井野悠希
昨晩、メールにて提出したのですが、先ほど確認したところ送信エラーになっていたため再度送信させていただきます。
期限外であることは十分承知しています。申し訳ありません。
ご確認のほどよろしくお願いします。
20J112006
井野 悠希
私は、コロナワクチンができ次第早急に予防接種を行うことに賛成である。但し、厳格化された条件のもと、接種者に十分な補償と、社会的保護がなされている場合に限る。
T.COVID-19(Coronavirus Disease2019)
コロナウイルス〈Coronavirus〉は、ゲノムとしてリボ核酸 (RNA) をもつ一本鎖プラス鎖RNAウイルスで、哺乳類や鳥類に病気を引き起こすウイルスのグループの1つ。ニドウイルス目コロナウイルス科に属する。症状は生物の種類によって異なり、鶏の場合は上気道疾患を引き起こし、牛や豚の場合は下痢を引き起こす。ヒトでは、風邪を含む呼吸器感染症を引き起こす。2019新型コロナウイルス (SARS-CoV-2) のようなタイプのウイルスでは、致死性を持つ。ヒトコロナウイルス感染を予防または治療するためのワクチンや抗ウイルス薬は、2020年4月時点ではまだ開発されてない。(Wikipedia引用)
U.国家緊急権
1.国家緊急権と経済的自由
構図としては、「国家緊急権」vs「経済的自由」このように2つは対立するものである。
まず、「国家緊急権」とは「戦争・内乱・恐慌・大規模な自然災害など、平時の統治機構をもっては対処できない非常事態において、国家の存立を維持するために、国家権力が、立憲的な憲法秩序を一時停止して非常措置をとる権限」のことをいう。
特措法が、禁止ではなく、「要請」「指示」といった曖昧な書きぶりとなっているのは、我が国において国家緊急権の発動が謙抑的であるためだ。有事においては平時と同様の人権保障を行うことは現実的に困難であるのだから、一時的に憲法秩序を停止することをあらかじめ織り込んでおくことが、終局的には立憲主義、そしてそれに基づく人権保障の枠組みを守るために必要なのである。
緊急事態宣言は、まさに「国家緊急権」発動の最たる事例であり現在諸外国で行われているコロナウイルス対策のための措置も、国家緊急権に基づくものであるといえる。
戦前の軍部の独走に対する反省のうえに成立した現行の平和主義憲法の下では、緊急事態法制の整備に政府が及び腰であった背景がある。諸外国の多くは、憲法上に緊急事態条項を規定しているが、日本の憲法において参議院の緊急集会など一部を除き緊急事態条項が規定されてこなかった。
それでも冷戦終結と湾岸戦争、アメリカ同時多発テロ(9・11テロ)とその後のアフガン戦争・イラク戦争のような国際情勢の変化に伴い、日本でも武力攻撃事態法や重要影響事態法、国民保護法が成立し、自衛隊法や国家安全保障会議設置法の改正によって、外国からの武力攻撃に対応する法整備が進められてきた。また、相次ぐ台風や地震などの災害を受けて、自然災害や大規模事故に対しては災害対策基本法、災害救助法、原子力災害対策特別措置法、水防法などが整備されている。感染症に対しても、感染症法、検疫法、新型インフルエンザ等対策特別措置法などが整備されている。これらはいずれも緊急事態における国家緊急権の発動に関する条項を有した緊急事態法で明言された。
この国家緊急権に対して問題となるのが、経済的自由である。経済的自由権(けいざいてきじゆうけん)とは、基本的人権における自由権の一つ。人の経済的な活動を人権として保障するのが目的である。これは、自立した個人であるためには、経済的な活動基盤を獲得することが前提であるので、それに対する国家や権力からの干渉(農奴制など)を制約する必要があるためである。(Wikipedia引用)
具体的には、たとえば、政府が国家緊急権を行使し、飲食店に営業禁止を命令した場合、これが事業主の経済的自由を侵害したときにこの問題が浮きあがってくる。
2.違法性阻却事由と人権保障
・違法性阻却事由とは、通常は法律上違法とされる行為について、その違法性を否定する事由をいう。日本では、民法上のものと刑法上のものがある。(Wikipedia引用)
・人権保障(基本的人権の保障)は国民主権、平和主義とともに、日本国憲法をつらぬく三大原理の一つ。人が生まれながらに持つ権利で、11条は「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」とさだめ、「侵すことのできない永久の権利」と位置づけている。
V.国の補償
1.コロナワクチンを予防接種した場合、国はどこまで補償をしてくれるのか
・日本のコロナワクチンの開発状況
米トランプ大統領が新型コロナウイルスのワクチン生産支援のため、富士フイルムの米国子会社に約270億円を拠出することを明らかにした。英国政府は新型コロナウイルスのワクチンを2億5000万回分確保した。同ワクチンを巡る動きが慌ただしくなってきた。
新型コロナウイルスのワクチン開発については欧米企業が先行し、早ければ年内にも実用化される見通し。日本ではワクチン開発が進んでいるものの実用化は早くても2021年春ごろになりそう。日本政府は海外製ワクチンの確保に動いており、日本でのワクチン実用化の時期が早まる可能性もある。(https://maonline.jp/articles/vaccine_corona2020073)
・国の補償
新型コロナウイルスのワクチンを巡り、政府は、実用化後に副反応(副作用)で健康被害が生じ訴訟が起きた場合、国が製薬企業の訴訟費用や賠償金を肩代わりする法整備を行う検討に入った。政府が複数の海外メーカーと進めるワクチン確保交渉で、メーカー側が契約にこうした規定を盛り込むよう求めていることを受けた対応。次期国会に関連法案を提出する方向で調整する。ワクチン接種で健康被害が生じた場合、予防接種法で市町村を通じて治療費などを給付する制度があるが、被害者はこの制度と別に訴訟を起こすことができる。海外メーカーは新型コロナのワクチンを巡り、パンデミック(世界的大流行)という緊急性を踏まえて開発を急いでいることを背景に「訴訟が起きても責任は負いきれない」と主張。ワクチン供給の契約で、訴訟が起きた場合は国が損失補償するよう求めている。
政府は、2009年に新型インフルエンザの流行を受けて輸入ワクチンを調達した際、海外メーカーの損失補償を可能とする特別措置法を整備。11年の予防接種法改正でも同様の規定を設けたが、この規定は16年に失効している。今回も同種の法整備を行う方針だが、対象は国内メーカーの製造分も含める案が有力だ。国内外で開発が先行するワクチンがいずれも「核酸ワクチン」と呼ばれる新しい技術で、これまで薬事承認されたことがないためだが、肩代わりは緊急性を重視した例外的措置との考えから、数年限りの時限措置とする方向で調整する。新型コロナのワクチン開発は海外メーカーが先行。日本政府は英製薬大手のアストラゼネカをはじめ、複数の海外メーカーとワクチン確保の交渉に入っているが、日本人を対象にした安全性や有効性のデータが十分集まる前に、海外の治験を踏まえて特例承認される可能性が高い。(https://mainichi.jp/articles/20200721/k00/00m/010/293000c)
(意見)
過去のインフルエンザワクチンと同様の措置がなされるのであれば、内容面では一定以上の補償を期待することができる。しかし、緊急性の重視により補償は数年と短期間で構想されているため、不安はぬぐい切れないだろう。
さらに、副作用が出たことの責任を国に求めた場合、国家賠償と損失補償のどちらになるのかという国家補償の谷間が問題となる。
(1)予防接種の副作用による自殺
・子宮頸がんワクチン
・HIVワクチン
2.国家賠償と損失補償
まず、大前提として
@国が、正当な目的で財産を侵害する場合、国は補償をしなければならない。
A国が違法なことをした場合、国は賠償をしなければならない。
これを踏まえたうえで、国が接種を推奨するワクチンで事故が起こった場合、どちらに当てはまるのか。
国家賠償となる場合:国に違法性が認められ、かつ有過失である場合。
損失補償となる場合:国に違法性がなく、有過失または無過失である場合。
国家賠償とするには、被害者に過失の証明責任が求められる。
証明責任とは、真偽不明な対象に関して証明を負う責任。挙証責任、立証責任とも言う。
裁判上では、ある事実が真偽不明であるときに、その事実を要件(前提)に生じる自己に有利な法律上の効果が認められないことによる不利益をいう。
これに対し反証がない場合、過失があったものとして判断することができる。
(2)国家賠償が減額されたりする場合
@素因減責:損害の拡大に被害者の素因(おおもとの原因)がかかわっているときに、その分賠償額から減額するという考え方。
判例には過失相殺類推適用説がある。ただし、英米法は否定している。
A信頼の原則:厚労省は医師が正しく診察してワクチン接種をするものとして信頼したとしても問題はないとした
(3)監督過失
監督過失が問題となるのは、上司である工場長が現場作業員に対する適切な指揮監督を怠ったため、作業員が油断して事故を起こしたような場合であり、このような場合において監督者に過失が認められるためには、監督者において通常の過失の成立要件が充たされることが必要であり、旧過失論においても新過失論においても、少なくとも監督を怠ったことにより直接行為者が過失行為をし、結果が発生することの予見可能性が認められることが必要となる。
監督過失では、結果回避義務が前提として求められる。
・結果回避の義務とは、予見できた損害を回避すべき義務であり、この義務を怠ったため事故などが生じた場合、注意義務違反として過失責任を問われる。
3.因果関係
刑法上,殺人罪や傷害罪などの結果犯において,既遂の責任を問う前提として実行行為と結果との間に必要とされる一定の原因=結果の関係。これに関しては,条件説,原因説,相当因果関係説などが対立しているが,社会生活での経験に照して通常その行為から結果が生じることが相当とみられるか否かという基準による相当因果関係説が通説である。判例の主流は条件説に従っているといわれるが,条件説によれば因果関係が認められなければならない事案においてこれを否定したものもある。
(1)因果関係の中断と断絶
・因果関係の中断とは,因果関係の進行中に自然的事実または自由かつ故意に基づく他人の行為が介入したときは,それによって,因果関係が中断されるというものだ。たとえば,甲に殴打されて負傷した乙が病院に収容されたところ,大地震で病院の建物が倒れ,乙が下敷きになって死亡したとか,甲に殴打された乙が気絶して倒れていたところ,通りかかった丙が殺意をもって乙の心臓をナイフで突き刺し,死亡させたなどの場合には,その大地震という自然的事実で病院の建物が倒れたことや,丙の自由かつ故意による刺突行為がなされたことによって,甲の殴打行為にもとづいて,乙の死亡に向かって進行していた因果関係が中断されるという。
判例は(https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=50064)
・因果関係の断絶とは、同一の結果に向けられた先行条件がその効果を発揮する以前に、それと無関係な後行条件によって結果が発生した場合である。
(2)客観的帰属論
客観的帰属論とは、惹起された結果は、行為者の行為が行為の客体に危険を創出し、その危険が具体的な結果に実現した(危険実現)という場合にのみ、行為に帰属されるという理論である。 条件関係の公式を基礎としつつ、条件関係論では因果関係の有無を明らかにできないところから、条件関係を一定の範囲で限定するためのものである。
これには、@危険増加の理論、A規範の保護目的の理論、B規範の保護範囲の理論などに分かれる。
W.まとめ
日本の今の法整備では、コロナワクチン予防接種で副作用が出た場合の補償は十分ではないと思われる。私はこのコロナワクチンが導入される前に、万が一発症してしまった場合の万全な補償を敷くべきだと考える。そのためにも、今回のコロナワクチンに関わる法について見直すことが大事だと考える。
Wikipedia コトバンク ウィキバーシティ 裁判所
毎日新聞 授業プリント ポケット六法
佐藤元紀
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遅れて申し訳ありません。
「法学と感染症」
20J112017
1年12組
佐藤 元紀
キーワード:COVID-19(Coronavirus Disease2019) 国家緊急権と経済的自由 違法性阻却自由と人権保障 予防接種禍と国家補償の谷間 素因減責と自殺 結果回避義務と信頼の原則 証明責任 過失の推定と監督過失 因果関係の中断と断絶、客観的帰属論
〔結論〕
私は、コロナウイルス終息後の日本が取り組むべきことは、弱者を救い、平等な社会をつくり上げることだと考える。
T.COVID-19について
COVID-19(Coronavirus
Disease2019)とは、2019年新型コロナウイルス感染症のことである。COVID-19は、新型コロナウイルスがヒトに感染することによって発症する気道感染症(ウイルス性の広義の風邪の一種)である。多くの場合、無症状または風邪様症状を伴う軽症で自然治癒するが、重症では死亡する可能性もある疾患を伴うとされている。
U.過失論
過失とは、物事を判断する際に、もし事故が起きてしまうというような注意を怠った場合やその注意するという義務に違反した場合のことをいう。刑事法側面は、事実的因果関係の立場、つまりその行為がなければこの結果はないという立場で判断される。
また、刑事法側面の過失の見解は現在3つの立場がある。@旧過失論(主観的)、A新過失論(客観的)、B新々過失論(客観的)である。@は、危険な事態や被害が発生する可能性を事前に認識できたかという予見可能性をベースに考えた立場である。Aは、その事前に認識した損害を回避する義務を怠った結果回避義務違反を重視する立場である。Bは、何らかの危険が予想されればそれで過失を認める立場である。
近代において、客観的な立場が強くなっている中で、本来過失とは内心(主観的)の問題であるのに、それを客観的な立場で強引に理屈をつけて過失かどうかを判断することが果たして本当に正しいのかと私は考える。そもそも過失の本質は結果回避義務であるとされるが、過失の背景に被害者又は第三者が適切な行動を行うことを信頼できる場合、その損害について行為者は一切の責任を取る必要がない見解を信頼の原則といい、結果回避義務と信頼の原則は密接にかかわる法理論だといえるであろう。
そもそも、犯罪かどうかを判断する際に、過失を犯罪の成立要件の3つ目のステップの「責任」を持っているかという要件にするのか。まず、過失責任を考える。例えば、国家賠償法1条「公権力の行使に基づく損害の賠償責任、求償権」の条項を基にワクチン事故を処理する場合がこれに該当する。我が国では、ワクチンは過失責任の建前のうえで「過失」を拡大することで賠償の対象を広く認めて救済している。私は、ワクチンが公の営造物の人工物に該当し、客観的な立場での過失が存在している点から、これを公害や薬害が対象である無過失責任の場合の賠償方法とする見解が妥当ではないかと考える。また、薬害や公害は、反証がない限り、過失があったものだと考える過失の推定という理論の問題であり、火災や積み荷の落下などの事件は、従業員ではなく経営者に責任があるとする監督過失の理論の問題である。これが過失の推定と監督過失である。
次に、契約締結上の過失について検討する。契約締結上の過失というのは、契約の締結に至るまでの段階で当事者の一方に刑罰や損害賠償などの法的な責任を負わせるべき原因があり、相手方が不測の損害を被った場合に、責めを負うべき当事者は相手方に対して損害を賠償すべきであるという理論である。この場合、ドイツ民法では一般不法行為があまり適応されない。日本でいう民法709条である。その問題を解決するために、次のセクションで述べる理論を持ち出す。
V.因果関係論
まず、刑事法における因果関係について検討していく。そもそも因果関係とは、殺人や窃盗などの「行為」と死亡や傷害などの「結果」との関係をいう。また、殺人などの行為と死亡などの結果との関係を見たときに、その行為がなければその結果も発生しなかったであろうとする見解が条件説という。また、その条件関係に加えて相当性がある場合にそれを相当因果関係という。さらに、先ほど述べた因果関係の進行中に本人や第三者、自然的な事実が介入したときのことを、因果関係の中断という。AがBに対して致命傷程度の暴行を加えた後に放置し、そこにやってきた第三者Cの暴行によって死亡した判例(最判平2・11・20 刑集44巻8号837頁)が、この因果関係の中断の代表的な事例である。この事例に関して、Cの暴行の時点で因果関係が中断したとし、Aの暴行とBの死亡との間の因果関係を認めない立場での見解で検討するとどうであろうか。とはいえ、Aの暴行がBの致命傷を招いている訳であるから、この間には条件関係があるといえるだろう。したがって、条件説の立場から考えると因果関係の中断をこの事例には認めないという結論が導かれる。
次に、因果関係の断絶というものについて検討していく。因果関係の断絶とは、同一の死亡という結果に向けられた先行の条件がその死亡という結果を発揮する前に後行の条件によって先に死亡という結果が発生した場合に、行為と結果の因果関係を認めるかという見解の立場である。例えば、余命2か月を宣告された患者に対して4か月後に効果が出る薬を飲ませたが2か月で死亡したというものや、4時間後の効果が出る薬を服用させたが、2時間後に交通事故で死亡してしまった例などを挙げれば理解しやすいだろう。この2つの例は、先ほど述べた、その行為なければその結果はないとは言えない。なぜなら、薬を飲ませなかったからといって、死亡という結果を変えられたとは言えないからである。つまり、前に述べた、相当因果関係どころか条件関係すらないことが言えるであろう。このような場合を因果関係の断絶という。以上で述べたのが、因果関係の中断と断絶である。
さらに、相当因果関係説がどのような構成であるか検討していく。相当因果関係説には3つの見解の立場がある。@主観説、A折衷説、B客観説であり、@の主観説は行為者自身が行為当時認識・予見していた事情を基礎とする見解であり、Aの折衷説は、行為当時一般人に認識・予見可能であった事情と、行為者が特に認識・予見していた事情を基礎とする見解であり、Bの客観説は、行為当時に客観的に存在したすべての事情を基礎とした見解である。この3つは、因果関係の相当性の有無を判断する際の判断材料である。この判断材料を含めた因果関係論自体の本質そのものを問う立場にあるのが、客観的帰属論というものである。
この立場を踏まえたうえで判例・通説の見解について検討していく。まず、刑法の判例では、行為が結果に対する条件として繋がっている関係さえあれば、刑法上の因果関係を認める条件説の立場がベースである。しかし一方で、通説は社会生活上一般的に考えれば、ある結果が発生するのが相当であるという立場の相当説である。この判例・通説の見解に、実行行為の危険性が結果へと現実化したかという見解の立場の観念を取り込むような判例も多く存在する。そこで、すべての判例に必ずしも条件説を用いているのかというと、決してそのような訳ではない。予見可能性を考慮した(最判昭42・10・24)の事例が代表的である。一方で民法の因果関係の判例・通説はというと、相当因果関係説であるという事をここに補足しておく。
次に、前述した内容を踏まえ、条件説と相当説のそれぞれの長所と短所を比較していくとする。まず、条件説の長短について検討する。長所としては、あの行為なければこの結果なしという単純かつ明瞭な考え方で判断ができるため、判断基準が必然的に明快で理解しやすい点である。一方で短所は、救急車事例などの、異常な経過を経たものにまで因果関係を認めてしまう点である。次に、相当説の長所はというと世間一般的に常識的な範囲で因果関係を認めるため、判断に際して妥当な結論を導きだせる点である。一方、短所はそもそも相当性という基準が非常に曖昧なものであり、特に刑法は一人の人生を左右する刑罰の可否を決める重要なものである以上、単純かつ根拠のある判断ができるものでないといけない点である。
因果関係の最後のセクションでは、因果関係の立証について検討していく。そもそも、因果関係の立証はだれがするのか。加害者側か被害者側か。これに関しては民事法で被害者側が因果関係の立証をするとされる。しかし、ワクチンや公害などの専門的知識を要する事件の場合どうであろうか。その事件の被害者が一般人である場合、因果関係の立証は非常に困難である。そこで被害者側の証明の負担を緩和する法理である疫学的因果関係や割合的因果関係というものが存在することで、証明責任を緩め、被害者の救済につなげている。一方で、加害者側でこの救済方法を考えたときに、救済範囲が広くどんどん賠償され、加害者側の人権侵害を招く可能性があるから、両者の均衡をとる必要があると私は考える。
W.違法性阻却自由と人権保障
このセクションでは、犯罪の成立要件の2番目のステップである違法性について検討していきたいと思う。その前に、刑法とは犯罪となる行為を示している訳であって、これを言い換えれば、犯罪にならないことを示しているといえる。つまり、規範の範囲以内であれば自由に生活できるという人権を保障している背景がある。
さて、そもそも違法性とは、形式的には法規範に反している性質のことをいう。また、犯罪の成立要件のはじめのステップである構成要件に該当している時点で、それは原則として違法であるが、例外として、急迫不正の侵害に対して自分または他人の生命・権利を防衛するためにやむを得ずにした行為である正当防衛や急迫な危険・危難を避けるためにやむを得ず他人の権利を侵害したり、危険を生じさせているものを破壊したりする行為である緊急避難の場合には違法性がないとされ、その行為は犯罪にならない。このような違法性が存在しないことを基礎づける事情のことを違法性阻却事由という。違法性阻却事由の要件である正当防衛に関して、果たして犬からの防衛などの対物防衛は認められるのか。また、期せずして起きるであった死亡原因を事前に消滅させた場合の偶然防衛は認められるのか。この2点が検討すべき点である。後者の問題に関しては、これを正当防衛と認めるためには、防衛するために行為するという主観的な認識である防衛意識が必要であるか検討しなければならない。これは2つの立場の見解がある。@必要説(判例・行為無価値)、A不要説(結果無価値)である。必要説の立場は、防衛に名を借りて、加害者を始末させようとした場合は成立しないと判例で示された。一方で、防衛に併せて攻撃の意思があった場合は正当防衛が成立するという事も判例で示されている。
そもそも、正当防衛とはどのような定義であるかここで触れておく。まず、結果無価値から検討することにする。結果無価値とは、侵害という結果が引き起こされることが悪であるとし、刑法は応報とする立場である。一方で行為無価値は、悪いことをすることが悪であるとし、刑法は目的刑とする立場である。また、結果無価値は客観重視で行為無価値は主観重視である。さらに、緊急避難の要件である事実を誤って認識した場合の誤想防衛と防衛行為が程度を超え、刑法36条の「やむを得ずにした行為」とは言えない場合の過剰防衛(故意犯)という正当防衛の類型もある。誤想防衛は、違法性阻却事由該当事実の誤診については、これは故意を阻却するものであって、違法性の意識の可能性の問題ではないとの見解である制限責任説では、これ過失犯又は無罪とするのが判例・通説である。では、なぜ構成要件的故意はあるのになぜ過失犯という判断に至るのか。また、故意犯にすべきである制限故意説の見解もある。
また、違法性の意識不要説についても言及しておく。判例の見解からするとこれは、犯罪成立にそれが違法だと認識しいている必要がないというものである。逆に違法性の認識が必要であるという見解は、違法性の意識が故意犯の成立に必要だとする厳格故意説の立場と意識の可能性が必要だとする制限故意説の立場の2つがある。ちなみに、故意には行為者が犯罪事実を表象し認容する構成要件的故意と行為者の責任要素としての故意の2種類がある。
以上で述べた正当防衛の内容の代表的な事例は、英国騎士道事件(最判昭62・3・26刑集41巻2号182頁)である。事件の概要は、男女の酔っぱらっている現場を見ていた在日外国人が、女がしりもちをついた光景を暴行を受けているのだと誤解し、男を空手技の回し蹴りで死亡させてしまったというものであるが、暴行をした本人は女のためだと思って行った行為が過剰防衛という事になる。これはだれがこの内容を聞いてもいたって誤想であるうえに防衛であったとしても非常に過剰である。この事例では、誤想防衛と過剰防衛の2つが成立し、前で述べたようにこの2つは犯罪の捉え方が異なる。この場合はどうなるのか。最高裁は、行為者の行為は急迫不正の侵害に対する相当性を著しく逸脱していることは明らかであるとして傷害致死罪に成立を認め、刑法36条2項の条文による減刑を言い渡した。この事例から、当然ではあるが正当防衛は防衛行為を行った行為者を保護する立場が強いことが分かるであろう。
X.予防接種禍と国家賠償の谷間
現在、コロナウイルスが世界的に蔓延し、ワクチン開発が世界各国で取り組まれている状況でこのセクションの内容は、これから起こり得る問題にも言及していきたい。まず、感染症の抗体をつくるようなワクチンは、当然であるが病原体を体内に故意に入れる訳であるから副作用で病気が発症してしまう場合はある。このことを大前提に話を進めていくが、ワクチンを国が国民に対して推奨し、もし副作用が発症した場合には、財産権を国が侵害した時は国が補償しなければいけないと憲法29条で定められ、また国が違法なことをした時には国が賠償しなければならないと国家賠償法で定められている。この法律の背景には、かつて国は過ちを犯すことはないとされていたが、その見解は否定され現在に至るような過去がある。
憲法29条と国家賠償法を前提に先ほど述べたような国がワクチン接種を推奨してきて、事故が起きた場合にはどのような法的構成をとるのかという問題をさらに検討していきたい。また、この場合には賠償か補償かの問題を考える必要がある。だが、まず補償の詳細を見ていくことにする。補償には全額補償すべきであるとする完全補償説とそこには合理的な価値はないとする相当補償説の2つの立場がある。通説は完全補償であり、判例は相当補償説である。また判例は相当補償説を用いるので補償の場合の額は小さくなる傾向にある。一方で賠償というのは全額補償すべきであるという哲学が存在する。このことを踏まえたうえで、補償の金額の少ないわけであるから、我々国民にとっては賠償の方が良いことは言うまでもない。しかし、前で述べたように賠償方法で救済処置を受けるには理由をつけたうえで、過失を認定する必要がある。また、なんでもかんでも賠償とする救済方法を行うと、人が平等に扱われる権利である人権が侵害される恐れが生じてしまう。これをまさに国家賠償の谷間といえるだろう。
そもそも理由をこじつけて過失を認定することが正しいのか。私は、人権侵害を回避するために賠償の射程は狭いわけで、日本の規範と秩序を保護するためにはそれは正しいとは考えない。また、このような賠償を訴えられた場合、国からのディフェンスが存在する。1つ目に損害の拡大に被害者の素因(おおもとの原因)が関わっている時にその分損害賠償から減額するという考え方である素因減責と2つ目に行為者に対する信頼から問題はないであろうという考え方の信頼の原則である。信頼の原則は、これからの予防接種禍において国が賠償を訴えられないようにするためには、必要不可欠な要素だと私は考える。
また、この見解は素因減責と自殺を結び付けて検討できるだろう。例えば交通事故の被害者に後遺症が残ってしまい精神的に病み、被害者が自殺した場合である。それは、因果関係が認められれば、もちろん損害を賠償する必要があるが、損害の拡大に被害者の素因が死亡に関わっている分を損害賠償から減額するというものである。
Y.店に休業させる場合の法律構成
まず、国家からの行政指導、法規命令、国家緊急権が我々に対して拘束力がどのくらいあるのか。行政指導の拘束力はない。例として休業要請という行政指導に従わなかったからといって水道や電気などを止めるなどの嫌がらせはできないことがあげられる。法規命令は拘束力があるが、不利益を国民に与える行政活動には法律の根拠が必要であるとする侵害留保原則が伴う。言い換えるのであれば、法律の根拠さえあれば、不利益を行使できる訳である。しかし、これが成立するという事は必然的に違憲審査の対象になってしまう。ここでさらに強い拘束力を持つ国家緊急権と経済的自由を考えるためにある例に沿って検討していく。
前述の流れから、休業命令が違憲と判断された場合は、その法律が無効になるわけであり、法規命令には店を休業させることはできない。しかし、それでもなお休業させたいときに行使するのが国家気緊急権である。これは、災害などの緊急事態の際に憲法を無視して国民に対して命令などをできる権利である。形式だけ見ればいたって最強な権利である。しかし、この権利を濫用すればどのような結果、社会になるのかというのは想像できるだろう。そもそも、この権利は憲法にないわけであって解釈のみで果たして認めてよいのかと私は考える。
その違憲とされる憲法の審査基準、いわゆる違憲審査基準はどのようなものかについて検討する必要がある。その審査には二重の基準論がある。片方は基準が厳しい精神的自由であり、もう片方は前者に比べて基準が緩い経済的自由である。また、経済的自由は自由を規制する法律が合憲になりやすい傾向にある。休業問題でこのことの触れるのであれば、職業選択、営業の自由が問題となるであろう。また、これは経済的自由に該当する。しかし、経済的自由の基準論にはさらにこの中で厳格さに違いがある基準が存在する。片方は厳しい基準で厳格な合理性基準である消極的規制、もう片方は前者に比べて基準が緩く、明白の原則を基準とする消極目的規制である。この経済的自由の中の2つの立場を規制目的二分論という。
Z.コロナウイルス終息後の法の在り方(総説)
人類が過去に直面した3つの革命の3つ目である情報革命の最中に、この現在のこのコロナウイルス発生した事によって、個人配達サービスや個人によるインターネット通販商売、FXや株などの資産運用、ユーチューバーなどの個人で商売を成立させ、その人の実力で周りとの差別化を図って生きていく社会に変化し、これまでの会社や法人の力は弱まっている。実際に多くの大手企業もこの社会変化に苦しんだ末に倒産を余儀なくされる状況である。また、これまで述べてきた法の効力や射程範囲、意味合い、問題点、判例・通説などの中で、現在において猛威を振るうコロナウイルスに関係してくるだろう内容がいくつかあったが、コロナウイルスが、私たちの生活の様々なものを変化させ、変化した点が今後の時代に適応していくのに伴って法・法学の在り方はどうであるべきか問われる点である。(中江章浩による見解)
この問題に対して、国家は商法の適応範囲を拡大し、取引安全や国の経済の効率性を重視するパレート正義の見解の立場、いわゆる弱者保護よりも経済効率を重視した立場をとるのか。それとも、会社は倒産してなくなったとしても、同じ経験をした者同士助け合うような社会を目指すロールズ的正義の立場、いわゆる弱者を救い、平等を謳う立場をとるのかは、これからの日本にとっての問題である。私は、この非常に重要な問題に対して、弱者を救い、平等的な社会を要求するロールズ的正義の立場に肯定的である。その理由は、今後個人の能力や権力などで生活様式が変化する可能性がある中で、制限能力行為者かどうかや年齢、性別でおおきな差が生じてしまうだろう。本当にそれでよいのか。その立場の見解で日本をさらに発展、振興させていけるだろうか、私はそう考える。また、平等化を図ることで競争力がなくなり、社会は発展しないという問題もあるが、それは強者が弱者に手を差し伸べてあげてあげることを国民全員が繰り返し取り組めば解消される問題であると考える。つまり、このコロナウイルス終息後の日本を立て直すには、弱者を救い、助け合い、高めあうべきだと私は考える。
*参考文献
・上野友斗先輩の板書
・只木誠「コンパクト刑法総論」新世社
・Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/
・佐伯仁志・大村敦志「ポケット六法 令和2年版」有斐閣
・上田正和「刑法総論T レジュメ」
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出野友翔
「法学と感染症」
結論
感染症に関する法律を見直した方がいいと考える。
「保障の受けにくさ」
まずはCOVI-19のワクチンで見ることになるであろう予防接種と国家補償の谷間について述べていく。
人類が生きてきた歴史の中でウイルスを完全に根絶することができたのは天然痘のみである。しかしワクチンというものを使うことにより自身に耐性をつけることによりかかるリスクを減らしてきた。その最たる例はインフルエンザワクチンである。そして、今回世界で猛威を振るっているCOVID-19も同じようになるだろう。しかしこのワクチンの影響で死亡または障がいなどの後遺症を引き起こす可能性がある。この時国家は保証してくれるのだろうか。普通の事件、不法行為により生まれる通常損害と予見可能な特別な事情から生まれる損害(民法416条)という条件後遺症・受傷に因果関係(相当因果)が認められた場合減額(素因減責)されてしまうが賠償責任を取ることができる。人権がしっかり保障されていると判断していいだろう。これが素因減責と自殺関係である。ここで予防接種ワクチン禍事件の判例を見てみようと思う。
東京地裁は、2名の事故については担当医師の過失を認め、国家賠償法1条1項による損害賠償を認めたが、その他の被害児については、国家賠償責任も債務不履行責任も認めなかった。(予防接種ワクチン禍事件事件昭和59年5月18日東京地裁)
私はこの判決を良いものだとは思わない。この二人が保証金をもらえるのであれば残りの被害児に対しても保証金を払うべきであると考える。程度の差はあれど、このワクチンにより生命・自由・幸福追求権(憲法13条)を侵害されており公共の福祉にも役に立っており今後改善点などが見えたはずである。だから私は国がこれを払うべきだと思う。そうでないと子供と親が報われない。
予防接種禍と国家補償の谷間には何かしらの被害を受けても国家補償をしてくれる可能性は低くこの2つの間には深い溝がある。
「全員を納得させることの難しさ」
国家の危機において国家緊急権と経済的自由のどちらを優先させるべきだろうか。
経済的自由とは、基本的人権における自由権の一つであり、人の経済的な活動を人権として保障するのが目的である。国家緊急権とは、戦争や災害など国家の平和と独立を脅かす緊急自他において政府が平常の統治秩序では対応できないと判断した際に、憲法秩序を一時停止したり、大きな権限を一部機関に与えたり、人権保護規定を停止したりするなどの非常措置を取ることにより秩序の回復を図る権限である。
これについては状況により判断するべきである。
戦争や大規模な災害が起きた時に経済活動を優先させず国家緊急権を優先させるべきであると考える。戦争や大規模な災害が起きた時今まで通り自由な経済活動ができるだろうか。大体は避難所暮らしになりお金を稼いだり、自由にお金を使えなくなるだろう。政府は自由な経済活動を再開させるために経済的自由という基本的人権を縛り、国の立て直しを行うのが先であると考える。国という下地がなければ自由な経済活動以前の問題だからだ。経済をなるべく早く再開させるように努力し元の基本的人権のある世の中にすべきである。しかし経済活動を優先させた方がよい時もある。それは今回のような感染症が流行った時である。感染症は先に述べたように根絶できたのが一つしかない。そのうえワクチンができるのにどうしてもかなりの時間がかかってしまう。ワクチンができるまで経済的自由を縛っていたら大手企業以外は全滅してしまう可能性がある。COVID-19のように致死性が低い場合は経済を優先させるべきである。しかしあまりにも致死性が高い場合もしくは致死性が低いとはいえ重傷者が増えた場合は国家緊急権を出したほうが良い。これは感染症が終わった後に自由や幸福を追求するためである。
このようになればいいがうまくいかないのが現実である。人間は自分の意見を述べるうえで都合の悪いことは隠してしまう。例えば自分の経済活動を優先させるためそれに都合のいい意見だけを声高に主張し都合に悪い意見を隠してしまうということである。緊急事態宣言を出す前に、緊急事態宣言を出すことは人権保障に反するといった主張がやけに多かっただろう。
しかし違法性阻却自由を使い文句を言えない状況を作れるのではないか。違法行為を類型化した構成要件に該当し違法と推定される行為につき、一定の特殊事情の存在により、その推定が破られる可能性があるとある。国家の危機にかかわらないときに人権を縛ることは法に反している。これにより普段において人権の保障は絶対に守らなくてはならないものである。しかし戦争や大規模災害など国家の存亡の危機という特殊事態のときにおいてこの推定が破られると考える。違法性阻却自由と人権保障の関係において普段何気ない生活を行うのであれば人権保障が優先させるが国家の危機が迫った時には違法性阻却自由により人権保障を二の次にできるということである。これにより統率を取ることができるが全員を納得することはできない。10人いればその意見もいろいろあるしましてや緊急事態においては約1億という人間がいるのだ、意見を同じにするのは不可能である。国が一時的に人権を縛り国を早急に回復させる必要がある。
結果回避義務と信頼の原則について例を出しながら述べていく。
結果回避義務とは予見できる損害を回避する義務でありこれを怠った場合過失責任を問われる。今の時期に病院はマスクを必ずつけてくるという信頼がある。前提として第三者の行動が適切な行動を行うことを信頼している必要がある。病院にマスクを着けてこなかったうえそこでCOVID-19が発生したとしても責任を取らなくていいというのが信頼の原則である。
私はこれを良いものだと思う。中にはウイルスのように予見できていて対策をしっかりしていても起きてしまうことはある。それをすべて結果回避として片づけてしまうのは問題があるだろう。大半の人は守るだろうが中には守らない人もいる特に公共施設など人が多く集まるところでは多発すると考えられる。それを片っ端から処分してしまうのであればウイルス戦において最後の砦である病院はろくに機能しなりそのまま滅んでいく可能性も考えられる。信頼の原則は妥当である。
「因果と客観的帰属論」
因果の中断とは、ワクチンを打った後薬を飲んだら死んでしまった。この時薬を飲んだ時点で、ワクチンを打ったという因果関係が中断している。そしてワクチンの因果関係を認めないとする見解である。
因果の断絶とは、ワクチンを打ったら数時間後に死んでしまう人にワクチンを打った。しかし家に帰る途中に交通事故にあい死んでしまった。つまり交通事故が起きたためワクチンを打たなくても死ななかったとは言えないからである。
これが過失の推定と監督過失の違いである。
私は最初客観的帰属論を使えば危険を生み出した方に対して何かしらの罰を与えられると考えたが危険を生み出したといってもそれを特定するのは難しいだろうと思い客観的帰属論による過失の推定と監督過失処罰は難しいものがあると考えた。殴られたとなれば死亡後の調査でわかるだろうが、ほんの些細なこと(友達同士のじゃれあいなど)が原因となり殴られたら死んでしまったとなると特定自体も難しいだろうし、特定できたとしても判断に困るだろう。そしてこの学術によると「是認されない危険を作り出し、さらにその危険を創出したものでないといけない。」と書いてある。つまり是認されない危険の判断が難しく客観的帰属論で考えるのは難しいと考えるのが妥当である。
「過失と証明責任」
過失の推定とは、過失がない限り過失があったものとして判断することを言う。一般に不法行為に基づく損害賠償請求権は、侵害者が行為あるいは過失により侵害行為を行った場合に認められる。これについてメリットとデメリットがある。まずメリットは特許など人が努力して作ったものを勝手に使用するものに対して厳しいということである。何かを生み出すのには時間がかかる、それを何もしていない人間が勝手に使うのはおこがましい。今回のテーマである感染症のワクチンも入る。しかしデメリットもある。それは冤罪を証明するのはかなり難しいということである。まずは疑われないようにすることが大切であるが世の中にはお金欲しさやいたずらで他人を犯罪者のように仕立て上げる人がいる。この場合だと反証を吸うのは難しいどころかできないほうが多い。証明責任においても自己に有利な発言は法律上効果がないので警察に突き出された時点で難しくなる。努力したものを守るためではこれはよいものだが冤罪として仕立て上げるのも簡単なのが過失の推定である。
監督過失とは、監督者に直接行為者の過失行為について危険な事態や被害が発生する可能性できたかどうか、もしできていて防げないのであれば過失になってしまう。これはよいものではあるが、事前に監督者をしっかり決めていないと病院などの施設で火災が起きた時の責任があいまいになるのでそこだけはしっかり決める必要があるだろう。
これが過失の推定と監督過失の違いである。
「コロナ収束後世界」
収束と書いたが私は完全には終わらないと考えている。私は畜産・農業・産業はこれまで通りで大した変化は見られないと考える。ソーシャルディスタンスができているからである。それ以外では大きな変化をもたらすだろう。まずは副業である。COVID-19により経済的不安を覚えた人も多いだろう。それにより副業が増えると考えた。例えば、頭の良い人は株をやり・何か才能のある人はyoutube・またはフリーランスなどを始めえてお金を稼ぐ。つまり個人の特出したものを売るということである。株はともかくyoutubeなどのサービスで個人を売ってお金にするというのが増加するだろうと考える。そして社会的弱者との格差は広まっていく、法律は弱い者の味方をしなくてはならないが多くの人が副業を始めたら経済優先のグローバル社会が進み、政権を取るために社会的弱者に不利な政権公約(小さな政府)を掲げるだろう。
続いて一番重要であるCOVID-19 であるがこれを完全に消滅させるのは不可能であろう。先に述べた通り人類が根絶できたのは天然痘だけで、インフルエンザはワクチンだけである。そしてCOVID-19 の前の世界は戻る事はないだろう。このウイルスはインフルエンザとは違い一年中存在していると思う。ワクチンができれば今ほど敏感にならないだろうがマスク生活は変わらないと思う。しかし夏場のマスク生活は想像していたものよりかなりきついものである。正直COVID-19 の前の世界に戻りたい。ある程度落ち着いたらCOVID-19 の苗の世界には近づくとは思うが完全に戻すのはそれこそ根絶させる以外は不可能だと考える。これが私のCOVI-19終息後の社会予想である。
「まとめ」
ここまでキーワードを使いながら法学と感染症について述べてきた。私は、法律というのは完成されたものとして今まで見てきたが、一つ一つの事案により見方や考え方感じ方が違い完璧なものではないと感じた。
特にそれを感じたのはワクチン事故の補償である。死亡障害を追った人たちには全額とは行かなくても補償されているものだと思っていた。しかし実際は違い、保証を受け取る事のできない人の方が多かった。これまで通りの生活ができないのは想像しているより遙かにきついものがあるだろう。それに憲法13条違反であろう。死亡・障害をおったものに対してしっかりと保証できるような法律を考え明文化した方がいいと考える。
それと国家の非常時において権力の一時強化を定めたら良いのではないかと思った。こうすれば対策も遅れないだろうし次々と何か行動を起こせるからである。しかし権力の暴走など信用できないところがあるのであまり深く介入しない方がいいのかもしれない。
時代というのは移り変わる。それにより人の価値観や考え方も変わっていく。時代ごとの価値観に合わせていく必要があるかもしれない。
参考
ポケット六法
ライフデザイン演習1の授業と勉強会
予防接種ワクチン禍事件:https://info.yoneyamatalk.biz
客観的帰属論:https://www.waseda.jp
特別犠牲:mimoring-office.com
経済的自由権:https://ja.m.wikipedia.org
国家緊急権:https://ja.m.wikipedia.org
違法性阻却事由:https://kotobank.jp
信頼の原則:https://ja.m.wikipedia.org
証明責任:https://
ja.m.wikipedia.org
過失の推定:https://koutsujiko.daylight-law.jp
監督過失:https://ww.corporate-legal.jp
因果関係の断絶:https://blog.goo.ne.jp
予見可能性:https://dictionary.goo.ne.jp
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塚本智也
法学と感染症 20J112002
1年12組 塚本智也
キーワード:COVID-19(Coronavirus Disease2019)
、国家緊急権と経済的自由、違法性阻却事由と人権保障、予防接種禍と国家補償の谷間、素因減責と自殺、結果回避義務と信頼の原則、証明責任、過失の推定と
監督過失、因果関係の中断と断絶、客観的帰属論
〔結論〕日本はCOVID-19を受けて、国家賠償や経済的自由権など法律に関して、これからの社会を見据えて、見直し、検討するべきであると考える。
T.はじめに
今世界的規模で大きな影響を与えているCOVID-19について、私は最優先に集団免疫を獲得することに力を尽くすべきであると考えている。この理由として、このコロナ禍を収束させるため国が緊急事態宣言を出し、不要不急の外出を促した。しかし、結果的には緊急事態宣言が解除された今、また新たに感染が広がり第二波が起き、問題が絶えないことにある。
私はその問題として、コロナ終息に向けて予測できる、予防接種禍や国家の国民への生活の保障そして経済的な面についての法律を見直し、検討するべきであると考える。
U.予防接種禍
COVID-19のみならず感染症に対して抗ウイルス薬、マラリア治療薬、AID治療薬など、重症化した患者を救うための薬物療法は重要である。しかし、これはすでに新型コロナウイルス感染による症状が生じた患者に対する治療であり、無意識に感染を拡げているいわゆる“無症状感染者”には無力である。これではパンデミックを終息させることはできないとされている。
では、ワクチンの開発を待つことしかできないのか、今日も各国では新型コロナウイルスに対するワクチン開発が急がれている。ワクチンを接種することで、身体の中に抗体を作り免疫を獲得することは改善策と思える。しかし、ワクチンの開発に関しては臨床試験による有効性と安全性の確認、さらには数千万人分のワクチン製造に、少なくとも1年あるいはそれ以上の期間が必要です。第二波・第三波が懸念されており、この間にもコロナウイルス感染は拡がることが考えられる。
(引用https://isom-japan.org/article/article_page?uid=qrB581589465025#chapter-2)
・このようにCOVID-19の対策として予防ワクチンの接種は効果的であることがわかる。しかし、COVID-19の予防ワクチンが試作品として完成したとして、その臨床試験による安全性と有効性の確認はかかせるものではない、そしてその臨床試験を終え、予防ワクチンが完成し使用が可能になっても、すべての人が適合するとは限らない、そしてそれを最初に使用される人々もまた完全なる安全性が確約されるわけではない。
そこで問題となるのは予防接種禍と国家補償の谷間についてであると私は考える。
V.予防接種禍と国家賠償
予防接種禍と国家賠償の谷間について問題を述べるにおいて平成4年12月18日の東京高裁が判決を下した事件の裁判の例をあげる。
この裁判概要は、予防接種法(昭和五一年改正前)の規定または国の行政指導に基づき自治体が勧奨した予防接種(インフルエンザワクチン、種痘、ポリオ生ワクチン、百日咳ワクチン、日本脳炎ワクチン、腸チフス・パラチフスワクチン、百日咳・ジフテリア二種混合ワクチン、百日咳・ジフテリア・破傷風三種混合ワクチン等)を受けた結果、副作用により障害または死亡するに至った被害児とその両親らが原告(被害児62名中訴提起前の死亡被害児を除く36名、その両親らの家族124名、合計160名)となり、民法上の債務不履行責任、国家賠償法上の責任または憲法上の損失補償責任を追及するとして、国を被告として損害賠償請求訴訟を昭和47年3月から六次にわたって提起した。第1審判決は憲法の損失補償の規定を直接適用して被害者救済を図ったのに対する控訴審である。
この裁判の判決は、損失補償責任については、財産的損害に限られるという理由で、予防接種による健康被害に適用されないとした。
しかしながら損害賠償責任については、第1審の因果関係認定を是認し、加えて国の過失も認めて認容した。
(引用https://www.mi-net.org/yakugai/datrial/decisions/921218mbtokyo.html)
・この事件に関して重要視される点は予防接種禍に対する国家の賠償責任についてであるが同様に、その責任の有無に関して重要なのは過失責任についてであると私は考える。
V-A.予防接種禍と国家賠償の谷間について
この問題解決には「国家賠償」と「損失賠償」の2つの説があるとされている、そこで今回の判決は妥当であるか否か私の見解を述べていく。損失補償は、人の生命を侵害したのであれば、たとえそれが意図的でなくても国が補償するべきという説、これに対して国家賠償は個人の法益侵害する意図が国家に存在することを損失補償成立の要件としたうえで、国家が個人の生命を侵害する意図をもって政策を実施することは許されないという説である。
つまり、損失補償の要件として国家による法的侵害の意図が必要であるというように
29条3項を解すれば、予防接種禍においての生命への侵害も当然許されない、よってこれらは国家補償によって処理するのが妥当であると私は考える。
V-B.過失論
本件のような医師による不法行為に基づく、賠償請求訴訟においては、原告は、加害者の故意.・過失の証明責任を負い、被告の行為と損害との因果関係、損害額を主張しなければならないが、その立証が困難な場合が多く立証不十分で敗訴になることはよくある。
しかし、その医師の過失よって被害が発生したことを患者が立証すれば、医師の過失が推認され、医師において、被害の発生は止むを得ないものであったことの反証をしない限り、医師の過失があったと判断するこれを「過失の推定」という。しかし、監督過失について、直接行為者の過失行為について予見可能性を認めるためには、直接行為者が過失行為を行う兆候を認識しているか、予想できたといえる場合でなければならない。
この過失の推定と監督責任は本件において重要な議題である。
過失論は現代に向けて主観的観点から客観的観点へと変化している本件では、担当医師の過失(過量接種、近接接種)を認めた上で、国としては被害を避けるための措置を可能な限り尽くすべきであり、国民の生命身体に被害が生じないよう、国民の生命身体に被害が生じる結果の発生を回避すべき義務があることは当然の義務であるため、本件では結果回避義務についての過失も認められた。
このことから新過失論の結果回避義務(客観視)が重視されていることがわかる。ところで、この担当医師たちには素因減責は認められないのかについてだが、結論としてみとめられないと私は考える。その理由として医師と患者には信頼関係があり、そこには信頼の原則が成り立つのである。よって本件は結果回避義務と信頼の原則により担当医師のみ過失として素因減責は認められないということになる。
V-C.広すぎる因果関係とその抑制
因果関係を立証するのにおいて具体的にどこまでを範囲に定めるのか、どう抑制するのかが重要である。そのうちの一つに例えば、「10時間後に効き目が現れる毒薬を飲ませたが、1時間後に自殺をした。」これに関しては、どちらともあれなければこれなしとは言えない、なぜなら、毒薬を飲ませなかったからといって人が死ななかったとは言えないからである。つまり相当因果関係がなく、条件因果関係すらないと言えるこれを因果関係の断絶という。これは私見ですが、仮に因果関係が認められることがあったとしても、毒薬を飲ませた人は飲まされた人が自殺することなど予見する余地もない、よって素因減責を認められる、これが素因減責と自殺の関係であると私は考える、しかし英米法はこの素因減責を否定している。
また、「Aを殺害しようとしてナイフで刺したところ、致命傷に至らず、救急車で病院へ運ばれる途中で救急車が事故に遭い、Aが死亡した」(引用)この例に関しては、因果関係の進行中に被害者若しくは第三者の行為または自然力が介入するときは、因果関係は中断し、その行為と結果との間に刑法的因果関係はないとする、これを因果関係の中断という。
最近では、ドイツ学説の影響の下に、相当因果関係説を排斥して、客観的帰属論を主張する見解がみられる。
客観的帰属論とは、因果関係の判断をある行為の危険創出と危険実現の要素に分けて行う(引用)などと説かれている。ここからは私見ですがこの立場による条件説による広すぎる因果関係の範囲を抑制するという観点では相当因果関係説と類似することはめいかくであるが。しかし、因果関係とは別に客観的帰属という規範的な基準を用いることの意義と基準の明確性そのものに私は疑問を抱きます。その基準構成要件に該当する実行行為と結果との間の因果関係の有無を判断するには,前記のように,条件関係を踏まえ因果関係が必要であると解く立場が妥当であると私は考える。
このように因果関係の中断と断絶や相当因果関係説、客観的帰属論によって、因果関係の範囲は抑制されバランスは保たれているのである。
(参考・引用)
中江章浩教授の授業板書
Wikipediahttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E9%96%A2%E4%BF%82_(%E6%B3%95%E5%AD%A6)
goobloghttps://blog.goo.ne.jp/pota_2006/e/577035ee21ecd3fde01586542aa36468
W.国家緊急権と経済的自由
日本では、COVID-19の感染拡大を防ぐために令和2年4月7日に緊急事態宣言を発令しました、まさに「国家緊急権」発動の最たる事例であり現在諸外国で行われているコロナウイルス対策のための措置も、国家緊急権に基づくものであるといえる。
この「国家緊急権」は強い拘束力を持ち、緊急事態の際に憲法の規定を無視して命令などができるため濫用されると大変なことになってしまうことから慎重に扱うべき権力である。
今回の緊急事宣言では、あまり強制力を感じなかったように私は感じた、
その理由として、国家が日本におけるあらゆる飲食店やサービス業などの企業に対して出したのが「休業命令」でなく「休業要請」であったからである。
この「休業命令」が出せない理由は、人権として保障されている経済的自由権の影響が考えられる。国家緊急権の拘束力が強いとはいうものの、営業停止などの不利益を与える行政活動には法律の根拠が必要とされる、つまりは、法律の根拠があれば許されるということだが、違憲審査の対象にはなる。故に違憲と判断が下された場合はその法律(特別措置法)が無効になることから「休業命令が出せない」という結果になってしまうのだ。
これについての私の見解は今回のような世界規模の新型ウイルスの感染症は違憲性阻却事由になりえると考える、それに加え今回のような緊急事態の場合は人権保障の経済的自由ではなく国民の生命を守ることに徹するべきであり、休業命令を違憲だとするには反対だ。違法性阻却事由と人権保障は矛盾している事柄であると私は考えます。この矛盾を曖昧な基準ではなく更に明確なものにするために、今回のような事態を想定して、国家憲法の改正と国家緊急権規定を見直し検討し議論するべき国家の問題ではないだろうか。
参考・引用
中江章浩教授の授業板書
東洋経済https://toyokeizai.net/articles/amp/341026?page=2
吉原実優
帝京大学法学部法律学科 20J112019の吉原実優です。ライフデザイン演習Tの期末レポートを送らせていただきます。よろしくお願いします。
法学と感染症 20J112019 吉原実優
私は予防接種を受けて発病した場合、発病者に対して国が補償をするべきであると考える。
1.感染症と個人の尊重
現在世界中でCOVID-19(Coronavirus Disease
2019)が大流行しており、日本でも多くの人が感染し、死者も発生している。海外ではロックダウン、すなわち都市封鎖が行われ、対象エリアの住民の活動を制限する外出禁止などが実施された。ロックダウンは強制力があるのに対し、日本で行われたのは強制力のない緊急事態宣言であり、あくまで要請であるため、最終的な判断は住民に任せるという形になった。なぜ海外では強制力のある対策が行われて、日本では行われなかったのか。それは他国には国家緊急権があり、日本には国家緊急権がないからである。国家緊急権とは、戦争や災害など国家の平和と独立を脅かす緊急事態に際して、政府が平常の統治秩序では対応できないと判断した際に、憲法秩序を一時停止し、一部の機関に大幅な権限を与えたり、人権保護規定を停止したりするなどの非常措置をとることによって秩序の回復を図る権限のことである。このデメリットには、一時的にせよ行政府への強度の権力集中と憲法上保障された人権の制限を図るものであるから、行政府による濫用の危険性が高いことが挙げられる。メリットには、「平時」から「非常時」への切り換えが容易であることが挙げられる。では、日本に国家緊急権を認めた場合、どのような問題が生じる可能性があるのか。憲法第29条で定められている財産権が侵害されてしまうと考えられる。国家緊急権が認められると、ロックダウンが行われ住民の外出が禁じられてしまう。外出が禁じられてしまうと働きに行くこともできなくなり、個人の経済的自由が侵害されてしまう。このようなことから、日本で国家緊急権を認めることは日本国憲法に反してしまうため容易ではない。また、今から国家緊急権を認めるために日本国憲法を改憲するには多くの時間や労力がかかる。このようなことをするよりも、医療従事者や休業要請に応じた人々への支援を行うことが最優先であると考える。
2.死を選択する権利
違法性阻却事由とは、通常は法律上違法とされる行為について、その違法性を否定する事由をいう。日本では民法上のものと刑法上のものがあるが、ここでは刑法上のものについて述べる。刑法上の違法性阻却事由とは、刑罰規定の構成要件に該当して、違法性が指定される行為について、その違法性がないとされる事由。刑法35条〜37条に規定される事由があたる。ここでは刑法35条に規定されている正当行為について見ていく。正当行為は形式的には犯罪類型としての構成要件に該当する行為のうち、法令上認められている行為と、業務として正当と認められる行為である正当業務行為をいう。正当業務行為には、医師の行う手術、スポーツに係る行為などがある。私は正当業務行為には安楽死も含めるべきであると考える。安楽死には積極的安楽死と消極的安楽死がある。積極的安楽死とは患者本人の自発的意思に基づいて、自ら致死性の薬物を服用して死に至る行為、医師が患者の延命治療を止めることである。東海大学病院安楽死事件では、次の4つの条件を満たせば違法行為とならないと認定している。1.患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいる。2.患者の病気は回復の見込みがなく、死期の直前である。3.患者の肉体的苦痛を除去、緩和するために可能なあらゆる方法で取り組み、その他の代替手段がない。4.患者が自発的意思表示により、寿命の短縮、今すぐの死を要求している。以上の4つを満たす必要がある。一方で、消極的安楽死とは、予防、救命、回復、維持のための治療を開始しない、または開始しても後に中止することによって死に至らせる行為である。日本の国内法では次の条件のいずれかを満たす場合に容認される。1.患者本人の明確な意思表示がある。2.患者本人が事前意思表示なしに意思表示不可能な場合は、患者の親、子、配偶者などの最も親等が近い家族の明確な意思表示がある。しかし、積極的安楽死は条件を満たせば認定されるにもかかわらず、消極的安楽死は条件を満たしても容認されない場合がある。それは、法律により強制隔離と強制治療が義務付けられている感染症である。なぜこのような感染症の消極的安楽死は違法なのだろうか。私は感染症はワクチンで治る可能性があるからだと考える。しかし、いくら治る可能性があるといっても、患者の死にたいという意思を他人が否定することは人権侵害になるのではないか。これは憲法13条に規定されている「生命、自由及び幸福追及に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」に反すると考えられる。よって、法定の感染症の患者に消極的安楽死を認めないことは違憲である。彼らにも人権保障のために死を選択する権利を認めるべきであると考える。
3.賠償と補償
予防接種禍とは、予防接種を受けたことによって健康被害が生じることである。生じた健康被害が予防接種を受けたことが原因であると厚生労働大臣が認定したときに補償を受けることができる。国が接種を推奨するワクチンで事故が起こった場合、どのような法的構成をとるのだろうか。集団予防接種の場合で考えることにする。集団予防接種で事故が起こった場合、賠償をとるべきなのだろうか、それとも補償をとるべきなのだろうか。賠償は「正」と「不正」の戦いであり、補償は「正」と「正」の戦いである。これを国家補償の谷間という。このことを踏まえると、国が予防接種を推奨することは国民の健康を守ることが目的であるから、不正ではないと考えられる。そのため、「正」と「正」の戦いである補償をとるのが妥当である。補償には完全補佐説と相当補佐説がある。完全補佐説は全額補佐すべきであると主張しており、相当補佐説は補償は合理的な価額でよいと主張していて、判例はこれを支持している。しかし、私は完全補佐説を支持する。なぜなら、条件説では「AなければBなし」すなわち「その行為が存在しなければその結果は発生しなかったであろう」という関係が成立すれば、刑法上の因果関係を認めているからである。この場合のAは予防接種で、Bは健康被害である。しかし、条件説は、因果関係論の基礎として条件関係の不可欠性を認めつつも、同説においては因果関係の認められる範囲が広がりすぎ、処罰範囲の適切な確定が困難になると批判された。条件説にこのような批判が加えられたことで因果関係の中断論が唱えられた。これは、因果関係の進行中に被害者もしくは第三者の故意行為または自然力が介在した場合には、因果関係は中断し、当初の実行行為と結果との間の因果関係は存在しなくなるというものである。しかし、中断論に対しては、因果関係は、本来、存在するかしないかのいずれかであって、いったん存在した因果関係がその進行中に中断し、結果的に存在しないことになるということはありえないとの批判が加えられ、この説は今日では支持を失っている。これが因果関係の断絶である。また、因果関係の判断をある行為の危険創出と危険実現の要素に分けて行う、という考え方がある。これを客観的帰属論という。客観的帰属論は、因果関係論自体がおかしいと主張している。因果関係論は「発生結果を行為者の実行行為に帰属させる」という理論であり、これで予防接種禍について考えてみると、発生結果が発病、行為者が医師、実行行為が予防接種となり、結論は、医師のせいにする、となる。しかし、客観的帰属論は因果関係論を否定しているので、必然的にこの結論も否定していることになる。つまり客観的帰属論は医師のせいではない、という考えであり、国が補償をするべきであるということになる。
4.予防接種の被害者
素因減責とは、不法行為の成立や損害の発生、拡大について被害者の素因が寄与、競合していると言える場合には、その被害者の素因を斟酌して損害賠償額を減額するという理論である。ここで言う素因とは、被害者側の事情である。集団予防接種を受けた人がその副作用によって自殺したケースもある。これは予防接種禍であるが、素因減責の対象になるのだろうか。ここで予防接種ワクチン禍集団訴訟について見ていくことにする。裁判所は、予防接種と重篤な副反応との因果関係認定基準として次の4つの要件が必要であると解し、本件ではそのすべてが充たされているとして相当因果関係があるものと認めた。1.ワクチン接種と、予防接種事故とが時間的、空間的に密接していること。2.他に原因となるべきものが考えられないこと。3.副反応の程度が他の原因不明のものによるよりも質量的に非常に強いこと。4.事故発生のメカニズムが実験、病理、臨床等の観点から見て、科学的、学問的に実証性があること。この判例では、この4つの要件をすべて満たした者だけが正当な補償を受けることができるとしており、素因減責については述べられていない。しかし私は、予防接種実施規則第4条に定められた者に予防接種を行った場合は素因減責が認められると考える。1.有熱患者、心臓血管系、腎臓又は肝臓に疾患のある者、糖尿病患者、脚気患者その他医師が予防接種を行うことが不適当と認める疾病にかかっている者。2.病後衰弱者又は著しい栄養障害者。3.アレルギー体質の者又はけいれん性体質の者。4.妊娠6月までを除く妊産婦。5.種痘については、前各号に掲げる者のほか、まん延性の皮膚病にかかっている者で、種痘により障害をきたすおそれのあるもの。これらの要件に該当する自殺のケースにも素因減責が認められると考える。
5.証明責任
証明責任とは、真偽不明な対象に関して証明を負う責任である。これには、ある事実が真偽不明となった際の不利益の負担という裁判問題がある。発病と予防接種の因果関係の立証は被害者側が行うが、ワクチン、公害などの場合は、専門的な知識のない一般人が証明するのは困難である。そのため、被害者側の証明の負担を緩和する法理が存在する。1つは、疫学的因果関係である。これは、疫学的方法により証明された法的因果関係のことである。もう1つは、割合的因果関係である。これは、一定割合だけ責任を認め、中間的な解決をはかるものである。このようにして証明責任を緩くすると、被害者の救済につながる。しかし、その分加害者からすると、不利になりやすい。そのため両者のバランスを取る必要がある。
6.過失の有無
結果回避義務とは、予見できた損害を回避すべき義務である。この義務を怠ったため事故などが生じた場合、注意義務違反として過失責任を問われる。ここで言う損害とは不利益、損失のことであり、注意義務とは、他人のための善良な管理者としての注意と、自己のためにする注意に分かれ、違反すると民法上は損害賠償の責任と、刑法上は過失犯の成立要件となる。結果回避義務を適切な範囲に限定する原理として、特に、信頼の原則が重要である。信頼の原則とは、刑法上の注意義務に関する法理論の1つで、被害者または第三者が適切な行動を行うことを信頼できる場合、それによって生じた損害について、行為者は一切の責任を取る必要はないという原則である。結果回避義務には結果回避可能性が必要であり、これがないと認められず、過失犯は成立しない。問題なのは、結果の予見が可能であった場合、いかなる場合でも予見された結果を回避する万全の義務が課されるのか、すなわちその行為に出ないことまでが常に求められるのか、ということである。この問題は信頼の原則によって結果回避義務を限定することで落ち着いている。私は予防接種禍は結果の予見は可能であると考える。では、これは過失があるとみなされるのだろうか。ここで信頼の原則を用いることにする。信頼の原則が成立するには、次の条件が必要である。1.他人が適切な行動にでることの信頼が成り立っていること。2.他人が適切な行動にでるという信頼を揺るがす特別の事情が存在しないということ。これを予防接種の場合で考えてみる。1.予防接種を受けた後は、激しい運動をしない。2.特別な事情は存在しない。予防接種の帰りに殺人鬼に追いかけられて走ってしまったということもあるかもしれないが、基本的にそんなことはありえない。よって予防接種禍にも信頼の原則が適用され、医師に過失は認められない。ここからは監督過失の側面から見ていく。監督過失とは、直接行為者が過失を犯さないように監督する注意義務に違反する過失である。過失の推定とは、権利の侵害行為があった際に、「侵害者に過失があった」と推定することである。侵害者に故意又は過失があったことを立証しなければならない。ここで、北大電気メス事件と新3種混合(MMR)ワクチン接種禍訴訟について見ていく。北大電気メス事件では信頼の原則の2つの条件を満たすとして、監督者である医師は過失犯ではなくなった。その一方で、新3種混合(MMR)ワクチン接種禍訴訟では国は監督者としての過失があると認められた。これは過失の推定が成り立っている。ではこの2つの何が違うのだろうか。私は監督者と行為者の間の信頼の有無であると考える。北大電気メス事件の判例では、医師が看護師を信頼していたと見られる記述があったのに対し、新3種混合(MMR)ワクチン接種禍訴訟ではそのような記述は見られないため、国と医師との間に信頼関係はないと考えられる。新3種混合(MMR)ワクチン接種禍訴訟では信頼の原則が認められず、監督者である国に過失が認められたため、被害者に補償をしなければならない。
以上のことから私は、予防接種を受けて発病した場合、発病者に対して国が補償をするべきであると考える。(5637字)
参考文献
https://ja.m.wikipedia.org/wiki
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kitagawa/mame009.html
https://koutsujiko.daylight-law.jp/qa/qa120/
https://www.corporate-legal.jp
https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou20/kenkouhigai_kyusai/
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https://www.mi-net.org/yakugai/datrial/decisions/840518mctokyo.html
https://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/120-1.html
http://www.ne.jp/asahi/kr/hr/mmr/mmr_saiban1.htm
https://tokusengai.com/_ct/17351902
https://niben.jp/news/opinion/2016/160330120352.html
山口厚 『刑法の考え方ー過失犯の考え方をめぐって』5644-29-869.pdf
只木誠(2018)『コンパクト刑法総論』新世社
森松 翔
「法学と感染症」
学籍番号:20J112004
氏名:森松 翔
1. はじめに
私はCOVID-19(Coronavirus Disease2019)の影響後、法律はロールズ的正義であるべきだと考える。なぜならば今後、社会では会社や法人よりも個々が商売をしていく、実力社会になると予想されるが、COVID-19(Coronavirus Disease2019)の影響により感染症に対する集団的防御の構築や深刻な大恐慌から脱するため政府の介入が求められるためである。本レポートでは、「感染症の現状」、「ワクチン接種に関する法律問題」、「店を休業させる場合の法律構成」の視点から、法学と感染症について考察していく。
2. 感染症の現状
2019年から現在にかけてCOVID-19(Coronavirus Disease2019)が世界的に大流行しているのが現状である。COVID-19(Coronavirus Disease2019)とは急性呼吸器疾患のことであり、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の感染によって引き起こされるものである。潜伏性の高いウイルスの特性から、全世界が感染症の危険に晒され、ロックダウンや入国制限、オリンピック延期など、人類が過去に経験していない事態に陥った。パンデミックを収束させるために実施されたロックダウンなど各種政策において、反グローバリズム、反民主主義的な措置も一部必要となり、世界の体制に大きな変化を及ぼした。
経済的にも打撃は大きく、国際通貨基金 (IMF) は、2020年の世界GDP成長率が-3.0%になるとの予測を発表した。この負の成長率は2008年のリーマン・ショック時の-0.1%を遥かに超える値で、1929年の世界恐慌(当時の世界GDP成長率は-15.0%)以来の大恐慌となり、各界でコロナ・ショックとも称された。さらに20世紀末から順次整備されてきたオンライン環境を使ってシャットイン・エコノミー(家に閉じこもる経済)の実践が始まり、外出時はソーシャル・ディスタンスを確保するなど、世界経済はITを最大限活用する方向に変化して行った。SARS-CoV-2が研究途上のウイルスであることから、未だに先の見えない状況が続いている。(Wikipedia引用)
2020年8月4日時点で、感染は215の国と地域で起きており、感染者1840万人、死者69.2万人、回復者1100万人となった。世界の感染者数は指数関数的な伸びを見せている。感染拡大を止めるためにも世界各国でワクチンの開発が進められており、英オックスフォード大学と英アストラゼネカ社や中国シノバック社による研究が早く進み、ワクチンは英オックスフォード大学と英アストラゼネカ社により9月にも供給開始予定であり、主要研究グループの中では最も早く開発プロセスを進めている。ワクチン開発の予測は困難であるが、臨床試験が段階的に進む限り株価の下支え要因となるとされている。
これらのことから、COVID-19(Coronavirus
Disease2019)は世界各国で健康面だけでなく経済面で大きく影響を与えていることがわかる。もし、COVID-19(Coronavirus Disease2019)に対するワクチンが正式に認められた場合、私たち国民は全員が強制的に予防接種などを受けることになるのだろうか?日本の判例を基にして考えていきたい。
3. ワクチン接種に関する法律問題
各地で争われている予防接種禍集団訴訟のうち、初めての高裁レベルの判決が予防接種ワクチン禍事件(最判平成4年12月18日民集46巻9号3006頁)についてみていく。予防接種ワクチン禍事件では、第1審東京地裁判決昭和59・5・18判時1118号28頁が容認した損失補償請求を否定した上で、小樽種痘禍訴訟の最高裁判決平成 3・4・19民集45巻4号367頁の論理に則り,除斥期間経過による請求棄却(3名)を除く全員に対して国家賠償請求を認めるものであった。ワクチン接種や予防接種において法律上には、予防接種禍と国家補償の谷間という議論が存在する。予防接種禍と国家補償の谷間とは、大前提として@憲法29条第3項に「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることが出来る。」と規定されるため、財産権を侵害する場合、国は補償しなければならない。A国家賠償法により国が違法行為をした場合は賠償しなければならないと規定している。かつては国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとされていた国家無答責が否定され現在に至る。@、Aを前提に国が接種を推奨するワクチンで事故が起きた場合、どのような法的構成をとるかという議論のことである。そもそも補償には、全額補償すべきという考え方の完全補償説(通説)と合理的な価格でよいという相当補償説(判例)があり、判例は相当補償説をとるので保障の場合額は小さい。反対に、賠償の哲学は「全額補償すべし」である。このことから、被害者救済のためには賠償のほうがよく、理由を付けて過失を認定する必要がある。しかし、人権侵害のおそれも否定できないため、正しいと言い切ることはできない。予防接種禍と国家補償の谷間において日本法では賠償、英米法では補償、ドイツ法では結果責任に対してそれぞれ重きをおいており、日本は人権侵害の危険性から過失を拡大することで救済しているということである。例としては、過失の推定と監督過失が存在する。過失の推定とは、反証がない限り、過失があったものと判断することをいう。 特許権、意匠権、商標権を侵害した者は過失があったものと推定される(特許法第103条、商標法第39条等)ものである。監督過失とは、文字通り監督者に責任をとうものである。これらの過失の推定と監督過失に対して訴えられた国側からのディフェンスとして@素因減責とA信頼の原則が存在する。
1.
に関しては、素因限責と自殺の問題点が存在する。そもそも、損害の拡大に被害者の素因(おおもとの原因)が関わってくるときに、その分賠償額から減額するという考え方を素因減責という。今回の場合問題となるのは、予防接種やワクチン接種により後遺症が出てしまった場合に対して被害者と加害者の間に因果関係を認めるか否かの問題である。この問題によって自殺してしまう被害者がいるのだ。ここで問題となる因果関係の判例は刑法と民法で判例が異なる。刑法の場合には、条件説とり事実的因果関係を取っているのに対し、民法の場合だと、相当説をとり相当因果関係的に解釈しているのである。ワクチン事故を賠償で処理する場合過失責任に当てはまる。
2.
信頼の原則においては、結果回避義務と信頼の原則という論点が存在する。そもそも、信頼の原則とは、医療現場を例とすると厚労省は意思が正しく診察してワクチン接種をするものと信頼したとしてもそのことに問題はないとしたものである。刑事判例としては、北大電気メス事件(札幌高判昭和51・3・18)がある。北海道大学付属病院で、動脈管開存症の幼児に対して手術が施行されたところ、手術自体は成功したものの、看護師による電気メス器の誤接続により、患児の右下腿に重度の熱傷を生じさせ、右下腿を切断。そして、この看護師と執刀医が業務上過失傷害罪で起訴されたというものである。ポイントとして、@
電気メスのケーブルの接続は、極めて単純容易な補助的作業に属するものであったことA 担当した看護師は、経験を積んだベテランの看護師であったことがあげられ、執刀医が当該看護師の作業を信頼したことは、当時の具体的状況に照らし、無理からぬものであったと判断し結果回避義務違反となったのである。
今回のワクチン接種や予防接種に対してもそうであるが、行為と結果の間に介在事情が入り、因果関係の中断と断絶が起こる場合がある。そのため、条件関係や相当因果関係的に考える必要がある。そして、相手に過失ありと過失の証明をする証明責任が原則として被害者にある。しかし、原告と被告の間で責任の証明ができなかった場合はそのリスクをどちらが負うか証明責任の転換が行われるのです。また、医療行為において違法性阻却事由と人権保障が最も重要な問題であると言える。そもそも日本において犯罪論体系は構成要件該当性、違法性、有責性となっている。違法性阻却事由とは、法律上違法とされる行為について違法性を否定する事由をいう。阻却事由の種類としては正当防衛、緊急避難、被害者の同意が存在する。これらについて考える上で定義として、侵害という結果が引き起こされることが悪だと考える結果無価値論。悪いことをすることが悪だと考える行為無価値論の2種類の考え方を知る必要がある。これらには結果に重きを置くか行為そのものに重きを置くかに違いがある。本来の構成要件をかんがえるにあたり、客観的帰属論である因果関係を認めずに行為と結果のみを考え判断する必要がある。そして次に違法性阻却事由について考えるのだ。しかし、違法性阻却事由のなかの被害者の同意について人権保障がなされず、人権侵害に当たる場合がある。今回の感染症患者に対し、呼吸器が必須の人が呼吸器を感染症患者に譲渡することもこれに該当するであろう。
このように、ワクチンに関する様々な問題がこれまでにもあった。そのため、国家全体で予防接種を強制すると様々な問題が起きかねない。だから強制することはできず、国民1人1人の行動に左右されると考えることが出来る。もし仮に強制するとなれば国家緊急権のような力が国には必要になってくる。国家緊急権については、現代社会の諸問題をふまえて考えるとする。
4. 店を休業させる場合の法律構成
日本では、今現在の法制度では国民に対しての拘束力が低く休業要請しか出すことが出来ません。これは、健保29条の財産権や憲法97条、11条で記載されている自由権を侵害しないためでもある。しかし、今回のように、COVID-19(Coronavirus Disease2019)などの感染拡大を防止するためには、時には国家権力が必要であると考える。そこで国家緊急権と経済的自由について考えていくのだが、国家緊急権とは、緊急事態の際に憲法の規定を無視して命令ができる権利のことである。そのため、とても強力な力があるので乱用は大問題となる危険な存在である。そこで、違憲審査基準が存在します。二重の基準論で、精神的自由と経済的自由があり、精神的自由は厳しく、経済的自由は緩やかとなっているため、じゆうを規制する法律が合憲になりやすい。今回の休業命令の問題では、職業選択の自由、営業の自由が問題となる。これは、経済的自由に該当し比較的穏やかに審査される。消極目的規制と積極目的規制が規制目的二分論として存在する。
以上の理由から国家緊急権は法律として認められるべきではないと私は考える。国家緊急権がなくとも感染拡大を防止できるように1人1人が考えて行動していく必要があり、協力していくべきである。
5. 総括
今回、「感染症の現状」、「ワクチン接種に関する法律問題」、「店を休業させる場合の
法律構成」について述べてきた。人類は今までに@農業革命A産業革命B情報革命と3
度革命に直面し今まさにB情報革命の最中である。そんな中、COVID-19(Coronavirus Disease2019)が発生し、
今後の社会では会社や法人よりも個人個人が商買をしていく自分の実力が生きていく
社会になると考えることが出来る。しかし、私は今後の社会において法律はロールズ的正義であるべきであると考える。ロールズ的正義では、
第一原理
各人は、平等な基本的諸自由の最も広範な制度枠組みに対する対等な権利を保持すべきである。ただし最も広範な枠組みといっても他の人びとの諸自由の同様に広範な制度枠組みと両立可能なものでなければならない。
Each person has an equal claim to
a fully adequate scheme of basic rights and liberties, which scheme is
compatible with the same scheme for all; and in this scheme the equal political
liberties, and only those liberties, are to be guaranteed their fair value.
第二原理
社会的・経済的不平等は、次の二条件を充たすように編成されなければならない
(a) そうした不平等が各人の利益になると無理なく予期しうること、かつ
(b) 全員に開かれている地位や職務に付帯すること
と唱えられている。そのため、経済的にも医療面的にも今回のレポートで上げた論点を解決していくために、会社はなくとも疑似家族的なもの同士で助け合う社会、弱者保護を優先するべきであると考える。しかし、この考えにはメリットだけでなくデメリットも存在し、グローバリゼーションなどは後退し経済の発展が見込めなくなってしまう。そのため、ロールズ的正義とパレート的正義の線引きないし割合が今後の社会において法律のカギとなっていくと考えられる。まずは、経済成長ではなく助け合って弱者保護を優先すべきであり、法律がロールズ的正義であることが平等であり人権保障にもつながってくると私は考える。(4894字)
《参考文献》《引用元》
医療過誤裁判の判例集/No.005-北海道大学医学部付属病院電気メス事件https://www.avance-lpc.com/hanrei/hanrei-005.html(閲覧日2020年8月5日)
西日本新聞デジタルhttps://www.nishinippon.co.jp/wordbox/2989/(閲覧日2020年8月5日)
Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%9E%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E 3%83%8A%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B9%E6%84%9F%E6%9F%93%E7%97%87%E3%81%AE%E6%B5%81%E8%A1%8C_(2019%E5%B9%B4-)#%E6%96%B0%E5%9E%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B9%E6%84%9F%E6%9F%93%E7%97%87%E3%81%AE%E7%89%B9%E5%BE%B4(閲覧日2020年8月5日)
Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA#%E3%80%8E%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E8%AB%96%E3%80%8F(閲覧日2020年8月5日)
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坂元翔衣
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20J112010
坂元翔衣
ライフデザイン演習期末レポート
テーマ: 法学と感染症
私は法学と感染症という題についてCOVID−19の対策としてワクチン開発の後、感染者を治験者として採用し、ワクチンの早期実用化に踏み切るべきであると考える。
1.
日本のCOVID−19に対しての対策
私はこれから日本のCOVID−19について述べる。
現在、世界中で猛威をふるっているCOVID−19だが日本国内では4月7日東京を筆頭に神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の7都府県に対して緊急事態宣言を発令し、4月16日には全国に拡大する方針とし、期間を5月6日とした。しかし、5月4日感染状況をみて政府は5月31日までに延長された。そもそも緊急事態宣言とは具体的になにができるのかであるが、第一に都道府県知事が住民に不要不急の外出自粛を要請できるようになる。
しかし、日本は海外のようなロックダウン(都市封鎖)はできない。あくまで緊急事態宣言は都道府県知事が住民に外出自粛を要請したり、施設利用停止やイベント中止を要請、指示したりしかできない。
2.
COVID−19と経済的自由について
COVID−19が感染症として経済にいかにして打撃を受けたかについて述べよう。
経済的自由とは端的に言えば「金銭に困ることなく自由に生活すること」などを言う。しかし、経済的自由はCOVID−19による政府の緊急事態宣言で経営者として生活を組み立てていた人が経済的自由を侵されている状況に陥っているケースが出る。また、距離制限問題も経済的自由を侵害している。そしてこのコロナショックにより国家緊急権を行使する場合もある。国家緊急権とは、戦争や災害など国家の平和と独立を脅かす緊急事態に際して、政府が平常の統治秩序では対応できないと判断した際に、憲法秩序を一時停止し、一部の機関に大幅な権限を与えたり、人権保護規定を停止したりするなどの非常措置をとることによって秩序の回復を図る権限のことをいい、当該権限の根拠となる法令の規定を緊急事態条項という。
3.予防接種禍と国家補償の谷間について
予防接種禍とは予防接種をして副作用により病気になり障害の状態、又は死亡するようなことである。判例として昭和59年5月18日に東京地裁での予防接種ワクチン禍事件が挙げられる。今回のCOVID−19のワクチンが完成した場合、上記のような判例のような起こる可能性は極めて高いといえる。そして国家問題となっているCOVID−19であるがワクチンを国民全員に受けさせると義務づけたり、決定した場合国家補償の谷間の問題も浮上する。
国家補償の谷間とは国家補償をどの程度までは補償の対象になるかという名前の通りどこで分けるかにある。そしてこれは具体的に「(予防接種禍などについて)憲法29条3項を類推適用するという見解もあり得るが、同条項は公共目的のために私人の財産を用いることを正当化する条文であって、これと同様に私人の生命や身体を公共目的に用いることは許されないから、本件に29条3項を類推適用するのは妥当でない。」ということもできる。
4.人権保障
人権保障とはその名の通り人権を保障する権利だがこの保障がないと問題になることがある。具体的には安楽死問題などが挙げられる。日本の刑法には自死などは罪にならないが安楽死は法律により禁止されている。そしてその安楽死が積極的、間接的、消極的のどれかによって罪の重さも変わるため全て同じ罪にはならない。自殺の場合、例えば呼吸器をつけていないと亡くなる患者が勝手に外して他の人に渡して結果亡くなった場合は自殺だが患者に頼まれて医者が呼吸器を外して亡くなった場合は殺人という扱いになる。また、COVID−19に感染し、自宅療養中に自動車に乗り意識が飛び、交通事故を起こして亡くなった場合相手にも過失があった場合はこの過失を考慮して裁判官は損害賠償の金額を減額しなければならない。そして過失があるかどうかについては被害者側が証明責任をする必要がある。
5.ワクチンについて
現在世界中でCOVID−19のワクチン開発が日々進められているがワクチンが完成した場合当然人々に投与することになるが副作用の問題がでてくるのも事実である。この場合は投与する前に投与する相手に十分な説明と本人意思を証明する署名などが必要不可欠である。このようなことをすると結回避義務に引っかかることはない。そして投与される相手は署名をした時点で医師を信頼したといえる。このように全ての可能性を聞いたうえで相手を信頼するようなことを信頼の原則という。そしてこのように署名があればもしものとき亡くなったとしても問題はない。
6.過失の推定と監督過失
過失の推定とは、反証がない限り、過失があったものと判断することをいう。 特許権、意匠権、商標権を侵害した者は過失があったものと推定される。
そして監督過失とは例えば、上司である工場長が現場作業員に対する適切な指揮監督を怠ったため、作業員が油断して事故を起こしたような場合であり、このような場合において監督者に過失が認められるためには、監督者において通常の過失の成立要件が充たされることが必要であり、旧過失論においても新過失論においても、少なくとも監督を怠ったことにより直接行為者が過失行為をし、結果が発生することの予見可能性が認められることが必要となる。
また、監督過失は本人が起こした事故に監督の責任として対策できたのならその監督には過失があったといえる。
7.因果関係について
因果関係とは、ある事実と別のある事実との間に発生する、原因と結果の関係のことである。
特に法学において因果関係が存在することが法律による効果発生の要件となっているばあいがある。まず、条件関係だが、条件関係とは、行為が、結果に対する条件として、事実としてつながっている関係である。条件関係とは、行為と結果の関係の(比較的)事実的な判断である。その判断方法として、伝統的には、「その行為がなかったならば、結果も存しなかったであろう」といえるかどうかという判断方法によるとされてきた。 これは標語的に「『あれ[行為]なければ、これ[結果]なし』の判断」と呼ばれている例としてはAが殴らなければBは死ななかった。などである。しかし、「『あれ』を取り去ると『これ』が消える」ことから「『あれ』と『これ』に因果関係がある」ことを推論するのは因果関係を前提としてしかできない論理の飛躍である(「あれ」と「これ」との存在・消滅に同時性がある理由としては、二者が第三の要素と関係があるからにすぎないとか偶然に過ぎないという事態を排除できない)、といった理論的批判のほか、以下のような種々の事例のうちいくつかを説明するには大きな修正が必要である、といった批判が指摘されるようになった。
こうしたことから、むしろ「あれあればこれあり」といえるような、行為から結果に到るまでの経過を逐一自然法則で吟味しながら追いかけていくべしとする立場がエンギッシュによって提唱された。これを合法則的条件関係説という。
次に因果関係の断絶だが、同一の結果に向けられた先行条件がその効果を発揮する以前に、それと無関係な後行条件によって結果が発生した場合に因果関係を認めるかという問題である。また、結論として一般に条件関係は否定される。例としてはXがAを毒殺しようとして毒を飲ませたが、毒が回る前にAが自殺した場合にXに殺人罪が認められるかというものである。
そして因果関係の中断とは、因果関係の進行中に被害者若しくは第三者の行為(責任能力者の故意に基づく行為)または自然力が介入するときは、因果関係は中断し、その行為と結果との間に刑法的因果関係はないとする説である。しかし、@刑法における因果関係は、元来、存在するかしないかのいずれかでなければならず、いったん存在した因果関係が、その進行の途中で中断すると解することは論理的に不可能であること、A条件説において、条件関係が存在するのに因果関係の存在を否定するのは自己矛盾であること、B中断論によって刑法上の正しい因果関係を導くことができるわけではないこと、と批判され、現在では支持者はいないとされる。
客観的帰属論(客観的帰責理論ともいう)とは、因果関係の判断をある行為の危険創出と危険実現の要素に分けて行うことである。その背景には、実行行為論や相当因果関係論が発達していないなかで、共犯や過失犯に関する判例が出されるうちに通説化したものである、ということに注意しなければならない。 つまり日本の通説では実行行為・結果・相当因果関係という判断をするところ、ドイツでは行為・結果・因果関係(条件関係)→客観的帰属という判断過程を経ることになる。
8.意見
日本ではCOVID−19の第二波が始まり、再び国民の命を脅かすことになってきている現在の状況だがワクチンは完成の目処が未だたっておらず感染予防策として手を洗う、マスクをつける、密集密接などになる状況を避けるなど対処療法しかできない。これ以上感染拡大するのであれば取り返しのつかないことになると断言できる。このような状況になった場合にワクチンが完成したとして効果の実験などで人民にいきわたるまで2〜3年かかると言われている。しかし、それほどの時間が過ぎればその時はもう手遅れになる可能性が極めて高い。ならば、このワクチン効果実験を直接人体におこなうほうが実用的であるといえる。確かに副作用が未知数でありそのワクチン投与で命を落とす人がでてしまうのではないかと言われたら確かにその通りだともいえる。しかし、これを治験者として感染者や自ら志願する人ならばその僅かな可能性でも受けたい人は必ずいる。そのような人達に協力してもらいながらやれば問題はないといえる。そして完治したり抗体が生成されれば最悪の事態を防げるのではと私は考える。
9.まとめ
以上の意見から私はCOVID−19の対策としてワクチン開発の後、感染者を治験者として採用し、ワクチンの早期実用化に踏み切るべきであると考える
参考、引用、出典
・野村豊弘・栗田哲男・池田真朗・永田眞三郎『民法III 債権総論〔第3版補訂〕』(有斐閣、2012)ISBN 978-4-641-15937-2
・林陽一『刑法における因果関係理論』(成文堂、2000)ISBN
4-7923-1536-0
・法曹会編『最高裁判所判例解説 刑事篇 平成二年度』(法曹会、1992)
・山中敬一『刑法概説I(総論)』(成文堂、2008)ISBN 978-4-7923-1813-0。
・我妻榮・有泉亨・川井健『民法2 債権法(第三版)』(勁草書房、2009)
・授業レジュメ
・刑法論点
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・コトバンク
・ウィキバーシティ
・Amebaブログ はぶ 国家補償の谷間
・リラックス法学部
・佐伯仁 大村敦志 ポケット六法令和2年版 有斐閣
・マメブログ 緊急事態宣言が全国に拡大・いつから・いつまで?特定警戒都道府県とは?
・BIGTRADERS経済的自由とは?
篠澤優芽
帝京大学法学部 学籍番号 20J112005 の篠澤優芽です。
ライフデザイン演習の期末レポートが完成したため、送らせていただきます。よろしくお願いいたします。
法学と感染症
20J112005 篠澤優芽
私は、法学と感染症について、ワクチンにおける医師と患者の問題について行為無価値の立場に立って考える。
1、COVID-19(Coronavirus Disease2019)について
今世界中でCOVID-19(Coronavirus
Disease2019)が流行している。COVID-19(Coronavirus
Disease2019)は新型コロナウイルス感染症の正式名称であり、未だにワクチンなどが存在しないため、重症化すると致死率の高い感染症である。
2、国家緊急権と経済的自由の繋がり
まず、国家緊急権とは何かについて考えてみる。国家緊急権とは、戦争や災害など国家の平和と独立を脅かす緊急事態に際して、政府が平常の統治秩序では対応できないと判断した際に、憲法秩序を一時停止し、一部の機関に大幅な権限を与えたり、人権保護規定を停止したりするなどの非常措置をとることによって秩序の回復を図る権限のことをいう。
また、経済的自由権とは、基本的人権における自由権の一つであり、人の経済的な活動を人権として保障するのが目的である。これは、自立した個人であるためには、経済的な活動基盤を獲得することが前提であるので、それに対する国家や権力からの干渉を制約する必要がある。
日本には国家緊急権というものが存在しない。そして憲法を国の最高法規としていて、基本的人権の経済的自由権の中にある営業の自由は人が自己の選ぶ職業を営む権利であり、営業の自由を保障する名文は存在しないが、職業選択の自由がこれを保障しているとする通説があるため、COVID-19(Coronavirus Disease2019)による店の営業自粛は命令ではなく、要請という形にしていると考えられる。
3、違法性阻却事由と人権保障
違法性阻却事由は民法と刑法で正当防衛と緊急避難の部分において異なる。
民法における違法性阻却事由とは、不法行為の成立を否定する行為のことであり、民法270条に規定される正当防衛(他人の不法行為から、自己または第三者の権利を守るために行った行為のこと)、緊急避難(他人の物より生じた急迫の危難から、自己または第三者の権利を守るために、その物に対して行った行為)、自力救済(何らかの権利を侵害された者が、司法手続によらず実力をもって権利回復をはたすこと)がこれに当たる。
刑法における違法性阻却事由とは、刑罰規定の構成要件に該当して、違法性が推定される行為について、その違法性がないとされる事由のことであり、刑法35条〜37条に規定される正当行為(法令、正当業務行為)、正当防衛(急迫不正の侵害に対して、自己または第三者の権利を守るために行った行為)、緊急避難(自己または第三者に対する現在の危難を避けるため、侵害以外に対して行った避難行為)、自救行為(自力救済と同じ)、被害者の同意がこれに当たる。
正当行為について深く考えてみる。正当行為の中には安楽死というものがある。COVID-19(Coronavirus Disease2019)にかかった場合、日本で安楽死は認められるのだろうか。日本の安楽死は消極的安楽死(尊厳死)と呼ばれ、患者本人の生前の意思(リヴィングウィル)に基づき、末期ガンなどの回復の見込みがないものは認められている。尊厳死は人間としての尊厳を保つために自分で死を選べるという自己決定権であり、それは日本国憲法第13条の幸福追求権で保障されている。(人権保障)
しかし、COVID-19(Coronavirus
Disease2019)に関してはワクチンが開発されておらず、回復の見込みがない、とは言えないため、COVID-19(Coronavirus Disease2019)による安楽死は認められないと考えられる。
4、予防接種禍と国家補償の谷間
予防接種禍について考えるために、予防接種ワクチン禍集団訴訟(東京地裁昭和59年5月18日判決)という判例をあげてみる。
予防接種法(昭和51年法第69号による改正前の法律)によって実施され、あるいは国の行政指導に基づき地方公共団体が接種を勧奨した各種予防接種を実施し、1種類または2種類の接種を受け、その結果、右予防接種ワクチンの副作用により、疾病にかかり、障害の状態となり、または死亡するに至った本件各被害児とその両親らが原告(原告数は、被害児62名中訴提起前の死亡被害児を除く36名、その両親らの家族124名、合計160名)となり、当時厚生省が行っていた防疫行政につき、民法上の債務不履行責任、国家賠償法上の責任または憲法上の損失補償責任を追及するとして、国を被告として、昭和47年3月から6次にわたって損害賠償請求を提起した。
これについて最高裁は、生命、身体に対して特別の犠牲が課せられた場合においても、右憲法29条3項を類進適用し、かかる犠牲を強いられた者は、直接憲法29条3項に基づき、被告国に対し正当な補償を請求することができると解するのが相当である、としている。
ここにある「補償」として国家補償について考えてみる。国家補償とは、国家の活動によって私人に損失が生じた場合に、その損失を填補することによって救済を図る制度を指す。
しかし国家補償には国家賠償と損失補償のどちらかに割り切るのに困難な領域があり、この2つの制度ではカバーしきれない問題があることが指摘されている。これが国家補償の谷間である。
例えば、法の定めるところに従い強制予防接種が行われ、注意義務を怠らなかったにもかかわらず、後遺症が発生したような場合である。代表的なものとして小樽種痘予防接種禍事件があり、最高裁は「予防接種によって右後遺障害が発生した場合には、禁忌者を識別するために必要とされる予診が尽くされたが禁忌者に該当すると認められる事由を発見することができなかったこと、被接種者が右個人的素因を有していたこと等の特段の事情が認められない限り、被接種者は禁忌者に該当していたと推定するのが相当である。」としている。
5、過失の推定と監督過失と証明責任
では、医師がワクチンを打ち、患者に後遺症が出た場合、医師は過失の罪に問われるのか。
そもそも過失とは、注意義務に違反する状態や不注意のことをいう。過失犯は一般的に直接注意義務を怠った者に成立し、一定の場合にはその者の上司や取締役、代表取締役などの経営陣にも成立することがある。
また、監督過失が問われる事例はデパートやホテル、病院などの大規模火災の際に多いと言われる。
ワクチンの問題は、一見ワクチンを打ったことに問題があるようには見えないが、仮に後遺症が出ることが推測できていた場合は注意義務違反として過失の罪に問われる。このような予見できた損害を回避すべき義務のことを結果回避義務という。
そして刑法上の注意義務に関する法理論として信頼の原則というものもある。これは、被害者または第三者が適切な行動を行うことを信頼できる場合、それによって生じた損害について、行為者は一切の責任を取る必要はない、という原則のことである。この信頼の原則を適用するうえで論点となるのは、ワクチンを打たれた患者が、ワクチンを打った医師のことを信頼していたかどうかである。信頼していたのであれば、医師は後遺症の責任を負う必要はなく、過失の罪にも問われないと考えられる。
しかし、反証がない場合は過失の推定というものが適用され、過失があると判断されるので、医師側は過失がないことを反証する必要がある。
そして患者側はワクチンによる後遺症の問題について医師を相手に民事裁判を起こす場合、証明責任を負う必要があると考える。なぜなら、証明責任は「ある要件事実に該当する事実が真偽不明の場合に、その事実を要件とする自己に有利な法律効果の発生が認められないことになる一方当事者の危険または不利益」、つまり要件事実に該当する事実について、証明責任を負うものがその事実はあったことを証明できなければ、その法律効果(権利等)を認めないとしているからである。
6、自殺死による素因減責
ワクチンを打ち、後遺症が残った患者が、その後遺症を苦に自殺してしまった場合、医師は自殺死について責任を負う必要があるか。
例えば交通事故の加害者になった場合、責任を負うのは加害行為と被害の間に相当因果関係がある場合であり、被害者が交通事故に遭わなければ死亡することもなかったといえるので因果関係は認められる。しかし、交通事故で後遺症が残り、それを苦に自殺してしまった場合、加害者は被害者が自殺することを予見するのは不可能であったと言える。そこで、損害の公平な分担という不法行為の趣旨制度から、素因減責の手法を取り入れ損害賠償額を減額することが増えてきている。
実際に、21歳の男性が約3年前の交通事故による障害で将来を悲観し自殺したとして、福岡市に住む両親が事故の相手に損害賠償を求めたという判例が存在する。そこで福岡地裁は自殺と事故の因果関係は認めたが、死亡した男性が重い精神疾患を患っていたわけではなく、障害は生死に関わるものではないとして、当初算定していた損害賠償額を大きく減額した。
これに当てはめて考えると、医師がワクチンを打ったことによって患者が死亡した場合は因果関係が認められるが、ワクチンを打ったことと死亡したことに直接的な関与は認められないため、因果関係はなく、医師は患者の自殺死について全責任を負う必要はないが、減額された損害賠償金を支払う可能性があると考えられる。
7、因果関係の中断と断絶
因果関係(条件関係)とは、行為が、結果に対する条件として、事実としてつながっている関係であり、その中で因果関係の中断と断絶について考えてみる。
因果関係中断論は,因果関係の進行中に自然的事実または自由かつ故意に基づく他人の行為が介入したときは,それによって,因果関係が中断されることである。例えば、Aを殺害しようとしてナイフで刺したところ、致命傷に至らず、救急車で病院へ運ばれる途中で救急車が事故に遭い、Aが死亡したことなどである。
実際に判例として、大阪南港事件というものがある。内容としては、被告人は被害者に暴行を加え、これにより死因となった傷害が形成されていたが、その後、被告人の暴行により意識消失状態となり資材置場に倒れていた被害者は、
何者かの暴行を受け、被告人の暴行により形成されていた内因性高血圧性橋脳出血を拡大させ、幾分か死期を早められて死亡した、というものである。
そこで最高裁は、被告人の暴行により被害者の死因となった傷害が形成された場合には、その後第三者により加えられた暴行によって死期が早められたとしても、被告人の暴行と被害者の死亡との間には因果関係がある、とした。
条件関係(因果関係)の断絶とは、同一の結果に向けられた先行条件がその効果を発揮する以前に、それと無関係な後行条件によって結果が発生することであり、XがAを毒殺しようとして毒を飲ませたが、毒が回る前にAが自殺したケースがこれに当たる。
8、客観的帰属論について
客観的帰属論とは、惹起された結果は、行為者の行為が行為の客体に危険を創出し、その危険が具体的な結果に実現した(危険実現)という場合にのみ、行為に帰属されるという理論である。
客観的帰属論の代表的な判例として、英米ひき逃げ事件というものがある。これは、被告人が自動車で被害者をはね上げ、自車の屋上に乗せたまま気づかず走行するうち、これに気づいた同乗者が、被害者を屋上から道路上に転落させたものであった。最高裁は、同乗者の行為は普通、予想できないものであり、ことに、被害者の死因となった傷害が、被告人の行為の際に生じたか、同乗者の行為の際に生じたか判断が難しい時に、被告人の行為から被害者の死の結果の発生することが、われわれの経験則上当然予想しえられるところであるとは到底いえないから、刑法上の因果関係があるとはいえないとして、客観的帰属論を主張した。
以上のことから、私は、ある行為とその結果に対して違法か合法か、既遂か未遂かを判断するうえで必要なのは因果関係であり、因果関係の定義である「あれ(行為)なければこれ(結果)なし」というのは行為に重点を置いていると考えているので、行為無価値の立場に立って考えた。
引用、参考文献
只木誠『コンパクト刑法総論』2018年 株式会社新世社
授業ノート
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/違法性阻却事由_(日本法)
https://www.mi-net.org/yakugai/datrial/decisions/840518mctokyo.html
https://zeirishi-law.com/basic/shomei-sekinin
https://www.corporate-legal.jp/法務ニュース/法務コラム/13638
http://www.furutani.co.jp/cgi-bin/term.cgi?title=%89%DF%8E%B8%90%84%92%E8
https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=50373
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/米兵轢き逃げ事件
https://ssl.tachibanashobo.co.jp/upload/save_pdf/06140958_51ba6aac92ca8.pdf
池崎賢志朗
法学と感染症
最初に結論として、コロナ拡大防止をするために県外移動をする際の検温、PCR検査の徹底する。
COVID-19(Coronavirus Diesease 2019)とは、2019年に発生した新型コロナウイルス感染症を略した言葉である。SARS-CoV-2と呼ばれるウイルスが原因で起きる感染症ですが、2019年の終わりごろに発生したのを皮切りに、あっという間に世界中に感染が拡大したものである。この新型コロナウイルスのワクチンの完成には、まだ至っていない。そこで、私は、コロナ拡大防止策として、県外移動をする際の検温、PCR検査の徹底を挙げる。その具体的な内容としては、県外移動をする際に1週間以内のPCR検査結果を表す書類の提示と県外移動を行う、その場での検温の実施である。そして、これらを合格したという証明責任をする。証明責任とは、真偽不明な対象に関して証明を負う責任。挙証責任、立証責任とも言う。証明責任として移動許可証を配布して、それを提示しないと県外移動をすることができないという内容である。ただし、運送業は、国民が生活するためにもここでの規制からは、除外するものとする。しかし、これには、様々な問題が発生すると考えられる。
1.航空会社や鉄道会社の利益の減少
このように、県外移動をするため条件が発生するため、県外移動をする人たちは、確実に航空会社や鉄道会社を使用する人は、減少してしまうだろう。そこで、国家緊急権と経済的自由が問題となってくる。国家緊急権とは、戦争や災害など国家の平和と独立を脅かす緊急事態に際して、政府が平常の統治秩序では対応できないと判断した際に、憲法秩序を一時停止し、一部の機関に大幅な権限を与えたり、人権保護規定を停止したりするなどの非常措置をとることによって秩序の回復を図る権限のことをいい、当該権限の根拠となる法令の規定を緊急事態条項という。しかし、航空会社や鉄道会社にも経済的自由がある。経済的自由権とは、基本的人権における自由権の一つ。
人の経済的な活動を人権として保障するのが目的である。 これは、自立した個人であるためには、人の経済活動基盤を獲得することが前提であるので、それに対する国家や権力からの干渉(農奴制など)を制約する必要があるためである。そのため、国家緊急権を執行する代わりに政府から支援金の援助をする。一見、お金のかかる取引に見えるが、長い目で見ると、第2回緊急事態宣言となった場合の国民全体、日本全体の企業への支援金を払うより、全然、少ない額で収まるのでは、ないだろうか。目の前の損失だけを見るのではなく、後々の損失も見るべきだと考える。
2.規制による自由権の侵害
この感染拡大防止対策を行うと、県外への移動をしたいのにできないという点で自由権を侵害してしまう。この場合に、違法性阻却事由と人権保障という問題が発生する。違法性阻却事由とは、通常は法律上違法とされる行為について、その違法性を否定する事由をいう。日本では、民法上のものと刑法上のものがある。しかし、これによって人権保障を侵害してもいいことには、ならない。そのため、公共の福祉を執行する。公共の福祉とは、日本国憲法12条・第13条・第22条・第29条に規定された人権の制約原理である。これにより、この問題は、解決する。そして対策を行うことで結果回避義務と信頼の原則という問題発生の抑制にもなる。結果回避義務とは、予見できた損害を回避すべき義務である。もし、この対策をせず、コロナ感染者を県外移動させて、感染拡大した場合、 この義務を怠ったため事故などが生じたとしたて、注意義務違反として過失責任を問われる。これに対して、信頼の原則が適応されるか、否かという問題が発生する可能性がある。この対策をすると、そのような問題が抑制されるということだ。
3.検査結果の間違いによる感染拡大
もし、検査結果の間違えで陽性の人が県外移動して感染拡大した場合、過失は、誰にあるのでしょうか。過失の推定と監督過失という問題が発生する。陽性の人が行ったPCR検査、つまりは、検査した医者に問題があるのではないかという問題、監督過失が発生する可能性があるのではないか。監督過失とは、直接に結
果を発生させる過失(直接過失)をおこなった行為者(直接行為者)に対して、これを指揮・監督 する立場にある者である。しかし、コロナには、偽陰性が生じる場合がある。そのため、検査をきちんとして、結果が陰性だった可能性がある。医者側の検査ミスだったのか、偽陰性によるものだったのかによって過失があるか、ないかは、変わってくる。そして、ここでの過失の証明は、非常に難しいといえるだろう。
4.他県での初感染者
最近、このような事例が起こっている。それは、3カ月半の間、全国で唯一「感染者ゼロ」だった岩手県。7月29日に陽性が初めて確認され、感染者の勤め先やネット上には中傷や差別発言が相次いでいる。この場合は、感染者には、全く過失がなく、誹謗中傷している人たちなどが一方的に悪いのがわかる。では、仮にAさんは、PCR検査をして陰性で検温でも問題ないでも明らかに自分の体調が悪いが県外移動をして、その県で初の感染者となった場合、誹謗中傷が激しく自殺した際に素因減責と自殺どうなるでしょうか。ちなみに素因減責とは、交通事故など不法行為に基づく損害賠償請求においては,当事者間での損害の公平な分担の見地から,不法行為の成立や損害の発生・拡大について被害者にも過失(落ち度や不注意)があるといえる場合,その被害者の過失を斟酌して損害賠償額を減額できることである。この場合、Aさんは、たくさんの誹謗中傷で精神的に耐えられず自殺したから、自殺に追い込んだのは、誹謗中傷した人たちである。しかし、Aさんは、明らかに体調が悪いという認識は、あったがそれを無視して自分の判断で県外移動をしたという自分自身の私欲だけでその県に危険を及ぼした。この場合、誹謗中傷した人たちに素因減責は、認められるのか。
5.ワクチンで、また、新たに問題が発生
ワクチンが完成した場合は、この感染拡大防止対策は、中止となる。しかし、ワクチンが投与されることで、また新たに問題が発生する。それは、ワクチン接種した場合に起こった副作用である。ワクチンの接種後に副反応として、発疹、蕁麻疹、湿疹、紅斑、掻痒等の過敏症・発熱、頭痛、悪寒、倦怠感などの全身症状・発赤、腫脹、疼痛などの局所反応などが有る場合がある。過去には、予防接種ワクチン禍事件、本件は、予防接種法(昭和51年法第69号による改正前の法律)によつて実施され、あるいは国の行政指導に基づき地方公共団体が接種を勧奨した予防接種として、インフルエンザワクチン、種痘、ポリオ生ワクチン、百日咳ワクチン、日本脳炎ワクチン、腸チフス・パラチフスワクチン、百日咳・ジフテリア2種混合ワクチン、百日咳・ジフテリア・破傷風3種混合ワクチン等のうち、1種類または2種類の接種を受け、その結果、右予防接種ワクチンの副作用により、疾病にかかり、障害の状態となり、または死亡するに至つた本件各被害児と、その両親らが原告(原告数は、被害児62名中訴提起前の死亡被害児を除く36名、その両親らの家族124名、合計160名)となり、当時厚生省が行つていた防疫行政につき、民法上の債務不履行責任、国家賠償法上の責任または憲法上の損失補償責任を追及するとして、国を被告として、昭和47年3月から6次にわたつて(基本事件は当庁昭和48年(ワ)第4793号事件であり、事件数は全部で6件である)提起した損害賠償請求事件であるという事例もある。今回、コロナウイルスのワクチンが完成して、コロナ感染者の同意のもと投与して、副作用が出て死亡した場合どうなるのか。医者には、過失がなく、相手の同意も得て実行して予防接種禍と国家補償の谷間で無過失とする場合が多いがこれを保証するか、否か。または、客観的帰属論で因果関係の中断と断絶に至るか。しかし、そこで、コロナウイルス感染者に投与した医者に責任を負わせるとその後のワクチン投与が厳しくなるので、無過失で無罪となるだろう。
6.まとめ
このコロナ感染拡大防止策は、感染者をより最小限にすることができるだろう。そのため、感染拡大防止のためにGoToキャンペーンをやるべきではなかった。そして、新型コロナウイルスの感染拡大防止策として、政府が30日から、介護施設などを対象に布マスク約8000万枚を追加で配布することが分かった。厚生労働省によると、全体の事業規模は妊婦向けや事務費を含めて計1億5千枚で約247億円。追加分のマスク調達費は計118億円余りになる。既に市販のマスクが店頭に並び、全戸配布された布マスクの使用者も少ないことなどから、配布対象者などから「ありがた迷惑」「税金の無駄遣いだ」といった声が相次ぐ。これには、怒りしか湧いてこない。今回のことで日本政府の愚かさがよく理解できた。政府は、「税金をなんだと思っているのだろう」と不信感が募るばかりだ。私たちがこれから、日本を背負っていく若い世代が変えるしかないと思った。今回、コロナウイルス感染拡大防止策について記述したが、しかし、私が一番心配しているのは、一人暮らし自殺である。私も、今年、上京して、親戚も友達もあまりいないなか、一人暮らしをしている。正直、寂しくて一瞬「死のうかな」と思ったときもあった。しかし、両親や友達と通話をしたりして、「やっぱり、死んでは行けない」と思って、大学の課題やレポートに挫けそうになりながらも生活している。今、一番重要だと思うのは、一人暮らしの人を気にかけてあげることだと思う。通話するだけでも、人は元気をもらえる。そして、政府は、確かにコロナウイルスに目を向けるべきだが、一人暮らしをしている学生、社会人、高齢者にも、目を向けなければ、精神的苦痛で自殺行為に及ぶ人も現れる可能性が十分にある。
参考文献
Wikipedia
講談社
朝日新聞
コトバンク
東京新聞