09J116003 西澤茜 「英米法レポート」

 

 テーマ「裁判員と罪数」

裁判員制度が日本で始まって2年が経った。メディアでも多々裁判員制度について取り上げられているが、日本独自の制度である裁判員制度は始まってまだ日が浅いため、安定していないように思う。

この日本独自の裁判員制度は、陪審制の変形と思われる。しかしなぜ、日本において陪審制を導入する必要があるのであろうか。考えればその人自身で答えは導き出せるかもしれないが、はっきりとした動機は国民に明らかにされていない。

アメリカやイギリスなどの英米法系の裁判では、伝統的な陪審制を採用している。

陪審制は、本来コモンローを土台とした国家において有効である。制定法の国においても法の正義に対する確固とした信条が存在すること前提となる。国民国家としての国家理念なのである。

国民国家としての理念が確立されていてはじめて陪審制は正当化される。つまり、国民が、確固とした正義の理念が確立されていなければならないと思う。陪審制は、信じうる実体が明らかでなければ、ただのリンチになる可能性がある。

そもそもコモンローとは何か。それは、コモンセンスによって成り立つ。コモンセンスを常識と訳した日本人では、コモンローの真の意味は理解できないのではないか。コモンは、人民であり、コモンセンスは、人民の意志である。だからこそ、国民国家である英米において陪審制は成り立っている。

コモンローは、法の背後にある何らかの実体、原理、基準、規範の存在を前提として成り立つものである。

 

一方、英米法系の裁判が中世からの伝統のある陪審制をとるのに対し、大陸法系では、法の断絶を経験したことによって陪審制は衰退し、素人が裁判官と一緒に審理に参加する参審制をとられるようになった。

我が国の裁判員制度とは裁判員と裁判官が合議を行うという点では同じであるが、裁判員は事実認定と量刑を行い、法律問題は裁判官のみで行う点では参審制とは異なる。

 

最初に触れたとおり、裁判員制度は陪審制の変形だと思うが、歴史のある陪審制にも問題点がいくつかある。

一番の問題はといえば、なんといっても一般市民がどれだけ検察官や弁護人の言っていることを理解できるのか、ということだろう。複雑な事案をどの程度理解し把握できるのかは確かに疑問もある。また、人情としてついつい感情論に流れてしまい、弁護人のパフォーマンスや情状証人の涙に流されて、量刑の判断を誤る可能性も否定できない。

裁きを下すのが人間である以上、基準がないと感情だけで量刑の判断をしてしまうのである。

日本の刑法典は法定刑の幅が広く、それだけ自由裁量の幅も広い。いわゆる量刑相場が事実上存在するが、刑法典には刑の量定の基準は示されていない。ただ現実には、刑事訴訟法248条の起訴・不起訴の判断基準が参考にされている。この点、改正刑法草案は、「刑の適用にあたっては、犯人の年齢、性格、経歴及び環境、犯罪の動機、方法、結果及び社会的影響、犯罪後における犯人の態度その他の事情を考慮し、犯罪の抑制及び犯人の改善更生に役立つことを目的としなければならない」(482項)という規定を設けた。しかし、これらの基準について判断するためには、裁判官が公判廷で得た知識だけでは十分でないこともあるため、判決前調査制度を設けて、そこで作成された調査資料を裁判官の刑の量定に反映させるべきだという意見もあり、諸外国ではすでにこの制度を採用しているところもある。なお、最近は刑の緩和傾向が著しく、宣告刑は法定刑の下限近くに集中し、下限を下回ることもまれではないというのが実情である。

 

アメリカでは陪審員は裁判期間中は外部との接触を一切禁じられ、裁判所以外への外出は勿論、新聞やテレビ報道を見ることも制限される。実際にはほとんどの裁判が1日か2日で終わるし、その日の法廷が終われば家に帰るのも自由という場合がほとんどではないが、検察官と弁護人とが真っ向から争うような事案では、長期間にわたって陪審員は身体を拘束されることとなり、その負担は非常に大きいといえる。それだけに、アメリカでは会社などで重要な地位についていたりして時間を拘束されたくない人は、陪審員になることを拒否するようになり、得てして主婦や失業中の人などが陪審員に集中するという事態も起こっている。このような陪審制の問題点が大きくクローズアップされたのが、O..シンプソン事件だろう。これは我が国でもかなり報道されたが、彼が無罪になったのはひとえに陪審制のおかげであるという評論がされてもいる。この評価に対する是非はともかく、陪審制にも様々な弊害があるのは事実であろう。

しかしながら、現在の我が国においては、市民一人一人の教育水準の上昇によって、陪審員として評価・判断を下す能力がないというような人はいないといえるであろう。また、数々の冤罪事件を見ても、職業裁判官による事実認定がいかに危ういものかはいうまでもない。加えて、社会の耳目を集めるような事件に対しても、国民は蚊帳の外で傍観しているだけでは、真の意味での民主主義とはいえないのであり、国民が司法に携わることが本当の民主主義のために必要であるといえる。

陪審法、また陪審制それ自体に様々な欠陥があるのは事実といえるが、それらを克服して採用するだけの価値が陪審制にはあったといえる。裁判員制度においても、より陪審制に近い制度となるのかどうかが国民が主権者としての地位を司法においても確立できるのかの問題と結びついているといえるかもしれない。

 

私個人の意見として、裁判員裁判において(あくまで一定の重大事件において)は、死刑無期懲役などの極刑を私自身下すことに何の恐怖も感じないので、実際に裁判員として選出され、役目を終えた方々の「恐怖との戦い」という感情は理解しがたいし、むしろ死刑を言い渡され、そのまま獄中で死刑待ちしている死刑囚を税金でまかなっているという点に疑問すら感じている。こんなことを堂々と人前で発言するのは、人としてどうなのかと思う人には思われるかもしれないが、だからといって極刑を避けていては犯罪率も上がる気がするし、何よりも大多数の遺族が納得いかないであろう。

 

 

また、裁判員制度を行ううえで最も重要視されるのは、一つの行為とみなされるか、複数の行為とみなされるかである。例えば、千葉県市川市のマンションで平成19年3月、英国人の英会話講師、リンゼイ・アン・ホーカーさんが他殺体で発見された事件では、乱暴行為を行った結果、リンゼイさんを死なせてしまったとする「強姦致死」と、殺意を持ちリンゼイさんの命を奪ったとする「殺人」。ともに人の命が人の手で失われたことを意味するが、行徳署捜査本部は、一つの行為の中で二つの犯罪が同時に行われた観念的競合に当たるとして、市橋達也容疑者を両容疑で逮捕した。

(ちなみに、殺人と強姦致死の罪で容疑者が起訴された事件としては、光市母子殺害事件や、群馬県高崎市で平成16年に小学1年の女児が殺害された事件などがある。)

 

元東京地検公安部長の若狭勝弁護士は「乱暴後、発覚を恐れて殺した場合は殺人罪と強姦罪が併合罪として成立することになる」と説明。今回の両容疑での逮捕については「二重に人の死を評価していて一般的にはおかしいと思うかもしれないが、最初から殺すつもりだと、このような処理になる。犯罪の凶悪性が浮き立つが、量刑には大差ないはずだ」と話していた。

 この事件は裁判員裁判で争われ、殺人と強姦致死罪などに問われた市橋達也被告に、千葉地裁は21日、無期懲役を言い渡した。最大の争点だった殺意について、堀田真哉裁判長は「(解剖医の証言などから)首を3分以上圧迫しており、明確な殺意があった」と認定した。その上で、「自己の性欲を満たすため強姦し発覚を恐れて殺害するなど動機は身勝手。整形手術して逃亡し、解明を妨げるなど刑事責任は非常に重い」と量刑の理由を述べた。一方で「強姦から殺害まで相当な時間が経過している」として、検察側の主張する強姦致死罪の成立は認めず強姦罪を適用した。

市橋被告の殺意を認め殺人罪の成立を認定する一方、弁護側主張も一部認め、強姦致死ではなく強姦罪の成立にとどまると判断したが、遺族感情への配慮も色濃くにじんだ判決であるとみて取れる。

観念的競合併合罪とではずいぶんと扱いが違うため、被告人にとって一つの行為といえるかどうかは非常に重要になってくるといえる。

また被告人にとって大事なことといえば、執行猶予がつくかつかないかである。

刑の言渡しはするが、情状によって刑の執行を一定期間猶予し、猶予期間を無事経過したときは刑罰権を消滅させることとする制度である。

刑法第25条(執行猶予

次に掲げる者が三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金の言渡しを受けたときは、情状により、裁判が確定した日から一年以上五年以下の期間、その執行を猶予することができる。

@       前に禁錮以上の刑に処せられたことがない者

A 前に禁錮以上の刑に処せられたことがあっても、その執行を終わった日又はその執行の免除を得た日から五年以内に禁錮以上の刑に処せられたことがない者

前に禁錮以上の刑に処せられたことがあってもその執行を猶予された者が一年以下の懲役又は禁錮の言渡しを受け、情状に特に酌量すべきものがあるときも、前項と同様とする。ただし、次条第一項の規定により保護観察に付せられ、その期間内に更に罪を犯した者については、この限りでない。

刑法第27条(猶予期間経過の効果)

刑の執行猶予の言渡しを取り消されることなく猶予の期間を経過したときは、刑の言渡しは、効力を失う。

 

裁判員裁判で争われた自宅放火事件で懲役3年、執行猶予5年の判決が下るなど、いかなる事情があろうとも、私からしてみては社会更正のチャンスを与える必要も無い被告人がそのような判決を受けたことに関して、やはり裁判員裁判はまだまだ甘いと感じてしまう。

                            

                                                                                        以上4038

                                 

                                 09J116003 法学部法律学科3年 西澤 茜