島田駿介
感染症と法学
19J115025 島田駿介
結論: 私は現行の法律で感染症へ十分対処できるが、一部法改正を行うべきであると考えた。
はじめに
テーマにある「感染症」とはどのようなものを指すのか。「感染症」とは、寄生虫・細菌・真菌・ウイルス・異常プリオンによる病原体の感染により、宿主に生じる病気の総称のことである。(Wikipedia参照)最近の「感染症」といえば、やはりCOVID-19(Coronavirus Disease2019)である。COVID-19(Coronavirus Disease2019)、日本ではコロナウイルスと呼ばれるこの「感染症」は、現代に生きる人々にとっての最大の脅威であると言える。このコロナウイルスへの予防接種あるいは特効薬が開発され、使用にあたる際の国家の責任問題や諸外国との関係性が今後の国家に大きな影響を与えると私は考える。
1.コロナウイルスの蔓延と原因
COVID-19(Coronavirus
Disease2019)が我が国で蔓延しているという事実は否定できない。このような事態を引き起こした原因として国家の体制に問題があったと私は考える。
その根拠となるのが国家緊急権と経済的自由である。
・国家緊急権とは、戦争や災害など国家の平和と独立を脅かす緊急事態に際して、政府が平常の統治秩序では対応できないと判断した際に、憲法秩序を一時停止し、一部の機関に大幅な権限を与えたり、人権保護規定を停止したりするなどの非常措置をとることによって秩序の回復を図る権限のことをいう。しかし、この国家緊急権は日本国憲法では認められていないことから、日本では存在しないとされている。
・経済的自由とは、基本的人権を内容の観点から分類した場合の一つで,職業選択の自由 (憲法 22) や財産権 (29条) など人の経済活動にかかわる自由権のことを言う。立憲民主主義過程の維持にとって精神的自由権ほどには緊要度が高くないことや,憲法が保障する生存権その他の社会権の実現のためには経済的自由権の規制が不可避なことから,精神的自由権の場合に比べてより強度の公共の福祉による制限を受けるものと解されており,判例も同様の考え方をとっている。
COVID-19(Coronavirus Disease2019)は、国家の平和と独立を脅かす緊急事態であると解されることから、一部の機関に大幅な権限を与えたり、人権保護規定を停止したりするなどの非常措置を取るべきであった。しかし、日本に国家緊急権がないことが原因で、国家が大幅な権限を与えられず、人権保護規定を停止することが出来ず、国民の外出自粛と3密回避の要請、飲食店の営業自粛要請という弱い効力の措置を取ることとなった。国家緊急権を認めることで、最高権力が上書きされることとなり、国民の経済的自由と精神的自由からなる二重の基準を侵してでも国民の外出禁止や飲食店の最低限の営業自粛を行うことがCOVID-19(Coronavirus
Disease2019)の蔓延を防ぐことが出来たと考える。
2.ワクチン・予防接種に関する判例・法律
(1)ワクチン・予防接種で死亡した場合の損害賠償
COVID-19(Coronavirus
Disease2019)のワクチン・予防接種が作られ実施されることは容易に想定できる。その際に問題となると予期できる事柄に条文や判例を用いて私なりの見解を述べていく。
ワクチン・予防接種を実施するにあたって考えられる要件として、まずそのワクチン・予防接種を実施したことで、結果として死亡してしまった場合である。
この場合においては、予防接種ワクチン禍事件という判例がある。
内容は、予防接種法(昭和51年法第69号による改正前の法律)によって実施され、あるいは国の行政指導に基づき地方公共団体が接種を勧奨した各種予防接種を実施し、1種類または2種類の接種を受け、その結果、予防接種ワクチンの副作用により、疾病にかかり、障害の状態となり、または死亡するに至った。本件各被害児とその両親らが原告(原告数は、被害児62名中訴提起前の死亡被害児を除く36名、その両親らの家族124名、合計160名)となり、当時厚生省が行っていた防疫行政につき、民法上の債務不履行責任、国家賠償法上の責任または憲法上の損失補償責任を追及するとして、国を被告として、昭和47年3月から6次にわたって損害賠償請求を提起した。というものだ。
東京地裁は、二名の事故については担当医師等の過失を認め、国家賠償法1条1項による賠償責任を認めたが、その他の被害児については、国家賠償責任も債務不履行責任も認めなかった。
この判例は、予防接種禍と国家補償の谷間についての理解が重要になってくる。本来、予防接種は一般社会を伝染病(ここではインフルエンザ)から国民が集団的に防衛するという目的がある。しかし、予防接種によってその生命、身体について犠牲を強いられた各被害児及びその両親に対して犠牲による損失をこれら個人の者のみの負担に帰せしめてしまうことは、生命・自由・幸福追求権を規定する憲法13条、法の下の平等と差別の禁止を規定する同14条1項、更には、国民の生存権を保障する旨を規定する同25条のそれらの法の精神に反するということになり、そのような事態を重要視しないことは到底許されるものではない。当該損失は、本件各被害児らの特別犠牲により、一方では利益を受けている国民全体がいることから、即ちそれを代表する国が負担するべきであると考えられる。
要約すると、国が伝染病を防ぐために実行した予防接種で被害を受けた人たちがいる一方で、被害を受けずに予防接種により抗体を得た人、つまり利益を得た人がいることから、予防接種を行った医師が賠償するのではなく、国が賠償責任を負うべきであるという考えだ。
さらに、医師は正当な業務を行っている際に起こってしまった事故のようなものであることから、違法性阻却事由と人権保障が関係してくるのではないか。日本の刑法は違法性阻却事由として,法令行為と正当業務行為 (35条) ,正当防衛 (36条) ,緊急避難 (36条) を規定している。当件では、医師が予防接種により、人を死亡させたことは事実である。しかし、医師は予防接種を行うという正当な業務であることから、35条に則り違法性は阻却され、医師の人権は尊重され、罪に問われることはないだろう。
このことから当件では、予防接種禍と国家補償の谷間、つまり、万が一COVID-19(Coronavirus Disease2019)ワクチン・予防接種により死亡してしまった場合には国が遺族に損失補償をするべきであると私は考える。
(2)損失補償の減額
しかし、損失補償にも例外がある。それが素因減責と自殺である。素因減責とは、不法行為の成立や損害の発生・拡大について被害者の素因が寄与・競合しているといえる場合には,その被害者の素因を斟酌して損害賠償額を減額するという理論だ。素因減責には、2種類ある。1つ目が「心因的要因」である。「心因的要因」とは簡単に言えば、被害者の心理的・精神的・性格的な問題ということだ。性格が個性の多様さとして通常想定される範囲を外れるものでない場合には、「心因的要因」による素因減責は認められないとされる。2つ目が「体質的要因」である。「体質的要因」とは、被害者の身体に疾患や生まれつきの身体的特徴(首が長いなど)を持つということである。この際に通常人と異なる特殊な身体的特徴を有していたとしても,それが疾患に当たらない場合は,特段の事情のない限り,その身体的特徴をもって素因減責できないと最高裁は判断した。つまり、体質的要因による素因減額は,損害の発生や拡大に寄与した体質的要因が「疾患」に当たる場合には素因減責が認められ,体質的要因が疾患に至らない「身体的特徴」にとどまる場合には,原則として素因減額は認められないということになる。
私の考える、素因減責と自殺の関係性は、「心因的要因」の場合、例えば過重労働によりうつ病を患い結果的に自ら死にたいと望み、自殺に至ったとしても認められるのは過重労働によりうつ病を患ったことに対する損害賠償のみで「心因的要因」による減額はみとめられないというもので、自殺に至ったとしても素因減責は認められないというものだ。
(3)ワクチン・予防接種により人を死亡させてしまった時の責任
実際にワクチン・予防接種が行われるようになったとき、そのワクチン・予防接種の中の何らかの成分により、アレルギー反応が出て、その患者が死亡してしまった場合。医師は罪に問われるのだろうか。
この問題を理解する点として、結果回避義務と信頼の原則がある。結果回避義務とは、結果が予見できたにもかかわらず、義務を怠り回避しなかったことで事故等が起きた場合、過失責任に問われる。当件において、過失の実行行為をいかに解するか、つまり医師が患者のアレルギーについて理解してワクチン・予防接種を行ったのかが問題となる。信頼の原則とは、行為者は,他者が適切な行動に出ることを信頼して行動してよく,他者の予想外の不適切な行動によって生じた法益侵害については,その行為者は過失責任を問われないというものである。当件では、医師が患者のアレルギー体質を確認し、適切な対応をした上でワクチン・予防接種を行ったのであれば信頼の原則により、過失責任に問われることはないが、医師が患者のアレルギー体質を確認せずに、ワクチン・予防接種を行ったのであれば結果回避義務に違反し、過失責任に問われる。
医師に過失があった場合、裁判を行うことになる。その際に過失があったということへの証拠ある事実が真偽不明であるときに、その事実を要件(前提)に生じる自己に有利な法律上の効果が認められないことによる不利益を証明責任という。薬害や当件のような医療訴訟において、弱者を保護するため、過失の推定と監督過失・組織的過失が認められている。過失の推定とは、反証がない限り、過失があったものと判断することをいい、監督過失とは、行為者を監督する立場の者が過失を予期するべきであるということである。
アレルギー反応が出て、本来死亡するはずだったが、患者がパニックになり、自らの意思で大量の薬を飲んでしまい、薬の過剰摂取により死亡してしまった場合はどうなるのか。
この問題は、因果関係の中断と断絶を理解する必要がある。因果関係の中断と断絶は、同一の結果に向けられた先行条件がその効果を発揮する以前に、それと無関係な後行条件によって結果が発生した場合であり、その効果は、先行条件となった行為とは別の行為(後行条件)によって結果が発生した場合には、先行条件がなくとも結果が発生した場合であるとして、先行条件と結果との間に条件関係は認められない。この場合に事実的因果関係と相当因果関係がある。事実的因果関係は「あれがなければ、これがない」と考えられる関係である。これに対し、相当因果関係は「原因事象が結果事象に対して、その確率を高めたか」と考える関係のことである。因果関係の中断は事実的因果関係のみ認めている。このような因果関係の有無を明らかにできないところから、条件関係を一定の範囲で限定するためのものである。これには、@危険増加の理論、A規範の保護目的の理論、B規範の保護範囲の理論などに分かれる。このような理論のことを客観的帰属論という。因果関係の断絶は、実行行為があっても結果発生に向けての因果の流れが始まる前に、その実行行為と全く無関係な別の行為によって結果が発生した場合は、当該実行行為と結果発生との間の条件関係が認められず、因果関係が否定され、どちらも認められない。
つまり、当件は患者が自ら薬の過剰摂取により死亡したことになり、アレルギー反応が出て死亡に向かっていたこととの因果関係は無くなると考える事実的因果関係ではなく、アレルギー反応が出たことにより薬の過剰摂取に至ったことから、相当因果関係であると理解できる。つまり因果関係の中断と断絶共に否定される。
つまり、本件では医師は罪に問われないと理解できる。
3.まとめ
私は感染症に対するワクチン・予防接種に関する訴訟については、現行の法律で十分に機能していることから改正を行うに至らないと考えるが、現状次にいつ新しい感染症が流行するかわからない以上、国家が緊急事態でのみある程度の強制力を持ち、適切な指導をすることで感染症が大流行することがないように、国家に関する一部の法改正が必要であると考えた。
<参考資料>
Wikipedia感染症 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9F%E6%9F%93%E7%97%87
コトバンク 経済的自由
https://kotobank.jp/word/%E7%B5%8C%E6%B8%88%E7%9A%84%E8%87%AA%E7%94%B1-58768
国家緊急権
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%B7%8A%E6%80%A5%E6%A8%A9-170144
信頼の原則
https://kotobank.jp/word/%E4%BF%A1%E9%A0%BC%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%89%87-159536
結果回避義務
https://kotobank.jp/word/%E7%B5%90%E6%9E%9C%E5%9B%9E%E9%81%BF%E7%BE%A9%E5%8B%99-677621
予防接種ワクチン禍事件
素因減責
http://www.koutuujikobengo.jp/soingengaku/
客観的帰属論
https://blog.goo.ne.jp/pota_2006/e/dc4b124c8082e5fac3023460c76f03ad
医療過誤訴訟における過失の基準−医療水準論
http://www.haralawoffice.com/archives/1765
中江章治先生授業ノート
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亀井髏ッ
「法学と感染症」 基礎教養演習
キーワード
COVID-19(Coronavirus
Disease2019)、国家緊急権と経済的自由、違法性阻却事由と人権保障、予防接種禍と国家補償の谷間、素因減責と自殺、結果回避義務と信頼の原則、証明責任、過失の推定と監督過失、因果関係の中断と断絶、客観的帰属論、
結論
2019年、中国でCOVID-19(Coronavirus Disease2019)が流行しはじめました。そして2020年、日本でもCOVID-19(Coronavirus Disease2019)が流行し、2020年8月2日COVID-19(Coronavirus Disease2019)の日本の感染者数3万7778人、死者数1008人になりました。ここまで感染症が拡大したことで、我が国の経済の流れはストップしてしまっています。そのため私は、国は早急にこれに対応するべく、国家を脅かす、感染症や災害などの事件や問題を改めて確認し、今までの対策よりも大きな対策、広範囲の対応をする必要があると考える。
1.国家緊急権と経済的自由 違法性阻却事由と人権保障
COVID-19(Coronavirus Disease2019)が日本でも流行したため、日本では飲食店などの人が密集するような場所を休業させるために、国家緊急権を発令するべきかどうかの討論がされている。まず、店を休業させる方法として3つある。1つは、今回政府が行った行政指導である。これは、休業要請という形で呼びかける方法である。この行政指導に従わなかったからと言って罰則などはない。2つは、法規命令である。これは侵害保留原則で、法律の根拠があれば、罰則を許されている。しかし、休業命令が違憲と判断された場合、その法律が無効になるため店を休業させることはできない。3つは、国家緊急権である。国家緊急権とは、戦争や災害など国家の平和と独立を脅かす緊急事態の場合、政府が平常の統治秩序では対応できないと判断したときに限り、憲法秩序を一時停止し、一部の機関に権限を与えたり、人権保障規定を停止したりすることによって、秩序の回復を図ることである。しかし、現在の日本では、この国家緊急権が今日本で発令できないとされている。その理由に、経済的自由がある。国家緊急権が発令すると、国が「全国の飲食店は営業禁止」といった場合、営業をすることができなくなってしまう。普通であれば、国民には財産権や基本的人権の自由権において経済的自由が保護されており、国やお国家は干渉できないとされている。だが、国家緊急権が発令された場合は、憲法秩序を一時停止、人権保障規定を停止しているため、経済的自由、人権保障が保護されなくなっている。そのため、国会などで、国家緊急権は、違憲なのか、それとも違法性阻却事由になるのかが討論されている。私は、人権や財産権が一時停止、制限を伴うことがあっても、国家緊急権は発令すべきと考える。その理由として、今回国は、国家緊急権を発令しないで自粛要請を行った。自粛要請には強制力がないため、この自粛に応じない人たちによって感染が急激に拡大した。これらを考えた上で私は、国家緊急権を発令すべきと考えた。私は人権や財産権が一時停止、制限を伴うことがあっても、人の命を守るためにこのような措置を取る必要があり違法性阻却事由が適用されると考える。そして、緊急事態においては、極めて限定的な私権制限は許容されてもいいのではないかと考えるからだ。
2.違法性阻却事由
違法性阻却事由の問題は他にもある。それは、COVID-19(Coronavirus Disease2019)に関するPCR検査の問題である。COVID-19(Coronavirus Disease2019)の感染が拡大することで、PCR
検査の件数も増加していている。PCR検査は、検査のための検体採取として、鼻腔・咽頭拭い液の採取を行う必要があり、検体採取は医行為に当たるため医師等の資格を有していないものが、PCR検査を行うことは医師法第17条に違反するとされている。しかし、COVID-19(Coronavirus Disease2019)の感染が拡大しているため、医療提供は維持していかなければならない。そのため、感染が拡大することで、医療現場が圧迫し検体採取ができる医師が確保できず、検査体制の整備ができないような場合は、医師資格を有していない歯科医師でも検体採取を行うことは、やむを得ないとして、医師法第17条との関係では違法性が阻却され得るものとした。これを考えると私は、一つの法によってCOVID-19(Coronavirus Disease2019)の対策の壁になってしまっていることがある。そのため、このような場合は、違法性阻却事由使うことが適切だと考える。
3予防接種禍と国家補償の谷間、素因減責と自殺、
今、世界でCOVID-19(Coronavirus Disease2019)の予防接種禍(ワクチン)の開発が進んでいるその開発が進むと新たな問題が生じてくる。その問題とは、予防接種禍(ワクチン)事故が起きた場合の国家補償の谷間の問題である。まず大前提として、@正当な目的で財産権を侵害する場合、国は補償しなければならない(憲法29条)。A国が違法なことをした場合は賠償しなければならない(国家賠償)。Aにおいて、かつては国が過ちを犯す事はないとされていた(国家無答責)が、現在はこれが否定されている。@とAを前提に、国が予防接種禍(ワクチン)を推奨する予防接種禍(ワクチン)の事故が起こった場合、どのような法的構成になるのだろうか。賠償か、保証か、それはとても大事な問題となってくる。では賠償と保証の違いを考えていこう。簡単に言うと、国が行った行為が違法であり、有過失であれば、賠償になる。そして、行為が合法であれば、有過失であっても無過失であっても補償となる。ここで、補償は2つに分けることができる。1つは通説である、全額補償をすべきとしている、完全補償説である。2つは判例でよく使われる、合法的な価額で良いとしている相当補償説である。判例では、相当補償説が使われているため国が補償の場合の額は小さいものとなってしまう。逆に、賠償の場合は全額補填すべきとしているため、訴訟よりも額が大きくなる。そのため被害者救済のためには、賠償の方が良いとされている。では、どのようにしたら賠償になるのだろうか。賠償で行くには人権侵害のおそれ(過失)を認定する必要がある。判例を見ると国は訴えられた場合、素因減責を使っている。素因減責とは、自殺などの場合に被害者にもおおもとの原因が関わっているときに、その分賠償額から減額すると言う考え方である。例えば、国が推奨したCOVID-19(Coronavirus
Disease2019)の予防接種禍(ワクチン)を使用したことで、後遺症が残り自殺をしてしまった場合、国は自殺死について責任を負うのでしょうか。ここでの賠償の範囲は、不法行為によって生じる通常の損害と予見可能な特別な事情から生じる損害の2つになる。素因減責にも2種類ある。1つは、被害者の精神的傾向である心因的素因です。これは被害者が賠償性神経症、うつ病などの場合です。2つは、被害者の身体的特徴などの体質的素因です。これは事故前から存在した被害者の身体的特徴(ヘルニアや脊柱管狭窄)です。心因的素因では、原因となった事故が軽微で通常人に対し心理的影響与える程度のものではない場合や一般的な治療相当期間を超えて治療を必要とした場合、自覚症状に見合う場合これらの場合は、考慮し、素因減額される傾向にある。体質的素因では、老年齢相応の場合は素因減額されない傾向にあり、身体的特徴(通常の体質と異なる特徴)の場合は素因減額されない。素因減額のみでなく、過失相殺による減額割合もある場合は、それぞれの減額割合を示した上で減額するのが通常である。これを考えるとこの場では、国が推奨した予防接種禍(ワクチン)で後遺症が残り自殺をしてしまった場合、自殺の責任まで負うのかどうかは被害者の精神的状況や事故前の身体的なものによって結果は大きく変わってくるため、ここでは結論はだせない。
4.結果回避義務と信頼の原則 過失の推定と監督過失
監督過失とは、言葉の通り監督者の過失責任のことである。その過失にも、結果を引き起こした直接行為者の過失行為を防止すべき立場にある監督者の過失や結果発生を防止すべき物的、人的体制を整備すべき立場にある管理者の過失などがある。結果回避義務と信頼の原則は、別々に単語の意味を確認していこう。まず、結果回避義務とは、予見できた損害を回避すべき義務。この義務を怠ったため事故などが生じた場合、注意義務違反として過失責任を問われることである。信頼の原則とは、「行為者がある行為をなすにあたって、被害者あるいは第三者が適切な行動をすることを信頼するのが相当な場合には、たとい被害者あるいは第三者の不適切な行動によって結果が発生したとしても、それに対して責任を負わない」という原則のことである。結果回避義務は、予見可能性を緩やかに解する危惧感説と親和性がある。この結果回避義務と信頼の原則は交通事故判例によく使われるが、チーム医療、分業体制などにも使われている。チーム医療を行う診療科では、お互いの役割を認識し、患者の治療に専念することが重要となっている。そのため、チームの誰かが過失により医療事故を起こしてしまった場合、チームの指導者が監督過失を問われるのか、指導者と言っても、相手を信頼した上の事故であるから、注意義務違反を免れるのかが問題となってくる。これには、代表的な判例として、北海道大学医学部付属病院電気メス事件がある。これは、チーム医療における信頼の原則が争点となったもので、北海道大学医学部付属病院電気メス事件では、医師らの刑事責任が問われた。内容は、動脈管開存症の幼児に対して手術が施行されたところ、手術自体は成功したが、看護師による電気メス器の誤接続により、患児の右下腿に重度の熱傷を生じさせてしまい、右下腿を切断することになった。そして、この看護師と執刀医が業務上過失傷害罪で起訴された。1審は、看護師に対しては、ケーブルの誤接続について、有罪判決を下したが、執刀医については、ケーブル接続の点検確認を行ったが、過失の推定はできなかったとして、結果回避義務と信頼の原則を適用し、注意義務違反を否定し、無罪を言い渡した。この判例を読んで私は、医療者は患者の危険を防止する立場にあるから、信頼の原則が適用され、チーム医療の中心的人物が刑事責任を免れたりするのは被害者や被害者の家族は、納得しないのではないのではないかと思った。
5.証明責任、因果関係の中断と断絶、客観的帰属論、
因果関係とは、ある事実と別のある事実との間に発生する、原因と結果の関係のことである。法学においては、因果関係が存在することが、法律による効果発生の要件となっている場合がある。因果関係が問題となる事件は、刑法と民法に大きく分類できる。刑法では、社会契約論をとっており、実行行為と結果との間に因果関係があることが、結果について行為者に客観的帰責がある場合、要件であるとされる。そのため、条件関係だけでは構成要件に該当する対象が余りにも拡大しすぎ、偶発的な事態や異常な事態による結果についても、帰責されてしまうおそれがある。このように、ある行為からある結果が発生することが一般に予想することができない場合は、因果関係の内容として、条件関係に加えて相当性があるとされる。そのため、相当説である、相当因果関係が適用される。結果犯の場合は、構成要件要素として、実行行為と結果の間に因果関係が必要とされる。民法では、功利主義をとっており、損害賠償および不当利得の事件において問題となる。行為者に賠償責任を負わせるためには、行為と発生した損害の間に因果関係がなければならない。このように、条件関係に基づいて認められる因果関係の場合は、条件説である、事実的因果関係が適用される。因果関係には、中断と断絶がある。中断とは、因果関係の進行中に自然的事実または自由かつ故意に基づく他人の行為が介入したことで、因果関係が中断されることだ。例えば、甲がAさんを殴ったが、そのあと、第三者がAさんを殴り、Aさんがしんでしまった。この場合、甲の行為とAの死亡との間の因果関係の中断は否定される。これが中断である。断絶は、同じ結果に向けられた先行条件が、その効果を発揮する以前に、それと無関係な後行条件によって結果が発生した場合のことである。例えば、甲がAさんに5時間後に死ぬ薬を飲ませたが、1時間後にAさんが交通事故で死んでしまった。この場合、甲の行為とAの死亡との間の因果関係がないどころか、条件関係すら異事になる。これが断絶だ。次に、先程出てきた相対因果関係説について詳しく見ていこう。相対因果関係説は、3つに分けることができる。主観説、客観説、折衷説である。しかし、ドイツ法には因果関係論自体がおかしいと批判している客観的帰属論がある。客観的帰属論とは、行為者の行為が行為の客体に、危険を創出した場合のみ、行為に帰属されるというものである。先程述べたように、刑法では主に、条件説が使われ、民法では、相対説が使われる。ここで、条件説と相対説について詳しく説明していく。条件説のいいところは、あれなければこれなしで判断できるため、判断基準が明快でわかりやすい。しかし、救急事例など異常な経過を得た文字まで因果関係を認めることになってしまう。この相当説の良いところは、常識的な範囲で因果関係を認めるため妥当な結論を導ける。しかし、相対性と言う基準が曖昧。そのため刑法は処罰の可否を決めるものである以上、単純に判断できるなくてはならない。そのために、刑法では相対説に当てはめることができない。では、国が推奨している予防接種禍(ワクチン)の事故の場合、因果関係を使うことはできるだろうか。因果関係の立証は、被害者側がするものである。今回で言えば、予防接種を受けた人である。しかし、因果関係を立証するものが、ワクチン、公害などの場合は、専門的な知識もない一般人が証明するのはとても困難なものである。そこで、被害者側の証明の負担を和らげる曖昧な法理がある。それは、疫学的因果関係と割合的因果関係である。このように、証明責任を緩くすると、被害者の不在につながるのだ。しかし、証明責任を緩くすると、その分加害者はどんどん賠償させられることになるため、立証には両者のバランスをとることが必要となってくる。これを考えると、もしワクチンなので事故があった場合、因果関係を立証して賠償請求を求めることが出来るように思えるかもしれないが、私はやはり、ワクチンを作った側の方が圧倒的に知識があるため、いくら法理で証明責任を緩めても証明するのは難しいのではないかと感じた。
6.これらを踏まえて
これら5つの問題を考えると、今回のCOVID-19(Coronavirus Disease2019)のように世界全体に影響を与えるような感染症や災害が起きた場合、今までの法律や社会の仕組みでは太刀打ちできない。そのため、最低でもこの5つの問題を改めて考え、対処し、またCOVID-19(Coronavirus
Disease2019)のような驚異的な災害、感染症が起きたときに備えなくてはならない。
参考文献
北海道大学医学部付属病院電気メス事件
法務省ホームページ
輸血梅毒事件
PCR検査に係る人材に関する懇談会 資料
医政局ホームページ
Windows 10 版のメールから送信
吾妻颯太
法学と感染症
〈結論〉
感染症は、国で防ぐことはなかなかできないと思うし、予防接種などで数人が病気にかかってしまってもそれは国民全員に病気にならないようにやっていることなので、国に責任はないと考える。感染症は個人個人で気をつけていくべきものだと思う。明確に表せられるのであれば、法律などを作り同じような判例で違う結果が起こらないようになればいいと思った。
1. はじめに
テーマである「感染症」とは、どのような病気を指すのか?「感染症」とは、病原体(=病気を起こす小さな生物)が身体に侵入して、症状がでる病気のことである。最近話題になっているCOVID-19(Coronavirus Disease2019)(新型コロナウイルス感染症)などもこれに分類される。ほかに私たちになじみのあるものは、インフルエンザやA型・B型肝炎、水ぼうそう、おたふくかぜなどがあり、これらはワクチンが開発されており、定期的もしくは任意によって予防接種をすることができる。インフルエンザなど流行りはじめで、ワクチンができるまで世界で4000万人以上が亡くなっていた。それほどにワクチンがない状態の感染症とは危険なものであることがわかる。
2. ロックダウンの腰砕け状況
特措法と感染症法が3月26日に政令改正が行われ、新型コロナウイルス感染症においても、感染症法33条による交通制限・遮断を実施できるようになった。その結果、特措法ではなく、感染症法を適用して、72時間限定で交通制限・遮断を行うことができるようになった。しかし、この条文では、店舗の閉鎖や外出禁止を導くことが難しく、ロックダウンを行うに十分なものとはいえない。特措法が禁止ではなく、「要請」「指示」といった曖昧な書きぶりとなっているのは、国家緊急権の発動が謙抑的であるからである。国家緊急権は平時の統治機関では対処できない非常事態で発動されるものであり、新型コロナウイルス感染症対策にも用いられた。緊急事態宣言が発令されたことによって、お店なども閉めなくてはいけなくなり、海外からの商品も制限されるようになった。国によって国民の経済的自由が制限されることになり、生活が困難になる人も大勢表れる結果になった。しかし、第1優先は人の命であるため、ある程度の制限はあっていいと思う。
3. PCR検査のための鼻腔・咽頭拭い液の採取の医行為・歯科医行為該当性
新型コロナウイルス感染症の診断を目的としたPCR検査のための鼻腔・咽頭拭い液の採取については、「歯科医行為」ではなく「医行為」に該当するものであり、医師等の資格を有さない歯科医師が反復継続する意思をもって行えば、基本的には、医師法(昭和23年法律第201号)第17条に違反する。違法性阻却事由の可否は個別具体的に判断されるものであるが、歯科医師は、その養成課程において、感染症対策や口腔領域の構造、検体検査についての教育を受けており、また、口腔領域に加え、口腔と連続する領域である鼻腔や咽頭周囲の治療にも関わっていることを踏まえると、新型コロナウイルス感染症の感染が拡大している状況下で、検体採取を行う医師、看護職員又は臨床検査技師が確保できないことを理由に必要な検査体制の整備ができないような場合においては、少なくとも下記の条件の下で新型コロナウイルス感染症の診断を目的としたPCR検査のための鼻腔・咽頭拭い液の採取を歯科医師が行うことは、公衆衛生上の観点からやむを得ないものとして、医師法第17条との関係では違法性が阻却され得るものと考えられる。このことにより、歯科医師と患者の人権が保障され、悪いことをしていないのに逮捕されるということがなくなり、緊急時に気兼ねなく検査ができるようになったため、今後このようなことがあり、適切な処置であることがわかっているなら、迷わず処置を行えるようになったため、重要なことだと思った。
4. 予防接種禍集団訴訟
各地で争われている予防接種禍集団訴訟のうち、初めての高裁レベルでの判決が平成4年12月18日東京高裁で下された(以下、本判決という)(判時1445号3頁)。本判決は、第1審東京地裁判決昭和59・5・18判時1118号28頁が容認した損失補償請求を否定した上で、小樽種痘禍訴訟の最高裁判決平成3・4・19民集45巻4・367頁の論理に則り、除斥期間経過による請求棄却(3名)を除く全員に対して国家賠償請求を認めるものであった。予防接種禍を巡っては、「国家補償の谷間」と呼ばれる事例の代表的なケースとして、いかに救済のための理論を構築するか大いに議論の存するところであった。予防接種禍をはじめ「国家補償の谷間」の場合にも国は損失を填補すべきであるが、その事由としては、(1)国の活動に起因した損失であること、(2)その損失を被害者に負担させることは適当ではないこと、の2点だけであるとされた。私は、予防接種禍はミスなどがない限り被告側は重い責任を負わなくていいと思う。
5. 原子力発電・福島地方裁判所平成30年2月20日判決
100歳を超える高齢であったAはデイサービスに通うなどしていたが、Yの運転する福島第一原子力発電所の原子力事故により、サービスが中止となり、一日中自宅にいるようになった。その後、Aの居住していた地域が計画的避難区域に指定されたことを報道で知り、Aはその翌日に自殺に及んだ。このことにつき、Aの親族であるXらが、福島第一原子力発電所の原子力事故によりAが精神的負担を負い、結果自殺に及んだものとして、当該原子力発電所を設置、運転していたYに、原子力損害賠償法3条1項などに基づく損害賠償を求めた。最判所は、原子力事故により避難を余儀なくされたことが自死に最終的な引き金になったとして、事故とAの自死との間の因果関係を認めた。そのうえで、特段先例には言及しないものの、A側の事情を挙げ、民法722条2項の類推適用により、4割の素因減責も認めた。尿路感染症および糖尿病によって素因減責が認められた例もある。A以外の人は自殺をしていないため素因減責の割合をもう少し上げてもいいと感じた。
6. 感染症の拡大の過失
国から休業要請が来ているのに、店舗・事業者が注意を怠った結果、感染者の発生という@結果の予見可能性があったのにも関わらず、A感染者の発生という結果回避義務を怠った、という2つの要素を踏んでしまった場合過失があると判断されることになる。休業要請を行なっていたのに、これを無視などして感染者を出してしまったら、結果回避義務を果たしていたか厳密に判断されることになる。信頼の原則では、客は正しい行動をしていると捉えることができるため、この場合、店側が責任を負うことになる。
7. 輸血による梅毒感染
医療過誤訴訟における証明負担の軽減策として設けられた、4条1項8号の「医療行為による不法行為訴訟において、医療機関は、医療行為と損害結果との間に因果関係がないこと、又は過失が存在しないことについて証明責任を負う」という規定がある。患者は医療機関と比べて相対的に弱い立場にいる。民事訴訟法によって「主張するものが証明責任を負う」と定められているため、証明責任の分配に関する一般基準に従うと、患者は、常に証明不能を理由に損害賠償を得られなくなってしまうためである。北京市第一中級人民法院民事判決書(2008年3月28日の判決)では、原告が貧血のため、入院し、輸血を受けたが、その9日後に梅毒感染と診断されたため裁判を起こした。最高裁では、「Yは診療行為とXの梅毒感染との間に因果関係がないこと及び診療行為の過失がないことを立証すべきである。YはXが輸血を受ける前に、梅毒に感染していたことを立証できないほか、紛争が発生した後Xのカルテを人為的に加筆したので、因果関係及びYの過失の推定が認定されることを免れず、管理を怠った監督過失と見なされる」とし、Xの請求を認め、YはXに対し、慰謝料一〇万元の賠償を命じた。証明責任を負う側はだいぶ不利だと感じた。
8. 福岡地方裁判所 昭和49年171号判決
この裁判では、医者がけがによって破傷風にかかり、死んでしまった子どもをちゃんと診察しなかったために起きた。医師の適当な診断と、少年は破傷風によってなくなったことは因果関係がなりたつため、医師には多額の賠償金が課せられた。破傷風の前駆症状が出る以前の潜伏期においては、患者が破傷風に罹患しているか否かの判断は極めて困難であるとされているが、傷を負った日の天気や状況を考えれば、破傷風の可能性を考えるのは当然とされるからである。被告に対する治療およびその後の一連の敬意を監察すると、初診時の創傷処置の不手際、初診日およびそれに続く治療日にペニシリン等の抗生剤の投与を施さなかったこと、並びに破傷風の前駆症状とそれが出た場合の指示を全く欠いた点{これらはいずれも、なくなった子どもおよび原告に対する問診の不十分さおよび創傷処置の不手際(砂様の異物の存在を看過したこと)}と相まって、破傷風罹患の現実的可能性を抱き得なかったことに端を発していることは、前期認定より容易に推測されるところであるが、重要な事実として指摘できるのであり、これは子どもに対する治療並びに子どもおよび原告に対する教示が、本件事故当時の一般開業医として要求される臨床医学上の知識技術を駆使して適切になされなかったことを意味するのであり、不法行為の成立要件たる過失の存在は否定しない。因果関係の概念からして,因果関係の中断というのは存在し得ない。因果関係というのは、専ら、客観的自然科学的考察法であり、介在原因の主観的事情とはまったく関係がない。人の行為は結果の条件かそうでないかのどちらかである。遡及禁止の場合、最初の原因設定者の因果関係の断絶がされることはない。第三者や被害者自身の介在行為があっても、最初の行為が結果の発生まで持続的影響を及ぼしている限り、第三者や被害者自身の行為は最初の原因と相まって結果にいたる因果連鎖を創出する。因果関係の負責範囲が広くなることが既に客観的面で限定されるべきなら、それは規範的限定で実現される。すなわち、遡及禁止説も因果関係論としては廃れたのであり、現代刑法学では、客観的帰属論に吸収されたのである。これは、難しいところだが医師という立場である限り、破傷風の可能性を考えておくべきだと感じた。
9. まとめ
今話題の感染症はさまざまな感染経路があり、自分は国が責任を持たなくてもよいだろうと考えていた事例も合わせて、多くの判例が訴えられている側がお金を払うことになっていたと感じた。感染症は、流行り始めるとなかなか止めることはできないし、インフルエンザのような毎年感染者が出ているものもあり、予防注射をしても感染してしまう人は多くいる。あきらかにどちらが悪いかがわかる時はいいが、大抵、判断が難しいと思う。そのため、今後新たな感染症がまた出てこないとも考えられないため、少しでも判断材料が増えるように新しい法律を作るなどの、予防策を作っておくべきだと感じた。
出典
Wikipedia 「感染症」
東洋経済オンライン
福島地方裁判所平成30年2月20日判決
名古屋大學法政論集
北京市第一中級人民法院民事判決書
福岡地方裁判所 昭和49年171号判決
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中嶋 翔
お疲れ様です。
昨日が提出期限でしたが、うまく送信できませんでしたので、
提出が遅れてしまいました。
法学と感染症
19J115001
中嶋翔
キーワード
Covid-19(Coronavirus Disease2019) 国家緊急権と経済的自由 違法性阻却事由と人権保障 予防接種禍と国家補償の谷間 素因減責と自殺 結果回避義務と信頼の原則 証明責任 過失の推定と監督過失 因果関係の中断と断絶 客観的帰属論
【結論】
本当の意味で感染症を抑えるためには、国の法的拘束力が強い権利が必要になる。
T.はじめに
2020年は日本にとって、東京オリンピック・パラリンピックによって大いに盛り上がる年になる予定だった。しかし、Covid-19(Coronavirus Disease2019)の流行という、いまだ経験したことのない事態によって、オリンピック・パラリンピックの開催は延期され、日本だけでなく、世界中でマスクの着用や人との距離を開けるといった、新たな生活様式が生まれている。では、法においてはどうだろう?Covid-19(Coronavirus Disease2019)の影響で生まれる問題点について考察していく。
U.感染症対策の責務
まずは誰が感染症対策の責務を担うのかという問題に取り組まなければならない。グローバル化や開発によって人や物の移動・交流が広まると感染症の流行する範囲も大きく広がった。その結果、パンデミックに至る可能性が高まり、国家単位に縛られない国際的対応の需要が高まっている。が、それでもなお、重要な役割を担うのは国家であることに変わりはない。国家が国民の安全や衛生を守ることは夜警国家以来の伝統である。では、国家が感染症を防ぐために行う必要がある政策は、法とどのような関係を持ち、どのような影響をうけているのだろうか。
V.休業要請
感染症の拡大の防止のために、大都市で行われたのが店や会社の休業要請である。このことにより、人と人の密が軽減され、感染症によるクラスターをある程度防ぐことができたと考えられる。では、休業要請と法の間にはどのような関係があるだろうか、店を休業させるための法規構成を見て考えていく。
@.行政指導
行政指導とは行政が相手方の任意を求める行為である。今回、東京都で行われた飲食店や夜の街の休業要請はこれに当たる。行政指導のメリットとしては、法律の留保が不要であり、迅速性・柔軟性があるということである。逆にデメリットとしては、指導内容に従うかどうかは、相手方の任意に委ねられており、法的義務や権利・効果が生じないという点である。(判例:最判平成5年2月18日武蔵野市マンション訴訟)これにより、今回の東京都の要請にも従わない人が少数だが存在した。
A.法規命令
法規命令は、行政指導とは違いある程度の法的拘束力を有している。しかし、その行為には法律の根拠が必要になってくる。(侵害留保原則)また、違憲審査の対象となるため、もし違憲と判断された場合には、法律(特借法)が無効となり店を休業することができなくなる。
違憲審査の基準は、判例(最判平成元年1月20日)より二重の基準論を採用すると、休業命令の問題は商業の選択・営業の自由の面から経済的自由(積極的目的)に該当するため、審査基準は緩やかになると考えられる。
B.国家緊急権
国家緊急権とは緊急事態の際に憲法を無視して命令などをできる権利である。現在、日本国憲法では、この権限に関する規定はないというのが多数説である。しかし、世界を見るとフランスやドイツには、その規定が存在している。
国家緊急権で問題となるのは、権限の濫用である。もし濫用されれば、独裁が可能になってしまう。そしてそもそも憲法に明文規定がないため解釈で認めても良いのかという問題もある。また国家緊急権と経済的自由について考えてみると、仮に国家緊急権が認められたとしても、国民の経済的自由を著しく侵害する可能性があると考えられる。
休業要請を行政が行う場合は以上の3つが挙げられる。今回の日本で行われた休業要請を見てみると、従わない者もいたため、本当は国家緊急権という法的拘束力の強い権利を駆使し、感染を予防しなければならないのだと思う。しかし、経済的自由や、権利の濫用の虞などを考えると簡単には実現しないと考える。
W.ワクチン接種
感染症予防において最も重要なのは、ワクチンを作り、体に抗体を作ることである。しかし、予防接種は体に病原菌を入れるその特性から問題となることが多い。
全国でCovid-19(Coronavirus
Disease2019)の予防接種を行い、それが原因となって死者が出てしまった場合、どのような法的問題が起こるかについて考えていく。
@.訴訟を起こすことは可能か
訴訟については憲法と国家賠償法にその規定がある。憲法29条では、国民の財産権を保障している。また国賠法1条には、「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。」とある。以上のような法律から訴訟を提起することは可能であると考える。
A保障か賠償か
訴訟を起こせたとして、国が接種を推奨するワクチンで事故が起きた場合、どのような法的構成をとるだろうか。この事件のケースでは、国に違法性は認められるが、過失は認められない。そうすると国は相手方に対して、賠償責任を負うか(違法・有過失)補償責任を負うか(有過失・合法、無過失・合法)が問題となる。(予防接種禍と国家補償の谷間)
判例は「新型インフルエンザ予防接種禍訴訟」である。この事件で裁判所は、違法・無過失である国の責任を違法・有過失でとらえ、損害賠償を認めた。理由としては、損害賠償のほうが損害補償より額が大きいこと。過失の推定が人権の侵害に当たる可能性があることが挙げられる。
この件に関しては、賠償責任ではなく補償責任(英米法的考え)にしたほうがよかったのではという意見もある。個人の意見としては、ワクチン接種による事故は頻繁に起こるものではなく、かつ被害者にとっては損害が大きいことから保障より金額の大きい損害賠償を認めた判決を支持する。
B.証明責任
証明責任とは、真偽不明な対象に関して証明を負う責任である。国に損害賠償を請求する場合、因果関係の立証は被害者側がすることになる。(民事訴訟法)
問題点としては、ワクチン・公害などの場合、専門的な知識が必要になることである。そのため知識のない一般人が証明することは非常に難しい。そこで、被害者側の証明の負担を和らげるために、過失の推定と監督過失・組織的過失が存在している。過失の推定とは、反証がない限り過失があったものと判断することである。また監督過失・組織的過失とは、直接責任の行為者の他に管理者や監督者、その組織の過失責任を問題とするものである。
過失の推定と監督過失・組織的過失は、弱者保護の観点から重要ではあるが、こじつけで過失ありとし、賠償金額を増やすことは本当に正しいのかが問題となる。したがって、被害者と加害者のバランスをとることが重要になってくる。
逸失利益とは、交通事故などの不法行為により、死亡したり、けがをしたりした人が将来得られていたはずの利益のことである。逸失利益が認められるかについては、国が使用したワクチンによって死亡または後遺症が残ったという因果関係の中断と断絶がされていないことが必要になる。
予防接種と逸失利益についての判例としては、「東京地裁平成13年5月24日」が挙げられる。裁判所は、「発症の経過及び症状等に照らすと、本件予防接種後に発症したXの本件症状は・・・遅延型アレルギー反応を原因とするものと推認される。」と判示した。また、「Xは本件予防接種まで非常に健康であったところ、本件予防接種から数週間して発症していること、Xの本件症状は本件予防接種を原因とするものと考えることが医学的に可能であること(本件において右可能性を否定するに足る事情は存在しない。)、他方、Xの本件症状について他に医学的に有力な原因が見当たらないことなどを総合すれば、Xの本件症状と本件予防接種との間の因果関係の存在が推認される。」と判断した。
以上のことからワクチン接種により、後遺症が発生した場合には、因果関係の中断はなく、継続しているとして逸失利益が認められると考える。
D.素因減責
素因減責とは、不法行為に基づく損害賠償請求において,当事者間での損害の公平な分担の見地から,不法行為の成立や損害の発生・拡大について被害者にも過失(落ち度や不注意)があるといえる場合,その被害者の過失を斟酌して損害賠償額を減額できることである。(=過失相殺)この素因減責が予防接種事故において適用されるかを考える。
判例は、「最判平成3年4月19日小樽種痘禍事件」である。この判決で裁判所は「予防接種によって後遺傷害が発生した場合には、禁忌者を識別するために必要とされる予診が尽くされたが禁忌者に該当すると認められる事由を発見することができなかったこと、被接種者が個人的素因を有していたこと等の特段の事情が認められない限り、被接種者は禁忌者に該当していたと推定するのが相当である。」とした。このことから、ワクチン接種者が自身のアレルギー体質により、後遺障害又は死亡したとしても、それは被害者に過失があったわけではなく、被害者は禁忌者として認められることから、素因減責は存在しないと考える。
では、自殺についてはどうだろうか、素因減責と自殺についての判例としては、「最高裁平成5年9月9日」が挙げられる。この判決では、@事故の後遺症の程度A後遺症によるうつ病からの自殺率は全人口の自殺率と比較してはるかに高い。ことをポイントに挙げ、事故と被害者の自殺との間に相当因果関係があるとした上,自殺には被害者の心因的要因も寄与しているとして相応の減額をして死亡による損害額を定めた原審の判断は,正当であるとされた。
判例から見ると、被害者の体質による素因減責は認められないが、後遺症による精神的苦痛から自殺してしまった場合、素因減責は認められると考えられる。
E.予防接種の義務付け
感染症対策のため、予防接種を国が国民に義務付け、集団での予防接種を行うことが起こりうるかもしれない。そうした場合、結果回避義務と信頼の原則の面で問題が発生する。
結果回避義務とは予見できた損害を回避すべき義務であり、この義務を怠ったため事故などが生じた場合、注意義務違反として過失責任を問われること(今回のケースでは、国が予防接種による禁忌者を予見できたのでは?ということ)であり、
信頼の原則とは、被害者または第三者が適切な行動を行うことを信頼できる場合、それによって生じた損害について、行為者は一切の責任を取る必要はない、という原則のことである。
(今回のケースでは、国に委任された医者に責任があるのでは?ということ)
判例は、「東京高裁平成4年12月18日」である。判決としては「予防接種は時に重篤な副作用を生じるおそれがあるもので、危険を伴うものであり、その危険をなくすためには事前に医師が予診を充分にして、禁忌者を的確に識別・除外する体制を作る必要がある。厚生大臣としては、右の趣旨に沿った具体的施策を立案し、それに沿って省令等を制定し、かつ、予防接種業務の実施主体である市町村長を地方自治法150条に基づき指揮監督し(法に基づく接種の場合)、あるいは地方自治法245条等に基づき地方公共団体に助言・勧告(勧奨接種の場合)し接種担当医師や国民を対象に予防接種の副作用や禁忌について周知を図るなどの措置をとる義務があったものというべきである。」とされている。
判例では、国が結果回避義務を怠った(過失責任)ことを認め、損害賠償の支払いを国に命じている。また、信頼の原則については、接種担当医師には責任はないと判決文から理解することができる。
以上のことを考えると、感染症対策として国が強制的に予防接種を国民に課すことは、感染症の拡大を防ぐためうえで最も効率のいいことだが、危険が大きいため(現に予防接種法の変更により現在では、定期接種に
かせられた「義務接種」が「努力義務」へと変更され、「集団接種」という国の規制が緩和され、 個人(保護者)が接種の意義とリスクを理解したうえで接種に同意する「個別接種」へと大きく転換した。)個人の意見としては、集団での義務付けられた予防接種を行うことには、賛同することができない。
X.領事館の閉鎖
コロナ禍の問題の一つとして、アメリカが、テキサス州ヒューストンの中国総領事館を閉鎖するよう中国政府に命じたことが挙げられる。米国務省の報道官の声明によると、「米国の知的財産権と米国民の個人情報を守るため」の措置とされている。これに対し中国側も報復として、四川省成都にあるアメリカ総領事館を閉鎖すると命令した。
このような事態は違法性阻却事由と人権保障での問題が発生する。
まず前提として、領事館の運営については、国際法上、接受国の国内法令を尊重する義務が課されている。このことを考慮して、もし日本で領事館の閉鎖が進められたら、それが違法性阻却事由(=正当防衛)に当たるかについて考えてみる。
正当防衛とは、急迫不正の侵害に対して、自己または他人の権利を防衛するためにやむを得ずにした反撃行為をいう。正当防衛が成立するためには、前提として、急迫性の侵害があり、侵害が不正であること。行った防衛行為の目的が自己または他人の権利防衛であり、「やむを得ず」にした行為に必要性・相当性があること。そして防衛の意思があることが必要になる。
領事館の閉鎖について、この要件を当てはめると、「国の知的財産権と国民の個人情報を守るため。」という観点から正当防衛が成立することができると自分は考える。
また、こうした高度な政治的行政を扱った判例としては、「最大判昭和53年10月4日マクリーン事件」が挙げられる。判決のポイントとしては、@在留外国人にも基本的人権は存在する(在留制度の枠内で与えられたもの)A裁量権が、事実誤認に基づいていたり、明白に合理性を欠いていた場合に裁判所が違法判断する。ということが挙げられる。
領事館は領事の活動の拠点として設置される在外公館ではあるが、米国内には中国の領事館は5つ存在し(日本にも5都市存在する)たとえ一つを閉鎖したからと言って外国人の人権の侵害の程度は低いことが考えられる(合理性を欠くわけではない)
したがって、スパイ行為の疑いのある領事館を閉鎖することは、自国のための正当防衛に当たり、かつ裁判所の裁量も低いことから違法性阻却事由に当たると考える。
Y.客観的帰属論
因果関係論は条件説対相当説そして相当因果関係説内部の問題に移り、現在では、相当因果関係説と客観的帰属論の争いへと移行してきている。
相当因果関係説が採用できない理由としては、行為後の事情についての判断構造が不明確な点が挙げられる。
判例は「最判平成2年11月20日大阪南港事件」で、第三者の暴行が介在した場合でも当初の暴行と死亡との間の因果関係が認められるとされた事例である。
この事件を相当因果関係説の枠組みで判断すると、第三者による故意の暴行の介入は異常な事態であり、早められた死亡との関係では因果関係を否定することになるのか、あるいは第一暴行によって致命傷が加えられていることから、相当因果関係を肯定するのかは明らかではないのである。
では大阪南港事件の事例を客観的帰属論で見てみるとどうなるだろうか。客観的帰属論とは、惹起された結果は、行為者の行為が行為の客体に危険を創出し、その危険が具体的な結果に実現した(危険実現)という場合にのみ、行為に帰属されるという理論である。
この構造を大阪南港事件に当てはめると、第一暴行の危険は極めて大きいものであるのに対して、第二暴行は死期を若干早めたものに過ぎないことから、第一暴行の危険が結果に実現したものと言える。
Z.おわりに
法学と感染症について、今回のコロナ禍により行われた政策を中心に考えて来たが、結論にもある通り、自分の意見としては本当の意味で感染症を防止するためには、国家緊急権やワクチン予防接種の義務化といった法的拘束力の強い権利を利用しなければ、不可能だと感じた。しかし、拘束力を強くしすぎるとデメリットも多く発生するため、法学と感染症予防とのバランスを図ることが重要だと思った。
参照・引用
図書
高橋則夫「刑法総論」成文堂 2018年出版
長谷部恭男・佐伯仁志・酒巻匡「判例六法」有斐閣 2020年出版
Web
https://www.web-nippyo.jp/17667/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%B7%8A%E6%80%A5%E6%A8%A9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%BC%E6%98%8E%E8%B2%AC%E4%BB%BB
http://www.medsafe.net/precedent/hanketsu_0_393.html
http://www.koutuujikobengo.jp/soingengaku/
https://kotobank.jp/word/%E7%B5%90%E6%9E%9C%E5%9B%9E%E9%81%BF%E7%BE%A9%E5%8B%99-677621
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%A0%BC%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%89%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%98%E4%BA%8B%E9%A4%A8
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遠藤美紅
「法学と感染症」
19J115012 遠藤美紅
現在世界的に大流行している感染症COVID-19(Coronavirus Disease2019)の収束には、安全性の確保された抗ウイルス薬およびワクチンの早急な開発、また、国の感染症法によるウイルスの感染に繋がる行動の更なる制限化、そして新たな生活様式の定着が必須であると考える。
1.国家緊急権と経済的自由
まず、国家緊急権(緊急事態条項)とは戦争や災害など国家の平和と独立を脅かす緊急事態に際して、政府が平常の統治秩序では対応できないと判断した際に、憲法秩序を一時停止し内閣や警察など一部の機関に大幅な権限を与えたり、人権保護規定を停止したりするなどの非常措置をとることによって秩序の回復を図る権限のことである。日本国憲法はこのような国家緊急権の危険性を認識し、これまであえてこれらの規定を設けなかった。しかし、近時国会の憲法審査会などにおいて、日本国憲法に緊急事態条項を創設し、国家緊急権を認めるべきではないかとの議論がされている。国家緊急権は、歴史的事実からも濫用の危険性があり、国家緊急権を創設することは立憲主義の根幹に関わる重大な問題である。国家緊急権の創設については、日本国憲法が国家緊急権をあえて設けなかった趣旨を踏まえてもなお、現在の情勢において、国家緊急権の創設を支えるだけの具体的な立法事実が存在するのか否かという観点から議論されなければならない。
以下では、このような観点から,国家緊急権必要論の理由については、@不測の災害が発生した場合の政府の対応不備を理由とする点Aテロ防止対策に資するという点B選挙が実施できない場合に国会議員が不在となるという点である。なお、現在議論されている国家緊急権の中には、必ずしも冒頭の定義に当てはまらない内容のもの、例えば東日本大震災時のように統治機構が健全に機能している場面でも国家緊急権の発動を認めるかのような見解もある。しかしながら、統治国家が機能している状況であるにもかかわらず、立憲的な秩序を一時停止して非常措置をとることを認めるとすれば、あまりにも広範に立憲秩序が停止されることとなり得ないため、緊急事態の名の下に安易に憲法秩序が停止されるという自体は避けなければならない。@不測の災害が発生した場合の政府の対応不備、法令の欠缺を理由とする国家緊急権の創設は、すでに相応の法整備がなされており、事後的に国家に権限を集中させて対応策を検討することは却って災害対策に繋がらないこと、Aテロ防止対策に資することを理由とする国家緊急権の創設も、現行法制で対応できること、B選挙が実施できない場合の国会議員が不在になることを理由とする国家緊急権の創設は、現行の憲法の下で公職選挙法などの運用・改正によって対応できるため、必要がない上に民主制の根幹を損なうおそれがあることもあり、国家緊急権の必要性は乏しいことがわかる。今回でいう緊急事態はコロナウイルスの流行(@)であり、外出や営業の自粛の要請により国民の経済活動の制限、すなわち経済的自由権の制限がかけられている。国家緊急権ではなく、このように要請という形が最も適切であると考える。
しかし、これによりどのような問題が発生するか。自粛要請を出している間は感染人数が大幅に減ったが、外出,営業の自粛の要請が解除された今、飲食業界や夜の町を中心にコロナウイルスの感染者が自粛前よりも大幅に増えている。制限が解除され、短期間のうちに出かける人が急増したためである。飲食や夜の現場ではマスクの着用をせず対面して話をすることになりうるため、自粛を解除したうえで感染者を抑えるためにはやはりワクチンの存在が必要になるだろう。
2.予防接種禍と国家補償の谷間
ワクチンの存在は必要であるが、そこにはどのような問題が発生しうるのか。過去に起きた予防接種ワクチン禍事件について考えてみる。
まず、予防接種ワクチン禍事件とは、国が実施あるいは国の行政指導に基づき地方公共団体が実施した予防接種の結果、死亡ないし重篤な後遺症を蒙った被害児62名につき、生存被害者や両親など159名が原告となって国に対し損害賠償・損失補償を併合して請求したものである。最高裁は国家賠償責任だとし、損失補償の身体を財産に比べて不利に扱うことが許されるとする合理的理由は全くないのだから、生命,身体に対し特別の犠牲が課せられた場合にも、憲法29条3項を類推適用すべきである。という考えに対し、損害賠償側の主張としては公共のために生命,身体を犠牲にすることは許されるべきではないから、憲法29条3項は類推適用できない、という反論があがっている。これは不法行為に基づく損害賠償と適法行為に基づく損失補償のいずれかに割り切ることが困難である(予防接種禍の谷間)事例の代表的なケースである。
まずこの事例の被害者とワクチンの因果関係が間接的な事実的因果関係と直接的な相当因果関係どちらに該当するかである。事実的因果関係だとしたら因果関係の中断と断絶があったのか否かを考える。仮に死亡した被害者がなにか持病を持っていた、もしくは体質により免疫に関連する伝達物質であるサイドカインが過剰に反応し、暴走してしまうサイトカインストームが起きてしまった場合、死亡とワクチンとの因果関係は事実的因果関係である可能性が高いということになる。では、そこに因果関係の中断や断絶はあったのだろうか。事実的因果関係でも断絶はないため、中断があるか否かの区別になる。中断がある場合はワクチン投与という行為から死亡までの因果関係の間に、第三者による行為の加入があり、死亡したというケースである。今回の場合は、元々持っていた持病や体質によるものであり、第三者の介入ではないため因果関係の中断はないと考える。仮に被害者の死亡が同意のものであった、すなわち被害者が安楽死や尊厳死を患者が望んだときの医師による殺人である場合、日本では法律上尊厳死は認めらわれていないが違法性阻却事由と人権保障の観点から、医師の罪の違法性は否定される。尊厳死は回復見込みのない末期状態の患者に対して、生命維持治療を中止し、人間としての尊厳を保たせながら氏を迎えさせることであり、患者の自己決定権について重要な役割を持っている。私は法律上では認められていなくても尊厳死のための措置は必要であると考える。延命治療により苦痛に耐え、変化していく自分の身体に耐えられない人も多くいるだろう。そういった場合に患者の尊厳を保つため尊厳死という選択肢も認められるべきであると考える。しかし、今回のワクチンの副作用の原因としては被害者側の予診票の記入漏れなども考えられるため、その場合はお互いに過失があり素因減責となり、病院側の責任は減る。では、素因減責と自殺の関係性はどうなるのか。最近の判例ではワクチンを受けた患者が後遺症の苦しみなどから自殺した場合、素因減責は認められるとされている。基本的に素因減責は交通事故を原因とした後遺症などの場合に認められることが多いが、近年は医療過誤の面でも認められやすい傾向にある。自殺の場合にも、元の体質やサイトカインストームによって後遺症が重篤化してしまい自殺するまでに至った場合、素因減責は認められると考える。結果ワクチンと被害者の後遺症の因果関係によって決められるが、これは過失の推定の不足と監督過失も考えられる。被害者が患者である以上病院側の監視下にあるなかで自殺をさせてしまったという事実に対し、ワクチンとの因果関係だけではなくその他過失があったとも判断するべきである。
このように、ワクチン接種という行為と死亡という結果の因果関係により、加害者の賠償の程度は変化する。その因果関係についての証明責任を持つのは交通事故を除いては基本的に被害者側であり、ここでいう生存被害者や両親などである。複数のワクチンの接種を複合して行ったり、通常より多量のワクチンを接種したなど、被害者側により明らかな被告側の過失が証明されない限り、損害賠償は認められないと考えるが、新型インフルエンザ予防接種禍訴訟では、結果的に損害賠償が認められ、その理由としては@額が大きくなるA過失の折定などがある。
3.コロナウイルスの流行について
現在、コロナウイルスが世界中で大流行している要因として、上記国家緊急権で書いたように自粛の要請が明けてからの飲食店等にくる人が急激に増加したことがあげられる。ではなぜこのような自体に陥ったのか。それは、政府の予測の不足も考えられる。政府は真面目に自粛していた中で突然人通りが増加するということもないだろうと考えた(信頼の原則)うえで、経済的な限界を感じまだ決定的なコロナウイルスの対策が練れていない状態にもかかわらず自粛要請を解除したが、その予想が大きく外れた。これを結果回避義務と信頼の原則という。自粛をしていた国民が、自粛要請を解除されれば一斉に人が増えるということもこれまでの人の流れをみれば予測できたであろう事態だが、これを回避せず(回避する術がなく)自粛要請を解除するしかなかったのだろう。その後もできるだけマスクをし、他人との会話を控えるべきと提唱されてはいても、飲食店や夜の店が営業していれば必ず人が集まる。そうして現在自粛前よりも感染者人数の最大記録を更新し続けているのである。すなわち、現在の時点では外出の自粛以外で感染を防ぐ手立ては見つかっていないことがわかる。
4.結論
このように、現在経済的自由の観点から長期の外出自粛要請は困難であり、また、安全性の確保されていない試験段階のワクチンや抗ウイルス薬を仮に使用した場合副作用によるさらなる被害に繋がりかねない。そのため現在は二回目の飲食業界や夜の店の営業自粛を呼びかけているが、再び長い間自粛の要請をすることは困難であるため、早急に安全性が確保されたワクチンの開発、開発がされるまでの国民個々の生活の自粛、また、飲食業界が営業を再開しても感染者が急激に増えることのないよう、新たな生活習慣の定着を目指したい。
<参考資料、記事>
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中里伊織
「法学と感染症」
19j115020
中里伊織
キーワード COVID-19
(coronavirus disease 2019)・ 国家緊急権と経済的自由・違法性阻却事由と人権保障・予防接種禍と国家保障の谷間・素因減責と自殺・結果回避義務と信頼の原則・証明責任・過失の推定と監督過失・因果関係の中断と断絶・客観的帰属論
結論
感染症に対して法学が対応しきれていないと考える。一刻も早く感染症に対して法律による柔軟な対応をしなければならないと考える。
はじめに
感染症であるCOVID-19 (coronavirus disease 2019)が世界各地で猛威を奮っている。世界各地で様々な外出制限の措置が取られ、違反者には罰金などの強制力を持っている。しかし日本では感染拡大が懸念される中、自粛要請はされるものの法的措置はなく、強制力はない。ここでは、なぜ日本の法学は感染症対策に遅れをとっているかを交えて考えていきたい。
国家緊急権とは、戦争や災害など国家の平和と独立を脅かす緊急事態に際して、政府が平常の統治秩序では対応できないと判断した際に、憲法秩序を一時停止し、一部の機関に大幅な権限を与えたり、人権保護規定を停止したりするなど非常措置を取ることによって秩序の回復を図る権限のことを言い、当該権限の根拠となる法令規定を緊急事態条項という。
政府はCOVID-19 (coronavirus disease 2019)の流行を止めるために休業要請と言う形で行政指導を行なった。国家緊急権とは異なり、行瀬指導は拘束力はないため休業要請に従わなくても罰せられることはない。一度収束したかのように思えたが、夜の街関連で感染が拡大してしまった。休業要請の行政指導だけでは弱いと私は考える。
なぜ感染が拡大しているにも関わらず国家緊急権は発令されないのか。それは国家緊急権と経済的自由が深く結びついているからだ。国家緊急権は上で述べたように発令されれば、憲法よりも強い存在になる。憲法秩序は一時停止され、経済的自由をはじめとする人権保障は失われる。経済的自由がなくなったら、失業する人が続出し、それに伴い経済問題を理由とした自殺者が増加してしまう。失業者数と自殺者数、とりわけ経済・生活問題を原因とした自殺者数には強い相関関係があり、リーマン・ショック後のことを見れば明きらかだ。
国家緊急権と経済的自由は切り離して考えることのできない関係にあり、国家緊急権を発令するにあたって、慎重な判断が必要になる。コロナは拡大する一方だが経済的自由がないと生きていけないと思うし、国民から国家緊急権を行使する必要性はないと私は考える。
違法性阻却事由と人権保障
違法性阻却事由とは、通常法律上違法とされる行為について、その違法性を否定する事由を言う。刑法では35条正当行為、36条正当防衛、37条緊急避難に規定される。
現在日本では、安楽死及び尊厳死は合法化されていない。しかし感染症を患い、終末期医療における回復の見込みが内務意識状態の患者に対して延命措置を中止し、自然に任せた安らかな死を選択させる「死ぬ権利」が認められないのかといった問題や「患者の自己決定権」は人権保障には該当しないのか、尊重されないのかといった問題がある。
1995年に横浜地裁で争われた東海大学病院事件では、患者の家族の懇請に応じて末期状態にあり、危篤状態であった患者に生命維持を含めた医療行為を中止する消極的安楽死を行なった。その後、さらなる家族の依頼で積極的安楽死行為を行い、その結果患者が急性心不全で死亡した事件がある。この事件に対して、患者の生命処分に関する自己決定権は「被害者の承諾」における「法益処分権」の根拠とされるものに過ぎず、また、自己決定権によって行われた生命処分の自己決定は違法性阻却の1つの事由として、生命侵害行為の違法性を減少させるものに過ぎず、阻却できるものではないとされた。医者が行った医療行為は、刑法35条の正当行為、正当業務行為には当たらないとされ刑法199条殺人罪が適用された。このことから安楽死及び尊厳死は自己決定権の範囲外にあり、「死ぬ権利」は人権保障には該当しない。違法性阻却事由は人権保障の範囲内のものしか該当しない。
医療が発達した現在では植物状態のまま生き続けることも可能だ。しかし自分が植物状態になるとしたら、安楽死を選ぶ権利があったほうが家族にも迷惑をかけないなど気持ち的には楽なのかなと思った。
予防接種禍と国家補償の谷間
国家補償とは、国家の活動によって私人に損失が生じた場合に、その損失を填補することによって救済を図る制度を指す。国家補償には大別すると、国家の違法な活動により生じた損害に対して賠償を行う国家賠償制度と、土地収用など国家の違法な私人の財産権の剥奪による損失に対して補償を行う損失補償制度がある。国家の活動によって私人に損失が生じた場合は国家賠償制度化損失賠償制度で対応しなければならないがどちらかに割り切ることが困難な境界領域があり、2つの精度ではカバーできない問題を国家保障の谷間と呼ぶ。
高知国道56号落石事件(最高裁昭和45年8月20日、高松高判昭和42年5月12日)では本件道路付近では、「落石注意」の標識を立てるなどして注意喚起をしていたが、崩土が起こりそうな時に通行止をする等の措置を取っていなかったので、過失の推定と監督過失があったとされ、国家賠償制度が適用された。
これを感染症にとらえると国が推奨する感染症の予防接種で事故が起きた場合が挙げられる。被害者が国家賠償制度を成立させるには医療過誤・過失及び過失の推定と監督過失の債務不履行があったかどうかを証明する証明責任が必要である。
医師の過失の有無を判断する場合に基準となるのが医療水準だ。最高裁判昭和57年7月20日では、この医療水準について、「臨床医学の実践における医療水準」であると述べている。ここで注意しなければならないのが、「医療水準」とは、臨床医療の現場において平均的医師が現に行っている「医療慣行」とは異なると言うことだ。それゆえ、「医療慣行」に従った医療を行なっていた場合でも、法律的な観点からは過失ありと判断される場合もありえるとしている(最高裁平成8年1月23日)。医療訴訟を提起する場合には、複雑な医療経過の中のどの行為を医師の過失と主張するかが重要なポイントとなる。患者側としては、「医療水準」に適合しないことを証明でき、かつ発生した損害との間に因果関係がある行為を過失と主張していくことになる。医療行為そのものに関する事前の説明義務違反を過失として主張するインフォームドコンセント違反もあるとしている。
患者が知らない専門知識を医者が持っているのだから、説明義務があるのは当然だと思うし、医療後では取り返しがつかないのでインフォームドコンセント違反には賛成だと考える。
もし過失ありと認定された時は国家川のディフェンス策として、@素因減責はあるか。A予防接種と患者の状態には因果関係の中断と断絶があったかどうか。B結果回避義務と信頼の原則内のものではないか。といったことを踏まえて賠償額を減らそうとする。
@素因減責とは被害の拡大に被害者の素因が関わっているときに損害賠償額から減額すると言う考え方。過重労働によるうつ病の罹患から自殺に至ったと言う労災事案の判例(最高裁平成12年3月24日)では、心因的要因による素因減責について、性格が個性の多様さとして通常想定される範囲を外れるものではない場合には、心因的要因による素因減責はできないとした。このことから感染症によりうつ病などに陥り自殺した場合は、素因減責と自殺心因的要因は関係性がないものとなる。
A因果関係の中断では、実行行為から結果行為に向かっての因果の流れの進行中に、第三者の故意による行為や例えば落雷や台風などの自然力が介入した場合は、実行行為と結果発生との間の因果関係が中断して、因果関係が否定されるとする見解がある。因果関係の断絶では、実行行為があっても結果発生に向けての因果の流れが始まる前に、その実行行為と全く無関係な別の行為によって結果が発生した場合は、当該実行行為と結果発生との間の条件関係が認められず、因果関係が否定されるとしている。
Bでは、甲説、結果回避義務制限説と乙説、予見可能性制限説と丙説、客観的注意義務制限説があり、予見可能性の程度についての判例、高松高裁判決では⑴乙説によれば、信頼の原則は結果の予見可能性を限定するとするが、これでは、事実上の予見可能性があるにも関わらず、法的な予見可能性が否定されることになり、妥当ではない。⑵また、丙説のの注意義務の負担を軽減する、というのはすなわち結果回避義務が認められたいも関わらず、注意義務の段階で手抜きをすることを認めることになるため、これも妥当ではない。⑶信頼の原則は、社会的に有意義な行為をするものに対して、事故が生じたときには必ず過失があるとする絶対的責任に等しい加重な注意義務の負担が課せられるのでは、その行為の社会的効用が著しく害せられ、また、協力関係者の業務の円滑を害する結果になるのを避けるという観点から、注意義務の合理的な軽減を図る手指のものであると解する。とすれば、信頼の原則は構成要件的過失の内容をなす結果回避義務を限定する基準となるものとする甲説が妥当であるとされた。
失敗がないことが1番だとは思うが、失敗イコール過失では仕事にならないと思うし、それだと医者がいなくなってしまうと私は考える。手術をするにあって失敗の可能性はあるので私は甲説に賛成だ。また、素因減責歯あったほうがいいと思うが国家対私人だと力の差があまりにも大きいので、詩人が負けて減額される量が多くなってしまうのではないかと思った。
客観的帰属論については、相当因果関係説との関係が問題とされる。客観的帰属論が過失犯において結果の帰責を妥当な範囲に限定する必要性があった、という評価がなされることある。確かに条件説では、過失犯においてとくに帰責に範囲は無限定に広がる恐れがある。ドイツにおいては、判例は条件説を前提することで、比較的広く発生結果についての帰責を認めており、相当因果関係説は中断論や遡及禁止論と並んで、帰責の範囲を限定する理論として主張されてきた。
まとめ
法学と感染症についてまとめてきたが、コロナが流行する以前は感染症と法学がこんなにも結びついているとは思っていなかった。現在の日本の法律ではコロナのような緊急事態に対応できないと考える。そもそも日本国憲法は今から70年以上前の1946年に交付されたものなので正直いって古いと思う。今の憲法ではダメだとは思わないがもっと柔軟な対応ができるもののほうが緊急事態には対応できると思う。国家緊急権では強すぎるし行政指導では弱いので2つの真ん中の法律が確立すれば良いと考える。このような緊急事態において法律のあり方について国民全員が見直すことが重要になるのではないかと私は考える。
○参考、引用、出典
授業板書、ゼミ生勉強会板書、Wikipedia、
https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=64300?site=nli
https://www.soka.ac.jp/files/ja/20170525_113040.pdf
https://www.lec-jp.com/shihou/upper/guidance/pdf/web/LU16095.pdf
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/00-2/adachi.htm