事などを制限してしまうことで経済的自由を侵害してしまうという点である。このことから国家緊急権と経済的自由、さらには憲法の三つには密接な関係があるということが分かった。
2.世界と比較した日本の安楽死問題
安楽死問題は世界各国で見解が違う問題である。日本では自殺関与・同意殺人罪(刑法202条)という法律があるため原則として安楽死が認められていない。判例としては東海大学安楽死事件という事件がある。事件内容としては病院に入院していた末期がん症状の患者に塩化カリウムを投与して、患者を死に至らしめたとして担当の内科医であった大学助手が殺人罪に問われた刑事事件である。日本において裁判で医師による安楽死の正当性が問われた、現在までで唯一の事件である。判決は患者がこん睡状態であったという点と耐えがたいほどの肉体的苦痛がなかったという点から安楽死の構成要件に該当しないとして同意殺人罪が成立するとして有罪判決となった。しかしこれでは、患者やその家族の意思決定に対する尊重がないという点が憲法13条違反になるのではないかと考えた。これを踏まえたうえで今後の日本医療は安楽死を医療行為と認めることによって、違法性阻却事由と人権保障を大切にしていくべきであると感じた。この安楽死制度に関して、日本は先進国に後れをとっている。オランダやカナダ、ベルギーなどでは安楽死に関する法整備が整えられて
いてどういった状況で安楽死の選択ができるかが明確になっているので安楽死を選択する側と、安楽死を施術する医師の両者がわかりやすくなっている。このような点は日本医療も見習うべきである。
3.予防接種の歴史
予防接種とは、病気に対する免疫をつけるためにワクチンを接種すること。接種により病原体の感染による発病、障害、死亡を防いだり和らげたりすることができる。さらに伝染病の抑止に最も簡便かつ効果的で、コストパフォーマンスの高い予防医学である。しかしその反面、予防接種が原因でその病になってしまうことがある。日本でもこれが原因で損失補償を負わされたことがある。そもそも損失補償と国家賠償の違いとしては、その行為が合法行為であれば補償になり、違法であれば賠償になる。さらに細かいところでは過失があるかないかによって賠償額がかわってくる。ここで問題になってくるのが違法であるが無過失な行為である。その代表例が、予防接種禍事件である。判例として小樽種痘予防接種禍事件というものがある。まさにこの事件は、予防接種禍と国家補償の谷間である。小樽保健所において行われた集団種痘接種において、当時ゼロ歳の原告が種痘後9日目に突然高熱を発し、12日目から両下肢の不全麻痺を含む脊髄炎の症状を呈するなどの神経合併症を起こし、重篤な後遺障害が残ったという事案において、種痘と副反応との因果関係については一審同様認めたが、そもそも原告の当時の健康状態が禁忌者に該当するとはいえないとし、接種を回避すべき義務がなかったとし、結局予診の不十分と後遺障害との因果関係はないと判示した。さらに損失補償請求については民事訴訟に追加的に併合することはできないとして却下し、損害賠償を全部棄却した事例である。この問題の重要な考え方として、医師の事前診断において禁忌者を発見できなかった過失を問うのではなく、医師側に過失が存在していないという証明責任を負わせる判決である。そして、強制予防接種は、国からの指令で医師が行っているので、予防接種禍事件は厚生労働省の監督過失になるのではないかと思われるが、そもそも厚生労働省は過失の推定をすることが出来ないので、過失の推定と監督過失を厚生労働省の責任にするのは難しい。さらにこのような場合、結果を回避することは不可能であり医者はしっかり問診などをして予防接種を打つということを信頼できるので、結果回避義務と信頼の原則のうち、信頼の原則を用いるのが妥当である。このような背景があったことから今日の日本では予防接種は強制接種ではなく、任意接種という形になっている。その結果、子宮頸がんワクチンを接種しない人が増え、現在若い女性の子宮頸がん発症率があがってしまっているのも事実である。このことから予防接種を強制接種することで少ない犠牲者を補償するか、任意接種で補償はしなくて良くなるが、代わりに大勢の人が病に苦しむことになるという選択をしていかなければならないのだと思った。
4.今後起こりうるCOVID−2019(Coronavirus2019)の影響
現在、COVID−2019(Coronavirus2019)の影響により世界各地で経済的打撃を受けている。例えば観光地で有名な場所に人が来なくなってしまっていたり、中小企業や飲食店などがつぶれてしまったりしている。このことから職を失ってしまう人たちが急増するのではないかと筆者は考える。失業やCOVID−2019(Coronavirus2019)の精神的負荷により、病気を患う人や自殺者が増えてしまうかもしれない。ではそうなってしまったときに患者や遺族は損害賠償を請求することが出来るのだろうか。まず病気の患者に対してだが
これは健康保険から賄われるのではないかと考える。では、COVID−2019(Coronavirus2019)が原因で自殺をしてしまった人の遺族に賠償金は払わなければいけないのか。筆者が考えるに、自殺のきっかけはCOVID−2019(Coronavirus2019)かもしれないが、それ以外の理由で自殺してしまった可能性もあるのでこれは国だけの責任というのは難しいと考える。このように身体的要因や、精神的要因が被害者側にあった場合、素因減責が働く。この考え方からすると、素因減責と自殺において重要なのがCOVID−2019(Coronavirus2019)だけが原因で自殺してしまったかどうかによって国が賠償しなければいけないかが変わってくるのではないかと考えた。これからは国がこうなることを防ぐために失業補償やメンタルケアなどを積極的に行うべきだと筆者は考える。
5.大阪南港事件とCOVID−2019(Coronavirus2019)
まずはじめに、大阪南港事件とは被告人甲が、三重県内の飯場で、Aの頭部を洗面器などで多数回殴打する等の暴行をし、それによる血圧上昇からの脳出血等を生じさせて意識を失わせた。甲は、その後、乙を大阪南港の資材置き場まで車で運びその場に放置したところ、何者かがAの頭部を角材で殴打し翌日未明Aが前記脳出血により死亡した事案であり、甲の暴行により被害者の死因となった傷害が形成された場合には、仮にその跡第三者により加えられた暴行によって死期が早められたとしても、甲の暴行と被害者の死亡との間に因果関係を肯定することができる。ここで問題となるのがAはどちらに殺害されたのかというところである。確かに最初に致命傷を与えたのは被告人甲だが、その後角材で殴打している犯人がいるのでどちらが殺害の決め手になっているかによって罪が変わってくる。これを明確にしようとする考え方を客観的帰属論という。客観的帰属論とはものごとに引き起こされた結果は、行為者の行為が行為の客体に危険を創出し、その危険が具体的な結果に実現した(危険実現)という場合にのみ、行為に帰属されるという理論である。この理論から考えるとどちらも客体において暴行を加えているのでどちらも傷害致死とみなす。これと反対の学説に目的的行為論である。目的的行為論とは、人が目的をもって行う動作」のみを刑法上の「行為」として扱うべきだ、つまり、「行為」の存在論的構造を「目的性」に求めるとの主張である。次にこの事件を、因果関係の中断と断絶どちらが当てはまるかというと因果関係の中断である。因果関係の中断というのは、特異な介在事情があるときに、条件説を採ったときに因果関係を否定するための理論で、相当因果関係説を採る場合は相当因果関係の特殊事情の問題とすれば足りるというものである。次に因果関係の断絶は同一の結果に向けられた先行条件がその効果を発揮する以前に、それと無関係な後行条件によって結果が発生した場合に因果関係を認めるかという問題であり結論として一般に条件関係は否定される。
6.総括
今回、法学と感染症というテーマを勉強して分かったことは過去にも世界で大流行した病気があったなかで今回のCOVID−2019(Coronavirus2019)は明らかに世界各国の対応が遅れていると筆者は感じた。その原因を考えるに世界初の感染者が出た段階で各国がしっかりと対応を迅速にしていれば感染を抑えることが出来たのではないかと感じた。しかし、過去のことを振り返っていても仕方がないと思うので、結論で述べたように国の強制力でロックダウンを行うべきであると思う。これからの日本の未来が明るくなっていくことを切に願う。
<出典>
授業ノート
刑法判例百選
ポケット六法
CRIMINAL LAW 刑法
厚生労働省ホームページ
wikipedia
Windows 10 版のメールから送信
松井悠太
法学と感染症
学籍番号:17j112018
氏名:松井悠太
キーワード:COVID-19(Coronavirus Disease2019)、国家緊急権と経済的自由、違法性阻却事由と人権保障、予防接種禍と国家補償の谷間、素因減責と自殺、結果回避義務と信頼の原則、証明責任、過失の推定と監督過失、因果関係の中断と断絶、客観的帰属論
T結論
COVID-19(Coronavirus Disease2019)により生じた経済活動・人権など現在の法律を大幅に見直す必要があると考える。
U世界で流行した感染症
最近世間をにぎわすホットワードはおそらくコロナウイルス(COVID-19(Coronavirus Disease2019))であろう。新聞、TV等で対応策を敷かない阿部首相に批判の声が高まっている。そこで過去に世界で流行した感染症とその対策について論じる。まず1つ目の感染症は14世紀のヨーロッパで流行した黒死病とも呼ばれる「ペスト」だ。この「ペスト」とは、感染すると2日〜7日で発熱し、皮膚に黒紫色の斑点や腫瘍ができる。14世紀ということもあり、この時代では「ペスト」と思しき人物は魔女狩りや、迫害といった方法で落ち着いた。
2つ目は「新型インフルエンザ」である。「新型インフルエンザ」というウイルスは連続変異・不連続変異などの性質から新型インフルエンザウイルスが過去にも出現し、度々大きな流行を繰り返した。2003年から新型のH5N1亜型と呼ばれるウイルスによってヒトが死亡する事例が報告され、そのウイルスが世界的流行を引き起こすと日本でも多くの死者が出ると言われたために、厚生労働省は新型のウイルスに対する危機管理の必要性に迫られた。厚生労働省は2006年6月に1年の期限付きでH5N1亜型を指定感染症とし二類感染症と同じ扱いをすることを定めた。2007年6月にさらに1年継続したが、その後も状況の好転はみられず、2008年5月に感染症予防法を改正し「新型インフルエンザ」が法律に明文化された。また、2009年の世界的大流行の際に対応が混乱したことを踏まえ新型インフルエンザ等対策特別措置法が2012年に制定された。
これらの事例を踏まえると「ペスト」に関しては、現在の日本において魔女狩りや迫害などは倫理的にも法律的にも論外といえる。一方で「新型インフルエンザ」に関して、しっかりと法整備した結果、最低限の犠牲で収まったといえる。しかし「新型インフルエンザ」の場合ある程度の発生が予測できていたということもあり抗インフルエンザウイルス薬作成の準備期間があったといえる。しかし現在、流行しているCOVID-19(Coronavirus Disease2019)は突発的に現れたため薬もなければ準備期間すらないといえるので、私の意見を言うのであれば現在の憲法や諸々の法律を改正したのちに「ロックダウン」を行うほかないと考える。
VCOVID-19(Coronavirus Disease2019)による国家緊急権と経済的自由
まず、国家緊急権とは「戦争・内乱・恐慌・大規模な自然災害など、平時の統治機構をもっては対処できない非常事態において、国家の存立を維持するために、国家権力が、立憲的な憲法秩序を一時停止して非常措置をとる権限」のことをいう。今回でいえば、「緊急事態宣言」がまさにこれである。
これを語る前に特措法についても触れなければならない。新型コロナ特措法とは「新型インフルエンザ等対策特別措置法の一部を改正する法律」といい、令和2年の3月13日に公布され、翌14日から施行されているものである。この法律を要約するのならば「新型インフルエンザ等対策特別措置法を新型コロナウイルス対策としても期限付きで読み替える」というものである。
話を戻すと「緊急事態宣言」はこの特措法によって定められている。しかし「緊急事態宣言」とはあくまで店側に営業時間の自粛を協力するよう要請・指示ができるだけであって、あくまで強制力はないのである。これを強制するようであれば、憲法29条の財産権つまり経済的自由を侵害するものである。国家緊急権と経済的自由には深いつながりがあるといえる。
W日本における安楽死
日本において基本的に安楽死が認められた判例は存在していない。有名どころだと東海大学安楽死事件がある。この事件の概要は、東海大学医学部付属病院に入院されていたAは多発性骨髄腫で昏睡状態が続いていた。Aの状態を見た妻と長男は治療の中止を希望し、助手は希望通り医療器具や外し痰引などの治療を中止した。長男はなおも「早く楽にしてくれ」と主張し医師はこれに応じて鎮痛剤、抗精神病薬を通常の二倍の投与量で注射した。しかしAはなおも苦しみ悶え長男から「家に連れて帰りたい」と求められ、そこで助手は殺意を持って塩化カリウムを注射して死亡させた。その結果助手は殺人罪により起訴された。この事件の場合、患者自体が昏睡状態であり自信の死を望む「意思表示」がなかったのと、上記の理由から痛みがあったのか証明できなかったために本事件は刑法199条の殺人罪が適用された。
私は日本における安楽死の要件を緩めるべきだと感じた。現行の法律では違法性阻却事由の正当行為であるはずのものが認められなくなると考える。善意で安楽死を行った医者があまりにも救われないうえに、重い病気で苦しむ人たちの人権保障(憲法13条)に反していると考えられる。違法性阻却事由と人権保障の安楽死についてスイスの法制度等を取り入れるべきであると考える。
X予防接種禍と国家補償の谷間
国家補償の谷間とは、前提として@憲法29条より財産権を侵害する場合は補償をしなければならない。A国賠法より国が違法なことをした場合は賠償しなければならない。(過去では国が過ちを犯すことはないとされていた(国家無答責)が、否定され現在に至る。)
@、Aを前提に国が接種を推奨するワクチンでワクチン事故が起きてしまった場合、損失補償しなければならない。
補償には、完全補償説という全額補償すべきという考え方と、相当補償説という合理的な価額でよいとする考え方がある。日本では完全補償説が通説とされているが、判例においては相当補償説をとる。
賠償は「全額補填すべし」という考え方。
補償のほうが額が小さい。しかし被害者救済のためには賠償のほうが良いと考える。
もし賠償で全額負担にしたい場合、相手方の過失を認定する必要がある。
賠償と補償というものがあるが、賠償は正対不正、補償は正対正というとらえ方である。
予防接種禍とは、これまで健康で過ごしてきた者が予防接種を受けた当日や翌日など比較的近い日数を経過した者が高熱をだしたり、死亡したり麻痺など身体に重篤な後遺症を引き起こすものを指す。そこで、‘小樽種痘予防接種禍事件‘という判例がある。この判例は、予防接種によって後遺障害が発生した場合には、禁忌者を識別するために必要とされる予診が尽くされたが禁忌者に該当すると認められる事由を発見することができなかったことや、被接種者が個人的素因を有していたこと等の特段の事情が認められない限り、被接種者は禁忌者に該当していたものと推定される、というものだ。
この判決は、医師の問診において、禁忌者を発見・識別できなかった「過失を問う」ものではなく、医師側へ「証明責任を負わせる」判決であると考える。であるならば、固有の疾患またはアレルギー体質などが要因であると証明できさえすれば、賠償責任は負わなくても良いと考える。(実際は非常に難しい)
つまりこの事件は、予防接種禍と国家補償の谷間が密接に絡み合った判例であるといえる。
そもそも医師への損害賠償請求の要件として「医師の過失」がある。たとえば医師が無過失であるにも関わらず責任追及を認められたのであれば、医師側があまりにも不憫に思える。しかし、被害者救済に重点を置くのなら過失の推定を使い賠償責任を認めさせるという考え方もある。もし、これが予防接種事件だとして、厚労省から指示された適切な薬品や、適切な処置を施したにも関わらず予防接種禍が発症した場合、監督過失により厚労省が賠償責任を負う場合もある。
今までの判例を見た限り医師というのは過失の推定をされてしまったり、非常に弱い立場にあると認識していたが、しっかり業務を行った(医療記録やガイドライン)結果であれば、監督過失により医師は責められないこともあるということがわかる。
Y結果回避義務と信頼の原則
まず結果回避義務とは、予見できた損害を回避すべき義務を指す。この義務を怠ったため事故などが生じた場合、注意義務違反として過失責任を問われることがある。
次に信頼の原則とは、他人の適切な行動を信頼するのが相当な場合であって、その不適切な行動により結果が生じたときにまで行為者に注意義務を課し、過失犯が成立するとするのは不当であるという考えである。このような場合において結果回避義務の存在を否定してよいという考え方が有力であり、判例や通説もこれを採用している。
山口佑都
法学と感染症
18J107018 山口 佑都
結論:良くも悪くも民主主義、根幹にある文書主義のデメリット。あらゆる事態への対処レスポンスの抵抗となっている。
1、平和ボケが招いた罰
2019年12月、誰が想像することが出来ただろう。「なんでコウモリなんか食べてるんだよ」そんな声がSNSで呟かれていたその時には、パンデミックの火蓋が切られていた。グローバル化された社会で、COVID-19(Coronavirus Disease2019)が感染を広げるのに時間はかからなかった。世界各国では軍が出動し、都市部を閉鎖するなどの措置が取られる中、日本という平和ボケした国の議会では野党がコロナウイルスに手を貸すという非人道的なコントが繰り広げられていた。
2、国家緊急権と経済的自由
諸外国が感染症を食い止める術として、ロックダウンを実行した後ろ盾には、「国家緊急権」ないしはそれに準じたものを規定している背景がある。現行の日本国憲法において、「国家緊急権」に関する規定はない。これは戦前の大日本帝国憲法にはあった規定であるが、軍部の独走の反省をもって作られた平和主義憲法の下では、当時の政府が及び腰であった背景がある。そもそも、「国家緊急権」というのは非常事態発生時に国家の存立を維持するために国家権力が憲法の一時停止などの非常措置をとる権限である。「国会緊急権」の発令時には人権が制限されるのは明らかであり、平和主義の観点からすれば「国家緊急権」の規定は日本国憲法の基盤を揺るがす危険な概念であるのは言うまでもない。今回のパンデミックに垣間見えた「国家緊急権」の影響。それは、経済的自由の制限である。国民に一律でいくら支給する、そのような応急措置によって人権制限の塗り薬としたのである。都市封鎖が起これば経済活動が制限されるのは言うまでもなく、職を失い人が出てくるのは間違いない。しかしながら、その手段を取るほかないのも現実である。この場合、違法性阻却事由と人権保障の制限を両立させて、うまく逃れるしかない。それが、現金一律支給の黒幕だったのである。
3、予防接種禍と国家補償の谷間
新型コロナウイルが拡大する中、いつか必ず起きるであろう問題がある。ワクチン開発には避けて通れない道、予防接種禍の発生である。実用化の実現には研究過程で治験を行う必要があり、そこで安全性や効果が確かめられなければいけない。しかしながら、治験では必ずしも成功するとは言えず、ほとんどの場合は失敗に終わる。失敗の場合というのは、ワクチンの効果がなかった場合、後遺症(程度にもよる)が発生する場合、最悪の場合には治験対象者が死亡してしまう場合を内包する。技術開発には犠牲がつきものであるが、人の命を救うワクチンもまた、人の命によって出来上がるものであるのを忘れてはいけない。法律学演習ではたびたび、「予防接種禍により精神を病み、それにより自殺してしまった場合、損害賠償請求をすることはできるか」という論点で議論してきた。これまでの自分自身の考えをここでは要約することにする。この論点でのポイントとなるのは、素因減責と自殺の因果関係である。「素因減責」というのは、簡単に言うと、元々被害者が持っていた精神的・身体的疾患を原因として損害が拡大してしまった場合(この場合で言うと、自殺の引き金になったというもの)に、その拡大部分については、被害者の自己責任として、賠償金額から減額してしまうというものである。交通事故などの紛争時における、過失相殺もこれと似たようなものである。自殺してしまったことすべてに責任を問うのではなく、因果関係の存在する範囲にのみ損害賠償の義務を認定するということである。ただし、予防接種禍という極めて特異なケースであると、因果関係の証明は難しい。裁判提起は被害者側である為、証明責任は原告にある。ケースバイケースということもあり、ここで深くは追及しないが、治験は治験対象者の不利になりやすい法的環境であると考えている。普通の場合、それを見越して、治験会社(国の場合もある)と治験対象者は契約書を交わし、賠償の範囲や程度などをあらかじめ決めていることが多い。
4、結果回避義務と信頼の原則
信頼の原則とは、行為者がある行為をなすにあたって、被害者あるいは第三者が適切な行動をすると信頼するのが相当な場合には、たとえその被害者あるいは第三者の不適切な行動によって結果が発生したとしても、それに対しては責任を負わないとする原則である。信頼の原則が適用されるときは、結果回避義務が否定される。結果回避義務と信頼の原則は、交通事故の紛争といったものに多用されるが、医療分野においても重要な論点である。
〜医療事故をめぐる法的紛争についても、民事法上の問題と刑事法上の問題とを区別し考える必要がある。まず、両者は責任追及の目的が相違する。民事法上の責任は、被害者の救済を主たる目的とするのに対し、刑事法上の責任は,一般予防および特別予防のために国 家的非難としての刑罰を科することを主たる目的とする。したがって、民事裁判と刑事裁判とはその性質を異にする。民事裁判では、相対立する私人間の法的紛争につき国家機関である裁判所が第三者的な立場で両者の主張の是非を判断するのに対し、刑事裁判では、国家機関としての検察官がある特定人が特定の犯罪を犯したことを理由として国家刑罰権
を実現するため裁判所に公訴を提起し(起訴),裁判所が検察官の主張の理由の有無を判断する。このような民事法上の責任と刑事法上の責任の相違、民事裁判と刑事裁判との性質の差異に応じ、証拠法則にも両者の間に違いがある。証拠として用い得る資料(証拠能力のある証拠)の範囲は、民事裁判におけるよりも刑事裁判における方が厳格である。また、証明の程度の点でも、民事裁判ではかなり大幅に推定法則が機能するのに対し刑事裁判では「疑わしいときは被告人の利益に(in dubio proreo)」の原則が支配する。そこで、同一のケースをめぐって民事責任と刑事責任との双方が問題になることもあるが、民事法上は債務不履行とか不法行為に基づく損害賠償責任があるとされても、刑事法上は犯罪を構成しないとか、犯罪の嫌疑がないとされることも稀ではない。実際の裁判の場に登場す
る医事紛争は、民事事件に比較し、刑事事件の方がはるかに少ない 刑事事件になる医療事故の態様は、手術、注射、輸血、投薬、薬物ショックなどに関するものが多い。ところで、医療事故と刑事法との交錯は、主として次の二つの場面に現れる。その一は一定の医療行為が正当業務行為(刑法35条)としての治療行為の範囲内にあるか否かが問題となる場合であり、その二は、一定の医療行為それ自体は正当業務行為の範囲内にあるものの、診断過誤、治療処置選択の誤り、治療施行上の誤り等のために業務上過失致死傷罪(刑法211条)の成否が問題となる場合である。〜医学および医療の進歩に伴い、その分化・専門化が進
むとともに、他面において、医療の集団化が進み、大病院などにおいてはチーム医療が広 く行われるようになっている。チーム医療においては、1人の患者の治療という共通の目的に向けて相互に関連させつつ行う共同作業であるので、そのうちの一つのパートに過誤 があるとそれが全体に影響を及ぼしたときに重大な結果をひき起こす。このような場合に法的責任の分配をどのように考えたらよいかという問題は、きわめて重要な、しかも困難
な問題である。また、チーム医療というほどの大規模なものでなくても、医療行為は複数の医療従事者によって共同的に行われる場合がきわめて多い。その場合にも、責任の分配がやはり問題となる。〜(第32回日本気管食道科学会特別講演より、「医療事故と刑事法との交錯」臼井滋夫氏による講演より一部抜粋)
上記引用をもとに考察すると、ワクチン治験時における医療事故において、過失の推定と監督過失の認定、さらには、責任追及の術はほとんどないように思える(学説的考察からするといくらでも抜け道は考えられるが、ここでは現実的に可能か不可能かを議論することにする)。というのも、3で述べたような自称において、自殺の動機が医療行為だけに完結するものでもなく、かつ、因果関係の中絶と断絶が起きる場合が考えられるためである。また、当該ケースを刑法の視点でのみ考察することもできる。客観的帰属論を用いるものである。「客観的帰属論」とは、「刑法上、因果関係の存在を認めるべきかにつき条件説を採用した場合には、行為者が責任を負わなければいけない損害の範囲があまりにも拡張してしまう。そこで、わが国の従来の通説である相当因果関係説(ないし法的因果関係論)は、因果関係の内容を限定することでこれを制限してきた。一方、ドイツの通説であり、わが国でも近時有力に主張されている客観的帰属論は、因果関係とは別の要件を導入することでこれを制限しようとする。その要件の具体的な内容としては、一般に、「法的に許されない危険の創出」、「法的に許されない危険の実現」及び「構成要件の射程」の3つが掲げられ、更に、その内部でも、「危険減少・増加」や「規範の保護目的」、「自己危殆化への関与」などの様々な下位の基準が主張されている。もっとも、この客観的帰属論という概念は、故意犯と過失犯に共通する客観的構成要件の意味に用いられることもあり、その場合には、相当因果関係説も客観的帰属論の一例に過ぎなくなることに注意すべきである。」と法律学小辞典においては定義されている。
5、将来の展望
新型コロナウイルスのパンデミックに対処できるかどうか、世界へのパフォーマンスを兼ねていたはずである。WHOが役に立たなかった(と言われているが、真偽は不明である)というハンデがあったにせよ、日本以外の諸外国においては(共産国の多少の強制手法に目をつぶりつつ)いち早く国家緊急権の発動に揺るぎがなかった。対して、日本では政権獲得しか視野にない野党の無駄な国会答弁、利権と利益に判断を狂わせているマスメディア、情報弱者の国民のコンボである。これでよく感染が諸外国よりも広がっていないのかと、奇妙なものである。そんなコンボの国であるために、上記の紛争が発生すると予測されるが、実際はいかなるものであろうか。
高階一樹
法学と感染症
18j107023高階一樹
初めに今流行りの新型コロナウイルスについて
まず結論としては、このコロナウイルスの影響で、法改正と正当な補償が必要である。
今、流行している新型コロナウイルスCOVID-19(coronavirus disease 2019)は、全世界を巻き込んで大問題となっています。この、新型コロナウイルスは、インフルエンザとは違い、元気な方でも急激に悪化し亡くなることがあります。ワクチンがなく、だれもが感染する可能性があります。中国らの報告では、感染すると20パーセントの方は重症化します。息切れ、激しい咳、高熱が続きます。有効な薬はないため、患者さんは耐えるしかありません。5%くらいの方では、1〜2週間で呼吸困難になり、人工呼吸器が唯一の治療法となります。人工呼吸器が不足すると助かる命が助かりません。80歳以上では15%くらいの致死率です。20代30代であっても、感染者500人に一人くらいが死亡しています。日本のデータでも感染者の4%くらいは集中治療室での治療や人工呼吸器が必要となり、その半分は亡くなっています。発症してから数週間で急激に亡くなるのが特徴です。感染が急速に広がると病院の対応能力が限界に達し、心筋梗塞や交通事故などほかの救急患者さんも救えなくなります。医療法会です。イタリアやスペイン、武漢では実際に人工呼吸器の不足、医療崩壊が起こってきます。
感染症が招いた経済的危機
感染症が広がりを見せた今、日本では現状の法律では対応できないため、政府が緊急事態宣言を発令もして、各地域の営業の自粛を呼び掛けています。ただし、居酒屋などの夜の街ではこの営業自粛命令などで収入が0になるあるいは大幅に減少しています。そのため、政府のこのやり方が問題となっています。私はこの行為を憲法22条1項の何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。という条文に引っかかると思いました。なぜなら、ただ営業していて、公共の福祉にも反していないのに政府が圧力をかけていいのか?また、財産権である憲法29条である3項の私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる。この条文にも反しているように思える。つまり、政府が営業の自粛を呼びかけるのは問題ないのだが、強要させることは絶対にいけないし、もし営業自粛、あるいは政府の呼びかけにより営業時間の短縮を行った場合は、正当な補償が義務図けられるようになる。ただし、日本では国家の平和と独立を脅かす緊急事態に際して、政府が平常の統治秩序では対応できないと判断した際に、憲法秩序を一時停止し、一部の機関に大幅な権限を与えたりできる国家緊急権が存在する。これが、国家緊急権と経済的自由の難しい点だ。
現在の医療
いま日本ではコロナ以外にもたくさんの病気で悩みまた、苦しんでいる人たちがたくさんいる。例えば、もう余命が残り少ないのにコロナにかかってしまった、自殺願望のある患者がいるとして、その老人と成年後見人が医者に人工呼吸器を外せと言って医者が本当に外してしまった場合、これはどうなるのか?コロナウイルスが増えていき病院の人数も限られていくときには、やむ負えない行為と言われてしまうのか?違法性阻却自由と人権保障は認めてもらえるか。この件に関して、判例から見て、東海大学安楽死事件では、病院に入院していた末期がん症状の患者に塩化カリウムを投与して、患者を死に至らしめたとして担当の内科医であった大学助手が殺人罪に問われた刑事事件。日本において裁判で医師による安楽死の正当性が問われた、現在までで唯一の事件である。この事件では、患者がこん睡状態であるため自分の意志とは認められなかった。また、方法も目的に相応しいものではなかったことからこれは殺人罪とされた。また、名古屋安楽死事件では自己決定権の尊重、積極的安楽死の一部を認めたことで、嘱託殺人となりこちらは刑法199条の同時殺人罪が認められた。このようなことは今回のコロナでも起きかねない事件なのかなともいました。違法性阻却自由が認められることはあっても必ず無罪にはならないと思いました。また、今世界中でワクチンの開発が急がれていますが予防接種により思わぬ形で死や病気の悪化につながることがあります。昭和59年には予防接種ワクチン禍集団訴訟では、国の行政指導に基づき自治体が推奨した予防接種を受けた結果、副作用によって障害または死亡するに至った被害児とその両親らが原告となり民法上の債務不履行責任、国家賠償法上の責任または憲法上の保証責任を追及するとして、国を被告として損害賠償請求訴訟を提起した。この結果、賠償責任に関しては、種痘と他の接種とを複合して行い、通常の倍の種痘を施したという一部の原告を除いてかっしつが認められず、賠償責任も認められないとしたが、憲法29条3項に基づく私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができるというのは認められた。ただし私は、この判決に対し、憲法13条におけるすべて国民は、個人として尊敬される生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とすると憲法25条のすべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有するに引っかかると思った。この判決だと公共の福祉を優先させ、たとえ個人の意思に反してでも、この予防接種を受けることを強制し、義務付けているのに被害者は特別な犠牲を強いられているのである。これが予防接種禍と国家補償の谷間ではないかと思った。また、わざとではなく予防接種で後遺症を残してしまった場合は、それに過失があるのかがかぎになる。何か持病があって危険な状態であった場合や別の薬を投与した可能性がある場合それは立派な過失の推定ができていることになる。また、直接行為者が過失を犯さないように監督する注意義務に違反する過失を監督過失という。過失の推定と監督過失はお互いに危険を予想してないとできないことである。当事者はもちろん、それを見守る人、責任者も注意しなければならない。
過失相殺
まず、過失相殺とは損害の公平な分担という不法行為制度の理念に最も象徴的といえる制度である。民法722条2項より、被害者に過失があったときは、裁判所はこれを考慮して、損害賠償の額を定めることができる。として過失相殺を定めている。これは、被害者に過失があったときにそれを考慮して損害賠償を調整できるということです。これによって損害賠償が減額されることを素因減責という。素因減責によって判例として大津いじめ事件ではいじめを受けていた生徒が自殺をした事件で、第1審では、3750万円の支払いが命じられたが、次ぐ大阪高裁では、いじめと自殺の因果関係は認められるが被害者の自殺には、被害者の家庭環境にも問題があったとして加害者少年たちに400万円の支払いが認められた。これが素因減責といじめの判例である。このような法律は、必要である。なぜなら、加害者が絶対的に悪いのか、それとも被害者にも非があるのかによって罪を変えないと不平等だと思うからである。
予想外の出来事
例えば、センターラインをオーバーしてくる対向車と衝突したとき、原則として衝突された側に責任がないと判断されます。この場合は、対向車線から対向車がセンターラインをオーバーして迫ってくるという事態に対し、予見可能性がないので注意義務違反がないとされる。第3者が適切な行動を行うと信頼したのにそれにより生じた損害は一切の責任を取る必要がないとされるのは信頼の原則である。しかし,結果的に,センターラインをオーバーしてきた車と衝突した事故であったとしても,衝突された側にも責任が認められる事故も実はあります。例えば,対向車線に障害物等があり,その障害物を回避するには,センターラインオーバーして走行するしかないというような状況の場合は,衝突された側にも,「センターラインオーバーしてくる車もあり得る」という予見可能性があったと判断される場合があります。また,センターラインオーバーしている車が,衝突された側の車線を走行している距離が,数百メートルに及び,センターラインオーバーの状況を発見したのが,衝突する瞬間よりかなり前(例えば5秒くらい)であったというような事例を想定すると,衝突された側にも,少なくとも,その状況を発見した後は,危険を予見することができたと判断される可能性もあります。こうなってくると,「予見可能性」というのは,各交通事故につき,詳細な発生経過を検討してみないとわからないということがわかると思います。また,交通事故の場合は,「予見可能性」があったかどうかというよりは,「予見義務(予見できる可能性があったことを前提にして,予見することが必要とまで言えるのかどうか)」があったのかどうかが重視されるという見方もできると思います。つまり,確かに,センターラインオーバーしてくるような「非常識」ともいえる運転者がいる可能性があるが,そこまで想定して運転する必要があるのかどうかということです。普通対向車が来ないだろうと思っても来てしまう、だから結果回避義務と信頼の原則としては、相手がその行為をしてくると予想できるかが重要だと思った。
証拠
夫の浮気が原因で離婚訴訟をしようとしている夫婦がいるとする。その場合ただ、浮気されたとなげいていても真実であると思われることは少ない、だから被害者側には証明責任がある。証明できる証拠がなければ、友人であり、肉体関係がない。と言われればそれでおしまいである。だから、何か訴えたいときは証拠を集めることが必要である。
因果関係
例えば、甲が公衆の面前で乙を殴打し、軽傷を負わせたところ、これを恥じた乙が自殺した場合、甲の殴打行為と乙の死亡の結果との間には条件関係との結果との間には条件関係はありますが傷害致死罪を解することは適当ではありません。このような不都合を避け、因果関係中断論が主張された。因果関係中断論は、因果関係の進行中に自然的事実または自由かつ故意に基づく他人の行為が介入したときは、それによって因果関係が中断されるとする立場です。この考えについて私は、疑問に思ったのはそもそもその行為がなきゃ乙が死ぬことはなかったのに因果関係がないと主張されるのはおかしいことなのではないかと思いました。もし、別の場合甲が乙を殴って、乙が病院に行ったときに病院が火事に巻き込まれ手死んでしまったとする。その場合乙の立場からすると甲が殴らなきゃ乙は死ぬ羽目にならなかった。だから私は因果関係の中断と断絶はあまり良い主張だと思わないです。原因を探りその行為がなければ起きないことを被害者の立場になって考えるべきだと思いました。
大阪南港事件では、被告人の暴行により被害者が死因となった障害が形成された場合には、その後第3者によって死期が早められたとしても被告人の暴行と被害者の死亡との間には因果関係がある。
これに対して、あくまで従来の判断基底論を堅持しこれによっても判例は説明可能であるとする考え方がある一方、従来の判断基底論を変容させ、例えば個々の介在事情を考慮する・しないの二択ではなく、
実行行為や結果の具体的なあり方との関係で、その危険をどれだけ促進したか・すべきものかといった考慮も相当因果関係の判断に含めるべきとする考え方も現れてきた。現在も相当因果関係説が多数説であるものの、その内部では後者の考え方が有力になっている。
また、ドイツでは、後述の客観的帰属論が有力であり、日本においても注目されている。相当因果関係説の中でも後者のような考え方は、客観的帰属論に近いとされる。それは相当因果関係説の論者も認めるところであるが、そうであるにもかかわらず客観的帰属論としないのは、客観的帰属論は本来、因果関係に対するのみならず、刑法体系全体に関わるものであるところ、すでに判例実務・学説の確立している部分と相容れないところがあるため、相当因果関係に関する部分でのみ、相当因果関係論の名のもとに客観的帰属論の成果を取り込めば足りるとするからである。やはり、暴力を振るってる時点でそれが問題であるため、その後他者が何かしたとしても刑法205条身体を傷害し、よって人を死亡させたものは、3年以上の有期懲罰に処する。が適用される。被害者の立場からすると当然のことである。
まとめ
今回のコロナウイルスはまだまだ続いていくなかで今の法律だけでは、いろいろと錯誤が起きてしまうなと思いました。だから特別措置法という新しい法律ができましたが、これからお店の営業やワクチン、公共の福祉に関する法律の改正が増えていくのだと思いました。特にこのままいくと居酒屋やキャバクラといった夜の店のオーナーや従業員の生活が大変になるのでその人たちの正当な補償を求める法律を最優先に、この先医療に関する法律も増やすべきだと思いました。ただしそれを防ぐために今は外出を自粛して、少しでもこの状況を短縮させることが重要です。もし防げない場合、政府からの補償などは、国民の税金からとっているので、長引けば国民にどんどん負担がかかることは、避けられないことであると思いました。
参考文献
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E9%96%A2%E4%BF%82_(%E6%B3%95%E5%AD%A6)
https://news.livedoor.com/article/detail/14627141/
矢沢弦太
法学と感染症
憲法は法律の中で最も守らなければいけない分野で、緊急事態宣言の発令は経済的自由の侵害である。経済的死亡は死亡に等しい。
また予防接種を受ける際は接種者も被接種者も危険実現可能性について充分に考慮してからするべきである。
1、新型コロナウイルスについて
コロナウイルスCOVID-19(Coronavirus Disease2019)が日本で2月ごろから流行り始め4月7日には緊急事態宣言が出された。これは関東・近畿・九州圏の7都府県を対象とする改正新型インフルエンザ等特別措置法に基づくものであった。集会を禁止することが主な内容であったが、これを受けて休業や営業時間の短縮などをする飲食店が多く自粛ムードのきっかけとなった。これは経済停滞を招き、失業する人も出ている。特に飲食店を経営する個人事業主は頭を悩ませているところだろう。しかしながら緊急事態宣言解除後の8月現在、コロナの感染者数は再び増え始め、1度目の宣言は経済停滞を招いただけで全く意味がないものになりつつある。今後の政府の動向が注目される中でこういった災害などを想定した国家緊急権と経済的自由の兼ね合いが重要になるだろう。
コロナウイルス発生当初に最も話題に上がったのは横浜に寄港したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」の受け入れではないだろうか、このような外国人や日本人旅行者の受け入れを緊急事態時にしたわけだが、船内では当時多くの感染者が確認されていた。世界人権宣言や憲法の観点から仕方なかったのだろうが、日本を守るという面で受け入れをするべきではなかったと私は思う。ここにも法的にいえば違法性阻却事由と人権保障の兼ね合いが存在している。たとえ他国から批判を受けようとも国防を重視するという姿勢は特にアメリカから強く感じた。トランプ大統領のアメリカファーストという言葉通り、外国人受け入れの規制や最近では産業スパイを警戒して中国製品、中国産アプリの締め出しなど露骨な対策をとっている。一方日本に関しては入国規制の対応がだいぶ遅い。これは給付金に関してもアベノマスクに関しても言える。緊急時ほど決断は早くすべきだ。
2、予防接種について
新型コロナウイルスはまだワクチンの開発ができていないが、インフルエンザなどの感染症では予防接種は度々義務付けられた。しかしながらこういった予防接種で後遺症を発症し訴訟になるケースもある。ここには予防接種禍と国家補償の谷間が存在している。
各地で争われている予防接種禍集団訴訟のうち、初めての高裁レベルでの判決が平成4年12月18日東京高裁で下された。本判決は第1審東京地裁判決昭和59・5・18判事1118号28頁が容認した損失補償を否定した上で、小樽種痘禍訴訟の最高裁判決平成3・4・19民集45巻4号367頁の理論に則り、除斥期間経過による請求棄却(3名)を除く全員に対して国家賠償請求を認めるものであった。予防接種禍の補償では国家賠償法で裁くか、あるいは憲法の損失補償で裁くかといった争点になるわけだがこれは対象行為が適法か違法かで分けられる。
上記裁判は昭和27年から49年までの間に予防接種法に基づいて、国が実施あるいは行政指導に基づき地方公共団体が実施した予防接種の結果、死亡ないし重篤な後遺症を負った被害児62名につき、生存被害児や両親など159名が原告となって、国に対して損害賠償・損失補償を併合して請求したものである。第1審東京地裁は、全ての被害児に因果関係を認めた上で、2名についてはそれぞれ担当医師の過失を認め、国家賠償責任を肯定したが、その他の被害児については国の債務不履行責任と国家賠償法上の責任を否定した。その上で憲法29条3項の類推適用による損失補償請求を認めた。これに対して、国が控訴した。
損失補償について本判決は、憲法29条3項の類推適用については以下のようにこれを否定した。
@ 憲法29条3項は適法行為による意図的な財産権侵害を対象とするものであり、適法行為による侵害とはいえない本件予防接種被害にまで拡張することは憲法解釈の枠を超えている。
A 犠牲補償請求権の法理という伝統に依拠したドイツの判例等は、そのような伝統のない我が国には妥当しない
B 特別の犠牲という要件を充足さえすれば、損失補償請求権が生ずるとすると、一般に公権力の行使はすべて公共目的のため行使されるものであるから、その適用範囲は極めて広くなる恐れがあり、その外延は不明確となり、憲法の体系が崩されて国家賠償と多くの場面で競合し、国家賠償方が故意・過失という主観的要件を要求していることの意味を失わせ、実質上違法無過失責任を認めることにつながりかねない。
C もともと、生命身体に特別の犠牲を課すことは違憲違法な行為であって許されないものであり、これに対する補償は本来、憲法29条3項とは全く無関係である。このような全く無関係のものについて、生命身体は財産以上に貴重なものであるといった論理により類推解釈ないしもちろん解釈をすることは当を得ない。
また、第1審判決が国の補償責任を認める根拠を憲法13、14条1項、25条に求めたことに対しては、これらの規定から補償請求権が実体法上の権利として生ずることはないとしてこれを否定した。
損害賠償について本判決は予防接種により重篤な副反応が生じた場合には、本来該当個人には予防接種を強制すべきではなかったという意味で、予防接種の強制は違法であるとしてその違法性を指摘した上で、厚生大臣の禁忌者への接触回避措置につき過失があったとして以下のように述べて国家賠償責任を認めた。
@ 予防接種によって重篤な後遺症が発生した場合には、昭和45年厚生省令第44号による改正前の予防接種実施規則4条所定の禁忌者を識別するために必要とされる予診が尽くされたが禁忌者に該当する事由を発見することができなかったこと、被接種者が後遺障害を発生しやすい個人的要因を有していたこと等の特段の事情(素因減責と自殺の可能性)が認められない限り、被接種者は禁忌者に該当していたものと推定されるところ、本件被害児62名については特段の事情が認められず、いずれも禁忌者に該当していたものと推定される。
A 国には、勧奨接種・個別接種も含めて予防接種を受ける個々の国民との関係で、可能な限り、予防接種によってこのような事故が生じないよう努める法的義務がある。
B 結果回避義務と信頼の原則について・・・重篤な副反応という危機をなくすためには、事前に医師が予診を充分にして、禁忌者を的確に識別・除外する体制を作る必要があり、そのことは厚生大臣も充分に認識していた。ところが、厚生大臣は長く伝染病の予防のため、予防接種の接種率を上げることに施策の重点を置き、予防接種の副反応の問題にそれほど注意を払わなかったため前期の義務を果たすことを怠った。
C 本件被害児62名はいずれも禁忌者に該当していたものと推定されるところ、現場の接種担当者が禁忌の識別を誤り、本件被害児らが禁忌者に該当されるのにこれに接種をしたため生じたものと推認される。それゆえ、厚生大臣が禁忌を識別するための充分な措置をとり、その結果接種担当者が禁忌識別を誤らず、禁忌該当者を全て接種対象から除外していたとすれば、本件副反応事故の発生を回避することができたものというべきであり、従って本件副反応事故という結果の回避可能性もあったものということができる。
D 以上の通りであって、厚生大臣には、禁忌該当者に予防接種を実施させないための充分な措置をとることを怠った過失の推定と監督過失があるものと言わざるを得ず、国は被害児らに重篤な副反応事故が生じたことに対して、国家賠償法上責任を免れないものというべきである。
上記のように本判決は違法性が高く、厚生大臣並びに接種担当者には過失責任があるとされた。このような予防接種での事故や、食品の成分詐称などの事件では構成要件該当行為と時間的・空間的に分離できる不法結果の発生が生じている。これを因果関係の中断と断絶といった観点から判定する。この場合、結果が発生したこと、そしてこの結果が行為者に客観的に帰属できる場合に初めて既遂が成立する。また被告人は構成要件該当行為と発生した結果に因果関係がないことを証明する証明責任がある。
因果関係が刑法では論点に上がることが多いがそこでは相当因果関係論と客観的帰属論が火花を散らしている。
⑴ 相当因果関係説
因果関係の内容として、条件関係に加えて相当性があることが必要とする説で相当性とは社会生活上の経験に照らして、通常その行為からその結果が発生することが相当だと見られる関係としている。
⑵ 客観的帰属説
こちらは因果関係の判断にある行為の危険実現によって因果関係を確定づける説だ。こちらの方が主流になりつつある。
これらは⑴が行為無価値、⑵が結果無価値という考え方に近いものがあると私は考えた。ドイツでは⑵が主流らしいが私個人の意見としてもそちらの方が考慮する事項が少なく済み、裁判としてはより明確になるだろうが動機やその犯行の過程を充分に考慮することも重要であると考えている。とくに予防接種禍の裁判では憲法29条3項の類推適用が争点になるケースが多いが、憲法を拡大解釈することに近いように感じた。場合によっては適法にも違法にもどちらとも取れるケースが出てきてしまうだろう。そういった場合に構成要件該当行為を為した段階での行為者の予見可能性などを考慮した方がいい。
3、まとめ
今回の新型コロナウイルスを予見していた人はおそらくいないだろうが、コロナ不況がきていなかったとしても日本経済は停滞していて、同じように不況がきていたかもしれないと言っている専門家もいる。
コロナ第1波では持ちこたえたが2波が来たら確実に倒産するという企業も存在している。特に旅行業界大手のHISは来年の新卒採用を中止している。こういった不安の中で私も残り半年を大学で勉強しながら人生の予見可能性を探って行きたいと思った。