NPOと複雑系

 

 システムとしての社会保障の本質は、何をどのくらい保障し何をどのくらい負担するかにつきる。制度の具体的な展開として、公私の振り分け、財源、保障項目、医療・年金・福祉の比率など様々なものを、このコンセプトで組み立てるわけである。

 さて、アイザック・ニュートンは、初期条件を与えれば全ての運動は一義的に決定されると考えた。これがニュートン的世界観と言われるものである。ところが、近年このような世界観では説明しきれない事象が多く見られるようになり、結局、世界はもっと複雑にできており、一義的に結果が決められるのではなく、ファジーなものであるとする複雑系の考え方が登場してきた。特に、生態系の世界では、このような事象が多く見られ、生態系のひとつである人間社会においても、当然この考え方は大いに参考になる。

 NPO登場の背景は、社会が公的部門と私的部門のふたつの要素のみからなるという公的二元論の否定である。社会は本来もっと多元的なより複雑なものであるという考え方は、NPOと複雑系の理論の底に共通に流れる通奏底音である。

 情報革命後の情報社会においては、これまでの社会と違ったいくつかの現象が現れてくる。例えば、地理空間と蓄積の否定である。インターネットや衛星携帯電話の普及により、地球という惑星の上に限って言えば、距離というものがあまり意味を持たなくなってくる。地球上のどこにいても、必要な情報を取り、また発信することができるからである。このことは、経済単位としての国家の境界線である国境の消滅を意味する。国家は、単に社会文化的共同体としての意味しか持たなくなり、人種というものがDNAの視点から見た場合には、全く意味がないことが証明されている現在、人間の心の中にある心情的なものに過ぎないことが白日の下にさらされ始める。長い伝統に裏打ちされた仕事のやり方や技術が、一朝にして時代遅れになるのも情報社会の大きな特徴のひとつである。IBMの時代からマイクロソフトの時代という古典的な言葉があるが、ビルゲイツの持ち株が時価で1千億ドルを超えたことが記憶に新しい。米国企業の株式時価総額を見ても、現在のアメリカ経済を牽引しているのは、古くから存在していた企業ではなく、新しく登場した企業である。世界一の書籍販売企業であるアマゾン・コムの株価は、1997年5月の新規公開時には、18ドルだったが、1998年12月に325ドルに達した。約1年半で18倍に値上がりしたわけである。インターネットの検索エンジンを開発したヤフー社の株式時価総額は、既に日本の大手企業である新日鉄の株式時価総額を凌駕した。インターネットやパソコン通信の接続業者であるAOLの株式時価総額は、三大ネットワークのひとつである名門CBSを凌駕して久しい。

 次に、多様と画一の相克という現象が見られる。世界標準という言葉が度々語られるが、情報社会は、本来、画一的な性格を持っている。企業会計基準ひとつをとってみても、長らく簿価主義をとってきた日本が、世界標準に従って時価主義をとらざるを得ないご時世である。しかし同時に、情報社会においては、個性的でなければ生き残れないことも事実である。人々の価値観が、個々人の好みや選択を最優先することを望み、それが許される社会になるからである。日本という国は、明治以来、先進国の模倣と二番手戦略で発展を続けてきた。自動車における移動というコンセプト、すなわち、「箱に4つの車輪をつけ原油を精製したガソリンという化石燃料により動かし、地域全体にアスファルトという石を敷き詰めてその上を走らせる」は、ヨーロッパで芽生えアメリカで確立した。日本は、二番手として、このコンセプトを導入し、より安く、より使い勝手が良く、より壊れにくく、より燃費のよいものに改良することにより、多くの利益をあげることができたのである。しかし、情報社会においては、このような二番手戦略の有利性は終了する。柳の下に2匹目のどじょうは、いないのである。Fast Eats Slow. 早いものが遅いものを食うという言葉通り、一番手と二番手の価値の差は、これまでと比べものにならないほど大きくなる。昨日の新聞は、誰も読まないのである。このことは社会がより多様化することを暗示している。また、分権国家と原理主義の問題も多様化の問題である。キャッチアップの時代には、権力をひとつに集め、全体を引っ張っていく中央集権的なシステムが効率的であったが、試行錯誤を重ねて付加価値を生み出す情報社会においては、現場に密着し決定権が分散している分権型のシステムの方が効率がよい。また、世界標準に従って社会を画一化しようという動きは、その社会固有の価値観や伝統を重視しようという原理主義の考え方と対立することを余儀なくされる。現在の世界各地の紛争地帯を見てみると、チェチェン、ボスニア・ヘルツェゴビナ、フセインのイラク、タリバンのアフガニスタン、インドのカシミール、インドネシアの東ティモールやアチェなど、くしくも全てイスラムと関連があることは、決して偶然ではない。現在の世界標準は、アメリカ標準とほぼ同義に語られており、このアメリカ標準に最も激しく反発するのが、イスラムという価値体系を守ろうとするイスラム世界における原理主義、すなわちイスラム原理主義にほかならないからである。

 最後に、有限概念と長期的視点の必要性があげられる。過去1万年の間に、人口は百倍以上、1人あたりの使用エネルギーも百倍以上増加した。総使用エネルギー量は、1万倍以上に増加した計算になる。産業革命以降の工業社会は、資源は無限にあるという無限概念を基礎に組み立てられてきた。そのシステムが大量生産、大量消費、大量廃棄型の社会である。地球は広いと言っても、1万倍以上のエネルギー消費量の変化を吸収できるほど広くはない。年金制度の構築にあたっても、数十年単位での思考しかなかった。しかし、宇宙船地球号と言われるエコロジー的発想に基づく情報社会においては、社会保障だけでなく、全てのシステムは、数百年単位の時間計画能力に基づいて作られなければならない。

 さて東京とロンドンは、ともに事実上、アジアとヨーロッパにおける第一の都市である。人口だけでなく、産業規模や社会的、政治的影響力はほぼ同等と考えることができ、双方の地方公務員数も東京が29万8776人(1999年4月現在)、ロンドンが30万8000人(1998年6月現在)とほぼ等しい。しかし、その配置の仕方は、サッチャー女史による機構改革後、東京とロンドンで全く異なっている。東京は、東京都庁に18万8819人、23区・市町村に10万9957人と極めて頭でっかちな配置である。これに対してロンドンにおいては、東京都庁にあたる大ロンドン庁の職員数は、わずかに400人に過ぎない。ロンドン庁外局に約6万人、東京23区・市町村にあたるロンドン33区に24万7334人配置されている。このことは、新しい時代、すなわち、情報社会における組織原理のあり方を暗示している。情報社会における公の任務は、ルール作りとそれに基づく審判、そして認証のみであると考えられる。情報社会における基本組織体は、フレキシブルでスモールなネットワークの構成要素であるNPOである。そして、複雑系のなかで多重構造・柔構造の構成要素として、地理空間と蓄積の否定・多様と画一の相克・有限概念と長期的視点の必要性といった社会のニーズに対応できる個人単位の世界を形作るものでなければならない。情報社会における社会保障の具体的な展開方法においても、例えば、医療に営利法人の参入を認めるかどうかという二者択一の議論ではなく、NPOを中核とした複雑系のシステムを作らなければならない。社会保障の財源にしても、税・保険料・自己負担といった三元論ではなく、フローとストックを総合的に見たシステム論でなければならない。個人的に言えば、社会保障の財源として、もっと相続税を活用すべきであると考える。年金にしても、世代ごとの保障と負担の実態をもっと明確にした上で、フローとストックを総合して給付を合理化し時代に合った社会産業システムを、若年世代に遺産相続させることを含めた世代間財務諸表を作るべきである。その意味で、NPOを基本単位とする複雑系システムの確立は、社会保障においても切り札となる。