現代天保年間説

 

人間のやることはそうたいして変わらないから、未来を予測する時には過去の歴史を研究してみることがよい手助けになる。現在の日本は江戸時代の終わりの天保年間に似ていると思われる。

1840年、阿片戦争が起こった。これは中国から茶を輸入する代金の高騰に悩んだイギリスが武力で無理矢理中国に阿片を売り、その代金を回収しようとした不埒な戦争である。しかし、その本質は産業革命を成し遂げたイギリスという国が産業革命以前の状況にある中国などのアジア諸国に与えたインパクトと定義付けることができる。1989年、ベルリンの壁が崩壊した。これは情報革命を成し遂げたアメリカをはじめとする西側の資本主義諸国が情報革命以前の工業社会の段階にある東側の社会主義諸国に与えたインパクト、とその本質をみることができる。その意味で、阿片戦争とベルリンの壁の崩壊はその歴史的意味が極めて似通っていると思われる。

阿片戦争の後どうなったか。日本をはじめとするアジア諸国は仰天した。孔子・孟子という「孔孟の国」である大先生の中国がイギリスという毛唐の国に敗れた。これは大変だというわけである。その敗北の原因が産業革命という本質的な社会の変革であることをおぼろげながら悟った各国は、それまでの社会の仕組みを改めるべく、改革を始める。

日本でも水野忠邦が幕府の老中となり、天保の改革を始めた。しかし、この改革は失敗した。それは改革の理念、すなわちパラダイムが正しくなかったからである。天保の改革のパラダイムを一言で言えば大御所、すなわち徳川家康の時代に戻れということであろう。幕府の老中という立場上、水野忠邦は幕藩体制を崩壊させるべきであるということは口が裂けても言えなかったし、また発想もし得なかったであろう。しかし、日本が産業革命の荒波を乗り切るためには徳川幕藩体制を改めて、資本主義的な工業社会の仕組みを作るしかなかったのである。

ベルリンの壁の崩壊以降、大競争時代が到来したと言われる。メガコンペテンションである。それまでの競争はアメリカ・日本・西ヨーロッパというせいぜい10億人の競争であった。その中で日本の車は世界一燃費がよく、乗り心地がよく、壊れ難く、公害も出さないとして大きな国際競争力を持ったのである。例えば板金は日本の熟練工が数ミクロンの凸凹もないように手の微妙な感覚で平らにしてきた。しかし、情報革命の進展でコンピューターが普及すると、この熟練工のノウハウをデジタル化し、コンピューターにインプットすることにより、未熟練工でもそこそこの物ができるようになってきた。このような情報革命はベルリンの壁の崩壊によって中国・ロシア・東欧の人々を世界経済の土俵に組み込んだばかりではなく、アジアニーズ・アセアンといった新興国の産業を飛躍的に発展させ、またラテンアメリカのインフレ率を下げ、彼らが世界経済の土俵に取り込まれるようにした。

このようなインパクトを受けて、情報革命の波に乗り切るべく、各国で改革が始まった。日本で行われたのが橋本内閣による六つの構造改革である。ビッグバンと言われる金融改革・教育改革・財政改革・行政改革などである。その一つとして社会保障改革もある。しかし本来、情報革命を成し遂げるためには幕末における幕藩体制に相当するもの、すなわち政官財の鉄のトライアングルを破壊しなければならない。橋本龍太郎首相は、このトライアングルの申し子とも言える立場にある人であり、まさに水野忠邦に相当すると言えよう。従って橋本内閣の改革は天保の改革と同じような運命を辿ったと言えよう。

しかし今後、日本がこのままの社会で情報革命の大波を乗り切れるわけはなく、丁度幕末にペリーが四隻の黒船を率いで浦賀に来航し、これが直接的に明治維新への道を開いたように、間もなく日本においても黒船がやってくる可能性が大きい。現代の黒船は恐らく環境問題・資源問題・人口問題などが絡んだものであろう。

阿片戦争が1840年に始まった。明治維新が1868年である。その間実に約30年、本当に社会が変わるためにはこの程度の時間が必要なのであろう。現在においても、その社会の本当の変革のためには、その位の年月が必要である可能性が大きい。従って現在、我々が必要なことは国際版の松下村塾をつくるではないかと思う。明治維新がスムーズに成し遂げられたのは、吉田松陰が松下村塾をつくり、維新の志士達を育て上げていたからである。現在も新しい時代を担い得る人材の養成が必要である。我々が行なっているアマゾン自然学校はまさにそれをやろうというのである。