平野謙太作成

英米法における責任                                                                                             法学部 法律学科 3年1組 11J101017 平野 謙太

1   責任について
  

  責任という概念は、犯罪成立に重要な要素であり、非難可能性や期待可能性とも解される。
 大陸法系の日本では、犯罪成立のためには構成要件に該当し、違法性があり、有責性が認定されてはじめて犯罪成立となる。
 

 また、英米法系のアメリカでは、Acts Reus(構成要件該当性・違法性に相当)Mens Rea(責任要素)というように、やはり責任という概念が存在する。
  

 このように、責任は犯罪成立を決するにおいて非常に重要な要素をなす。

 

すなわち、前述したそれまでの要件を満たしていても、責任が認定されなければ、犯罪成立とはならないのである。
 

これは、刑法が国家刑罰権の執行である以上、行為者(被疑者ないしは被告人)の利益・人権を保証し、したがって、それぞれの要素も厳格に認定すべしという趣旨からくるものであろう。特に責任においては、犯罪成立の最終要素であるため、様々な考え方が存在する。以下ではそれらについて述べ、同時進行的に自説(私見)を展開していく構成となる。

 

 2   責任と故意または過失
   

Aは殺意をもってBを殺した」という事例があるとする。
    これは、刑法199条「人を殺したものは」以下を適用し、処理できる。
     

では、「Aは自動車の運転を誤り、結果としてBを殺した」という事例ではどうか。
      生じた結果はいずれも同じ(Bの死)であるが、後者の事例では、199条を適用できない。行為者Aに「故意(罪を犯す意思)刑法38条1項本文、3項」がないからである。後者の事例は自動車運転過失致死で処理される。
  

 もっとも、行為者の過失があまりにも悪質な場合は重過失とみなされ、故意と同様の扱いになる。
    

このように、結果が同一でもその処理(効果)が異なるのは何故か。人を殺したという構成要件、人の生命を奪うという法益侵害(違法性の存在)については、2例とも共通である。論点は最後の責任の部分である。わざと(以下、故意)であるのか、不注意・うっかり(過失)であるのかで、その行為者の非難可能性に差異が生じるということである。
   客観的にみれば、どちらも殺人であるが、それだけをみてしまうと(行為者の内心を無視してしまうと)、今度は行為者の利益(ないしは人権)が守られないことになるので、不都合である。
  

そこで、行為者の内心(以下、主観)にも着目し、バランスをとるのである。そして、これが故意と過失の概念に繋がるのである。

 

また、上記の主観と客観の話は、すなわち主観主義と客観主義の話であり、長年刑法の世界で議論されてきたものである。
 

 責任とは詰まるところ、故意と過失の認定に終始するといっても過言ではない。構成要件該当性と違法性については客観面の議論であるのに対し、責任(有責性)はまるまる主観面の議論であるので、そう簡単には決することができず、時間がかかるのである。実際の裁判おいても、論点は被告人の故意・過失であり、やはり相当の時間を消費している。
  

このように、行為者の行為について、責任能力(後述)および故意または過失を要件として行為者を非難できる場合にのみその行為者に責任を認めようとする原則を、責任主義という。
 

では実際に、どのような場合に故意・過失の認定に議論を要し、学説の対立が生じるのかを、以下に検討していくことにする。

錯誤

  @ 「熊だと思って銃を撃ったら実は人だった」、A「無主物だと思って鞄を自分のものにしたが、実は近くに持ち主がいた」、など2つの例を挙げたがこれらの共通事項はどの行為者もある行為をしようとしていた、ということである。@では熊を撃とうとし、Aでは物を自分のものにしようとしている。

 

しかし、行為者が認識した事実と実際に生じた結果には差異があった。
   

要するに、行為者の勘違いである。@の熊は人であり、Aの鞄は持ち主がいた(無主物ではなかった)。このような行為者の勘違いのことを錯誤という。
  

この場合、刑法上どうするかというと、@では人に対する傷害ないしは殺人の故意はないのでそれらで処断することはできない。
  

 しかし、もし傷害・殺人の結果が発生した場合には、構成要件が重なり合う程度で、過失傷害(209条)や過失致死(210条)で処理されるであろう。Aについても同様に、結果的に窃盗であるが、本人は遺失物横領(254条)の故意しかないので、窃盗罪では処断せず、構成要件が重なり合う程度で、遺失物横領罪で処理されるだろう。

 

(私見:被害者感情からすれば不均衡と言われそうだが、法律上の利益の均衡や法的安定性の見地からみれば妥当な結論となるのである)
 

ところで、錯誤には、その態様によって種類があり、上記@Aの場合は事実の認識に錯誤ありとみて、これを事実の錯誤という。
  

次に、その他の錯誤についてみていく。
   BAはいわゆる猥褻な図画やDVDを所持していたが、当の本人はそれらが法律で所持を禁じられているものとは知らなかった」、CBは合成麻薬を所持していたが、B自身はそれが脱法ドラッグであると信じており、法律で禁じられているとは思っていなかった」、という2例をあげたが、@Aとの違いがある。やはり錯誤なのだが、BCで挙げたABは、見方によっては事実の錯誤のようにも思える。
  

しかし、さらに厳密に解すると、この2人は(a)「法律に触れないと思っている(法律に違反しないと思っている)」・「法律を知らない(法の不知)」・(b)「そもそも、悪い行いであると思っていない」ということになる。

 

ここで、(a)のようなことを法律の錯誤といい、(b)のようなことを違法性の意識という。
  

この場合、「法律の錯誤(法の不知)は故意を阻却しない」という通説より、ABの両名は該当する罪によって処断されることになる。(私見:知らなかったでは済まされないのが法律である。ところで、話は逸れるが、昨今話題の憲法改正について、どれだけの国民が関心を寄せているのだろうか。9条や96条ばかりが取り沙汰されているが、その他の重要条文、つまり人権部分の大幅改正の可能性があることを知っているのだろうか。気がついたら人権が制限されていたでは済まないのが・・・)
 

 また、違法性の意識についても、学説の対立(不用説・必要説その他)はあるが、判例は、違法性の意識は故意の要件ではなく、法律の錯誤は故意を阻却しないという観点から不用説に立つ(私見:判例は、国民はすべての犯罪事実についてそれが違法であると知っているはずであると判示しているが、これは、責任主義に抵触するようにも思われる。また、違法性の意識がなければ故意が阻却されるという考えは、確信犯を想定しているものであるが、そうは言っても、これを認めるとほとんどの犯罪が成立しない恐れもあるもで、判例に賛成である)。
  

D「甲はAを殺そうと思って銃を撃った。しかし、Aだと思ったその人物はBであった」
  E「乙はCを殴ったつもりが、Dを殴っていた」

 以上DEのように、行為の実現はしたものの、目的と違った場合、すなわち、対象を誤った場合を、方法の錯誤(打撃の錯誤)という。これにおいて、故意は阻却されない(私見:被行為者に対する故意ではないと考えることもできるが、この考えは事実の錯誤と方法の錯誤を混同しているとの批判ができよう)

4   不完全な責任・不完全な故意

(1)不完全な責任(責任無能力など)

@行為の違法性を弁識し(事理弁識能力)、Aそれに従って自己の行為を制御する能力のことを責任能力という。この責任能力が備わっていないと、行為者を罰することができない。
  例えば、刑法41では14歳に満たない者(刑事未成年)責任能力を否定し、罪を犯しても罰しないとしている。ただし、罰しないというのは刑罰(死刑以下)を科さないというだけであり、未成年であっても更生施設に入所させられることは往々にしてある。(私見:昨今の時世と照らし合わせて、この刑事未成年の年齢設定は現代に適合しているかは疑問に思うところである)
 

 では、刑罰を科されないのは刑事未成年だけかというとそうではなく、成年者でも例えば心神喪失・心神耗弱などによる精神障碍者による犯罪については、刑法上で規定が設けられている(39条心神喪失及び心神耗弱)。
 

 刑法はどのような者に責任能力があるかということは規定せず、例外としてどのような者が責任無能力者ないし限定責任能力者であるかとういうことを、39条・41条で規定することによって、それにあたらない者は完全責任能力者であるということを明らかにしている。

  刑法の責任能力の認定において問題となるのは、この心神喪失と心神耗弱である。

  どういうことか。

  例えば、@飲酒をしたら粗暴になることを自分で認識している者が、わざとその状態に陥り、人を傷害した事例。A暴力団員が敵対組織に乗り込むにあたって、勢いをつけるために自らに覚せい剤を注射し、その状態で人を殺した事例。@Aに共通するのは、どちらも、実際の行為の時点では責任能力を欠いているということである。
  

形式的には、責任能力のない者による行為であるため、罰することはできない(行為と責任能力との同時存在の原則より)、となりそうだが、この@Aの場合、行為に及ぶ前には完全な意識があり、その意識のもとで不完全な責任能力状態に陥り(つまりその状態を自招して)、行為をしたということでこれを「原因において自由な行為」といい、@Aの両行為者は通常通り罰せられることになる(私見:批判としては、例えば@の場合、飲酒をしてそのまま寝てしまった場合は未遂になるのかというものが考えられるが、あくまでも結果に着目する理論であるからその点を誤るなと反論する)
 
(2)不完全な故意

@ABが格安で売ってやると言って持ってきた動産をもしかして盗品なのではないかと思いつつもせっかくなのでとBから当該動産を買い受けた」。
ACが自動車を高速度で運転していたところ通行人が飛び出してきた。Cは通行人をはねる可能性があるが、はねても構わないと考えて、そのまま通行人をはね飛ばした」。

@Aの共通点はAC両行為者とも、犯罪事実(@では256条盗品譲受け等、Aでは211条業務上過失致死傷等)の実現を可能なものとして認識し、これを認容している(これを認容してなければ過失=認識ある過失、というものになる)。このことを未必の故意(英米法系ではRecklessnessに相当)という。
 

そして、未必の故意の場合、一般的には故意犯が成立する(学説上は、未必の故意だけでは足りないとする説もあるが話が長くなるので割愛する)。判例(最判昭28・1・23)も未必的認識で足りるとしている。(私見:故意に大きいも小さいもない、ということであろうか)

5   英米法における故意
 

結論は、英米法における故意は大陸法系の日本よりも細分化されている(私見:判例主義の割に、結構哲学的である)。例えば、「人を殺した」という場合、日本では199条の殺人であるが、英米法の場合だと、故殺(Manslaughter:殺意なくして不法に人を殺した罪)と謀殺(Murder:殺意を持って人を殺した罪)とに分けられている。

 

(私見:日本でも、過失致死という概念があるように、故殺に相当するものはあると考えられる。ただし、英米法では、この過失致死を「殺人」として取り扱っているのである。英米法下では、上述の通り殺人罪をさらに故殺・謀殺に区分することで、刑罰の軽重のバランスを図っているのである)

6   総括のような感想・感想のような総括
 

以上、責任について長々と論じてきた訳であるが、上に挙げた以外にも学説や事例は多数存在し、論じれば論じるほどドツボにはまると思ったので、指定されたキーワードの枠は越えない範囲で論じる形となった。
 

論じる中で感じたのは、言葉・源流は違えども、英米法も大陸法も考え方や概念は似るものだということである(もちろん、全く異なるところもある)。殊責任においては、人間の内心に入り込むため、かなり哲学的になっているのは両者共通である。
 

思うに、考え方や概念がどうであれ、大切なのはその事例に真正面から向き合うことである。学説の定立や解釈に終始して満足するのではなく、その事例の真実は何なのかを見出すのである(哲学的思考過程を否定するのではなく、哲学的思考過程と事実観察の相互理解が望ましいということ)である。

また、正義も悪も絶対的なものではなく、相対的なものであると解する(昔は自力救済(フェーデ)が認められていた(正義)が、今では禁止()されている、というように)

 

しかし、たとえ観念の変化が生じても、事実に冷静に向き合う姿勢があれば、そうした変化にも対応できるであろう。
 

 新しい犯罪(特にインターネットなどを利用しサイバー犯罪など)の出現、グローバリズムの発達に伴う外国人犯罪、情報革命に伴うコンピュータウィルス、医療技術の発達に伴う倫理問題(クローン・生殖医療やIPS細胞など)、といった新たな価値観が続々と生まれる現代においては、それまでの概念が通用しないこともある。

 

責任や故意の考え方も将来は今とは異なっているのかもしれない。はたして、人類は世界の変革に対応できるのか。

 

やはりそのためには、先に挙げたような真摯な姿勢が要求されるであろう。

 

 

                                                                                                法学部 法律学科 3年1組 11J101017 平野 謙太