猪股俊介
『 安楽死と社会保障 』
Chapter.0 〜 安楽死に対する見解 〜
日本では、消極的安楽死こそ認められているものの、積極的安楽死は認められていないのが現状である。しかし、命というものが真に 「その人の所有物」 として解されるならば、己の命の終わりを決める権利である積極的安楽死が認められてもいいのではないだろうか。
Chapter.1 〜 「死」とはなにか 〜
生物における 「死」 とはなにかという問に対し、一般的に用意される答えは 「生命がなくなること (生命が存在しない状態)」 又は 「機能を果たさないこと、役に立たないこと」
といったものが挙げられる。しかしながら、なにをもって人間の死とするのかについて考えたとき、その判定や定義は文化・時代・分野などにより様々であることに我々は気づかされる。伝統的に死を扱ってきた分野として宗教・哲学・神学などが挙げられるが、近年では死生学・法学・法医学・生物学等々も死に関係している。
それならば、「では、現代の死亡の判定や定義はどうなっているのか」 という問に行き着くと思われる。しかし、どのような状態になったことを
「死」 とするのかということについては、各地域の文化的伝統、ひとりひとりの心情、医療、法制度、倫理的観点などが相互に対立したり影響し合っており、複雑な様相を呈している。さらにその一つを挙げて (例えばそのうちの医学的な見解一つを挙げて) みても、その中には様々な見解がありうることから明確な定義は未だになされていない。
なぜ始めに 「死」 とはなにかということについて触れたかというと、次章で触れる終末期医療以外で安楽死を認めても良いだろうと思われる人の死に 「脳死」 の問題も絡んでくるからである。脳死状態の人間とは、言わば呼吸をするだけの植物状態であり、故に意思能力を欠いた状態にある。つまり、尊厳死を最も必要としている患者は脳死患者ではないかと思うからだ。
Chapter.2 〜 日本の終末期医療
〜
終末期医療とはターミナルケアとも呼ばれ、末期ガン患者等に向けた医療・看護・介護を指し、延命を主目的とした看護ではなく、患者の身体的及び精神的苦痛を軽減し、人生の質(クオリティ・オブ・ライフ)を向上することが目的とされている。しかし、終末期という概念や言葉については、日本の法律、国際連合で採択された条約、厚生労働省、世界保健機関、医学学会などのいずれも、公的に明確な定義はしていない。よって、公的で明確な定義がないので、終末期の意味は論者によって異なる。一般的には老衰・病気・障害の進行により死に至ることを回避するいかなる方法もなく、予想される余命が3か月以内程度の意味で表現されている。事故・災害・急性の病気により突然死した場合や、急性期の病気で何時間・何日間程度で死に至った場合は、死亡日以前に余命3か月などと予想される状況ではないので、死亡日から逆算して3か月以内を終末期とは表現しない。前記のように終末期は誰にで
も死亡する以前に必ず発生するものではなく、進行性の老衰・病気・障害で死に至る場合にだけ発生するものと思われる。医療的な措置は緩和医療 (緩和ケア) が中心であり、精神的な側面を優先した総合的な措置が取られている。また、終末期医療の基本精神としては、患者や家族等と医療関係者の生命維持に関する相互理解を基盤にし、患者の自己決定権を尊重した医療を行うことが挙げられる。しかし、このように患者の苦痛緩和を重視した医療だが、患者自身が終末期において過剰な延命治療を望まない場合は、その意思を尊重した最善の医療が行われるとしている。(患者に決定能力がない場合は家族の判断となる)
さて、最後に触れたように患者自身が過剰な延命治療を望まないケースというのは十分にありうることである。だが、もしそこに患者自身の死に対する願望(生への諦念、または生への満足)の意思が含まれていた場合、私たちはどのような対応をとることができるのだろうか。その問題こそが本レポートにおける論点である
「安楽死」 の問題である。
Chapter.3 〜 「安楽死・尊厳死」 とはなにか 〜
まず始めに、安楽死と尊厳死の意味について取り上げておきたい。安楽死とは、「苦しい生」
または 「意味の無い生」 から患者を解放するという目的のもとに意図的に達成された死。若しくはその目的を達成するために意図的に行われる死なせる行為をいう。ここでの
「苦しい生」・「意味の無い生」 とは、患者自身が自分の生に対して下した評価であって、決して他者から見て生に意味があるかを評価したものでないという点に注意が必要である。また、安楽死には二つの区分があり、行為の様態から積極的安楽死と消極的安楽死に分けられ、日本の法律において後者は刑法199条の殺人罪、並びに刑法202条の自殺関与(又は自殺幇助)・同意殺人罪には当たらないとされている。次に尊厳死であるが、安楽死とどことなく語感は似ているものの意味内容は異なっている。尊厳死とは、人間としての尊厳を保って死に至ることを指す。つまり、単に
「生きた物」 としてではなく 「人間として」 遇され、「人間として」 死に至ること、ないしはそのようにして達成された死を指している。
両者を比較してみると、尊厳死は倫理的に許されるかどうかを問う必要はなく、定義からいって目指されるべき死のありかたと言うことができるだろう。これは目標や理念を表す概念である。これに対して、「尊厳死を実現するためにはどうすればよいか (するべきか)」が問われており、その中でも 「死」 以外に人間らしさを保つ方法がないと判断される場合に、意図的に死をもたらすことが良いのかどうかというのが安楽死の問題なのである。(つまり、安楽死は尊厳死の中に含まれている問題である)
Chapter.4 〜 殺すということに向き合う 〜
さて、先に説明した 「安楽死」 であるが、なぜ日本では積極的安楽死と消極的安楽死との間に見解の差が生まれているのだろうか。この点において、私は積極的安楽死と消極的安楽死という区分の必要性に対し疑問を投げかけたい。先の章では敢えて説明しなかったが、ここで積極的安楽死と消極的安楽死の説明をひとつ挟みたい。
積極的安楽死とは、「回復不可能な病気・障害」+「終末期」+「耐えがたい心身の苦痛」を伴う疾患の患者の自発的意思に基づく要求に応じて、法律が定める積極的安楽死の条件を満たした場合、医師が患者を死に至らせることである。一般的に致死量の薬物を投与する方法が採用され、広い意味での尊厳死と同義語または類義語として使われている。とはいえ、法律が定める積極的安楽死の条件もなにも、日本において積極的安楽死は法的で明示的に認められておらず、刑法上殺人罪の対象となるのが現状だ。では、どこにそのような条件があるのだろうかということになるのだが、おそらくは1962年(昭和37年)の名古屋高裁の判例 (名古屋安楽死事件) 並びに1995年(平成7年)の横浜地裁の判例 (東海大学病院安楽死事件) が基準となっているものと思われる。前者では6つの条件、後者では4つの条件が提示され、それを完全に満たした時にのみ医師としての正当行為 (積極的安楽死に対する違法性阻却) が認められるとした。しかし、このような中2000年前後からアメリカ(一部州)やオランダ(オランダ安楽死法)、ベルギーといった積極的安楽死を法的に認める国が出てきたことを受け、日本でも積極的安楽死をどう受け止めるべきなのかという議論が沸き起こっている最中である。
対して、消極的安楽死とは、患者本人の自発的意思に基づく要求に応じ、または、患者本人が意思表示不可能な場合は患者本人の親・子・配偶者などの自発的意思に基づく要求に応じ、医師が病気・障害を治すため、または、病気・障害の進行を遅らせるための治療を開始しない、または、治療を終了することにより、結果として死に至らせるこというものである。こちらは先に述べた通り、殺人罪や自殺関与(又は自殺幇助)及びに同意殺人罪にかからないものと日本の法律は言っている。
では、この二つの安楽死において、なんの違いが刑法に掛かるか否かを決めているのだろうか。比較すると、決定的な違いとして
「殺害」 という行為の有無が挙げられ、判断の基準として行為無価値のあり方を採用していることがわかる。しかし、この消極的安楽死の@殺害の故意がある状態 でA直接手を加えてはいないものの死に至らしめる
というケースはどこかで見たことがないだろうか。そう、不真正不作為犯の事例である。そう考えると、片や殺害の結果を生み出し罰せられ、片や同じ結果を生み出し罰せられないというのはどうにもおかしいという結論に至る。したがって、本来この二つは結果無価値の方向で考えてこそ意味のあるものとなる。私自身の考えとしては、直接手をくださなかったから良いというのではなく、本質的には何も変わらないのだから、安楽死とは責任をもって人の生命に終止符を打つ行動であるということの自覚を持つことこそが大事だと思うのだ。そして、その自覚があって初めて積極的安楽死をめぐる議論が建設的なものとなり、積極的安楽死を認めるための第一歩となるものと私は考える。
Chapter.5 〜 安楽死と社会保障 (まとめ) 〜
ここまで安楽死について触れてきたが、私自身は積極的安楽死には賛成の立場をとっている。その理由は、やはり個人が自分の命に対する自己決定権を持つことは当然に認められるべきであり、それが最大限尊重されることを最も良いと考えるからである。ここで安楽死に絡む社会保障というと、私の中ではまず一番先に社会保障費・医療費の問題が思い浮かぶ。そして、反対派の主張として社会保障費・医療費の削減を主張する集団からの圧力により、患者の自己決定権や生存権が侵害され、死を強要されるのでないかという意見が挙がっていることも私は知っている。しかし、社会保障費・医療費が削減されないといけない事実とともに、個人に対しわざわざ死を強要する集団の具体的な想像がつかないことから、やはり私は積極的安楽死を通しての尊厳死(死を選ぶ自由)は認めても良いと思うのだ。現に医療技術の発展などを含めて考えても、ただ長く生きるだけの老人は増える傾向にある(現に既に多いのだが)。余程でない限りは医療技術が衰退の一途をたどることがありえない以上、とても親族の前で堂々と言えたものではないのだが、切り捨てるという決断が正義であるということもありえるのではないか。
しかしながら、このような決断に至って良いのは、やはり終末期医療を受ける患者や老人等に限られるべきだと私は考える。現に先進的なオランダ安楽死法等ですら、認めるにはどうしようもないという状況が必要だというのもあるのだが、なにより積極的安楽死の肯定が自殺大国である日本にどういった心理的影響を与えるのかという点だけが気がかりだからだ。私は何も自殺否定派ではないし、悪いことだとも思わない。自分の命を自分でどう扱ったところでなんの問題があるのかとすら思う。だが、そこにある考えは
「どうするかは自由だ」 というだけのことであり、決して 「粗末にしても良い」 というものではない。やはり、心のどこかでは命を大切にして欲しいとも思っているのである。
以上
< 目次 >
0.安楽死に対する見解
1.「死」 とはなにか
2.日本の終末期医療
3.「安楽死・尊厳死」 とはなにか
4.殺すということに向き合う
5.安楽死と社会保障 (まとめ)
< 参考・引用に用いた書籍、又はサイト >
授業ノート
テーマ研究・Excel資料
Wikipedia 項目 (安楽死・尊厳死・ターミナルケア・脳死・死)
終末期医療とは
http://www16.ocn.ne.jp/~iwamiya/Terminal_Care1.html
尊厳ある死・安楽死の概念と区分
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~shimizu/cleth-dls/euthanasia/euth-def.html
法的脳死判定マニュアル
https://www.jotnw.or.jp/jotnw/law_manual/law5.html
教えて!goo オランダ安楽死法・安楽死の合法化に関して
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6045680.html
安楽死が合法化された国々≒日本の将来?
http://matome.naver.jp/m/odai/2134910945569325401
安楽死や自殺幇助が合法化された国々で起こっていること
http://blogos.com/article/47585/
キリスト教では自殺は罪なの?
http://ichurch.me/gesewa/c_suicide.html
11年7月26日提出分 酒井詩織さんの社会保障法Aレポート
http://amazonia.bakufu.org/2011sakaishiori.htm
鈴木啓照
安楽死(euthanasia; mercy killing.)と社会保障(social security)
12J117017
鈴木啓照
<結論>
現状では消極的安楽死を積極的に活用することが無難である。「死」をどう捉えるか今後の課題だ。
<序、Man is mortal (人は皆いずれ死ぬ)>
医学の進歩や高齢化社会の進展によって人生の最期にいくつかの選択肢が可能となった。
特に治る見込みのない病気にかかり、死期が迫っているとき、どのような選択をすればよいか。苦痛を伴う治療をして、延命するべきか、それとも自然に委ねるべきか。
死へのあり方が問われている。
<死の原則と例外>
従来用いられてきた医療上一般の死は3徴候つまり、呼吸の停止(肺)、心臓の拍動かつ永久な停止(心臓)、瞳孔の散大(脳)の機能停止である三徴候説が主な見解だった。
法律上の死とは原則法律によって保護される権利義務の主体でなくなることを指す。
脳死とは脳幹等主要な脳機能が失われた状態を指す。
瞳孔拡大に相当するが薬剤や人工呼吸などで心臓や肺は機能している状態。脳死の定義では脊髄反射はあってもかまわないとされている。
似ていて誤解されがちな植物状態があるが、これは脳幹の機能があり自発的に呼吸できる場合もあり回復の見込みもある。
しかし大脳の大部分は機能していなく、自分で食事をすることはできない。自律神経系のことを植物神経と呼ぶこともあるために、こうした大脳の機能は停止しているが、脳幹は生きている人を「植物状態」と呼ぶ。
よって、脳死とは新しい死の概念といえるかもしれない。
脳死は臓器移植に関する法律の要件を満たした場合のみ脳死が死として特別に認められる。
厚生労働省白書平成24年度版による臓器移植に関する実施状況(p429−430)によると
「臓器移植に関する法律」(通称「臓器移植法」)が1997年に施行されたことにより本人の書面による意思表示があり、かつ家族が拒まない場合に、脳死した方の身体から眼球、心臓、肺、肝臓、腎臓などの移植を行うことが制度化された。
また2010年平成22年には「臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律(通称「改正臓器移植法」)」が全面改正され、臓器提供の意思に併せて、親族へ臓器を優先的に提供する意思表示を行うことが可能になったほか、本人の臓器提供に関する意思が不明な場合であっても家族の書面による承諾により脳死判定・臓器摘出が可能となり、15歳児未満の小児からの臓器も摘出できるようになった。臓器移植法施行から2012年3月末までの間に臓器移植法に基づき169名が脳死と判定されている。2011年度においては臓器移植法に基づき脳死及び心停止下における提供にあわせて、心臓は29名の提供者から29件、肺は31名の提供者から38件、肝臓は37名の提供者から39件、腎臓は115名の提供者から217件、膵臓は31名の提供者から31件、小腸は3名の提供者から3件、角膜は1081名の提供者から1591件の移植が行われている。
もし安楽死を全面的に合法化した場合脳死同様、臓器移植を行えるようになるか議論や検討が必要。
臓器移植法2010年の改正の問題点は本人のはっきり拒否の意思表示がないと上記のように家族の同意があれば本人の意に反して脳死状態で臓器を摘出されるおそれがある。脳死を死の過程とみるか死の完了とみるかによって結論は異なるだろう。
さらに言及するなら唯物論か唯心論かの問題になるかもしれない。
<安楽死・尊厳死>
国際的にも尊厳に対する権利は認められ81年ポルトガルで開催され、患者は尊厳をもって死を迎えるという「患者の権利に関するリスボン宣言(尊厳死宣言)」が有名だ。
安楽死とは、病状の進行に伴う耐え難い苦痛から、患者を解放させることを目的に、患者の嘱託や承諾を得て、医師が患者の死期を若干は早める処置をとることによって、患者を死に導くことである。(医療倫理学p166)
国際的安楽死の区分(同上p166-167)として延命の中止・回避、自殺幇助、慈悲殺などである。
安楽死は大きく分け、
積極的安楽死、消極的安楽死、間接的安楽死、純粋の安楽死の4類型があるとされる。
生命の短縮を伴うことがない死苦の除去・緩和措置としての純粋の安楽死。
呼吸器を外す等の医療行為の中止である消極的安楽死。尊厳死と呼ぶ時もある。
モルヒネ等の鎮痛薬の継続投与による死の苦痛の除去・緩和措置の副作用として患者の生命を短縮する限定的安楽死。
塩化カリウムに代表される薬物投与に代表される安らかな死を迎えるため病者を殺害する積極的安楽死がある。
法律上よく裁判の問題として取り上げられる(名古屋高裁高判昭37・12・22や横浜地判平7・3・28東海大病院事件)のは積極的安楽死である。
なお、尊厳死は消極的安楽死に該当する場合と尊厳死、安楽死を切り離す考え方とがある。
これは狭義では、末期患者に対して生命維持治療を中止する治療行為の限界が問題となる点で共通の基盤に立つが、広義の場合、患者の意思を知ることが困難となる点から安楽死と異なるとされているためだからである。
尊厳死でよく注目されるのはリビングウィル(通称「尊厳死の宣言書」)である。この宣言書は事前に延命措置の拒否・生命維持装置の取り外しや緩和医療など前もって文書に書き表す宣言書である。
法的効力はともかくとして、宣言書の内容によっては最終的な医療である
終末期医療をどう受けるかも書き込むことができる。なるべく憲法13条の幸福追求権である自己決定権は尊重がなされるべきである。
<違法性>
法律上刑事事件に問われたのは積極的安楽死である。
刑事事件ということは主に刑法の適用が妥当である
ある行為が構成要件に該当すると判断された場合、構成要件は違法類型であるからその行為は原則として違法と推定される。けれども、一定の事由が存在することにより、違法性が阻却される場合がある。これが違法性阻却事由、別名正当化事由である。
違法阻却事由には刑法典上、緊急行為としての正当防衛(36条)や緊急避難(37条)があるが、一般な阻却事由として、法令行為、・正当業務行為(35条)がある。
しかし、違法性阻却には法益侵害・危険に対して、許容規範の作用を判断することから基本的に法益と法益との衝突を調整する判断である。そのため、超法規的な違法阻却事由も存在しえることもあり、それらを根拠づけるための指導原理が必要となり
これを違法性の本質論という。
違法性の本質にはいくつか対立軸がある。
第一に形式的違法と実質的違法である。形式的違法論は、違法性を法規範に違反することであると形式的に理解する見解であるが、行為に対する違法性の基準とはなりえなく、違法阻却事由の指導原理とすることはできず、現在では違法性の実質を求める実質的違法論で一致している。
第二に、主観的違法論と客観的違法論の対立である。主観的違法論の立場では法規範を理解している人だけに向けられ、責任無能力や過失のない行為は、規範の外に立ち、それらの行為は違反とはいえない見解である。客観的違法論では、規範の存在を認め、責任のない者にも規範が向けられ、その行為は違反とする見解である。前者によれば違法と責任は結合されることになり、後者では違法と責任は分離されることになる。
現在は後者の違法と責任の分離が定説である。
第三に行為無価値論と結果無価値論の対立である。
刑法の任務をどこ帰結するかにより行為無価値論は社会的倫理秩序に求め、結果無価値論は法益侵害に求められるとし、これが違法性阻却論の基礎を設定した。一般には結果無価値の内容は法益侵害の侵害結果とその危険であり、行為価値の内容は、主観的行為無価値(故意・過失・目的)と客観的行為無価値(行為態様・種類・故意行為・過失行為)であり、これらを前提に結果無価値論、違法二元論、行為無価値一元論が主張されている。我が国では違法性では行為無価値と結果無価値の総合がとられ違法性二元論を導き出している。
刑法の35条の正当性(正当行為)があれば刑法上構成要件には該当するが、違法性阻却事由があるため無罪となる。
例えば、医師が患者の身体にメスを切り付けた行為は違法だが、それが正当な医療行為の時は違法性が阻却され罰せられなくなるということ。これを違法阻却事由という。
刑法36条の正当防衛の偶然防衛が両者の学説の違いとして挙げられる。
結果無価値論では客観事実に違法性の本質をとるため心情刑法の道は閉ざされ結果のみを重視する。違法性の本質を法益侵害またはその危険を重視するため主観的要素は軽視される。そのため法益侵害の衝突の場合優越利益の原則があると考え、偶然防衛は成立するとされる。
主観重視の行為無価値論の場合、防衛の意思がないため主観的要素を重視し偶然防衛は成立しないとされる。
安楽死の場合も正当行為として認められ、同様の保護をされやすい。
判例は正当行為としては認めなかった。
つまり、現行の判例では安楽死を認め違法性が阻却された例はない。
<死亡場所の大部分を占める病院>
従来のヒポクラテスの誓い(人間の生命を受胎の始まりから至上のものとし尊重し、患者の健康と生命を守ることを第一目標)による延命主義からの転換が終末期医療である。
著書社会保障のイノベーションによると、日本の死亡場所の推移では(p131図95)
やはり圧倒的に病院(78.4%)で最期を向かたいという人が多い。次点の自宅(12.4%)と6.5倍ほどの格差がある。
著書認知症の人が安楽死する国という書籍によると(p214)
2010年にオランダで亡くなった13万6千人の内、亡くなった場所の内訳は、病院が35%、ナーシングホームが17%、老人ホームが11%、自宅が36%自宅での安楽死が2.7%、その他が2%であった。死因はガンが4万5千人と一番多くそれに心臓病、肺病が続いている。
なぜ日本とオランダではこんなに格差があるのか。
1つの理由にはクオリティ・オブ・ライフの向上目指す緩和医療がまだまだ確立されず、周知されていないためと思われる。生命を脅かす疾患による問題に直面する患者とその家族に対して、痛みやその他の身体的問題、心理社会的問題、スピリチュアルな問題を早期に発見し、的確なアセスメント対処(治療・処置)を行うことによって、苦しみを予防し、和らげることで、クオリティ・オブ・ライフを改善するアプローチである緩和ケアの一層の充実が望まれる。
終末期医療(ターミナルケア)を実施している施設の内、主に末期癌患者に対して緩和ケアを行うホスピスと呼ばれる施設がある。個人の意思と選択という尊厳に基づき、苦痛や死の恐怖を和らげ最期を迎えようとする緩和ケア。現在の終末期は主に病院、ホスピスを代表とする緩和ケア施設、自宅の三通りの過ごし方があるが日本では病院を好む傾向が強いようだ。
イギリスを調査してみる著書「緩和ケアにおける心理的社会的問題」によると緩和ケアほとんどの場所で行うことが可能であるとし、ディモーラは病院が不安、不快、強制、規則づくめの場所と見られがちと確認した上で、このような病院と自宅は好対照をなすかもしれない。一般に自宅は、人とのかかわりあいという点でも身体という点でも安心できる場所だが、特に死を目前にした人にとってはコントロールを強く持てる場所と述べた。
日本の終末期医療の特徴として自宅より病院という医療現場を好む傾向があるところにポイントがあるかもしれない。
オランダは、ホームドクター(かかりつけ医)を第一次診療機関とし、紹介状がなければ大病院では診察できないようになっている。
日本では今の所、開業医の医院に行くも、大きな総合病院に受診することも可能となっている。
患者の受診の自由の権利との兼ね合いで日本ではすぐに導入するのは難しいが後々は将来の目標とすべきだ。
オランダには最後まで独立して暮らしたいという希望があり、お金のかかる病院や施設に入らないような環境づくりを目指している。
社会保障イノベーション(P132図98)からのグラフから
医療費の年齢別推移からわかるように70歳以上から医療費がかさみ増加する傾向にあり、生活医療費の半分は、70歳以後使うという統計もある。
日本の医療制度の最初の改善点はこの部分からだと私は思う。
さらに各大型病院や施設も各専門分野の専門性をより明確にし、集中専門病院や施設ができるような環境づくりをすればよいとされる。ホームドクターの利点は近さである。
「気軽に話せあえる仲・・・」とまでいけば日本にも地域診療は定着するだろう。
さらにかかりつけ医の意味付けをどこに置くかで変わるだろう。
<諸外国の安楽死法>
世界で限定的に安楽死が合法化されている国がある。
有名な国ではオランダとベルギーである。
ベルギーは2002年安楽死を法的に認めたが、自殺幇助は認められていない。
一方、オランダは前年、要請に基づく生命の終結および自殺幇助(審査手続)法(Termination of Life on Request and Assistance in Suicide (Review
Procedures) Act)を採択(以下、オランダ安楽死法)した。
オランダ安楽死法は本人の願望と決定が、法に基づいて正しく厳正に行われる限りにおいて、この行為を合法と認め、これを罰せないとした。
しかし、注意する点は自殺幇助や積極安楽死は、人間の持つ権利ではないということだ。自殺幇助や積極安楽死の願望は、あくまでも本人の個人的な強い変わらぬ意志によるものであり、それが厳しい規定内で厳粛に行われれば、これを行う医師はこれらの行為により罰せられない。そこが法律の主旨であり、安楽死を人間の基本的権利としたものではない。(認知症の人が安楽死する国p220p222)
医療は単なる科学の一部として処理されるのではなく、「本人の生きる価値」という倫理問題と、人道的感覚を重視しながらおこなわれなければならないとした。
本書によれば安楽死申請の全体の3分の1は何らかの理由で却下されている。
<私見>
日本国民の三大権利は生存権、教育を受ける権利、参政権ある。逆に死ぬ権利はあるかと問われると生きる権利と対立(矛盾)するためないと思われる。
では、安楽死は認めなくてもほうがいいかという問いには
個人的には消極的安楽死は当然認めても良い。
医者と患者のインフォームド・コンセントにより患者がどのように治療していきたいか。薬物投与によるのか、よらないのかである。
だが、積極的安楽死の現状としては難しい。
オランダのように医師のチェックや第三者機関の認証など厳格な審査が必要だ。
個人的な基準としては客観的に合理的であり、やむを得ない事由の時のみ認めるべきだ。
ただ上記の例の場合やむを得ない事由とは何を指すのか。「主観要素は考慮しないのか」といった議論が必要となるであろう。経済的に豊かな国といわれる。日本では自殺が多いという事実にも目を背けてはいけないだろう。
ただ世界には安楽死や尊厳死を求め死にたい人がいる一方、飢餓や栄養失調に苦しみながらも生きたいといる人がいることも忘れてはならない。
参考資料、
社会保障のイノベーション、中江章浩、信山社、2012
医療倫理学、小川芳男、北樹出版、2004発行
認知症の人が安楽死する国、後藤猛、雲母出版、、2012年発行
脳死および臓器移植についての最終報告書、日本医師会生命倫理懇談会、1988年
尊厳死、日本尊厳死協会編、講談社、1990
オランダ医事刑法の展開、ペーター・タック、甲斐克則編訳、慶応義塾大学出版会、2009年
緩和ケアにおける心理社会的問題、マリ・ロイド=ウィリアムズ編 若林佳史訳
リビングウィルと尊厳死、福本博文、集英社新書、2002
厚生労働省白書平成24年度版、厚生労働省編、発行日経印刷株式会社、平成24年
刑法総論、高橋則夫、成文堂、2013年
http://www.med.or.jp/doctor/member/kiso/k3.html日本医師会、医の倫理
竹内信行
私は社会保障の維持のためにも安楽死を認めるべきと考える。
<死ぬ権利>
尊厳死とはその名ととおり、人間としての尊厳を保って死に臨むことである。
それを達成する手段として終末期医療や緩和ケアというものもある。身体的、精神的苦痛を軽減し、
クオリティ・オブ・ライフの向上を目的とする。あくまでも自然に行うことが重要とされている。
しかし尊厳死という問題の特性上、これらに関連する話では結論が出にくい。
生命操作とは人によって意見が分かれやすいからだ。
日本では安楽死についての意見が平行線にあるが、解決にはほど遠い。
安楽死には積極的安楽死、消極的安楽死と2つある。
1つ目に関しては判例が2件あるが、やはり問題の大きさに対して関連事件数が圧倒的に少ないと言わざるをえない。
よって賛成、反対意見があまりぶつからず、各々の理想や想像が暴走状態にあるように感じる。
たとえば賛成意見の主張は、患者の自己決定権は最大限尊重、死生観の強要をやめる、延命治療は有害無益な医療、
容認されている国を日本も見習うべき、というものだ。
対して反対意見はシンプルである。医療費が無駄なので削減すべきという集団からの圧力により、患者の自己決定権と
生存権が侵害される恐れがある、というものだ。前者は理想、後者は想像の話をしているが、現在の日本の特性を考えると
やはり保守的行動をするだろう。特に反対意見で言われているようなデメリットが社会の秩序を乱しかねないものである。
よってまずこの危険性を払拭しなければ、積極的安楽死が容認されることはない。
消極的安楽死は積極的安楽死とは違い、治療を行わないことによって結果として死に至らせることを指す。
こちらは刑法199条殺人罪や、刑法202条の殺人幇助、承諾殺人にはならないため、終末期患者に対しては広く行われている。
ただし皇族など特別な社会的地位にある人は例外である。
争点は1つだ。「生命がどうあるべきか」について我々は議論している。
キリスト教では神が生きとし生ける全ての生命を造ったとされている。したがって人間の命は尊いものであり、死を早める
行為は殺人と等しく扱われる。キリスト教文化圏であれば、おそらく国の半数以上がこの意見を持っているので、
成文法化にはそう困らないのだろう。しかし我々日本人は基本的に仏教・儒教文化圏である。キリスト教とは違い、
意見が多くなりやすくまとまりにくい。国の可能性が多い分、成文法化など確定したルールを作ることはそもそも苦手な
国なのだ。さらに言えば意見が拮抗した際、それ以上議論が進展しなくなる。
そのような決め事が苦手な国が、定義することが難しい殺人と安楽死の線引をすることはある意味愚の骨頂である。
もし合法化を進めるならば、無理な線引をするのではなく、違法性が阻却される「手段」とその法的効力の増加をすべき
ではないだろうか。すなわち、本人による安楽死同意書(特に積極的安楽死)の作成とその効力の保証、
希望者は同意書を作るように国民へ促す政策だ。リビング・ウィルとは少し異なる。
賃貸契約のように本人だけでなく保証人のような第三者を介入させることで、患者自身の安全を確保することはできるの
ではないだろうか。
<刑法では>
刑法上では、積極的安楽死は殺人罪か自殺幇助、嘱託殺人罪と判定される。
そのため、現行法では違法性阻却の一つである正当行為に該当するか否かが争点となる。
今までの判例では違法性阻却事由を6つ、積極的安楽死として許容されるための4要素が挙げられた。
結果として1962年名古屋安楽死事件では、医師が行っていないこと、倫理的に妥当な方法ではないことから嘱託殺人罪が
成立した。また1995年東海大学病院安楽死事件では患者が苦しんでいないこと、
患者の意思表示がないことが原因で有罪となったが、家族の強い要望があったため、執行猶予が付された。
この判例を見ても思うが、やはり安楽死同意書のようなものがあれば済む話ではないだろうか。
なぜならば、これらの事件で患者を死なせてあげたいと願う者が、患者以外の人間だからである。
たしかに目の前で苦しんでいる人を助けようと思うことは悪いことではない。
家族は言うまでもないが、人を幸せにすることを目的とする善良な医師も中には存在する。手段は強引であれど、
彼らを殺人罪で起訴することは、こちらの方が社会にとって不利益となると私は考えている。
だが安楽死させた方が良い患者が意思表示をいつでも行える場合は比較的少ない。
そもそも死の間際に意思を確認するということ自体無理がある話なのである。
だからこそその解決策は、患者だけでなく医師や家族全員を不幸に陥れないようにする策であるべきだ。
それが安楽死同意書だ。
<オランダでは>
オランダのデン・ハーグという都市には、安楽死専門のクリニックがあるという。
患者の自宅に医師を派遣して投薬により「処置」するそうだ。
もちろんその際は、苦痛が永続的であるかといった様々な条件をクリアしなければならないようだが、
それでも正常に機能している。全てオランダ安楽死法によって成り立っていることだ。
だが日本ではオランダのように上手くはいかない。かの国は1980年代から既に積極的安楽死について議論を
重ねており、過去に医療制度の全体的な整備が行われた背景があるからだ。
少子化対策の事実婚のように他国の良い点ばかり注目していては、
たとえ制度をそのまま輸入してきても、日本では十分に機能しないだろう。
日本が外国とは文化も主義も違うという点を忘れてはならない。
<医療と社会保障>
安楽死が望まれる原因の一つに社会保障費を減らしたいというものがある。
2014年世界保健機関(以下WHO)が『2014版世界保険統計』を発表した。
日本人男性の平均寿命は80歳で第8位、日本人女性は87歳で1位、
男女合わせて平均84歳となり、前年から続き世界最長となった。
これは同時に、世界で最も社会保障費が多く必要な国であるとも言える。
ただでさえ社会保障費が限界まで膨らんでいる中、寿命は容赦なく延びてきている。
さらに言えば、まだ延びる余地があるらしい。これでは金銭的理由で安楽死が望まれるのは当然だ。
原因は主に癌や疾患、脳死などの死亡率が下がってきたことにある。
つまり、医療技術の進歩が国民の社会保障や生命倫理に刺激を与えてしまっているのだ。
技術の進歩が仇となるとは皮肉は話である。
だがたしかに医療は社会保障に直接影響を及ぼすため、ある程度の抑制は必要だろう。
もしくは社会保障の額をを医療技術の状況や、平均寿命を鑑みて調整をするべきだ。
今すぐにでも始めなければならないかもしれない。
社会保障は既に崩壊し始めているからだ。
<結果無価値>
殺人について議論するとき、結果無価値という考えがある。
たとえば過失致死と殺人が同じかどうかという問いには、YESとなる。
行為そのものはあまり問わず、結果として何をしたかで罪を判断する。
これに対して行為無価値という考えもある。こちらは過失致死と殺人は違うものとし、行為の内容を重視する。
私は今後、行為無価値が主流になるのではないかと考えている。
たしかにこちらは法の本質とは少し離れている。主観的で倫理に照らし合わせて判断する結果、
不定期刑になる。法と呼んでもよいか少々悩まざるをえない。
しかし結果無価値のようなシステムには、もう限界が見え始めているのではないだろうか。
なぜなら日本の司法は少しばかり腰が重いからだ。この先、ものさしでは測りきれない案件が出てくるだろう。
時代が移り変わっていくほど前例のない事件が発生することは既に分かっていることであり、
これを考慮すれば、将来求められるのはスピードである。
結局のところ、良くも悪くも日本の欠点は国のあらゆる管理システムが古く遅いのだ。
グローバルな社会では国の信用は重要なファクターであるにもかかわらず、
他国を無視してマイペースな行動をしていては国際的にも立場がなくなってしまう。
今回私は安楽死を中心とした話をしているが、本当ならばもっと大きな視点、つまり
世界規模のマクロ視点から安楽死を見る必要がある。もちろん目的は改善ではなく、
日本の現状把握だ。たとえばオランダと比べると、安楽死の件だけで20年も遅れている。
この差は日本の将来性のなさを示していると私は捉えている。
よって、この改善策が行為無価値への移行である。
そしてここで裁判員制度を存分に活用すべきではないだろうか。
つまり形態としては、前例を蓄積させるだけの正義ではなく前例+α(その時代の倫理)を積み重ねていくことで
今よりも早くその時代に合った法に近づかせるというシステムだ。
だがこれには大きな問題がある。
裁判員が重要な倫理を蓄積させることは難しい点だ。
当然ではあるが、彼らは法律のことを知らない。これに関しては文句を言えない。
だが実際に裁判員として裁判に参加したとして、
不快になる写真を見て続行不可となったり、事件の内容を完全に理解していない状態で法廷に放り出されるといった
お粗末な事態もあるようだ。
私はこの対策として、裁判員の候補をもう少し厳選するべきだと考えている。
もちろん選ぶと言っても極端な事をするのではない。
候補の人数を減らす程度のことである。
終わった裁判が判例として蓄積されていく以上、上記のスピードを早めるならば
1つ1つの審理の質を上げるべきだ。
こういった小さな積み重ねをしていくことが安楽死のようなとても奥の深い議論を早く終わらせる
一因になるはずである。
堀籠博行
安楽死と社会保障
12J112012 堀籠 博行
私は、安楽死を社会安定のために要件を整備して認めるべきだと考える。(ただし医師と患者とその家族が互いに話し合い信頼しあうことができる関係にあることが条件とする。)
1, 終末期医療への誤解と進む高齢化
現在の日本では、終末期医療が未整備でありその結果として医療行為の不開始や中止の判断基準が明確でないことで起訴されることもある。 本来病院又は、自宅で見届けられながら延命を望まず緩和ケア
によって苦痛をやわらげながら死を待つ又は、終わらせることを本人の意思で選択できる優れた介護医療であり少子高齢化の日本としては、重要な医療の一つでもある。 しかし現状としては、尊厳死の誤った解釈の蔓延によりQuality Of
Life(クオリティ・オブ・ライフ)は生きるに値しない命があるという考え方、Sanctity
Of Life(サンクティティ・オブ・ライフ)は、人間はみな生きるに値するという考え方の主張や安楽死との混同によって終末期医療への抵抗が強いのが現状で延命治療のほうが人気である。 しかし日本人の生涯において医療費の半分は、70歳以後に使われると言われるほどに高齢者の延命治療には、医療費がかかる。 多くの老人は、延命治療を選ぶが最終的にはベッドの上で身動きができず体の至るところにチューブが刺されながら生きているという状態に行き着く。 少子高齢化と年寄の長寿が進む日本において尊厳死を議論せず現在のまま進んでいけば、日本の医療保険制度は老人と若者の比率から算出すると支えられなくなってしまう。特に第一次ベビーブームで生まれた団塊世代が定年を迎え老年期に入っているので現在の日本の老人率が24,1%(25年度総人口100%)と増えていっているので医療保険制度の崩壊の脅威は、年々増えていっているのが現状である。 私としては、現状が続けば医療保険制度の崩壊が待ち受けているというならば、社会の安定のために安楽死を認め老人の判断を尊重して終末期医療による緩和ケアを行うか延命治療かを選択させるべきである。 しかし現状として尊厳死の誤った解釈の蔓延していることと終末期医療が未整備であることからあまり日本人が導入したとしてもすぐには、安楽死が広まるという期待がないが遅かれ早かれ日本人が終末期患者に対して向き合いどこまでを人間と言えるかを考えて国が安楽死を認めるか認めないかについて一度国民調査をして決めることが重要だと私は、考える。
終末期医療への誤解と進む高齢化のまとめ
|
終末期医療 |
延命治療 |
人口比率 |
医療保険負担 |
政府 |
未整備 |
整備済み |
|
|
老人 |
否定的 |
好意的 |
増加傾向 |
増加傾向 |
若者 |
|
|
減衰傾向 |
増加傾向 |
2, 日本における安楽死の裁判例
上記に終末期医療が未整備でありその結果として医療行為の不開始や中止の判断基準が明確でないことで起訴されることもあると書いた。 その判例が、「名古屋安楽死事件」と「東海大学病院安楽死事件」という二つ代表的なものがあり両裁判においてそれぞれ異なるが違法性阻却事由を示し医師の積極的安楽死において正当行為定める要件を示した。では、その裁判例を見ていきたい。
(@)「名古屋安楽死事件」
「名古屋安楽死事件」では、日ごろから安楽死について意思表明していなかった被告人の父親が、病床の苦痛から「殺してくれ」「早く楽にしてくれ」と叫んでいたことを被告人が知っておりそして被告人は、父親を肉体的苦痛から解放しようと決心して被告人が事情を知らない被告人の母を利用して父親に毒薬入りの牛乳を飲まさせて安楽死させた。
この裁判において違法性阻却事由の6要件を示した。 それが下記の六つであった。
1,回復の見込みがない病気の終末期で死期の直前である。
2,患者の心身に著しい苦痛・耐えがたい苦痛がある。
3,患者の心身の苦痛からの解放が目的である。
4,患者の意識が明瞭・意思表示能力があり、自発的意思で安楽死を要求している。
5,医師が行う。
6,倫理的にも妥当な方法である。
この裁判判決での要件において1,2,3,を認めたが4,については、真摯な意思表明ではない。として5,6,については、被告が医師でなく倫理的にも妥当ではなかったとして認められなかった。 判決では、被告人の行為を刑法第202条の嘱託殺人罪による自殺幇助とした。
(A)「東海大学病院安楽死事件」
「東海大学病院安楽死事件」では、患者は多発性骨髄腫のために東海大学医学部付属病院に入院していた。病名は、家族のみに伝えられていた。 昏睡状態の患者に対し家族が治療の中止を希望し助手が治療を停止。 しかしなおも苦しそうな呼吸が続いたので家族が医師に対して強く安楽死の実行を主張。 医師は、それに応じ通常の二倍の薬剤を患者に投与したがなおも苦しそうな呼吸が続いたため家族は、医師に対して再度安楽死を要請。今度は、患者に対して助手が先と同じく通常の二倍の薬剤を患者に投与したが変化がなかったので塩化カリウムを投与し患者は、同日に死亡した。
この裁判においての違法性阻却は、4要件下記の四つである。
1,患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいる。
2,患者の病気は回復の見込みがなく、死期の直前である。
3,患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために可能なあらゆる方法で取り組み、その他の代替手段がない。4,患者が自発的意思表示により、寿命の短縮、今すぐの死を要求している。)
この裁判判決での要件において2,3,は、認められたが1, 4,が患者本人の意思ではなく家族の意思であるとして認められなかった。 判決では、医師による安楽死の行為が違法性阻却の正当行為ではないとして医師と患者の行為は、刑法第202条の嘱託殺人罪の自殺幇助として認めず刑法199条の殺人罪とした。 「名古屋安楽死事件」については、安楽死を実行したのが被告人とその家族であり医師により安楽死が実行されてないことから何もいえないが「東海大学病院安楽死事件」においては、医師による実行であり家族からの強い要望であることから日本の医師に対するお任せ治療という悪い面が見られる。 この件に対しての悪い面とは、医師が患者本人に対して昏睡状態病名を説明しなかったことと患者本人に対して同意を得ていないいわゆるインフォームド・コンセントの問題である。 患者本人が昏睡する前に患者に病名の説明と患者本人に対して納得し同意をしてもらっていれば、医者と助手に対して殺人罪になることは、なかったかもしれないと考える。
日本における安楽死の裁判例のまとめ
4要件 |
東海大学病院安楽死事件 |
6要件 |
名古屋安楽死事件 |
肉体的苦痛 |
× |
回復の見込みがなく 死期の直前 |
○ |
回復の見込みが なく死期の直前 |
○ |
肉体的苦痛 |
○ |
緩和ケアが末期 |
○ |
肉体的苦痛の解放 が目的 |
○ |
患者自身が死を 要求 |
× |
患者自身が死を要求 |
△? (真摯な意思表明ではない。) |
|
|
医師が安楽死を実行 |
× |
|
|
倫理的にも妥当 |
× |
3,目指すべき安楽死
日本は、終末期医療を整備して医療行為の不開始や中止の判断基準を明確にして医師の違法性阻却事由を完成させ医師による積極的安楽死を正当行為として改正しなければならない。 そのために刑法は、結果無価値でなければならない。 結果無価値の考え方であれば、安楽死は、被害者が自分で生命を処分したのだから侵害ではなく違法でなくなる。 これに対して行為無価値の考え方による安楽死では、生命という法益が侵害される行為が社会的に妥当でないこととして認められない。そして「ポストマ医師事件」から始まった安楽死について国や国民や医師が議論を起こしたオランダ安楽死法も見習いたい。
オランダの安楽死法の対象(5要件)
1本人の自発的で真摯な継続した意思。
2耐え難い苦痛(神経的苦痛を含む)
3治癒の見込みがない
4医師が第三者の医師と相談
5医師が事後届け出る
オランダ安楽死法を見習うのもいいが私としては、安楽死においても日本特有のお任せ治療が起こるかもしれないと考える。 なので、脳死のように自分の意思が示せない場合を除いて患者や医師がお任せ治療をさせないために終末期医療患者とその家族と医療従事者に対して下記の7つのような提案が存在したい。
1,患者に対して医師が初診時に十分に時間をとって説明すること
2, 一度だけでも医師と患者と家族全員が会えるような説明時間確保の工夫
3, 医師と患者とその家族が集まって不必要な恐怖感を取り除くような説明の実施
4,患者とその家族が質問しやすい環境作りの工夫
5,医師と患者との病気に関する交換ノートの作成
6,医療チームで患者に対してのサポート体制の確立
7,説明により納得した患者により作成された合意書
上記のような要件により医師と患者とその家族が互いに話し合い信頼しあうことができる関係ができ安楽死を実行した医師にたいして安楽死した患者の家族が医師に対して不信感を抱き医師に対して訴訟を起こすことがなくなるのでは、ないかと私は考える
7つの提案と必要とする理由
|
理由(病気が末期であることが前提) |
1,患者に対して医師が初診時に十分に時間をとって説明すること |
患者が病気の終わりに対して深く考えることと死ぬまでに自身の病気について調べ医師に対して自分の病気について話し合うことができる位のレベルになり納得できるまで話し合うことができるようにするため |
2, 一度だけでも医師と患者と家族全員が会えるような説明時間確保の工夫 |
医師と患者とその家族全員のコミュニケーションを深め少しでもいいから信頼関係を築くためと医師任せの治療をさせないために |
3, 医師と患者とその家族が集まって不必要な恐怖感を取り除くような説明の実施 |
患者の親族の中で患者本人の病状進行の具合を確認することと患者の家族が持っているかもしれない医者に対する不信感を払拭するため |
4,患者とその家族が質問しやすい環境作りの工夫 |
一度の集まった場において後腐れをなくすためと患者の家族が患者の病気についての知るため |
5,医師と患者との病気に関する交換ノートの作成 |
患者自身の異変を医師がいち早く気付くためと患者の孤独感をなくすため |
6,医療チームで患者に対してのサポート体制の確立 |
複数体制に分担によって安楽死実行の際に迅速かつ無痛で行うために |
7,説明により納得した患者により作成された手書きの合意書 |
文書的には、何も効果がないが医師と患者の精神的において強い合意の関係を発揮する |
参照文献
試験研究室
東海大学安楽死事件
星野一正『インフォームド・コンセント 日本に馴染む六つの提言』(丸善ライブラリー、1997年)
平成25年版 高齢社会白書(全体版)
http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2013/zenbun/s1_1_1_01.html
インフォームド・コンセントの在り方に関する検討会報告
http://www.umin.ac.jp/inf-consent.htm#sec-3
オランダで、安楽死の容認はなぜ可能なのか
http://cellbank.nibio.go.jp/legacy/information/ethics/refhoshino/hoshino0069.htm
里脇愛香
私は、死の自己決定権を認め尊厳死や安楽死を合法化するとともに、人々に自分の死について考える機会を設けるべきだと考えます。
⑴医療に発展による死の変化に対応しなければいけない。
苦しみながら死にたいと思う人はいない。だれでも自分が死ぬときは、朝気づけば死んでいるのを発見されたなどのように苦しまずに死ねたらと考える。しかし、現在の日本では自分の家でぽっくり死ぬ人は少なく、病院で看取られることが多い。日本人の死因の一位には悪性新生物であり、この場合病気の発覚から病院にかかることも多く自分の家で死ぬ患者は少ない。日本人の死ぬ場所は、1947年では自宅死90%、病院死10%だった。だが、1991年以後は自宅死20%、病院死80%という状態が続いている。このうち病院死を悪性新生物、つまり癌に限れば90%にのぼっている。本来治療の場であった病院が死を迎える患者の居場所として利用され、そのことが病院の病床にも大きく影響している。今後医療・看護の必要性が低いと考えられる場合でも、患者の世話を家族が行うのは難しい、患者が死んだときの対処に不安があるなどの理由で病院での生活を強いられる患者が多く存在することで医療費の増大にも繋がっている。最近では、厚生労働省が介護療養型医療施設から介護保険施設への転換を図ろうとしている。
このような現状を国も認識し、対応を急いでいるが国家の財政状況や人々の対応、政策実行には問題が山積みである。皆が望む生き方、死に方を他人への負担を考えずに実行できればいいのだが、生き物は自分で望む死に方を選ぶことは自死以外に無い。老老介護や介護施設の問題もひとつひとつ解決しなければならず、人々の老後問題をもっと考えていかなければならない。医療の発展により生み出されてきた現在の問題も次の段階に進む時期が来ているのではないだろうか。
⑵ひとりひとりに死に方を選ぶ権利がある。
急激な医療の発展により、日本人の乳児死亡率は減った。しかし、今度は健康に生きてきた人が死ぬ時に膨大なお金がかかるという問題がでてきた。治療を受けるにはお金がかかり、日本での国庫を圧迫する医療費も高齢者が原因となっている。人間はだれしも老い、死ぬことは免れられないので高齢者ばかりを責めることは出来ず、我々もいずれはそうなるのだから問題の解決を急がなければならない。特に、医療技術の発展とともに新しく生まれてきた生命倫理の問題も今後の世代は考えていかなければならない。最近のニュースでも体外受精による妊娠や介護疲れによる殺人などが増えている。家族介護の問題も根が深く、介護により家族関係に問題が起きることがあり、家族の介護をした者には「自分はこんな風に家族に迷惑をかけて死にたくない」と考える者もいる。そのほかにも国家の社会保障費の観点や昭和天皇の濃厚な延命治療、東海大学事件、射水市民病院事件などいろいろな問題を受け尊厳死について考える人々が増えてきている。1976年に発足した日本尊厳死協会には、現在約12.5万人の会員がいる。会員にはなっていなくてもこの問題について考えている人を含めば、老後の問題について考えている人はもっと存在するだろう。問題を考えていくには、現在の制度の理解を深め、国民の声の乖離がどの程度存在するのか、医療の発展により生まれた問題に今の制度では対応できていないことを認めなければならない。
また、日本では終末期医療の認知があまりされていない。これは世界の国々の中でも高齢化が進展している国としては胸を張れることではない。世界に先駆けて高齢化への対応を考えていかなければ、高齢者はただのお荷物なのだという風潮になってしまう。そのまえに、どうにかして人々の権利を守りながら一番妥当な選択をしていかなければならない。全員が納得できる答えなどないのだから国が主導して経済的な面からだけでなく国民のより良い暮らしを考えて舵取りをしていかなければならない。しかし、国が安楽死を認める前に東海大学事件が起こった。この事件で裁判所が三つの安楽死の分類を示し、積極的安楽死、消極的安楽死、間接的安楽死とした。そのうえで裁判所は、そのいずれであっても治療行為中止の要件として@患者の死期が避けられず、死期が迫っていることA治療行為の中止の時点で中止を求める患者の意思表示が存在することB中止の対象は、疾病治療、対症療法、生命維持など全ての措置が含まれるが、どれをいつ中止するかの決定は、自然の死を迎えさせるという目的に沿って行なうことを挙げた。だが、いつ死ぬか分かっていない人間が倒れた時にAの要件を求めることは難しいように感じる。また、消極的安楽死は、治療行為の中止として許容される。間接的安楽死は、苦痛の除去・緩和を主目的とすることは治療行為の範囲内とみなすことができ、患者の自己決定権を根拠に許容される。このような考えが示されたが、積極的安楽死については@堪え難い肉体的苦痛があるA患者の死が避けられず死期が迫っているB患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がないC患者本人が安楽死を望む意思を明らかにしている、この四つの要件を満たさなければ容認されないとした。このことにも、この要件を満たせば本当に認められるかが不確かであり、事件が起きて裁判所に判例を示されてから国がそれに追従するのでは安楽死問題がいつまでも解決されないことになる。この事件で医師は有罪とされたが、遺族の求めに応じていずれ死ぬ患者の死を早めたことが罪とされるのかどうかは個人の価値観によって異なるように思う。脳死の患者への遺族の対応など個人が死をどうとらえるかによって迎える結末が違うことがある。脳死は呼吸・循環機能の調節や意思の伝達など、生きていく上で必要な働きを司る脳幹を含む、脳全体の機能が失われた状態である。事故や脳卒中などが原因で脳幹が機能しなくなると回復の見込みはありません。薬剤などを用いてもやがて心臓が停止する。そんな状況におかれても患者を安楽死させるのはいけないことなのであろうか。積極的安楽死、消極的安楽死、間接的安楽死と分けられたもののどの手段でも患者を死に至らせることには変わりない。それにもかかわらず、消極的安楽死をとれば無罪となり、積極的安楽死をとれば有罪となるという仕組みは理不尽にも感じる。
欧米では、脳死は人の死ととらえられる。またオランダ安楽死法では、法的に容認する初の国家になり、ベルギーでも2002年に安楽死を認める法律ができた。アメリカではオレゴン州の尊厳死法を連邦政府とオレゴン州が争い、フランスでは2004年に尊厳死法案が可決された。先進国においての尊厳死、安楽死容認に向けての動きがあり、日本でも日本尊厳死協会が法制化に向けて働いている。しかしながら、尊厳死や安楽死に反対意見を主張する人々も存在し、いかなる人間でも法律によって生命が制限されるべきではないという。社会的コストといった功利的な理由や医師の免責といった理由、家族の負担といった理由によって人の死を拘束したり略奪することはするべきではないと言った主張だ。尊厳死法が成立すれば医師による自殺幇助を促すことにもなりえ、弱者の生命から奪われていくといった考えである。しかし、尊厳死による自殺幇助が起こりえるのならば、そのことによって救われる患者もでてくるのではないかと考えます。クオリティーオブライフの観点から考えても、じわじわと死を迎える恐怖に怯えて生きていくよりも自分の意思で死を迎えた方が良いのではないでしょうか。緩和ケアで痛み、不安といった肉体的苦痛・精神的苦痛を和らげるといった取り組みも存在する。その一環として、尊厳死・安楽死といったものを認めていくことで今まで耐えて死ぬしか無かった患者、それを見ていることしかできなかった遺族に救いを与えるべきだと考えます。尊厳死の導入で命の格差が徐々に生まれてしまうのではないかといった主張もありますが、そうならないように国や人々が取り組んでいくべきといった話であり、人が死を選ぶ権利を阻害して良い理由にはならないのではないでしょうか。法制化により、尊厳死や安楽死を望む人々を救い、尊厳死や安楽死を望まない人々にはそちらを選んでもらえるといった選択の自由を作るべきだと考えます。
⑶裁判所で尊厳死が無罪となるには法制化が必要である。
人の犯した行為が犯罪と認定されるためには構成要件に該当し、違法であり、有責であることが求められます。東海大学事件で医師が殺人罪にあたるのではないかと争われ、有罪と判断されたが違法性阻却事由として⑵でも述べた四つの要件が挙げられた。今後、尊厳死についての事件が起こった時にこの四つを満たせば無罪になるのかは事件が起きなければわからない。医師や患者関係者による患者の尊厳死の実行には、患者の意思がどうであるかを知ることも大事だが患者が意思表示をできない場合、どういった対応をとるのかは医師や患者関係者にゆだねられる。その時に、医師や患者関係者が選んだ安楽死をさせるといった選択が無罪となるには、それが正当行為だったと認められなければいけない。医師による医療行為が罪に問われないのはそれが法令及び正当業務による行為を認められているからで、安楽死を認めるためにはやはり法制化が必須だと考えられます。結果無価値としての立場よりも行為無価値の社会倫理を重視する立場を選ぶことで救われる人々がいるのではないのだろうか。よかれと思い選んだ選択肢によって罪に問われてしまうことが起きないように、法令を作り基準を定めていくことが必要だと考える。
⑷社会をできるだけ良いものとして維持するための尊厳死、安楽死。
これから人々の生活の質を高めていくためには、やはり尊厳死や安楽死を認めていくことが必要だと考える。これにより、家族に迷惑をかけたくないと考える施設を利用することが出来ない高齢者から尊厳死や安楽死を選んでいくとも考えられるが、できるだけ命の格差を生まないように人々の健康寿命を伸ばすことが国の課題となっていくのではないだろうか。人々もこれまでのように自分の意志で死を選べないまま家族や医師の負担を増やすことがないように、健康に気をつけ事前にどのような治療や看護を望むかを意思表示しておく必要がある。高齢社会が進展していく中で、若い世代は国の財政難、景気の変動による生活の不安、将来への不安などいろんな問題に直面していくことになるが、人が永遠に健康でいられることはなくいつかは寿命がきて死ぬということを念頭に置き、今の高齢者の姿は自分たちの未来かもしれないと考えておかなければならない。姨捨山のように70歳になった人間は殺していくといった方法をとれば、国家の社会保障費の圧迫による財政難は治まり、高齢者が多いことでなかなか反映されてこなかった部分も政府が充実させてくれるだろう。しかし、そのような極端な方法をとることを迫っても選ぶ人は少数であるし、人間に心というものがある限り、決して楽な道ではない。理想的でだれもが満足する選択肢など現実にはとれないのだから、どこかで折り合いをつけなければならない。財政破綻により、国家ごと倒壊する前に、どこかでなにかしらの手を打たなければならない。そのひとつの手段として、尊厳死や安楽死といったものを受け入れていくべきだと考える。
参考文献
「尊厳死を考える」 医療教育情報センター 中央法規出版株式会社 2006/11/1
「誰にでも分かる刑法総論」 佐々木知子 立花書房 2011/4/1
「生命倫理/医療倫理」 箕岡真子 日本医療企画 2010/5/27
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai08/kekka3.html
厚生労働省 平成20年人口動態統計月報年数(概数)の概要
http://www.mhlw.go.jp/bunya/shakaihosho/iryouseido01/pdf/tdfk01-02.pdf
厚生労働省 医療機関に置ける死亡割合の年次推移
http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000000s5ft-att/2r9852000000s5id.pdf
厚生労働省 介護療養病床の現状について
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/issue/0472.pdf
安楽死と末期医療
http://www.jotnw.or.jp/studying/4-2.html
日本臓器移植ネットワーク
http://www.songenshi-kyokai.com
日本尊厳死協会
長谷川悟
12J108026 法学部法律学科3年8組 長谷川悟
法律学演習2014年前期レポート テーマ 安楽死と社会保障
私は、社会保障費の面以外にも自由権に基づき安楽死もよりいっそう選択可能にするべきだと思う。
1、刑法のお話
刑法において、一般人が行えば犯罪として罰せられるが、特定の職種や状況下では罰せられないとされる行為がある。
そもそも犯罪とは違法でかつ有責な行為を類似化した構成要件に該当した行為のことを指し、構成要件とは条文に書いてあること指し、204条の傷害罪ならば人を傷つけるとい
うことをすれば構成要件に合致するということです。構成要件に合致するだけで犯罪ということになるのが殆どですが、医者が手術のため患者の体をメスで切った、暴漢が密輸銃
でおそってきたために仕方なくその場にあったガラス片で切りつけたのように、わざと相手を傷つけようと思い傷つけても犯罪が成立しないことがあり、これらは法律で違法性阻却
され、正当行為であると例外的に認めているからです。
それでもって違法性とは構成要件に合致した行為を個別具体的な事情に着目していきます、つまり、彼、彼女の行った行為が治療行為であったか、緊急避難ではなかったのように、例外的に
違法性阻却される事情が無かったかを検証されます、すなわち構成要件該当性を判断した後に違法性が阻却されるかどうかを判断するわけです。
そも違法(違法行為)とは結果無価値論と行為無価値論という二つの考え方により本質が異なりますが、結果が無価値だから違法、行為が無価値だから違法ということなのですが、
ここでいう無価値とは結果そのものは関係ない、行為そのものは関係ないということではなく、ドイツ語を直訳したので変なように感じますが、無価値とはマイナスすなわち
結果が悪いから、行為が悪いからという意味合いになります。
それでもって結果無価値論とは悪い結果を発生させた行為だから違法とするもので、逆に行為無価値とは悪い行為をしたから有罪であるというものです。
それで、35条には法令又は正当な業務による行為は、罰しない。とありこれらは先ほどはなした正当行為なのですが、ここでいう法令による行為とは
最後に先までに犯罪成立に必要な構成要件と違法の話をしてきたが、最後に有責の話をしようと思う。
犯罪が成立するためには構成要件の該当かつ違法性の含有そして責任を要していることが必要である。すなわち行為をやろうと思えば出来たのにしなかった、あるいはとめようと思えば
止められるのに、敢えてやったという点に非難が向けられるものである。
2、終末期医療と膨れる社会保障費の話
近年の財政問題として社会保障費の増大が問題になっている、日本での医療意の計算は点数式になっておりそのために患者から金銭を過剰に取るため不必要な投薬や検査をしてしまう病院が
問題となっている、それの一環として脳死状態や医療技術、生物的に治療不可で尚且つ患者に多大なる苦痛を伴う場合や患者の家族に多大なる金銭的負担がある状態でも、寿命を一分一秒
でも伸ばすことが目的となっている医療が行われている。
これに対し終末期医療として行われるターミナルケアとは延命よりも苦痛の緩和のために行われる緩和ケアや死ぬまでのすごし方を患者や遺族(予定)の希望に従い行うもの(場合によって
行わせる)であり、当然のことながら何年も病院のベットの上で機械やチューブなどに囲まれてすごすよりも費用は掛からない。しかしながら、これはあくまでも個人の意思により行われ
るべきものであるので、財政的理由により患者やその家族が、従来型の延命のための医療を望む場合にはこれを妨げてはならない。
3、尊厳死(安楽死)について
尊厳死とは何かを与える(行う)事によって行われる積極的安楽死と何かを行わない(与えない)事によって行われる消極的安楽死があります、積極的安楽死が行われている大麻解禁で注目さ
れているオランダのオランダ安楽死法では安楽死とは医者が患者の明示的な要求に基づき生命を終結させる薬剤を投与することと定義されており、一方医師による自殺幇助とは患者自身に
よる自己の生命を終結させることを可能ならしめる明示的意図で薬剤を投与し又は供給又は処方することであるとされています。
これらにおいて患者の意思と限定されており、患者の意思表示が不可能な場合や、家族の意思用事だけでは安楽死的行為は行われません。
なおこれらの安楽死と医師による自殺幇助の区別はオランダによって生み出されたものである
オランダでこのような議論がされ合法化された背景にはポストマ医師事件があるだろう。この事件はオランダのポストマ医師の母が脳溢血で倒れ、体の麻痺、言語障害、難聴などで苦しみ
何度か自殺を試みたがそのつど失敗し、死にたいと言い続けていた。
そして娘で医者でもあるポストマ医師は母の願いを聞き入れて、医者である夫に相談し、夫は自分でするのはつらいだろう、私がやるよと自らが違法行為をする旨を伝えたが、実施する
直前にポストマ医師は私の母の人生の決着は私が着けるといい、自らの腕に母を抱き、モルヒネ200mgを投与して安らかに永眠させた。事を終え紙にまとめた後その紙を持ち、自ら警察に
赴いた。
この件の起訴が公表されると数多くの患者や友人をはじめ多くの市民から彼女に対する同情と支持の声が寄せられ、多くの医者らとともにポストマ医師を救えと立ち上がり、安楽死に対する
関心が集まった。それだけではなく支持運動に参加した開業医らは私も少なくとも一回はポストマ医師と同様な罪を犯しているとの公開状に著名して当時のオランダ法務大臣に提出するとい
う事態にまで発展した。
なおオランダではとても変わった医療制度があり、オランダの住人であれば国民かどうかは関係なく自身の掛かりつけの医者を定め国に書類を提出するという制度があり、医者と患者の
結びつきがとても強い。
そんな中レーウワーデン裁判所はポストマ医師に対し刑法239条違反として一週間の懲役並びに一年間の執行猶予という事実上の無罪判決が下された。
本件において、「レーウワーデン安楽死容認四要件」が認定されました。その内容は患者は不治の病である、耐え難い苦痛に苦しんでいる、自分の人生を終焉させたいと要請している、
患者を担当していた医者あるいはその医師と相談した他の医師が患者の生命を終焉させるというものでした。
それ以後刑法239条を改正し医師による自発的安楽死を合法化するという運動が広がりました。
そして一九八一年にはオランダ国家安楽死委員会が設置され、その後のアルクマール事件(患者のもし自分が尊厳を保てる状態にまで回復することが期待できなくなった場合には、安楽死
をさせて欲しいという意思表示により医者が安楽死をさせ自首した事件)により患者本人の意思に基づいて真摯に要請した結果、医師によって実施された安楽死の法的容認の法的保障が、
発展を遂げました。さらにその後王立オランダ医師会はハーグのオランダ国家安楽死委員会に公式会見を求められ、安楽死に関する公式会見を 安楽死の要請は、全く自発的でなければならない。
安楽死の要請は、十分に考えた上でなされるべきである。安楽死の要請は、持続的で、特定な期間を限ってはならない。または患者は、耐えられない苦痛にさいなまれ続けており、その
苦痛は、疼痛による苦痛か、肉体的に苦痛として感じるものか、病態に基づく苦痛か、あるいは疼痛を伴わない肉体の崩壊によるものか、のいずれかである。そして安楽死の臨床に経験
のある同僚医師に意見を求めなければならない、とまとめました。そして終末期ではないが多大な肉体的苦痛と精神的苦痛にさいなわれている場合での安楽死もアドミラール事件以降、
認められるようになりました。そのごのシャボット医師事件により、患者の要請があった上での医師の自発的な安楽死が認められました。
しかしながらこれらはすべて冒頭に書いたようにあくまでも家族の意思ではなく、患者本人の意思表示に基づくものであることに注意しなければなりませんので、脳死状態になっても、
なる以前に本人の意思表示が無ければ安楽死は認められません。
一方日本では、被告人の父が脳溢血の再発で全身不随になり食欲が著しく衰え、衰弱が激しく、少しでも体が動くと激痛に苦しみしばししゃっくりの発作に襲われ苦しんでいた父が
殺してくれと叫ぶのに至り、被告人は父の声を聞き、苦しむ姿を見るのは子として耐えられない気持ちになり、医師からももってせいぜい7日から10日ほどであると言われ、
早朝配達された牛乳に有機リン系殺虫剤を入れ元どうりに栓をし何も知らない母が父に飲ませたところ父は死亡した。
最高裁は安楽死に当たるとした高裁の判決を退け嘱託殺人罪を適用したがその理由は日本国内での安楽死の用件が@病者が現代医学の知識と技術から見て不治の病に冒され、尚且つその死
が逼迫していること、Aに病者の苦痛が甚だしく、何人もこれを見るに忍びない状況であること、Bもっぱら病者の死苦の緩和の目的でなされたこと、C病者の意識がなお明瞭であって
意思表示が出来る場合には本人の真摯な嘱託又は承諾のあること、D医師の手によることを本則とし、これにより得ない場合には医師によりえないと首肯するに足る特別な事情があること
Eその方法が倫理的に妥当なものとして容認しうるものなることの六件であり、本件ではDとEに合致しないということが理由であった。
上記条件に合致する場合消極的安楽死は許容されてはいるが、ただ単に末期状態にあって生命を延ばしているだけの治療は意思表示は出来ないががんの為の魔女の鍋的苦痛を味わっている
患者本人以外にも助かる見込みの無い植物状態の患者にとってもきっとくるしいだろう。更にそれらの財政的負担もきわめて大きい。
それらのことからあくまでも患者側の終末期に関する自由の意思を尊重し、国家が財政的な理由などで強制をしないという形での尊厳死の範囲を広げるべきだと思う。
それでもって日本ではオランダ型+本人の意思表示が長期間不可能な場合は家族の意思表示というあたりが妥当ではないだろうか。
しかしながら特定の病気や障害の人間に半ば尊厳死が強要されるということにはならないよう注意が必要である。
参考文献・ホームページ
刑法入門第7版 大谷實 有斐閣2012年
伊藤真の刑法入門 伊藤真 日本評論社2005年
許されるのか?安楽死 小笠原信之 緑風出版2003年
オランダで、なぜ安楽死の許容は可能なのか http://cellbank.nibio.go.jp/legacy/information/ethics/refhoshino/hoshino0069.htm
石田裕樹
テーマ「安楽死と社会保障」
〈自分の結論〉
日本の法律においても安楽死を認めるべきである。
〈その理由〉
■安楽死の背景
まず、世界で安楽死を認めているところはオランダやアメリカの一部の州などです。2002年、世界をあっと言わせたオランダ安楽死法は、延命治療を拒み、自分の意思で尊厳ある死(尊厳死)を迎える権利を確立しました。ですが、それはパンドラの箱でもありました。
政府統計によると、安楽死件数は急増しました。2003年には1626件だったのが、2012年には4188件。全死者の約30人に1人の割合にあたります。この国では自分で最期を決めることが、当たり前になってきたのです。
オランダで安楽死合法化運動を進めてきた「死の権利協会」の事務局長ペトラ・デヨング氏はこう言います。
「健康な20代の自殺志願者に『致死薬をやれ』というのではありません。若者には未来がある。でも、老いという苦痛は絶対に解消できない。せめて尊厳を保って死にたいという望みを国や社会が阻止してよいのでしょうか」
■欧州各国に波及
オランダに触発され隣国ベルギーでも2002年、安楽死法が成立しました。ルクセンブルクも2009年に続きました。スイスは自殺幇助による安楽死を1941年から認めてきました。オランダやベルギーの合法化後、英国やドイツ、フランスの安楽死志願者が「死ぬ権利」を認めない母国に抗議し、続々スイスに向かうようになりました。
現在、注目されるのはフランスです。昨年、社会党のオランド大統領が就任し、17年ぶりの左派政権が誕生しました。オランド氏は大統領選で「末期患者に尊厳ある死を」と公約していました。世論調査では、国民の86%が安楽死の合法化を支持しました。欧州の大国フランスが容認に踏み切れば、その影響は計り知れません。
■安楽死法の前提条件
オランダで安楽死法が成立したのには四つの条件が整っていたからです。その条件とは、「公平で充実した福祉」「信頼度の高い医療」「個人主義の徹底」「教育の普及」の四つです。ユーロ危機で「充実した福祉」の先行きが見えなくなってきた今、安楽死法は貧しくて孤独な高齢者を死に追い込むワナにならないだろうかとも考えます。
日本でも高齢化が進み社会福祉の先行きは怪しいです。またリビング・ウィルの法制化には53%が消極的です。「患者の自己決定権」の要求は欧州とは違い声高には聞こえてきません。
よき死とは自分で決める死なのでしょうか。「死の権利」は各国に重い問いを突きつけています。
■日本での安楽死
日本で安楽死は認められていません。積極的安楽死は日本では殺人罪です。消極的安楽死は本人の同意さえあれば合法です。ただし、積極的安楽死であっても以下のすべてを満たす場合は合法という判例が出ています。
1、死期が切迫していること
2、耐え難い肉体的苦痛が存在すること
3、苦痛の除去・緩和が目的であること
4、患者が意思表示していること
5、医師が行うこと
6、倫理的妥当な方法で行われること
東海大学病院安楽死事件では積極的安楽死に当たらないと判断されたのではなく、「法的に許容される積極的安楽死に当たらない」という判断で有罪になったのです。違法性阻却事由となる正当行為とは認められなかったのである。
横浜地方裁判所平成7年3月28日判決は、被告人を有罪(懲役2年執行猶予2年)としました。
判決では、医師による積極的安楽死として許容されるための4要件として、
1、患者に耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること
2、患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
3、患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くしほかに代替手段がないこと
4、生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること
を挙げました。 また、名古屋高裁に「もっぱら病者の死苦の緩和を目的でなされること」、「その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうること」という要件は、終末期医療において威信により安楽死が行われる限りでは、もっぱら苦痛除去の目的で、外形的にも治療行為の形態で行われ、方法も目的に相応しい方法が選択されるのが当然であろうから、特に要件として必要はないとしました。
そして、本件では患者が昏睡状態で意思表示ができず、痛みも感じていなかったことから1、4を満たさないとしました。ただし、自殺幇助とはされず患者の家族の強い要望があったことなどから、情状酌量により刑の減軽がなされ、執行猶予が付されました。
ではなぜ日本ではこのような考え方が取られているのか。それは、日本の文化レベルが低いからです。欧米の国々では、国民が自ら権利を求め、数百年も闘争して人権を勝ちとりました。日本のように上から与えられた訳ではありません。
彼らは、個人がきちんと自立しており、論理的な討論の下地も出来ています。
それに比べて日本は、自分の意見をはっきり述べるのも、ディベートも苦手です。ヨーロッパのような多民族国家ではないので、「空気を読むこと」で意思疎通が出来てしまうことも原因の一つでしょう。
臭いものには蓋、本音より建前、論理より感情を重視するのが「村社会」日本です。
政治を見ても、抜本的な改革もせず、全て先送りで未来の子供たちに負担を押し付ける。
それでも最後は、「お上には逆らえない」と行動はせずにひたすら我慢。
こんな国では、あと数十年かかっても安楽死は合法化されないと思います。
■安楽死を認める是非
是>人は皆自由です。生命維持と脳死等による回復が不可能である所見がある場合、絶命までの時間が苦痛だけである場合と客観的に判断される場合、もがき苦しむより尊厳死を選びたいという意思を尊重します。「尊厳死を認める」ということです。
非>人は自らの命を絶ってはならない、苦しみと痛みだけの時間であっても本人に与えられた人生です。本人以外のものがその判断で絶命させることは、法的にも同義的にも殺人との区別が問題となります。
さて、今日、高度先進医療を受けるかどうかの判断を家族がするとしましょう。これによって高確率で延命できるが医療費は高額である。
などという選択があったとします。先進治療を断る選択で余命を本人以外が判断することになります。
などという議論が展開されることを予想します。間違っても、医療費が安くなるなどということを、メリットであるというような発言があれば、皆の心に嫌悪感が残ります。難しい問題です。ですが、これは社会保障の問題を解決することにもつながります。
■結果無価値と行為無価値
社会保障を受けるには審査を通る必要があります。オーストラリアでの公的扶助は手厚いです。失業給付、障害者手当、奨学金、家庭環境に問題がある未成年者への手当など、いずれも手厚いです。単に手厚いだけではなく、審査が簡単です。まあ、簡単といっては語弊があるかもしれませんが、審査のポイントがシンプルだということです。要するに「今、困っている」ということを言えばいいという。
「困っている度合」についてある程度のフレームワークがあって、それに合致したら即支給という感じです。困った状況に至るまでのプロセスや、細かな事情とかは基本的にそんなに問いません。要は、今困っているかどうか、です。
これが結果無価値的の考え方です。公的扶助というのは困っている人をヘルプするものですから、要は困っているかどうかが客観的に分かれば良いのです。それだけだと。そこに至る経緯が非常に可哀想であるとか、思いっきり自業自得であるとか、そういう「行為」的な部分は問わない点が日本との違いです。親のスネかじってのらくらしている40歳が、親が死んで遺産がなくなったので生活保護とかいっても、馬鹿野郎、真面目に生きろという感じです。目の前にいたら馬鹿野郎の一つは言うでしょう。ゆえに、日本で生活保護を受けるのは結構大変で、場合によっては相当屈辱的で、それがイヤさに親子が餓死したという事件もあります。それもバブルの最中の頃にあります。
しかし、日本でも火事があったら取りあえず消すでしょう?その火事が、放火とか漏電など本人が頑張っても防げなかった火事は消すけど、自分のタバコの不始末という自業自得的な火事だったら消防車も出動しないなんてことはないです。大事なのは、そこに火事があるかどうかという客観的なただ一点だけです。本人の責任云々はあとでゆっくり民事賠償とかそこらへんでやればいい。とりあえずは消す。
オーストリアは(というか西欧は)、公的扶助においてこの消防型なのだと思います。とりあえずここに困っている人がいる。家がない、食い物がない、お金がない、火事と同じだと。まず助ける。現状における客観的な結果だけをまずみます。
「困っている人がいる」というのは火事と同じだと思うのでしょう。なぜか?これはキリスト教的な博愛主義的な部分もあるのかもしれないですが、本質はもっとドライな西欧流の発想があるように思います。社会コストという計算です。ここに困った人が一人いて、それを放置しておいたらどうなるか?失望して自分で勝手に穴掘って自分で埋まって死んでくれたりはしません。お金に困って罪を犯すかもしれません。また、困窮家庭が集団になればそれはスラムやゲットーになります。そうなると都市計画一つとっても大きなコスト増になるのです。また、そこで育った子供が非行に走ったり、さらに被害が増えたりします。将来国を救うだけの優秀な人材がいたとしても、そういう環境で生まれたが故に教育も受けられず埋もれてしまえば国家的損失です。だから火事と一緒なのでしょう。それを放置したときと、救済したときとでトータルの社会コストはどっちがどうか?です。非常にドライだと思うのはその点です。
社会のシステム設計というのはそこまで考えないとダメなのだと思います。「働かざる者食うべからず」で自業自得的に困窮している人は救わなくてもいい、という感覚は多くの日本人に共通しているでしょう。ですが、「もっと真面目にやれ!」と一喝して、タンカ切って、それで溜飲は下がるでしょうけど、その後のことを考えていない。だから一見シビアなようで、実は甘いと思うのです。個人の情緒的な信条と、精密にコスト計算をなすべき社会システム工学とを混同しているという意味では子供レベルの甘さであると。
もう一つ。行為無価値=他人の行為に点数を付けて判断するという発想のその下には、その点数の付け方が皆同じであるという発想をベースにします。どう考えたってAの方がBよりも悪いと、そんなの常識じゃないか、誰であれそのように思うよと。つまり、「皆同じ感覚を持っている」という前提がある。「社会の同一性・同質性への確信」とでもいいましょうか。これがなかったら成り立たない考え方です。点数をつける基準が人によってバラバラであったら、点数をつけるという作業そのものが崩壊しますからね。
でも、これって危険な発想だと思います。だって自分の正義感と他人や社会がシンクロしているわけで、社会は自分の価値観に従って動くべきだって発想でしょう?なんて傲慢なのか、突き詰めれば「俺が法律だ」というのと同じではないでしょうか。そして、その小児的な傲慢さは、自分と感覚が違う人間を許せないという感情につながります。どうなるかというと、正義の名の下に多数派が少数派を迫害し、イジメが起きます。そしてイジメを受ける側に廻ったら惨めだから、自分の発想はさておき周囲の動静を見極めようとします。「みんなは?」と。かくして人の目ばかり気にして、個性の乏しいチマチマした人間を拡大再生産することなり、結果としてどんどん息苦しい社会になり、斬新なイノベーションを産み育てる気風が乏しくなるから技術力が低下し、国力が落ちるのです。
しかし、自分と考えが違う人間が周囲にいるのは、不愉快だったりします。もう人間的に好きになれないこともあるかもしれません。やることなすこと腹が立つという。でも、そういうバラエティや自由がある方が、一色に染め上げられるよりもまだしもマシだと思うか、いやこの世は全て自分色に染まっていて欲しいと思うか、究極的にはそこの違いであると考えます。
■最後に
中江ゼミを通して素晴らしい仲間と出会えたことに、またそのきっかけをくださった中江先生に感謝の意を述べたいと思います。本当にありがとうございました。
(5010文字)
〈引用・参考文献〉
全死者の30人に1人は自ら死を選ぶ
http://www.gruri.jp/topics/13/11181630/
Essay 479 ; 行為無価値、結果無価値 - APLaC
http://aplac.info/thisweek/essay479/thisweek100906.html
古江里亜
テーマ「安楽死と社会保障」
12J118002 古江里亜
(法学部法律学科3年)
結論:安楽死法などという形で整備が必要と考えるが、あくまでも選択肢のひとつであるということを忘れてはならないと考える。
1、尊厳死と安楽死の違い
尊厳死とは人間としての尊厳を保って死に至ることである。実際に人物を当てはめて説明すると、患者が自らの意思で延命処置をあえて受けず死を迎えることである。そして、医師は患者の人間としての尊厳を最大限に受け止めて何よりも患者の希望を尊重することとなる。また、患者が過剰な延命処置を拒否し安らかな死を望むという気持ちを、前もって周りの人に意思表示しておくこと、医師と患者との十分な信頼関係を築いていることが大前提となる。日本尊厳死協会では、尊厳死を「患者が不治かつ末期になったとき、自分の意思で延命治療をやめてもらい、安らかに人間らしい死をとげること」と定義している。
尊厳死と同じ意味と認識されやすいものとして安楽死がある。安楽死とは苦痛から患者を解放するという目的のもとに意図的に達成された死のことをいう。安楽死は次の3つに分類することができる。1つ目は消極的安楽死である。これは苦痛長引かせないため、延命治療を中止して死期を早めることをいう。2つ目は間接的安楽死である。苦痛を除去するまたは緩和するための措置を取ることであるが、それが同時に死を早めることに繋がる。3つ目は積極的安楽死である。苦痛から免れさせるため意図的積極的に死を招く措置を取ることをいう。
過去の裁判の判決には安楽死が問題となったものがいくつかある。ここでは2つ取り上げたい。1例目は、昭和37年12月の名古屋高等裁判所の判決である。安楽死を適法に行うために満たさなければならない以下の6要件が示された。
(1)不治の病に冒され、その死が目前に迫っていること
(2)病者の苦痛が甚だしく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものなること
(3)死苦の緩和の目的でなされたこと
(4)病者の意識が意思を表明できる場合には本人の真摯な嘱託、または承諾のあること。
(5)医師の手によることを本則とする。これによりえない場合には医師によりえないと肯首するに足る特別な事情があること
(6)方法が倫理的にも妥当なものであること
2例目は、平成7年3月の横浜地方裁判所の東海大学安楽死判決である。この判決で、消極的安楽死は治療行為の中止として許容されること。間接的安楽死は苦痛の除去・緩和を目的とすることは治療行為の範囲内とみなすことができて、患者の自己決定権を根拠に許容されること。積極的安楽死は直接生命を絶つことを目的としているのため、慎重に検討すべきであること。また、積極的安楽死が許容される以下の4要件が示された
(1)耐えがたい肉体的苦痛があること
(2)患者の死が避けられず死期が迫っていること
(3)患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段がないこと
(4)患者本人が安楽死を望む意思を明らかにしていること
上記の2例はいずれも積極的安楽死の許容要件が示されたものの、本人の明確な意思がないなどの理由から被告は有罪になっている。そして、これまでに積極的安楽死が許容されて無罪となった判決はない。今後これらの判決で示された要件が満たされる安楽死事件が発生した場合に実際に許容されるのか議論が生じており、医療の現場でもこれらの要件をもとに積極的安楽死の手段を取ってよいのかと迷いが生じている。患者から強い安楽死の要求があった場合に医師が取るべき法的対応策が確立していない。現在はその場の医師の判断で対応するというのが実態である。これでは負担が医療現場で働く者に集中してしまうのではないだろうか。
次に海外に目を向けてみよう。ここではオランダ安楽死法について触れたい。2001年4月にオランダでは安楽死法が成立した。刑法が改正されて、安楽死を刑法犯罪としないことが定められた。つまり条件付で自殺幇助を合法化したともみることができる。これによってオランダは安楽死を法的に容認する初めての国家となった。国レベルの立法化が行なわれているのはオランダとベルギーのみであるが、その他の国でも安楽死について議論が行われるなどの動きがある。
2、刑法の視点から
では上記のことを刑法の視点からみてみよう。まずは違法性阻却事由である。違法阻却性事由とは、構成要件に該当する行為についてその違法性を排除することである。刑法35条には「法令又は正当な業務による行為は、罰しない」と規定されている。違法性阻却事由は刑法上で明文されているか否かによって「法規的違法性阻却事由」と「超法規的違法性阻却事由」とに分類することができ、また緊急時の対応であるか否かによって「緊急行為」と「一般的正当行為」とに分類することができる。この分類からすると安楽死は「超法規的違法性阻却事由」と「一般的正当行為」に分類することができる。
このような行為が違法性を否定する根拠については2つの考え方が分かれている。1つ目は社会的相当性説だ。これらの行為は社会的に相当性を有するものとして許容されるとする説である。行為無価値論の立場から主張されていて、医師に手術などの行為は法益侵害の危険(結果無価値)は社会的に役に立つことであり、社会的に相当な行為(行為無価値がない)であるから違法ではないとするものである。つまり結果無価値があったとしても行為無価値がなければ違法ではないとすることである。2つ目は法益衡量説だ。価値の大きい法益を守るために小さい法益を犠牲にする行為は違法性を阻却するとされる説である。結果無価値の立場から主張される。「社会的に相当だ」という基準はあいまいではないかとする考え方である。
3、死生学について
死生学とは、個人の死とその死生観についての学問のことである。具体的には自己の消滅としての死に向き合うことで、死までの生き方を考えることを指す。死生学は人類始まって以来のテーマであり、医学をはじめとした哲学・心理学・民俗学・宗教学など幅広い分野での議論が求められている。医学での背景にあるとされているのは高齢社会の到来である。例として終末期医療、臓器移植と脳死の関係、がん患者の緩和ケアなどがある。
しかし、現代社会では「生きていること」が当たり前とされている。また、死は非日常でありタブー視されがちである。核家族化が進行して、身内の死を目にする機会も減りつつある。だが死は誰にでも必ず訪れるものであり、誰にとってもその心構えは必要なことである。
また、現代では医療技術が発達して、患者をただ生かすだけの治療が可能となった。そこで医師が考えるべきは患者のQOL(quality of life;死ぬまでの間の生命の質・生活の質)であり、人としての尊厳であり。つまり死を考えることは、裏返せば最期の生き方を考えることで残された時間を満足して生きてもらうことを医師も共に考えねばならないという考えが登場した。
ここでいわれる緩和ケアとは、治る見込みのない患者に病気そのものを治す治療をしても副作用などで苦痛があることは患者にとってはあまりやりがいがないといえる。やりがいがない治療を患者や家族と相談の上で中止し、その代わりに患者の苦痛を緩和する対症療法を積極的に行うことで、患者が肉体的にも精神的にも楽になるように看護・介護して精神的な支援を心がけて患者の望むようにQOLを高めようと努力することを緩和ケアという。抗がん剤などの病気自体の治療は、往々にして副作用などが強く、かえって患者に苦痛をかけることや負担をかけるようなことがある。現代では患者が希望しない限り中止して、緩和ケアに移行する時代になりつつある。緩和ケアについてキリスト教などを背景としたホスピスなど緩和ケア病棟でするものと誤解される場合もある。しかし、これに限らずケアの方法は在宅、老人ホームなどでもその分野についての専門的技術を持つ者がいれば、緩和ケアを受けることは可能である。また、医療技術の進歩で寿命はどんどん延びてきているが、一方ではエンディングノートを作るなどして、自分の死について考える人が増えたとい見方もある。これは様々な選択肢が増えてきたとみることができるが、脳死と臓器移植の問題においては、平成21年に最終改正された臓器移植法案では脳死による臓器移植が認められるようになった。とはいえ、欧米に比べて日本ではまだ脳死移植が大きく遅れているとみることができる。
私見:
冒頭の結論に示したように私は「安楽死法などという形で整備が必要と考えるが、あくまでも選択肢のひとつであるということを忘れてはならないと考える。」という考えに至った。もちろん人間生まれた以上は少しでも長く生きてもらいたいという気持ちもある。しかし、本人の意思に反した患者をただ生かすだけ治療には意味がないと考える。その患者の意思が家族の意思と対立する場合もあると思うが、できる限り患者の意思に沿った治療を行えるようにならないだろうか。残されるのは家族であるが、患者が最後の時にまで自分らしく生きられる社会になってほしいと私は考える。
そのためには安楽死法などで明確に条件・方法を決めて法整備をする他に、患者やその家族のサポータ体制を整える必要があると考える。また、メディアなどを通して社会にも十分な理解を得る必要があると考える。周囲の理解がなくては決断に至ることも躊躇してしまう可能性があるからだ。
しかし、あくまでも選択肢の1つであることを前提に現場の医師は患者やその家族に説明する必要がある。少しでも圧力があった時点で、もはや誰のための法律なのか分からなくなってしまうからだ。また、医師はその患者の真意の意思かを確認する必要がある。だが、それでは現場の医師に負担が偏ってしまうので、国が主体となって専門家に協力を求めながら医師へのサポート体制を整えていくべきである。
最後に人間はいつか必ず死ぬ、そのことを心のどこかに置いて自分らしく生きるとは何かを考えながら生きていきたいと感じた。
参考資料:
○尊厳ある死・安楽死の概念と区分
〈http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~shimizu/cleth-dls/euthanasia/euth-def.html〉.
○38.尊厳死(そんげんし) - 「病院の言葉」を分かりやすくする提案
〈http://www.ninjal.ac.jp/byoin/teian/ruikeibetu/teiango/teiango-ruikei-b/songensi.html〉.
○安楽死と末期医療
○死の幇助 - Wikipedia
〈http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E3%81%AE%E5%B9%87%E5%8A%A9〉.
○刑法第6章 違法性
〈http://sloughad.la.coocan.jp/sono/crim/keih/tc400.htm〉.
○第3章 違法性阻却事由
○死生学 – Wikipedia
〈http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E7%94%9F%E5%AD%A6〉.
○柱16.死生学(終末医療、臓器移植、緩和医療)
〈http://isoukai2015.jp/program/bonds/program16.html〉.
○緩和ケアをめぐる問題 積極的な治療の中止
〈http://cellbank.nibio.go.jp/legacy/information/ethics/refhoshino/hoshino0026.htm〉.
安樂浩一朗
法律学演習 期末レポートテーマ「安楽死と社会保障」
12J121008 安樂浩一朗
1、結論
私は、早急に尊厳死及び安楽死を認める法律を制定させるべきだと考える。
2、その理由
冒頭の結論を以下の3点を挙げた上で述べていく。
@
日本での安楽死
A
オランダ安楽死
B
終末期医療のあり方
・3点を挙げる前に安楽死と混同され易い尊厳死との違いを踏まえたうえで安楽死とは何であるかをみていく。
安楽死とは、傷病者が激烈な肉体的苦痛に襲われ、死期が迫っている場合に、傷病者の嘱託に基づき、その苦痛を緩和・除去するために、傷病者に安らかな死を迎えさせる措置を言う。生命維持治療の発達によって回復の見込みのない末期状態の患者が、かなりの期間、生命を維持できるようになった。しかし、それが望ましいことなのか、医師としてなすべきことなのかという問題がある。これが「尊厳死」といわれる問題である。「尊厳死とは、回復の見込みのない末期状態の患者(脳死状態の患者も含む)に対して生命維持治療を中止し、人間としての尊厳を保たせつつ、死を迎えさせること」といえる。
1994年に日本学術会議は、尊厳死容認のために、以下の3つの条件を挙げた。
@)医学的にみて、患者が回復不能の状態に陥っていること。
A)意思能力のある状態で、患者が尊厳死の希望を明らかにしているか、患者の意思を確認できない場合、近親者など信頼しうる人の証言に基づくこと。
B)延命医療中止は、担当医が行うこと。
これらは、患者の自己決定権とそれに基づく治療拒否権に結びつく問題である。治療の中止が死期を早めることに対しては、安楽死と同様の問題点がある。安楽死と違うのは、患者の肉体的苦痛とその緩和・除去が問題にならない点である。そのため、尊厳死においては、明白な客観的利益があるとは言えない。また、死ぬ権利と言われるが、安楽死より患者の意志を知りにくいという問題がある。
安楽死の類型をみていこう。
@)生命の短縮を伴うことがない死苦の除去・緩和措置としての『純粋の安楽死』
A)モルヒネ(痛覚だけを抑制する麻酔剤)等の鎮静剤の連続投与による死苦の除去・緩和措置の副作用として患者の生命を短縮する『間接的安楽死』
B)安らかな死を迎えさせるために延命治療を中止する『消極的安楽死』
C)安らかな死を迎えさせるために病者を殺害する『積極的安楽死』がある。
『純粋の安楽死』は、一種の治療行為であり適法な行為であるから刑法上問題にはならないが、『間接的安楽死』、『消極的安楽死』及び『積極的安楽死』は、死期を早めることになる為、刑法第199殺人罪や、同法第202条自殺関与及び同意殺人の構成要件に該当することになる。それが違法阻却されるのか、あるいは違法ではあるが阻却されるのかが問題となるが、『間接的安楽死』は、「医学的適応性」・「医学的正当性」・患者の同意、があるときは、我が国の学説では一般に適法とされている。すなわち、適法な治療行為として違法性を阻却するとしている。『消極的安楽死』(不作為による安楽死)
は、患者が状況を理解して措置を拒否しているときは、それに反して回復に役立たない死苦を長引かせるに過ぎない措置をとるべき刑法上の作為義務は医師にはないとするのが一般的見解であるため違法ではないといえる。最後の『積極的安楽死』(作為による安楽死)であるが、我が国で安楽死の問題となっているのがこれである。@日本での安楽死で考えてみよう。
@日本での安楽死
『積極的安楽死』の法的扱いには2つの重要な判例がある。
1つ目が名古屋高裁安楽死事件の判例である。事案は、脳出血で全身不随の父が、激痛を訴え「早く死にたい」「殺してくれ」と大声で叫ぶほどで、父の苦悶の様子に堪えられなくなった息子が、事情を知らない母をして父に毒薬入りの牛乳を飲ませて安楽死させたというものである。判決で、6つの安楽死の要件(違法性阻却事由)を示している。
(1)不治の病に冒され死期が目前に迫っていること。
(2)苦痛が見るに忍びない程度に甚だしいこと。
(3)専ら死苦の緩和の目的でなされたこと。
(4)病者の意識がなお明瞭であって意思を表明できる場合には、本人の真摯な嘱託又は承諾のあること。
(5)原則として医師の手によるべきだが医師により得ないと首肯するに足る特別の事情の認められること。
(6)方法が倫理的にも妥当なものであること。
高裁は、この事件では(5)と(6)の要件を満たさないとして、被告人に嘱託殺人罪の成立を認めている。
2つ目の判例は、東海大学安楽死事件である。事案は、病院に入院していた末期がん症状の患者に塩化カリウムを投与して、患者を死に至らしめたとして担当の内科医であった大学助手が殺人罪に問われた刑事事件である。重要なのが、日本において裁判で医師による安楽死の正当性が問われた唯一の事件であることである。
判決では、医師による『積極的安楽死』として許容されるための4要件として、
(1)患者に耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること。
(2)患者は死が避けられず、その死期が迫っていること。
(3)患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くしほかに代替手段がないこと。
(4)生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること。
が挙げられている。本件では患者が昏睡状態で意思表示ができず、痛みも感じていなかったことから(1)、(4)を満たさないと判断された。ただし、患者の家族の強い要望があったことなどから、情状酌量により刑の減軽がなされ、執行猶予が付された。
以上の事案から、結果無価値の考え方を採用している我が国の刑法では結果に違法性を見出すため手段は軽視されてしまう。どんな事情があれ結果的に人が死んだのであれば罪に問われてしまうのである。それでは、判例にある安楽死の用件(違法性阻却事由)を満たしていれば安楽死は認められるのだろうか。Aオランダ安楽死の事例を踏まえて考えていこう。
Aオランダ安楽死の事例
オランダでは、「要請に基づく生命の終焉ならびに自殺幇助法」が制定されることになった。これが、世界で初めての国家が定めた安楽死容認の法律となる。安楽死容認運動のきっかけとなった1971年の「ポストマ医師安楽死事件」からちょうど30年目の2001年4月10日、オランダ議会上院において62%の賛成で、制定された。
まず、安楽死容認運動のきっかけとなった「ポストマ医師安楽死事件」をみてみよう。
1971年オランダの開業医であったポストマ医師は、脳溢血のため半身麻痺状態にあって78歳の母に請われ、200mgのモルヒネを注射して安楽死させた。生前母親は絶望から、何度もベッドから落ちて自殺を試み、病室に運ばれた食事を床に投げ落として看護を拒んだ。ポストマ医師は、死を求める母の姿にいたたまれなくなり決意した。母親が入居していた看護ホームが、ポストマ医師の行動を見て、「いかに母親でも殺人は許されない」として告発した。彼女は嘱託殺人で起訴された。これが概要である。
1973年、地方裁判所は、患者の死期を早めても、患者の苦痛をとるための鎮痛剤の投与は容認されるという立場を示し、その要件として以下の4つを示した。
(1)患者は不治の病にある。
(2)耐えがたい苦痛がある。
(3)患者は死にたいと希望している。
(4)実施するのは医師で、他の医師と相談している。
ポストマ医師は致死量のモルヒネを使ったことが咎められ、一年間の執行猶予付き禁固一週間という「形式刑」が下った。裁判所は、「違法だが理解可能」であるとしたのである。この事例は、日本の東海大学病院安楽死事件と違い患者の明確な意思があったためこのような判決になったと思うが、明確な意思すなわち患者の苦痛を取り払う行為をして命を縮める若しくは奪ってしまっても良いのだろうか。患者の側からみれば、激痛を除去してもらえるかどうかという問題は、生命の質(QOL)に関する最大の関心事である。ところが日本では、「治すか治さないか」が医療行為の最大の目標になっていて、苦痛を除去することを、医師の最優先の義務であるとする体制になっていない。1973年に、王立オランダ医師会は、次のような声明を出した。「安楽死は、法的には犯罪であることには変わりはないが、もし医師が、ある患者の症例について、あらゆる面から検討した結果、不治の病にかかって死を目前にしている患者の生命を短縮した場合に、裁判所は、医師の行為を正当行為としうる『医師としての義務の相剋』があったかどうかについても裁判するべきであろう」としている。このような考え方が出来るようになるためにも私は法制度の整備を進める過程で医者が患者の意思を最優先にすべきであるという倫理観も新たに構築しなおす必要があると考える。
Bこれからの終末期医療のあり方
終末期医療(ターミナルケア)とは、医学的にこれ以上回復の見込みのない疾患の末期患者に対して、人生の質、クオリティ・オブ・ライフ(QOL)を維持・向上することを目的として、苦痛を軽減し、精神的な平安を与えるように施される医療行為や介護行為のことをいう。これらの行為は緩和ケアとも呼ばれそれらを専門に行う医療施設をホスピスという。近代ホスピスの創始者といわれるシシリー・ソンダースは、末期患者の痛みを身体、精神、社会、スピリチュアルの4つの側面から全人的にケアすることと、科学的な疼痛(とうつう)緩和のアプローチの両方を重視したことで、近代ホスピスケアの基礎を築いたとされている。また、これらのアプローチに加えて、彼女の理念は、その精神は友愛に満ちたものであることであり、その目的は、尊厳死ではなく自律した生をより生きるためのアプローチであること、と捉えられ、今日の緩和ケアの哲学的基盤になっていると考えられている。
終末期医療への関心の高まりから緩和ケアの重要性が認識されるようになってきた。我が国では、2002年の診療報酬上のケアチーム(@身体症状の緩和を担当する常勤医師A精神症状の緩和を担当する常勤医師B緩和ケアの経験を有する常勤看護師C緩和ケアの経験を有する薬剤師の4名から構成される緩和ケアに係る専従のチーム)加算、2004年の第3次がん10ヶ年総合戦略、2007年のがん対策基本法により、緩和ケアの提供体制が整えられてきているが、現実的には緩和ケアは専門的緩和ケアが受けられる施設に限定され、対象もがんやAIDS(後天性免疫不全症候群)に限られている。これは、日本に限った話ではない。欧州全体でみると、緩和ケアの対象はがん患者が多い。緩和ケアの先導的な役割を果たしてきたイギリスでも95%をがん患者が占めている。がん以外の患者に緩和ケアが広がっていない現状には、対象が拡大することで、死に行く人へのケアが不十分になるのではないかとの懸念や、緩和ケアが通常の医療のように、より「短期的な」成果を求めるものに変容するのではないかという懸念が指摘されている。我が国では、まだしっかりとした終末期医療体制が整っていないため当分の間は緩和ケアの対象は限定的なものでも良いと思うが早急に制度としてしっかりとしたものを緩和ケア先進国であるイギリスや安楽死の合法化に成功したオランダなどの欧州諸国のノウハウをいかして構築していかなければならないだろう。それこそがこれからの終末期医療のあり方だと考える。
これからますます、高齢化が進み、苦しい治療で命を削り、ただ生かされている状態の高齢者を私は望まない。「終末期ケアに関する啓発活動への高齢者の関心と規定要因」という論文で、老人クラブの会員にアンケートを実施したところ非自己決定群が全体の56.6%〜61.1%であったという。リビング・ウィル(終末期の医療・ケアについての意志表明書)の認知度も12.2%であった。2004年の論文なので現在は少しでも改善されていることを祈るが非自己決定の高さとリビング・ウィルの認知の低さは将来の終末期医療がうまく活用されないという不安でしかないがこれが現状である。オランダ安楽死が容認され法律が出来るまで30年の時間を要した。そこにいたるまでは国民の安楽死への関心の高さ、医師団の柔軟な倫理観や行動力、国全体が新しい安楽死制度のあり方を真剣に考えたからこそ実現できたと思う。他国が出来たのだから日本でも自分は信じているしこれから必ず必要になってくる制度であると思う。だからこそまずは日本の安楽死の要件(違法性阻却事由)の本人の意思表示をしっかりと自分の意思で決められるように、リビング・ウィルの認知度を上げることや、安楽死、尊厳死を合法化させる積極的に若い自分達の世代から自分の人生は自分で決められる世の中を実現させるために動き始めなければならない。
参考文献、引用文献
・日本尊厳死協会
http://www.arsvi.com/d/et-nsk.htm
・権利と日本の医療に対して
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/7541/mi-right2.html
・安楽死・尊厳死・オランダ
http://www.arsvi.com/d/et-ned.htm
・東海大学安楽死事件
・結果無価値
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E6%9E%9C%E7%84%A1%E4%BE%A1%E5%80%A4
・「終末期ケアに関する啓発活動への高齢者の関心と規定要因」
松井美帆、森山美知子【2004年1月16日】 生命倫理VOL.14 p65~p74
・「欧州におけるホスピス・緩和ケアの概念と倫理的問題」
坂井さゆり、宮坂道夫【2008年1月17日】 生命倫理VOL.18 p66~p74
・「刑法総論」高橋則夫(著) 成文堂 【2010年4月20日】
小林慎太郎
安楽死と社会保障
日本でも今後安楽死を認めるべきである。
<日本の安楽死について>
現在、日本では尊厳死、安楽死を規定した法律はない。しかし自民党などが、患者が書面などで意思表示していることを条件に、尊厳死を認める法案をまとめている。しかし、障害者団体などからは、「医療や介護の負担に耐えられない患者を死に追い込む」などの反発がある。日本において安楽死は先に述べたように、法的に認められておらず刑法上殺人罪の対象となる。安楽死を巡っては、1962年の名古屋高裁の裁判例により、以下の6つの要件(違法性阻却)満たしていなければ安楽死にはならないとされ、満たしていなければ違法行為となるとした。
㈰死期が切迫していること。
㈪耐えがたい肉体的苦痛が存在すること
㈫苦痛の除去、緩和が目的であること。
㈬患者が意思表示していること。
㈭医師が行うこと。
㈮倫理的妥当な方法で行われること。
もう一つが1995年、昏睡状態の患者を注射で死なせた医師が殺人罪で起訴された、「東海大安楽死事件」である。この判決で、横浜地裁が安楽死容認の新四要件を提示した。
医師が患者に致死薬を投与する「積極的安楽死」には、「患者本人による意思表示」が前提とした上で、
㈰患者に耐え難い苦痛がある
㈪死が避けられず死期が迫っている
㈫肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、ほかに代替手段がない
㈬患者が意思を明示の条件を満たせば、医師は免責されるという判断をした。
医師による積極的安楽死が合法とされる余地を認めている。
日本では患者自身が法廷で安楽死を訴えた例はなく、「死の権利」をめぐる意識は欧州と大きく異なる。
<世界の安楽死について>
欧州では2002年、国として世界初の安楽死法を施行した。(オランダ安楽死法)この安楽死法でも、患者の意思があることが前提である。また、安楽死は「終末期医療患者」に限定されていない。他にも欧州では、ベルギー、ルクセンブルグで安楽死は合法化している。一方で安楽死を違法としている国もある。イギリスでは安楽死は絶対に反対している。ローマ法王庁は、安楽死は「生命に対する犯罪」だとして、絶対反対の立場をとっている。欧州キリスト教社会で自殺は「神への大罪」とされ、自殺者は葬儀すら拒否されてきた。ナチスドイツが障害者を殺害した「安楽死政策」を想起させるとの拒否感があるのかもしれない。安楽死をめぐっては、宗教的観点からも考えられるが、歴史的観点からも考えられることが多々ある。そんなイギリスだが、政府方針は判断力のある患者の意思に基づく延命医療の停止は容認している。他にも、フランスでは2005年に延命治療の停止を求める尊厳死法が施行されたが、安楽死は違法。アメリカでは、1989年「終末患者の権利法」で延命治療の拒否を認めている。1990年には、オレゴン州法が安楽死を容認している。2009年に米国ワシントン州で医師による自殺幇助を合法化した。米国モンタナ州でも2009に、終末期医療患者への医師による自殺幇助は違法ではないとする最高裁判決が出た。スイスの刑法は「利己的動機による自殺幇助」は禁止されてはいるが、安楽死は「患者のため」とする法解釈で容認している。欧州では安楽死の合法化が進んでいるといえる。
<安楽死の違法性>
違法性については、刑法においては結果無価値と行為無価値という二つの見解が対立している。結果無価値とは、違法性の実質を法益の侵害と解する考えかたであり、行為無価値は違法性の実質を規範違反と解する考えかたである。しかし現在では、結果無価値一元論と結果無価値・行為無価値二元論となっている。違法性の判断については可罰的違法性論では可罰的違法性を欠くときに犯罪成立を否定する考え方である。狭義の可罰的違法性では絶対的軽微で違法性が阻却されるわけではないが可罰的な程度の違法性がない。通説では、法の目的、法律の効果はそれぞれ法領域で異なり、必要とされる違法性の程度もそれぞれ異なる。実質的違法性論に立った場合、違法性が質と量を持ったものと捉えることができる。また、狭義の可罰的違法性についても絶対的軽微事件の場合は構成要件該当性がない。相対的軽微事件の場合は実質的違法性阻却とすれば十分である。また違法阻却事由の種類については正当防衛、緊急避難以外の違法性阻却自由を規定したもので、この中に被害者の同意が含まれる。ならば違法性阻却の根拠をいかに解すればよいか。被害者の同意は社会的相当性判断の一資料として意味を持つから、諸般の事情を考慮して、同意を得た行為が社会的相当な行為であれば、違法性が阻却されると解すべきである。したがって、被害者の同意が違法性を阻却するためには、被害者にとって同意可能な個人法益であること、有効な同意であること、同意が行為時に存在すること、同意が外部的に表明されていること、行為が被害者の同意があることを認識して行われたこと、同意による行為が社会倫理規範に照らし是認されることを要する。なお、同意自体が有効であるためには被害者に判断能力があり、真意に基づく同意である必要がある。このことから安楽死において、患者の同意があるならば東海大安楽死事件の医師は違法性が阻却され、正当行為と捉えることができた。
<どう対処するべきか>
東海大安楽死事件は医師が末期ガンの男性患者に塩化カリウムを注射して事件であるが、当時患者は、昏睡状態であった。看護していた妻や長男は、「もうやれるだけのことはやった。苦しむ姿を見ていられない」と言って、医師に点滴やカテーテルを抜き、死なせるよう求めた。医師は断ったが、「もう十分考え、話し合って決めたことだ」という家族の要請を断り切れずカテーテルを抜いた。しかし、患者はすぐには死なず、苦しそうに呼吸をしていたので、はやく楽にして欲しいと長男に激しく迫られ、塩化カリウム20ミリリットルを注射し、患者を急性高カリウム血症で心停止させて死なせた。その後、医師は殺人罪で起訴されたというものである。しかし、この長男は父親を殺すために人工呼吸器を外すよう頼んだのではない。父親の苦しむ姿を見て、今すぐにでも楽にしてあげたいと当然思っていたはずである。それに加えて父親は、末期癌で死期が迫っており、時代背景も考慮すれば助かる見込みはほとんど望めないと読み取ることができる。では父親が意思表示もできない状態である場合はそうなるのか。例えば、昏睡状態や脳死が考えられるだろう。脳死になった人はもはや苦痛を感じもることはない。法的にはすでに死んでいるということになっているのだから、認めるも認めないも、安楽死させようがないということになってしまう。このケースは非自発的安楽死に該当すると考える。非自発的安楽死とは、患者本人に対応能力がない場合に適用されるもので、主に新生児の重度の障害などのときに用いられるものである。このことから、意思表示ができないような状態ならば、要件㈬の患者の意思表示する必要があるという要件を満たさなくてもよいのではないだろうか。高齢者であれば、生前に延命治療を施さなくていいと意思表示することができても、若い世代の人はそんなことはしないであろう。なぜなら、人は死ぬことを一番恐れている。寿命を迎えて死んでいくのが当たり前だが、交通事故にあったりとそうはいかないこと考えられる。私は二十歳だがあと60年は生きられると思っているのだから、当然延命治療になったらどうしようと考える必要がない。この男性も末期癌とはいえ、半ばあきらめたかもしれないが、もう半分では治すという気持ちがあったかもしれない。このようなことを考慮すれば、患者の意思表示がなくとも、他の5項目の要件を満たしている本件では、安楽死を認めてもよいのではないかと思う。そもそも安楽死の定義は、苦しい生ないし意味のない生から患者を解放するという目的のもと、意図的に達成された死であるのだから、父親の安楽死を認めるべきである。
<今後の安楽死と社会保障について>
さらに今後の日本の社会についても考えていかなくてはいけない。今後の日本は少子高齢化が進行し、このような事案も増えるだろうと考えることができる。病院には決められた数のベッドが置かれている。高齢化が進行しているということは、延命治療を行う高齢者の数もおのず増えると想定できる。
なかでも日本人の死因で一番多いのが癌と言われている。癌患者は、癌自体の症状のほかに、痛み、倦怠感などのさまざまな身体的な症状や、落ち込み、悲しみなどの精神的苦痛を経験する。その苦痛を和らげることを目的に行われたり、完全な治癒を望めない患者に対して、生命の維持よりも、苦痛を取り除くことに重点をおいた介護・看護を緩和ケアという。WHO(世界保健機構)は、「生命を脅かす疾患による問題に直面している患者とその家族に対して、疾患の早期より痛み、身体的問題、心理社会的問題、スピリチュアルな(霊的な、魂の)問題に関してきちんとした評価を行い、それが障害とならないように予防したり対処したりすることで、クオリティ・オブ・ライフ(QOL)を改善するためのアプローチ」(特定非営利活動法人日本ホスピス緩和ケア協会訳)と定義している。対象とされる身体的苦痛、精神的苦痛、社会的苦痛、スピリチュアルな苦痛を合わせたものを全人的苦痛といい、これらに対処するために複数の専門職がチームをつくって患者と家族の療養生活をサポートしていく。緩和ケアチームを構成する専門職として例えば、疼痛(とうつう)管理を行う緩和ケア医や、精神症状に対応する腫瘍(しゅよう)精神科医などの医師、緩和ケアを専門に学んだ認定看護師、医療ソーシャルワーカー、管理栄養士、薬剤師、理学療法士、作業療法士、臨床心理士、宗教者などがある。
(国立がん研究センター引用) 2007年に策定された「がん対策推進基本計画」の中に、治療の初期段階から緩和ケアを導入することや、在宅療養者にも十分な緩和ケアが実施できる体制を整備することなどが盛り込まれた。日本の介護保険料、社会保障費用は年々増加しており、今年度の10兆円の介護費用は団塊の世代が75歳以上になる2025年度には約21兆円に倍増すると予想されている。財源となる保険料も、現在の一人あたり月平均5000円が、25年度には8200円程度に増えるといわれている。現在の医療技術はここ数年でかなりの発展を遂げた。従来なら、死んでしまう人でも助かるようにもなった。延命させることが可能になった。しかし、無駄な命を延命させ、医療費の無駄遣いをしているということもできる。人の命は尊重せねばならないが、未来の我が国のことを考えるならば、安楽死を認める法律は今後どこかで必要になる。安楽死や尊厳死が法律によって認められれば、増加し続けている医療費の軽減にもつながるというメリットにもなる。この先も安楽死、尊厳死について冒頭で述べたように、人権や宗教などとのつながりもあり、難しい面もあるがなるべく早く法制化をするべきだと思う。思うに、法律は時代と共に変えていく必要がある。
<参考文献・引用>
前田誓也法律事務所http://ma-se-law.jp/publics/index/62/
札幌弁護士会森越壮史郎http://morikoshisoshiro.seesaa.net/article/389014240.html
中江ゼミ試験研究室http://nsks.web.fc2.com/contents.html
独立行政法人国立がん研究センタ—
http://ganjoho.jp/public/support/relaxation/palliative_care.html
尊厳死と脳死http://www.osoushiki-plaza.com/library/houki/songensi.html
安楽死http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/anrakusi.html
ナチス「安楽死」計画への道程
読売新聞 記事より
益元佑輔
安楽死と社会保障
自分は日本でも日本独自の安楽死法を採用していくべきだと思う。
@
今の日本の安楽死の考え方について
日本では現在、積極的安楽死と消極的安楽死という考え方がある。日本の判例では消極的安楽死は合法だが積極的安楽死は要件を満たしていなければ違法とされている。この考え方がされるようになったのは「名古屋安楽死事件」「東海大学安楽死事件」の判例があるからである。
名古屋安楽死事件
この事件は被告人が事情を知らない被告人の母に患者である父親に毒薬入りの牛乳を飲まさせて安楽死させた事案である。名古屋高等裁判所昭和37年12月22日判決が安楽死の要件(違法性阻却事由)として、
1.不治の病に冒され死期が目前に迫っていること
2.苦痛が見るに忍びない程度に甚だしいこと
3.専ら死苦の緩和の目的でなされたこと
4.病者の意識がなお明瞭であって意思を表明できる場合には、本人の真摯な嘱託又は承諾のあること
5.原則として医師の手によるべきだが医師により得ないと首肯するに足る特別の事情の認められること
6.方法が倫理的にも妥当なものであること
の6要件を示した。この基準は後の判決でも援用されることが多い。なお判決は5と6の要件を満たさない、違法性は阻却されないとして、被告人に嘱託殺人罪の成立を認めた。
事案は日ごろ安楽死について意思表明していなかった患者が、病床の苦痛によって「殺してくれ」「早く楽にしてくれ」と叫んでいたというものであり、平時死を望んでいた事情がないからといって真摯な意思表明でないとはいえないとしている。ゆえに、4の要件が意思表明を確認できない場合(危篤時など)にどう位置づけるべきか、以後の裁判例に委ねられた。
東海大学安楽死事件
判決では、医師による積極的安楽死として許容されるための4要件として、
1.患者に耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること
2.患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
3.患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くしほかに代替手段がないこと
4.生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること
を挙げた。 また、名古屋高裁に「もっぱら病者の死苦の緩和ケアを目的でなされること」、「その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうること」という要件は、終末期医療において威信により安楽死が行われる限りでは、もっぱら苦痛除去の目的で、外形的にも治療行為の形態で行われ、方法も目的に相応しい方法が選択されるのが当然であろうから、特に要件として必要はないとした。
この2つの判例により条件は明示されたものの、実際にこの条件を満たし、合法と認められた積極的安楽死の案件は1つとしてない。つまり机上の空論に過ぎないのだ。しかも日本では安楽死に関しては消極的も積極的も何一つとして法律に明文化されていない、多くの先進国では明文化されているにもかかわらず、その概念すら法的に存在しない。ただ単に「判例で」そういうものもあるよ、といわれているだけに過ぎないのだ。 例えば本当に積極的安楽死の要件を満たしたとしても、実際の裁判で裁判官が「判例ではそういわれたらしいけど、やっぱり違うよね」と言って殺人罪とすることも可能だということ。
第一に日本は安楽死について法律で明文化するところからの出発しなくてはならない。
A
オランダ安楽死法
ここでは安楽死について法律に明文化された国の1つのオランダ安楽死について見ていきたい。オランダの「安楽死法」が成立するまでには長い歴史がある。1973年、実の親を安楽死させた医師の事件をきっかけに安楽死の国民的な議論が始まる。そして、さまざまな事件を経て1993年遺体処理法、さらに2002年、いわゆる安楽死法(正式名称は「要請による生命の終結及び自死の援助審査法」)が成立、施行された。
安楽死が認められるには、
1. 患者からの任意かつ熟慮された要請
2. 圧倒的に医療的な苦しみがある
3. 他に合理的な解決策がない
4. 独立した医師によるセカンドオピニオン
などの要件を満たさなければならない。これらの要件が満たされれば、医師は薬の投与、注射により患者を安楽死させることが認められる。2012年度にオランダで認められた安楽死は4,188人、このうち医師による生命の終結3,965件、自死の援助185件。3,251人が末期がんなどの重病を抱えるが、「耐え難い苦しみ」という患者の訴えを医師が認めれば、安楽死が認められるケースもあるという。
オランダの安楽死法はいいモデルだと思う。これは終末期医療への理解度や高齢者への緩和ケアや、QOL(クオリティー・オブ・ライフ)への関心の現れだと思う。
患者が死を望んでも、医師がそれに手を貸せば自殺幇助や嘱託殺人に問われてしまう日本ではたどり着けない場所だと思う。よって日本でも国民に終末期医療やQOLへの理解度の高まりが必須になってくると思う。
B
延命治療について
日本の国民医療費の35兆円の内、患者の自己負担はたったの5兆円。公費が13兆円、事業者と被保険者による保険料が17兆円になっている。国民医療費の国民所得に対する比率は10%。30年前と比べてなんと倍になっている。一方で国民所得は10年前と比べて17兆円も減っている。失われた10年に経済が停滞していても、国民医療費はどんどん増え続けていく一方である。次に延命治療についてみていこう。延命治療にかかる医療費の平均額は、一人当たり1000万円強だという。しかし治療費の自己負担額は、国が定める高額医療費制度によって所得にもよるが月額8万円から20万円。それ以外は国の税金から支払われている。生活保護を受給している場合は全額免除。つまり、延命措置をすることで、一人あたり平均900万円以上の税金を圧迫している状況だ。延命治療を相当な金額になってくる。そんな中、延命治療が必要になった場合、自分や家族には病院側から「延命措置をするか」の選択を依頼されるのだが、延命措置の選択を迫られた場合、6割の人は「自然に任せる」と言い延命措置を拒否しているそうだそうだ。
延命治療の場合にもいろいろな種類がある。大きく二に分けると患者の意識があるときとない時だ。例えばある時とは末期ガンなどで患者の意識はあるがもうすぐ死んでしまうだろうという時。もう一は植物状態や脳死状態のような患者に意識がない状況だ。この場合は家族の判断や自分で事前に延命行為の是非に関して宣言するリビング・ウィル(Living
Will)により延命治療の拒否ができる。これにより自分が脳死の診断をされた時のために備えができる。しかしこの場合は延命治療の拒否(消極的安楽死)であって積極的安楽死とは別物である。今回自分は積極的安楽死も含めた安楽死法を採用していくべきと考えるため「末期がんの時、治療のための薬の副作用が厳しい、症状が悪く苦しいので薬品で痛みなく安らかに死にたい」というような案件でも安楽死できるような状況が造りだされるべきだと思う。
C
尊厳死・法制化の動き
日本でも安楽死・尊厳死についての議論は絶えない中、尊厳死を法制化しようという動きが出できている。超党派の国会議員でつくる「尊厳死法制化を考える議員連盟」は、患者が延命措置を望まない場合、医師が人工呼吸器を取り外すなど延命措置を中止しても法的責任を問わない「尊厳死法案」を、今の通常国会に議員立法で提出する方針があった。尊厳死と安楽死、言葉は似ているがどう違うのか。安楽死とは、肉体的・精神的苦痛から患者を解放するため、薬物投与などで人為的に死を早めることを言う。それに対し、尊厳死は、病などにより「不治かつ末期」になったときに、自分の意思で、死にゆく過程を引き延ばすだけに過ぎない延命措置を中止し、人間としての尊厳を保ちながら死を迎えることを指す。わかりやすく言えば、第三者の意思が介在するのが「安楽死」、本人の意思に基づくのが「尊厳死」となる。6割の患者本人や家族が延命治療の拒否を望もうと、患者本人や家族の意向を受けて延命治療を中止した医師は「殺人罪」に問われる可能性があるため、医療現場では患者らが尊厳死を望んでもやむなく延命措置を続ける傾向が強いとされている。こうした事態を解消するため、尊厳死を法制化する動きが出ているわけだ。
だが自分はこの法案には否定的である。それは法案名が不自然だからだ。これは安楽死法にすべきだと思う。自分が考える安楽死と尊厳死の意味とこの法案の考える安楽死と尊厳死の意味が違うからだ。自分は尊厳死とは「尊厳ある死」(Death
with Dignity −本来の意味での「尊厳死」) とは、人間としての尊厳を保って死に至ること、つまり、単に「生きた物」としてではなく、「人間として」遇されて、「人間として」死に到ること、ないしそのようにして達成された死を指す。「尊厳死は倫理的に許されるか」と問う必要はなく、定義からいって尊厳死は目指されるべきこととなり、すべての死は尊厳死であるべきなのである。そして延命治療を受けながら死んでいった人達の死に方は尊厳がない死に方なのか、となるとそうではないと思う。よってこれは安楽死法にすべきだと思う。
また一派的に尊厳死は、死生観に直接関わる問題だけに、法制化の動きには賛否両論ある。反対意見では「法案は死ぬ権利を認めるもの。医療提供を受けなければ生きられない社会的弱者に、死の自己決定を迫る危険性がある」「人の死に国家が介入すべきではない」「延命措置の中止は命の軽視につながる」といった批判も強く、法案の成立は見通せない状況にある。
D
今後日本が向かうべき先にについて
これまでの事をふまえると何事も「死」についてどこまで介入してよいのかという問題である。刑法の中の結果無価値論、行為無価値論と考え方はあるものの、やはり今の日本で安楽死を正当行為と判断するには無理があると思う。道徳というところに法律が介入していいのか線引きは難しい。まして刑法になるともっと難しくなってくる問題ではある。しかし世界の情勢を見ても安楽死を認める国は多くある。日本も線引きを見直してはどうかと思う。前に挙げたように経済的な面も含まれてくる。延命治療での金額はばかにならない額である。国に掛かる費用も自己に掛かる負担金も大きい。「お金のために人の命を見捨てるのか」などという意見も出てくるだろう。だが自分の苦しみだけではなく、家族の今後のためを思って安楽死を選びたいという人もいると思う。そのような人のために選択肢を広げてあげるものよいことではないのだろうか。
参考文献
塚本泰司「安楽死と尊厳死」宇津木伸・塚本泰司編『現代医療のスペクトル フォーラム医事法学I』329頁(尚学社、2001年)
福田雅章「安楽死(東海大学安楽死事件)」唄孝一・宇津木伸・平林勝政編『医療過誤判例百選 第2版』130頁(有斐閣、1996年)
判例時報1530号28頁判例特報
廣瀬真理子「オランダにおける終末期ケアの現状と課題」
産経ニュース 安楽死日本で進まない理由
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140305/bdy14030503220000-n1.htm
The PAGE 尊厳死法