赤堀裕樹作成

表現の自由と錯誤

 

 このテーマは、民主主義の根幹を担う「表現の自由」が他人の権利、社会の重大な利益とぶつかる場合や様々な要因から発生したり、時には刑罰すら阻却されてしまう「錯誤」と関係が発生した時にどのように折り合いをつけて判断していくかにある。表現の自由は精神的自由権に分類され、条文に公共の福祉という文言が使われていないところからも分かるように規制を簡単にしないようにされている。個人の思想が胸の内にしまわれているときには国は一切の規制をしない。国が規制をかける場合があるのは、それが、個人の内部から外部に発信された時である。その時の代表的な衝突は個人の名誉に影響を及ぼす名誉毀損である。刑法230条より名誉にたいする罪を制定している。それによると「公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁固又は五十万以下の罰金に処する」とある。内容は明らかに表現の自由と正反対である。ここでのポイントは「事実の有無にかかわらず」という文言である。これでは表現の自由の範囲はかなり限定されてしまっている。そこで3つの要点が認められると名誉毀損に対する責任が免責される。それを定めているのは刑法230条の二であり、具体的には第1項にある。ここでは「2301項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、事実であることの証明があったときは、これを罰しない。」とある。要約すると、@事実の公共性A目的の公益性B真実性の証明の3点である。この条文は表現の自由の意義を守るためのもので、名誉権と表現の自由がぶつかったときはこの二つの条文をいかに調整して解決するかが問題である。

 まず表現の自由と名誉毀損が衝突した例から考えていきたい。その代表例として夕刊和歌山時事事件が挙げられる。本件においては結果論では被告の無罪が決定しておるが最高裁までは全て有罪判決であった。というのも上で挙げた免責事項の@、Aはともに認められたもののBの真実性の証明が不十分であったとして、事実の錯誤は認められないとしたからだ。しかし最高裁ではこれを真っ向から否定し、真実性の証明は厳格に定義するものではなく確たる証拠があれば十分だとした。最高裁は、個人の名誉よりも表現の自由を優先して保護するためであると考えられる判決を下した。問題となる重大な権利は表現の自由だけでなく、やはり民主主義にとって必要な知る権利がある。ではこの権利と重大な秘密すなわち国家機密がぶつかったらどうなるのか。これを検証するのには外務省機密電文漏洩事件がある。これは知る権利が負けた事例である。国家公務違法1001項には「職員は、職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない」とある。これにおける秘密は非公知の事実であってそれを秘密として保護するに値するものである。この判断は司法判断に服するものである。しかし本件は職員にではなく被告にのみ焦点を当てて話が進んでいる。最高裁は国家公務員法111条に基づき被告をさばいた。国公法111条は秘密漏示行為を目的として公務員に近づき、その後これに秘密漏示行為を決意させるにいたれば十分であるとして被告を国家公務員法違反により有罪とした。これだけを見れば秘密漏示行為を目的として公務員に近づいたらそれだけで国公法違反になってしまい、報道の自由がかなり制限されてしまうのではないかという疑問が出てくる。本件では問題となったのはその取材方法で、被告は公務員と関係を持ちそのうえで情報を引き出した。その方法が正当な取材活動の範囲を超えていると判断された。つまり、国家機密を探知する記者の動きはそれだけでは違法ではなく、その目的が報道にあり、手段・方法が法に反していなく社会観念上是認されるものなら正当な業務行為として認められるのであろう 。では上記2つの事例を組み合わせたような事例が「月刊ペン事件」である。これは社会に影響のある情報が他人の名誉を棄損してしまう状態が発生してしまった。刑法230条の二に規定のある「公共に利害に関する事実」がポイントになったものである。公共の利害に関する事実は、一個人であってもその人が社会に与える影響などを考慮して、裁判所が客観的に判断するものである。本件では知る権利に考慮して私人であると判断される場合においては、プライバシーの保護の範囲は限定されてくるものである。そこで問題になってくるのは被害者の権利侵害の扱い方であるが、これは、表現の自由・知る権利の保護を大前提に考えているために関係なしというスタンスである。つまりなるべく制限を緩いように選択していく傾向がある。これはアメリカのLRAの法則に倣っているものであって、日本における代表例は「皇居前広場事件」・「泉佐野市民会館事件」・「東京都公安条例事件」などがある。この3つの事件の共通点は市民が憲法で保障されている集会の自由を根拠に、公の施設を使用しようと申請したが治安の維持などを理由に自治体や政府は不許可の処分を下した。しかし市民の公共施設の利用は地方自治法2442項に「普通地方公共団体は、正当な理由のない限り、住民が公の施設を利用することを拒んではならない。」とあり正当な理由の判断基準が重要になってある。上記3つの事件の結果だけ見るとどれも不許可は正当であり合法であるとしている。集団行動は大事な表現方法であって憲法でも、もちろん保障されているものである。つまりここで問題なのは全て不許可として処分するのが妥当なのかどうかである。上記のLRAの法則で考えるとこれは厳しい判断ではないだろうか。

 それでは上段のような事件における裁判所の判断基準はいったいどうなっているのであろうか。まずは名誉毀損から考えていきたい。外部評価、名誉感情、内部真実といったような要因から判断されていくが、刑法230条@にあるように指摘したことに事実の有無は関係ないものである。ではこれによく似た例を挙げてもう少し深く考えていきたい。最近注目をあびているオリンパスの件である。この1件は同社が損失隠しをしていたのが公にさらされてしまったことから始まった1件であるが、これはオリンパスの名誉を毀損したことにはならないのだろうか。これも対立構図を示してみると個人の名誉・信用と表現の自由というものである。その取材方法という問題はあるにせよ、これが正当な方法にて行われたとするなら後は内容が真実であるかどうかである。刑法233条に「虚偽の風説を流布し、又は偽計を用いて、人の信用を毀損し、又はその業務を妨害した者は、3年以下の懲役又は50万以下の罰金に処す」とある。つまり相手の信用を毀損したとしてもその内容が真実であるならば問題ないということである。本件に関してはオリンパスの記事は真実であったため何ら問題なく処理されてしまう事案である。企業の業績というのは社会に多大な影響を及ぼすため真実を公表する義務があり、そこに関しての規制は名誉に対するものよりも緩いこの法律が制定されているのではないだろうか。これとは別に巨人原監督不倫問題が注目されているがこれはどうなのか。ここでの問題は、まず原監督の人格から不倫というものは伏せておきたいことである。そのため周囲の原監督に対する印象が大幅に傷つけられたため名誉毀損が考えられる。公共の利害に関する事実が関わってくるが、本件は社会 的な影響力というよりは好奇心という要素のほうが強いため公共の利害に関する事実には当てはまらないと考える。また暴力団関係者には刑法249条恐喝罪が成立するであろう。なぜなら249条には「人を恐喝して財物を交付させた者は、10年以下の懲役に処する」とある。本件では暴力団員は原監督に対し秘密保持と引き換えに1億円を払わせているからである。

 最後に錯誤に関して考えていきたい。錯誤は時として故意を阻却されうることもあるので判断がかなり重要になってくる。錯誤に関した判例でいえばたぬき・むじな事件が故意が阻却された事例である。本件では法律を知らないとかで発生する法律の錯誤ではなく、タヌキを捕獲するという認識を欠いていると判断されたためであるが、これは表現の自由にもあてはめることができるのだろうか。実際、表現の自由とぶつかるものは相手の権利や名誉侵害であるため、表現する側の認識に着目するとあてはめも可能であるだろう。まず1つの例題を挙げて錯誤について考えてみることにする。教師が万引きを繰り返す女子学生を立ち直させる目的で裸で廊下に立たせることをした。これは傾向犯認められたものでこれを結果無価値で見ると強制わいせつの成立が考えられ、行為無価値の面で考えると強要罪が成立することが考えられる。そして罪を成立させるために必要な故意という面でこのような状況で考えると、教師は生徒を更生させるのが目的であるため前者の強制わいせつ罪は成立しづらいと考える。しかし裸で生徒を廊下に立たせるという行為には問題であるため故意が阻却されると判断するのではなく、行為無価値の観点から強要罪の成立が妥当だと考える。強要罪には「生命・身体・自由・名誉若しくは財産に対して害を加えることを告知して脅迫し、又は暴行を用いて、人に義務のないことを行わせ、又は権利の行使を妨害した者は、3年以下の懲役に処する」とある。たとえこの生徒に何があっても、裸で廊下に立つ義務はないので教師の行為は強要にあたるであろう。表現にもやはり何かしらの意図があるので、その目的が個人の中傷か公共のためなのか、そこで罪が成立するかしないか又は罪名が変わってくる。民主主義の大きな根幹を担う表現の自由、罪刑法定主義に忠実に裁判していくためにどうしても避ける事のできない故意の検証。そこで発生してくる錯誤。また日本もLRAの法則を採用してきて、なるべく制限をかけないように処分をしていくスタンスを採っている。そのため憲法を大前提に国会の出すすべての法律に裁判所の違憲審査権がかなり重要になってくる。それを行使することで人権の保護につながっていくからだ。