高橋りさ作成

「責任とは何か」

 

そもそも責任主義とは、行為者に対する責任非難ができない場合には刑罰を科すべきではないとする原則をいう。この原則は、罪刑法定主義と並ぶ近代刑法の重大な原則の一つである。

この原則の理論的根拠は一般に、近代刑法にあって、刑罰は復讐ではなく、社会一般に対する警告(一般予防論)と当該犯罪者の再犯の防止を主たる目的とするところ(特別予防論)、責任非難が出来ない場合に処罰することは、この双方の点から無意味である点にあるとされる。この原則により、結果が生ずればたとえそれがきわめて偶然的に発生した場合であってもそれだけで刑罰を科すような結果責任や、一部の者の行為についてその者の所属する団体の構成員全員に刑罰を科すという団体非難が禁止される。

 

通常"未成年"といえば、20歳未満のことを指します。

よく、「20歳未満は未成年だからどんな悪いことをしても処罰されない」と思われがちです。

しかし、犯罪に関しては、未成年者とは「14歳未満」を指します。(14歳未満=刑事未成年者という。)刑法第41条には「14歳に満たない者の行為は、罰しない」としていますが、

14歳未満だからといっても"何もなし"というわけではありません。

13歳以下 児童福祉法で対応。

触法少年として家庭裁判所の審判をうけることもある。

14歳以上16歳未満 刑法(少年法)で処罰。

少年に矯正教育を行うための施設である少年院(大人の場合の拘刑務所に相当)に送られる。

16歳以上20歳未満 刑法(少年法)で処罰。

刑事事件として検察官へ送致できる。(少年刑務所に送られれば"前科"がつきます。)

20歳以上 刑法で処罰。

亀岡市登校中児童ら交通事故死事件は、2012年(平成24年)423日に京都府亀岡市篠町の京都府道402号王子並河線で発生した交通事故である。亀岡市立安詳小学校へ登校中の児童と引率の保護者の列に軽自動車が突っ込み、計10人がはねられて3人が死亡、7人が重軽傷を負った。原因は遊び疲れと睡眠不足による居眠り運転であり、軽自動車を運転していた少年(18歳)は無免許運転であった。この事故では少年が危険運転致死傷罪にあたるかが争点となった。

 判決として2012112日、軽自動車を貸した少年の判決が京都地裁であった。入子光臣裁判官は「事故との関連は乏しく、量刑に及ぼす影響は極めて限定的」であるという理由で、罰金25万円(求刑懲役1年)の処分しか言い渡していない。なお、この判決はこの事件に関連する裁判で起訴された三人に出された判決の中では、最初のものである。また、この裁判においては弁護側でさえも執行猶予付き有罪判決にするよう求めていたのにも関わらず、実際にはそれよりも軽い処分で済んでいる。

20121116日、軽乗用車に同乗し道交法違反(無免許運転)ほう助に問われた元男子大学生の判決が京都地裁であった。小倉哲浩裁判長は、求刑懲役6月に対し、懲役6月執行猶予3年を言い渡した。

20121220日、運転手の少年に対して懲役510年の不定期刑を求めた。2013219日、京都地裁の市川太志裁判長は、懲役5年以上8年以下の不定期刑を言い渡した

加害少年の量刑が不当である(軽い)と遺族が控訴を求めたため京都地検は228日に控訴。一方で、少年側も量刑が不当(重い)である、と判決を不服とし、翌日の31日に控訴した。

この判決に対しては社会一般的にも反対意見が多いと思う。私自身納得のいかない判決だ。しかし、法律において208条第2項の構成要件に該当しないためどうしようもできないのである。さらに納得いかないのが、判決に対し少年側が不服とし控訴したことだ。7人を重軽傷、ましてや3人もの尊い命を奪っておいてよく不服といえると思う。そもそも交通事故とは、交通機関における事故のこという。他にも自動車が自然に爆発炎上したような場合、乗車中の人が車のドアやその窓に身体を挟まれたような場合や、駐車場に放置駐車している車両が崖崩れなどの災害により被害に遭った場合等である。

なお、ドアの開閉により道路を通行中の他の人・車と接触したような場合には(接触しなくても)、交通事故となる。また、車両等の運転中に崖崩れなどの外的要因により事故となった場合も交通事故となる。交通事故を起こした際に、刑事上の責任・民事上の責任・行政処分などの責任が問われる。特に人身事故を起こした場合には、行政処分として、運転免許の取り消しや停止処分になる可能性がある。それに加えて行為の様態に応じて「危険運転致死傷罪」、「自動車運転過失致死傷罪」または「重過失致死傷罪」等に問われるのである。

 違法性の意識は責任説(故意とは別個の要素)、不要説(判例)、故意説の3つにわけられる。さらに故意説は、厳格故意説(違法性の意識がなければ故意はないので無罪)、制限故意説(違法性の意識の可能性があれば有罪)に分けられる。厳格故意説での問題が、確信犯を罰することができないことである。

(1)   食堂を経営するAは、客数アップのため1000円札を真似たサービス券を作成。知り合いのBに法的問題と尋ねたが、大丈夫だろうと笑って答えたので、これを駅前で配布。この事例は結論として、通貨変造罪にあたる。理由として警察は、公式解釈権なし。法務省の回答であれば法律の錯誤でそうとうの理由がある。

(2)   古着屋を経営するCはDが持ち込むものをかなり新しく見え、型もそろっていると思ったが、安価なので、大量に仕入れた。これはDが盗んだものだった。これは結論として、盗品譲受罪に当たる。なぜなら未必の故意があるとされるからである。

法律の錯誤で思い浮かぶのが、むささび・もま事件とたぬき・むじな事件の違いである。同じ動物なのになぜむささびを殺した場合に関しては、法律の錯誤が当てはまり有罪になって、たぬきを殺した場合には、事実の錯誤とされ無罪になるのか。それはズバリむささびとたぬきとの貴重価値の違いによるものだと考えられる。

 

制限故意説=違法性の意識の可能性を責任要素としての故意の要件とする立場

 

厳格故意説=違法性の意識を責任要素としての故意の要件とする立場

 

ということで、違法性の意識(の可能性)を構成要件該当性の段階で考えるわけではない。即ち、

制限故意説においては、

構成要件的故意=犯罪事実の表象・認容

責任要素としての故意=犯罪事実の表象・認容+違法性の意識の可能性+(期待可能性)

 

厳格故意説においては、

構成要件的故意=犯罪事実の表象・認容

責任要素としての故意=犯罪事実の表象・認容+違法性の意識+(期待可能性)

 

ということになる。(期待可能性)としたのは、それぞれの立場において、期待可能性を責任要素としての故意の要件とする立場と故意とは別個独立の責任要素とする立場があるからである。

 

 【過失】より

…刑法上の過失は,次のように分類される。認識なき過失と認識ある過失 犯罪事実が発生するかもしれないと認識していたかどうかによる区別である。通常,犯罪事実の〈認識〉をこえた〈認容〉(犯罪事実が発生してもやむをえないとする意思的態度)がなければ故意は成立しない,と考えられているので,犯罪事実が発生するかもしれないと認識していても,認容がなければ過失だとされる(認識ある過失)。…

【犯罪】より

…刑法は,原則として故意による行為のみを罰し,過失による行為を罰するのは,過失犯を罰する趣旨の規定がある場合に限られる(381)。 故意と過失の限界は,とくに〈未必の故意〉と〈認識ある過失〉の区別として問題になる。〈未必の故意〉とは,通説的見解によれば,犯罪事実とくに結果の発生を確定的なものと認識せずに,単に可能なものと認識しているにすぎないが,その結果の発生の認容がある場合をいう。…

【未必の故意】より

…日本の立法も,後者に属する。後者の立場において,中間的場合のうち,故意として扱うものを〈未必の故意〉といい,過失として扱うものを〈認識ある過失〉という。どのような場合が未必の故意でどのような場合が認識ある過失であるかについては学説上争いがあるが,日本では,結果の発生を認容していた場合を未必の故意とし,認容していなかった場合を認識ある過失とする〈認容説〉が一般的である。

 例えば、「子供に接触するかも。でも、仕方ない。」と、子供が場合によっては怪我をしてもやむをえない、と結果の発生を認めてしまうと、「未必の故意」として、故意が認定されるのである。これに対して、「子供に接触するかも。でも、道路の幅がこれだけあれば、まさか、そんなことはないだろう。」と思った場合はどうだろうか。子供に接触するかも、とは思っても、そんなことはまず起こらないだろう、と結果の発生を認めない場合、「認識ある過失」として、故意は認定されず、過失が認定されるにすぎないのである。同じ過失でも、急に路地から子供が飛び出してきたため、自動車がぶつかり、怪我を負わせてしまった場合には、運転者としては、子供が飛び出してきて怪我を負わせる ことは思いもしていなかったのだから、結果の認識がなく、「認識のない過失」ということになる。このように、「未必の故意」と「認識ある過失」とは、非常に判断が微妙な隣り合った概念なのである。

 

心神喪失とは精神の障害により、是非の弁別能力または行動を制御する能力を欠くことをいう。刑事責任を問いうるためには、行為者に責任非難を課しうるだけの人格的適性を有しなければならず、これが欠ける場合には、責任無能力者の行為として、責任が阻却される(刑法391項)。現行刑法は、責任無能力の場合として、この心神喪失、刑事未成年者(14歳未満)、の2種を規定している(同法41条)。このうち、心神喪失は、精神病理学および心理学の観点から、判例は、「精神の障害により事物の理非善悪を弁識する能力なく、また、この弁識に従って行動する能力なき状態」などと定義している。これに対して、事物の是非について弁別する能力が著しく劣っている場合を心神耗弱とよぶ。

心神喪失にあたるか否かは、精神科医の精神鑑定を参考にして、裁判所が判断することになるが、実務では、明らかに心神喪失と判断される場合には、その多くが不起訴とされる。民法上、心神喪失の常況にある者は、後見開始の審判を受けることがあり、その者(成年被後見人)は法律行為を行うことはできず、なされた行為は取り消せる。成年後見制度とは、精神障碍者を保護するための制度である。ただし日用品の購入その他日常生活に関する行為については、成年被後見人の自己決定権を尊重させるため、取消しの対象から除外されている(民法7条・9条)。

 こうした中で出てくる問題の対処として、原因において自由な行為が重要となってくる。例えば、アルコールまたは薬物の飲用等により自己を責任無能力の状態におとしいれ,その状態で犯罪を行った場合でも,原因となった飲酒,薬物服用等の行為の時点で責任能力があれば刑事責任を問いうるという理論。しかし他方で,責任能力は犯罪の実行行為の時点に存しなければならないというのが刑法上の原則(行為と責任の同時存在の原則)であり,〈原因において自由な行為〉の理論はこの原則に矛盾することになる。この点,英米法では,酩酊は抗弁たりえないというのがコモン・ロー上の原則であるし,大陸法圏においては,刑法上同趣旨の規定を置くか,または,酩酊中の犯罪行為について特別の処罰規定を置くのが通例である。

 

 責任とは、自分が招いた過ちはしっかりと償うものということ。未青年だからと言ってわたしは名前を隠す必要はないと思う。14歳以下だからと言って、人として最低限のことがわからないわけがない。人を殺したのに未成年という理由で、罪を軽減する必要はないとわたしは考える。

 また、社会的にどんなに矛盾してても構成要件に該当していなければ、無罪になってしまう。いろいろなことを想定し、法律を決めるのは本当に大変なことだと思った。もし、わたしが裁判官だったら、その場の感情でつい言ってしまったり、遺族の同情があるため、本来の刑よりも重い判決を下してしまいそうである。

 これから先も法律と常に隣り合わせで生きていくわたしたちは、自分のやることに責任を持ち、過ちを犯してしまったらしっかりと責任を負って生きていく。そういった当たり前のことを当たり前にして、過ごしたいと考える。