10J103004 関口智
1.各裁判制度の比較 裁判における諸制度には陪審制、参審制、裁判員制度の三種類が主に挙げられ、各々制定過程が異なっている。また、広義に受け取れば日本の裁判員制度も参審制の分類に当てはまるものだとも考えられるだろう。それぞれ、陪審員制はコモンロー、参審制・裁判員制度は制定法が根幹となる制度である。 陪審員制の基礎となるコモンローは、一般慣習の中から法を発見したものに近い。国民の意思が法の背景にあり、それを広く国民が受け入れることが、裁判の土台を形作ることになる。また、法治国家における「法」と「道徳」の混同を、エクイティーの発達により補っているようにも捉えられる。即ち、コモンローというのは歴史・文化・慣習といった類と同等の概念に近く、それらに法としての形を与えようとするものではないだろうか。したがって、それに伴う法律も、当然コモンローを根幹として生じていくことになるだろう。それは裁判においても同様で、一般人にもわかりやすい一定の判断基準がなければ、それはコモンローには馴染まないはずである。何故なら、煩雑な法の構成がなされた場合、国民の理解が進まない為に「コモン」とは言い難いものになってしまうからだ。「法が極端に難しい」ということは、それだけ陪審員に負担を強いることになり、極力そのような事態は避けられるべきであろう。以上のような法体系が構築されていけば、自然と裁判所も「伝統・慣習・先例」に照らして、紛争を解決していくことになる。これは議論ではなく、双方の言い分を聞くことで、裁判所が紛争を調停する形になる。また、陪審制においては、被告人の起訴にまで一般市民が関わる。これは、英米における裁判が「権力や体制に対する抑制機能」の実現を強く望まれている歴史的な背景に由来することだろう。即ち、為政者による権力濫用に対して異議を唱えるのは市民でなければ、抑制機能としての裁判を実現することは不可能ということではないだろうか。 一方、日本に導入された裁判員制度おいては、起訴手続は刑事訴訟法の定めにより行われている等の差異が存在する。このような差異は一体どこから生ずるのだろうか。それはやはり、歴史的背景が及ぼした法体系の違いが大きく影響しているように思う。まず、先に述べた通り英米法における裁判の役割は「為政者の権利濫用に対して市民が異議を唱える」という公法的な部分が大きい。従って、その起訴手続や有罪無罪の判断については、市民自らが判断するのが妥当だろう。しかし、日本における法体系というものは、制定法を根幹とする大陸法系である。大陸法系はローマ支配の拡大に際して私人間の関係を定めた、私法的な部分を中心に発展した法体系である。制定法は理論的な体系を用いる関係上、抽象的な概念が多くなる傾向が多いように見
受けられる。これを一般市民が的確に解することは困難であることから、大陸法系においては「職業裁判官」におけるキャリアシステムが採用されているのだろう。このように、国民が裁判に参加するといっても様々な形があり、運用方法にも大きな違いがある。 2.事例による裁判員制度が及ぼす影響 では次に、上記のような違いが及ぼす裁判への影響にはどのようなものがあるだろうか。それについて、市橋被告による「川市福栄における英国人女性殺人・死体遺棄事件
」を例にして考えてみたいと思う。まず、陪審員・裁判員は共に「事実認定」を行うことになっている。証拠に基づいて判決の基礎となる事実を認定していく作業である。陪審員はこれに基づいて有罪無罪の判断を下すまでが仕事となる。一方裁判員は、ここから更に量刑について考えなければならない。これは非常に苦慮する作業であり、罪数の問題も絡めつつ量刑を定めていく必要がある。また、参審制では、裁判官が主導となって、参審員と共にこれらを判断していくことになるだろう。例えば、先の事件においては「強姦した後に殺害」し、「死体を遺棄」したのだから、行為としては強姦と殺人、更に死体遺棄があるわけである。しかし、これら全てを単純に併合罪として罰するわけではない。他にも、この用件に該当する可能性がある法律は様々で、強姦致死や傷害致傷が挙げられる。今回の事例では「殺意」の有無で罪が異なり、それぞれ「殺人と強姦致死」及び「傷害致死と強姦」のいずれかになると予想される。更に、ここから罪数の問題が絡んでくることになる。殺意をもって強姦に及んだ結果、相手を殺してしまった場合では「強姦」という一つの行為の中で、殺人も犯している。科刑上一罪の考え方から、前者の「殺人と強姦致死」の観念的競合の関係にあると考えられる。しかし、殺意なしに強姦に及び、「黙らせようと口を塞いだ結果、首が絞まって死んでしまった」という主張が認められた場合では異なってくる。この場合、強姦によって死亡したのとは意味合いが多少異なってくる。私としては強姦致死の方が近いように思うが、弁護士側は強姦(刑法177条)と傷害致死(刑法205条)を主張しており、これも観念的競合の関係にあるだろう。また、死体遺棄に関しては殺意の有無に関わらず、どの場合でも成立し、それぞれの併合罪として処理されることになる。 このように様々な要因を考えつつ、裁判員は量刑を定めなければならないのである。その過程で様々な事実認定も行わなければならない。まずは殺意があったか否か、という問題がある。殺意があれば、刑法199条の「殺人罪」と刑法181条2項
の「強姦致死傷罪」(若しくは強姦罪)の観念的競合により、重い罪である殺人罪が選択されることになるだろう。一方、殺意が認められなければ故意がなく、殺人罪は成立しない。したがって、強姦罪と傷害致死罪の観念的競合となり、最大でも有期刑が選択される。量刑については、更にここから加重減免等を検討していくことになる。まず、法律上の加重減免の代表的なものとして、併合罪が挙げられる。今回の場合は「死体遺棄罪」が併合罪として処理され、最も重い罪の1.5倍を科することになる。 今回の事例においては、減免事由も重要な要素である。例えば、市橋被告に何かしらの刑に至る事情があった場合等で、情状酌量の余地がある場合には刑法68条の範囲で減軽されることもあるだろう。例えば、弁護士側の主張が通り、「強姦罪・傷害致死罪」が認められたとしよう。これら両罪は共に3年以上の有期刑であるが、仮に3年を科せられたとするとどうなるだろうか。併合罪による加重があって、4.5年、これが減免事由によって半分になると2.25年である。即ち、刑法25条1項の執行猶予の規定が適用できるのである。一方、死刑が選択されていたとすれば、それは無期懲役にまで減軽される。更に、殺人罪の有期で5年が選択された場合では、最低でも5年の1.5倍である7.5年にしかならず、半分になったとしても執行猶予の規定は適用できない。刑法67条によって、併合罪と併せた酌量減軽自体は可能であるものの、3.75年にしかならず、執行猶予が付くことはない。また、情状酌量以外の法律上の加重減免に値する事由も存在せず、これ以上に減軽されることもないだろう。しかしながら、先にも述べた通り、これは「死刑が無期懲役」に変わるほどの重要な行為である。それを裁判員が、ニュース等の先入観で刑を重くする、又は犯人に同情して酌量が行われることは十分に予想出来る。更に、今述べたようなことを、裁判員は考えていかなければならないわけである。はたして、短期間で内容を理解し、議論するに至れるのだろうか。そして、その事実認定や量刑は適切なものになるのか、という疑問を抱かざるを得ない。 3.裁判員制度と量刑に関する意見 日本において、これまで述べてきたような裁判員制度を導入する利点とはなんだろうか。確かに、日本人は司法に対する不信感が強い。それを解決する手段として司法に民意を取り入れる、というのは一見妥当な考えのようにも思える。しかしながら、日本にはコモンローのような法体系が根ざしているわけではない。制度の比較をした際にも述べたが、我が国が法の背景に持つのは、制定法である。欧米における陪審制では、陪審員が裁判にあたって理解が進まないことを防ぐ為、法が極端に難しくなることを避けていた。そして、専門家ではない陪審員にも分かるような、一定の判断基準を設けられている。このような、コモンローが根ざした法関係が構築された上で、陪審制は運用されている。ある種、文化に根ざした制度であるとも言えよう。しかし、大陸法系はそのような制度を前提として構築されたわけではない。更にこれは道徳律ではなく、エクイティーのように補完可能な法体系も存在しない。そして日本人には、他国のような共通の道徳観念も、基本的には持ち合わせていない。したがって、欧米の宗教観念のような共通の価値観念が有罪無罪の判断において働くこともないことになる。即ち、日本の裁判員は煩雑な制定法や判例を基に量刑を行う必要があり、有罪か無罪以上の負担も強いられるのである。また、法律の知識に乏しく、裁判のルールも良く分からない人間も少なからずいるだろう。そういった人間は、どのように立ち回るのか。恐らくは、裁判官の指示を仰ぐはずである。しかしながら、それでは本末転倒な事態になりかねない。何故なら、その者の出した意見は、殆ど裁判官の意見となってしまうことが容易に予想できるからである。 以上のような困難を乗り越えて、漸く判決に漕ぎ着けたとしよう。しかし、その後にも問題は残っている。それは控訴の問題である。判決が不服であるとして控訴した場合、控訴審では「職業裁判官のみ」で審議し直されることになる。裁判員裁判で早急に進められた審議も、全くの無駄となるわけである。出来る限り地裁の意見を反映させる意向は示されてはいるものの、早急に審議された薄い内容の判決が一体どれだけ反映されるものだろうか。改めて時間をかけて審議をするにしても、高裁が地裁の役割を負担する形にもなりかねない。一方参審制では、上訴審での参審員の参加が認められており、この問題は補われていると言える。 私は、裁判員制度というものは根幹からして間違ったものではないかと思う。コモンローに根ざして発展を遂げた陪審制の歴史や、その役割を見ても、裁判のあり方は国の法体系によって決まるべきである。更に言えば、そもそも刑事裁判に「民主的な考え」が必要かどうかも甚だ疑問である。何故なら、犯罪を犯したかどうかに関わる「事実認定」や、又その罪の軽重となる「量刑の判断」等は「民意」によって定まるものではないからである。それらは証拠証言に基づく審議を経た上で、裁判官が認定すべき事柄ではないだろうか。何故なら、犯罪者とはいえ基本的人権は認められるべきであって、刑の執行による人権の制限については極めて慎重になるべきだからである。更に言うなら、10人程度の人間が国民の意思や常識を形成するとは言い難いものがある。量刑の判断を下す制度には、他に参審制が挙げられるが、これは職業裁判官主導で行われるものである。その点に関し批判はあるものの、我が国の裁判官は「その良心に従ひ独立してその職権を行」う者であって、この職務に関し過度に「民意」を取り入れることは不合理かつ、被告人の権利を侵害しているようにも思える。裁判員制度に拒否権がないことも、その一因と言えよう。 例えば先の例のように、大々的に報道された犯罪等については、先入観が裁判員にある可能性も捨てきれない。そういった先入観により被告人への同情による刑の酌量、またはその逆もあるだろう。他にも「死刑廃止論者」であるとか「死刑積極論者」という個人の考え方を持つ者もいるだろう。そのような場合、量刑を私的な感情を交えて判断することで「同じ事例であるのに量刑が違う」という事態にもなりかねない。死刑か無期か、被告人にとっては生命を剥奪されるか否かの問題を、個人の考え方一つで左右させてもいいはずがない。実際は「量刑検索システム」なるものを導入することで、このような事態は回避しているが、ならば「量刑を裁判員が判断する意義」はどこにあるのか、ということが当然問われることになるだろう。このようなシステムを利用するのであれば、最初からドイツやフランスのような参審制の形をとったほうが有意義である。敢えて裁判員制度を肯定するのであれば、裁判員はその裁判において必要な専門家などに限るべきではないだろうか。若しくは、裁判員の人数をある程度絞り、職業裁判官主導で行うのはどうだろう。そして、その役割は事実認定に限り、ある程度参審制に近いような形を取りつつ裁判員の負担を軽減すれば、制定法の難しさも関係なく日本に馴染む制度となるのではないだろうか。少なくとも、現状の裁判員制度が日本国に馴染んでいるとは到底思えない。 最後に、日本における裁判員制度は、今後ドイツのような変遷を辿るのではないかと思う。過去にドイツは陪審制を導入後、参審制へと移行した経緯を持つ。そもそも裁判員制度は参審制に近い性質を持っており、これを日本人に馴染むような形に直すとすれば、自然と職業裁判官が主導となり、裁判員の数は減っていくだろう。日本刑法はドイツ刑法の影響を強く受けており、手続法である刑事訴訟法のみを英米法に倣ったとしても、その本質に変化はないはずである。少なくとも、現行の裁判員制度には問題点が多く、改善が必要だろう。 以上 全 5477字(小見出し・下記参考ページの文字数除く) ◆ 参考ページ一覧 http://ja.wikipedia.org/wiki/コモンロー http://ja.wikipedia.org/wiki/裁判員制度 http://ja.wikipedia.org/wiki/罪数 http://www.shihou-mizuki.com/post_4.html http://www.k-keiichiro.jp/meeting15.html http://homepage1.nifty.com/lawsection/tisikibako/baisinsei.htm |