アマゾン自然学校

 

「宇宙船地球号」と言われて久しい。人間に限らず生物の個体数の増加は常に環境破壊を伴う。環境資源の限界を如何に突破するかが、その種の繁栄の前提となるのである。生物の個体数の増加は、そのこと自体が環境の悪化を招き、食糧難や病気の発生などによって、その種の個体数はまた減少に向かう。

現在人類、いわゆるホモサピエンスの個体数は60億である。この個体数は現在の技術水準では、地球という一つの惑星が支え得るぎりぎりの線まで達したとも考えられる。しかし、人口の増加は出生率と死亡率の差で決まるものであるから、その勢いは一つのトレンドとなり、直ぐには変えることができない。多くの人口学者が一致して主張することは「ホモサピエンスの個体数は百億人程度まで増加するであろう」と言うことである。ここにホモサピエンス生存の鍵として、自らでどれだけ環境問題−エコロジーについて考察することができるかという問題が生じてくる。

エコロジーと言っても具体的には環境の汚染を防ぎ、資源の浪費を防ぎ、資源の再利用を図るということである。そして、その前提になるのが自然を愛する心であり、人間も自然の一員であるという認識である。この様な心を育てるためには自然を知り、自然の中で暮らすことがその第一歩となる。世界の若者に自然を愛する心を持ってもらうための共同生活の場を提供しようというのがアマゾン自然学校の構想である。しかし、この構想は単にエコロジーだけを想定しているのではなく、次の三つの意味がある。

第一はブレークスルーができる人材の育成である。

現在、ある意味で世界は壁にぶつかっている。「宇宙船地球号」といった意味での壁は勿論であるが、その他にも先進国は豊かになり、成熟化した反面、これから先の目標を持てなくなっているという点がある。一方、途上国は情報革命の中でますます先進国と差が開き、南北問題といった点においても、その解決の展望が見えないでいる。

この様な状況を抜本的に解決するだけの力量のある人材、即ち壁を打ち破るブレークスルーをすることができる人材が求められている。イエス・キリストが荒野で修業し悟りを開いた様に、釈迦牟尼が菩提樹の下で座禅を繰り返し悟りを開いた様に、新しい価値を生み出すためには大自然の中で孤独な努力を続ける必要がある。

また、世界各国の若者がアマゾンという大自然の中で生活することにより、異なった文化的背景を持った人々の交流による火花−スパークによって新しい発想が生み出され、ブレークスルーができる人材が生まれる可能性も大きい。

例えば、日本とブラジルといった二つの国はある意味で対照的な社会を作ってきた。現在、日本の社会において最も尊ばれる価値観は効率・完全・平等である。能率よく仕事をやり、それを隅から隅まで丁寧に完全にやり、皆がそうすることによって皆同じ様なそこそこの生活ができ、お互いに嫉妬することがない。そういった社会の組み立て方をすることにより、第二次世界大戦後僅か半世紀の間に日本は敗戦の廃墟の中から立ち上がり、世界の経済大国になることができた。

一方、ブラジルは楽しさ、自由を社会の前面に出している。1980年代、年率1千パーセントを超えるインフレに苦しみながら、また世界最大の対外債務を抱えながらも、カーニバルは年々盛んで、三日三晩全ての人が踊り狂った。世界中から移民を集め、異なった価値観を持つ人々が自由にそれを表現して、ブラジルという新天地で新しい社会を作っていった。

ある意味で、日本とブラジルはその社会の組み立て方、人生観が正反対であると言える。この二つの社会の若者が大自然の中で共同生活をすることは、激しい火花が散る体験が方々で起ることが予想される。これが新しい人材を生むベースになると思われる。

第二は文化産業立国の発想である。

従来、国の繁栄は農業に求められた。農本主義といった思想である。この農業を重視する、「重農主義」とも言える政策の後に出てきたのが「重商主義」である。商売・貿易をすることにより、国の富を増やそうというのである。16世紀のオランダの繁栄などはこの重商主義による繁栄であった。しかし、製品を左から右に移動するだけで利益を得ることに対する反発が強まり、自ら物づくりの付加価値を付けなければいけないといった反省が生まれてきた。

イギリスは産業革命を成し遂げ、工場で物づくりを行い、付加価値を付けることにより、七つの海を制覇したのである。このイギリスの例を多くの国が模倣した。近代資本主義国家は基本的に資源やエネルギーを大量消費し、これに付加価値を付けて製品として輸出する。この構造で国を富ましていったのである。

この様な加工貿易立国の当然の帰結として環境破壊が起こり、エコロジーが人類の大きな課題になっている。そこで環境破壊を伴わない付加価値づくりが求められてくる。それが文化産業立国である。同じ付加価値を付ける物づくりにしても、文化の付加価値を付ける物づくりであれば、環境破壊の心配はない。

アマゾンは地球の肺と言われて久しいが、実際ジャングルだけでは人は生活していけない。そこで今までこのジャングルを焼き払い、牧場を作ったり、焼き畑農業をしたりしてきたのが実状である。このジャングルをジャングルとしてそのまま残しながら、付加価値を付けることはできないか。これがアマゾン自然学校の構想である。

世界の若者を集め、ここで一生一度の得難い体験をするという付加価値を提供する。そして、その価値を提供することの対価を得る。これはそのままアマゾンの村興しとなり、またこれに関係する諸国にも大きな富−付加価値、即ち利益をもたらすことになる。

今後の人類は環境問題の制約から、従来の加工貿易立国の戦略は取れなくなり、文化の付加価値を求める、文化産業立国の戦略を多くの国が取らざる得ないものと思われる。その一つの例をアマゾンで世界に示すことができるのである。

最後、第三は公民二元論時代の終わりの烽火を上げるということである。

産業革命以降、世界は国民国家の時代に入ったと言えよう。民族の意識が強くなり、国家が全ての権力と財源を集め、従来あった封建諸侯の様な中間的な存在を抹殺していった。社会は「国」という公と、「民」という私の二つに分かれたのである。そして、公という存在が政治・経済・社会全般にわたって圧倒的力を持ち、それ以外の存在、発想を許さなくなってきた。実際、この様な仕組みは大変効率性が高く、短期間に国民の生活水準の向上、教育レベルの向上といった大きな成果を成し遂げた。

しかし現在、この様な仕組みは社会の多様化するニーズを捉え切れず、中央に全ての権限・財源が集まるのに、それを的確に社会全体のために使えないといった事態を生み出すに至ってきた。

ここで登場するのがNPOである。非営利法人ということで、従来の公民二元論的な立場からすれば、その二者のどちらでもないという存在である。しかし、今後の社会を展望すると、この公でも民でもないという第三の力こそが社会のニーズに答え、発展を妨げる壁を突破する力を持つものと思われる。

日本は19世紀の中葉、明治維新という形で白人の帝国主義に最初に対抗し得た有色人種の社会、そして最初に近代化し得た有色人種の社会といった歴的名誉を得た。この明治維新が成功したのは、その前の時代に多くの人材が育っていたからである。吉田松陰という先覚者が「松下村塾」という私塾を作り、後に維新の元勲として活躍する多くの青年を育てた。木戸孝允・高杉晋作・伊藤博文・山形有朋など錚々たる人々がこの塾で学んだのである。

現在、日本がその社会改革を成し遂げるためには、政官財の鉄のトライアングルを崩壊させる必要がある。丁度明治維新において、徳川幕府の幕藩体制を崩壊させる必要があったのと同様である。徳川幕府を崩壊させたのは薩摩と長州の連合、いわゆる「薩長連合」であった。そして、NPOこそ現代の「薩長連合」であると思われる。

アマゾン自然学校は勿論NPOによって運営されている。その意味で世界の人々にNPOの歴史的意味と力を具体的に理解させる役割を負っているのである。

現在、我々はアマゾン自然学校を構想し運営を始めている。世界の多くの有志の参加を希望する。