情報社会における危険犯 09j108024 片野 佑紀

 

 1、初めに

 

2011年に入ってからまもなく、中東革命と東日本大震災という二つの大きな出来事があった。特に東日本大震災は福島第1原発事故を引き起こし、現在も収束しておらず、放射能漏れが世界的に深刻な問題になっている。中東革命とはまさしく情報革命と言われる今の世を象徴する出来事であり、東日本大震災による原発事故は、親方日の丸的な国と大企業の関係、設計や体制などの見通しの甘さ、隠蔽体質が問題となった。民主主義を貫く上で情報の開示とはあらゆる意味で、非常に大事なことである。中東革命では、情報という媒体により、民主化が進んだとみることができる。一方で、東日本大震災による原発事故では、地震や津波による被害想定が甘く、震災後の原発事故では情報が錯綜し対 応が遅れてしまった。情報社会といわれている今日では、情報革命による技術の著しい発展より、危険の発生の拡大、社会的規範の弱体化、環境や生命倫理の問題など、様々な特性がある。今回の東日本大震災では原発による被害の拡大、原発事故の責任の不明確さ、放射能漏れによる環境や人体への影響などが問題となった。情報社会において、このような危険はどのように規制し         

法益保護をおこなうべきなのだろうか。刑法にしぼって検討していく。                         

 

 2、刑法                                 

                                           

 刑法では、罪刑法定主義がとられ、構成要件に該当し、違法性があり、責任能力がある行為のみ罰せられる。構成要件とは、犯罪類型の事であるが、犯罪類型として、具体的に、偽証罪などの行為者の内心的状況や心理的要件を必要とする表現犯強制猥褻罪のように内心傾向が必要である傾向犯、内乱罪のように故意の他に目的を必要とする目的犯、また、放火罪のように法益侵害のおそれがあれば犯罪が成立する危険犯、窃盗罪のように法益侵害があったという結果が発生すれば犯罪が成立する侵害犯に分類できる。さらに危険犯については、具体的な危険の発生を必要とする具体的危険犯と、具体的な危険の発生を必要とせず、一般的な危険で足りるとする抽象的危険犯に大別できる。違法性の実質については、結果無価値の立場から法益の侵害を目的とみる物的違法論と、行為無価値の立場から行為者の意思の目的性をみる人的違法論の二つの考え方がある。                                         

 ネット上の名誉棄損をめぐるリーディングケースとして、ラーメン花月事件があり、去年に最高裁判決がでた。「閲覧者がネット上の情報を信憑性が低いと受けとるとは限らない」とした。情報社会のもと、ネットの普及や発達が目まぐるしいなか、原状回復も難しいだろうし、社会的なダメージもより深刻であろう。これからさらに技術が発達するによって、法益侵害あればそれだけでネットの名誉棄損のように多大な損害を受けるものも出てくると考えられる。よって、これからの刑法の在り方として、保護法益や犯罪の性質、行為者の意思や、故意や過失などの主観的違法要素注意しながら、情報社会の危険からの法益保護を重視していく必要があるように思われる。                                   

 

 3、主観的違法要素について

 

 目的犯、傾向犯表現犯については、主観的違法要素である内心傾向が必要であるとされている。                                  

 目的犯では、通貨偽造罪における行使の目的が超過的内心傾向であり、これが法益侵害に作用するという意味で違法要素であるとされた。               

  通貨偽造罪とは、刑法148条より「行使の目的で貨幣、紙幣又は銀行券等を偽造、変造する罪」である。「行使の目的」とは、偽造あるいは変造した通貨を実際に流通させる目的のことであるが、ここでは、行使の目的という主観的違法要素ではなく、偽造もしくは変造された通貨の「行使の危険」と置き換えて、判断されるべきであるように思われる。                             

 傾向犯では、例えば、強制猥褻罪の場合、行為者の性欲を満足させる主観的な猥褻傾向が必要である。                                

 判例では、恥をかかせる目的で被害女性に上半身裸になるように強要したケースで、性欲を刺激、興奮、満足させる性的意図がないと強制猥褻罪にあたらないとし、強要罪になるとしている。一方で、有力説では、強制猥褻罪にあたるとしている。強制猥褻罪の保護法益は、性的自己決定権であり、判例のケースでは、加害者に猥褻傾向がなくても、性的自己決定権に基づく性的自由権が侵害されたとして、強制猥褻罪が成立すると考える。これに対し、診察のため男性医師が女性の胸を見た、あるいは胸を触ったというケース、それぞれで強制猥褻罪が成立するのだろうか。このケースでは、医者の正当行為であるので強制猥褻罪は成立しないとすれば矛盾はない。しかし、猥褻傾向に関係なく、性的自己決定権の侵害があれば強制猥褻罪が成立するとなると、強制猥褻罪の成立範囲を広めることになる。この考えをとるとどこまでが性的自己決定権の及ぶ範囲であるのか議論の余地が十分にあると考えられる。私見では、強制猥褻罪に猥褻傾向は不要であるという不要説をとり、性的自己決定権の侵害を要件とするべきと考える。                  

表現犯では、偽証罪について、供述が自己の主観的な記憶に反するという内心状態が違法性を決定づけるとしている。偽証罪とは刑法169条より、「虚為の陳述をすること」であるが、この虚為の意義をめぐって、判例、有力説の主観説、多数説の客観説に分かれている。主観説は上述の通り、証人の記憶に反する内容の陳述が虚為であるとする。一方で客観説では、客観的な、事実に反する陳述が虚為であるとするものである。主観説は記憶に反する内容の陳述事体に国の審判作用を害する抽象的危険があるとする。一方で客観説では客観的事実に合致する内容の陳述であれば国の審判作用の害する危険はないとする。つまり、主観説では、抽象的危険犯、客観説では具体的危険犯の立場をとることになる。

情報革命による技術の発展は、被害の拡大、社会的規範、モラルの弱体化をひき起こした。また、情報社会である以上、「情報」とはライフラインとして必要不可欠なものであり、そもそも「情報」というものは「影響力」が強いものである。目的犯とは故意の他に目的を必要とするものであるが、被害の拡大、社会的規範、モラルの弱体化という特性から、主観的違法要素である目的ではなく、結果の危険性に重点を置くべきである。傾向犯とは、内心傾向が成立要件に必要であるとするものであるが、これも情報社会の特性から、内心傾向ではなく、法益侵害という結果でみるべきである。表現犯は、心理過程や内心の状態を「表現する」ものである。記憶に反する内容の陳述を行う、つまり嘘の陳述を行うという行為は、例え結果が勘違いをしていたので事実であった場合でも、情報社会でこの様な行為は許されない。情報社会下では「嘘の情報」が流れるということは致命的な事である。従来通りの主観説の立場をとるのが妥当である。情報社会の特性から、危険犯については、原則厳格な立場をとらざるをえない。一方で犯行をとげようと思ったが遂げる事が不能であった、いわゆる不能犯や、不作為犯であるケースもある。                       

 

4、不能犯                                      

 

 犯罪の故意をもって行為を行ったが、結果が発生することが不能であるものを不能犯という。不能犯であった場合は罰せられない。不能犯成立については、大きくわけて抽象的危険説、具体的危険説、客観的危険説の3つがある。抽象的危険説では、行為者の意思、主観を基に一般人の見地から、結果発生の危険があったのかどうか判断する。具体的危険説では、行為者の認識した事情を基礎に一般人の見地から判断する。客観的危険説では、結果からみて、絶対的不能なら不能犯、相対的不能であれば未遂犯とする。不能犯には、客体の不能による不能犯、方法の不能による不能犯の二つに分けられる。判例、通説では具体的危険説がとられている。判例では具体的危険説と客観危険説とられていると思われるものもある。ただ、絶対的不能と相対的不能の区別が明確で無く、方法の不能犯では限界がある事から、原則、具体的危険犯をとるのが妥当と考えられる。

 

 5、不作為犯

 

 不作為犯には、刑法上不作為を規定している真正不作為犯、明文規定がないが作為による結果の実現が予定されている構成要件によって不作為も処罰される不真正不作為犯の二つがある。不真正不作為犯は、社会一般的に期待された行為をしないこと処罰するものであるから、前提として、作為義務がある。         

 リーディングケースとしては、薬害エイズ事件が挙げられる。この事件では安全な加熱製剤が開発されたにも関わらず、非加熱製剤を使い続けて、多数のHIV感染者、またはエイズ患者を生みだした事件である。薬害エイズ事件では、予見可能性がはっきりとしており、不真正作為犯であるのは明らかである。一方で、今回のような想定外の大震災が起こった時、津波の被害想定マニュアルが不作為であった、というケースではどうなのだろうか。想定外の地震であったということなので、いたしかたない、一般的に期待されるにつき相当性がないとなりそうであるが。今回の大震災では重大な原発事故をひきおこした。それまでは、日本の原発は安全と言われてきた。しかし、今回の事故をきっかけに、いままでのずさんな管理体制が明らかになった。原発という技術、ずさんな管理体制、原発の危険性、まさしく情報社会の特性の問題である。不作為とは、一般に期待される作為義務を行わないこと、であるが、情報社会下では、一 般的に期待されようがされまいが、客観的な作為義務を負うべきである。

 

 6、情報社会の危険犯

 

 刑法の哲学では、結果無価値、行為無価値の二つの考え方がある。実務では、行為無価値がとられている。一方で、情報社会下では、その特性や、情報の成質上、法益保護を重視し、内心傾向などの主観的なものばかりでなく、危険性という客観的な要素にも重点をおく必要がある。情報革命による技術の発展がめまぐるしいが、それに伴い犯罪が高度化、複雑化してきているからである。さらに驚くべきは、社会的規範、つまりはモラルの低下が著しい事である。孫子に「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」とある。情報の有用性を知って正しく使えるのならばこれ以上のものはない。しかし、現実は情報の隠蔽、ネットの誹謗中傷など、情報社会の発展にモラルが追いついていない状況である。このままでは、厳罰傾向になり、規制が厳しくなるだろう。

 

 7、まとめ

 民主主義下において、「表現の自由」、「知る権利」等のより重要な権利を実現する上で、情報というものは欠かせない。一方で、プライバシーの侵害や名誉棄損があった場合、極めて重大な法益侵害となる。また、技術の発展にともない、損害の規模が拡大してきており、生命や環境に多大な影響を与えてきている。一歩間違えたら取り返しのつかないことになりかねない。民法の不法行為では高度成長にともない、過失の客観化がなされた。刑法では情報社会においては、行為無価値を基本としながら、客観的な要素も考慮していく必要があるように思える。しかし、法の在り方よりも、情報化社会におけるモラルの在り方を確立しモラルの向上に努める事が重要であり、今最もやらなければならないことである。